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2022年3月の記事 3件

人は人を赦すことができるのか?

「でもわたしは赦すの 父上も上皇さまも法皇さまもみんな 赦すだなんて偉そうね でも どちらかがそう思わねば 憎しみ 争うしかない でも わたしは世界が苦しいだけじゃないって思いたい だからわたしは赦して 赦して 赦すの」――アニメ『平家物語』より  何だかちょっと思い至ったことがあるので、いささかならず長くなりますが、読んでみていただければ、と思います。 どこから話しはじめたら良いか、そうだな、ぼくはいままで「敵」とか「怒り」とか「憎しみ」といった事柄をめぐる問題について長いあいだ考えていたんですね。  この場合の「敵」とは「自分を殺しに来る存在」というイメージです。直接的に殺すわけじゃなくても、パワハラする上司とか、いじめをしかけてくる同級生とか、Twitterで攻撃してくるアカウントとか、そういう存在が「敵」にあたります。  幸村誠さんの傑作マンガ『ヴィンランド・サガ』に、「敵なんていないんだ」みたいな話が出て来るのですが、ぼくはそんなのウソじゃん、と思っていたわけですよ。世の中、「敵」ばかりじゃん、と。  話題騒然の少年漫画『タコピーの原罪』を、ぼくが特に面白いと思わないのは、あれはようするにこの世界のありのままの姿をそのままに描いた、ただそれだけの作品だと思ったからです。  たしかにぼくのいうところの「戦場感覚」の作品ではあるけれど、「それ以上の何か」がないと、ほんとうの傑作とはまでは思わないかなあというのがぼくの評価でした。  あの作品に出て来るしずかちゃんにしろ、まりなちゃんにしろ、よくわかるんですよね。だれかが自分を、あるいは自分の大切な存在を「殺しに来ている」とき、仕返しに殺そうとするのはあたりまえのことじゃないのか。ぼくはそう思う。思っていた。  それが「敵」という概念。そう、たとえば、だれかが自分の大切な家族や恋人や友人を殺したとき、あるいは自分を殺そうとしてきたとき、それでもあいては「敵」ではない、といえるのか。  アニメ『平家物語』の徳子はすべての被害を一身に受け止めて「わたしは赦す」というのだけれど、本当に人間に「赦す」なんてことができるのか。できるとして、「赦した」人間はその分の負債を負うだけではないのか。その理不尽。  アパルトヘイト後の南アフリカで被害者の「赦し」によって加害者の罪を減じる「真実和解委員会」という裁判形式があるらしいのだけれど、人が人を「赦せ」るなんてぼくには信じられなかった。  たとえば、いま、ウクライナで家族を殺された人たちは、ロシアを、あるいはプーチンを赦すことができるのか。仮にできるとしても、なぜ赦さなければならないのか。そういうようなことを、ずーっと考えていました。  ベストセラーの『嫌われる勇気』によると、アドラー心理学には「共同体感覚」という概念があるといいます。これはすべての人を、人以外の宇宙すべての存在までも「仲間」だと捉えるその先にある感覚だと説明されます。しかし、あきらかな「敵」を「仲間」だと考えることなど本当にできるのか。  ぼくはそこをほんとにずーっと疑っていたわけです。ぼく自身、「どうしても赦せない」と思う相手はいくらでもいたし、そういう「敵」のことを「仲間」だと捉えることはできそうにない。  その「怒り」や「憎しみ」は限りなく苦しいのだけれど、一方で相手が「自己正当化」し、自分自身をだまして自分を「絶対の正義」だと考えていると思うとやはり腹が立つ。そのように「自己欺瞞の箱」に入っている人間のほうがよっぽどラクできているじゃないか、と考えたわけです。  そういうことを延々と、かつ悶々と考えつづけて、もうへたすると10年くらいになるかな。で、考えに考えたあげく、結局、ぼくもやっぱり「敵」はいないのかもなあ、というところに考えが至るようになりました。  ここから先はちょっと遠くから話をすることになりますが、この世界は、「自分」と「自分以外すべて」に分けることができますよね。で、「自分」はある程度のところまでコントロールできる一方で、「自分以外すべて」はほとんどコントロールできない。  したがって、そのコントロールできない存在のなかで、自分に益をもたらす者を、ぼくたちは「味方」だと思い、害をもたらすものを「敵」だと考える。そういうことなのだと思います。  しかし、よくよく考えてみると、じっさいには、ほんとうに「敵」と「味方」がいるわけではなくて、「自分以外」の存在はその人の意図や利益に従って動いているわけです。その結果、衝突や軋轢が生まれるに過ぎない。  『ヴィンランド・サガ』における「敵なんていないんだ」というのはつまりこういうことだと思う。そこまではぼくも理解できる。納得できる。  でも、それでも、非戦を望む『ヴィンランド・サガ』の主人公トルフィンに対しては「それでは、自分の家族や恋人を殺されても怒らないのか。憎まないのか」という風に突きつけてやりたいと思ってしまう。そこに欺瞞があるんじゃないのか、と思っていたんですよね。  しかし、ぼくはいま、わりと自分の「敵」に対して怒ったり憎んだりする気持ちが薄れてきているのを感じる。いままでどうしても手放せなかったその「執着」が少しずつ薄くなってきているというか。その前に何年にも何十年にもわたる歳月があるんですけれどね。  ぼくは中学生時代にかなりひどいいじめにあっていて、それからずっと消せない「怒り」と「憎しみ」を抱えていたような気がします。そしてなぜぼくがこんな不当な、理不尽な目に合わなければならないのかという、「運命と世界に対する敵意」も。  でも、40歳を過ぎて、人生も半分終わったいまになって、やっぱりこの世界に「敵」はいないということなんだろうな、と腑に落ちた感じがするんですよね。  たしかにぼくに、あるいはぼくの大切な存在に加害してこようと来る人はいる。そういう人はいかにも「悪意」と「自己正当化」で凝り固まっているように見える。そういった存在に大して無防備でいたら殺されてしまう。  それは事実でしょう。たとえば、まさにウクライナがロシアに対して無抵抗ではいられないように。もし無抵抗なままでいたら自分自身はもちろん、自分にとって大切なあらゆる価値を奪われるわけですよね。それを許すことはできない。  いま、ウクライナの多くの男性たちは、あるいは女性たちまでもそうかもしれませんが、次々と勇敢に義勇兵となって最前線で命がけで戦っているようです。  この行為を非難することはできないでしょう。自分の国を、領土を、家族を、愛するものすべてを加害者から守ろうとすることは完全に正当だとぼくも思います。このとき、戦わなければ、立ち上がらなければ、何ひとつ残らない。戦うべきだ。  しかし――それでも、なお、ぼくはこの世に「敵」などいないとも考えるようになりました。つまり、ロシアは、あるいはプーチンは、ウクライナ人にとっての「敵」ではないと考えることができるということです。  それはどういうことか。ようするにこの場合の「敵」国、「敵」軍に対して、戦い、退ける必要はあるけれど、だからといってべつだん、「怒り」や「憎しみ」を持って立ち向かわなければならないとはかぎらないということなのです。  おそらくこれはいかにも欺瞞的な話に聞こえることでしょう。「怒り」や「憎しみ」を持たずして、人が人を殺し領土を守ることができるものなのか、と思われても無理はありません。  しかし、ぼくはいま、「できる」と考えています。「戦う」、「立ち向かう」、「抵抗する」という行為が「敵」へのどす黒い「怒り」や激しい「憎しみ」に彩られていなければならないわけではない。  むしろ、人は自分の「怒り」や「憎しみ」を正当化するためにこそ、相手を「敵」とみなすと考えるべきではないでしょうか。あいつは殺されてもしかたない邪悪な存在なんだと思わなければ、たとえ殺されそうになっても、殺し返すことはできないのではないか。  しかし、当然ながら、ひとりひとりのロシア兵、あるいはすべての大元であるプーチン大統領ですら、「悪」とレッテルを貼って済ませられるほど単純な存在ではありません。かれらにはかれらの理路があり、正義があり、欺瞞があり、執着があるのです。  ぼくは「だから、お互いさまだ」とか「かれらを赦すべきだ」といっているわけではありません。かれらにどんな理屈があろうと、それでも殺し、退けなければならない。そういう局面は現実にある。それが戦場というものでしょう。この世の地獄。  あるいは、かつてぼくが「戦場感覚」というタイトルの本でそう考えたように、この世界そのものが戦場のメタファーで捉えられるかもしれません。人と人の利益は対立しあうもので、しばしばだれかを殺さなければ生きていけないのが現実。この世は戦場。この世は地獄。そうではないでしょうか?  ぼくはそう思うんですよね。いじめられっ子がいじめっ子に対し抵抗しなければ自殺にまで追いやられるでしょう。ロシアに対するウクライナがそうであるように。まりなちゃんに対するしずかちゃんがそうであるように。  だから、人は戦わなければならない。だれかを殺して自分を、そして自分の大切なものを守らなければならない。そういうことは実際にある。それは「善悪」では捉え切れないこの世の絶対の真実、いわば「グランド・ルール」である。そう受け止める。  その「大宇宙の黄金律」ともいうべき絶対のルールは人には変えられない。それは神さまがこの宇宙を生み出すときに決めたことなのであって、人にはどうしようもないことであるように思われます。  だから、人は戦い、殺しあわなければならないことがある。それはマクロな「戦争」というレベルでもそうだし、ミクロな「教室」、あるいは「家庭」というレベルでもそうです。殺さなければ、殺される。そのとき、ぼくたちは「殺す」ことを選択せざるを得ない。  『ヴィンランド・サガ』にしろ、あるいはその前の『プラネテス』にしろ、やはりその点はまだ突き詰めが甘いように思われる。  生きていればどうしたって殺すか、殺されるか、あるいはその選択肢そのものを避けて逃げすべてを喪うか、選ばざるを得ないときがあるのではないか。それは人間にはどうしようもない「摂理」なのでは。ぼくはそういう風にしか捉えられない。  ぼく(たち)はそういう戦場のような世界に生まれ落ちてしまった。それが現実。そうなら、絶望するしかないのか。あるいは、どうにか適応し殺しあいを続けるか。さもなければ、「争いをやめられない人間は愚かだ」とひとり高みに立ってうそぶくのか。  そうではない、といま、ぼくは思う。人には、争い、戦わざるを得ないときがある。ただ、それでも、その過酷なルールによって縛られた「この世界」に対しどう考え、受け止めるかは選ぶことができるのだ、と。  目の前の相手を、究極的にはこの世界そのものを憎むべき「敵」として捉えるか否か、それは自分の意思で選択できる。そして、その選択こそが、人間のもつ唯一にして最大の崇高さなのではないでしょうか。  現実として、だれかと戦わなければならないときはある。だれかと殺さなければならないときはある。しかし、それでも、そうだからといって「漆黒の敵意」に捕らわれる必要はない。ぼくたちは自ら選ぶことができる。  相手を「邪悪な敵」と見做して単純化し、「怒り」や「憎しみ」に塗りつぶされるか。あるいは「不運にも対立することとなった同じ人間」と見做して「哀しみ」や「憐れみ」を抱くか。  そう、人はだれかを「憎む」かわりにこの世界の摂理を「哀しむ」ことができる。  相手はあなたを殺そうとするかもしれない。それどころか、あなたのいちばん大切なものをののしり、嘲り、揶揄し、踏みにじるかもしれない。それに対しては、抵抗しなければならないでしょう。しかし、だから相手を「敵」と見做し憎むかどうかはべつだ。  ぼくたちは「憎む」かわりに「哀しむ」ことができる。それはいかにも「女々しい」ことに見えるかもしれない。「弱々しい」態度に思われるかもしれない。じっさいそういう側面はあるでしょう。  そもそも、自分の持っているものを命にかけてでも守り通さなければならない、その意識がいわゆる「男らしさ」の起源だと思われます。それは男たちにとって最大の誇りであるあると同時に、一方で「有害な男らしさ」といわれるものの源泉でもあります。  ソーシャルメディアを見ていると、しばしば「いざとなったら戦うのは男なのだ」といった意見を見かけます。これは一面で反論しがたい理屈であるように思える。そしてまた、「だからこそ、この世界から争いがなくならないのだ」ということも本当でしょう。  怒りに怒りを、憎しみに憎しみを返しつづけるかぎり、争いはなくならない。だからといって、「敵」を「赦す」ことはあまりにもむずかしい。ぼくたちはどうしようもないジレンマに捕らわれて「だから結局、戦うしかないのだ」というところに追いやられていく。  それはある意味で、正しいことなのかもしれない。何度も繰り返しますが、「戦わざるを得ない」、あるいはそうでなければすべてを失うことを覚悟しなければならない局面は、この世界で生きる限り、かならず存在するのです。「無抵抗」は即ち死を意味します。  だから、ぼくは「戦い」を否定しない。「戦士としての生き方」を、「直接的、間接的な殺人」を否定しない。ただ単に「人殺しはやってはいけない悪いことなのだ」といっても、問題は解決しないからです。  ですが、どうしてもこの戦場のような世界で戦士として生きなければならないというのなら、だれかと戦い退けつづけなければならないというのなら、せめて「高潔なる戦士」であることを選びたい。  「激しく煮えたぎる漆黒の憎しみ」ではなく「かぎりなく深い藍色の哀しみ」を抱き、そうであることに耐えつづけながら戦うこと。決して「怒り」や「敵意」に逃げずに争うこと。守ること。抗うこと。それがぼくが考える「戦場感覚」の一つの答えです。  怒るのではなく、憎むのでもなく、哀しみを哀しみ尽くすこと。そのとき、初めて多くの「男性」たちは、「自分は女子供を守るため戦っているのだ」という強い自負とうらはらの「弱々しい存在」への蔑みと見下しを乗り越えることができるでしょう。  この世は修羅の、戦いの世界。それはその通りです。しかし、それでも、この世界に「敵」はいない。「敵」とは、人の心が作り出す幻想でしかない。いるのは、不幸にも戦わなければならなくなった誰かほかの人間だけ。その哀しみを哀しもう、とぼくは思います。  おそらく、そのとき、人はだれかを「赦す」ことができるのではないでしょうか。ぼくはそういうふうに感じる。で、ぼくもようやく30年間くらい抱えていた「怒り」を捨て、初めて「人を赦す」ことができそうに思います。  この世にはたしかに僕を殺そうとして来る存在がある。嘲り、罵り、踏みにじろうとする者もある。それは「敵」のようにも思える。しかし、そうしたければ、そうするが良いでしょう。それはぼくのコントロールできない領域だ。  たしかにそのとき、ぼくは自分と自分の大切なものを守るため、立ち上がるしかない。戦うことを選ぶしかない。しかし、ぼくはそれでも相手を憎まない。蔑まない。決めつけない。それは相手のためではなく、自分自身の尊厳のために。少なくともそうしたいと思う。  あるいはこの宣言自体が傲慢そのものかもしれませんが、ぼくは「戦い」、そして「赦す」だろう。それはこの戦場のような過酷で残酷な世界をも赦し、そしてその世界と「和解」を遂げることでもある。 そのとき、ぼくは自分の生を祝福することができるだろう。この世界に生まれて来て良かった。何の衒いもなくそういえるだろう。それが、それこそが、「戦場感覚」。  と、そのようなことを考えました。いかがでしょうか。もし、ご意見があれば、よろしくお願いします。では。 おしまい。 

ToDoリストに「生きる」と書き込む。

 どうも、おひさしぶりです。数ヶ月にわたってブログを休止してしまって申し訳ありません。  そのあいだ何をしていたかというと、べつのブログを運営していたりしたのですが、さすがに良心が痛むのでこちらのブログを更新しようと思います。  今後は定期的に更新することをめざします。まあ、いいかげんもはや信用してもらえないかもしれませんが……。  さて、ぼくが無意味に日々を過ごしているあいだに、コロナ禍は何度目の流行と終息を見せ、ロシア軍はウクライナに侵攻し、世界はまるで違うところに変わってしまったわけですが、その最中、ぼくはいつものごとく自分の無為さにうんざりしていました。  こうも無気力な日々を送っていると、さすがに改善して計画的な人生を送ろうと思うわけですが、どうにもうまくいかず、あい変わらず無価値な毎日が続くばかり。  そこで考え出したのが「ダメ人間ライフハック」という方法論でした。  ダメ人間ライフハックとは! ダメ人間が、ダメ人間のままより良く生きていくやり方のことです。  ダメ人間をやめられないのなら、どうにかダメなままで状況を改善できる方法がないかと考えたわけです。  そこでまず、「ダメ人間ToDoリスト」なるものを考えつきました。これは通常のToDoリストアプリを使うやり方なのですが、ふつうと違うのは日常生活のありとあらゆる些細なことまでリストアップすること。  「顔を洗う」とか「体重計に乗る」ということまでいちいちリストに入れることによって、そういったことを「習慣化」しようとしているわけです。  何しろ、ダメ人間はこういったことすらも時に忘れがち。自宅にひきこもっているとなおさらです。  で、これは効果がありましたね。ふつうの人にはばかばかしいものとしか思えないかもしれませんが、このリストによって自分の日常の習慣の一々が可視化されたわけです。それには大きな意味がある。  ちなみに、このリストのいちばん上には「生きる」という項目が入ります。この項目はとりあえず毎日起きた瞬間にチェックできるわけで、「ただ生きているだけで価値がある」ことの確認になる。それは自己肯定感にとって大変に良い作用があるのですね。  「ダメ人間ToDoリスト」、ぼくはスマホが起動するのと同時に起動するように設定しています。なかなか計画的に行動できないという人にはオススメのやり方ですね。  しかし、そうやって「ダメ人間ライフハック」について考えているうちに、そもそも「ダメ人間」という概念そのものに疑いを感じ始めて来ました。  ぼくはほんとうに「ダメ人間」なのだろうか? それ以前に、「ダメ人間」としかいえない人間と「普通の人、あるいは立派な人」がいるという考え方は正しいものなのだろうか、と。  たしかに、弱い人、ダメな人と強い人がいることは一見すると自明に思えます。トップアスリートやアーティストのように、強い意志をもって一貫して夢を追う人間がいる一方で、すぐに挫折して投げ出す人もいることはたしかです。  この「意志力」、あるいは「自制心」、専門的には「実行機能(エグゼクティヴ・ファンクション)」などと呼ばれる能力を調査した試験に、有名な「マシュマロ・テスト」があります。  これは子供たちの自制心をお菓子のマシュマロによって調べた調査で、数十年にわたって継続的に調べられた結果、「実行機能」の強弱が人生を大きく左右することがわかりました。  つまり、子供の頃、目の前のマシュマロを我慢できるような人間は長じても成功する確率が高いということです。  これはいかにも救いのないあたりまえの結論とも思えます。ようするに子供の頃から意思が強い人間と弱い人間は決まっていて、それで人生は決まってしまうのだ、とも思われるからです。  ですが、じつはこの「意思の力」によるセルフコントロールはさまざまな方法によって強化することができるらしいのです。  単純に遺伝や環境によってすべてが決まってしまうというわけではない。  辛い状況に耐え、努力し成長しつづけるような行為は単純に「意志力」によって成し遂げられるというよりは、具体的な方法論があると考えるべきでしょう。  ある人にとって快適な状況を「コンフォート・ゾーン」と呼ぶのですが、人間は成長するためにはその「コンフォート・ゾーン」から出て厳しい状況に耐えなければなりません。  たとえば、バスケの選手として大成するためには地味なシュート練習が必要になります。  そのとき、耐える力はいかにも「根性」とか「意志力」によって決まって来るようだけれど、じつは必ずしもそうではないということ。  この「コンフォート・ゾーン」はたとえば真冬のこたつに喩えることができるでしょう。  ぼくはそれを「こたつ理論」と呼んでいるのですが、つまり欲しいものはこたつの外にあって、それらを手に入れるためにはこたつを出つづけなければならないというわけです。  しかし、いったんこたつに入ってぬくぬくしてしまうと、その外に出るためにはものすごい力を必要とすることは、皆さんご存知のことだと思います。  したがって、たしかにここから素直に考えるとこういう理屈になりそうです。「こたつ」の外に出て寒さに耐えることができる人は意思が強い立派な人だ。反対にいつまでもこたつでぬくぬくしている人間は意思が弱いダメ人間である、と。  ところが、この考え方はやはり一面的なのです。この見方だと、快適な「こたつ(コンフォート・ゾーン)」の外に出て活動するモチベーションの有無を属人的に考えています。  つまり、人間には、イソップ童話の勤勉なアリと怠惰なキリギリスのように、勤勉なタイプと怠惰なタイプがいる、と。いかにもあたりまえのことのようにも思える。  ですが、心理学的に見ると、必ずしもそうとはいえないらしい。  いわゆる「モチベーションの心理学」によると、人間の行動のモチベーションはその生涯で何千回、何万回となくくり返される「学習」の成果が大きいとか。  つまり、あるアクションを取ったとき、成功や賞賛という「正の報酬」を得られた人は「努力は報われる」と「学習」し、「自分ならできる」というポジティヴなアイデンティティを獲得、そのアイデンティティにもとづいてさらに努力するという好循環が働く。あるアクションで失敗した人はそのまったく逆というわけ。  ようは意志の強い人と弱い人、勤勉な人と怠け者、アリタイプの人間とキリギリスタイプの人物がいるのではない。すべては人生を通し、何千回、何万回とくり返された「フィードバック・ループ」という名の「学習」の結果である、と考えられるわけです。  思うに、いわゆる「社会的ひきこもり」はネガティヴな「フィードバック・ループ」が習慣化した最も極端な形だといって良いでしょう。  「自分には問題を解決できる能力がある」という感覚を「自己効力感」といいますが、ひきこもりの人間はその自己効力感がかぎりなく低下し、ひたすら「自分はダメな人間だ」とか「何の能もないんだ」という極端な「メタ認知」に陥ってそれがアイデンティティになる。  そしてその結果としてより行動するモチベーションが下がっていくということになっているわけです。  良く人は習慣の動物だといわれますが、「負の学習」をもたらす「悪い習慣」のくり返しが常態化した結果がひきこもりだともいえるでしょう。  ぼく自身がそうだからいうのですが、こういうひきこもりに対し「あなたにだってできることはある」などと口先でいってみても、あまり意味がない。なぜなら、体験による「学習」が強烈すぎて、単なる言葉はむなしく響くからです。  結局のところ、体験は体験によって上書きしていくしかないのではないでしょうか。  そのために先述のダメ人間ToDoリストに書くような「小さな習慣(ミニ・ハビッツ)」が重要だと思うのですね。  で、究極的には「生きる」ことが「最小で最優先の習慣」なのではないかとぼくは考えます。「生きている」ことが人生の最大の成果ですよね。  「顔を洗う」とか「体重計に乗る」といった「小さすぎる習慣」をいちいち確認することはいかにも無意味に思われるかもしれません。だれでも毎日、なかば無意識にやっていることですから。  しかし、じっさいやってみると、このToDoリストによる確認には意味があることがわかります。少なくともぼくにとっては大きな意味がありました。  アメリカの心理学者スキナーが提唱した「スモールステップの原理」のように、小さなステップで現状を改善していくことが大切なのだと思います。  弱小だったイギリスの自転車チームをツール・ド・フランス優勝にまで導いたといわれる1%の改善の積み重ね、「マージナル・ゲイン」も同じことですね。  わずかな積み重ねが「複利」でたまっていくと、信じられないような大きな効果に至ることがありえるということ。  これはぼくがバイブルにしている『ベイビーステップ』の主人公エーちゃんのやり方でもあります。  ひたすら目の前だけを見て少しずつ少しずつ成長していく。そのやり方はいかにもカメの歩みとも見えますが、その実、最速の成長をもたらすのです。  もちろん、その反対に最初に大きな目標を掲げてそこへ向け邁進する方法もあるでしょう。たとえば『ONE PIECE』のルフィのように。  まだ何者でもない頃に「海賊王のおれはなる!」と宣言し、少しずつその領域に近づいていくかれを見ていると、大きな夢を掲げることは素晴らしいことのように思われて来ます。  しかし、よくよく考えてみると、海賊王になることを目ざしているのはべつにルフィだけではないのですよね。  レースに参加する者はだれもが勝利を目ざしているわけで、大半の海賊が海賊王を目ざしているといっても良いはず。  ということは、その上で勝敗を分ける条件は「大きな夢を掲げているかどうか」ではないわけです。  勝利とか成功とは膨大な「スモールステップ」の実践によってたどり着くもの。そして初めに大きな夢を掲げるほど、「圧倒的な才能の違い」といったものに打ちのめされてしまいがちです(いわゆる「グレートネス・ギャップ」)。  最近、何らかの成功や達成のためには「グリット」というものごとをやり通す力が重要だといわれるようになりました。  その「グリット」を持続させるためにはやはり「スモールステップ」で成長することが必要なのではないでしょうか。  塊を小分けにしていくように課題を細かくしていくことを「チャンクダウン」といいますが、ある大きな問題を解決するためにはその「チャンクダウン」と「マージナル・ゲイン」が必要なのです。  そして、大切なのは「スモールステップ」を日常的に実践し「つづける」ことであり、そのためには「習慣化」が必要になる、と。  たぶん、この「習慣化」を「意志力」の問題であるかのように考えてしまうとうまくいかないのでしょうね。  その他にも色々と資料を読み耽ったのですが、「意志力」という概念は非常にあいまいです。  何度もいいますが、一見すると相対的に意思が強い人間、弱い人間はいるように思えるし、じっさいに遺伝的に強力な「実行機能」を持つ人がいることもわかっているらしいのですが、しかしそれがすべてではないことも「マシュマロ・テスト」などによってわかってきた事実なのです。  すべての鍵は「習慣化」にある。何もかも毎日の習慣によって決まってきます。  たしかに「知能指数」や「身体能力」にはそれぞれ大きな遺伝的な格差が存在するでしょう。すべての人が同じだけの潜在能力を持っていて、「才能」なんてものは存在しない、とはとてもいえそうにない。  ですが、その人のポテンシャルを限界まで引き出すのはやはり「実行機能」によるセルフコントロールの問題なのです。  また、そのポテンシャルそのものが行動によって変化する可能性があります。知能には成長の余地がなく、あらかじめ決まっているという考え方を「固定的知能観」というのに対し、知能にも変化と成長の余地があるという考え方を「拡張的知能観」といいます。  で、「拡張的知能観」で自分を捉える人のほうがより早く成長しやすいともいう話もあります。  ただ、そうやって成長することができても、自分を制御できなければ、どんなに成功しても最後には破滅が待っている。そのことは、スキャンダルで失敗した有名人などを見ていれば歴然としていることでしょう。  とはいえ、人間は自分を制御し切れないものでもあります。人間が必ずしも合理的な行動を選択するわけではないことは、行動経済学などでも語られている通りことですが、ぼくはそれは必ずしも悪いことではないと思う。  たしかに諸々の「依存症」のように、まったく自分をコントロールできなくなってしまうことは人生にとって大きなマイナスです。  ある程度は自分を制御して生きていく必要がある。それはたしか。  そして、そういう「実行機能強者」がより良い人生を歩みやすいことは「マシュマロ・テスト」の結果を見てもあきらかでしょう。  しかし、それでは人生において、そのような「成功」や「達成」がすべてなのかといえば、ぼくはそうは考えない。  およそ世間で流通している「成功哲学」や「自己啓発」は「自分をうまく制御して成功を目ざしましょう」と誘いかけてくるものですが、その価値観はどこか安っぽく薄っぺらいものがある。  仮に人生の「目標」がカネや地位というわかりやすい成功だとしても、人生の「目的」はカネでも地位でも名誉でもないとぼくは思います。  ルフィにしても、「海賊王になる」ことは「だれよりも自由に生きる」という目的にたどり着くための目標に過ぎないといっても良いはず。  「努力」と「成功」だけを良しとする価値観は、どうしても失敗した人に対する差別や蔑みにつながります。  けれど、人間は単なるプログラムに従って動くロボットではない。人間というあまりに複雑な存在の意志には、どうしても自分の力ではコントロールし切れないなぞの部分が残るはずです。  ぼくはそれを「魔が差す」という表現から採って、「魔(デーモン)」と呼んでいます。  京極夏彦の『魍魎の匣』では「魍魎」と呼ばれていましたが、同じような概念だと思います。  人の心にはつねになぞめいたデーモンが住んでいて、善にせよ、悪にせよ、思いもかけないようなことを囁きかけてくる。それが人間の奥深さではないでしょうか。  文学にしろ、哲学にしろ、このデーモンの存在を前提としているからこそ意味があるのであって、人間がただしゃにむに自己利益だけを目ざす存在でしかないのなら、そもそもそんなものは必要ないということになると思います。  ここからいまは亡き立川談志の「業の肯定」という落語論と、『文七元結』における「利他」と「贈与」の話につなげ、ジャック・アタリの「合理的利他主義」や、親鸞聖人の「自力」と「他力」を巡る話に持っていきたいのですが、さすがに長くなってきたのでまたあらためて語ることとします。  究極的には「良い人生(グッドライフ)」とは何か?というテーマに回帰する話題でしょう。  次はここら辺をプラトンとかニーチェとか『夜と霧』あたりを参照して語ることとしたいと思います。よろしくお願いします。では。 

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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