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「友達探し系」ライトノベルをリアルに実践してみたら?

 こんな記事を読みました。  もちろん現実社会のつながりが1番大切だけれど、SNS上のお友達も当たり前になってきた世の中。  スマホやゲームに夢中になりすぎるのは問題だけれど、ゲームみたいに自分の周りにたくさんワールドがあることを知るのは、子供の生きやすさにつながる気がしている。  私自身友達がいなかった中学時代にスマホやゲームやTwitterがあったらどれだけ救われただろうと思うから。 http://yutoma233.hatenablog.com/entry/2016/06/01/073000  うーむ、どうなんでしょうね。  たしかに「スマホやゲームやTwitter」は友達がいない孤独を癒やしてくれるかもしれないけれど、「LINE疲れ」とか「バカッター」みたいな話を聞くと、SNSがないほうがよほど楽だったのではないかと思わないこともありません。  まあ、そういいながらもぼくはもうLINEなしでは生きられない身体になってしまったので、自分より若い層にSNSをやるなとはとてもいえないのですが。  でも、リアルとネットで同じ人間関係を維持しないといけないのって疲れるよね。  SNSも過去のメディアと同じく、プラスの面とマイナスの面を備えているようです。と、ここまでは話の枕。  ぼくはいまとなってはそれなりに友達もできて、その意味ではわりに充実した生活を送っているわけですけれど、そうかといって友達がいない生活が良くないと思っているかというと、そうでもないのです。  もしぼくに友達がいなかったら、それはそれで、ひとりで本を読んでブログを更新していたでしょう。それもまた悪くない人生だったかもしれないとも思う。  ぼくはインターネットに出逢うまで20年くらい理解者ゼロのままひたすら本を読む生活をしていたわけで、本質的にはそんなに孤独はいやだと思っていないのです。  何より、読書とはそもそも孤独な行為です。  電子書籍や感想サイトの充実でいくらかソーシャル化が進んではいるにしても、基本的にはひとりで本を向かい合わないといけないことに変わりはない。  その孤独に耐えられる者だけが読書の豊穣を知ることになる。  それはあるいはFacebookで友達が何百人いるとかいうことを誇っている「リア充」には理解できない楽しさであるのかもしれません。  でも、いまなお、ぼくは読書以上の歓びを知らないのです。  本を読み始めてから30年以上経って何千冊読んだか知れないけれど、一向に飽きない。たぶん1000年くらいは余裕で読みつづけられるだろうと思う。孤独には孤独なりの歓びがあるのです。  ペトロニウスさんがよく「お前のいうことはわからないとずっといわれつづけてきた」と話しているけれど、べつにペトロニウスさんに限らず、一定以上個性的な人間は周囲に理解者など見つけられないのが普通なのですね。  本なんて読めば読むほど周囲の人にわかってもらえなくなるものですから。  SNSの発達によってひとは孤独から逃れやすくなったかもしれませんが、そのぶん、「ひとり孤独に自分の内圧を高める」訓練をしづらくなったのかもしれないとも感じます。  しかし、まあ、そうはいっても自分が考えたことをだれかと「共有」できることはやっぱり嬉しいものです。  ここ何年かのライトノベルで流行った、ぼくが「友達さがし系」と呼んでいるパターンの物語は、大抵が趣味を共有できる仲間を探してグループを作るという形を採ります。  それは「SOS団」であったり、「隣人部」であったり、あるいは『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』のオタク仲間集団であったりするわけですが、ああいうものを作りたくなる気持ちはぼくはリアルにわかります。  というか、 

「友達探し系」ライトノベルをリアルに実践してみたら?

日常系作品の四象限図を作りたい。

 先ほど、『よつばと!』の第13巻と『イチゴ―イチハチ!』の第2巻を購入して来ました。  どちらも待ち望んだ新刊で、もったいなくてすぐには読めない。  こういう作品の存在はそれ自体が生きる張り合いになりますね。  この2冊を同時に読めるなんて、生きていて良かったと思うもん。  『よつばと!』にしろ『イチゴ―イチハチ!』にしろ、いわゆる日常系の物語なのだけれど、その描写はかなり進歩して来ているように思います。  日常系の魅力はいかに平穏な日常の楽しさを描くことができるかに尽きるわけですが、最近の日常系ってそこがほんとうに洗練されているなあ、と。  いやまあ、まだ読んでいないのでこれらの巻についてはわかりませんが、既刊の描写はそうだったのです。  三つほど前の記事で書いた「いま、青春群像劇が面白い」ということも、この日常系というジャンルと密接に関わっています。  というか、ぼくがいうところの新しい世代の青春群像劇もまた、日常系の成果として生まれて来たものだと思うのですよね。  『妹さえいればいい。』とか『エロマンガ先生』がやたら生活のディティールに拘るのも、日常のリアリティを演出したいからに違いありません。  それは『よつばと!』とか『海街diary』といった作品がありふれた日常をどこまでもていねいに描き出して来たことに通じています。  『妹さえいればいい。』はオタクネタが飛び交うので異質なものに見えるかもしれませんが、本質的には『よつばと!』などと同じ日常を楽しく過ごすことの賛歌だと思うのですね。  あるいは四象限の図とか作れるかもしれません。  「オタク⇔非オタク」、「目標がある⇔目標がない」の二軸で作る日常系マトリクス。  そこに『よつばと!』、『イチゴ―イチハチ!』、『けいおん!』、『響け!ユーフォニアム』、『ゆゆ式』、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』、『心が叫びたがってるんだ。』、『バクマン。』(映画)、『SHIROBAKO』、『エロマンガ先生』、『妹さえいればいい。』、『海街diary』、『ちいさいお姉さん』、『冴えない彼女の育てかた』、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』あたりをマッピングしてみると、色々なことが見えて来るかも。  いや、これはぼくが反射的に思い浮かべたタイトル群なので、まだ欠けているものがいくらもあるに違いありませんが。  ちなみに目標意識が強ければ強いほど日常系っぽくなくなると思います。  ちょっと『バクマン。』を日常系と呼ぶのは抵抗がありますよね。  でも、ぼくの目から見ると、あの作品もまた紛れもなく同時代的な精神の産物と映るわけです。  Excelとかでちょっと作ってみるといいのだろうけれど、もうニート生活が長すぎてExcelの使い方なんて忘れたよ……。だれか作らない?  これらの作品を見ていくと、 

日常系作品の四象限図を作りたい。

いまの時代ならではの青春群像劇が面白くてしかたない。

 ども。11月も終わりですねー。  今年も残すは12月のみとなるわけで、毎年のことながら早いなあと思います。  ほんと、歳取ると一年が過ぎ去るのが速く感じますね。  今年のベストとして挙げたい作品はいくつかあるのですが、気づくとどれも青春物語ばかりです。  ぼくはもともと青春ものは大好きなのだけれど、今年はその方面に特に収穫が多かった気がします。  具体的には『妹さえいればいい。』であったり、『心が叫びたがってるんだ。』や『バクマン。』だったりするのですが、それぞれ共通点があるように思えます。  どうでもいいけれど、みんなタイトルのラストに「。」が付きますね。なんなんだろ、モーニング娘。リスペクトなのか?  まあいいや、その共通点とは「集団である目標を目ざして努力していること」です。  となると、『冴えない彼女の育てかた』あたりもここに含まれますね。  『エロマンガ先生』や『妹さえいればいい。』の場合、各人は個別で頑張っているわけですが、「良い小説を書きたい」という志は共通しています。  まあ、もちろん、集団で目標に向かうことは青春もののきわめてオーソドックスなパターンです。いま新しく生まれ出た物語類型というわけではありません。  しかし、いまの時代の作品がいくらか新しいのは、集団に必ずしも「一致団結」を求めない点です。  バラバラな個性の持ち主がバラバラなまま同じ夢を目ざす。そういう物語が散見されるように思います。  それは、やはりある種の「仲良し空間」であるわけですが、目標がある以上、もはや単なる仲良し同士の集まりではありえません。  そこにはどうしようもなく選別が伴うし、淘汰が発生する。実力による差別が介在してしまうのです。  それを受け入れたうえで、それでもなお、高い目標を目ざすべきか? それとももっとゆるい友人関係で満足するべきなのか?  その問いは、たとえば『響け! ユーフォニアム』あたりに端的に見られます。  そして、何かしら目標を目ざすことを選んだなら、そこに「祭」が生まれます。  ぼくたちの大好きな非日常時空間、「祭」。  その最も象徴的なのは文化祭だと思いますが、文化祭はいつかは終わってしまう。  それでは、終わらない祭を続けるためにはどうすればいいか?と考えたときに、お仕事ものに接続されるのだと思います。  『SHIROBAKO』ですね。あれは最も都合のいいファンタジーに過ぎないという批判はあるかと思いますが、でも、その裏には救いのない現実が存在するという視点はあるでしょう。  その上で、ファンタジーを描いている。終わりのない「祭」の夢を。  それは創作の作法として十分に「あり」なのではないでしょうか?  ちなみに、 

いまの時代ならではの青春群像劇が面白くてしかたない。

友達さがしの向こう側で見つけた世界。

 けれども、いま2015年後半以降になって、連続で見たものを全部思い出してみても、特にライトノベルの最前線は、男女同数のように男性キャラクターがバランスよく出てくるようになってきている感じがするんですよね。大御所である『妹さえいればいい。』とこの伏見さんの『エロマンガ先生』も、なんというか、そういう感じになっている気がする。  なんか、みんな同じ設定、同じ何かを見ている気がするんですよね。その「なにか」が、まだ言葉にできていないんですが、なんか似ているんですよね。黒猫一択のような、ヒロインにはまってしまうというのとは違う感じの魅力で、、、、伏見さんの『エロマンガ先生』も『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』も、どっちもやっぱり大事なのは、友だちを得ていくこと、それが大きな基盤のテーマですよね。ほとんどテンプレで、ほとんど同じなんだけど、、、、何かが決定的に違うんですよね。『エロマンガ先生』と『妹さえいればいい。』は、その何かがはっきり見えている感じがします。それが何なんだろう?って凄い思うんですよね。http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20151121/p1 いま、それ考えています(笑)。  平坂読『妹さえいればいい。』と伏見つかさ『エロマンガ先生』の共通項を考えていくと、まずは当然、両者ともライトノベル作家を主人公にした作品であるということが挙がると思います。  もちろんそれはどちらが真似したとか追随したという次元の話ではない。  むしろ同じコンセプトを追求した結果、必然的に同じシチュエーションに至ったということなのではないかと思いますけれど、とにかく似たような設定を用いている。  問題はそれが何を意味しているかということで、そこのところがよくわからない。  わからないけれど、でも、「何か」があるとは感じるんですよね。  なんだろう。それはたぶんこの二作品だけじゃなくて、最近、ぼくが感動した青春系の映画『バクマン。』とか『心が叫びたがってるんだ。』とも共通しているものなのだと思います。時代の最先端の精神。  まず、これらの作品にあきらかに共通しているのは、何かしらの仕事ないし作業に集団でのめり込み、熱中し、夢中になって没頭するということです。  『バクマン。』の結末を見れば自明ですが、ここでほんとうの目標になっているのは社会的成功ではない。他人の評価でもない。  むしろ、熱中することそのものが価値となっていると思うのです。  何かに夢中になって努力する。そのことそのものが目的なのであって、それが社会的にどう見られているかは問題ではないということ。  『妹さえいればいい。』の最新刊で、主人公である伊月はもっと成功したいという夢を赤裸々に語りますが、それはべつだんベストセラーを出したいということではないということも並行して描かれています。  かれが目指しているのは究極的には形がないスピリットであって、具体的な成功ではないのです。  『バクマン。』は『少年ジャンプ』的な「努力・友情・勝利」を描きますが、「勝利」の描き方が以前とは異なっています。  べつにナンバー1になることだけが勝利なのではない。敗北の苦い味を噛みしめることもまたそこではバリューなのです。  で、大切なのはここでは男女入り混じった集団でひとつの目標を目ざしているということ。  それは『妹さえいればいい。』や『エロマンガ先生』ではライトノベルやイラストであり、『バクマン。』では少年漫画であり、『心が叫びたがってるんだ。』ではミュージカルでしたが、とにかく主人公たちに共通の目標というか志が設定してあるところが同じです。  そしてかれらはその目標に向かって一心不乱に頑張りつづける。  それは一種の「仲良し空間」には違いないでしょう。  たとえば『ペルソナ4』や『仮面ライダーフォーゼ』で描かれたような。  しかし、ただの「仲良し空間」ではなく、互いに切磋琢磨する関係であることもたしか。  その結果、男女や友達の描きがどうなるか? 

友達さがしの向こう側で見つけた世界。

平坂読『妹さえいればいい。』はリアルな人間関係を綴るライトノベル。

 きょう発売の平坂読『妹さえいればいい。』の第3巻を読み終わりました。  現在継続中のシリーズもののなかでは最も楽しみにしている作品なので、今回も手に入れるやむさぼるように読み耽ったわけですが、期待に違わず面白かった。素晴らしい。実に素晴らしい。  いろいろな意味で現代エンターテインメントの最前線を突っ走っている作品だと思います。非常に「いま」を感じさせる。  この巻まで読むと、この作品の特性がはっきりして来ますね。  紛れもなくある種のラブコメではあるのだけれど、普通のラブコメみたいにすれ違いで話が停滞することがあまりない。  各々の登場人物たちは自分が好きな相手の気持ちをはっきり悟ってしまうのです。  だから、関係性はどんどん変化していく。  しかし、悟ってもなおかれらはどうしても関係を変えることができずに悩むことになります。  ここらへん、人間関係にリアリティを感じます。あまり都合のいいファンタジーが入っていないのですね。  いや、このいい方は誤解を招くかな。  もちろんファンタジーではあるのだけれど、ここでは「ひとを好きになったら、相手も好きになってくれる」といったご都合主義の法則がありません。  いくら純粋な想いをささげていてもそれを表に出さなければ相手は気づかないし、反対に積極的なアプローチを続ける人物は相対的に高い確率で相手に好かれるという、あたりまえといえばあたりまえの現実があるだけです。  ここがあまりラブコメらしくないというか、ライトノベルらしくない。  ラブコメの法則といえば、「ツンデレ」などが象徴的だと思うのですが、相手がいくらいやな態度を取っても主人公は好意的でありつづけたりするわけです。  でも、それはファンタジーであるわけで、現実にはいやな態度を取られたらその相手のことは嫌いになる可能性が高い。現実はラブコメのように甘くないのです。  そういう意味で、この作品は現実的な人間関係の描き方をしていると思う。  平坂さんは前作『僕は友達が少ない』の結末で、「表面的には仲が悪く見えるが、じっさいには仲良しの関係もある」という描写を裏返して、「表面的に仲良くしていても、ほんとうは嫌い合っている関係もある」という事実にたどり着いてしまったのですが、『妹さえいればいい。』でもそういうシビアな認識があちこちで顔を覗かせます。  はっきりいってライトノベルの快楽原則から外れていると思うので、人気が出るかどうかはわかりませんが――現時点でそこそこ売れているようなのでまあよかった。  この作品にはぜひヒットしてほしいですね。  それはまあともかく、そういうわけでこの小説はあまりわざとらしく関係性がすれ違いつづけ、ご都合主義的に好意が操作されることがありません。  その意味ではわりにむりやり関係性を停滞させようとしてあがいていた『僕は友達が少ない』とは全然べつの方法論で書かれた作品であることがわかります。  同じ作家がたった一作でこうも違う価値観を提示できていることには、素直に感嘆するしかありません。  平坂読すげー。ちゃんと前作から進歩しているんだよね。  しかし 

平坂読『妹さえいればいい。』はリアルな人間関係を綴るライトノベル。

時代の最先端はどこにあるのか? 天才漫画から、非天才葛藤漫画へ。

 最近、満田拓也『MAJOR2nd』を読み返しています。  いわずと知れた野球漫画のヒット作『MAJOR』の続編で、前作主人公の息子が主役を務めています。  そこまではいいのですが、興味深いのが、この息子のほうには特別に野球の才能があるようには見えないということ。  それどころか、「肩が弱い」という野球選手としては致命的な弱点を抱えてすらいます。  その現実を思い知らされる頃には本人もやる気を喪失し、道具を捨ててしまおうとするありさま。  それにもかかわらず周りはあきらめずやる気を出すよう勧めて来る。  いや、べつに才能ないんだからべつに野球やらなくてもいいじゃんと思うのですが、周囲からすると野球を辞めるのならほかのことに打ち込まないといけないということらしい。  そこで主人公は葛藤するのですが、いやー、この葛藤が見ていて辛い、辛い。  ぼくが最近読んだ漫画のなかではぶっちぎりで辛い漫画ですね。  才能がある人間が才能を発揮し切れないという物語は悲劇ですが、『MAJOR2nd』は初めから才能がない人間を描いているので、悲劇になりえません。  哀しいことを描いていても、どこか滑稽なのです。その滑稽さが、見ていて痛い、痛い。  もうなんというかひとつの惨劇として完成されていて、いったいこの物語はどこへ進んでいくのだろう、と思いながら見ていました。  ところが、この漫画、売れているんですよね。  第2巻の時点ですでに100万部を突破しているそうで、ということはそれなりに需要があるわけです。  もちろん、大ヒット作の続編ということはあるけれども、Amazonを見ても評価が高いし、意外にウケているらしい。  となると、この野球惨劇漫画のどこがどうウケているのか、気になります。  ペトロニウスさんは、この作品に「主人公になれない者の苦悩」を見て取ったようです。  なるほど、そういわれてみると、そう見えて来る。  『MAJOR2nd』の主人公・大吾は、まわりから主人公であることを期待されながらその期待に応えられないキャラクターと見ることができるでしょう。  そもそも普通は少年野球の段階でそう才能の有無に悩む必要もないと思うんですよね。  親にしても、ただ楽しくやっていればそれでいいという考えの人がほとんどでしょう。  それがなぜ大吾が余計な苦悩を背負ってしまうかというと、やっぱり往年のメジャーリーガーの息子だからに違いありません。  つまり、大吾は「主人公の息子」であり「主人公を継ぐ者」であることを期待される立場なのです。  しかし、かれにはどうしてもそうすることができない。それだけの能力を与えられていない。そこで苦しみが生まれることになる。  これはたしかに時代的なテーマかもしれません。  スポーツ漫画の歴史を考えてみると、しばらく前に「天才漫画」が流行ったことがありました。  『MAJOR』もそうですし、『H2』とか、『SLAM DUNK』とか、人並み外れた才能を持った主人公の活躍を描いた物語ですね。  スポーツ版の俺TUEEEというか、凡人を常識を絶したまさに主人公となるべく生まれてきたキャラクターの成長を見るところに面白さを感じる系譜です。  天才スポーツ漫画は、それまでの泥臭く努力するスポ根漫画とは似て非なるものだといえるでしょう。  もちろん、まったく努力が描かれないわけではないのですが、とにかく主人公が凡人とはレベルの違うところにいることはたしかです。  これは「努力すれば勝利(成功)できる」というストーリーに対する疑義から出て来た作品群なのではないかとぼくは思います。  「結局、最後に勝つのは才能がある奴だよね」というわけではありませんが、とにかく努力さえすれば結果が出るのだ!という信仰とは別次元のところにある漫画たちだといっていいと思う。  そして現代のスポーツ漫画は、そこからさらに一歩進んで、「それでは、天才ではない者が勝つにはどうすればいいのか?」ということを描いているように思えます。  最もわかりやすい例が『ベイビーステップ』であり、あるいは『黒子のバスケ』でしょう。  面白いのは、このふたつの作品では主人公が採用する戦略が真逆だということですね。  『ベイビーステップ』では平均値を高めることで対応しようとし、『黒子のバスケ』では唯一の長所を研ぎ澄ますことを目ざします。  ともかくここでは主人公が非天才(生まれつき天才ではない者)に設定され、それでもなお、勝利を目ざそうとする姿が描かれるわけです。  そこには、どんなに絶望の底に叩き落とされてもあきらめない鉄の意志があります。  そういうふうに考えていくと、『MAJOR2nd』はそのさらに一歩先を描こうとしているのだ、とはいえるかもしれません。  大吾にはそもそも 

時代の最先端はどこにあるのか? 天才漫画から、非天才葛藤漫画へ。
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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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