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記事 6件
  • 【特別寄稿】森田真功 ヤンキー・マンガと「今」

    2019-09-17 07:00  
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    今朝のメルマガは、森田真功さんのヤンキーマンガ論をお届けします。ヤンキーマンガの全盛期は平成初頭であり、近年は再評価やリバイバルが盛んですが、最近の漫画誌では新世代のヒット作も次々と登場しています。令和のヤンキーマンガは何を更新しようとしているのか、『東京卍リベンジャーズ』『六道の悪女たち』『鬼門街』といったタイトルから考えます。
    平成と重なり合うヤンキー・マンガの歴史
     ヤンキー・マンガの「今」の話をしたいと思う。「今」とは、もちろん、2019年の「今」を指しているのであって、つまり、令和元年となった「今」現在のことにほかならない。ヤンキー・マンガというと、おそらくは昭和のイメージが強い。昭和のイメージで語られる機会が少なくはない。それは俗にヤンキーと呼ばれる不良文化のスタイルが80年代に一般化し、広く定着したためである。しかし、誤解されがちではあるのだけれど、ヤンキー・マンガを代表するような作品の多くは、実は昭和よりも平成として区分される時代に親しまれ、人気を博していったのだ。
     先駆的な『湘南爆走族』(1982年〜1987年)や『BE-BOP-HIGHSCHOOL』(1983〜2003年)を別にすれば、たとえば『ゴリラーマン』(1988〜1993年)や『ろくでなしBLUES』(1988年〜1997年)『BAD BOYS』(1988年〜1994年)や『今日から俺は!!』(1988年〜1997年)『カメレオン』(1990年〜2000年)や『湘南純愛組!』(1990年〜1996年)「クローズ』(1990年〜1998年)や『疾風伝説 特攻の拓』(1991〜1997年)『ウダウダやってるヒマはねェ!』(1992年〜1996年)など、ヒット作の登場が80年代の後半から90年代の前半に集中していることは、ヤンキー・マンガのムーヴメントがあくまでも90年代に属していたことの証左になるのではないか。80年代は、確かに昭和に含まれる。と同時に、平成元年が1989年の西暦と一致している点を踏まえるなら、昭和の終期と平成の始期とを80年代は兼ねていたことになる。それ以降の90年代は正しく平成というERA(時代)のなかに置かれるべきものであろう。
     ヤンキー・マンガは、昭和の終わりに勃興し、日本的なサブ・カルチャーの一角を為すほどの支持を得た。その支持は平成の間中ずっと続き、およそ30年経った令和の現在もまだ支持され続けているというのが、ここでの前提である。当然、いちジャンルの歴史において停滞や不調がないわけではなかった。が、2007年の『クローズZERO』をはじめ、いくつものヤンキー・マンガが実写化、メディア・ミックスされるたびに話題を呼んだ。2019年に実写化が成功した『今日から俺は!』は記憶に新しいところだと思う。ある意味、それらは過去のヒット作がリヴァイヴァルしたにすぎない。リヴァイヴァルに適した需要が世間にあったともいえる。他方、現在進行形で連載されている作品には、そうしたリヴァイヴァルとは必ずしも合致しえない魅力が見つけられる。それこそがここでの本題なのだった。
     2010年代のヤンキー・マンガには二つの潮流があった。『湘南純愛組!』と舞台を同じくする『SHONANセブン』(2014年〜)や『カメレオン』の登場人物をカムバックさせた『くろアゲハ』(2014年〜)などに代表される続編もの。そして、実在している人間の若かりし日を描いた『デメキン』(2010年〜)や『OUT』(2012年〜)『ドルフィン』(2015年〜)などに代表される自伝ものが、2010年代の前半にヤンキー・マンガのシーンでは大きく目立っていたのだ。それらも過去のとある時代を参照しているという点で、リヴァイヴァルの領域に入るのかもしれない。しかしながら、このような傾向とも以下に挙げていく作品は異なっている。
    トレンドと融合した『東京卍リベンジャーズ』
     さしあたり、三つの作品を取り上げるつもりでいる。まず挙げたいのは『新宿スワン』(2005年〜2013年)を手がけた和久井健の『東京卍リベンジャーズ』(2017年〜)である。『東京卍リベンジャーズ』に触れる上で看過できないのは、タイムリープの仕掛けだ。タイムリープ、ループ、リプレイなどのアイディアを通じ、物語の中に周回の要素をもたらすというのは、近年のフィクションにとっては凝っておらず、むしろスタンダードな作法であろう。ドラマ、映画、小説、マンガ、いずれの媒体に関わらずなのだが、厳密にはSFのジャンルとは見られない作品にあってさえ、時間の行き来を繰り返すことで、何らかの帰着を得るパターンのものは珍しくない。タイムリープの能力を手に入れた主人公が、近い将来に亡くなる初恋の女性を救うため、過去に戻り、彼女が死に至る原因を突き止めようとする。これが『東京卍リベンジャーズ』のあらすじになるのだけれど、率直にいって、ありがちなパターンと受け取ることができてしまう。安直さがある。反面、そこに不良とされる人間のテーマを落とし込むことで、一つの特徴が生まれているのも確かなのであった。
    ▲『東京卍リベンジャーズ』
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  • 森田真功 関与するものの論理 村上龍と20-21世紀 第3回『オールド・テロリスト』と『希望の国のエクソダス』をめぐって(2)

    2018-10-23 07:00  
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    批評家の森田真功さんが、小説家・村上龍の作品を読み解く『関与するものの論理 村上龍と20-21世紀』。『希望の国のエクソダス』と『オールド・テロリスト』の両作品に登場するジャーナリストの関口は、〈関与の論理〉における決定的な変化を象徴しています。00年代から10年代にかけての、村上龍作品のコミットメントのあり方を問い直します。
    日本の戦後史を否定する中学生たち
    「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」
     これは『希望の国のエクソダス』のクライマックスで、不登校の中学生たちを代表するポンちゃんという少年が、NHKの国会中継を通じて発した言葉だ。言葉の意味はともかく、非常にインパクトがあるし、実際にこの言葉の持つ強さを半ば是としながら『希望の国のエクソダス』の物語は幕を降ろすのである。
     ポンちゃんは〈だが、希望がない〉の後に、こう続けていく。〈でも歴史的に考えてみると、それは当たり前だし、戦争のあとの廃墟の時代のように、希望だけがあるという時代よりはましだと思います。九〇年代、ぼくらが育ってきた時代ですが、バブルの反省だけがあって、誰もが自信をなくしていて、それでいて基本的には何も変わらなかった。今、考えてみると、ということですが、ぼくらはそういう大人の社会の優柔不断な考え方ややり方の犠牲になったのではないかと思います〉と。ここには2000年代の初頭に中学生、つまりは未成年であったり子供の立場であったりする彼らを主題に置くことの企図が、ほとんど要約されているといっていい。前のディケイド、90年代までを含めた日本の戦後史あるいは戦後史を築いてきた先行の世代に対する反動であるかのように、中学生たちの国外脱出(エクソダス)は立ち上がってくるのだ。
     村上龍のキャリアを振り返ったとき、戦後の日本に向けた痛烈な否定は重要なモチーフであり、度々繰り返されてきたものである。それが『希望の国のエクソダス』では、ポンちゃんの言葉と不登校の中学生たちによる国外脱出とを通じ、具体化されている。新しい世代に古い世代への否定が託されるというのは、物語を見る上でわかりやすい。が、どうして国外脱出が試みられなければならないのか。ポンちゃんの言葉をもう少し追っておきたい。
     ぼくは、この国には希望だけがないと言いました。果たして希望が人間にとってどうしても必要なのかどうか。ぼくらにはまだ結論がありません。しかし、この国のシステムに従属している限り、そのことを検証することは不可能です。希望がないということだけが明確な国の内部で、希望が人間になくてはならないものなのかどうかを考えるのは無理だとぼくらは判断しました。
     たとえば、ある共同体が誤謬を抱えていると知っているにもかかわらず、その共同体に組することは、誤謬を認めること、誤謬に加担するということでもある。ポンちゃんの言葉は、そうした誤謬への加担を明らかに拒絶している。いうまでもなく、国家は巨大な共同体である。『希望の国のエクソダス』では、大量の中学生が学校や教室を国家の縮小したコピーだと実感している。そして、それが誤謬なき共同体では決してないことを指摘するために不登校が選ばれているのであった。彼らの不登校は、翻って戦後の日本でうやむやにされてきた誤謬からの離脱にまで拡大される。拡大していった結果として国外脱出が試みられていくのだ。
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  • 森田真功「関与するものの論理 村上龍と20-21世紀」 第2回『オールド・テロリスト』と『希望の国のエクソダス』をめぐって(1)

    2018-09-06 07:00  
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    批評家の森田真功さんが、小説家・村上龍の作品を読み解く『関与するものの論理 村上龍と20-21世紀』。2015年刊行の長編小説『オールド・テロリスト』の舞台は、『希望の国のエクソダス』(2002)の19年後の日本です。00年代と10年代、少年と老人、建国とテロリズム――対象的な主題を扱うこの2作品に共通しているのは、週刊誌・ワイドショー的な想像力が成立させている共同体への、強烈な否定でした。
    老人たちの蜂起を描く『オールド・テロリスト』
     80年代や90年代における活発さと比べるのであれば、近年の村上龍は作家としての活動をさぼり気味である。したがって、目下のところの最新作は、2015年に発表された『オールド・テロリスト』だということになる。『オールド・テロリスト』が古い世代の存在とテロリズムに紙幅を割いていることは、題名に示されているとおり。単行本の「あとがき」にある村上の言葉を借りるなら〈70代から90代の老人たちが、テロも辞さず、日本を変えようと立ち上がるという物語のアイデアが浮かんだのは、もうずっと前のこと〉であって〈彼らの中で、さらに経済的にも成功し、社会的にもリスペクトされ、極限状況も体験している連中が、義憤を覚え、ネットワークを作り、持てる力をフルに使って立ち上がればどうなるのだろうか〉という問いを作品の支柱にしていることがわかる。
    ▲『オールド・テロリスト』(2015)
     老年に差し掛かったベテランの作家が、老人に材を取った作品に取り組むことは一種の必然であろう。自身が関わっているテレビ番組の「カンブリア宮殿」で巡り会った成功者をヒントにした部分があるのかもしれない。いずれにせよ、若い世代の共感に寄り添うような立場とは距離を置き、物語が作られていることは明らかだ。1996年の『ラブ&ポップ』に付せられた「あとがき」における〈(女子高生のみなさん)私はあなた方のサイドに立ってこの小説を書きました〉という発言のなかで射程に置かれていたのとは異なった層が『オールド・テロリスト』では見据えられているのである。他方、社会の高齢化は、2010年代に入り、より深刻になりつつあって、そこにフォーカスを絞った作品だとも読める。ちなみに2015年には、かつてヤクザであった老人の右往左往を描いた北野武の映画『龍三と七人の子分たち』が公開されている。こうしたシンクロニシティは、いかに社会の高齢化がオンタイムなテーマであったかの証左になりえると思う。
     さて、しかし、率直に述べれば、『オールド・テロリスト』は、村上龍の著作において特に秀でた小説というわけではない。荒唐無稽な筋書きと登場人物たちを囲うスケールとが、どうもちぐはぐな印象を受けるし、展開に中弛みがあり、終盤のカタストロフィまで引っ張っていく力に弱さを覚えるのである。熱心なファンでさえ(あるいは熱心なファンだからこそ)まず『オールド・テロリスト』を挙げる向きは少ないのではないか。だが、決して捨てておくべき小説でもない。先にいったように、今日的な社会の問題、現代的な日本の風景を作品は下敷きにしており、それを切り出していく筆致に村上龍の「らしさ」がある。この国と、そして、この現在とに直結した困難を突きつけてくるかのような「らしさ」である。全体の整合性であるよりも一場面ごとにグロテスクなうねりを感じさせる「らしさ」が、作品に長編であることとは別のレベルでヴォリュームを与えているのだ。では、その「らしさ」は何によっているのか。『オールド・テロリスト』の語り手であるセキグチのプロフィールが大きな手がかりとなっている。
    週刊誌的なリアリティに属するもの
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  • 【新連載】森田真功『関与するものの論理 村上龍と20-21世紀』 第1回 〈文学の顔〉の半世紀

    2018-08-08 07:00  
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    今月から、批評家の森田真功さんの連載「関与するものの論理 村上龍と20-21世紀」が始まります。1976年に『限りなく透明に近いブルー』で鮮烈なデビューをした村上龍。それはかつて石原慎太郎が担ったたユースカルチャーの寵児、芥川賞という権威に象徴される〈文学の顔〉の継承でもありました。以後の村上龍が日本文学の中で占めてきた立ち位置と役割について考えます。
     20年後、文学は、どのような顔をしているのだろうと考えることがある。
     いや、誤解があっては困るのだけれど、そこには必ずしも「文学とは何か」式の問いや「これから文学はどこへ向かうのか」式の問いは内包されていない。最初に述べておくと、本論における文学、とりわけ純文学と言い換えられるその括りは、意外なほどにシンプルなものであって、それは芥川賞という権威に集約されていく小説あるいは文芸の一ジャンルにほかならないからである。
     芥川龍之介賞、通称芥川賞は、1935年に設立された。今日でも年二回の授賞が行われるたびにテレビのニュースや新聞などで取り上げられ、基本的には純文学を対象にした新人賞だということになっている。同様に話題として上がる直木三十五賞、通称直木賞は、芥川賞に比べ、より大衆的でエンターテイメント性の高い作品を選考の対象にしており、新人作家やベテラン作家の区分を問わないというのが一般的な認識であろう。
     文学の歴史を紐解くことが最大の目的ではないし、両賞の意義については既に様々な識者が論じているのだったが、芥川賞が現在のようなヴァリューを持ち得た直接のきっかけは、1955年、第34回になる同賞を石原慎太郎が『太陽の季節』で取ったことにあったと通説化している点は押さえておきたい。石原は23歳、当時の史上最年少で芥川賞を受賞、『太陽の季節』は話題の作品となり、映画化もされて当たった。内容を軽く説明するなら、裕福な家庭に育ったはずの若者が享楽的な価値観と生活とに淫していくというものであって、それが大勢に支持されたことのセンセーションが、芥川賞のヴァリューをも底上げしたのだ。
    ▲石原慎太郎『太陽の季節』(1955年)
     ここで注意したいのは、石原と『太陽の季節』とが、古い世代の文化と対決するための若者文化、つまりはユース・カルチャーを代替するものとして機能し、受け入れられ、消費されたことである。どの時代であれ、どのジャンルであれ、新しい世代の台頭は必然でしかない。が、やがて政治家にまで上り詰める作家自身のカリスマや映画化のメディア・ミックスに補助されていたとはいえ、ユース・カルチャーのように見られつつ、社会的な影響力を強く持ち合わせていたがゆえに、『太陽の季節』は、芥川賞にとってのメルクマールとして語られることとなるのであった。
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  • 村上春樹『女のいない男たち』から読み解く、現代日本文学が抱える困難(森田真功×宇野常寛)(PLANETSアーカイブス)

    2018-06-25 07:00  
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    今回のPLANETSアーカイブスは、森田真功さんと宇野常寛による村上春樹『女のいない男たち』を巡る対談の再配信です。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の翌年に刊行された本作で明らかになった、村上春樹作品に象徴される「現代日本文学」が構造的に孕んでいる矛盾と困難とは――?(構成/橋本倫史)(初出:「サイゾー」2014年8月号)※本記事は2014年8月21日に配信した記事の再配信です。

    ▲Amazon.co.jp 村上春樹『女のいない男たち』
    森田 村上春樹の新刊『女のいない男たち』は、語るべきことも少ないし、それほど面白い小説だとも思いません。ただ、これがなぜ面白くないかを考えると、色々なことが見えてくる作品ではあるんじゃないかとは思います。
     表題作の中で解説されるように、「女のいない男たちになるのはとても簡単なことだ。ひとりの女性を深く愛し、それから彼女がどこかに去ってしまえばいいのだ」というのが今回の短編集のモチーフ。特定の異性が去る/自殺する/殺されるというモチーフは、村上春樹の過去の作品でも頻繁に用いられてきた。今までと大きく違うのは、中年以降の男性を主人公にしている点ですが、それはむしろ、今作がつまらない原因になっています。これは村上春樹という作家自身の限界でもあるし、彼に象徴される日本文学の限界でもある。
    宇野 村上春樹は、『1Q84』【1】の『BOOK3』以降、明らかに迷走していると思う。『BOOK3』では、『BOOK1』と『BOOK2』についての言い訳──父になる/ならないという古いテーマから逃れられないのは仕方ないじゃないかということをずっと書いているわけですよね。前作の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』【2】(以下『多崎』)でも、そうした近代的な自意識としての男性と、それを成立させるための女性的な無意識、という構造から逃れられない自分の作品世界の限界についての言い訳をずっと繰り返している。そして『女のいない男たち』になると、いよいよその言い訳しか書いていないというのが僕の感想ですね。【1】『1Q84』:09~10年にかけ、現時点で3巻刊行(村上自身は『4』を書く可能性があるとインタビューで答えている)。1984年から異世界”1Q84”年に入り込んだ天吾と青豆の試練を中心に、宗教団体や大学闘争をモチーフに取り入れた作品。

    【2】『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』:名古屋で過ごした高校時代の友人グループから、大学進学により一人で上京したのちに突然絶縁された多崎つくる。16年後、36歳になった鉄道会社社員のつくるは、デート相手の言葉によって4人の元を訪ねる旅を始める。
     
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  • 村上春樹『女のいない男たち』から読み解く、現代日本文学が抱える困難(森田真功×宇野常寛)☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.141 ☆

    2014-08-21 16:00  
    220pt

    村上春樹『女のいない男たち』から読み解く、現代日本文学が抱える困難
    (森田真功×宇野常寛)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.8.21 vol.141
    http://wakusei2nd.com


    初出:「サイゾー」2014年8月号

    今日のほぼ惑は、今年春に発売となった村上春樹の新作『女のいない男たち』を宇野常寛とライターの森田真功さんの対談をお届けします。社会現象となった『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』から一年、いよいよ明らかになってきた、村上春樹作品に象徴される「現代日本文学」が構造的に孕む矛盾と困難とは――?

    ▼プロフィール森田真功(もりた・まさのり)
    1974年生まれ。純文学からマンガ、ロックミュージックからジャニーズまで、取り扱うジャンルは幅広い。レビューブログ「Lエルトセヴン7 第2ステージ」
    http://aboutagirl.seesaa.net/
     
    ◎構成/橋本倫史
     
    作品紹介

    ▲『女のいない男たち』著/村上春樹 発行/文藝春秋 発売/4月18日
    書きおろしの表題作のほか「ドライブ・マイ・カー」「イエスタデイ」「独立器官」「シェエラザード」「木野」の計6作を収録した短編集。「シェエラザード」は文芸誌「MONKEY」掲載、そのほかは「文藝春秋」掲載。
    森田 村上春樹の新刊『女のいない男たち』は、語るべきことも少ないし、それほど面白い小説だとも思いません。ただ、これがなぜ面白くないかを考えると、色々なことが見えてくる作品ではあるんじゃないかとは思います。
     表題作の中で解説されるように、「女のいない男たちになるのはとても簡単なことだ。ひとりの女性を深く愛し、それから彼女がどこかに去ってしまえばいいのだ」というのが今回の短編集のモチーフ。特定の異性が去る/自殺する/殺されるというモチーフは、村上春樹の過去の作品でも頻繁に用いられてきた。今までと大きく違うのは、中年以降の男性を主人公にしている点ですが、それはむしろ、今作がつまらない原因になっています。これは村上春樹という作家自身の限界でもあるし、彼に象徴される日本文学の限界でもある。
    宇野 村上春樹は、『1Q84』【1】の『BOOK3』以降、明らかに迷走していると思う。『BOOK3』では、『BOOK1』と『BOOK2』についての言い訳──父になる/ならないという古いテーマから逃れられないのは仕方ないじゃないかということをずっと書いているわけですよね。前作の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』【2】(以下『多崎』)でも、そうした近代的な自意識としての男性と、それを成立させるための女性的な無意識、という構造から逃れられない自分の作品世界の限界についての言い訳をずっと繰り返している。そして『女のいない男たち』になると、いよいよその言い訳しか書いていないというのが僕の感想ですね。【1】『1Q84』:09~10年にかけ、現時点で3巻刊行(村上自身は『4』を書く可能性があるとインタビューで答えている)。1984年から異世界”1Q84”年に入り込んだ天吾と青豆の試練を中心に、宗教団体や大学闘争をモチーフに取り入れた作品。

    【2】『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』:名古屋で過ごした高校時代の友人グループから、大学進学により一人で上京したのちに突然絶縁された多崎つくる。16年後、36歳になった鉄道会社社員のつくるは、デート相手の言葉によって4人の元を訪ねる旅を始める。
     
    森田 村上春樹の限界と現代日本文学の限界というのはパラレルです。これは石原慎太郎が登場した頃に起源があるのかもしれないけど、70年代後半に村上春樹と村上龍が出てきた頃に「文学自体がユースカルチャーとして機能する」ということにされた。当時は作家も若かったし時代ともマッチしていたけれど、今やそう機能していないのに、同じモチーフの焼き直しをやっていても駄目なんです。
     『多崎』の主人公・多崎つくるは、36歳という設定だった。村上春樹の短編「プールサイド」には「35歳が人生の折り返し地点だ」という話が出てきますが、多崎つくるも折り返しの年齢にある。「プールサイド」【3】が発表されたのは83年だから、村上春樹という作家は30年経っても人生の折り返し地点のことばかり描いていて、折り返したあとのことは描いてこなかった。それが今作では年を取らせてみたけれど、うまくいっていない。【3】「プールサイド」:短篇集『回転木馬のデッド・ヒート』(講談社/85年)所収。「35歳になった春、彼は自分が既に人生の折りかえし点を曲がってしまったことを確認した。」という書き出しから始まる。

     
    宇野 内容的な話をすると、今作のタイトルは『男友達のできない男たち』としたほうが正確なんじゃないかと思うんだよね。というのも、「シェエラザード」を除くすべての短編が、魅力的な男友達と仲良くなるけれどうまくいかないという話になっている。初期作品にも「自分と対等な男のパートナーが欲しい」という欲望は伏流として流れていたと思うんだけど、それが驚くほど前面化しているのがこの作品集だという気がする。初期3部作の『羊をめぐる冒険』(82年)で「鼠」【4】が自殺して以降、そういう欲望は一切封印されていた。以降の作品では、嫌な言い方をすれば「かつて親友が自殺した」というエピソードが「人間的な深みを演出するためのスパイス」として、カジュアルな口説き文句に使われる程度だった「男友達」というモチーフが、ここにきてもう一度重要なモチーフとして浮上していることが、この作品の中で語るに値する唯一の要素だと思う。この先の村上春樹の長編は、同性の対等なプレイヤーとどう関係を紡ぐのかが鍵になるかもしれない。【4】「鼠」:デビュー作『風の歌を聴け』(79年)、『1973年のピンボール』(80年)、『羊をめぐる冒険』(82年/すべて講談社)の初期3部作は「僕と鼠」ものとも呼ばれ、主人公の「僕」と親友である「鼠」の関係が重要な軸となっている。

     村上春樹の作品において、女性の存在は非常に差別的に扱われているんだけど、それは彼が女性を人間として見ていないからだと思う。女性は、世界に対する蝶番として存在しているんですよね。春樹の中では無意識の象徴として扱われる女性という蝶番を用いることで、イデオロギーや宗教とは違う回路で世界と繋がることができる──こうしたモチーフを繰り返し描いていた。それが”女のいない男たち”となると、まさに「女がいない」ということで世界に対する蝶番が外れてしまっている状態にある。そうした世界で人はどうなるのかというのが今作の隠れたテーマで、そこで同性の友達に対する期待や憧れと、そこに自分は踏み込むことができないという諦めがない交ぜになったものが描かれている。
     かつての村上春樹の作品において、男友達は、全共闘世代が68年に損なってしまったものの象徴としてのみ描かれてきた。しかし今作では明確に異なっている。村上春樹がこの30年で培ってきたものとは別の世界に対する蝶番として男友達を位置づけようとしている。ただ、それを信じることができなくて、女を失い、男友達もできずに一人佇む話が並んでしまった。どこまで意識的かわからないけれど、この閉塞感は作家としての村上春樹の行き詰まりとも重なっている。ここ数年の作品では行き詰まり、別の回路を模索してはいるんだけど、本人がそれを全然信じられていないし、その回路を展開する想像力も持っていないということが露呈してしまっている。その意味で、今作は興味深い作品だというのが僕の判断。
    森田 何かを寓話化して小説を書こうとするときに、村上春樹がモチーフとしたいものが発展していないので、同じものの焼き直しになってしまっているんですよね。2つの価値観の対立、リアリズムとアレゴリー──比喩、あるいはファンタジーが、『1Q84』も『多崎』も全然うまくいってない。『アフターダーク』【5】でもやっていた多人称の路線も総合小説としては『海辺のカフカ』【6】あたりが限界で、そこからの発展性は何もない。そこで再生産の段階に入ってしまったのがここ最近の作品じゃないか。男友達という存在の話にもつながるけれど、主人公をサポートする、あるいは対になる役割を物語の中に全然つくれていない。村上春樹の書き方の中から、それが失われたまま来てしまっている。初期の頃に評価されたアメリカ文化との緊張関係みたいなものも、今日において有効ではない。その部分を引き算にしなければならないことの影響も随所に及んでいます。
    【5】『アフターダーク』:04年刊行。三人称形式と一人称複数の視点での語りが混じり合う、村上春樹作品としては珍しい試みがなされた長編。深夜の都会で起きる出来事を描写していく。
    【6】『海辺のカフカ』
    02年刊行。父親の呪いから逃れるために家出した15歳のカフカ少年と、猫探しをする知的障害の老人ナカタそれぞれの動きが徐々に交わり、異世界と現実が交錯する中で隠された謎が徐々に明らかになってゆく。
    宇野 『アフターダーク』の頃の村上春樹は、結果的にだろうけど想像力のレベルでグーグルと戦っていた。