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騙されても、裏切られても、傷つけられても、まっすぐ光の差すほうへ歩いていこう。

 「幸せ」のことを考えている。  幸せになるとはどういうことか、そして、幸せでありつづけたいならどういうことをすればいいのか。  答えは明瞭ではありえないが、幸せになるためにはいくばくかの勇気と、そして素直さが必要であるという考えは揺るがない。  勇気については、すでに語った。素直さとはどういうことか。  つまり、自分が幸せになりたいと思っていると素直に認めることが大切だと思うのだ。  そうでなければ、幸せになるためにはああすればいい、こうすればいいと教示されたところで、皮肉にほほ笑んでこう呟くばかりだろう。「そんなことで幸せになれるなら苦労はしないさ」。  しかし、幸福とはどこか遠くにあるものとは限らない、心のありようひとつでいかようにも変われるものなのだ。  それなのに「自分は決して幸せになれない」と考える人は、むしろ「不幸である自分」に何かしらの価値を見いだしている可能性がある。  そうやって、素直になれない限り、幸せに手が届くはずもない。ひとは光の差すほうへ歩いて行くべきなのだ。  と、こう書いていて思い出されるのは、北村薫の小説『朝霧』に出て来るこんなセリフだ。 「いいかい、君、好きになるなら、一流の人物を好きになりなさい。──それから、これは、いかにも爺さんらしいいい方かもしれんが、本当にいいものはね、やはり太陽の方を向いているんだと思うよ」  「本当にいいものは太陽の方を向いている」。  十数年前、初めてこの小説を読んだときは「ほんとうにそうだろうか」と疑問に感じたものだが、いまならいくらかはわかるように思う。  「本当にいいもの」には、無明の闇のなかでなお光を目ざすような向日性がある。  それは決してただ明るい光が燦々と照らすなかで生まれ育っているということではない。  むしろ、絶望の闇のなかでこそ、それでも光を目ざすことができるかどうかが試されるのだ。  たしかに、闇や悪や狂気といったものの深遠な魅力にくらべ、光には素朴なところしかないようにも思える。  しかし、そうではない、光の道の奥深さは、それを歩いてみて初めてわかるもの、ナウシカもいっているではないか。「いのちは闇の中のまたたく光だ」と。  もちろん、 

騙されても、裏切られても、傷つけられても、まっすぐ光の差すほうへ歩いていこう。

ナウシカの凝視、一の瀬はじめの多動、視線が物語るキャラクターの個性とは。(2314文字)

 きょうもきょうとて『ガッチャマンクラウズ』を布教しますよ!  これ、時代を代表する一本になる可能性があると思うので、悪いことは云わないから押さえておくと吉。  『まおゆう』がまさにそうであったように、文脈にそって物語を展開しながら、議論を一歩先へ進ませる革新的傑作と云えるかもしれません。  くわしくは前の記事に書きましたが、ここまででまだ話は半分なんだよね。のこりの6話でどういう結論を下してくれるのか、楽しみすぎます。  さて、作品のバックグラウンドのコンテクストについてはすでに書いたので、今回は萌え萌えなキャラクター語りでもしましょう。  いまのところ、この作品には、実質的にふたりの主人公がいるように思えます。  ひとりはガッチャマンの新人隊員にして女子高生の一の瀬はじめ。  もうひとりは二億人の会員を持つソーシャルネットワークサービス「GALAX」を運営する天才少年、爾乃美家累。  かれらはそれぞれヒーロー(個人)とクラウズ(群衆)を代表するキャラクターであるとも云えます。  で、性格的にも正反対。どこまでもシリアスに思いつめる累に対して、はじめちゃんはおおらかでいいかげんです。  いわば累がシリアスキャラクターだとしたら、はじめちゃんはコメディキャラクター。そういうふうに見える。  しかもふたりとも文脈的に最先端を行っている。どちらが主人公かと云えばはじめちゃんなんでしょうが、役割的には彼女のひきたて役とも云える累にしてからが、異星人ベルク・カッツェから与えられた超能力「クラウズ」をなるべく使わないようにしているという賢さ。  つまりは「チート能力では世界を救えない!」とわかっているわけです。  仮にかれにデスノートやギアスを与えたとしてもそれを使わずに世界をアップデートしようとするでしょう。  ここらへん、文脈的にゼロ年代の『DEATH NOTE』や『コードギアス』から確実に一歩進んでいます。  でも、それすら「正解」ではない。ここらへんが『ガッチャマンクラウズ』の凄まじいところなんだけれど、すでにその気高い理想の限界まではっきりと認識されているんですね。  ヒーローだけでは限界があるけれど、同様にクラウズ(群衆)による「アップデート」にも無理があるということ。  ここは確実にテーマが先へ先へと進んでいることがわかって興味深いです。  ところで、『ガッチャマンクラウズ』の感想を見ていたら某所ではじめちゃんが巨乳のアホの子呼ばわりされていて愕然。  そうか、そういうふうに見えるのか……。いや、はじめちゃん、めちゃくちゃ頭いいと思うんですが。  純粋な思考計算速度なら天才少年の累のほうが上なんだろうけれど、はじめちゃんは直感的に正解にたどり着ける別種の天才なんですよ。  ただその思考のプロセスが他者には認識できないくらい速い上に言語化されないから、その場の思いつきで行動しているように見えるだけ。  「非言語的思考直感タイプ」の天才ですね。  しかもはじめちゃん、累とは対照的に、性格が全然真面目じゃない!  あまり先のことは考えていない。しかし、その場その場で一瞬で「正解」にたどり着くだけのインテリジェンスを持っているからそれで問題ないのです。  ある大事故に遭遇したとき、ほかのひとがケータイにつないで「答え」を求めようとしているなか、彼女だけが一瞬で行動に移っている場面は象徴的です。  「精神の偉大さは苦悩の深さによって決まるのか? 『風の谷のナウシカ』に感じたささやかな疑問。」(http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar314125)でも書きましたが、真面目人間には自ずから限界があります。  もちろん真面目な性格にも良い所はあるんだけれど、欠点も付きまとうものなんですね。  その上、きわだって頭が良いともう非常に苦しいことになる。  累を見ていればわかるように、「いま、ここ」から遠い袋小路まで思考を重ねてたどり着いてかってに絶望してしまうのです。  これが真面目人間の病理です。ほんとうにメンタルが強ければその限界すら突破できるだろうけれど、累きゅん、あんまり心が強くないみたいですよね……。  一方、はじめちゃんはあまり先のことは考えず、常に「いま、ここ」に立ち戻ってアクションします。  たぶん一般的な意味では累のほうが頭がいいんだろうけれど、はじめちゃんのほうが地に足がついている。だから彼女は常に正解にたどり着ける。  この文脈ではいままでほとんど出てこなかったタイプのキャラクターですね。  人間に過剰な期待を持たないから絶望もしない。そうかといって冷めているわけでもなく、やるべきことを淡々とこなしていく。非常にバランスがとれた主人公。  でも不真面目(笑)。だからこそ素晴らしい。  たとえばナウシカを初めとする宮崎駿キャラクターの、あの印象的な「まっすぐ前を見つめる視線」は、真面目キャラクターの特徴です。  じっと相手を見つめる観察の視線! それに対し、はじめちゃんは常に興味の対象が変わりつづけているので、ほとんどまっすぐ相手を見ません。  しょっちゅうきょろきょろとしているわけですね。でも、どっちの視野が広いかと云えば、これははじめちゃんのほうなんじゃないかと思うんですよ。  

ナウシカの凝視、一の瀬はじめの多動、視線が物語るキャラクターの個性とは。(2314文字)

精神の偉大さは苦悩の深さによって決まるのか? 『風の谷のナウシカ』に感じたささやかな疑問。(2046文字)

 先日、新宿の漫画喫茶の一室に友人たちとこもって漫画を読みあさって来たのですが、その際、『風の谷のナウシカ』の話になりました。  いうまでもなく戦後漫画の金字塔、天才監督宮崎駿による唯一の長編漫画作品であるわけですが、その最終巻に「精神の偉大さは苦悩の深さによって決まる」というひとことがあります。  このセリフにてれびん(@terebinn)が言及して始まった話が面白かったので、きょうはその話。  てれびんはどうもこのセリフに違和感を感じる、気に喰わないものがあると云うのですね。お前はこの大名作に何をケチを付けているんだという話であるわけですが、聞くと奴の話にも一理ある。  つまりてれびんが云うには、人間にはそんなに苦悩しないタイプのひともいる。そういう呑気なタイプのキャラクターが出てこないと、作品世界が狭く感じるということのようでした(要約)。  これはたしかにそうかもしれない。ぼくはシリアスに苦悩するタイプの作品が好きで、そういう作品をこそ高く評価しがちなのだけれど、その種の苦悩だけを偉大なものとして賛美し、特に苦しくない人生を一段下のものとしてみることは、たしかに問題がある気がする。  当然、苦しみを通じて偉大な精神を育んでいくひとはいるだろうけれど、それは「そういうひともいるよね」というレベルの話であって、普遍の法則ではないんですね。  「精神の偉大さは苦悩の深さによって決まる」ということは、つまりは苦しまなければ偉大になれないということを意味しているわけで、「そんなこともないんじゃないの?」という意見はあって当然だと思う。  毎日をあかるく楽しく過ごしている偉人だっていないわけではないでしょう。  もちろん、人生は楽しいことばかりではない。生きていれば必ず苦しいことにも出逢う。しかし、それは「だから苦しまなければならないのだ」ということとは違う。  仮にどこかで落とし穴が待ち受けているとしても、それに落ちるまでにはのんびりと暮らしている人間だっているはずだ――てれびんの理屈をかってに解釈するなら、そういうことになるでしょうか。  まあ、それはたしかにそうだよなあ、と思いますね。  われらが風の谷のナウシカさんはとほうもなく真面目なひとで、真面目に考え、真面目に悩み、真面目に苦しんで偉大なひととなっていくわけですが、それではそういう真面目な生き方だけが唯一の生存戦略なのかと云えば、決してそんなことはないわけです。  世の中には徹底的に不真面目な人間もいて、日々をいいかげんに過ごしていたりするんですね。  おそらく宮崎駿自身がとんでもなく真面目なひとで、だからこそナウシカみたいなキャラクターを生み出しているのだと思いますが、でもだから不真面目なひとが悪いのかと云えば、そんなことはない。  

精神の偉大さは苦悩の深さによって決まるのか? 『風の谷のナウシカ』に感じたささやかな疑問。(2046文字)
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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