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自分という人間がよくわからない。

 えー、月末近くで会員が減っていく時期なのですが、読者の需要を無視して自分語りをしたいと思います。  書きたいことを書きたいように書いていないと続かないですからね。  ぼくはよく自分という人間について考えます。自分とはどういう人間だろう、と。  するとすぐに答えが出ます。「よくわからん」と(笑)。  これは自分のことだからわからないという側面もあるでしょうが、客観的に見ても相当よくわからない人間なんじゃないかなーと思います。  もしかしたらぼくのまわりにいる人たちはぼくよりもぼくのことを理解しているかもしれませんが、ぼく自身はぼくのことをよくわからないなーと思っています。  ぼくの最も親しい他者である母なども「お前はよくわからない」といいます。  そうだろうな、と思うのですよ。ぼく自身がさっぱりわからないのだから。  もとより、人間なんてよくわからないものではあります。  ひとのことを理解できたと感じたとき、それはほとんど錯覚です。  でも、そのなかでもぼくは割合にわかりづらいほうに入っていると思うのです。  あるいはだれしも自分についてはそう思うのかもしれませんが。  ぼくが自分の性格を「よくわからん」というのは、人格に整合性が取れていないように思えるからです。  ぼくという人間はどこか矛盾している気がしてなりません。どこかでねじ曲がっているような……。  いや、これもすべての人がそういう側面を持っていることではあるでしょうが、ぼくはたぶんそのねじ曲がり具合がわりと大きいほうだと思う。  なので、自分で分析しきれない。  具体的にいうと、ぼくは我が強いのか弱いのかわからないなあ、と思います。  この場合の我が強いとは自分自身に対しどのくらいプライドを持っているか、ということに近い概念です。  基本的には頭がいい人ほど我が強く、自己主張もまた激しいとぼくは考えています。  で、その考え方でいくと、ぼくはあきらかに我が弱い人ということになると思うのですね。  そもそもあまり頭は良くないですし、主張するべき「自己」というものがいかにもあいまいですから。  そして、それでは肉体的な人間かというとそうでもないわけで、ぼくは空っぽな奴だなーと思います。  何をしたいとか、何が欲しいとかいうこともありないですしね。  この認識にはもうひとつ論拠があります。  以前にも書いたことがありますが、 

自分という人間がよくわからない。

「妬み」という甘美な麻薬。

 「妬み」の話をもう少し続けたいと思います。  ひとは他人を妬んで蹴落とそうとするもの、ということはわかるのですが、どうもぼくはここらへんのことが実感できない。  ペトロニウスさんではないですが、ひとを妬んでいる暇があったら自分が幸せになることに時間を使えばいいのに、と思うのです。  だから、ぼくは嫉妬の落とし穴に陥って人生を台無しにしてゆくひとにはとても冷たいところがあります。  自分のなかにない心理だから、共感がまったくないのですね。  世の中には変わったひともいるものだなあ、くらいの思いしかない。  そういう意味では、ぼくはまったく非情な奴だと思う。  ただ、本質的に「妬み」の苦しみは他人がどうしてやることもできない性質のものだと思うのですよ。  自分でどうにかして処理して行かなければならない。  その感情を他人に向けつづける限り、ひとは成長することも幸福に自己実現することもできません。  それでは、「妬み」とは何か?  ぼくはこういうふうに考えています。  ある人がいて、何らかの点で自分を上回っている。その人の近くにいると、劣等感で苦しい。そういうときに、どうすればいいか? そのような問題だと。  この問いに対するアンサーはふたつ考えられます。 1)自分が努力してその人より上へ行く。  そしてもうひとつ、 2)その人をいまいるところからひきずり下ろす。  という選択肢もあるわけなのですね。  この「2」は必ずしもその人を罠に嵌めるとかそういうことばかりを指すわけではありません。  自分の頭のなかでその人の存在を貶める、あるいは周囲とのやり取りのなかでその人の価値を低く捉える、そういうことも「2」に入ります。  つまり、「あんな奴はバカだ」といってみたりとか、集団で「あいつってクズだよな」と話してすっきりする、といったことも「2」のうちに入るわけです。  よく、ある人に粘着して攻撃しつづけるひとが「それは嫉妬なのでは?」と指摘されると、「あんなくだらない奴に嫉妬したりするはずないだろ」というようにいい返すところを見かけます。  しかし、その人を「くだらない奴」と捉えることそのものが、既にして嫉妬の表れであるということもありえるわけです。  自分のなかでその人を過小評価しなければ耐えられないほど、その人の存在に脅威を感じているということなのですから。  ひとは、だれより下だとかだれより上だといった他愛ない比較の問題からなかなか自由になれないものです。  やれ一流大学を出たの、大手企業に入ったのということをとても自慢に思う人は少なくないですし、それができない人間を低く見るひともしばしばいます。  「ひとを正当に、等身大に評価できる」ということは、それじたいひとつの才能であって、だれにでもできることではないのです。  ひとをありのままに評価できるためには、虚心坦懐でいる必要があり、それはだれにでも到れる心理ではないですからね……。  ネット上で有名人が口汚くののしられることが多いのは、やはり嫉妬が原因でしょう。 

「妬み」という甘美な麻薬。
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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