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ウェブ小説にオリジナリティはあるか。

 ペトロニウスさんの最新記事が例によって面白いです。 http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20160402/p1  長い記事なので、いちいち引用したりはしませんが、つまりはウェブ小説は多様性がないからダメだ!という意見に対する反論ですね。  ペトロニウスさんは「OS」と「アプリ」という表現で事態を説明しようとしています。  つまり、物語作品には「物語のオペレーションシステム」ともいうべき根本的なパターンがある一方で、その「OS」を利用した「物語のアプリケーション」に相当する作品がある。  そして、新たに「OS」を作り出すような作品は少なく、「アプリ」にあたる作品は数多い、ということだと思います。  この場合、「OS」にあたるパターンを作り出した作品は「偉大なる元祖」と呼ばれることになります。  ペトロニウスさんはトールキンの『指輪物語』やラヴクラフトの神話体系がそれにあたるとしているようですが、ほかにも、たとえば本格ミステリにおけるエドガー・アラン・ポーやコナン・ドイル、モダンホラーにおけるスティーヴン・キング、SFにおけるH・G・ウェルズやジュール・ヴェルヌといった存在が「OSクリエイター」にあたるでしょう。  オタク系でいえば『機動戦士ガンダム』は「リアルロボットもの」というジャンルを作りましたし、『魔法使いサリー』は「魔法少女もの」の嚆矢となっています。  最近の作品ではVRデスゲームものにおける『ソードアート・オンライン』、日常系萌え四コマにおける『あずまんが大王』などはまさにOS的な作品ということができるでしょう。  これらの作品のあとには、まさに無数のアプリ的な作品が続いているわけです。  こういった「OSクリエイター」はまさにあるジャンルそのものを作り上げた天才たちであり、その存在は歴史上に燦然と輝くものがあります。  しかし、逆にいえば、このレベルの業績はそう簡単に挙げられるものではない。  ある種の天才と幸運と時代状況がそろって初めて「ジャンルを作り出す」という偉業が成し遂げられることになるわけです。  また、こういった「OS的作品」にしても、100%完全なオリジナルというわけではない。それ以前の作品にいくらかは影響を受けているわけです。  さかのぼれるまでさかのぼれば、それこそ聖書や神話といったところに行きつくことでしょう。  その意味では、この世に新しい物語とかオリジナルな作品は存在しない、ということができると思います。  つまりは単に「OS的な作品」はその存在の巨大さによって模倣される割合が相対的に高いというだけのことなのです。  ある意味では、それ以上さかのぼれない「究極のOS」は人類文明発祥時期の古代にのみ存在し、それ以降のOSは「OS的なアプリ」に過ぎないといういい方もできるでしょう。  あるいは、神話や聖書の物語こそが「究極の一次創作」なのであって、それ以降の作品はすべて二次創作的なポジションにあるといえるかもしれません。  いや、おそらくはこのいい方も正確ではないでしょう。  ようするに人間が考えること、あるいは少なくとも人間が快楽を感じる物語類型は似たり寄ったりだということです。  古代の作品、たとえば『イリアス』がオリジナルのOSであるように感じられるのは、たまたまその発表時期が古いからであって、必ずしものちの作品が直接に『イリアス』を模倣しているわけではありません。  人間は放っておけば似たようなことを考え出し、発表するものなのです。  ただ、何かしらOSにあたる作品があればそれは模倣され、「影響の連鎖」がより見えやすくなるというだけです。  もちろん、OSとアプリの差はわずかなもので、アプリにあたる作品もまた模倣されます。  神話のような原始的な物語を一次創作とし、OSにあたる作品を二次創作、アプリにあたる作品を三次創作とするなら、それをさらに模倣した作品は四次創作とか五次創作と呼ばれるべきでしょう。  具体的な例を挙げるなら、謎解き物語の嚆矢であるところの『オイディプス王』を一次創作とするなら、そこから近代的な本格ミステリを生み出したポーの「モルグ街の殺人」は二次創作、それを模倣した本格ミステリの作品群、たとえばアガサ・クリスティやエラリー・クイーンの作品は三次創作、そこから影響を受けた日本の新本格は四次創作、それを破壊しようとした若手作家による「脱本格」は五次創作、ということになるでしょうか。  まあ、じっさいにはこれほどわかりやすく「×次」と名づけることができないのは当然のことです。これはすべてあえていうなら、ということになります。  こういった「模倣の連鎖」が良いことなのか? もっとオリジナリティを重視するべきではないのか? そういう意見もありえるでしょうが、それはほとんど意味がありません。  こういう「影響と模倣の系譜」をこそひとは「文化」と呼ぶからです。  ある意味では地上のすべての創作作品がこの「影響と模倣の一大地図」のどこかに位置を占めているということになります。  その意味では純粋なオリジナルとは幻想であり、新しい作品などこの世にありません。  オーソン・スコット・カードの「無伴奏ソナタ」ではありませんが、比類を絶した天才を人類文明とまったく無縁のところに閉じ込めて一から創作させたなら、あるいはまったく新しいOS的作品を生み出すことができるでしょうか。  いいえ、決してそんなことにはならないでしょう。  なぜなら、先にも述べたように、人間は放っておけば似たような物語を生み出すからです。  いい換えるなら、人間の脳こそが「究極のOS」なのであって、そこから生み出される物語は神話であれ聖書であれ、アプリにしか過ぎないということになります。  たとえば『ドラゴンクエスト』は多くの模倣作品を生み出したという意味で「OS的作品」であるといえます。  しかし、『ドラクエ』が究極のOSなのかといえばそんなことはなく、それもたとえば『Wizardly』やスペンサーの『妖精の女王』といった先行作品の影響を受けているのです。  その意味では、オリジナルかどうかを問うことにはまったく意味がない。どんな作品もどこかしら他作品の影響を受けているに違いないのですから。  シェイクスピアが同時代のほかの作家の作品を模倣して新作を生み出していたことは有名です。  偉大なシェイクスピアですらそうなのですから、この世に新しいOSなどありようもないということはできるでしょう。  ただ、だからといってオリジナルさになんの価値もないかといえば、そんなことはないでしょう。  ペトロニウスさんが書いているように、ようは程度問題なのです。  完全なオリジナルなどというものがありえるはずもないけれど、だからといって一字一句までコピペしただけの作品が許されるわけでもない。  ある程度はコピーであることを受け入れた上で、何かしらのオリジナルさを追求することが、現実的な意味での創作活動ということになるでしょう。  それでは、その「オリジナルさ」とは何か。  これは、『ヱヴァ』の庵野秀明監督が20年前に答えを出しています。すなわち、「その人がその人であること」そのものがオリジナルなのだと。  『新世紀エヴァンゲリオン』は『ウルトラマン』や『ガンダム』、『マジンガーZ』、『宇宙戦艦ヤマト』といった先行作品の模倣にあふれた作品です。  その意味で、まったく新しくないアニメだとはいえる。  しかし、同時に『エヴァ』ほど個性的な作品はめったにないことでしょう。  さまざまな設定やシチュエーションが先行作品からのコピーであるからこそ、庵野監督独自の個性がひき立つのです。  これについては、『東のエデン』の神山健二監督が述べていたことが思い出されます。  神山監督は、既に押井守監督による傑作劇場映画が存在する『攻殻機動隊』というコンテンツをテレビアニメ化するというオファーを受けたときに、あえて押井監督と同じものを目指したのだそうです。  普通、クリエイターならまったくだれも見たことがない『攻殻』を、と考えることでしょう。  しかし、神山さんは意識して先行作品を模倣した。その結果として、逆に押井さんと違うところ、つまり神山さんだけの個性が浮かび上がったというのです。  この話はきわめて示唆的です。  つまり、同じようなシチュエーションを活用したとしても、まったく個性がない作品が出て来るとは限らないということ。  むしろ、才能あるクリエイターであれば、同じようなシチュエーションを設定すればするほど、その人だけの個性が浮かび上がるものだということです。  これは、同じようなシチュエーションを多用するジャンルフィクションがなぜ面白いのか、という問いへのアンサーでもあります。  ある前提条件を徹底してコピーすればするほど、作品のオリジナリティは際立つ。少なくとも才能ある作家ならそうなるのです。  美術史では聖書や神話など同じ題材を使用した作品が多数あります。  ですが、同じ題材を使っていてもクリムトとピカソではまったく表現が違う。  むしろ同じ題材を使うからこそわかりやすくその差異が際立つわけです。  これが「ジャンル」というもの、「文化」というものの面白さです。  しかし、それならば、なぜ「ウェブ小説はオリジナリティに欠けている」といった批判が寄せられるのか。 

ウェブ小説にオリジナリティはあるか。

物語づくりとは、ただ情報を整理するだけの作業ではない。

 うー、昼間寝まくってしまったおかげで夜になっても眠れない。  完全な昼夜逆転状態で、ちょっと困ったものなのだけれど、まあいくら嘆いても眠くはならないので記事を更新しましょう。  先月、先々月とあまりに記事数が少なかったので、今月はちょっと真面目に更新したいと思います。  さて、前の記事で『鉄血のオルフェンズ』のシナリオについていくつか注文めいたことを書きましたが、じっさいの話、どう直せば良くなるのかということはよくわからないんですよね。  それがわかったらぼく自身が作家か脚本家になっているわけで、しょせん外野から文句を垂れているに過ぎないわけです。  ここらへん、いつも非常に申し訳なく思ってはいるのですが、だからといって沈黙するわけにもいかないので、あくまでアマチュアの戯言とでも思って読んでいただければいいかと。  まあ、こうしてお金をもらっている以上、ぼくも何かのプロではあるのでしょうが、でも、創作のプロじゃないものね。  閑話休題。  さて、ひとが何か物語を作るとき、必然的に「何を」「どのように」語るのか、という問題が発生します。  何を語るのかはそれぞれの作家がそれぞれの意図で選ばなければならないところであるわけですが、いまぼくが注目したのは「どのように」語るのか、という問題です。  一般的にいって、同じ物語を語るにしても、より効率的に語れたほうが良いと考えられるわけです。  したがって、小説であれアニメであれ映画であれ、作家は意図して物語を「構成」する必要があり、その物語を構成する力量を「構成力」といいます。  構成力にはどうやら年齢的なピークがあり、歳を取るとタイトな物語を紡ぐことはむずかしくなって来るということは以前書きました。  しかし、ここではとりあえず、そもそも良い構成とはどのようなものか、ということを書きたいと思います。  あとまあ、世の中には初めから終わりまで完成した物語がひと塊で降りて来るという天才もいるらしいですが、そういう化け物のことを話しても仕方ないので、とりあえず一般常識の範疇で話しましょう。  良い構成とは何か。ごく常識的に考えると、それは無駄のない構成のことだといえるでしょう。  物語とは、つまりひとつながりの連続した情報のことです。  したがって、それらの情報をなるべく整然と語っている作品が良い物語であるということができます。  『鉄血のオルフェンズ』を例に取るとわかりやすくなると思うのですが、このとき、この物語にはどうしても果たしておかなければならない使命(ミッション)がいくつかあります。  たとえば物語の背景世界がどうなっていて、主人公たちがいまどういう状況に置かれているのかをさりげなく説明すること、主人公たちを巻き込む戦闘を起こして最後に主役ロボット・ガンダムを動かすこと、などが挙げられるでしょう。  これらのミッションをどう合理的にクリアするのかということが作家に与えられた課題です。  下手に並べるとエピソードとエピソードがうまく繋がらず、無駄が発生してしまう。  どうやってきれいにエピソードを並べたら良いのか、まさに腕が問われるところです。  これはエモーションというよりはロジックのレベルの問題なので、やはり歳を取るとなかなかうまくこなすことができなくなる気がします。  歳を取っても良い物語を書いている作家はよほど自分をきびしく律しているのでしょうね。偉いものです。  さて、ここで注意しなければならないのは、ただ整然と情報を並べられればそれでいいというものではないということです。  ただ 

物語づくりとは、ただ情報を整理するだけの作業ではない。

話題の新作ガンダム『鉄血のオルフェンズ』、第1話は少々駆け足の印象。

 いまの時代、ロボットアニメといえば何はなくとも『ガンダム』、というわけで、『機動戦士ガンダム』シリーズの最新作『鉄血のオルフェンズ』第1話を観ました。  テレビでは見逃してしまったのでiOSアプリ「ガンダムファンクラブ」を落としてそこから動画を見たという次第。  いやあ、便利な時代になったものです。  まあ、いくら見逃し作品を後追いできるようになったとはいっても、作品そのものが面白くなければどうしようもないわけですが。そこらへん、『鉄血のオルフェンズ』はどうなのか?  うん、まあ、なかなかじゃないですか(偉そう)。  物語が始まる舞台はどうやら地球の植民地と化しているらしい火星。  詳しい説明はありませんが、テラ・フォーミング後数百年とか経っていそうな印象で、普通に人々が生活しています。  もっとも、例によって生活環境は劣悪であるらしく、主人公と思しい少年たちは奴隷のようにこき使われています。  人権などまったくないといっていい奴隷労働状態。  かれらがこの劣悪な状況からどうやって抜け出していくのか、あるいはさらなる絶望が待ち受けているのか、なかなか興味をそそる展開です。  ちょっとメキシコ独立革命か何かを思い起こさせる舞台設定で、これから『怪傑ガンダム』、じゃない地球圏からの独立戦争の物語が展開していくのだと思われます。  おっさん的にはなつかしの『ヴィナス戦記』とか思い出させる初期設定ですね。  ふっるいなー。ぼくは見ていないけれど、『アルドノア・ゼロ』とかもそういう話だったんですかね(ほんとうに知らない)。  なぜいまの時代にこの設定を持ってきたのかということは第1話ではよくわからない。追々わかってくるのだと思います。  まあ、地球からの独立戦争というテーマを設定した時点で泥臭くなってくるのは仕方ないところで、あまり美少年らしい美少年も登場しない、わりあいに地味な『ガンダム』になっています。  もっともそれだけにガンダムの美しさが映えるということもいえるので、この段階では一概に良いとも悪いともいえませんが……。  おそらく敵役として活躍するであろう地球の守護者「ギャラルホルン」の側は美形キャラがぞろぞろ出て来てほしいところではありますが、さて、どうなるやら。  うん、まあ、スタートダッシュの第1話としてはまあこんなものかな、と思いますよ(やっぱり偉そうだな)。  悪くない。続きも見てみたいと思います。  ただ、あえていうならいろいろな説明を容赦なく織り込んでいるせいでシナリオが駆け足になっているところは否定できないでしょう。  今回、脚本はぼくらの岡田『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』麿里さんが努めていて、監督も『あの花』の長井龍雪さんらしいのですが、いやー、第1話に相当詰め込んできたなって感じ。  マクロ的な状況説明からミクロ的な心情描写まで詰め込んで、ともかくも成立させているあたりはなかなかに見事なシナリオではあるんだろうけれど、その代償としてひとつひとつのエピソードに「ため」がなく、軽い印象になっていることはどうにも否めない。  ロボットアニメの、というか『ガンダム』を題するタイトルの第1話である以上、ラストまでにガンダムが動き出さなければならないというミッションを背負っているわけで、脚本に「枷」があることは仕方ない。  その上でどう情報を処理し、見せるべきものを見せるかというところが芸の見せどころであるわけですが、その点でいうと今回の物語はもう少し、というところ。  いや、もちろんわかるんですけれどね。ラストのガンダム出陣を際立たせるために戦争の絶望を描いておきたかったということは。  ただ、その展開がいかんせん駆け足になってしまっている。  これ、『ファイブスター物語』の第7巻から第8巻あたり(リブートの第5巻あたり)の展開そのまんまの脚本意図なんですよね。  地上で兵士たちが互角の戦いをやっていて、そこへ超存在であるロボットが登場して絶望を植え付けて、しかしそこに味方ロボットが出て来てさらに逆転する、という、戦闘ロボットの花やかさ、格好良さを段階的に演出するシナリオ。  ただ 

話題の新作ガンダム『鉄血のオルフェンズ』、第1話は少々駆け足の印象。

いま、『機動戦士ガンダム』を映像にする意義とは何か。

 アニメ『機動戦士ガンダム THE ORIGIN(1)青い瞳のキャスバル』を見ました。ぼくはバンダイチャンネルでダウンロードして見たんだけれど、プレイステーションストアなどでも視聴できるもよう。もしくは、全国13館の映画館でも劇場公開しているとか。  もちろん、どの方法で見るにしても内容に変わりはないわけですが、可能ならぼくも劇場で見てみたかったですね。いや、じっさいよく出来たアニメで、面白いんだ、これが。  初放送から実に30年以上も経っている『機動戦士ガンダム』をいまによみがえらせることにどれほどの意味があるのか? その疑問は当然消えないのだけれど、じっさいに見てみるとこれはこれでありかな、と思えて来ました。  アニメ『ガンダム』の漫画化作品である『THE ORIGIN』をアニメ化するというのは、何とも倒錯した関係という気もしなくはないのですが、今回アニメになるのは漫画のオリジナルエピソードばかりのようですから、あるいはいまアニメにする意義も大きいのかもしれません。  安彦良和の絵がそのまま動いている様子を見られるだけでも値段分のバリューはあるかと。  その世界や物語は『ガンダム』であるには違いないのだけれど、そこはやはりいまの技術で作られていますから、その迫力は現代のアニメーションのそれです。  何よりやっぱり『ガンダム』という作品の普遍性は強烈なんですよね。作品のSF的な側面はいまではもう古びてしまっているものの、ドラマの側面はさすがにいまなお通用するものを秘めている。  いや、ただ通用するという次元を超えて、十分に魅力的であり、強烈にひとを惹きつけるものがあります。これはもう、現代の古典として通用するくらいの魅力を備えているといってもいいのではないでしょうか。  『モンテ・クリスト伯』とか『レ・ミゼラブル』とか、そういうクラシックに匹敵する設定の妙があると思う。  そもそもアムロとシャアというふたりのキャラクターの思想的対立軸が――というような話を始めると長い話になってしまうわけですが、まあ、そういうことを語らなくても、一本のエンターテインメントしてとんでもなく面白い物語設定があると考えます。  今回の話でいうなら、何といってもシャア・アズナブル、あるいはキャスバル・レム・ダイクンというキャラクターが秀逸です。 (ここまで967文字/ここから1557文字) 

いま、『機動戦士ガンダム』を映像にする意義とは何か。
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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