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『ガンダム』の語りやすさ、『マクロス』の語りづらさ。

 『マクロスΔ』を見ています。面白いなー。面白いなー。  破天荒というか荒唐無稽というか、いったい何を考えていたらこんな話を思いつくのかと疑問に思えてくる展開が素晴らしい。  「戦闘機(メカ)+アイドル(美少女)」という組み合わせそのものはそこまで不自然ではないはずなんだけれど、シリーズを通して積み重なってきた設定が前提として使われた結果、ほとんどよくわからないしろものに仕上がっている。  でも、音楽もアクションもキャラクターもいままで以上に魅力的だし、これは継続視聴する価値あるかも。  アクションといえば、『マクロスプラス』とか、初めて見たときにはそれはそれは感動したものですけれど、あのアクションがもうあたりまえになっている凄さ。時が経つって凄いものだなあ、と思いますね。  ただ、『マクロス』というシリーズはたとえば『ガンダム』と比べると語られづらい傾向があるように思います。  まあ、その理由ははっきりしていて、『マクロス』って語りづらいんですよね。  『ガンダム』はわりと簡単にシリアスに語ることができるけれど、『マクロス』ってわりとめちゃくちゃじゃないですか(笑)。  「戦争とは?」、「人間とは?」みたいにシンプルでシリアスなテーマで語ることがむずかしい。  「戦術音楽ユニット・ワルキューレ」とか、「ワクチンライブ」とか、いや、意味がわからないんですけど?って感じです。  でも、『マクロス』は『マクロス』で面白いし、ひとつの歴史を作っているんですよね。  批評家はどうしても語りやすい作品を語りやすいテーマで語ってしまう傾向が強いわけなのですけれど、それだと取り逃してしまうものがある。  やっぱり語りづらい作品こそ語っていかなければならないと思うのですよ。  この場合の「語りやすい作品」とは、いかにもシリアスっぽいテーマを持った作品のことといっていいかもしれません。  『ガンダム』はその意味でいかにも語りやすい。いかにも真摯で重厚なテーマがあるように思える作品だから。  あえていうなら、現実の戦争とか差別問題とかをそのまま持ってきて語れるところがあるのですよね。  いい換えるなら、ただそれについて語るだけで「何かしら語った気分になれる」作品だということでもある。  ただ、それが『ガンダム』シリーズがそれだけ高度な作品であることを意味しているかというと、ぼくはそうでもないと思う。  『ガンダム』シリーズって、たしかにシリアスな物語なんですけれど、無意味にシリアスというか、どう考えても答えなんて出るはずもない問題でむやみと悩んでいるようなところもあると思うんですよ。  何かというと「戦争をやめられない愚かな人間たちよ……」みたいなマクロすぎるテーマにアクセスしてしまう傾向がある。  それは『ガンダム』の長所であり、「語りやすさ」の原因であると同時に、欠点でもあるのではないか。  まあ、ここらへんは最新作『鉄血のオルフェンズ』に至って変わってきているのかもしれませんが……。  それに対して、『マクロス』シリーズはどうにも「語りにくい」。  シリアスな装いをしていても、内容がカオスきわまりないから、どうにも真剣に語りづらい。  でも、単純にだから『マクロス』はダメなのかというと、そんなことはないはず。  むしろ批評家たちのほうこそ、どうにかして『マクロス』のような作品を語っていくロジックを見つけ出さないといけないんじゃないか。  そうしていかないと、 

『ガンダム』の語りやすさ、『マクロス』の語りづらさ。

今期の正座して見るアニメはどれで、流し見するアニメはどれだ?

 春アニメを色々追いかけています。  Amazonプライム・ビデオも見れるし、dアニメストアも見れるいまのぼくに死角はない。ふっふっふ。  とりあえず今期のアニメで面白そうだと思ったのは『マクロスΔ』かなあ。  『逆転裁判』がイマイチで残念です。『ばくおん‼』はまあまあ。  『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない』は、あたりまえですが面白いですね。  『Re:ゼロから始まる異世界生活』も面白いという話なのだけれど、ネットで配信されるまで見る手段がない。  『マクロスΔ』は「いつもの『マクロス』」といってしまえばそれまでなのですが、あいかわらずのクレイジーな世界が素敵です。  「よし。歌が効いてきた」とか、イミフな台詞があたりまえのように飛び出すあたり思わず笑ってしまう。  いや、『マクロス』だから意味不明でもなんでもないんだけれど、これ、このシリーズを初めて見る人がいたら「なんじゃこりゃ」と思うんじゃないでしょうか。  壮絶な空戦アクションと可憐なアイドルステージが一体化したアニメーションは色々な意味で凄まじく、わけのわからない迫力に満ちています。  テレビアニメでここまでのアクションを放送できる時代なんだよなあ。凄い。ヒロインの女の子もなかなか可愛い。  『くまみこ』もほのぼの系で良いですね。  『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』はライトノベルらしい都合のいい話で、気恥ずかしくもなかなか楽しい。  ただ、いちいちヒロインのおっぱい(巨乳)をフォーカスするカットがアレ。  40近くなってこういう思春期願望充足アニメを見ているぼくはどうなんだという気がしなくもない。  こうやって並べてみるとけっこう面白そうな作品が並んでいるなあ。  オタク的な願望充足系が多いみたいだけれど、『Re:ゼロ』みたいなきつくて地味な話もきっちりアニメ化されているあたり、ちゃんと多様性のある時代なんだなあと感心します。  『Re:ゼロ』はほんとにきびしい話なのですが、シナリオのポテンシャルはぴかいちです。  「なろう系」とは思えないほど構成が秀抜。アニメもていねいに作っているという噂なので、とりあえず期待したいところです。  あと、すでに完結した作品ですが、『灰と幻想のグリムガル』のアニメをいま後追いで見ています。  まだ序盤なのだけれど、これ、素晴らしいですね。  非常に地味な作品であるかとは思いますが、とにかく演出が光っている。最後まで追いかけていきたいと思います。  いや、これだけの質と量のアニメがいつでもただで見れるというのは凄いことですね(dアニメストアは有料だけれど、それにしても月額400円くらい)。  そりゃ、エンターテインメントが日常化するわけだよ、と思ってしまう。  エンターテインメントの日常化という現象の背景となっているのは、「絶対に消化し切れないほどの量のエンターテインメントがあたりまえのように存在する」という現実です。  ライトノベルにしろ、テレビアニメにしろ、ウェブ小説にしろ、いまとなってはどうあがいても消費し切れないくらいのボリュームの作品群が日常的に提供されつづけていることはご存知の通り。  あるいは、よほど暇な人ならライトノベルだけ、テレビアニメだけならある程度は追いかけることができるかもしれないけれど、それらすべてを消化することはもうどうしたって不可能なわけです。  そういう意味では、あるジャンルに関してなんでも知っている博覧強記の人物という意味での「オタク」は、もう成立しない時代になっていますね。  岡田斗司夫さんがいうところの「オタク・イズ・デッド」はそういう意味でも必然なのだと思います。  とにかくこうなると必然的に一作一作を真剣に見ていくことはむずかしくなるし、あるいは真剣に見るにしても「膨大な量のなかから見るべきものを選ぶ」という作業が必須となる。  そうなって来ると、もうエンターテインメント体験は特別なものではなくなりますよね。  この「量」の問題が現代のエンターテインメントを語るにはどうしても付きまとうと思うのです。  もちろん、それぞれの作品の「質」も高くなっていて、まったくかつてない贅沢な時代が到来していると感じます。  「飽食」ならぬ「飽楽」の時代、といえばいいでしょうか。  ひとつひとつの娯楽が神聖な輝きを失ってしまうほどありふれている時代。  かつて、何百年も前には、娯楽というものはほんとうに貴重なものだったでしょう。  たとえば、年に一度の村祭りで芝居を見るために、一年間きつい仕事に耐えるというようなことだって、ほんとうに行われていたわけです。  そういう時代においては、その芝居はほんとうに面白く、神秘的なまでの輝きを放つものでありえたはずだろうと思う。  その時代において、エンターテインメントはまさに非日常そのものであったといっていいかと思います。  いや、ほんの数十年前にしても、エンターテインメントはもう少し特別な体験だったといっていいでしょう。  少なくとも日常そのものではありえなかった。  しかし、 

今期の正座して見るアニメはどれで、流し見するアニメはどれだ?
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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