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15年目にしてまだ考える。『AIR』の感動って何だったんだろう?

 うにー。海燕です。どうも最近、このブログの内容は記事ごとに細切れにして話すにはむずかしい内容を扱っているような気がします。  難解というわけではなく、「わかる人にはわかる」話をしているのですが、はたしてこれはどの程度正確に伝わっているのか? 不安がなくもありません。  と書くのも、きょうはいままで書いてきたことを踏まえて、さらにわかりづらい話を展開しようと考えているからです。どうか、付いてきてくれると嬉しいな、と思います。  さて、この世には「ミクロ」と「マクロ」の問題が存在し、それぞれに対応する物語があるというところまで話をしました。  そして、マクロとミクロの物語では異なるテーマが存在するが、それらがリンクしあう物語もまたあり、その象徴となるのが「マクロの問題を一身にひき受けるヒーロー」であるということも話したと思います。  ちなみに、この「無限の責任(responsibility)を背負う、つまり無限の呼びかけに対して応答(response)するヒーロー」が、善悪二元論がまかり通るこの世界において、一身を「悪」に見立て、残るすべての世界を救済するという物語形式を、ぼくは「生贄の王の類型」と呼びたいと考えています。  典型的なのは『コードギアス』のルルーシュですが、この時、ヒーローはフレイザーのいう「森の王」(だっけ?)よろしく、全社会の全責任を背負って物語から退場するのです。  じっさいに退場するところまでは行っていませんが、アメリカのヒーロー映画の頂点である『ダークナイト』もこの類型ですね。バットマンはまさに「生贄の王」そのものです。  しかし、きょうはその話には深入りしません。実はきょう、ぼくはマクロをも超えた「ウルトラマクロ」というものがありえるのではないか、という話をしたいと思うのですよ。はっきりいって自分のなかでもまるで煮詰まっていない話なのですが……。  それでは、ウルトラマクロとは何か? それは神であり、楽園です。運命であり、悟りです。あるいはイデアとか超越という言葉を使うこともできるでしょう。  つまり、ミクロとかマクロといった区分が通用する現実世界を超えた超越的次元のことを、ここではウルトラマクロという言葉で指し示しているわけです。  ――怪しい話だと思いますか? ぼくもそう思います。しかし、一面でひとは現実的な要素だけで生きていくことはむずかしいということもたしかです。  「ひとはパンのみにて生きるに非ず」。そして、パンに加えてサーカスだけあればいいというものでもありません。何か日常世界を超えて気高いもの、美しいものにふれたいという想いが、人間にはやはりあるのだと思います。  もちろん、そんなものはいらないという考え方もあるし、そういう考え方だけでも十分に生きていくことができることはたしかですが、今回はそういうウルトラマクロを必要とする人々がいるということを前提として話をしたいと思います。  さて、 

15年目にしてまだ考える。『AIR』の感動って何だったんだろう?
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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