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タグ “妹さえいればいい。” を含む記事 16件

一億分の一であるという素晴らしさ。

 ペトロニウスさんの最新記事を読みました。 http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20151011/p2  ほとんど改行がなくてめちゃくちゃ読みづらいのですが、非常に面白い内容です。  そして、きわめつけにタイムリー。  これは必然的な偶然だと思うのだけれど、「リア充オタク」を巡る話題とストレートに繋がっています。  この記事、「頑張っても報われない、主人公になれないかもしれないことへの恐怖はどこから来て、どこへ向かっているのか?」というタイトルなのですが、まさにこの「主人公になれないぼく」を巡る問題こそ、ここ最近、一部の少年漫画やライトノベルが延々と語ってきたテーマだと思います。  つまり、高度経済成長が終わり、「努力・友情・勝利」がストレートに成立しなくなった現代において、物語の主人公になる(努力して勝利する)ことができなくなった「ぼく」はどのように生きていけばいいか?という話ですね。  これは非常に現代的なテーマだといっていいでしょう。この答えを模索し、そしてついにはひとつの答えにたどり着いた、いま、ぼくたちはそういう物語をいくつか挙げることができます。  くわしくは「物語三昧」のほうを読んでほしいのですが、この記事を読むと、「リア充オタク」という概念の古さがはっきりとわかります。  「リア充」という概念はもう克服されたものであるわけです。  ぼくたちは――というかぼくは、もう「リア充」と「非リア」、「モテ」と「非モテ」、「勝ち組」と「負け組」、「主役」と「脇役」といった対立概念を持ち出し、前者でなければ幸せではありえないのだと考える価値観を乗り越えている。  そして、それと同じことは『僕は友達が少ない』から『妹さえいればいい。』に至るライトノベルの流れのなかではっきり示されています。  『僕は友達が少ない』は、「リア充」を敵視する「残念」な人たちの話でした。  この物語のなかで、主人公は最後までだれかひとりと結ばれることなく(リア充になることなく)終わります。  最初から最後までかれは「残念」であるわけです。  これは、あたりまえのライトノベルを期待した読者としてはまったく気持ちよくない展開であるわけで、当然のごとくこの結末は悪評芬々となりました。  しかし、テーマを見ていくとこの結末で正しいのです。  というのも、仮にかれがだれかとくっついていたら(リア充になっていたら)、この物語のテーマである「残念でもいいじゃないか」、「リア充にも成功者にもなれなくても、人生はそのままで楽しいのだ」ということが貫けなくなってしまうからです。  だから、『僕は友達が少ない』のエンディングはあれで完全に正しい。  ただ、まったく快楽線に沿っていないので、単に気持ちいいお話を求める大多数の読者には怒られることになるというだけで……。  さて、順番こそ少し前後しているものの、『僕は友達が少ない』の次の作品である『妹さえいればいい。』では、テーマがさらに進んでいます。  この物語にはこういう記述があります。  才能、金、地位、名誉、容姿、人格、夢、希望、諦め、平穏、友だち、恋人、妹。  誰かが一番欲しいものはいつも他人が持っていて、しかもそれを持っている本人にとっては大して価値がなかったりする。  一番欲しいものと持っているものが一致しているというのはすごく奇跡的なことで――悲劇も喜劇も、主に奇跡の非在ゆえに起きるのだ。 この世界(ものがたり)は、だいたい全部そんな感じにできている。  ここで作者ははっきりと「リア充」対「非リア」といった二項対立的な価値観を乗り越えているわけです。  そして、この作品のなかで描かれるのは、この「メインテーマ」を前提とした、どこまでも楽しい日常です。  べつだん、『僕は友達が少ない』とやっていることは変わらないのですが、ペトロニウスさんが書いている通り、『僕は友達が少ない』よりさらに楽しい印象を受ける。  それはなんといっても、登場人物たちがみな自立した社会人であり、精神的にバランスが取れた人物だからです。  かれらの日常はとても充実しているといっていいでしょう。  ぼくは以前、それを「リア充にたどり着いた」といういい方をして表したのですが、いまとなってはこの表現は正確さを欠いていたということがはっきりわかります。  むしろ、「「リア充」を乗り越えた」というべきでした。  より的確にいうなら、「リア充」とか「非リア」という二項対立的な概念を持ち出し、その一方でなければ幸せにはなれないのだという価値観を乗り越えたというべきでしょう。  そう、『妹さいればいい。』の連中ははっきりと『僕は友達が少ない』のテーマの延長線上を生きています。  かれらもまた、ある意味ではコミュ障であったり、妹キチガイであったり、メイド好きであったりと、実に「残念」な連中です。  それなりにオシャレだったりアクティヴだったりする面はあるにしても、べつに何もかもが秀でたリア充というわけではない。  しかし、かれらはそのことにもはや一切の負い目を感じていません。  もちろん、 

一億分の一であるという素晴らしさ。

平坂読『妹さいればいい。』は動機がない時代のバイブルとなるのか。

 七月です。今年ももう半分終わってしまいましたね。  この半年、いろいろありましたが、厭なことは忘れてゼロからスタートしたいと思います。よろしくお願いします。  さて、当然、厭なこともあれば良かったこともあるわけで、上半期はたくさんの面白い作品と出逢えました。  そのなかでも個人的に高い評価を与えたい作品といえば、平坂読『妹さえいればいい。』がまず挙がります。  一見するとライトノベル作家の他愛ない日常を綴っただけの作品とも見えかねないものの、じっさいには壮絶に計算されつくした一作とぼくは見ました。  日常系ライトノベルもここまで来たのかと感嘆せずにはいられないという意味で、今年のベスト候補です。  もちろん、シンプルに一本のラブコメディとして読んでもめちゃくちゃ面白い。  ただ、これをぼくのようなすれっからしの読者ではない、いまの若い層が読んで面白いと思うかというと、それはよくわからない。  Amazonなどでくり返し指摘されている通り、「一本の小説としての起承転結が構成されていない」作品だからです。  物語はなんとなく始まりなんとなく終わっているように見えます。  おそらくじっさいには見た目に反して精密な計算があるものと思われますが、それにしても一貫したストーリーは存在しないといってもいいくらい極端な構成に仕上がっている。  一般的な意味での「物語」がないのです。  そのかわり、くり出されるネタの「手数」で勝負している印象。  いわば一撃入魂の必殺パンチではなく、計算ずくのコンビネーション・ブローで戦っている作品といえるかと思います。  それでは、なぜ極端に「物語らしさ」を欠いたプロットになっているのか?  もちろん、 

平坂読『妹さいればいい。』は動機がない時代のバイブルとなるのか。

萌えラブコメが「ハーレムファンタジーのタブー」を乗り越える日は来るか?

 ぼくの今年いちばんのオススメ作品であるところの『妹さえいればいい。』などを読んでいると、日常系ラブコメがだんだん「現実」に近づいていっているのを感じます。  不毛な対立軸を乗り越え、ルサンチマンを乗り越え――人々はついに現実を受け入れようとしているように見えるのです。  もちろん、そこで描かれる現実はきわめて誇張されたものであるには違いないのですが、どうだろう? それくらい極端な日常は、案外、いまどきめずらしくもない気もします。  少なくともぼくは『妹さえいればいい。』を読む時、「ああ、ぼくの日常とたいして変わらないな」と思う。  ただ女の子がいないだけで(笑)、ひたすらばかなことをやって遊んでいるところは共通している。  もはやこのファンタジーはそこまで極端にファンタジーだとはいえなくなっているんじゃないか。  ところが、いまのところそこにひとつだけ残った明確なファンタジーがあるんですね。  それは「ヒロインは主人公のことを好きになる」ということ。いわゆるハーレムファンタジー。  このファンタジーがあるかぎり、どんなに魅力的な男性キャラクターが出て来ても、主人公以外と結ばれることはありえないということになります。  もちろん、『ニセコイ』みたいに端っこと端っこでくっついている、つまり主人公の友達とヒロインの友達がくっついている、みたいなパターンはあります。  しかし、基本的にはやはり「序列上位」のヒロイン、つまりいちばん可愛い女の子たちは主人公のものでなければならない、というのが萌えラブコメのルールなのです。  それこそ『ニセコイ』でも『化物語』でもいいですが、上から数えて1番から5番くらいまでの可愛い女の子はすべて主人公を好きになる。  そういうルールが萌えラブコメには存在しています。そういうものなのです。  ただ、ぼくはどうしてもそれが納得いかなくてね。  だって、不自然じゃないですか? 世の中にはたくさんの魅力的な男性がいるというのに、主人公ひとりだけがすべてを持っていくということは。  長い間、萌えラブコメにはある種のテンプレートを除いては男性キャラクター自体が登場しえないことが常識的でした。  「主人公の友達」とか「主人公の師匠」とか「金持ちのライバル」とか、そういう必要最小限のキャラクターは出て来るんだけれど、本格的に主人公を脅かす存在は出て来ないということですね。  もちろん、細かく見ていければいくらか例外はあるでしょう。  しかし、全体的に見ればやはり主人公にとって危険な存在となりかねない魅力的すぎる男性キャラクターは(あて馬的登場を除けば)ありえないものだったといっていいと思います。  それも少々変わってきているのかな、と思わせる作品はあります。  たとえば 

萌えラブコメが「ハーレムファンタジーのタブー」を乗り越える日は来るか?

そこに童貞マインドはあるかい? 日常系ラノベがオタクファンタジーを捨てるとき。

 いまペトロニウスさんとLINEで話していた内容がちょっと面白かったのでメモ。  平坂読『妹さえいればいい。』の話なのですが、これ凄いよね、さすがだよね、でも単純に面白いかというとどうなんだろう――という内容だったのでした。  というのも、『妹さえいればいい。』は「あまりにも成熟しすぎている」作品に思えるからです。  すべての登場人物がバランスよくトラウマとかコンプレックスを抱えていて、「特権的なリア充」とか「特権的な非リア」とかが存在しない。  しかも各人物はみな自分の人生に責任をもてる大人で、特別大きな「欠落」といったものはない。  したがって、極端な行動に出る動機がない。「いまこのとき」をひたすら幸せに過ごす――ただそれだけといえばそれだけの物語になっている。  それは中高生向きの作品としてどうなのか、ということです。  さすがペトロニウスさんはクリティカルなポイントを突いてくるなあ、と思うのですが、そうなのです。  『妹さえいればいい。』は恐ろしくよくできた作品なのですが、それでもあえてひとつ足りないところを挙げるとすれば、「童貞マインド」が足りないとはいえると思うのです。  世界が成熟しすぎている。童貞くささがない。中二病もない。  いかにもそれっぽく装ってはいるけれど、じっさいはそこからは遥かに遠い。  これは大人の小説なのです。  前作『ぼくは友達が少ない』は「友達がいない自分たち」と「友達がたくさんいるリア充」を比較することによって、その「落差」でドラマを駆動していました。  そう、面白い物語には必ず「落差」があります。  王子とこじきでもいいし、光の鷹と狂戦士でもいいのですが、とにかく極端なコントラストが描けていればいるほどその物語は面白くなります。  しかし、社会が成熟していけばいくほどに、そういう「格差」は失われていくのですね。  『妹さえいればいい。』はあきらかに意識して「友達さがし系」の「次」を狙って来ているわけなのですが、そしてそれはきわめて考え抜かれた計算の結果だということもわかるのですが、「ぼくは友達が少ない」という呟きに続く世界は「ぼくは何もかも満たされている」としかいいようがないものだったのではないか、と思わざるを得ません。  いや、正確にはちょっとした「欠落」は全員が抱えているのだけれど、もはや大騒ぎしてそのトラウマを叫びださないくらい状況が洗練されている。  なぜなら、だれもが何かしらのことは抱えているということはわかっているのだから。  それでどうなるかというと、もうほんとうにただ楽しいだけ、の世界にたどり着いてしまったのですね。  悪くいうなら、ここには確固たるドラマツルギーがない。なぜなら、ドラマを牽引するモチベーションが存在しないからです。  「何も欠けていない」のだから、あえて現状を変革する必要もないということ。  あたりまえといえばあたりまえのことですが、しかし、ここには「それでは物語が存在する意義は何なのか?」という深刻な疑義が挟まれる余地があります。  伏見つかささんの『エロマンガ先生』なんかもそうなんですけれどね。  ある意味で、もはや「問題は解決してしまっている」のです。必死になって解決しなければならない問題は、もはやべつにない。  したがって、 

そこに童貞マインドはあるかい? 日常系ラノベがオタクファンタジーを捨てるとき。

『僕は友達が少ない』、『妹さえいればいい。』の平坂読はなぜ批判されつづけるのか?

 平坂読の最新作『妹さえいればいい。』をくり返し読み返している。  面白いなー。面白いなー。  一般文芸とはまったく異なるライトノベル特有の世界なのだけれど、ぼくとしては非常にしっくり来る。  作中では主人公がAmazonレビューを罵倒していたりもするのだが、じっさい、この小説のAmazonレビューを見ると「まあ、罵倒したくもなる気持ちもわかるよな」と思えて来る。  もちろん、普通に読んで評価している人もいるのだけれど、★ひとつ付けているレビュアーとか、あきらかに本編を読んでいないものなあ。  まさに「アマゾンレビューは貴様の日記帳ではない!」といいたいところ。  一方で「小ネタの連続ばかりでストーリー性が薄すぎる。その割には変な商売っ気だけはやたらと豊富」という★★の評価もあって、これは非常によく理解できる。  普段からライトノベルを読みなれていない人が読むとこういうふうに思うだろうな、と。  ただ、ある程度この手の小説に慣れている人間から見ると、やはりいくらか筋違いに思えるのもたしか。  「普通の小説であれば、おそらく必要不可欠の要素である一冊の本を通してのストーリーと言うべき物が全く無いのである」ということなのだが、すいません、平坂読の作品は「普通の小説」ではないのです。  『妹さえいればいい。』をあえてジャンル分けするなら、いわゆる「日常もの」にあたるだろう。  この作品に「一冊の本を通してのストーリー」がないという指摘は正しいが、そういう物語は既に膨大な数が出ており、しかも読者に受け入れられているのだ。  『ゆゆ式』にも狭い意味での「ストーリー」らしきものはほとんどないが、いまさらそれを問題視する人はほとんどいないと思う。  たとえば『To Heart』あたりから数えるとすれば、オタク文化はもう既に20年くらい日常ものを描いている。  『あずまんが大王』から数えると15、6年かな。  一般的な意味での「ストーリー」がほとんど存在しないように見えるプロットは、ラノベ慣れしていない人にはさぞ奇妙に見えるだろうが、実はそれなりの歴史と伝統を背負っているのである。  また、作中にオタクネタをやたらと散りばめるのも、既に何年も前に確立された方法論だ。 そのストーリー性の薄さの代わりにやたらと詰め込まれていたのがラノベネタである ラノベ作家を主役にした作品なのだから当然だろうという方もいるだろうけど、ここで言う「ラノベネタ」というのが現実に出版されたラノベなのだから仰天させられた  とあるのだけれど、これはべつに『妹さえいればいい。』の独創ではなく、いまのライトノベルにおいてはむしろスタンダードな方法論であるわけなのだ。  そしてそういうやり方が採用されているのは「商売っ気」というより、単純に読者が喜ぶからだろう。  じっさい、ぼくは217ページ5行目のネタで死ぬほど笑った。  この種のジャンル自己言及はジャンルを狭いターゲットに向けて閉じていくから良くないという評価もあるとは思う。  しかし、それをいいだしたらSFとかミステリが自己言及を重ねながら進歩していった歴史も否定されなければならないことになる。  新本格ミステリなんて全部ダメになるんじゃないですかね?  綾辻行人のクリスティネタとか有栖川有栖のクイーンネタは良くて、平坂読の『Fate』ネタ、『ソードアート・オンライン』はネタは良くない、という理由もないだろう。  まあ、そんなことばかりやっていたから本格ミステリは商業的に衰退したんだ!といわれると一理ある気はしますが……。  ここらへんはもうちょっと深堀りしないといけないテーマかもしれない。  そういうわけで、このレビューの批判的な「読み」は、何をいいたいかは非常によくわかるのだけれど、あまりにもいまさらな指摘に思える。  ラノベを読みなれていない人がそういうふうに感じることは非常に無理がない話ではあるのだが、現在のラノベではこの程度のことは善かれ悪しかれ常識なのである。  つくづく思うけれど、ライトノベルを読むためにはライトノベル特有のリテラシーが必要なんだよなあ。  「タイムパラドックスって何?」という人がSFには向かないように、「密室殺人ってどういうこと?」という人がミステリには適さないように、ライトノベルを読むためにはそれなりの知識と感性が必要になるということなのだろう。  まあ、それが良いことなのかどうかということは、先述したようにたしかに議論の余地があるだろうけれど……。  しかし、一方で『妹さえいればいい。』は非常に間口が広い作品でもあると思う。  たしかにラノベ特有の異色の方法論を用いて入るのだが、見方を変えればほんとうにただの青春小説だからだ。  オタク版『ハチミツとクローバー』だよなあ、と思うくらい。  たしかに 

『僕は友達が少ない』、『妹さえいればいい。』の平坂読はなぜ批判されつづけるのか?

そしてぼくたちはリア充にたどり着いた。『はがない』平坂読の最新作がマジで新時代を切り開いている件。

 天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずというけれど、しかし現実には人間は平等なんかじゃないよね――と一万円札のおっさんは言った。 そのとおりだなーと京は思う。 人間は平等なんかじゃない。 可児那由多は、あたしよりも価値がある。  平坂読といえばベストセラーシリーズ『僕は友達が少ない』(通称「はがない」)で知られているライトノベル作家だが、先日、その平坂の最新作が出た。  「妹さえいればいい。」というわかりやすいタイトルに「日常ラブコメの到達点」というコピーが付いている。 『はがない』がわりと好きなぼくは「またまたまたまた」と思いつつ、読んでみた。  ――素晴らしい。  ぼくはブロガーとして、小説や漫画や映画についての意見を文章にまとめあげることを仕事にしていて、どんな作品のことであれ一応は饒舌に語り上げるテクニックは身につけているつもりだ。 だが、ほんとうに凄い作品と出逢ったときは「やばい」しか言葉が出ず、「やばいやばいやばいやばい」と書いては消し去る作業をくり返すことになる。  『妹さえいればいい。』はまさにそんなやばい一作。 読み進めるほどに幸福感がつのり、「これはすごいのでは……?」という思いが「すげえ!」に変わっていった。  いやあ、これはほんとすげえっすよ。 「やばい」とか「すげえ」とか抽象的な言葉ばかり使って内容がない書評はろくなものではないが、ついついそういう表現をしてしまうくらい面白い。  2015年で接したすべての創作作品のなかで暫定1位。 べつだん、ぼくはライトノベルの栄枯盛衰自体はどうでもいいのだけれど、こういうものを読むと「ラノベ、まだまだいけるじゃん」と伊坂幸太郎作品のコピーみたいなことを思う。  そういうわけなので、このブログの読者の皆さん及びどこからかリンクで飛んで来た方々はぜひ読んでみてください。とってもオススメです。  あ、ライトノベルそのものに特に興味のない方はけっこう。 あらゆる意味でライトノベルでしかありえない表現をまとめあげた特濃の一作なので、ラノベ初心者は内容のクレイジーさに付いていけない危険がある。  というか、そういう人は冒頭2ページくらいで読むのをやめると思う。ためしにそのあたりをちょっと引用してみよう。 「お兄ちゃん起っきっき~」  そんな声が聞こえて目を開けると、俺の目の前に全裸のアリスが立っていた。  アリスというのは今年14歳になる俺の妹で、さらさらの金髪にルビーのような真紅の瞳が印象的な、文句のつけようのない美少女だ。 「ん……おはようアリス」  頭がぼんやりしたまま俺が挨拶をすると、アリスはくすっと笑って、 「眠そうだにゃーお兄ちゃん。そんなねぼすけなお兄ちゃんには――」  アリスの顔が俺に急接近してきて、そのまま――チュッ。 「……!」  アリスの柔らかい唇が俺の唇に押し当てられ、眠気が一瞬で吹き飛んだ。 「目が覚めっちんぐ? お兄ちゃん」  唇を離し、アリスは悪戯っぽく微笑む。その頬は少し赤い。 「今日の朝ご飯はアリスの手作りだりゃば。冷めないうちに早く来てにゃろ」  うん、頭おかしいですね。 大成功を収めたシリーズものの次の作品を、「お兄ちゃん起っきっき~」で始める平坂先生のアグレッシヴさにはマジで尊敬を覚える。  ほんとうはこの先にさらなる狂気の世界がひろがっているのだが、それはゲンブツで確認してほしい。  もちろん、すべてはあくまでネタであり、上記は主人公が書いた小説の一節という設定なので、この一節を見て「やっぱり読むのやめておこうかな」と思った人もどうか読んでやってください。  いや、この種のギャグをまったく受け付けないという人は無理をしなくていいけれど、たぶんこれがこの小説における最初にして最大の障壁なので、ここで挫折してしまうのはもったいない。 繰り返すが、ぼく的には年間ベストを争う傑作なのだ。  どこがそんなに面白いのか? 色々あるけれど、ようするにこの小説、才能と実力を兼ね備えたリア充連中がキャッキャウフフしている描写がひたすら続くリア充小説なのだ。そこがいちばん凄くて面白い。  主人公は妹萌えが狂気の域に達しているライトノベル作家・羽島伊月。 かれとかれのまわりに集まってくるライトノベル業界の残念な奴らがたまに仕事をしながらひたすら遊んでいるという、それだけといえばそれだけの内容である。  しかし、これが面白い。ほんとうに面白い。 ライトノベルの主人公をライトノベル作家にするのも、有名無名の実在作品を取り上げて作中に散りばめるのも、過去に作例があり、特に新しくはないのだが、この衒いのないリア充感は確実に新境地をひらいている。  この小説のテーマはそのまま「メインテーマ」と題された一章に記されている。  才能、金、地位、名誉、容姿、人格、夢、希望、諦め、平穏、友だち、恋人、妹。  誰かが一番欲しいものはいつも他人が持っていて、しかもそれを持っている本人にとっては大して価値がなかったりする。  一番欲しいものと持っているものが一致しているというのはすごく奇跡的なことで――悲劇も喜劇も、主に奇跡の非在ゆえに起きるのだ。  この世界(ものがたり)は、だいたい全部そんな感じにできている。  ここには「容姿」や「才能」や「金」に恵まれた人間が特別で、そうでない人間は不遇だという価値観がない。 「リア充」対「非リア」といったわかりやすい対立軸がさりげなく、しかし明確に解体されている。  これはリア充を仮想敵にした上で、その実、かぎりなくリア充的な日常を描いていた『はがない』から確実に一歩を踏み出しているといっていいだろう。 もはや 

そしてぼくたちはリア充にたどり着いた。『はがない』平坂読の最新作がマジで新時代を切り開いている件。
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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