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  • 宇野常寛書き下ろし『「母性のディストピア2.0」へのメモ書き』第2回「中間のものについて」 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.257 ☆

    2015-02-06 07:00  
    220pt
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    宇野常寛書き下ろし『「母性のディストピア2.0」へのメモ書き』第2回「中間のものについて」
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.2.6 vol.257
    http://wakusei2nd.com


    本日のメルマガは、宇野常寛の書き下ろし連載『「母性のディストピア2.0」へのメモ書き』第2回です。今回は、『リトル・ピープルの時代』を経て生まれた「中間のもの」という問題設定について、震災以降の思考の変遷から考えていきます。

    宇野常寛『「母性のディストピア2.0」へのメモ書き』これまでの連載はこちらのリンクから。
    ■中間のものについて
     〈PLANETS vol.8〉は僕のターニング・ポイントになった一冊です。いままでの仕事でいちばん思い入れも深い。この本をつくっていた頃に考えていたのは一言で言うと「中間のもの」についてです。これは直接的に〈リトル・ピープルの時代〉から引き継いだテーマだと言えます。
     〈リトル・ピープルの時代〉の村上春樹批判は、彼の考える「受動的な主体」をめぐる批判だと言い換えられます。村上春樹がマルクス主義の内面的な解毒剤として提示した倫理としてのデタッチメント=受動的な主体の擁護は、消費社会下ではむしろオウム的なものへの免疫のなさとしてその脆弱さをさらけ出してしまう。そのため、村上春樹は従来の受動的主体から、その受動性を残したまま能動性につなげていく道筋を物語の中で示そうとしているのだけど、どうしてもうまくいかない。その結果、性差別的な想像力に依存した責任転嫁モデルを反復してしまう、という問題があるわけです。
     そこで〈リトル・ピープルの時代〉では、仮面ライダーを素材に、内面の問題からシステムの問題に論点を移すことで、この問題を突破しようと考えたわけです。要するに、人間はどのような意識をもとうとも権力的に作用する生き物なのだから、という諦念を前提に、ではそんな愚かしい生き物たちの間をどう調停するのか、というかたちで村上春樹の突き当たった壁を突破しようとした。そして、こうして視点を移すことで浮上する新しい問題こそが重要なのだ、と考えたわけですね。たとえば「悪」と超越の問題がそれで、すべての思想が小さな「正義」なら、「悪」はどこに存在するのか、という問いは要するに大きな物語なき今、超越とは何か、という問いでもある。
     その中で出てきた新しい問題の一つが、「変身」というテーマです。
     平成仮面ライダーは「変身」をエゴの強化の問題から関係性の問題に転換している、という議論をここで僕は展開したわけですが、同時に僕はここに、村上春樹が提示しようとして失敗した、受動的能動性ともいうべきものの問題があるように思えたわけです。
     たとえば〈仮面ライダー龍騎〉に出てくる仮面ライダーは、モンスターと契約することで変身能力を得て、同時にバトルロイヤルに参加する権利を得る。これは普通に考えたら、社会契約の比喩ですね。市民としての自覚を前提に、民主主義に参加する。しかし、この作品はそうは描いていない。主人公は半ば巻き込まれる形で仮面ライダーになってしまうのだけど、やがて戦いを止めるために自分からゲームに参加していく。
     要するに、人間とはすべての選択を自己決定できる能動的な主体=市民でもなければ、すべてを運命に流されていく受動的な主体=動物でもなく、常にその中間をさまよっているわけです。(当時の仮面ライダーがこの問題を内包していたのは、正義や暴力といったテーマを扱う上で、避けては通れない問題だったからでしょう。)
     言い換えれば、20世紀的な想像力の限界はここにあったのではないか、と僕は思っています。20世紀は「映像の世紀」だと呼ばれていますが、この「映像」という制度は現代から考えると古い人間観に立脚したものだと言えます。
     たとえば「映画」はとても能動的な観客を想定したメディアです。対してテレビはとても受動的な視聴者を想定したメディアです。これは先ほどの比喩に当てはめるのなら映画は市民、テレビは動物を対にしたメディアだと言えるわけです。
     しかしインターネットは違います。インターネットはユーザーの使用法で映画よりも能動的にコミットする(自分で発信する)こともできれば、テレビよりも受動的にコミットする(通知だけを受け取る)こともできます。もちろん、その中間のコミットも可能です。
     インターネットは、はじめて人間そのもの、常に「市民」と「動物」の中間をさまよい続ける「人間」という存在に適応したメディアだと言えるでしょう。
     同じことが、たとえば政治制度にも言えます。多くの民主国家では現在、二院制度が敷かれています。上院と下院、参院と衆院。これは要するに「市民」を対象とした熟議と「動物」を対象としたポピュリズムでバランスを取る、という発想です。
     ここからわかるのは、20世紀までの人類は技術的に人間の、極端な二つの側面、つまり「市民」か「動物」かしか想定した制度をしかつくることができなかった、ということです。そして仕方なくその両者を並置させてバランスを取っていたのだと思います。しかしインターネットが、いやインターネットを下支えする情報技術の発達がこの二項対立を崩しつつある。それは具体的には、「市民」や「動物」といった極端な人間像ではなく、「人間」という生物そのものの性質に対応した技術をようやく人類が手にし始めた、ということでもあります。したがって、これからの人間像や社会像は、こうした情報技術によって書き換えられた「後」のものを前提にすべきだというのが僕の考えであり、村上春樹が突き当たった壁の突破口がここにあると考えるのもそのためです。
    〈PLANETS vol.8〉で大きく取り上げた「ゲーミフィケーション」とは、この情報技術による人間の能動性のコントロールのことだと言い換えられますし、チームラボの猪子寿之との議論は、こうした新しい人間性を前提としたときに、人間はどういうかたちで個人と世界との関係をイメージするのか、という議論だとも言えます。
     まとめると、〈リトル・ピープルの時代〉で発生した「中間のもの」という問題は〈PLANETS vol.8〉での情報技術による人間性の更新、という問題に接続されていったことになります。
     
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  • 宇野常寛書き下ろし『「母性のディストピア2.0」へのメモ書き』第1回:「リトル・ピープルの時代」から「母性のディストピア2.0」へ ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.234 ☆

    2015-01-06 07:00  
    220pt

    宇野常寛書き下ろし『「母性のディストピア2.0」へのメモ書き』第1回:「リトル・ピープルの時代」から「母性のディストピア2.0」へ
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.1.6 vol.234
    http://wakusei2nd.com

    『ゼロ年代の想像力』から7年、『リトル・ピープルの時代』から3年――。2015年の「ほぼ惑」は、批評家・宇野常寛の次なる著作『母性のディストピア』単行本化に向けた連載を配信します。カルチャー批評や情報社会論にとどまらず、より長いスパンで「戦後日本の文化空間とはなにか」を問いなおしていきます。
    「母性のディストピア」を放置した理由
     こんにちは。これからしばらく、不定期で新著の準備のためのメモ書きというか、エッセイのようなものを連載していきたいと思います。新著と言っても、それはもう5年も近く前に文芸誌に連載していた「母性のディストピア」という評論を単行本にする企画なので、個人的にはむしろ懐かしい名前だったりします。
     既に十三回分の連載原稿があるのだから、さっさとそれをまとめて本にすればいい、と思う人も多いかもしれません。しかし、そうはなかなか問屋がおろさない。なぜかというと、まずは当時の連載で僕が扱っていた問題の何割かは4年前に出した僕の代表作「リトル・ピープルの時代」で扱ってしまったという事情があります。少なくとも、大幅なリライトをしないと内容的にセルフリメイク感の強いものになってしまうことは間違いありません。これはほとんど、僕と出版社の関係の問題というか、僕の仕事計画の問題でそちらの企画が先に出版されてしまったので、この企画は割りを食ってしまったという身も蓋もない話があります。そしてもうひとつ、「母性のディストピア」の単行本化に慎重になった理由は、この連載で僕が扱ったテーマのうち、「リトル・ピープルの時代」で扱わなかったものがいまの自分にとってあまり大切なものではなくなってしまった、ということが挙げられます。
    「リトル・ピープルの時代」回顧
     少し解説しましょう。「ゼロ年代の想像力」以降、僕が考えていたことは大きく分けて二つです。ひとつは、「大きな非物語」をどう記述するかという問題、もうひとつは「政治と文学(社会と個人)」の新しい関係をどう記述するか、という問題です。かんたんに言い換えると、かつてのように個人と社会が物語によって結ばれなくなったとき、社会をどうイメージするのかという問題と、人間は世界とどう関わるのか、という問題のふたつです。「リトル・ピープルの時代」はこの二つの問題について、震災と村上春樹と仮面ライダーを素材に考えた本だと言えます。
     2011年の3月、この国を襲ったあの震災は、大方の予測とは裏腹にかつての敗戦のようには機能しなかったはずです。個人がそれをどう評価するかはともかく、敗戦という物語は国民の大半が共有し、少なくとも文脈共有のレベルでは日本をひとつにしていたのに対して震災のそれはむしろこの社会が既にばらばらであることを露呈させたわけです。東北、関東、西日本といった地域差はもちろん、福島の原子力発電所事故への評価は無数の陰謀論を産んでもはや収拾がつかないレベルに達しています。
     あるいは、かつての敗戦が1945年8月の前と後ですっぱりとこの国を書き換えたのに対して、この震災は決定的な変化を社会にもたらすことはないが、しかしその前後では確実に変化が起こっている、といった奇妙な状態を僕たちにもたらしています。長く続く余震や、長期化する被災地復興、特にその処理に数十年を要する原発事故の性質もあり、日常の中に非日常的なものがランダムに現れるような感覚が常態化しています。
     要するに、横の広がり(空間)においても、縦の広がり(時間)においても、現代において僕たちは少なくとも70年前のようなかたちで大きなもの、国家や社会をとらえてはいない。では、それはどのようなかたちを取っているのか、そしてこうした世界で僕たちはどこに社会に関与していく根拠を得たらいいのかという問題を扱ったのが「リトル・ピープルの時代」です。
     ただ、今振り返ると――これはむしろ僕がこの本を自分の代表作だと思っている理由なのですが――この本の大半は後者に、つまり、「大きな非物語」が支配する世界の構造(を人間がどう捉えるか)を記述することではなく、むしろそうした新しい世界をどう生きるのかという問題を「正義」の問題として考えている部分の記述が圧倒的に多い。