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2013年12月の記事 21件

成長の近代を選ぶにせよ、成熟のデジタル中世を選ぶにせよ。

 ふたつ前の記事を書いたあと、この内容をマッチョに「だから努力しろ!」と主張しているのだと受け取られると困るなーと思ったので補足しておきます。   いや、そもそもタイトルの時点でその可能性は否定しているんですけれどね。ひとはどう読むかわからないからね。 ぼくがこの記事でいいたいのは、「どんなに努力したって無駄かもしれない」ということです。これは「才能」がない人だけがそうだというのではなく、だれだってそうなのです。努力は報われない――まあ大抵の場合は。  しかし、だからといってほんとうに何も努力しないと、人生はあっというまに没落するので、報われなくても良いと思えることに注力すべきだ、というのがペトロニウスさんの意見だとぼくは解釈しました。  報われなくても良いと思えることとは、つまり「好きなこと」ですね。何かに努力を費やすということは、つまりは自分の時間、生活、人生そのものをチップにしたギャンブルです。  で、このチップを何に賭けるかを選ぶ際、どういう基準で選べばいいか。それは勝率が高いか低いか(「才能」があるかどうか)で選ぶのではなく、それを好きかどうかで決めるべきだ、とペトロニウスさんは主張しています。この箇所ね。  けれども、社会人になってからは、そんなの「何が正しいかわからない偶然の世界」で生きてサバイバルしなきゃいけないので、自分にできること、続けられることで努力しないと、努力ってものすごく苦しい地獄になってしまうじゃない? ちなみに、努力なんかしちゃだめだよーって、ことあげであって、その逆が楽をできるってのでは全くないんだよね。勘違いされると、凄い困るんだけど。人生が豊かでリアルな充実に満ちるためには、同様の苦しさや厳しさを体感していなければいけないんだよ。そんなの、当たり前だっちゅーの。ただ、それは自分が内発性が担保できる、結果がなくともいいことがなくても、やっているだけで楽しいものを探していかなければならッていこと。またここもことあげだけど、最初から楽しいだけなんてこともないからね。「繰り返すこと」「量をこなすこと」で異様な量の体験による刻苦によって、基礎土台って出来上がって、そこから本当のことが始まるんだよね。楽しいことを探そう!なんて、バカな行為はしちゃだめですよ。本当に楽しいのって、自分の中に体験を積み上げた先に来るものだから、そんな「端的に楽しいもの」なんてものはこの世界にはないからね。http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131225/p1  この「努力」という言葉も微妙な言葉で、ここでいう「努力」とは必ずしも「苦しさに耐えること」ではありません。むしろ、続けても苦しくないことを選んだほうがいいんじゃね?といっているわけです。  そもそも「努力」と「成功(目標の達成)」は因果関係がないわけだから、苦しい努力をしていたらそりゃ人生が地獄になっちゃいますよ、ということですね。  ここまではまあわかりやすいんだけれど、ここから先はさて、どのくらいの人に理解されているんだろう。  べつに「おれはわかるけれど、皆はわからないんじゃない?」といいたいわけじゃなく、ある程度、ペトロニウスさんが普段から語っていることを踏まえて読まないとわかりづらいと思うんだよなー。  意外とちゃんと理解されたりしているのだろうか。うーむ。ここでペトロニウスさんは時代背景の話を持ちだしているんですよね。  かれによると、わが日本は、かつて長い「成長の近代」ともいえる時代を過ぎて来ました。高度経済成長時代です。そこでは、長期間に渡って経済的な成長が続いたので、「がんばれば成功できる」という幻想が成立しました。  ほんとうは「がんばる」と「成功」の間に因果関係はなく、ただ時代背景がそういう時代だったから多くの人が経済的に成功する(所得を増やす)ことができただけなのですが、とにかく幻想は成り立ったわけです。  ちなみにこの幻想は「成功できていないということは、がんばっていないのだ」と転倒しやすいと思うのですが、それはさておき、この「成長の時代」はバブルを最後に終わりました。  社会全体が低成長時代に入るのです。この時代においては、高齢層が既得権益を手放さないので、若者は雇用も収入もない状況に置かれ、社会の流動性は下がります。社会全体が未来への「希望」がない時代に突入するわけです。  しかし、その希望とは、あくまで「成長」をよしとする価値観に持ち付く「希望」に過ぎないのだ、とペトロニウスさんは喝破しています。  もう一つは、低成長で、先進国の圧倒的な財政難が基本的になった世界では、、、、まぁEUができるまでの(今でも変わらないかぁ)ヨーロッパ病の世界なんだけど、そもそも若年層が就職できないのは基本的に常識なわけ。若年層の失業率だけが突出しているのが。熟年労働者とか既得権益者が、そこを手放すはずがないの。社会の流動性は下がるのが普通なの。成長がない社会では。なので、失われた20年ぐらいの間の部分は、高度成長期との「落差」で話題になったけれども、今後は、我々の社会の常識として、あーーーそんなの普通だよねーーとコモンセンスになって行くと思うのだ。ヨーロッパは、200年はそういう社会が続いていたわけ。そしていまも。切り捨てるというほどでもなく、そもそも、若者には希望がないのが当たり前の時代になるんだ。高度成長がない、社会というのは、そういうものなんだ、そもそも。しかしここでいう、希望というのは、資本主義的な物質的な流動性や行動成長によってもたらされる希望なんだ。実は、そうじゃないものを探す時代に入ったんだ。みんな、たぶんここを混同している。アメリカなどは、すでに明らかにこういう社会になっているし、西ヨーロッパは言うまでもない。ただし、アメリカの一部や新興国は、まだ高度成長しているので、そこと比較して勘違いをしてしまうんだろう。  なので、物質的水準で、幸福を買うことができない時代に入ったのだ。逆説的に言うと、1980年代くらいまでの日本では、金でかなりの部分の幸福が買えた。1950ー1980ぐらいの高度成長期の日本は、とにかく物質的な成長、、、、何よりも頑張れば報われるという、、、、実際は、頑張ったから報われたわけでもなんでもなくて、高度成長しているからほっとけば所得が上がって、社会的流動性が高いのでどんどん上のクラスを体験できて、心理的にも物質的にも、すさまじい急角度の「成長」が経験できた。それが、報われてている!!という感覚につながっていたんだ。ましてや団塊の世代などのボリュームゾーンは、常に社会の主人公だったので、多少遅れることはあっても、社会のシステムは、彼らにフイットするように再度設計されなおしていった。けど、もうそういった「成長」が当間のマクロトレンドは終わりを告げた。  時代は変わり、社会全体が「成長の近代」を終えて、「成熟のデジタル中世」へシフトしたわけです。  「デジタル中世」。見なれない言葉が出て来ましたね。これは、ぼくの理解によると、ひとつの「新しい中世」のことです。  中世とは、経済成長が小さく、その代わり宗教を初めとする内面文化が花開いた時代でした。経済成長時代を過ぎた我々は今度はその中世を、しかしただの中世ではない凄まじい科学的インフラに支えられた「デジタル中世」を迎えることになるわけです。  ここまでは伝わりましたかねー。しかし、だからといって、完全に社会全体がデジタル中世と化してしまうわけでもない、とペトロニウスさんはいいます。  なぜなら、いかに経済が沈滞しようとも、資本主義はなおも稼働し、社会全体を前進させようとしているからです。つまり、現代社会は一面では「成熟の時代」を迎え、「デジタル中世」的になってきているのですが、べつの一面では「成長の時代」がなお続いているのです。  だから、この社会に生きる人間は「成長」を目ざすか、「成熟」を志すか選ぶことができます。極端な例を挙げるなら、帝国企業を運営するグローバルエリートを目ざすか、さまざまな趣味に深く深く耽溺するオタクエリートを志すかという「選択の自由」が存在しているわけです。  これは、ペトロニウスさんによれば、「成長の近代」には存在しない選択です。社会の成長期においては、金、モノ、異性、といった「リア充的な」価値観をマッチョに追い求めることが主流価値と化します。  しかし、「成熟のデジタル中世」においてはそうじゃない。より内面的な価値が重視されることになる。これが、つまり「ゲームのルールが(部分的に)変わった」ということであり、社会がモザイク状になっているということなんですね。  まあ、モザイク状になった社会とはどういうものかといえば、『UQ HOLDER!』を読んでもらえばわかると思います(笑)。ああいう感じなんですよねー。  だから、 

成長の近代を選ぶにせよ、成熟のデジタル中世を選ぶにせよ。

文章における無駄とは何か。

 年末で暇なのでまだまだ更新しちゃうよー。いや、ほんとうは部屋の掃除をしないといけないのだけれど、現実逃避で仕事をすることにします。リアルはクソゲーだー。  さて、先にリーダビリティの記事を書きましたが、文章の書き方については、色々色々、ほんとうに色々と思うところがあります。  いま書いているこの文章は、長年の試行錯誤の結果、出来上がった文体を採用しているのですが、ここにたどり着くまで実に長かったんですよね。  もちろん、これも発展途上のスタイルでしかないわけで、ここからさらに変わっていくはずなのですが、とにかく昔と比べたら歴然とうまくなっているはず。  この場合、他人と比べる必要はなく、過去に対して上達していればそれでいいのです。それでは、どこが変わったのか。具体的にいうと、無駄が少なくなっているはずです。  「無駄を省く」。それはあらゆる文章技巧の根底にあるベーシックスキル、基本中の基本だと考えます。しかし、それでは文章における「無駄」とは何か。  これは非常に奥深い問題だと思いますが、その奥にまで入り込んで考える能力はないので、ここではとりあえず「そこを削っても意味情報に変化がない文章中の箇所」と定義することにしましょう。  つまり、その箇所があってもなくても同じ情報が伝わるのであれば、それは「無駄」であるといえるわけです。シンプル・イズ・ベスト。この種の無駄をどんどん省いていくことが文章上達の第一歩です。  ぼくも昔はほんとーに無駄だらけの文章を書いていましたが、最近はわりと気をつけているので、無駄は相対的に減っていると思います(見る人が見ればまだまだ無駄だらけなんでしょうが)。  昔の文章をいま直すとマジで半分になりますからね。いかに無駄だらけの文章を書いていたか。恐ろしい話です。  具体的な例を挙げてみましょう。いまからほぼ10年前の2004年1月に書いた『銀盤カレイドスコープ』の感想を持ってきてみます。  ネットの一部で好評を博した熱血美少女フィギュアスケート小説「銀盤カレイドスコープ」よもやの第3弾である。前作が非常に綺麗に終わっているだけに、読む前にはただ続編はむりやり話を続けただけの代物になっているのではないかという懸念があり、ちょっと心配だった(ちなみにブギーポップ・シリーズの第2弾「VSイマジネーター」を読んだときも同じような予想があったが、この場合は見事に外れた)。それでは実際読んでみた結果はというと……まあまあというところか。比較する必要はないかもしれないが、前作には及ばないと思う。前作比85パーセントくらいの面白さ。はてなダイアリーのキーワードで辿った感想は好意的なものが多いので、僕の感じ方がおかしいのかもしれないが、やはりあのラストのあとでさらに物語を続けようとしたことの無理は随所にあらわれていたのではないだろうか。  見るからに冗長ですねー。これをいまの視点で削ると、どうなるか。 

文章における無駄とは何か。

「もっと努力しろ!」でもなく。「じゃ、死ねば?」でもなく。

 ペトロニウスさんが先日長文を挙げていて、それが「才能」と「努力」についての話なんですが、これが面白かったので取り上げます。  まあ、これ、読みやすくわかりやすく書くと絶対に炎上する話題なんですが(笑)、最近はアクセスも少ないから目立たないだろうと判断してこっそり書いてしまおう。 http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131225/p1  話の発端はペトロニウスさんが「やっぱ趣味と友達がないと、しあわせになれんよねー」という記事を上げたこと。 http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131030/p1  それに対して、「正論だなー。でもこの正論によって「死ぬしかないじゃない」なかんじになる人は少なくないと思うの」とコメントした人がいたらしい。  で、ペトロニウスさんはそれについて思うところを色々と書いていったわけなのですが、その背景には「成功するためには才能がすべてなのか?」というネットでくり返しくり返し話題になる問題があるわけなんですね。  この問い、仮にぼくが答えるとすると、答えはノー、「そんなわけないじゃん」です。生まれ持った才能だけですべてが決まるなんてことはありえなくて、そりゃ努力なり幸運が関係しているに決まっている。そんなことは当然です。  もちろん、努力すれば何でも成し遂げられるなんていうつもりもないけれど、同じくらい才能があったら、より努力している人のほうが上に行ける可能性は高いでしょう。ごくごくあたりまえの理屈ですよね。  しかし、一方でぼくは、実はこの問いそのものにはあまり意味がないと考えています。というのも、これ、本質的に答えようがない擬似問題なんですよ。イエスと答えてもノーと答えても問うた人は納得しない。  仮にこの問いに対してイエスと、つまり「そうだよ。才能がすべてだよ。才能がない奴はいくら努力しても無駄だよ。だから一生何もせずそのまま死んでいったほうがいいよ」と返事をしたとしましょう。  それで問うた人が納得するなら良いのですが、大半の場合はしないんじゃないかな。「一生何もせず死んでいけなんて何てひどいことをいう奴だ!」という反応がすぐに予想されます。  じゃ、それなら、「いや、才能がすべてじゃない。努力によって人生は変えられるよ。だからもっと努力したほうがいいよ」といったら納得するのかというと、これもそうではないわけです。  「努力しろなんていうけれど、努力しても成功できない人間を見捨てるつもりか!」といわれる。結局、どういうふうに答えようが問いかけた人は納得しないということ。  この問題に答えるためには、「そもそもなぜこのような問いがなされるのか?」ということを考えていかないといけないのだと思う。  そもそも、ここでいわれている「才能」とは何なのか? ぼくは、それは「確実な成功を保証するもの」として捉えられているんだろうな、と考えます。  つまり、「才能がすべてなのか?」という問いは、「生まれつき成功を保証するものを持っているかどうかがすべてなのか?」と読み変える必要があるということ。  ここで、こう問うた人は、すべての人間を「才能がある人(確実に成功できる保証を持っている強者)」と「才能がない人(確実に成功できる保証を持っていない弱者)」に分けて、お前は弱者を見捨てるのか、そうでないなら弱者が救済されるロジックを用意せよ!と突きつけているわけです。  ペトロニウスさんの論に対して、それが「正論」であることを認めながらも、「でもこの正論によって「死ぬしかないじゃない」なかんじになる人は少なくないと思うの」と突きつけたツイートはたしかにその典型ですね。  これはやっぱり「「「死ぬしかないじゃない」なかんじになる人」がたくさんいたら困るだろう? だから、これは論旨に欠陥があるんじゃね?」という意見として受け取りますよね。ツイートした人がどう考えていたかはともかくね。  でもね、よく考えてみたら何も困らないんですよね。だって、他人の人生なわけじゃん? 困るのは「「死ぬしかないじゃない」なかんじになる人」たちであって、ペトロニウスさんが困るべき理由は何もない。  ペトロニウスさんが間違えているならともかく、ツイートした人はかれの意見は「正論」だと認めているんだから、それで困るひとが出ても、正論をいったひとの責任じゃないよね、ということになるのではないでしょうか。  つまり、ペトロニウスさん的な「正論」によって、だれか弱い立場の人が「死ぬしかない!」と思ったとしたら、ペトロニウスさんの立場にいる人はその人に何がいえるか。  ぼくは「じゃ、死ねば?」としかいいようがないんじゃないかと、思うわけです。だって、「死ぬしかない」んだから。  ――と、こう書くと、非常にひどいことをいう人として見られるんですねー。自分が強いからといって弱者を虐げる敵だ、と。  でも、それはおかしくないですか? だって、 

「もっと努力しろ!」でもなく。「じゃ、死ねば?」でもなく。

「べクデル・テスト」と女性リーダーが登場する物語。

 前の記事、予約更新するつもりがリアルタイム更新してしまった……。まあいいか。さて、良ければまず以下の動画を観てみてください。 http://www.ted.com/talks/lang/ja/colin_stokes_how_movies_teach_manhood.html  コリン・ストークスによる「映画が男の子に教えること」と題されたプレゼンテーションです。  このなかで、ストークスは『オズの魔法使い』と『スター・ウォーズ』を例に挙げて、ハリウッド映画のシナリオが男性中心的に偏向していることを指摘しています。  かれは「ベクデル・テスト」という言葉を用います。これはその映画において女性がどう扱われているかを示す以下のような内容からなるテストです。 1.作中にふたり以上の名前を持った女性が登場すること。 2.女性同士が一回以上直接話をすること。 3.その話の内容が男性のことでないこと。  大半の映画が簡単にパスできそうに思える条件ではありませんか? このテストを通らないような映画は極度に男性中心的に偏向しているといえるでしょう。  ところが、ハリウッド映画の多くがこのテストをパスできないというんですね。たとえば『スター・ウォーズ』三部作とか、『ロード・オブ・ザ・リング』三部作は両方ともパスできないということです。  これはなかなか凄いことだと思う。Googleで検索して見つけたどこかのブログで、「逆だったらと考えてみると構造の非対称性がよくわかる」という意味のことが書かれていました。  それはたしかにその通りで、この条件の「女性」のところを「男性」に変えたらそのテストにパスしない作品は少ないように思います。  そういう文脈で考えてみると、いまなお、ハリウッド映画も男性中心的に描かれているのかな、という気がして来ます。  さて、ひるがえって、わが日本を見ていくと、どうだろう。アニメやライトノベル作品の大半は、条件の「1」は一応はクリアしていることになると思います。「2」もクリアしている作品は多いでしょう。  しかし、「3」でひっかかることは少なくないんじゃないかな。女の子が口を開くと男のこと以外の話をしない、という作品はいっぱいありそうな気がします。  とはいえ、何十年か前と比べれば、日本の物語における女性観もしだいに変わりつつあるとはいえるでしょう。ご都合主義がないというつもりは毛頭ありませんが。  個人的には、ベクデル・テストに合格できるような作品の評価は高くなります。やっぱり女性同士の男性を介在しない関係を見たいという欲望はある。だから百合ものなんかが好きなんですよね。  ぼくは女性同士の恋愛ものもまあ好きは好きですが、それ以前に女性同士の豊かな関係を見たいと思っているわけです。男性が介在してもかまわないのだけれど、それはいいかげん食傷気味なので、男性が介在しない関係を見たいという気もちがある。  それはべつにそういう作品が男女平等の観点から見てより正しいからというような立派な理由ではなく、ただそういう作品のほうが面白そうだと感じるからに過ぎません。  アニメの『Kanon』で、あゆと真琴が一瞬だけやりとりするアニメオリジナルのシーンとか、好きだったなあ。どれだけ共感してくれるひとがいるのかわかりませんがw  上記した動画では、映画『オズの魔法使い』を通じ、女性が集団のリーダーシップを取る映画がもっとあってもいいということが示唆されていますが、これはぼくもそう思います。  ぼくは集団のリーダーとしての女性キャラクターに非常に魅力を感じる、というか「萌え」ます。  ただ、ここらへんも微妙なところで、『十二国記』の陽子とか、『攻殻機動隊』の草薙素子みたいな性差を超越してしまったようなキャラクターだと、やはりもうひとつ「萌え」ないんですよね。  これはもう、差別だといわれてもいいのですが、フェミニンな要素を残したままのキャラクターがリーダーシップを取る物語が見てみたいのです。  そういう意味では、『Fate』シリーズはかなり惜しい。 

「べクデル・テスト」と女性リーダーが登場する物語。

世にも奇妙なサッカー漫画『蹴球少女』が面白い(ような気がする)。

 若宮弘明『蹴球少女』を読みました。うん、何だ、この漫画は(笑)。いやー、思わず「(笑)」を付けてしまうわけのわからなさ。  タイトル通り、「蹴球(サッカー)」+「少女」の話ではあるのですが、何をどうしたらこんな悪魔合体的な漫画が出来上がるのかわかりません。  変な漫画だという話は聞いていたのですが、ほんと何だよ、これ。まあ、エロコメ漫画として読んでいる分にはふつうに笑えるので楽しいのですが、時々シリアスになるんですよね。いやはや……。  最近読んだ漫画のなかではずば抜けた軽さで、何冊読んでもまったく疲れません。そういう意味ではほんとうにストレスレスな作品で、ある意味、偉いのだろうけれど――まあ、読み終えた後には何も残りません。  Amazonの内容説明の一節がこの漫画の本質を捉えていると思う。「疾走感あふれるバカバカしさ! 失笑するほどエッチ! だけど時折、胸を熱くさせる!  傑作スポーツエンターテイメント!!」。  まあ胸を熱くはさせないけれど、たしかにバカバカしいし、失笑させられる。時々、本気で爆笑させられることがあるので、いい漫画なのだろうとは思います。  しかし、良くもここまで行き当たりばったりの展開を考えられるなあ。いや、この場合の行き当たりばったりというのは批判ではなくて、この場合はもう「そういうもの」として受け止めるべき漫画なのだろうと思います。  シロウトばかりを集めた女子サッカーチームが数週間の練習で男子の強豪校に勝ってしまうのも、主人公が女装してサッカーをプレイして新たな技術に目覚めるのも、「そういうもの」だと思って読む限りにおいてはある意味で面白い。  そりゃツッコミを入れはじめたら際限がないかもしれませんが、まあ、「そういうもの」なのだ、と理解して読む限りにおいては、気楽に読める楽しい作品だといえるんじゃないでしょうか。  天才的なサッカー少女が男子とのフィジカルの差という壁にぶち当たるという話は、新川直司『さよならフットボール』という傑作があります。  で、何でテーマ的には同じことをやっているのに、『さよならフットボール』とここまで違うものに仕上がるのかと思ってしまう。謎です。いや、ほんとうは謎でも何でもないんだけれど……。  ま、とにかく変な漫画としかいいようがない。最近、ここまでおかしい漫画は読んだことがないかもしれない。  一冊に一度以上は確実に「ねーよ!」ポイントがあるので、気軽に笑いたい人にはオススメです。うん、これは一度読んでみる価値はあるんじゃないかと思う。  とはいえ、ひとつひとつの要素を取り上げていくと、それほど変わったことをしているわけでもないんですよね。  サッカーの天才少女が男子に挑むというテーマは、さっきも書いたように『さよならフットボール』のような例がありますし、主人公の美少年プレイヤーが意味もなく女装させられるとか、そういうのも過去に例はある。  個々の要素を取り上げていけば、そこまで奇天烈でおかしいというほどのものでもないはずなんですよ。それにもかかわらず、できあがったものは実に異様としかいいようがないシロモノになってしまっている。ここらへんが漫画の面白さ――といえないこともないかも。  色々アイディアを合体させていくと、 

世にも奇妙なサッカー漫画『蹴球少女』が面白い(ような気がする)。

「強さ」のインフレと、そしてデフレ。世界を「頂点」と「底辺」の双方から描く物語。

 「物語三昧」の最新記事が面白かった。 http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131228/p2  最近、ちょっとした理由があって、毎日のようにペトロニウスさんと話をしているのですが、いやー、お疲れ様ですとしかいいようがない。具体的な事情を書くわけには行きませんが、濃い人生を送っているよなー。傍で見ている分には非常に興味深いです。  で、「物語三昧」の記事の話。ここでペトロニウスさんは「強さのデフレ」というフレーズを使っています。  「強さのインフレ」という言葉はよく使われますが、「デフレ」というのは新しい概念なんじゃないかな。いや、ひょっとしたらどこかで既に使っている人がいるかもしれませんけれどね。  一般に少年漫画的な物語というものは、『ドラゴンボール』みたいに、物語が進んでいくにつれて、強く、より強くと強さの基準が変わっていきます。これが「強さのインフレ」。  しかし、時には強さが「デフレ」を起こすこともあるんですね。つまり、それまで強かったキャラクターたちから視点が離れ、より弱いキャラクターたちに中心が移るわけです。  ペトロニウスさんは『BASTARD!!』のサムライと魔戦将軍たちの戦いを挙げていますね。いまどきの若い読者のなかには読んでいないひとも多いのではないかと思いますが、ここらへんの『BASTARD!!』はほんっっとうに面白かった!  それこそ『ネギま!』とかと比べても全然劣らないと思う。萩原一至の天才の絶頂を見ることができたエピソードですね。この後、色々あって天使が出て来てからお話が迷走しはじめるわけですが(涙)。  ま、それは余談。『BASTARD!!』の場合、それまで主人公ダーク・シュナイダーやかれに仕える四天王の壮絶なバトルが描かれた後で、ワンランク力量が下のサムライや魔戦将軍の話に視点が移り、そうするといままであたりまえのものとして描かれていたダーク・シュナイダーたちの戦いがいかに凄まじいものであったか初めてわかる、という構成になっているわけです。  これは非常に効果的な手法で、「世界の頂点」をそのままに描いても、その高さは実はよくわからない。どうしたって「世界の底辺」を描く必要があるわけです。  こういう話になると、ぼくはやはり『ファイブスター物語』を思い浮かべます。『ファイブスター物語』はある意味、「インフレ」と「デフレ」が同時進行しているお話で、まあたしかに話は「より強く」のほうにも進んでいるのですが、同時に「より弱く」のほうにも進行しているんですね。  そのことがいちばん良くわかるのが第四部「放浪のアトロポス」の、延々とモーターヘッドが介入しない戦争が続くエピソードです。  単行本ではオールカットされている話ですが、「あたりまえの地上戦」に駆り出され、次々と戦の大義もわからず死んでいく兵士たちの物語は、それまでの騎士たちの華麗な物語とは対照的で、ひたすら地味です。  しかし、その地味さがあって初めて、天才たち、英雄たちの物語が花開くんですね。百万人にひとりもいない本物のヒーロー、その凄みというものは、「底辺」の描写があってようやくわかるということ。  もちろん、エリートである騎士たちにも実は途方もないヒエラルキーがあります。そのことがわかるのがいつだったか公表されたパワーゲージ表。  その表の下の方に「その他の騎士」とかいうことで、物語に登場するほとんどのキャラクターがまとめられてしまっているんですね(笑)。  デコース・ワイズメルも、アーレン・ブラフォードも、ヨーン・バインツェルも、皆、まとめてそこに入ってしまう。  じっさいには、その強さの差は凄まじいものがあって、天才と凡人、さらにはそれ以下に分かれているんだけれど、 

「強さ」のインフレと、そしてデフレ。世界を「頂点」と「底辺」の双方から描く物語。

ライトノベルを読んで文章のリーダビリティを考える。

 裕時悠示のライトノベル『俺の彼女と幼なじみが修羅場すぎる』を読んでいます。まあ、おおむねタイトル通りの話で、ひとりの鈍感主人公を巡って複数の女の子が対立するというお話。  いってしまえば他愛ないラブコメなのですが、異様に読みやすく、ストレスなく読み進めることができます。まさにライトノベル。ライトノベルかくあるべし、という規範のような作品です。  ぼくは以前、たまたまアニメの最終話を観たことがあるのですが、それはちょっと苦笑いものの内容でした。  とはいえ、アニメはあくまでアニメスタッフの責任で作られているわけで、その展開がどうであれ、原作には関係ありません。さすがヒットしているだけあって、この小説版は十分に面白い。  最前も述べたように、お話そのものはそう大したものではありません。ありふれたハーレムラブコメ、とひと言で切り捨てられそうな感じです。  しかし、作家はおそらくそれを完全に承知した上で書いている。その自覚こそが、この作品を埋もれさせず、アニメ化まで持っていった原動力になっているのではないでしょうか。  つまりは、読者が求めているものはこれである、という確信をもって書かれているということです。そういう意味では、まったくもってプロフェッショナルな作品ということができるでしょう。  そして何より、この読みやすさ! これは作家の文章力の賜物ですね。良い文章とは何か? それ長い間、延々と議論されている問題で、とてもぼくがどうこういえることではありませんが、少なくとも「読みやすい文章」は存在するでしょう。  ほかの文章と比較して、相対的に可読性(リーダビリティ)が高い文章。ライトノベルでは、殊にそういう文体が要求されるように思えます。  それでは、どうすればそういった文章が書けるのか? だれでもすぐに思いつくのが、晦渋な表現を減らすことです。晦渋という言葉そのものがそれなりに晦渋ですね。  

ライトノベルを読んで文章のリーダビリティを考える。

創作において「志が高い」とは何を意味しているのか。

 ふと思い立って『魔法先生ネギま!』を読み返しています。あらためて読んでみると、めちゃくちゃ面白いですねえ。  いや、おもしろいことは知っていたんだけれど、まとめて読むと、やはり連載を追いかけるのとは異なる興趣がある。いまさらながら巧みにはりめぐらされた伏線などもよくわかって、そうか、こうなっていたんだな、などと感心させられたりします。  よくこんな複雑に入り組んだプロットを整理できるよなあ。特に後半となる魔法世界編は群像劇以外の何ものでもないわけで、主役のネギですら無数の登場人物のひとりであるに過ぎません。  膨大な数のキャラクターひとりひとりの行動を整理し、関連付け、一本の物語に編み上げてゆく凄まじさは、もはや想像を絶するものがあります。いったい何をどうしたらこんな漫画を週刊連載で書けるようになるんだ……。構成力の勝利ですね。  構成力とは「物語を作る力」! 複雑に絡みあう物語を構成し、組み立ててゆく力に他なりません。  この能力は年齢的な絶頂期があって、歳を取ると衰えていくように思えます。相当に天才的な物語作家でも、物語を圧縮してコンパクトにまとめる技量はやがて失われていくものなのです。  永野護は年をとるとその力がなくなるからいまたくさん物語をストックしている、とどこかに書いていました。それくらいシビアな話だというわけです……。  まあ、そういうわけで、『ネギま!』は過去十年間の少年漫画のなかでも、指折りの傑作といっていいでしょう。この漫画ほど様々な面での快楽指数を高めた作品はちょっとほかに思いつかない。何しろヒロインが数十人からいますからね……。  いや、ヒロインの数だけなら最近のソーシャルゲームなどでこれを上回るものも出て来ているわけですが、『ネギま!』の場合、その全員が一本の物語に絡む!  初めて千雨が出て来たとき、だれがあそこまでの活躍を予測したことでしょう。およそ女の子キャラクターの類型を網羅しているという一点において、これを超えるものは今後もそうそう出て来ないのではないでしょうか。  ほとんど実験的ですらあることをやっているのに、内容は限りなくエンターテインメント。すごいとしかいいようがありません。  しかし、そのバロックを極める高密度情報の圧縮は、同時に『ネギま!』という作品の弱点でもある。端的にいって、この漫画、読んでいて疲れるよねという(笑)。  特に魔法世界編ではちょっとわけがわからないくらい人物と情報が錯綜しています。 

創作において「志が高い」とは何を意味しているのか。

ロボット・テーマのリリカルな佳作『ハル』。

 劇場中編アニメーション『ハル』を観ました。わずか60分の短い作品ですが、いや、これは良かった。  いま、どこまでこういうわりあいに地味なストーリーに需要があるのかわからないけれど、この企画を実現し劇場公開にまで持っていったスタッフには拍手を送りたい。  タイトルの「ハル」とは、キューブリックの映画とは特に関係がない、ある青年の名前。しかし、ある意味ではまったく無関係ではないかもしれません。  というのも、この『ハル』もロボット(人工知能)が関わるお話なのです。物語は、ある飛行機事故から始まり、喧嘩別れしていた恋人同士のハルとくるみは、この事故により永遠に離れ離れになってしまいます。  そこで、白羽の矢が立ったのがヒト型ロボットのQ1(キューイチ)。高度な人工知能を持つかれは、亡くなったひとの姿を得て癒やしのために活動することができるのです。こうして、「ロボハル」とくるみの物語は始まります――。  いやー、ほんと、良かった。実に、こう、優しい映画を見たと思う。後半のシナリオにはかなり無理があると思うし、作画的にもわりと止め絵ばかりだったりするのですが、それでもこれはリリカルに胸に迫る素晴らしい作品。  女性向けの漫画の世界をみごとに映像に移し替えた、といえばいいでしょうか。内容的にも完全に女性向けで、ほとんどが男性であろうこれを読んでいる読者の皆さんにどこまで自信をもってオススメできるか微妙なところではあるのですが、しかしここは確信を込めて推薦したいところ。  これは良い映画です。あっというまに見ることができるので、ちょっとレンタルして観てみてほしい。面白いから。  何といっても「ロボハル」を通じてあきらかになっていく青年ハルの造形が良い。幼い日、虐待同然の環境で育てられていた過去をひきずり、いまなお金しか信じられない男。  ちょっと『クリスマス・キャロル』のスクルージを連想させるような造形です。もっとも、ハルはスクルージのようなガチガチの守銭奴というわけではなく、ひとを愛し支えることができる「いい奴」なのですが、それでも根本的なところで人間を信じることができません。  ひとは裏切る、騙す、利用するといった考えが骨絡みに染み付いているわけです。  回想シーンで、ハルが「金を持っていると皆が優しくて、親切で、いつまでもこんなことが続けばいい」と語るシーンは切なく胸に迫ります。これはくるみじゃなくても泣きたくなりますね。  愛を信じられない男――愛することはできなても、自分が愛されるとは考えられない男。しかし、じっさいにはかれの周りには友情があり、善意があり、優しい人々が存在しているのです。そのことがわかった時にはすべてはもう遅い、というあたりがいかにも切ない。  ハルならぬ「ロボハル」はしだいにくるみの心をひらいていくのですが、死によって離れ離れになったふたりが再開する日は、ほんとうの意味では決して訪れません。  ロボット・テーマの佳作といっていいでしょう。  しかし、観終えたあと、しばらく考え込んでしまいました。 

ロボット・テーマのリリカルな佳作『ハル』。
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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