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女性たちに学ぼう。「日常系マンガ」のように日常を生きる。

 前回の話の続き。前回は、女性たちの真似をしてクオリティ・オブ・ライフを上げようと試みているというところまで話しました。これはほんとうのことなのですが、意外にこういう人はまだ少ないのかもしれません。  まあ、たしかに南青山のオサレなレストランはカップルばかりでしたし、『ドラえもん』の映画をひとりで見に行ったら子連ればかりでした。  世の中にはどうやら「男ひとりで入るところ」、「女ひとりで入るところ」、「男同士で入るところ」、「女同士で入るところ」、「男女で入るところ」、「子連れで入るところ」といった場所柄の「常識」があるようです。  いまはもうそうでもないかもしれませんが、昔はラーメン屋なんかは女性ひとりでは入りづらかったようですね。  フェミニズム的にいうとジェンダーの問題ということになるのだろうけれど、ぼくはほぼ無視しまくっているのでまったく気になりません。  ひょっとしたら周りからは「あの人たち、男同士でこんな場所に来ているわ。場違いだと気付かないのかしら。ひそひそ」とか噂されているかもしれませんが、まあ、べつにいいんじゃね? そういうジェンダーにもとづく常識なんて、どんどん壊していくのがいいと思いますね。  女性だってひとりでラーメンや牛丼を食べたいこともあるだろうし、反対に男性だってスイーツを食べたいこともある。それが変な目で見られるということは、それこそがおかしなことなんじゃないかと。  じっさい、「男はこういうものだ」とか「女はこういうものだ」みたいな社会的な定義はほとんどあてにならないと思います。それらは大抵、「だからいまのままでいい」と開き直るために編み出されたものであるに過ぎません。  脳科学的に見れば男性の脳も女性の脳もほとんど差がないらしいんですよね。だから、男性はこう、女性はこうというような特性は、結局、社会的に形成されたものに過ぎないと思うのです。  ちなみに、そういう特性は生まれつき性別によって決まっているのだ、という考え方をジェンダー理論の用語で「本質主義」と呼び、その界隈では必殺技のように使われているのをよく見かけます。  「それは本質主義だ!」とびしっと指さして指摘するとかっこいいとか良くないとか。  で、よく「男は論理を求め、女は共感を求める。故に男は結論のない雑談が苦手だ」みたいなことがいわれるわけですが、これもつまりは教育の問題だと思いますね。女性はそういうふうに育てられているからそういう特徴が見られるようになっているというだけのこと。  その証拠に、ぼくのまわりのおじさんたちは結論のない雑談を何より好んでいます。そう、ぼくの友人たちはおしゃべりな人がほとんどで、逢うととにかく話すのです。  最近はわりと高級店の個室を借り切ったりもするようになりましたが、料理やお酒に舌鼓を打つ一方で、やっぱり話は止まりません。というか、そもそも周りに邪魔されることなく話をしたいから高級店を選ぶのですね。  さらにそこからたとえばカラオケへ場所が移ったとしても歌ったりはしません。ただひたすらしゃべるだけ。まさに女子高生もかくやというほど雑談に熱心です。  先に書いたように、よく女性の話は「落ち」がなく、それ故に延々と続くが、男性は話に論理的決着を付けようとする、それは実は脳の構造の違いが原因なのだ、いや原始時代の生活習慣の影響なのだなどといわれていますが、あれは嘘だと思いますね。  それがほんとうなのだとすれば、ぼくのまわりのおじさんたちはほぼ中身は女の子です(笑)。皆よくしゃべるんだよなあ。ぼくもあまり人のことはいえないけれども。  ペトロニウスさんとかLDさんとか、ラジオでもたしかによくしゃべるのだけれど、リアルで逢うとさらにもっとしゃべりますからね。あれはどういうことなんだろうな。  ひょっとしたらラジオで話しているときは手足に鉄製のパワーアンクルを付けていて、それを外すと戦闘力が上がるのかもしれない。  そういうわけで、ぼくは「男性はこう、女性はこう」という決めつけのことはまったく信じていないのですが、そうはいっても現実に統計的な「男性らしさ」、「女性らしさ」の偏りは存在することは事実。  それがたとえ社会において後天的に身に着ける特質だとしても、ほんとうにあることは間違いありません。まあ、やっぱり女性は牛丼屋にひとりでは入りづらいとか、そういうことはどうしてもあると思うんですよね。良し悪しはともかく。  しかし、そういうジェンダーの桎梏も、だんだん緩んできているように思います。何といってもいまは、あるいは建前だけかもしれないにせよ男女同権の世の中、「男は外で働いて、女は家を守るべき」というようなこという人は、皆無ではないにせよ、格段に減っているでしょう。  つまり、男性も女性も、しだいに変化しているということです。女性が社会に進出するようになり、ある意味ではかつての男性にポジションにあることは周知の事実だと思いますが、男性もおそらくは女性に近づいているとぼくは思う。  というか、そうあるべきなのではないか、と考えます。というのも、前回の記事でちょっと触れたように、何気ない日常を楽しむことにかけては一般に女性のほうがはるかに優れた蓄積を持っていると思うのですね。  たとえば女性たちはカフェでコーヒーとケーキだけで楽しく時間を過ごすことができるけれど、男性は同じ真似ができなかったりする。平均的にいって女性たちのほうが余暇を豊かに過ごすことが上手なのだと感じます。  いや、ぼくのまわりの人たちはそうでもないかもしれないけれど、それはやっぱり「例外」的だと思う。その証拠に、仕事を失い、また伴侶に先立たれた男性はすぐに亡くなってしまうのに対し、女性はひとりになっても長生きしたりします。  これは統計的なデータとしてちゃんと結論が出ているようです。いま、経済成長がかなりのところまで行き詰まってしまった日本社会において、「男らしく」競争して勝ち組になれる確率はかなり低くなっています。  つまり、ただ「成長」を目指すだけではなかなか幸せになれない時代なのです。だったら「成長」ならぬ「成熟」を志し、一日一日をより楽しく生きることに専念するのも悪くないことなのではないでしょうか。  そして、そういう人生を志向する時、手本となってくれるのが女性たちの生き方だと思うのです。「競争」ではなく「協調」を、「成長」ではなく「成熟」を求め、あたりまえの日常を少しでも楽しく生きようとするとき、女性たちは男性の「先生」になってくれるでしょう。  まあ、そういう態度を良しとしない頭の固い男性もいるかもしれませんが、現に「日常系」といわれる漫画の主人公はほとんどが女の子ですよね。  ああいう物語を見て心癒やされている男性たちは、内心ではやっぱり女性たちの、いまのところ女性にしか許されていないかに見えるライフスタイルをうらやんでいるのではないでしょうか。  少なくともぼくはうらやましい。ぼくも『ゆゆ式』みたいな日常を……いや、さすがにそれは送りたくないかもしれないけれど、『けいおん!』みたいな生活は送りたいぞ。  じっさい、ちょっと気をつけて時間を過ごすことを覚えたなら、「あたりまえの日常」は素晴らしい輝きを放ち始めます。それはほんとうは「あたりまえの日常」などというものは存在せず、時は仮借なく過ぎていき、すべてを変えていくからです。  「あたりまえ」が「いつまでも続く」とは、単なるぼくたちの思い込みに過ぎないのですね。そのことは『灰と幻想のグリムガル』を見てもわかりますし、『よつばと!』においては素晴らしいセンス・オブ・ワンダーとともに描写されていることです。  平凡な平穏のなかにこそ黄金の輝きはある。男性たちはこれからそのことを学習していかなければならないのだと思います。暖かで和やかな日常や、他者による理解と共感を求めているのは女性たちだけではない、男性だってほんとうは変わらないのですから。  とはいえ、それでは変わり映えのしない「出口のない日常」を楽しむにはどうすればいいのか? そのためには生活の三大基礎である「衣・食・住」と、そして「趣味」を充実させていくよりほかないと思います。  このブログでぼくが「衣・食・住」をテーマにした記事をいくつか書いているのはそのためです。つまりは、すべては「成長が行き詰まった成熟社会において、いかにしてクオリティ・オブ・ライフを向上させ、センス・オブ・ワンダーを獲得するか?」というテーマであるわけなのですよ。  いい換えるなら、大人になってなお『よつばと!』のよつばのように新鮮な発見に満ちた人生を送るにはどうすればいいのかということ。  それはおそらくは「脱男らしさ」の道であり、そしてある意味では「脱オタクらしさ」であるかもしれません。  仮にオタクでありつづけるとしても、少なくともさまざまな「知識自慢」や「センス自慢」を繰り返し、「縦の関係」を作ろうとしてきたかつての男性オタクたちとは違う意味でのオタクにならなければなりません。  それがどんなものなのか、どんな名前で呼ばれるべきなのか、その答えをぼくは持っていませんが、ぼくがたとえば『妹さえいればいい。』という小説を好きなのは、そのテーマを鋭く実現しているフロントラインの作品だと思うからなのですね。  そういうふうに捉えてもらえると、ぼくが単発で書いてきた記事も、実は色々と地下水脈で繋がっているのだということがわかってもらえると思います。  そして、そういうふうに読めば、このブログも少しは楽しいものに思えて来るのではないか、と。まあ、そういうわけで、ぼくは最高の人生を実践しながら模索しているのでした。  ああ、あとは恋人か伴侶がいればいうことなしなんだけれどな! 毎度同じ落ちですが、まあしかたないでしょう。  現実は、きびしい。 

女性たちに学ぼう。「日常系マンガ」のように日常を生きる。

『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』にオリジナリティはあるか?

 ペトロニウスさんの『灰と幻想のグリムガル』評の第二弾が公開されていますね。 http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20160524/p1  あるいはいつもの如くこのまま公開されずに終わるのでは?と思っていただけにひと安心です(笑)。  ぼくの文章も引用されていますけれど、『グリムガル』はほんとうに現代の青春ものの系譜のなかでも頂点といえるような傑作だと思います。  この作品をまだ見終えていないというこのていたらく。いいかげんそろそろ最後まで見ないとなあ。マーベル映画とか見ていないでこっちを見ろよ、という気もします。  さて、この記事のなかではっきり書かれているように、現代の青春もののトレンドは、 1)主人公になれないわき役が、 2)それでもどうやって人生の充実感を得るか。  というところに収斂していきます。  「きっと何者にもなれない」ぼくたちの冴えない青春。でも、けっこう楽しいし、いいところもあるんだよね、と。  これがおととい、きのうと書いた「充実した人生を送りたい」というテーマとかぶっていることがわかるでしょうか?  そう、ぼくはフィクションと同じテーマをリアルでも追及しているんですね。ただ、リアルではなかなか「死を実感すれば生もまた輝く」というわけにはいかないから、色々むずかしいわけなんですけれど。  『グリムガル』が傑作なのは、「1」の条件をほんとうに徹底して突き詰めているところです。  普通は「わき役」とはいっても一応はそれなりの能力を持たされているものなのですが、『グリムガル』の場合はほんとうになんの異能もないんですよね。それこそゴブリン一匹倒すこともできない。  で、その未熟で無能なかれらが「死」を実感することによって「人生の充実感=いま、生きているという実感」を得るプロセスが描かれています。  まさに「わき役たちの冴えない青春系」の最高傑作ともいうべき作品といっていいでしょう。  これ、映画の『ちはやふる』で、天才のちはやではなく才能がない太一がクローズアップされたのとまったく同じ構造だと思うのですが、もうさすがにそれは説明しなくてもわかってもらえるでしょう。  現代の青春ものはアニメであれ、映画であれ、必然的にそういう構図になるということなのです。  と、ここまでは話の前段階。今回はそういう「冴えない青春系」のひとつである『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』について話したいと思います。  この作品はもはや古典的といってもいいくらいライトノベルの伝統的形式を追従しています。どのような構造なのか、「物語三昧」から引用しましょう。  これまでのヲタクの言説や自意識の拗らせの中には、常に「リア充」という概念がその軸にありました。ヲタクの自意識を描くときに、どこかにリアルに充実している、この場合は、かわいい恋人やかっこいい彼氏に恵まれて、特に2次元に逃げることもなく、3次元の世界で楽しく過ごしている人々がいるという対抗意識のことになります。昨今(2016年3月時点の話)だいぶ薄れてきた気がするのですが、少なくとも過去のメジャー級の作品である『僕は友達が少ない』(2009-2015)や『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』(2008-2013)などのライトノベルで頂点に君臨して、アニメ化もされ、一時代を築いた作品群は、この軸が常にセットされていました。この系統のほぼすべてのライトノベルの主要な軸が、これであったといっても、また現在もそうであると言い切っても、おかしくはないほどです。  そう、「また現在もそうである」。  ペトロニウスさんはまだ見ていないようですが、『ネトゲの嫁』の軸は、「リア充」ではなく「リア充」に対抗意識を持つ少年少女が自分たちでかってに部活を作り、楽しい学園生活を送るという『はがない』の構造そのままです。  もう、その点では一切オリジナリティがないといっていい。  だから、Twitterで宮城さんという方がこのような疑問を呈されていたのはいたって当然だといえます。 @LDmanken @Gaius_Petronius @kaien もうアップロード完了とは仕事が早いですね。ネトゲ嫁はオタクの描かれ方が俺妹の頃と変わらないように思えて、私は何だかちょっと古臭さを感じるのですが、LDさんから見てどうでしょうか。  これに対し、LDさんはこのように答えています。 @mi_ya_gi_3 @Gaius_Petronius @kaien まだ、全部見ていないので何とも言えませんが、どうなんでしょう。僕はむしろ登場人物たちはネトゲユーザではあっても(現代的な意味含め)オタクでは無いようにも感じています。  どうなんでしょうね。オタクとは何か、とかいいだすとまた長くてめんどくさい議論になってしまうと思うので深入りしたくはありませんが、少なくともぼくは『ネトゲの嫁』を見ていてそんなに古くさいとは感じなかったんですよね。  しかし、たしかに構造そのものは「リア充」を敵視する生徒たちだけで部活を運営するという、ありふれすぎているものです。やっぱり古くさい話なんじゃないの?といわれてもしかたありません。  それでは、『ネトゲの嫁』のオリジナリティはどこにあるのか?  これ、まだなんともいえないところではあるんだけれど、 

『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』にオリジナリティはあるか?

冴えない青春が輝く瞬間を描く『灰と幻想のグリムガル』が面白い。

 5月に入って、そろそろ新作アニメの視聴も絞らないといけない時期に入っていますね。  ぼくは『Re:ゼロから始める異世界生活』、『マクロスΔ』、『くまみこ』、『少年メイド』、『SUPER LOVERS』、『甲鉄城のカバネリ』あたりを中心に追いかけています。  過去作で消化していないものもたくさんあるので、それも並行して見ないといけないと思うと、なかなか忙しい。  ぼくの場合、アニメを見ることは「趣味」であるのと同時に「お仕事」でもあるので、あまりサボるわけにはいかないのです。  まあ、そうはいっても長い間サボっていたわけですが。それでもね。  さて、そういうわけでいまは『灰と幻想のグリムガル』の続きを見ています。  まだ見終わっていなかったのかよ、といわれるかもしれませんが、そうなんですよ。もっと早く見ないとな、とは思うのですが……。  『灰と幻想のグリムガル』、まだ見終わっていない段階でいうのもなんですが、今年を代表する傑作だと思います。  ちょっとライトノベル原作とは思えないくらい(偏見か?)渋い雰囲気の作品ですが、ちゃんとそこそこ売れているようでひと安心。  こういう作品がまったく評価されないようだと辛いですから。  それでは、どこがそんなに面白いのか? 色々ありますが、やはりゴブリン一匹倒すのにも苦労する未熟な新米冒険者パーティにフォーカスして、その非日常的な日常を描き出した点が大きいでしょう。  普通のアニメだったら(たとえば『ソードアート・オンライン』だったら)、あっというまに駆け抜けていくであろう冴えないポイントを執拗に描きだす面白さ。  必然的に地味な展開にはなるんだけれど、そのぶん、弱者の冴えない青春にもある素晴らしい瞬間を描きだすことに成功している。  世界が輝いて見えるような、そんな時。  ぼくはこの作品はあきらかに最近の青春映画の文脈で語るべきものだと思っています。  ここ最近の青春映画、『ちはやふる』、『バクマン。』、『くちびるに歌を』、『心が叫びたがってるんだ。』、『響け!ユーフォニアム』などは、いずれもスケールがごく小さかったり、最後に挫折が待っていたりするという共通点があります。  『青春100キロ』もこの系譜に入れてもいいかもしれないけれど、あれはちょっと違う気がする。もっと古典的。  それは置いておくとして、ここに挙げた作品はどの映画もどちらかというと「冴えない青春」であって、「全国大会優勝!」といった話にはならないのです。  まあ、『ちはやふる』をちはやの物語と捉えると、いずれは全国大会優勝したりするかもしれないけれど、映画版はあきらかに太一が主人公だと思います。  「きっと何者にもなれない」ぼくたちの冴えない青春。  しかし、 

冴えない青春が輝く瞬間を描く『灰と幻想のグリムガル』が面白い。

いま、「主人公になれない者たちの物語」が熱い。

 最近、ペトロニウスさんやLDさんと「いまの時代のトレンドは何か?」ということを話したりします。  この場合、話しているのがぼくたちなので、最新ファッションのトレンドではなく、アニメや漫画の流行のことを指しています。  で、色々と話してみたのですが、どうもよくわからないというか、はっきりした答えが出てこないのですね。  というのも、単純にトレンドを語るにはすでに市場が成熟しすぎているのだと思います。  いい換えるなら、支配的なトレンドが成立しないほど多様化が進んでいる。  一見すると甘ったるい萌えアニメばかり、安っぽいファンタジーばかり、といった状況に見えるかもしれませんが、よく観察してみるとあきらかにその観測は正しくない。実に色々な作品が共存しているのです。  たしかに『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』みたいなひとをダメにするアニメ(笑)もありますが、その一方で『灰と幻想のグリムガル』とか『Re:ゼロから始める異世界生活』のようなめちゃくちゃきびしい話も存在している。  その片方が市場を席捲するという状況ではもはやなく、常時甘ったるいものときびしいものの両極のあいだの作品がグラデーションをともなって提供されつづけているのが現状ということになるでしょう。  狭い観測範囲ばかり見ているとダメダメな作品ばかりが提供されつづけているというふうに見えるだけのことで、全体をしっかり見ていけばきわめて多様でしかも質が高い作品が存在する現状は明白です。  これはもちろん素晴らしいことなのですが、たぶんアニメや漫画だけではなく、ほかの文化ジャンルを見てもそうなのでしょう。  2016年現在、日本の文化状況はひと言では語れないほど成熟し多様化しているという見方が正しいように思われます。  だから、決して「いまのトレンドはこうだ!」ということはできないのですが、それにしてもきびしい物語が続いているなあ、と感じます。  ぼくたちの言葉でいうと「新世界系」ということになるのですが、登場人物を容赦のない現実に晒すことを特徴とする物語が散見される。  特に『進撃の巨人』以降、そういう物語が続いているように感じられます。  先述の『グリムガル』や『Re:ゼロ』のほかにも、たとえば『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』も非常にきびしい話ですよね。  ある意味ではそれはひたすらに甘い日常を楽しむ萌えラブコメの対極にある世界ということもできるわけですが、その両者が併存する環境こそが理想的な状況だといえるとぼくは思っています。  結局のところ、人生とはただ甘ったるいだけのものではありえない一方で、辛いだけのものでもありません。  ひどく残酷で容赦がないその一方で、信じられないような奇跡的な出来事も起こりえるのが現実の人生なのだと思う。  しかし、クリエイターがリアリズムに徹しようと考えるとき、ただひたすらに暗く救いのない現実「だけ」を描こうとする傾向があるように思われます。  それはそれでもちろん人生の一断面を正確に描き出しているのだけれど、それこそが人生の真実なのだといわれると何かが違っているように思われます。  たとえば甘い恋愛の喜びにしたところで、決して嘘ではありえないのですから。  だから、こんなアニメばかり見ていると人生がダメになる!と思われるような萌えアニメを見るのも必ずしも悪いことではないと思うのですよね。  たしかにそればかりを見ていると致命的に何かを間違えてしまうかもしれませんが、他方できわめてきびしい現実を突きつけるようなアニメもちゃんとやっているわけですから、それも並行して見ればいい。何も問題ないと思うのです。  そういうわけでそのきびしい物語の話をしたいと思います。  最近、『ちはやふる』の実写映画版を見て来ました。  これが面白くて、漫画版はちはやの物語であるものを、太一の物語に見えるよう再編集されているのですね。  漫画版でもちはやよりは太一が主人公のように見えなくもありませんが、映画は完全に太一の物語以外の何ものでもない。  これは非常に現代的だなあ、と感じ入りました。  原作を読んでいない人たちのために説明しておくと、太一とはイケメンで頭が良くて金持ちの息子、というすべてがそろった少年なのですね。  しかし、『ちはやふる』のメインテーマである競技かるたに関しては特別な才能を持っていない。  ほかのすべてを持っているのに、かるたにおいては二流ということに、強いコンプレックスを持っている。そういう造形のキャラクターであるわけです。  かれは物語の主人公にしてヒロインであるちはやに恋し、彼女の心を射止めるために好きでもないかるたに熱中するのですが、「かるたの神さまに選ばれていない」という劣等感は消せません。  映画はそんな太一にフォーカスし、かれの切ない想いを追いかけていきます。  これは非常に現代ふうの物語だなあ、と感じます。同時に、最近の青春映画ではよく見られるパターンでもあるな、と。  ここしばらく、ぼくは日本の青春映画を追いかけているのですが、それらは一様にひとつの特徴を備えているように思います。  あらかじめ敗北と挫折がプリセットされているということ。  『くちびるに歌を』でも、『バクマン。』でも『心が叫びたがっているんだ』でも、そこは共通している。  もちろん古典的な青春映画でも挫折は付き物ですが、これらの作品では最後の最後まで挫折が付きまとっています。  敗北と挫折を乗り越えて勝利を手に入れるという側面がなくはないのですが、『バクマン。』あたりに典型的なように、その勝利のさらに先にはやはり敗北が待っているのです。  『心が叫びたがってるんだ』などは最終的にはそれなりの成功にたどり着くのですが、それにしてもきわめて局地的な成功に過ぎません。  全国大会優勝!とか、そういうことではない。  このスケールの小ささがきわめて現代的で特徴的だと思います。  努力して大成功をつかみ取るという結果で終われないということ。  もちろん、ただスケールが小さいだけの物語は面白くない。  だからなぜそういう物語が登場してきているのかということが重要だと思う。  先に答えを述べてしまうと、それは「選ばれていない者たちの物語」を描くためではあると考えられます。  アニメ『輪るピングドラム』が「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」という言葉とともに始まったのはしばらく前のこと。  それから時間が経って、「きっと何者にもなれない者たち」が主役となる物語が続いているといういい方もできる。  これは映画ではなくアニメですが、『灰と幻想のグリムガル』がやはり最も特徴的だと思います。 

いま、「主人公になれない者たちの物語」が熱い。

今期の正座して見るアニメはどれで、流し見するアニメはどれだ?

 春アニメを色々追いかけています。  Amazonプライム・ビデオも見れるし、dアニメストアも見れるいまのぼくに死角はない。ふっふっふ。  とりあえず今期のアニメで面白そうだと思ったのは『マクロスΔ』かなあ。  『逆転裁判』がイマイチで残念です。『ばくおん‼』はまあまあ。  『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない』は、あたりまえですが面白いですね。  『Re:ゼロから始まる異世界生活』も面白いという話なのだけれど、ネットで配信されるまで見る手段がない。  『マクロスΔ』は「いつもの『マクロス』」といってしまえばそれまでなのですが、あいかわらずのクレイジーな世界が素敵です。  「よし。歌が効いてきた」とか、イミフな台詞があたりまえのように飛び出すあたり思わず笑ってしまう。  いや、『マクロス』だから意味不明でもなんでもないんだけれど、これ、このシリーズを初めて見る人がいたら「なんじゃこりゃ」と思うんじゃないでしょうか。  壮絶な空戦アクションと可憐なアイドルステージが一体化したアニメーションは色々な意味で凄まじく、わけのわからない迫力に満ちています。  テレビアニメでここまでのアクションを放送できる時代なんだよなあ。凄い。ヒロインの女の子もなかなか可愛い。  『くまみこ』もほのぼの系で良いですね。  『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』はライトノベルらしい都合のいい話で、気恥ずかしくもなかなか楽しい。  ただ、いちいちヒロインのおっぱい(巨乳)をフォーカスするカットがアレ。  40近くなってこういう思春期願望充足アニメを見ているぼくはどうなんだという気がしなくもない。  こうやって並べてみるとけっこう面白そうな作品が並んでいるなあ。  オタク的な願望充足系が多いみたいだけれど、『Re:ゼロ』みたいなきつくて地味な話もきっちりアニメ化されているあたり、ちゃんと多様性のある時代なんだなあと感心します。  『Re:ゼロ』はほんとにきびしい話なのですが、シナリオのポテンシャルはぴかいちです。  「なろう系」とは思えないほど構成が秀抜。アニメもていねいに作っているという噂なので、とりあえず期待したいところです。  あと、すでに完結した作品ですが、『灰と幻想のグリムガル』のアニメをいま後追いで見ています。  まだ序盤なのだけれど、これ、素晴らしいですね。  非常に地味な作品であるかとは思いますが、とにかく演出が光っている。最後まで追いかけていきたいと思います。  いや、これだけの質と量のアニメがいつでもただで見れるというのは凄いことですね(dアニメストアは有料だけれど、それにしても月額400円くらい)。  そりゃ、エンターテインメントが日常化するわけだよ、と思ってしまう。  エンターテインメントの日常化という現象の背景となっているのは、「絶対に消化し切れないほどの量のエンターテインメントがあたりまえのように存在する」という現実です。  ライトノベルにしろ、テレビアニメにしろ、ウェブ小説にしろ、いまとなってはどうあがいても消費し切れないくらいのボリュームの作品群が日常的に提供されつづけていることはご存知の通り。  あるいは、よほど暇な人ならライトノベルだけ、テレビアニメだけならある程度は追いかけることができるかもしれないけれど、それらすべてを消化することはもうどうしたって不可能なわけです。  そういう意味では、あるジャンルに関してなんでも知っている博覧強記の人物という意味での「オタク」は、もう成立しない時代になっていますね。  岡田斗司夫さんがいうところの「オタク・イズ・デッド」はそういう意味でも必然なのだと思います。  とにかくこうなると必然的に一作一作を真剣に見ていくことはむずかしくなるし、あるいは真剣に見るにしても「膨大な量のなかから見るべきものを選ぶ」という作業が必須となる。  そうなって来ると、もうエンターテインメント体験は特別なものではなくなりますよね。  この「量」の問題が現代のエンターテインメントを語るにはどうしても付きまとうと思うのです。  もちろん、それぞれの作品の「質」も高くなっていて、まったくかつてない贅沢な時代が到来していると感じます。  「飽食」ならぬ「飽楽」の時代、といえばいいでしょうか。  ひとつひとつの娯楽が神聖な輝きを失ってしまうほどありふれている時代。  かつて、何百年も前には、娯楽というものはほんとうに貴重なものだったでしょう。  たとえば、年に一度の村祭りで芝居を見るために、一年間きつい仕事に耐えるというようなことだって、ほんとうに行われていたわけです。  そういう時代においては、その芝居はほんとうに面白く、神秘的なまでの輝きを放つものでありえたはずだろうと思う。  その時代において、エンターテインメントはまさに非日常そのものであったといっていいかと思います。  いや、ほんの数十年前にしても、エンターテインメントはもう少し特別な体験だったといっていいでしょう。  少なくとも日常そのものではありえなかった。  しかし、 

今期の正座して見るアニメはどれで、流し見するアニメはどれだ?
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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