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アニメ『Charlotte』は情報圧縮の果てにどんな快楽を紡ぐのか。

 アニメ『Charlotte(シャーロット)』を見る見る。  ――えーと、なんだこれ(笑)。第1回から飛ばしてくるなあ。  今回、情報をまったく仕入れないで見ているので、『Angel Beats!』に続く麻枝准さんシナリオのアニメということくらいしか知らないのですが、いやー、これはクオリティが高い。  ほんとうに冒頭から飛ばす飛ばす。  ひと昔前だったら「なんだこれ?」という評価を受けたのではないかと思うのですが、いまならこの程度は十分に「あり」なのでしょうね。  なかなかすごい展開が赦される時代になったものだ。  物語が始まるとあっというまに主人公が(なぜか)ある種の異能に目覚め、その能力を活用してのし上がっていくあたりでは『DEATH NOTE』とか『コードギアス』っぽい異能ピカレスク・ロマンっぽく進むのかと思いきや、物語はあっというまに斜め上の方向へ。  まあ、第1話が終わってみれば順当な展開といえなくもないのだけれど、極端にスピーディなやり取りに圧倒されます。  いまさらいうまでもない話ですが、この圧縮された展開は膨大な学園異能ものの積み重ねの上に成り立っています。  ある展開が複数の作品で使用され、読み手にとって「常識」になるとそれは「お約束」として飛ばすことができるというわけですね。  ちょっと「小説家になろう」における「転生トラック」(トラックに轢かれると異世界に生まれ変わるというお約束展開)を思わせるものがあります。  とにかく、この定石展開を「お約束」としてショートカットしてきたからには、そうではない物語を描く意志があると見ていいでしょう。  この先も情報圧縮がくり返されるのかどうかわかりませんが、新しい時代の新しい作品へ向かおうとする姿勢そのものは高く評価したいところです。  なんといっても麻枝准シナリオなので、このスタート地点からどのようなゴールへ行き着くものか予想を許さないものがあります。  麻枝さんといえば、『Kanon』、『AIR』、『CLANNAD』などのゲームで知られるある種、天才肌のクリエイター。読者の予想を吹っ飛ばす超展開で知られる人でもあります。  今回もおそらくひと筋縄ではいかないシナリオが待っていることでしょう。楽しみ、楽しみ。  良くも悪くも通常のエンターテインメントの枠組みから逸脱した作品を描く人なので、今後、どういうものを見せてくれるのか期待は高まるばかりです。  それにしても、 

アニメ『Charlotte』は情報圧縮の果てにどんな快楽を紡ぐのか。

15年目にしてまだ考える。『AIR』の感動って何だったんだろう?

 うにー。海燕です。どうも最近、このブログの内容は記事ごとに細切れにして話すにはむずかしい内容を扱っているような気がします。  難解というわけではなく、「わかる人にはわかる」話をしているのですが、はたしてこれはどの程度正確に伝わっているのか? 不安がなくもありません。  と書くのも、きょうはいままで書いてきたことを踏まえて、さらにわかりづらい話を展開しようと考えているからです。どうか、付いてきてくれると嬉しいな、と思います。  さて、この世には「ミクロ」と「マクロ」の問題が存在し、それぞれに対応する物語があるというところまで話をしました。  そして、マクロとミクロの物語では異なるテーマが存在するが、それらがリンクしあう物語もまたあり、その象徴となるのが「マクロの問題を一身にひき受けるヒーロー」であるということも話したと思います。  ちなみに、この「無限の責任(responsibility)を背負う、つまり無限の呼びかけに対して応答(response)するヒーロー」が、善悪二元論がまかり通るこの世界において、一身を「悪」に見立て、残るすべての世界を救済するという物語形式を、ぼくは「生贄の王の類型」と呼びたいと考えています。  典型的なのは『コードギアス』のルルーシュですが、この時、ヒーローはフレイザーのいう「森の王」(だっけ?)よろしく、全社会の全責任を背負って物語から退場するのです。  じっさいに退場するところまでは行っていませんが、アメリカのヒーロー映画の頂点である『ダークナイト』もこの類型ですね。バットマンはまさに「生贄の王」そのものです。  しかし、きょうはその話には深入りしません。実はきょう、ぼくはマクロをも超えた「ウルトラマクロ」というものがありえるのではないか、という話をしたいと思うのですよ。はっきりいって自分のなかでもまるで煮詰まっていない話なのですが……。  それでは、ウルトラマクロとは何か? それは神であり、楽園です。運命であり、悟りです。あるいはイデアとか超越という言葉を使うこともできるでしょう。  つまり、ミクロとかマクロといった区分が通用する現実世界を超えた超越的次元のことを、ここではウルトラマクロという言葉で指し示しているわけです。  ――怪しい話だと思いますか? ぼくもそう思います。しかし、一面でひとは現実的な要素だけで生きていくことはむずかしいということもたしかです。  「ひとはパンのみにて生きるに非ず」。そして、パンに加えてサーカスだけあればいいというものでもありません。何か日常世界を超えて気高いもの、美しいものにふれたいという想いが、人間にはやはりあるのだと思います。  もちろん、そんなものはいらないという考え方もあるし、そういう考え方だけでも十分に生きていくことができることはたしかですが、今回はそういうウルトラマクロを必要とする人々がいるということを前提として話をしたいと思います。  さて、 

15年目にしてまだ考える。『AIR』の感動って何だったんだろう?
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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