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なぜ『落第騎士の英雄譚』と『学園都市アスタリスク』の初回内容は似通ってしまったのか。

 ぼくはエンターテインメント小説が好きで、いろいろ読んでいるわけですが、エンターテインメントというものはある種、矛盾した条件を抱えているよな、と思うことがあります。  つまり、普遍性と独創性の双方を兼ね備えていなければならないのですね。  理想的なエンターテインメントとは「だれも見たことがないほど独創的で、しかもだれもが楽しめるほど親しみやすい作品」ということになるでしょう。  ここにはあからさまなパラドックスがあります。  「だれも見たことがないほど独創的な表現」を求めるととっつきづらいものができるし、「だもが楽しめるほど親しみやすい展開」を求めるとどこかで見たようなものが仕上がるわけです。  このふたつの条件を同時に満たすことは、不可能ではないにしても、恐ろしく困難でしょう。どちらか片方だけならできないことはないだろうけれど。  エンターテインメントの究極の目標は「だれが読んでも面白いと感じる」作品であるわけで、その点を追い求めていくとどうしてもどこか似通ったものになるのだと思います。  その意味でエンターテインメント作品のオリジナリティにはある種の限界があるといえるかもしれません。  一般的なライトノベルを先鋭的な実験文学を比べたらどうしたって実験文学のほうが独創的になることでしょう。それはそうだと思います。  それにもかかわらずぼくがエンターテインメントを好むのは、「型」に対する「ズレ」に面白みを感じるから。  ある種の固定されたスタイルを前提とした逸脱的表現は、完全に自由な状態での表現よりも面白く感じるということです。  ただ、その「ズレ」はジャンルが洗練されていくにつれて修正され、消滅していく傾向があるように思います。  ジャンルのターゲットがはっきりすると、カテゴリエラーな作品は追放されてしまうわけです。  そうなってくると、ぼくとしてはもうひとつ面白くなくなる。  ぼくはやっぱりカテゴリの常識からちょっとズレたものを読みたいのです。酔狂ではありますが。  ――というようなことを、この記事を読んで考えました。 http://seagull.hateblo.jp/entry/%E5%AD%A6%E6%88%A6%E9%83%BD%E5%B8%82%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%82%AF-vs-%E8%90%BD%E7%AC%AC%E9%A8%8E%E5%A3%AB%E3%81%AE%E8%8B%B1%E9%9B%84%E8%AD%9A  『落第騎士の英雄譚』と『学園都市アスタリスク』というふたつのアニメの初回の内容がきわめて似通っていたという話ですが、これは偶然ではないと思います。  そうかといって「「アニメ化されるラノベの書き方」みたいなマニュアルの存在を信じたくなる」というのもちょっと違う気がする。  エンターテインメントが 

なぜ『落第騎士の英雄譚』と『学園都市アスタリスク』の初回内容は似通ってしまったのか。

語りきれないものを語りたい。

 たとえば、どういう作品が好きですか、と訊かれたとき、「こういう作品です」とシンプルに答えることはむずかしい。  もちろん、ぼくにもたくさん好きな作品はあって、そこには共通項もあるようなのだけれど、「こうだ」といい切った瞬間にすでに何かがずれ始めている気がする。  それでもあえて言葉にするなら、ぼくはたぶん矛盾する概念の相克が見たいのだと思う。  少々格好をつけたいい方になってしまった。もう少し噛み砕いた言葉にするなら、互いに相いれない観念がぶつかりあって火花を散らすところが見たいのだ。  つまり、「こういう主題の作品だ」とはっきり言葉にして表せない作品こそが好きなのである。  たとえば、娯楽作品であるはずなのにひたすら陰惨で淫靡であったりとか、そういう、内部に矛盾を抱えた作家性が好きだ。  いい換えるなら、無矛盾に整合させられた作品には、ぼくは関心がない。  わかってもらえるだろうか? エンターテインメントは好きだけれど、ただのエンターテインメントは好きではないということ。  常にエンターテインメントの定石から逸脱する何かを秘めながら、それでも、なお、エンターテインメントの枠組みのなかになんとか収まった作品が好きなのだ。  この場合、「エンターテインメントであること」を放棄して、「わかる人にだけわかればいい」と決めてしまったなら、矛盾がなくなってつまらない。  その反対に「エンターテインメントであること」に特化して、「ウケさえすればそれでいい」と考えるとしても、矛盾がなくなってしまうので面白くなくなる。  ぼくはあくまで相互に矛盾し対立しあう概念が衝突し相克しつづけるその現場にこだわりたい。  ぼくはハッピーエンドの物語が好きだけれど、それもシンプルな予定調和になってしまうとやっぱり退屈に感じると思う。  大切なのは「いま、そこ」で、過去のどの作品とも違う未知の物語が生まれているという感触なのだ。  「こういうものだ」とか「これが正しいのだ」と訳知り顔で悟ってしまったその瞬間に、新しいものは生まれて来なくなる。  ぼくはやはり何が正しいのかわからない五里霧中のなかから生まれてくる新作にこそわくわくする。  「いったいこれは何なのだろう?」という謎と神秘を秘めた作品にこそときめく。  わかってもらえるだろうか? 語りきれないものこそ語る価値があるということなのだ。  だから、 

語りきれないものを語りたい。
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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