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庵野秀明のオリジナル幻想と奈須きのこの偽物論。

 『ファイブスター物語』の第14巻が出ました。今回は魔導大戦序盤のベラ国攻防戦。ソープとラキシスを初め、オールスターキャストが関わる豪華な巻となっています。  また、今回は一巻まるまる戦争ということで、凄まじい量のキャラクターが登場し、情報量も膨大です。  憶え切れない読者をかるく振り落としていくこの傲慢さ。これぞ『ファイブスター物語』という感じですね。  前巻の総設定変更で不満たらたらだった読者にもこの巻は好評のようです。作家が実力で読者をねじ伏せてしまった印象。  『HUNTER×HUNTER』なんかもそうだけれど、読者の不満を無理やり封じ込めてしまうくらいの実力って凄いですよね。  ここには作者が神として君臨する形の作品の凄みがあります。  ぼくはソーシャルゲームの『Fate/Grand Order』を遊んでいるのですが、『ファイブスター物語』のような古典的な作りの作品とはまるっきり印象が違う感じです。  『FGO』はどちらかといえば作り手と受け手、そして受け手同士のコミュニケーションに面白さがあると思うのですよね。  つまり、作り手が作品を投げかける。すると、読者がそれを二次創作を初めとするあらゆるやり方で消費していく。それが『FGO』のようなコンテンツの魅力。  『FGO』のシナリオが傑出して面白いとはぼくは思わないのだけれど、膨大なキャラクターを使ってしょっちゅう「お祭り」を繰りひろげている楽しさはたしかにある。  いま、『ファイブスター物語』のスタイルを「古典的」と書きましたが、さらに時代をさかのぼればおそらく物語は作り手と受け手のコミュニケーションのなかで可変的に綴られていたはずなのですよね。  作家が神のごとく作品世界をコントロールするようになったのは紙の本による出版というシステムが成立してからでしょう。  その意味では、『FGO』のようなスタイルは超古典的といえなくもないかもしれない。  何百年も何千年も昔、人々が焚き火を囲んで話しあい物語を紡いでいったことのデジタルな再現というか。  実はいまから20年以上前、1996年の段階で、庵野秀明さんがこれに関して鋭い指摘をしています(https://home.gamer.com.tw/creationDetail.php?sn=863326)。 庵野秀明: 『ガンダム』のとき、すでに(監督の)富野由悠季さんが、自分の仕事とはアニメファンにパロディーとしての場を与えているだけではないかという、鋭い指摘をなされていた。僕もそれを実感したのは『セーラームーン』です。あのアニメには中味がない。キャラクターと最低限の世界観だけ、つまり人形と砂場だけ用意されていて、そこで砂山を作ったり、人形の性格付けは自由です。凄く使い勝手のいい遊び場なんですよ、アニメファンにとって。自分たちで創作したいのに自分から作れないという人たちにはいいんでしょうね、アニメーションは。(作品が)隙だらけですから。『エヴァ』もその点でよかったようです。所詮(キャラクターは)記号論ですが。    ぼくのいい方をすると、庵野さんは「神」としてオリジナルな作品を作りたいのに作れないということで悩み、最終的に「自分自身の人生だけがオリジナル」ということでああいう物語を作りだしていったわけです。  この後、20年かけて「人形と砂場」の方法論は洗練されていき、『FGO』のようなコンテンツというか「場」が生み出されることになった。  それはもちろん「小説家になろう」あたりとパラレルだし、とても現代的な現象ではあるのだけれど、ひょっとしたら庵野さんあたりは苦々しく考えているかもしれない。  ただ、オリジナルな表現という幻想だとか、作者が「神」として完成されたコンテンツを送り出すというシステム自体が近代独特の特殊な方法論でしかないことを考えるなら、『FGO』的な作品を一概に非難することもできないはずです。  さらにはこういう意見もあります。 興味深いのは、ここで、僕の中で逆転現象が起きたこと。 基本、アニメ・マンガが大好きで、その話がしたくて、「場」を求めていたんです。 それは今も変わりません。未だにプリキュア5とかけいおん!とかアイマスとか凸守とか山田葵とかみつどもえとかガルパンとか上坂すみれとかアスカとかアスカとかアスカとかの話したくて、うずうずうずうずしてますよ。   でも、「今期何見てる?」って言うようになってる自分にも気づきました。 もう話す「仲間」がいるから、そこで会話の題材となる作品を、逆に「場」にしているんですよ、ぼくが。 「題材があるから場を求めている」んじゃなくて、「自分のいる地点で、砂場となる題材を求めている」にひっくり返っていることが稀にある。 これ自体が、意外にも楽しいじゃないかと。 http://makaronisan.hatenablog.com/entry/20130423/1366738022  うん、まあ、わかる。じっさい、砂場と人形さえあればいくらでも楽しめることはたしか。LINEで『FGO』の話をしてTwitterで二次創作漫画をあさっているだけで十分に楽しいもの。  庵野さんふうにいうなら、『FGO』は現代日本で最も成功した砂場で、英霊たちは最も魅力的な人形なのだと思います。  しかし、そこではかつての奈須きのこの才能の鋭さは陰をひそめている。ちょっと残念ではありますね。  『Fate/stay night』では「偽物」という言葉がひとつのテーマになっていました。  庵野さんがオリジナルにこだわるのに対し、より下の世代の奈須きのこは「偽物」でしかありえない自分をより肯定的に受け止めようとしているように見える。その果てに『FGO』がある。  そうだとすれば、『FGO』を否定的に捉えることはできないのかもしれない。ぼくはどうしてももうひとつ物足りないのだけれど……。  作者が「神」として振る舞う宗教型コンテンツと作者も含めて「場」を楽しむ砂場型コンテンツ。現時点ではどちらが優れているともいえませんが、今後、状況がどう変化していくのか、注目したいところです。 

庵野秀明のオリジナル幻想と奈須きのこの偽物論。

「才能」は「可能性」でしかなく、「結果」に繋がらない限り何も意味しない。

 10日ですねー。毎月10日は、ぼくにとっては『月刊ニュータイプ』の発売日。『ファイブスター物語』が読める日です!  いま、『ファイブスター物語』は単行本第14巻に収録されるであろうベラ国攻防戦を描いています。  分裂したハスハのいち小国ベラを守るエープ騎士団のもとにあらわれた天才スライダーのレディオス・ソープ(&妻のファナちゃん)。  そこにさらに幾人もの騎士たちが集まってきて、ついに歴史に残るベラ国防衛戦が始まる――のか?というところ。  このあと、ヨーン・バインツェルとパルスェットの物語が始まるはずなのですが、その前に大規模集団GTM戦が見られそう。  数十年後のマジェスティック・スタンド終戦に至るまで、どんなドラマが見られるのか楽しみです。  それにしても、永野さんももう50代半ばになるはずなのですが、衰えませんねー。  普通、このくらいの歳になると構成力が衰えてくるのですが、いまのところ『ファイブスター物語』はきわめてタイトに構成されているように見えます。  あくまで緊密なショート・エピソードに拘り、「大長編を短編の集合として構成する」という意識で描いているところが素晴らしい。  さすがわかっているなあ、と思ってしまう。  『グイン・サーガ』がそうでしたが、大長編を無計画に書いていくとどこかで「ゆるみ」が出てきて冗長さが増してしまうのですよね。  というのも、ぼくがよくいうように長編は後半へ行けば行くほど処理しなければならない情報が増えていくからです。だから放っておけば必ず大長編は冗長になる。  ぼくはこれを「長編病」と呼んでいますが、それを避けるためにはあらかじめ緊密に構成しておくことと、必要ではない情報を非情にカットすることが必要になる。  『ファイブスター物語』はとりあえずいまの時点ではその短編意識の徹底によって「長編病」を回避できているように思います。  これは凄いことです。  作り手にしてみれば、タイトな構成など考えず、筆の乗るままに描いていくほうがよほど楽だし、気持ちいいはずなのです。  その誘惑に乗らずにあくまで自分にとって辛い、きびしい道を歩きつづけるということは、大変なことです。  だれにでもできることではない。  もちろん、いっとき、天才的ともいえる輝きを示す作家は大勢います。しかし、その大半が「時の審判」に耐えられず消えていく。  それなのに、永野護は30年間を超えていまなおトップクリエイターのままです。これはほんとうに凄いことなのですよ。  なぜそんなことができるのか? 生まれつきひとより優れた才能に恵まれていたからなのか? ぼくはそうは思いません。  長いあいだトップに立ちつづけるために必要なもの、それは「才能」ではありません。「姿勢」です。  永野護はたしかに天才的な才能の持ち主なのだろうけれど、ただ才能があるだけの人ならほかにもいる(まあ、めったにはいないだろうけれど……)。  ほんとうに驚くべきなのはその「才能」を常に錆びつかないよう砥ぎつづける「姿勢」のほうなのだと思います。  「長期的に結果を出しつづける」クリエイターに共通しているのはこの「姿勢」のきびしさです。  どこまでも自分を甘やかさないこと。鍛錬しつづけること。そして向上しつづけること。それが長い期間にわたって実力を発揮するための条件。  「同じ実力を保つ」ことは時の流れのなかで衰えることと同じでしかありません。  「さらにさらに成長を続ける」者だけが「超一流(プリマ・クラッセ)」でありつづけることができるのです。  「天才でありつづける」ことは「天才である」ことよりもっとむずかしいということです。  ぼくは、ほんとうは「才能」など何も意味してはいないのかもしれないとも思います。  ひとより優れた「才能」を持っていても、何かしらの「資質」に欠けていたためになんの「結果」も残さずに終わる人は大勢います。  そして、 

「才能」は「可能性」でしかなく、「結果」に繋がらない限り何も意味しない。

なぜ作家は衰えるのか。

 ぼくは小説であれ漫画であれ映画であれ、物語と名の付くものが大好きな人間なのですが、それだけに物語の良し悪しについてはうるさいところがあります。  で、常々疑問に思っていることが、「若い頃、非常に優れた作品を作っていたクリエイターが、歳を取ると衰えるのはなぜだろう?」ということです。  なぜも何も、加齢とともに能力が衰えるのは一般的なことかもしれませんが、それにしても時とともに成長していける作家の少なさは恐ろしいものがあるように思えます。  決して才能がないわけではない、十分に優れた素質を備えているように見え、またじっさいにそれなりの実績を示した作家たちですら、時が過ぎると作品のクオリティを落とすように見える。これはいったいなぜなのか。  まあ、ぼくは作家ではないからほんとうの答えはわからないのですが、ひとつ考えがあります。  それは結局、やっぱりどこかで力を抜いているからじゃないかということです。  もちろん、本人は手抜きをしているつもりはないんだろうけれど、無意識にせよどこか楽をしちゃっているんじゃないか、というのがぼくの予想。  というのも、物語を構成するということは、本質的に窮屈なことだと思うのですね。  少なくとも、書きたいことをただ書きたいように並べていけばいい、というものではない。  その物語のオープニングやクライマックスやエンディングを効果的に演出するための緻密な計算が必要なのです。  この計算が、歳を取ると面倒になって来るんじゃないかな、とぼくは思ったりします。  もちろん、真相はわかりませんが、大作家の全集なんかを見ていると、後期の作品ほど大長編が増える傾向があると思うんですよね。  これはやはり物語を圧縮する能力が下がるせいなんじゃないかと。  ごく常識的に考えて、巨匠と呼ばれて好きなものを好きなように書いてもだれにも文句をいわれなくなった作家が、なお、自分の作品を窮屈な公式にあてはめて書こうとするかというと――自分はもう奔放に書いても大丈夫だ、と思ってしまうんじゃないか、と予想したりします。  でも、物語を自由奔放に書くのって、やっぱり致命的だと思うのですよ。  あるいは、それでも傑作を書けてしまう天才はいるのかもしれない。  でも、それはやはり意識下できちんと計算をしている結果なんじゃないか。  「ただなんとなく書きたいように」書くのではやはりダメなんじゃないか。そう思います。  ただ、ね、たぶん物語を作っているほうとしては、奔放に作りたいものを作っていくほうが楽だし、気持ちいいと思うのです。  構成なんていう頭を使う面倒な作業は避けて、そのぶん、存分に想像力を働かせて壮大な物語を考えることのほうが、楽しいと感じる人が多いんじゃないかと。  歳とってそういう楽しさに目覚めてしまうと、やめられないんじゃないかなあ、と想像します。  でも、そういう作家が書く作品は、作家自身は楽しんでいても読むほうとしてはあまり面白くないものに仕上がったりするわけです。  書き手が楽しければそれは読み手に伝染するものだ、といういい方をする人もいますが、それはたぶん半分しか正しくない。  作家が真剣に物語を楽しんでいればそれが読者に伝わることはたしかですが、作家が気楽に書けば読者も楽しくなる、というものではないのです。  べつに苦しみながら書くのが正解だとはいわないけれど、たとえば囲碁や将棋で正着、つまり「たったひとつの正しい一手」を見つけ出す作業が苦しいとすれば、物語を書くことも同じように苦しいでしょう。  しかし、その作業を超えないとどうしたって印象的な物語は書けない。  物語とは「山あり谷あり」だからこそ面白いものなのであって、延々と山が続いたり、あるいは谷ばかりだったりしては良くないのです。  だから計算が必要になる。一種の建築ですね。そのようにして作られた物語を、ぼくは「美しい」と形容します。  そのような美しい物語を作る能力はやはり若い頃のほうが高い傾向がある、例外はあるにせよ、ということです。  残念ではありますが、それが現実なのではないでしょうか。  ただ、ですね。これをいいだすとまた長くなるのですが、このような思想に対し、「べつに冗長でもいいじゃん」、「同じことの繰り返しでもかまわないじゃん」という思想はありえます。 

なぜ作家は衰えるのか。
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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