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『コードギアス』がうつ病の壁を乗り越えるとき。

 漫画家の田中圭一さんとブロガーのずんずんさんによる「うつ対談」を読みました。田中さんがうつ病の最中ですら楽しめたあるアニメについて語る下りが印象的です。 田中圭一(以下、田中) 感受性が鈍ってしまううつ期間は、コンテンツが好きな人にとってとてもつらい期間ですよね。 ずんずん ええ、それまであんなに毎日を充実させてくれていた映画やアニメを観ても、漫画や小説を読んでも、全然心を動かされなくて、本当に退屈でした。 田中 僕は、うつがひどい時期でも、かろうじて自分が一番好きなジャンルのものだけは、接していました。 ずんずん どのジャンルですか? 田中 僕の場合はアニメです。深夜アニメだけは、うつの時期も継続して観ていました。それも「観てる」っていうよりは、「頭に入れる」っていう感覚でしたけど。 でもそんな精神状態だったのに、「これは面白いな!」ってアニメが一つだけあって。 ずんずん それ、気になります! なんていうアニメですか? 田中 『コードギアス 反逆のルルーシュ』! https://cakes.mu/posts/12946  おお、『コードギアス』すげえ!  たしかにテレビシリーズは一期、二期ともとんでもない面白さだったものなあ。  テーマ性の深さとかは置いておくとしても、その純粋な展開の面白さは、過去に見たアニメのなかでも一、二を争うかも。  『亡国のアキト』も序盤は素晴らしかったのだけれど、ラストで失速しましたねえ。いやまあ、その話はいいのだけれど。  その一方で、ずんずんさんもうつの時期に自分を支えていたコンテンツについて語っています。 田中 ずんずんさんは、何か心の支えにしていたコンテンツはありました? ずんずん うつの時期は、「商業BLマンガ」を読むことだけが楽しみでした。BLはとても優しい世界なので、うつの自分を支えるために、週に2冊ずつ行きつけの書店で買っていたのですが、そうしたらなんと、その書店の商業BLコーナーが拡大したんですよ! 田中 なんと!(笑) ずんずん 引っ越してからその書店には行けなくなってしまったんですが、その後しばらくして、友達から「あの書店のBLコーナー、縮小したよ」っていう報告が入って(笑)。そのとき、自分が買い支えていたことに気づきました。  最後は笑い話になっていますが、なるほどなあ、とも思います。  ぼくにはBL作品が具体的にどう「優しい」のか分析する能力はないけれど、ここでいう「優しさ」とは、『コードギアス』のような「面白さ」とはまた違う概念だと思うのですね。  『コードギアス』は素晴らしく「面白い」作品だけれど、狭い意味で「優しい」かというとそうではないと思う。  ひとは次々と死ぬし。裏切りと謀略と野心の物語だし。  一般的にいって、「面白い」物語って、必ずしもココロに優しくないと思うのですよ。  その一方でただキャラクターがいちゃいちゃしているだけみたいな物語の脚本としてはどうなんだ?といった作品は、とてもココロに優しいところがある。それはわかる。  ほんとうにココロが疲れているときは、そういう「優しい」作品しか受けつけないということもほんとうかもしれない。  疲弊した胃がおかゆしか受けつけないようなものですね。  おそらく、BL作品の「優しさ」はそれに留まらないものがあるのだろうけれど。  まあ、もちろんそうかといって「優しい」作品ばかりになって、「面白い」作品がなくなっても困るところではあるでしょう。  やっぱり「優しい」作品と「面白い」作品、両方が必要だと思うのですよね。  現代は、非常にまったりと「優しい」作品が増えた時代だという印象があります。  それだけ疲れている人が増えたということなのかもしれませんが、萌え四コマの単行本を読むことだけが人生の楽しみ、といったサラリーマンはいまどきめずらしくもないでしょう。  そういう人たちは、より一般的な意味で「面白い」作品をもう受けつけなくなっているのかもしれません。波乱万丈は現実だけで十分だ、と思っている可能性もある。  そういう人たちにとって、ドラマティックな意味で「面白い」作品は「救い」にはならないのでしょう。  しかし、その一方で、突き抜けた「面白さ」は、ある種の「癒やし」になりえることもほんとうなんですよね。  作家の夢枕獏さんが、ただ 

『コードギアス』がうつ病の壁を乗り越えるとき。

裁きより赦しを。正しさより優しさを。

 『ヴィンランド・サガ』がここに来て面白い。  覇王クヌートとの和解を描いた第13巻以降、いまひとつ緊迫感に欠ける展開が続いていたと思うのだけれど、ついに新展開、新天地を目ざすトルフィンたちにさまざまな苦難が襲いかかる。  そのなかでも主軸となるのは「復讐」の話である。  かつて殺人鬼としてたくさんの人を殺めてきたトルフィンが復讐者と出逢う。  正義は彼女にあり、しかし黙って殺されるわけにはいかない。その矛盾した状況での葛藤が興味深い。  テーマがテーマだけに当然ながら重々しい展開になるのだけれど、それも含めての『ヴィンランド・サガ』である。今後の物語に期待したい。  それにしても、こういう状況になると、ぼくがどんな物語を求めているのかわかる気がする。  ぼくは物語に「正しいこと」を求めてはいない。  大上段にかまえて何かしらの正義を押しつけてほしいと思っているわけではないのだ。  むしろ、物語そのものが何らかの矛盾に引き裂かれ、身もだえしながらなんとか「答え」を産み落とそうとしているとき、初めてその作品を面白いと感じる気がする。  初めからわかりきっている「正解」を押し付けてくるだけの物語はつまり「お説教」である。  それは偉いお説教かもしれないが、上から目線であることを免れない。  ぼくはそういうものを読んでいて面白いとは思わない。  つまり、一般論としての「正しいお説教」は退屈なのだ。  そうではなく、その作者自身が自分の実感として信じている「答え」を見せてほしいと思う。  それがたとえ、一般論として「間違えている」といわれかねないものであるとしてもである。  たとえば、異性の描き方などに作家の「偏見」が表れることはよくあることだ。  あまりに保守的に描きすぎてしまったり、その反対に非現実的なまでに奔放だったり。  しかし、ぼくはそれでもいいのではないかと思うのだ。  作者の抱いている偏見が表に出るのは、その作家が自分を隠そうとしていないからである。  そもそも創作を手がけさえしなければその作家の偏見は一切だれにも知られることもなかったはずなのだ。  それなのに、あえて自分の偏見を晒して世に問おうという人物は勇気があるとぼくは思う。  それを無条件に「正しい」読者の立場から非難することは容易である。  だが、あなたは自分自身が一切の「偏見」に汚れていない、まったくの無謬であるといい切ることができるだろうか。  そうでないとすれば、その作家に石を投げる前に躊躇を感じてほしいところだ。  べつだん、 

裁きより赦しを。正しさより優しさを。
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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