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アニメはほんとうに女性を差別しているのだろうか。

 先日、「本を書きたい!」といった通り、アニメや漫画、ライトノベルなどのポップカルチャーとジェンダーについての本を、どこで発表するあてもなく(笑)書いています。  とりあえず20000文字くらいは達したかな。書いたら推敲しなければならないので単純にどこまで仕上がったとはいえませんが、まあ、それなりに進んではいます。  で、ぼくがそういう本を書こうと思い立ったのは、既存のこの種の本に文句があるからなんですねー。どうもこの手の本はあらかじめ「アニメやマンガのなかにはひどい性差別があるに違いない!」という結論を決めてしまって、それに見合う作品ばかりを取り上げているように思われるのです。  もっとひどい場合には、ありもしない問題を見つけ出してしまっていることすらある。  いや、ぼくはアニメやマンガのなかに性差別的描写が存在しない、といいたいわけではありません。ジェンダーの呪縛は大いにあるでしょう。  しかし、すべてのアニメ/マンガ/ラノベが一様に性差別の標本として使えるわけではないし、なかにはそこらの学者の本よりよほど先進的な内容の作品もあるはずなのです。  それを上から目線で「サベツしているに決まっている!」と決めつけるのはいかがなものか。たとえば、水島新太郎さんの『マンガでわかる男性学』にはこのような記述が存在します。  近年、マンガのなかに描かれる女性像には大きな変化が見られます。これまで母親や恋人といった脇役を押し付けられてきた女たちが、男から独立した、強くてたくましい女として描かれるようになったのです。  ガンダム・シリーズでは、マリュー・ラミアス(『機動戦士ガンダムSEED』)やスメラギ・李・ノリエガ(『機動戦士ガンダム00』)が、艦長として活躍しますし、スポーツマンガでは、百枝まりあ(『おおきく振りかぶって』)や相田リコ(『黒子のバスケ』)が、監督・コーチとして重要な役割を担います。『少女革命ウテナ』では、王子様になることに憧れ、自分を「ぼく」という一人称で語る男装の少女・天上ウテナが、男顔負けの戦いぶりを見せてくれます。  しかし、彼女たちは、本当に男から独立した、強くてたくましい女たちなのでしょうか。  『機動戦士00』の女艦長・スメラギは、重度のアルコール依存に苦しむ女として描かれていますし、女監督を務める百枝まりあや相田リコにしても、物語の主体として描かれることはありません。『少女革命ウテナ』に登場する女たちも、シリーズ構成を務める榎戸洋司いわく、「男に守られる女であり、守ってもらえるよう試行錯誤する女」でしかないのです。  『ベルサイユのばら』のオスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ、『美少女戦士セーラームーン』の月野うさぎ、『スレイヤーズ』のリナ=インバースなど、悪者と戦う強くてたくましい女主人公たちにも同じことが言えます。オスカルにはアンドレ、月野うさぎにはタキシード仮面、リナ=インバースにはガウリイがいるように、彼女たちはみな、守ってくれる男ありきのヒロインなのです。  えー(疑いの声)。それはないでしょ。まさにそういう女性像を生み出す社会構造からの脱出をテーマにした作品であることを無視して、『ウテナ』の女性キャラクターを、榎戸さんの発言(出典がないぞ!)を引いて「「男に守られる女であり、守ってもらえるよう試行錯誤する女」でしかない」と総括するのもどうかと思うけれど、それ以上に後半が問題。  まあ、百歩譲ってオスカルや月野うさぎはまだ良いとしても(ほんとうは良くないわけですが)、どう無理筋の解釈をしてもリナ=インバースが「守ってくれる男ありきのヒロイン」だとは思えません。  たしかにリナはガウリイに助けられることもあるけれど、その反対にガウリイを助けることだってある。一方的にガウリイに頼って守ってもらっているわけではまったくないのです。  もし、リナの描写では「男から独立」度が足りないというのなら、いったいどんなキャラクターなら十分に主体的で独立していることになるのかと問いたいくらい。  この本にはほかにも納得のいかない箇所がたくさんあるのですが、ようするに、ぼくにはただ自論を補強するために漫画作品を利用しているように思えてならないのですね。  あるいはそうでなければ、初めから上から目線で作品を見ているので、作品を読んでいても読めていないことになっている。  「ライトノベルが自立した女性なんて描いているはずがない」とあらかじめ結論を固定しているから、じっさいには存在しない「守ってくれる男ありきのヒロイン」が見えてしまうのではないかと思えてなりません。  ぼくはこういうのが嫌なんですよねー。作品に対し特に愛情も敬意もない人たちが自分の主張を強化するためにアニメやマンガのなかのジェンダーを批判するという、あまりにも偏った構図。  これと同種の本である『お姫様とジェンダー』や『紅一点論』にも似たような不満を感じました。  アニメやマンガのなかのジェンダーを批判するな、とはいいません。大いに批判してもらってけっこうだけれど、そのときは偏見に曇らされていない目で見てほしいと思うのです。  その意味では、高橋準『ファンタジーとジェンダー』は良かった。この本はファンタジー小説のなかのジェンダー描写を取り上げて問題にしているのですが、よくある『指輪物語』などの名作どころだけではなく、『グイン・サーガ』や『十二国記』といった作品まで取り上げているのが面白いところです(できれば『カルバニア物語』も扱ってほしかったけれど、ひょっとしてこの本の刊行時期は『カルバニア物語』の開始より前なのかな)。  『グイン・サーガ』を初めとするファンタジー小説の男性中心性に関してはぼくはかねて疑問を抱いていたので、この本の語るところには非常によく納得できました。  まあ、『西の善き魔女』なんかは、あえてその構造を踏まえてメタ的にずらしているのでひと口にはいえないのだけれど。  とにかくぼくはここら辺の本を踏まえて、ぼくなりの本を書きたいのです。しかし、はたして書けるかな……? うん、まあ、がんばります。うす。ふぁいと。おー。 

アニメはほんとうに女性を差別しているのだろうか。

騙されても、裏切られても、傷つけられても、まっすぐ光の差すほうへ歩いていこう。

 「幸せ」のことを考えている。  幸せになるとはどういうことか、そして、幸せでありつづけたいならどういうことをすればいいのか。  答えは明瞭ではありえないが、幸せになるためにはいくばくかの勇気と、そして素直さが必要であるという考えは揺るがない。  勇気については、すでに語った。素直さとはどういうことか。  つまり、自分が幸せになりたいと思っていると素直に認めることが大切だと思うのだ。  そうでなければ、幸せになるためにはああすればいい、こうすればいいと教示されたところで、皮肉にほほ笑んでこう呟くばかりだろう。「そんなことで幸せになれるなら苦労はしないさ」。  しかし、幸福とはどこか遠くにあるものとは限らない、心のありようひとつでいかようにも変われるものなのだ。  それなのに「自分は決して幸せになれない」と考える人は、むしろ「不幸である自分」に何かしらの価値を見いだしている可能性がある。  そうやって、素直になれない限り、幸せに手が届くはずもない。ひとは光の差すほうへ歩いて行くべきなのだ。  と、こう書いていて思い出されるのは、北村薫の小説『朝霧』に出て来るこんなセリフだ。 「いいかい、君、好きになるなら、一流の人物を好きになりなさい。──それから、これは、いかにも爺さんらしいいい方かもしれんが、本当にいいものはね、やはり太陽の方を向いているんだと思うよ」  「本当にいいものは太陽の方を向いている」。  十数年前、初めてこの小説を読んだときは「ほんとうにそうだろうか」と疑問に感じたものだが、いまならいくらかはわかるように思う。  「本当にいいもの」には、無明の闇のなかでなお光を目ざすような向日性がある。  それは決してただ明るい光が燦々と照らすなかで生まれ育っているということではない。  むしろ、絶望の闇のなかでこそ、それでも光を目ざすことができるかどうかが試されるのだ。  たしかに、闇や悪や狂気といったものの深遠な魅力にくらべ、光には素朴なところしかないようにも思える。  しかし、そうではない、光の道の奥深さは、それを歩いてみて初めてわかるもの、ナウシカもいっているではないか。「いのちは闇の中のまたたく光だ」と。  もちろん、 

騙されても、裏切られても、傷つけられても、まっすぐ光の差すほうへ歩いていこう。

運命を受け入れて生きるということ。

 えー、今月は更新が少ないですね。さすがに何か新しいアニメか映画あたりの話を書け、と思っている読者の方が大勢を占めると思うのですが、もう少しだけ最近ぼくが思うことについて書かせてください。  ぼくはここ数年、少しずつ少しずつ良い方向へ変わっていっているという実感があります。随分と無意味なことで苦しんだ気もしますが、それも峠は越したんじゃないかな、と思うのです。  ぼくがたぶんここ30年くらい引きずっている色々な問題に、解決の道が見えて来た。いや、ずっと長いあいだ、それはそもそも解決の方法などなく、一生抱えていくしかない問題だと考えていたのですが、どうやらそうでもないらしいということがわかって来ました。  すべては、ちょっとしたボタンの掛け違い――それを何十年も引きずってきただけなのかもしれない、ということに気づいたのですね。  つくづく思い込みは怖いと思います。どんなに簡単なことでも「自分にはできない」と思い込んでしまったらそれまで。ほんとうにできなくなってしまう。  それをペトロニウスさんはナルシシズムと呼んでいるのだろうし、ぼくは空転する自意識の問題といったりするのですが、とにかく一旦、「自分はこういう人間だ」と思い込んでしまうと、その枠から抜け出すことは非常にむずかしいように思います。  それはあるいは幻想なのかもしれないし、そこまではいわなくても事実を過剰に受け止めているかもしれないのだけれど、でも、信じ込んでいる人にとってはそれはまさに真実なのですね。  しかも、そう思い込んでいるとあらゆる出来事がその思い込みを裏付けているように思えて来る。たとえば、「外にでると危ない」と思い込んでいる人にとっては、雷の一閃や、道ばたのおうとつひとつが、その思い込みの証拠に思えてならないように。  だから、思い込みに浸らないようにして生きていくことが大切なわけです。しかし、ひとは簡単に思い込んでしまう生き物なので、じっさいそれはむずかしい。  したがって、常に自分は何か現実と違うことを思い込んでいないか、とチェックしていく必要がある。どうやってチェックすればいいのか? つまり、自分の考えていることを現実と照らしあわせてみるのです。方法はそれしかない。  そのための具体的なやり方のひとつが、他者とのコミュニケーションということになります。「自分は嫌われているいるんじゃないか?」という思い込みの不安を解消するために最も良い方法は、関係者に直接訊いてみることです。  その一歩を踏み出せれば、ひとは空転する自意識から自由になれる。しかし、これがなかなかできないんだな。なぜなら、自意識の空転を続けていると、ループする想像によって恐怖や不安が途方もなく大きくふくれ上がってしまうからです。  その状況下で一歩を踏み出すことは傍から見ているだけの人が想像する以上の勇気が必要となる。ひきこもりの人が部屋から外へ出るだけのことにとてつもない労力を必要とするのも、つまりはそういうことです。  最近、ブロガーの坂爪圭吾さんが「傷つく前に傷つくな」とくり返し書いているけれど、ひとはじっさい、大方、現実に傷つく前に想像のなかで傷ついてしまうものです。  それが「ナルシシズムの檻」。けれど、どこかでその「一歩」を決断して踏み出さないことには永遠に肥大化しつづける檻のなかで苦しんでいなければならない。  だからこそなけなしの勇気を振り絞ろう。そして、なるべく頻繁に、かつ丁寧に「ボタンの掛け違い」を修正しつづけよう。そういうふうに思います。  栗本薫はその作品のなかで、「それがどんなに過酷でも、残酷であっても、ひとは真実を見つめなければならない」というテーマをくり返し示しているのだけれど、それはつまり、真実だけがひとを思い込みの地獄から解放してくれるからなのだと思う。  空転しつづける自意識の牢から脱出するためには、「ほんとうのこと」と向き合わなければならないわけなのです。  ぼくも随分と長い期間、その牢獄のなかにいました。そして、自分には色々なことができないに違いないと思い込んでいました。自分はたとえば楽器をひくことも、カラオケで歌をうたうことも、料理をすることも、皿一枚洗うことすらろくにできない人間なのだ、というふうに。  これは主に学校生活のなかで営々と築き上げられたコンプレックスだっただろうと思うのですが、いま思うに、そのくらいのことはやる気になればできないはずはないんですよね。  それはまあ、ものすごく達者になろうと思ったら大変だろうけれど、ある程度のレベルくらいには、時間さえかければ到達できるはず。だから、ぼくは最近、こう考えるようにしています。「ぼくは何でもできる。何にでもなれる」と。  もちろんほんとうはそんなはずはない、できないことなどいくらでもあるし、なれないもののの方が多いはずだが、少なくとも自分の頭のなかで「できるはずがない」と決めつけることはやめよう、というわけですね。 (ここまで2045文字/ここから2069文字) 

運命を受け入れて生きるということ。

「正しい意見」がいつも最大の価値をもつとは限らない。

 小野不由美の『十二国記』に「華胥」と題する短編がある。ある国家の衰亡を描いた作品だが、そのなかでこんなひとことが読者に突きつけられる。「責難は成事にあらず」。  「何かを非難することはものごとを成し遂げることではない」というほどの意味だ。ぼくはつくづくこの言葉に考えさせられた。  きょう、インターネットにはひとを非難する言葉があふれているし、だれよりぼく自身、色々な批判をくり返して来た。しかし、それらはしょせん、何かを成し遂げることではないというのだ。この言葉をどう受け止めれば良いのだろうか?  ひとつには、こんな言葉は妄言だと切り捨てることができるだろう。批判には価値がある、間違えた意見を批判していかなければ社会はそういった意見が蔓延し、社会は腐敗してしまうのだ。間違えている意見を批判し正すことは必要な上に重要なことなのだ、と。  これは一面で正しいように思う。『十二国記』にしても、批判は必要ないと云っているわけではないだろう。ただ、必要ではあっても、「成事」ではないと云っているのである。  どういうことか。ぼくなりに云い換えるなら、何かを批判することは「マイナスをゼロにする」行為で、「プラスを生み出す」行為ではないということになる。  「間違えた意見」という「マイナス」を減らしていくこともたしかに必要だけれど、それが「プラス」を生んではいない以上、その意見を述べている者がそれによって高く評価されないとしても仕方ないのだと思う。  世の中には、時に間違えた意見を云っているひとが、いつも正しい意見を云うひとより目立っているように思われる場面がある。  これは理不尽な状況であるようにも思われるが、しかし、収支決算としてみれば、いつも正しいことを云っていても批判ばかりしかしないひとより、時に間違えてマイナスを出しても、プラスの価値を生産できるひとのほうが評価されるのは当然のこととも云えるのである。  それくらい、社会にプラスの価値をもたらす言説というものは貴重なものなのだ。  さらに云えば、意見ないし主張の「正しさ」と「価値」はまた別なのかもしれない。「正しくても無価値な意見」はあるし、また、「間違えていても価値がある意見」もありえる。たぶん、「正しさ」こそがすべてだと考えると、色々なことが混乱してくるのだろう。  いちばんシンプルな例を考えてみよう。だれかが「1+1=3」と主張しているとする。これは明確に「正しくない」意見だ。したがって、「それは間違えている!」という批判が集まることだろう。  それらの批判は「正しい」。したがって、受け入れられるべきである。ここまでは、ぼくも納得する。  しかし、「1+1=2に決まっているじゃないか」という意見は、既存の、あたりまえの常識をなぞっているだけに過ぎず、べつだん新たな価値を創出してはいない。それが「責難は成事にあらず」という言葉の意味なのではないだろうか。  何かしらの批判が「マイナスをゼロにする行為」であるとすれば、「プラスを生み出す行為」とは、 

「正しい意見」がいつも最大の価値をもつとは限らない。

『十二国記』、『タイタニア』、『ファイブスター物語』、次々と再開する名作たち。(2143文字)

【『十二国記』と『タイタニア』】  小野不由美の完全版『十二国記』が『図南の翼』までたどり着きました。『十二国記』全編のなかでも傑作と目される長編です。  この先、物語は『黄昏の岸 暁の天』、『華胥の幽夢』と続いて未完に終わっているのですが、今後、それにつづく新作長編が発表されるという話。  いったいこの先、どのような展開が待っているのか、期待は高まるばかり。  12年ぶりの短篇集として刊行された『丕緒の鳥』も、たしかにすばらしいクオリティの作品ぞろいでしたが、何といっても陽子たちおなじみのキャラクターがひとりも出て来ない。そういう意味では物足りない内容でした。  しかし、今後の新刊はおそらくそうはならないでしょう。ほんとうの意味で『十二国記』が再会する時は、間近に迫っているように思います。  今年は『星界の戦旗』、『十二国記』、『タイタニア』、『ファイブスター物語』と、いままでなかなか続きが出なかった物語がいっきに再開した記念すべき年であるわけですが、いずれの作品も期待を裏切らない出来で嬉しいです。  特に、あとでくわしく書きますが、田中芳樹の『タイタニア』は凄かった。「田中芳樹の全盛期はまだ終わっていなかったのか!」と刮目させられるハイレベル。  正直、「いまの田中芳樹に『タイタニア』の続刊が書けるのだろうか?」と疑わしく思っていたのですが、いや、書けたんですね。恐れいりました。  ほんとうに正しい意味での「小説」を読む歓びを、一ページ一ページ本をめくっていく楽しさを、ひさしぶりに思い知らせてくれる作品でした。  この作品を読んでぼくは、自分がどんなに小説を読むことが好きだったのか思い知りました。 【酷烈なる物語】  近頃の萌え燃えなライトノベルも、もちろん悪くない。しかし、あらためていま『タイタニア』を読んでみると、 

『十二国記』、『タイタニア』、『ファイブスター物語』、次々と再開する名作たち。(2143文字)

男性向けではなく、女性向けでもない群像劇を読みたい。(3142文字)

 ひとにはそれぞれ好みがあります。あるひとにとって理想的な作品もべつのひとにとってそうではないのは自然のこと。もちろんぼくにも好みの偏りがあり、「こういう物語を読みたいなあ」という漠然とした思いもあります。  で、きのうSkypeで話しあって気づいたのですが、ぼくは「男女が互角にやり合う群像劇」を読みたいという欲望があるらしい。  いままでも「もう少し女性キャラクターが活躍する話を読みたいなあ」とは思っていたのですが、それだけなら、当然、いろいろあるんですよね。でも、ぼくの好みとは少しずれている。  ぼくはやっぱり「複数の男性と女性が互角に入り乱れて戦ったり恋したり憎みあったりする物語」を読みたいのだと思う。  こう書いてもまだ、あれがある、これがある、と思い浮かぶひとはいるでしょう。しかし、じっさい、ぼくの好みにぴったり合う作品は少ない。  『Fate/Stay night』はなかなかいい線を行っていると思う。アーチャー、ランサー、バーサーカー、ギルガメッシュといった男性陣と、セイバー、キャスター、ライダーといった女性陣がほぼ対等に入り乱れて戦っている辺り、非常にぼく好み。  しかし、あれはやっぱり衛宮士郎を主人公とした「少年の物語」なので、群像劇としては一定の枷が嵌まっている気はします。そこが惜しいですね。  『Fate』には『Fate/Zero』という物語もあるわけですが、こちらはより男性中心の物語で、ほぼ紅一点のサーヴァントであるセイバーもあまり格好良くは活躍しません。  いや、十分、活躍してはいるのですが、あの作品で印象に残るキャラクターといえば、やはりライダーことイスカンダルなのではないでしょうか。そこがまあ、不満といえば不満です。  つまりまあ、完全な男性主人公の物語にぼくの好みを満足させるものを求めることには無理がある。それなら、女性向けではどうか。  ぼくはそれほどくわしくないのですが、コバルト文庫などには女性主人公で、壮大な物語を展開した作品もあると聞きます。あるいはそういった作品ならぼくの欲望を満たしてくれるかもしれない。  でも、どうだろう、女性向けの作品だと今度は男性キャラクターが、同性の目から見て弱い印象になってしまう気がするんですよね。  もっとも、少女小説と呼ぶのが適正かどうかはわかりませんが、小野不由美『十二国記』はほぼぼくの要求をほぼ完全に満たしているように思います。  けれど、あの作品にはなんというか「色気」がない。徹底的にストイックなので、ぼくはもう少し恋愛したり愛憎が絡んだりするほうが好みなのですよね。  女性向けの作品でいうと、よしながふみの『大奥』などはどうか。悪くない。むしろ素晴らしく性差を相対化できているとは思うのですが、ぼくはふしぎとこの作品のキャラクターに親しみやすさという意味での魅力を感じません。  これは相性が悪いとしかいいようがないかもしれない。ちょっとここらへんは要分析ですが、とにかく『大奥』に対しては「キャラクターの魅力」をあまり感じないのです(客観的にはよくできた造形だと思うのですが……)。  そういうふうに考えていくと、ぼくの欲求を満たす作品とは、男性向けでもなく、女性向けでもないということになりそうです。あるいは云いかえるなら男性向けでもあり、女性向けでもある、そういう作品を読みたいな、と思うのですね。  たとえば『咲』なんかはかなりぼく好みです。でも、この作品にはほぼ女の子しか出て来ませんから、ぼくとしては物足りない。もっと老若男女が混じり合っている作品が好ましい。  そういう意味では、『コードギアス』あたりはとても好きですね。この作品では男女がほぼ互角にやりあっているように見えるので、かなり理想に近いといえます。  ただ、これもあくまで「ルルーシュという少年の物語」なので、その根幹を揺るがすキャラクターは排斥されることになる。  ユフィことユーフェミアはそのキャラクターのひとりであったとぼくは考えていて、つまりはユフィが最後までルルーシュと互角に戦う『コードギアス』を見てみたいのです。  田中芳樹や栗本薫の戦記もの、あるいはファンタジー小説はどうか。ぼくはこれらの作品のファンなのですが、やはりきわめて魅力的な男性陣と比べると、女性キャラクターが弱い気がします。  ここらへんは時代的な限界かもしれません。たとえば『タイタニア』だと、四公爵のうちふたりくらい女性だと嬉しい感じ。  『グイン・サーガ』なら、リンダとアムネリスとイリス(オクタヴィアではなく)が、それぞれ一国を背負ってナリスやイシュトヴァーンと戦いを繰りひろげてくれたらぼくとしてはとても満足だったと思います。ケイロニアの男装皇帝イリス! 非常に見てみたかった展開ですね。  

男性向けではなく、女性向けでもない群像劇を読みたい。(3142文字)

『十二国記』のここが納得いかない。(2211文字)

 今年、小野不由美『十二国記』の新刊が出るという。まずは短篇集になるようだが、長編が続くと考えていいのではないか。物語は素晴らしくいいところで中断している。十年ぶりに続刊を読めるとしたらこれ以上の歓びはない。  『十二国記』は稀代の傑作である。だれもがそういうし、ぼくも異論はない。ほんとうに面白い物語だと思う。ただ、それでもぼくはこの小説にかすかな違和感を覚えることがある。批判というほどつよい思いではない。ほんとうに小さな、それでいいのか、という違和。  それはこの小説の価値観に対する違和だ。『十二国記』の登場人物はそれぞれ偉い。立派である。初めは愚かだったり卑小だったりする人物も、時の流れとともに成長してゆく。ぼくはその立派さについていけないものを感じる。だれもがあまりにも偉すぎる。というか、物わかりが良すぎる。  それをいちばん強く感じたのが、いまのところ最大の長編である『風の万里 黎明の空』だ。主人公である陽子を含めた三人の少女たちの放浪と成長を描いた物語だが、その成長がぼくには少々無理があるものに思えた。  『風の万里 黎明の空』一編を貫くテーマは「自己憐憫に耽るな」ということだと思う。自分を哀れんで泣いてばかりいると、自分がだれよりも可哀想に思えてくる。それは何ら事態の解決につながらない。だからそうしてばかりいないで、行動したほうがいい、と。  このテーマ自体には異論はない。ぼくもよく同じ趣旨のことをいうし、正しい考え方だと思う。しかし、ぼくにはどうにもその正しく、また高潔な考え方に違和を覚える。つまり、自己憐憫に耽るまい、と思ってもどうしてもそうしてしまうのが人間ではないか。  たしかに自分を哀れむことは不毛かもしれないが、だからといっていつも凛としていられるかというとそうでもないはずだ。しかし、『十二国記』はそうした弱さを許さないように思える。そこに何か窮屈なものを感じざるをえない。  これが『銀河英雄伝説』だと、そういう感想にはならない。ラインハルトは高潔だが、それは単にかれが特別な人物だからそうだというだけであって、だれもが高潔であるべきとは描かれていないと思うからだ。『銀英伝』には善人とはいいがたいが魅力的なキャラクターもたくさん出てきていて、それが作品を多彩に彩っていると思う。  『十二国記』の場合は、やはり悪い奴はひたすらに悪い奴、というところがある。それが最もつよく出ているのが『東の海神 西の滄海』で、この作品の敵役である斡由は、初めは颯爽たる姿で出てくるのだが、結局、無残な醜態をさらして退場する。かれの役割は主人公のひきたて役であるに過ぎない。こういうところが、どうにも納得できない。  

『十二国記』のここが納得いかない。(2211文字)
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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