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2015年10月の記事 13件

物語づくりとは、ただ情報を整理するだけの作業ではない。

 うー、昼間寝まくってしまったおかげで夜になっても眠れない。  完全な昼夜逆転状態で、ちょっと困ったものなのだけれど、まあいくら嘆いても眠くはならないので記事を更新しましょう。  先月、先々月とあまりに記事数が少なかったので、今月はちょっと真面目に更新したいと思います。  さて、前の記事で『鉄血のオルフェンズ』のシナリオについていくつか注文めいたことを書きましたが、じっさいの話、どう直せば良くなるのかということはよくわからないんですよね。  それがわかったらぼく自身が作家か脚本家になっているわけで、しょせん外野から文句を垂れているに過ぎないわけです。  ここらへん、いつも非常に申し訳なく思ってはいるのですが、だからといって沈黙するわけにもいかないので、あくまでアマチュアの戯言とでも思って読んでいただければいいかと。  まあ、こうしてお金をもらっている以上、ぼくも何かのプロではあるのでしょうが、でも、創作のプロじゃないものね。  閑話休題。  さて、ひとが何か物語を作るとき、必然的に「何を」「どのように」語るのか、という問題が発生します。  何を語るのかはそれぞれの作家がそれぞれの意図で選ばなければならないところであるわけですが、いまぼくが注目したのは「どのように」語るのか、という問題です。  一般的にいって、同じ物語を語るにしても、より効率的に語れたほうが良いと考えられるわけです。  したがって、小説であれアニメであれ映画であれ、作家は意図して物語を「構成」する必要があり、その物語を構成する力量を「構成力」といいます。  構成力にはどうやら年齢的なピークがあり、歳を取るとタイトな物語を紡ぐことはむずかしくなって来るということは以前書きました。  しかし、ここではとりあえず、そもそも良い構成とはどのようなものか、ということを書きたいと思います。  あとまあ、世の中には初めから終わりまで完成した物語がひと塊で降りて来るという天才もいるらしいですが、そういう化け物のことを話しても仕方ないので、とりあえず一般常識の範疇で話しましょう。  良い構成とは何か。ごく常識的に考えると、それは無駄のない構成のことだといえるでしょう。  物語とは、つまりひとつながりの連続した情報のことです。  したがって、それらの情報をなるべく整然と語っている作品が良い物語であるということができます。  『鉄血のオルフェンズ』を例に取るとわかりやすくなると思うのですが、このとき、この物語にはどうしても果たしておかなければならない使命(ミッション)がいくつかあります。  たとえば物語の背景世界がどうなっていて、主人公たちがいまどういう状況に置かれているのかをさりげなく説明すること、主人公たちを巻き込む戦闘を起こして最後に主役ロボット・ガンダムを動かすこと、などが挙げられるでしょう。  これらのミッションをどう合理的にクリアするのかということが作家に与えられた課題です。  下手に並べるとエピソードとエピソードがうまく繋がらず、無駄が発生してしまう。  どうやってきれいにエピソードを並べたら良いのか、まさに腕が問われるところです。  これはエモーションというよりはロジックのレベルの問題なので、やはり歳を取るとなかなかうまくこなすことができなくなる気がします。  歳を取っても良い物語を書いている作家はよほど自分をきびしく律しているのでしょうね。偉いものです。  さて、ここで注意しなければならないのは、ただ整然と情報を並べられればそれでいいというものではないということです。  ただ 

物語づくりとは、ただ情報を整理するだけの作業ではない。

話題の新作ガンダム『鉄血のオルフェンズ』、第1話は少々駆け足の印象。

 いまの時代、ロボットアニメといえば何はなくとも『ガンダム』、というわけで、『機動戦士ガンダム』シリーズの最新作『鉄血のオルフェンズ』第1話を観ました。  テレビでは見逃してしまったのでiOSアプリ「ガンダムファンクラブ」を落としてそこから動画を見たという次第。  いやあ、便利な時代になったものです。  まあ、いくら見逃し作品を後追いできるようになったとはいっても、作品そのものが面白くなければどうしようもないわけですが。そこらへん、『鉄血のオルフェンズ』はどうなのか?  うん、まあ、なかなかじゃないですか(偉そう)。  物語が始まる舞台はどうやら地球の植民地と化しているらしい火星。  詳しい説明はありませんが、テラ・フォーミング後数百年とか経っていそうな印象で、普通に人々が生活しています。  もっとも、例によって生活環境は劣悪であるらしく、主人公と思しい少年たちは奴隷のようにこき使われています。  人権などまったくないといっていい奴隷労働状態。  かれらがこの劣悪な状況からどうやって抜け出していくのか、あるいはさらなる絶望が待ち受けているのか、なかなか興味をそそる展開です。  ちょっとメキシコ独立革命か何かを思い起こさせる舞台設定で、これから『怪傑ガンダム』、じゃない地球圏からの独立戦争の物語が展開していくのだと思われます。  おっさん的にはなつかしの『ヴィナス戦記』とか思い出させる初期設定ですね。  ふっるいなー。ぼくは見ていないけれど、『アルドノア・ゼロ』とかもそういう話だったんですかね(ほんとうに知らない)。  なぜいまの時代にこの設定を持ってきたのかということは第1話ではよくわからない。追々わかってくるのだと思います。  まあ、地球からの独立戦争というテーマを設定した時点で泥臭くなってくるのは仕方ないところで、あまり美少年らしい美少年も登場しない、わりあいに地味な『ガンダム』になっています。  もっともそれだけにガンダムの美しさが映えるということもいえるので、この段階では一概に良いとも悪いともいえませんが……。  おそらく敵役として活躍するであろう地球の守護者「ギャラルホルン」の側は美形キャラがぞろぞろ出て来てほしいところではありますが、さて、どうなるやら。  うん、まあ、スタートダッシュの第1話としてはまあこんなものかな、と思いますよ(やっぱり偉そうだな)。  悪くない。続きも見てみたいと思います。  ただ、あえていうならいろいろな説明を容赦なく織り込んでいるせいでシナリオが駆け足になっているところは否定できないでしょう。  今回、脚本はぼくらの岡田『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』麿里さんが努めていて、監督も『あの花』の長井龍雪さんらしいのですが、いやー、第1話に相当詰め込んできたなって感じ。  マクロ的な状況説明からミクロ的な心情描写まで詰め込んで、ともかくも成立させているあたりはなかなかに見事なシナリオではあるんだろうけれど、その代償としてひとつひとつのエピソードに「ため」がなく、軽い印象になっていることはどうにも否めない。  ロボットアニメの、というか『ガンダム』を題するタイトルの第1話である以上、ラストまでにガンダムが動き出さなければならないというミッションを背負っているわけで、脚本に「枷」があることは仕方ない。  その上でどう情報を処理し、見せるべきものを見せるかというところが芸の見せどころであるわけですが、その点でいうと今回の物語はもう少し、というところ。  いや、もちろんわかるんですけれどね。ラストのガンダム出陣を際立たせるために戦争の絶望を描いておきたかったということは。  ただ、その展開がいかんせん駆け足になってしまっている。  これ、『ファイブスター物語』の第7巻から第8巻あたり(リブートの第5巻あたり)の展開そのまんまの脚本意図なんですよね。  地上で兵士たちが互角の戦いをやっていて、そこへ超存在であるロボットが登場して絶望を植え付けて、しかしそこに味方ロボットが出て来てさらに逆転する、という、戦闘ロボットの花やかさ、格好良さを段階的に演出するシナリオ。  ただ 

話題の新作ガンダム『鉄血のオルフェンズ』、第1話は少々駆け足の印象。

『冴えない彼女の育てかた』に刻の涙を見た。

 最近、どういうわけか積読していたライトノベルを読もうという気になっていて、きょうは丸戸史明『冴えない彼女の育てかた』第2巻を読み終えました。  第1巻を読んだのはずいぶん前のことで、それからテレビアニメが放送されたりもしたのだけれど、なんとなく止まったままだった本をようやく読むことができ、感慨無量です。  さっそく第3巻にも取り掛かったから、こうなったら既刊全巻を読了する日も近いでしょう。たぶんね。きっとね。  で、感想なのですが、大変面白かったです。  第1巻も面白かった記憶がありますが、この手のシリーズものは読み進めれば進めるほどにキャラクターに愛着が沸き、よりいっそう楽しめるようになるもの。  この作品もご多聞に漏れず第1巻以上に楽しく読めたと思います。  しかし、いまさらながらに思い知りましたが、内容が古いですねー。  「主人公が小さなサークルを作って同人ギャルゲーを制作する」という突端からしてとても時代を感じさせるわけですが(いまどきギャルゲーて)、それ以上に「オタク」をことさらに強調する感性そのものが古い。  ここらへんのオタク自己言及テーマのカッティング・エッジはやはり『妹さえいればいい。』だと思うのだけれど、それと比べると二世代くらい前の作品に感じます。  まあ、これはあとがきで作者自ら語っていることでもあるし、特に欠点といえるようなことでもないとは思うのですが、それにしても古めかしい。  思わず「そうそう、昔はこうだったよね!」とうなずきながら読みましたとさ。じっさいにはさして昔のことでもないはずなのに……。  刊行されたのは数年前のことだからかもしれませんが、それを考慮にいれてもちょっと時代とずれている感じ。  逆にいえば、ここ何年かの「オタク」を巡る状況の変化には驚かされます。  新井輝さんの『俺の教室にハルヒはいない』あたりもそんな感じでしたが、もはやこの手の自虐的なひとり語りは通用しなくなっているのかもしれません。  時代は変わったなあ(しみじみ)。  具体的に何が変わったのかといえば、「オタク」という言葉を巡る自意識のあり方でしょう。  『冴えない彼女の育てかた』の主人公はかなり意識的に「オタク」と「リア充」を対比し、時に劣等感に浸ったりしているのですが、こういう形の自意識は最新のライトノベルでは解体されています。  オタクがどうこう、リア充がどうこうということをあえて意識する必要がなくなったのですね。  これはリアルに世相を反映していると思うのだけれど、そういう意味ではこの主人公は前世代的なキャラクターといってもいいのではないでしょうか。 

『冴えない彼女の育てかた』に刻の涙を見た。
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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