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タグ “リア充オタク” を含む記事 4件

カザマアヤミが描く「イタオタ」の幸福な日々。

 カザマアヤミ『嫁いでもオタクです』を読み終えました。  昨年のぼくのベストであるところの『恋愛3次元デビュー』の続編ということで、とても楽しみにしていたのですが、期待に違わぬ素晴らしい出来で、今回も大笑いさせていただきました。  前作は女子高育ちで男性に対する免疫が一切ないカザマアヤミが、さまざまなカンチガイを乗り越えて結婚するまでを描いていたのですが、今回はその後の新婚生活のお話。  普通ならスウィートになるはずのお話なのですが、そこは夫婦そろってずぶずぶのオタク、ひと筋縄で行くはずもなく、色々な事件が起きます。  メイドロボに嫉妬して泣いたりとか、旦那と友達の関係に腐ってみたりとか……。  全体的に下ネタが多めなので、前作と比べてひとを選ぶところはありますが、あいかわらず捧腹絶倒の内容で、面白いです。  前作と合わせてオススメの本なので、良ければご一読ください。  読み終えてひとつ思ったのが、この夫婦、ふたりともとても幸せそうなのだけれど、こういう人たちを「リア充オタク」とは呼ばないのだろうな、ということ。  ふたりともどちらかといえば「イタオタ」に近いわけで、『新・オタク経済』的な見方からすれば、旧時代の人間ということになってしまうのかもしれません。  しかし、ふたりはそんなこととはまったく関係なく幸せを満喫しているわけで、やっぱりリア充がどうこうという指標は信用ならないなあ、と思ってしまいます。  大学がテニスサークルだからリア充だとか、将来を嘱望されているから勝ち組だとか、あまりに単純すぎるのではないでしょうか。  そういう一面的な見方は人間の複雑さに対する侮辱だと思う。  こういう話になると、ぼくはいつも北村薫の小説『鷺と雪』の一節を思い出します。 「身分があれば身分によって、思想があれば思想によって、宗教があれば宗教によって、国家があれば国家によって、人は自らを囲い、他を蔑(なみ)し排撃する。そのように思えてなりません」  結局、人間という生き物はどうしようもなくひとを差別し、あるいは優越感に耽り、あるいは劣等感に悶える。そういう存在なのだろうと思うのです。  劣等感を振りかざすことは優越感を抱くことよりまっとうなことのように見えるかもしれませんが、じっさいには「おれはこんなに可哀想なのだから配慮しろ」といっているに等しいこともあるわけで、そう単純には評価できません。  結局のところ、リア充がどうの、オタクがこうのといってみても始まらない、各自がただ好きなように生きていけばいいのだろうというところに結論は至りそうです。  もちろん、 

カザマアヤミが描く「イタオタ」の幸福な日々。

一億分の一であるという素晴らしさ。

 ペトロニウスさんの最新記事を読みました。 http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20151011/p2  ほとんど改行がなくてめちゃくちゃ読みづらいのですが、非常に面白い内容です。  そして、きわめつけにタイムリー。  これは必然的な偶然だと思うのだけれど、「リア充オタク」を巡る話題とストレートに繋がっています。  この記事、「頑張っても報われない、主人公になれないかもしれないことへの恐怖はどこから来て、どこへ向かっているのか?」というタイトルなのですが、まさにこの「主人公になれないぼく」を巡る問題こそ、ここ最近、一部の少年漫画やライトノベルが延々と語ってきたテーマだと思います。  つまり、高度経済成長が終わり、「努力・友情・勝利」がストレートに成立しなくなった現代において、物語の主人公になる(努力して勝利する)ことができなくなった「ぼく」はどのように生きていけばいいか?という話ですね。  これは非常に現代的なテーマだといっていいでしょう。この答えを模索し、そしてついにはひとつの答えにたどり着いた、いま、ぼくたちはそういう物語をいくつか挙げることができます。  くわしくは「物語三昧」のほうを読んでほしいのですが、この記事を読むと、「リア充オタク」という概念の古さがはっきりとわかります。  「リア充」という概念はもう克服されたものであるわけです。  ぼくたちは――というかぼくは、もう「リア充」と「非リア」、「モテ」と「非モテ」、「勝ち組」と「負け組」、「主役」と「脇役」といった対立概念を持ち出し、前者でなければ幸せではありえないのだと考える価値観を乗り越えている。  そして、それと同じことは『僕は友達が少ない』から『妹さえいればいい。』に至るライトノベルの流れのなかではっきり示されています。  『僕は友達が少ない』は、「リア充」を敵視する「残念」な人たちの話でした。  この物語のなかで、主人公は最後までだれかひとりと結ばれることなく(リア充になることなく)終わります。  最初から最後までかれは「残念」であるわけです。  これは、あたりまえのライトノベルを期待した読者としてはまったく気持ちよくない展開であるわけで、当然のごとくこの結末は悪評芬々となりました。  しかし、テーマを見ていくとこの結末で正しいのです。  というのも、仮にかれがだれかとくっついていたら(リア充になっていたら)、この物語のテーマである「残念でもいいじゃないか」、「リア充にも成功者にもなれなくても、人生はそのままで楽しいのだ」ということが貫けなくなってしまうからです。  だから、『僕は友達が少ない』のエンディングはあれで完全に正しい。  ただ、まったく快楽線に沿っていないので、単に気持ちいいお話を求める大多数の読者には怒られることになるというだけで……。  さて、順番こそ少し前後しているものの、『僕は友達が少ない』の次の作品である『妹さえいればいい。』では、テーマがさらに進んでいます。  この物語にはこういう記述があります。  才能、金、地位、名誉、容姿、人格、夢、希望、諦め、平穏、友だち、恋人、妹。  誰かが一番欲しいものはいつも他人が持っていて、しかもそれを持っている本人にとっては大して価値がなかったりする。  一番欲しいものと持っているものが一致しているというのはすごく奇跡的なことで――悲劇も喜劇も、主に奇跡の非在ゆえに起きるのだ。 この世界(ものがたり)は、だいたい全部そんな感じにできている。  ここで作者ははっきりと「リア充」対「非リア」といった二項対立的な価値観を乗り越えているわけです。  そして、この作品のなかで描かれるのは、この「メインテーマ」を前提とした、どこまでも楽しい日常です。  べつだん、『僕は友達が少ない』とやっていることは変わらないのですが、ペトロニウスさんが書いている通り、『僕は友達が少ない』よりさらに楽しい印象を受ける。  それはなんといっても、登場人物たちがみな自立した社会人であり、精神的にバランスが取れた人物だからです。  かれらの日常はとても充実しているといっていいでしょう。  ぼくは以前、それを「リア充にたどり着いた」といういい方をして表したのですが、いまとなってはこの表現は正確さを欠いていたということがはっきりわかります。  むしろ、「「リア充」を乗り越えた」というべきでした。  より的確にいうなら、「リア充」とか「非リア」という二項対立的な概念を持ち出し、その一方でなければ幸せにはなれないのだという価値観を乗り越えたというべきでしょう。  そう、『妹さいればいい。』の連中ははっきりと『僕は友達が少ない』のテーマの延長線上を生きています。  かれらもまた、ある意味ではコミュ障であったり、妹キチガイであったり、メイド好きであったりと、実に「残念」な連中です。  それなりにオシャレだったりアクティヴだったりする面はあるにしても、べつに何もかもが秀でたリア充というわけではない。  しかし、かれらはそのことにもはや一切の負い目を感じていません。  もちろん、 

一億分の一であるという素晴らしさ。

なぜオタクが小ぎれいになった(ように思える)のか?

 前の記事に付いたコメントにレスを返します。  リア充オタクもマイルドヤンキーも勝手に定義を作り広めて儲けようとする連中の仕業によるものだよね。マイルドヤンキーの定義に当てはまるのなんて昔から大量にいたのに最近現れたかのように言われる。あれの定義はヤンキーでもなんでもない都会に憧れも志も持たない低所得者。それを無理矢理広めようとするからネットでは批判が見られた。  「おたく」の反対語としての「リア充」という言葉が生まれたのは、西暦二〇〇〇年を過ぎてからですね。その前の一九九〇年代には、まだ、「リア充」という言葉はありませんでした。  私の記憶している限りでは、一九九〇年代以前の「おたく」の中にも、おしゃれな人はいましたし、普通にリアルの人間と恋愛している人もいました。結婚して子供もできて、普通に家庭生活を営みながら、「おたく」活動を続けている人も、おおぜい知っています。 私の感覚では、「『おたく』である人が、ファッションに興味を持ったり、恋愛したり、結婚したりということとは、縁が薄いに決まっている」という考えのほうが、違和感があります。  「全か無か」のように、何でも二つにすぱっと割り切れるものではないですよね。何だか、無用な線引きをして、対立をあおっているだけの気がします。  この話、いろいろな問題が交錯していてちょっと切り分けをしないといけないと思うのですが、まず、ぼくはいわゆるオタク文化へのカジュアル層の流入は事実としてあると思っています。  ぼくが中高生の頃ははっきりオタクと呼べるのはクラスに2,3人いるかいないかというところでしたし、それもあまりオープンにできる雰囲気ではありませんでした。  そういう意味では10代、20代の大半がニコ動ユーザーという現在とは隔世の感があるのはたしかかと。  で、その影響によってオタクが全体的に小ぎれいになってきているということもたぶん事実だと思います。  問題はそれを端的に「オタクがリア充化した」と見るかどうかということで、おそらく背景にある条件そのものが変わって来ているということも大きいと思うんですよ。  というのも、これは異論があるところかもしれませんが、ここ10年くらいで若者全体のファッションセンスが底上げされる形で向上していると思うんですよね。  街を歩いていると、「めちゃくちゃおしゃれ」みたいな人は少ないとしても、そんなにおかしな格好をしている人も見かけなくなった。  これは『新・オタク経済』のなかでもふれられていることですが、その背景にはユニクロを初めとするファストファッションの質の向上があると思うのです。 

なぜオタクが小ぎれいになった(ように思える)のか?

オシャレでアクティヴな「リア充オタク」はほんとうにオタクなのか?

 一昨日のことになるでしょうか、『ZIP』という番組で「リア充オタク」の特集を放送したそうで、Twitterなどの各種SNSでこのワードが話題になっていました。  この番組そのものはもう確認しようがないので(探してみればどこかにアップされているかもしれないけれど)、「リア充オタク」という言葉の元ネタであるらしい原田耀平『新・オタク経済』を読んでみました。  結論から書くと、それほど目新しいことは書かれていません。  だいたいいままで出た情報で説明できるというか、予想通りの内容。  一冊にまとめたことに価値があるかも、って感じ。  ぼくが観測している限り、「ライトオタク」と呼ばれるオタクカルチャーのカジュアル消費層がネットで語られ始めたのは10年くらい前。  その頃は批判的なトーンでの意見が多かったように思います。  オタクは本来、過酷な修行の末にたどり着く崇高な境地であるべきなのに、最近のオタクのぬるさたるや何ごとじゃ、みたいな内容ですね。  『新・オタク経済』にも記されているように、この「ガチオタによるヌルオタ批判」という行為はその後も延々と続き、いまでもまだ続いています。  今回、「リア充オタク」という言葉が出て来たときに巻き起こった「そんなのオタクじゃない!」という意見は、典型的なガチオタによるライトオタクへの反発に思えます。  たしかに、本書で著者が定義している「リア充オタク」の多くは、旧来型の定義ではオタクに含まれない存在かもしれません。  しかし、じっさいにかれらがオタクを名乗り、また周囲からもオタクと認められているという事実はあるものと思われます。  第二世代や第三世代のオタクがいくら「そんなのオタクじゃない!」と叫んでも、実態が変わってしまっているのだからその声は届かない。あまり意味のある批判にはなりえないのですね。  じっさい、オタク文化へのカジュアル層の流入という現象はこの10年間で至るところで目にしていて、岡田斗司夫さんが「オタク・イズ・デッド」とかいい出したのもその関連でしょうし、『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』などという本ではヤンキー文化との接近という形で同じ現象が語られています。  オタクのライトオタク化とヤンキーのマイルドヤンキー化はパラレルな現象なのですね。  だから、まあ、「リア充オタク」と呼ぶべき層の出現は、必然といえば必然なのです。  この傾向の端緒はニコニコ動画の開設であると思われるので、ぼくらニコ動利用者にとっても無関係とは思えません。  もっとも、ぼくのブログを「リア充オタク」が読んでいるとはあまり思われませんが……。  そんなに長いスパンの話ではなく、ここ2、3年だけを取ってみても、オタク文化は相当普及したように思えます。  『ラブライブ!』のソーシャルゲームが国内1000万ユーザーを突破したとか聞くと、隔世の感がありますね。  アクティヴユーザーがどれだけいるかは別に考えるべきだとしても、1000万という数字はコアなファンだけでは獲得できません。  もはや、スマホで『ラブライブ!』をプレイしている若者は「普通」であり、特筆するべき存在ではなくなっているのでしょう。  ボカロ小説が何百万部売れた、とかいう話を聞いても同様の感慨を抱きます。  時代は変わったんだなあ、ということですね。  で、この現象をどのように受け止めるかなのですが、ぼくは基本的には「良いこと」だと思っています。  カジュアル層が広がらなければ文化の発展はないわけで、一部のマニアだけに好まれていた文化が大衆的に広まっていくことは良いことかな、と。  もちろん、そのなかには本書で書かれているような「エセオタク」も混じっていたりするでしょうし、旧来のオタクとしては面白くないことも多いかもしれません。  ですが、いつだって時代はそういうふうにして変わっていくもの、変化を否定しても始まりません。  もうひとつ付け加えておくなら、オタク自己言及ライトノベルの「脱ルサンチマン」の流れもこのオタク文化のカジュアル化とパラレルな関係にあるでしょう。  時代的にはわりと新しいけれど内容的にはちょっと古い印象を受ける『冴えない彼女の育てかた』と、その同時代作品ながら当時としては斬新だった『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』や『僕は友達が少ない』、そして最新型の『妹さえいればいい。』や『エロマンガ先生』を読み比べてみると、ライトノベルのオタク描写が変わっていっている様子がわかると思います。  ぼくはそれを「脱ルサンチマン」と呼ぶわけですが、「リア充」を敵視し、オタク文化の神聖不可侵を守ろうとする気概が、あきらかになくなって来ている。  同じ平坂読の『僕は友達が少ない』と『妹さえいればいい。』を比べるのがいちばん明瞭でしょうが、オタク文化は既にコンプレックスとかルサンチマンとは無縁のところまで来ているのです。  それはオタク漫画の代表格である『げんしけん』の内容的な変遷を見てもあきらかでしょうし、また、『ヲタクに恋は難しい』みたいな漫画が出て来ることもひとつの必然なのでしょう。  ネット上では「リアリティがない」とか「こんなのオタクじゃない」とこき下ろされたりもしていますが、『ヲタクに恋は難しい』で描かれているような「リア充オタク」は普通に実在するようになっていると考えるべきです。  そこまで状況は変わって来ているのですね。  そういうわけで『新・オタク経済』の基本的な論旨には文句はないのですが、脇の甘いところがいくつかあって、なかでも旧来のオタクに対する描写には苦笑させられるばかり。  結局のところ、「オタクは暗くて非社交的、ファッションはダサくてモテないが自分の好きなことには夢中」というイメージは残存され、それがほんとうにそうなのかの検証は行われないのです。  この本のなかで前世代のオタクの代表的イメージとして語られているのは、映画『電波男』の主人公なのですが、この映画がどれだけ的確に当時のオタクを代表し、あるいは象徴しているか、という検証は一切実施されません。  本書のなかではかつてのオタクが「ダサくてイタい人たち」だったことは既成事実として語られているように思います。  ぼくはべつにそういう傾向がなかったとはいいませんが、当時のオタクが全員が全員そういうふうだったわけではないはずで、ここらへんの偏見をそのまま使用していることには疑問を感じざるを得ません。  まあ、本書のテーマが第四世代以降の新しいオタクたちである以上、そこはどうでもいいのかもしれませんが、どうも偏見を助長するカテゴライズであるように思えてならないんですよね。  これはあらゆるカテゴライズにいえることですが、じっさいには大半の人はそれらのカテゴリにきれいに収まりきるというよりは、グレイゾーンのところにいるわけです。  それを「リア充オタク」はこうだ、「イタオタ」はこうだ、といってしまうと、途端に見えなくなるものがある。  特に腐女子に関する記述は強烈なバイアスの存在を感じさせずにはいられません。本書にはこう記されています。  当然、イタオタは男性ばかりではありません。BL(男性同士の恋愛)モチーフの作品を好み、自らを「腐女子」と自称する女性たちも、多くはイタオタに分類されます。彼女たちは、そもそも自分たちの趣味嗜好を同好の士以外に啓蒙しようという気がないため、非オタクに対する社交性は低い傾向にあります。  そして、腐女子の特徴として、特徴のあるイラストとともにこう列挙されている。 ・変わり者が多い ・Twitterではやたらとテンション高い ・男性声優のツイートをリツイート ・イケメンを見ると脳内でカップリングにしてしまう ・ゴスロリ系と思しき服装 ・一人称が「ボク」な子もいる ・家ではジャージで過ごしているがコミケなどのお出かけは気合をいれた服装 ・普段の外出は母のおさがりの婦人服 ・郊外にある大型衣料店で買ったバッグ ・手作りのビーチアクセが目いっぱいのおしゃれ ・薄い本(BL同人誌)大量購入 ・スカートは嫌いだけどちょっとおめかし  こんな奴いない、とはいいません。ある程度はこういう人もいるでしょう。  しかし、 

オシャレでアクティヴな「リア充オタク」はほんとうにオタクなのか?
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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