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「才能」は「可能性」でしかなく、「結果」に繋がらない限り何も意味しない。

 10日ですねー。毎月10日は、ぼくにとっては『月刊ニュータイプ』の発売日。『ファイブスター物語』が読める日です!  いま、『ファイブスター物語』は単行本第14巻に収録されるであろうベラ国攻防戦を描いています。  分裂したハスハのいち小国ベラを守るエープ騎士団のもとにあらわれた天才スライダーのレディオス・ソープ(&妻のファナちゃん)。  そこにさらに幾人もの騎士たちが集まってきて、ついに歴史に残るベラ国防衛戦が始まる――のか?というところ。  このあと、ヨーン・バインツェルとパルスェットの物語が始まるはずなのですが、その前に大規模集団GTM戦が見られそう。  数十年後のマジェスティック・スタンド終戦に至るまで、どんなドラマが見られるのか楽しみです。  それにしても、永野さんももう50代半ばになるはずなのですが、衰えませんねー。  普通、このくらいの歳になると構成力が衰えてくるのですが、いまのところ『ファイブスター物語』はきわめてタイトに構成されているように見えます。  あくまで緊密なショート・エピソードに拘り、「大長編を短編の集合として構成する」という意識で描いているところが素晴らしい。  さすがわかっているなあ、と思ってしまう。  『グイン・サーガ』がそうでしたが、大長編を無計画に書いていくとどこかで「ゆるみ」が出てきて冗長さが増してしまうのですよね。  というのも、ぼくがよくいうように長編は後半へ行けば行くほど処理しなければならない情報が増えていくからです。だから放っておけば必ず大長編は冗長になる。  ぼくはこれを「長編病」と呼んでいますが、それを避けるためにはあらかじめ緊密に構成しておくことと、必要ではない情報を非情にカットすることが必要になる。  『ファイブスター物語』はとりあえずいまの時点ではその短編意識の徹底によって「長編病」を回避できているように思います。  これは凄いことです。  作り手にしてみれば、タイトな構成など考えず、筆の乗るままに描いていくほうがよほど楽だし、気持ちいいはずなのです。  その誘惑に乗らずにあくまで自分にとって辛い、きびしい道を歩きつづけるということは、大変なことです。  だれにでもできることではない。  もちろん、いっとき、天才的ともいえる輝きを示す作家は大勢います。しかし、その大半が「時の審判」に耐えられず消えていく。  それなのに、永野護は30年間を超えていまなおトップクリエイターのままです。これはほんとうに凄いことなのですよ。  なぜそんなことができるのか? 生まれつきひとより優れた才能に恵まれていたからなのか? ぼくはそうは思いません。  長いあいだトップに立ちつづけるために必要なもの、それは「才能」ではありません。「姿勢」です。  永野護はたしかに天才的な才能の持ち主なのだろうけれど、ただ才能があるだけの人ならほかにもいる(まあ、めったにはいないだろうけれど……)。  ほんとうに驚くべきなのはその「才能」を常に錆びつかないよう砥ぎつづける「姿勢」のほうなのだと思います。  「長期的に結果を出しつづける」クリエイターに共通しているのはこの「姿勢」のきびしさです。  どこまでも自分を甘やかさないこと。鍛錬しつづけること。そして向上しつづけること。それが長い期間にわたって実力を発揮するための条件。  「同じ実力を保つ」ことは時の流れのなかで衰えることと同じでしかありません。  「さらにさらに成長を続ける」者だけが「超一流(プリマ・クラッセ)」でありつづけることができるのです。  「天才でありつづける」ことは「天才である」ことよりもっとむずかしいということです。  ぼくは、ほんとうは「才能」など何も意味してはいないのかもしれないとも思います。  ひとより優れた「才能」を持っていても、何かしらの「資質」に欠けていたためになんの「結果」も残さずに終わる人は大勢います。  そして、 

「才能」は「可能性」でしかなく、「結果」に繋がらない限り何も意味しない。

あなたの感性を年老いさせないためにできるいくつかのこと。

背景にあると思われるのは、アカデミー会員にとっての「優れた映画」の定義だ。L.A.TIMES紙の調査によると、アカデミー会員の94%が白人、76%が男性、平均年齢は63歳。一度入会すると永久会員で、新会員は、基本的に、亡くなった会員を補填する形で入れる。昨年のように、意図的に300人を入れることがあったとしても、6,000人強という全体数から見ると、たいした影響は与えない。そして彼らは、トップが外から受けるイメージを心配していようがいまいが、自分の基準にとって優れている映画に投票する。いくら「ストレイト・アウタ~」が批評家から高い評価を受け、興行的に大ヒットしても、ヒップホップの話は、彼らにとって正直なところ、ピンとこないのである。 (中略) オスカー候補者が全員白人だったのは、アカデミーの人種差別を意味するものではなく、昔のまま凍りついた、ハリウッド映画業界の価値観を表すものなのだ。アカデミーだけでなく、映画界の現状が変わらない限り、「白すぎるオスカー」は、再び繰り返されるだろう。 http://bylines.news.yahoo.co.jp/saruwatariyuki/20160116-00053472  アカデミー賞候補者が全員白人になってしまう理由を解説した記事ですが、何となく胸に刺さります。  アカデミー会員が賞の候補者に白人ばかりを選んでしまうのは、かれらが人種差別主義者だからではなく、ただ新しい価値観が「ピンとこない」からだという話。  きっとそうなのだろうなあ、と思いますね。  で、なぜこの話が突き刺さるかというと、自分自身に跳ね返って来る話だからでしょう。  ぼく自身の価値観だって、いつのまにか年老い、変化を厭い、「昔のまま凍りつい」てしまうことはありえる。いや、すでにそうなっているかもしれない。  そういう意味でなかなか切実な記事です。  価値観が年老いるのを防ぐためにはどうすればいいのか。  それはひとえに新しい作家や作品を発掘し、玩味するということに尽きます。  特に新しい作品を味わうとき、可能な限り偏見なく向き合うことが必要です。  「どうせこんなものつまらないだろう」と思って向き合うのではなく、常に新鮮な気持ちで対峙することが重要なのです。  一定のバイアスを持って作品を味わうことは、何も見ないことと同じです。  時は過ぎ、恐ろしい速度で作品と作品を巡る状況は変わって行く。だから、いつも新しい作品を発見しつづけることが必要なのです。  そういう視点から最近の自分を振り返ってみると、つくづくダメだなあと思いますね。  どうにもよくなじんだ古い作家や作品ばかり追いかけていて、新しい路線の発掘が十分ではないと感じます。  もちろん、個人的にはよくなじんだ作家/作品のほうが楽しみやすいのですが、そういうものばかり追いかけているとあっというまに価値観は老いてしまう。  たとえ、いまの自分の価値観とずれているとしても、新しいものを追わなければなりません。  もちろん、それらすべてを高く評価することは無理でしょう。どうしたって「ピンとこない」作品は出て来るに違いありません。  しかし、そういう経験も含めて、新しいものと出逢いつづけていかないと、自分自身をアップデートすることはできない。  そして、自分自身を更新しないことには、常に更新されつづけている時代に置き去りにされるのです。  まあ、いうは易しで、とてもむずかしいことだと思います。  ひとは自分が若い頃にふれた作品を神聖視しがちです。  十代の頃に出逢った作家や作品から最も多くの影響を受け、それ以降の時代の作品に低い評価を与えがちになるのはしかたないことかもしれません。  ですが、 

あなたの感性を年老いさせないためにできるいくつかのこと。
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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