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記事 4件
  • 【緊急対談】石川善樹 × 安宅和人 人間は臨死体験せずに根性論を突破できるのか? 後編 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.572 ☆

    2016-04-25 07:00  
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    【緊急対談】石川善樹 × 安宅和人人間は臨死体験せずに根性論を突破できるのか? 後編
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.4.25 vol.572
    http://wakusei2nd.com


    今朝は、先日終了した人気連載「〈思想〉としての予防医学」著者の石川善樹さんと、『イシューからはじめよ』著者にしてヤフー・ジャパンCSO・安宅和人さんの対談記事の後編をお届けします。前回で、「根性論」の撲滅について一定の結論を得た安宅氏と石川氏。今回はその先にある、本当に〈効率的〉な物事の進め方とはどんなものかを語り合います。
    ▼プロフィール

    安宅和人(あたか・かずと)
    ヤフー株式会社チーフストラテジーオフィサー。データサイエンティスト協会理事。応用統計学会理事。東京大学大学院生物化学専攻にて修士課程修了後、マッキンゼー・アンド・カンパニーに入社。4年半の勤務後、イェール大学脳神経化学プログラムに入学。2001年春、学位(Ph.D.)取得。ポスドクを経て2001年末、マッキンゼー復帰に伴い帰国。マーケティング研究グループのアジア太平洋地域における中心メンバーの一人として、飲料・小売り・ハイテクなど幅広い分野におけるブランド立て直し、商品・事業開発に関わる。2008年9月ヤフー株式会社へ移り、COO室長、事業戦略統括本部長を経て2012年7月より現職。幅広い事業戦略課題の解決、大型提携案件の推進に加え、市場インサイト部門、Yahoo! JAPANビッグデータレポート、ビッグデータ戦略などを担当。著書に『イシューからはじめよ』(英治出版)がある。

    石川善樹(いしかわ・よしき)
    (株)Campus for H共同創業者。広島県生まれ。医学博士。東京大学医学部健康科学科卒業、ハーバード大学公衆衛生大学院修了後、自治医科大学で博士(医学)取得。「人がより良く生きるとは何か」をテーマとして学際的な研究を行う。専門分野は、行動科学、マーケティング、計算創造学、計算社会科学等。ビジネスパーソン対象の講演や、雑誌、テレビへの出演も多数。NHK「NEWS WEB」第3期ネットナビゲーター。著書に『疲れない脳をつくる生活習慣』、『最後のダイエット』、『友だちの数で寿命はきまる』(マガジンハウス)など。
    ◎司会:宇野常寛
    ◎構成:稲葉ほたて
    本メルマガで連載していた『〈思想〉としての予防医学』これまでの記事一覧はこちらのリンクから。
    本対談の前編はこちらから。
    ■研究結果が教える「効率のいい働き方」
    石川 最善の学習戦略とは何か。そんなことを研究した論文が2010年のサイエンス誌に出ていました。
    その研究は、複雑な環境を生き抜く上で、「外に新しい情報を取りに行く」のと「自分で実験・考察する」のを、どれくらいのバランスで行うとよいのかシミュレーションしたものです。
    すると、外に情報を取りに行くのを「9」、自分で試行錯誤するのを「1」くらいの比率でやるのがもっとも生存確率が高いというんです。
    正直、ちょっと意外な結果でした。一人でもんもんと悩むのはそんなに効率が悪いことなのかと(笑)。そんなことより、よい情報はもう十分外にあるから、それを取りにいけばいいのだと。
    安宅 ああ、これはマッキンゼーでもよく言われていた話です。「Don't reinvent the wheel」――すなわち「車輪を再発明するんじゃない」と。
    世界中の大企業の7割とかをクライアントに持っていて、広範な最先端の経営課題についてコンスタントに誰かが扱っているのだから、もうどこかに何か解答か、カギになるモノの見方が転がっている可能性が高い。「とにかくまずは聞いて回れ」というわけです。すると、実際、多くの場合、ある程度の方向性はわかってしまう(笑)。
    最初、向かうべき方向性が360度、すべての方向性にありえるように見えても、この30度の辺りに答えがあるなと見えてくる。この削ぎ落とされた330度のバリ取りのパワーというのはとてつもないです。
    石川 プロジェクトが始まる前に、本当にダメな手法の8~9割を知っている。
    安宅 そうなんです。
    まだ若かった頃に、社是的な考えである「DISTINCTIVEであれ」という言葉について、あるグローバルなトレーニングで世界中から集まった同僚とディスカッションしていたことがあります。すると北米オフィスのある男が「そんなのシンプルだよ」と言うんです。
    彼はDISTINCTIVEであるというのは”know the person who knows the stuff”だというのです。つまり、「それを知ってる人を知っているかどうか」が「DISTINCTIVE」の意味だと。その言葉に、そこにいたみんなシビレてしまいました。
    僕は一度会社をやめて、アメリカの大学で研究者に戻ったのですが、アメリカの大学の強さも半分ぐらいはそこにあると思いました。主要な研究大学では、関連する大半の分野で一流の研究者が揃っていて、しかも国内の近くの大学に世界レベルの専門家が普通にいるので、下のフロアに行ったり、それで無理でも、近くの町の別の大学に行けば、もう30分とか1時間で、そのテーマについての専門家に会え、フランクに話ができるんです。自分が知らないラボでも、「お前、Johnのところに行って習ってこい、言っておいてやるから」とか。あの感覚が、あまり語られないことですが、アメリカの研究を生み出す与件的なベースになっている……。これは大変に印象的でした。
    石川 しかし、そう聞くと「車輪の再発明をするな」というのは、先ほどの学習効率の研究と照らしあわせても、「根性論」に陥らない重要な手法ということになるのでしょうね。
    安宅 ですね。ただ僕はこれをストレートにやることには、心理的な抵抗がすごくあるんです(笑)。
    石川 なんと(笑)。その理由を詳しく教えてください!

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  • 【緊急対談】石川善樹 × 安宅和人 人間は臨死体験せずに根性論を突破できるのか? 前編 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.560 ☆

    2016-04-11 13:55  
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    ※本記事は、配信時に編集部の校正ミスにより、不正確な記述がありましたことをお詫び申し上げます。【4月11日13:30訂正】
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    【緊急対談】石川善樹 × 安宅和人人間は臨死体験せずに根性論を突破できるのか? 前編
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.4.11 vol.560
    http://wakusei2nd.com


    今朝は、先日終了した人気連載「〈思想〉としての予防医学」著者の石川善樹さんと、『イシューからはじめよ』著者にしてヤフー・ジャパンCSO・安宅和人さんの対談記事をお届けします。
    ビジネスと学術を股にかけて活動する気鋭の二人が語り合うのは、日本社会にはびこる「根性論」の撲滅について。対談の前編では「そもそも私たちは根性が好きなのだ」という仮説から始めて、その具体的な解決策を論じていきます。
    ▼プロフィール

    安宅和人(あたか・かずと)
    ヤフー株式会社チーフストラテジーオフィサー。データサイエンティスト協会理事。応用統計学会理事。東京大学大学院生物化学専攻にて修士課程修了後、マッキンゼー・アンド・カンパニーに入社。4年半の勤務後、イェール大学脳神経化学プログラムに入学。2001年春、学位(Ph.D.)取得。ポスドクを経て2001年末、マッキンゼー復帰に伴い帰国。マーケティング研究グループのアジア太平洋地域における中心メンバーの一人として、飲料・小売り・ハイテクなど幅広い分野におけるブランド立て直し、商品・事業開発に関わる。2008年9月ヤフー株式会社へ移り、COO室長、事業戦略統括本部長を経て2012年7月より現職。幅広い事業戦略課題の解決、大型提携案件の推進に加え、市場インサイト部門、Yahoo! JAPANビッグデータレポート、ビッグデータ戦略などを担当。著書に『イシューからはじめよ』(英治出版)がある。

    石川善樹(いしかわ・よしき)
    (株)Campus for H共同創業者。広島県生まれ。医学博士。東京大学医学部健康科学科卒業、ハーバード大学公衆衛生大学院修了後、自治医科大学で博士(医学)取得。「人がより良く生きるとは何か」をテーマとして学際的な研究を行う。専門分野は、行動科学、マーケティング、計算創造学、計算社会科学等。ビジネスパーソン対象の講演や、雑誌、テレビへの出演も多数。NHK「NEWS WEB」第3期ネットナビゲーター。著書に『疲れない脳をつくる生活習慣』、『最後のダイエット』、『友だちの数で寿命はきまる』(マガジンハウス)など。
    ◎司会:宇野常寛
    ◎構成:稲葉ほたて
    本メルマガで連載していた『〈思想〉としての予防医学』これまでの記事一覧はこちらのリンクから。
    前回:「幸福」を再定義するための覚書(石川善樹『〈思想〉としての予防医学』第十回)
    宇野 今日は石川さんと安宅さんのお二人に「日本社会にとっていかに根性論が有害であり、いかに撲滅すべきか」を徹底的に討論していただきたいと思っています。きっかけはある新年会での雑談なのですが、僕はお二人の話を伺っていて、これは日本の起業社会批判であると同時に、知的生産の効率を突き詰めていくと、どうも僕達が前提にしている人間観や知のイメージ自体の大幅な修正を要求するような、大きな話につながるように感じました。
    そこで改めてお二人に対談をお願いした次第ですが、話の取っ掛かりにしたいのは、安宅さんが『イシューからはじめよ』の帯に「根性に逃げるな」と書いていることなんですよ。まず、安宅さんが「イシュー本」を書くときに、根性論をひとつ標的に定めようと思った理由を聞いてみたいんですね。
    安宅 こと仕事という観点で、なぜ根性論がそんなに嫌なのかという話をするなら、やっぱり労働時間で勝負しようとするようになるからですね。で、根性があったからアイツは成功したんだ、みたいな言い方が世の中にまかり通っている。
    これの何が良くないかというと、実際に根性出して頑張ると、成功してしまうんですよ(笑)。
    ただ、そういう人たちはだいたい一度は身体を壊している。で、身体を壊したところで、はたとマズかったと気づく(笑)。逆に気づかなかった人は成功していません。つまり、成長したのは根性でやっていたからではなくて、途中で「あれ、もしかして重要なのは根性じゃないのかな?」と気づくことにあるわけです。大事なのは、根性を出して頑張る過程で気づくことにあるんです。
    石川 なるほど。
    安宅 でも、それって実にバカバカしい話だと思うわけですよ。
    あともう一つ言うと、根性論というのがあんまり役に立たないというのもあるんですよ。例えば、この国の人は習い事が好きですよね。なんとか検定とか。
    石川 まさに資格なんて根性論の最たるものだと思いますけど、本当に日本人は好きですよね。休日にカフェに行くと、資格の勉強をしている社会人が実に多い。
    宇野 サラリーマン時代、勤めていた会社の近くにある本屋に、昼休みなんかに行くじゃないですか。そうすると、近所の金融機関に務めているOLたちが、制服を着たまま思いつめた表情で語学のコーナーにいるんですよ(笑)。
    たぶん彼女たちは、なにか変わった自分になりたくて、とりあえず価値のあることをやろうと思った結果、その語学勉強テキストのコーナーにいたんだと思うんです。でも、本当にそうだったら、そんな語学や資格のコーナーになんていないで、むしろその周囲にある本をもっと立ち読みすればいいのに、と当時の僕は思っていましたね。
    安宅 僕が出席している集まりでも、とにかく「データサイエンティストの資格化はできないだろうか」みたいな話が繰り返し出てきます。ただ、例えば10億単位のデータの環境を構築する、あるいはそのレベルのデータをキレイにする、これらを使って意味合いを出す、というようなスキルが、試験で分かると言うのはいくらなんでも難しい、と思うのです。そもそも能力を見るために、特別な環境とデータハンドリングにかなりの時間が必要なスキルですので……。
    石川 結局、資格の勉強って、いま自分が着実に前に進んでる感じがあるんじゃないですかね。
    安宅 ですね。それはわかります。
    ■ 人間はなぜ根性論が好きなのか
    宇野 でも、今の話は、今日の「根性論」の話の結構重要なポイントなんじゃないでしょうか。
    そもそも根性論を撲滅するためには、なぜそれが世の中にこれほどはびこっているのかを考えなければいけないと思うんです。それで言うと、どうも僕が見るに「根性論」には、独特の快楽があるんですよ。
    つまり、イシュー本で安宅さんが「犬の道」と呼んだような道を人々が歩くのは、適度に刺激や負荷がかかった状態で、ダラダラと同じことを反復するときの、あの“ぬるま湯”に浸かるような麻薬的な快楽があるというのが大きいんだろうと思うんです。まずは、そこから議論を始めるべきなんじゃないかと思いますね。
    安宅 そういう側面はあると思います。
    特に日本人にそういう傾向があるのは、一つは幼少時の教育ですね。結果じゃなくて努力を褒めるように指導する教育論があるでしょう。もちろん、教育学的に正しい面も多々あると思いますが、あれをやられすぎると「何かをやること自体に価値がある」という価値観に近づいていくんです。
    宇野 でも、それはいわば工業社会下において、そういう教育が最適解だったからという話でしかない気もしますね。むしろ、今後の社会に対応した教育をしていく中で自然に解消していくような気もします。
    石川 もう一つ、そこに「レールの議論」というのもあるんだと思います。
    日本という国は社会にレールを敷いているじゃないですか。そこに乗れば、20年学んで、40年働いて、その後20年休めばいい、という安全な人生が一つあるわけですよ。その世界観の中では、人生は一本の細いレールであって、その上で努力しさえすればいい。
    でも、そのレールから外れたらヤバイことになる。どのくらいヤバイかというと、Googleで「日本 レール」と調べると、サジェスチョンに「外れる」と出てくるんです(笑)。
    一同 (笑)
    宇野 鉄道関係を検索している人よりも、それを検索する人のほうが多いってことですよね(笑)。
    安宅 マシンラーニング(機械学習)の結果にそれが現れているというのは、実に暗い結果ですね(笑)。
    ところが、本当は色々なレールが人生にはあるわけですよ。
    よく僕は事業戦略の講義なんかをやるんですが、そこで「戦略なんて手段にすぎないのであって、目的地に行く方法なんていくらでもあるんだ」と言うと、みんなビックリする。
    でも、そんなのは当たり前の話でしょう。人生だって同じことだと思うのだけど、「目的地に向かうレールは何本もあってもいい」という発想が出てきにくい社会になっているんでしょうね。でも、これは(かつて10年あまり過ごした)マッキンゼーのような会社のヒトでも、そういうところがありましたからね……。
    石川 前に映像作家の蜷川実花さんと話したときに、「数学なんて0点だったし、勉強なんてしたくなかった」と言っていたんですよ。ところが、話している最中に彼女が「私、今日息子に怒っちゃったんです」と言うから、理由を聞いてみたら「公文式をちゃんとやってないから」と言うんです(笑)。
    安宅 あなた、自分が数学は0点だったと言ってたじゃないか、と(笑)! ちなみに僕、蜷川さんの写真、大好きです。
    石川 彼女はアーティストして大成功した人ですけど、その道がいかに険しい道であるかもよくわかるわけです。周りの人がどんどん落ちていった姿も見ていたわけですし。そのときに、子供には「やっぱ公文やらせた方がいいのかな」となったんだと思います(笑)。やっぱり蜷川さんほどの人でも、レールから外れてアーティストの道を行ったあげくに、そこで失敗してしまうことには怖さがあるということだと思うんです。そのとき、レールに上手く乗って、あとは根性で努力を積み重ねるのが確実だという発想になったのだと思うんですよ。
    安宅 まあ、人間は無意味な時間を過ごしたくないというのはあるんです。
    そういう意味では、ちょっとずつ確実に前に進んでいる幸せというのはありますよね。真剣に考えれば、この場所に真っ直ぐ向かうことに価値があるという場合でも、なんとなく目の前の遠回りの道をコツコツ歩む、あるいは実はゴールから離れていく道を、そのことを意識することなく進んでいくことを選んでしまう。
    石川 遠くに目標を置くのは、人間は苦手ですからね。
    ■「根性論」の歴史学
    石川 少し歴史的な話をすると、「根性」という概念が初めて登場したのは近代のイギリスなんです。
    というのも、19世紀までの世界はほとんどが田舎で。田舎では「根性」よりも「規範に従うこと」の方がよっぽど大事だったんですね。根性論に通ずるような努力の概念は、そういう場所では生まれないんです。ところが、産業革命が起こって、都市が生まれると状況は変わってくる。
    都市というのは「頑張った者勝ち」の世界なんですよ。そうなると、人間は「規範」から抜け出して、そこで相手を出し抜こうとする。そういう状況下で登場したのが、サミュエル・スマイルズの『自助論』という本です。この『自助論』には偉人たちが300人ぐらい出てくるのですが、彼らが偉人になった理由の説明は、すべて「頑張った」から(笑)。
    安宅 (笑)
    石川 例えば、「どうしても朝起きられなかった人が、召使いに毎朝水をバシャーっとかけて起こしてもらうようになって、それで朝活の勉強を頑張ることで偉くなった」とか、もうそんな話ばかり(笑)。ちなみに、この本は日本にも『西国立志編』という題名で訳されて、明治時代の『学問のすゝめ』と並ぶ二大ベストセラーになっています。これはいわば日本人の道徳の教科書になった本でもあって、スマイルズの根性論は直接的に日本にも届いているんですね。
    安宅 でも、それって平和な時代の思想でしょう。
    頑張ればなんとかなるように道が見えているときは、それでもいいですよ。正しいあり方が一個しかないときは、まさに「頑張れ」で行けるんだと思うんですよ。でもイノベーションが起きて、変化が起きていく時代には、そういう発想は通じないでしょう。万単位のデータ処理がスプレッドシートで一瞬ででき、人工知能が高速で情報の自動処理をしていく時に、丁寧に人手で頑張っても勝ちようがないというか。
    石川 まさに、そうなんです。その意味で、この「根性論」のマズさに最初に気づいたのは旧ソ連でした。
    ナチスドイツの「スポーツ」「セックス」「スクリーン」という3Sがあって、国家の威信のためにスポーツを頑張るという文化が国際的に広まってから、かなりの長いあいだ「長時間、一生懸命練習して、たくさん競争すれば強くなる」というパラダイムが続いていたんです。でも、それをやると、けが人や燃え尽きる人が続出するんですね。
    そこで旧ソ連では1950年代に「スポーツサイエンス」の分野を始めたんです。そこで彼らが発見したのは、トップアスリートとそうでない人の違いは、実は根性論でストレスをいかにかけるかにはなくて、むしろ「リカバリー」の仕方にあるという事実だったんです。
    たとえばテニスって、一試合のうち実際にプレイしている時間は35%ぐらいなんですよ。
    安宅 残りの65%はなにをやっているんですか?
    石川 ポイントとポイントの間で、次のプレイの準備をしてるんですよ。
    そして、その間が実は一番長いんですね。そして、トップランクとそうでない人の違いは、このポイントの間にうまくリカバリーできているかなんです。ポイントで一喜一憂するのは仕方ないとして、どうやって元に戻るのか。そこでリカバリーのルーティンを持っている人は強いんです。
    宇野 なるほど。
    石川 たぶん、これって仕事でも同じなんですよ。我々が実際に仕事をしている時間も短くて、実は次の仕事をするための準備の時間のほうが長いでしょう。だからこそ、仕事の疲れのリカバリーをそこできちんと取っている人はパフォーマンスが高くなっていく。
    安宅 実際のところ知的ワークだと、いっぱい休んでいて、何に時間を使ってるかわからないヒトの方が生産性が高かったりするのはザラですよね。逆に、朝から晩まで働き詰めのタイプのヒトが知的にプロダクティブなのは見たことないです。

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  • 【ほぼ惑ベストセレクション2014:第3位】"人間"を単位に考えるのは生命に失礼――『イシューからはじめよ』著者・安宅和人が神経科学とマーケティングの間で考えてきたこと ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 号外 ☆

    2014-12-30 11:10  
    220pt

    【ほぼ惑ベストセレクション2014:第3位】"人間"を単位に考えるのは生命に失礼――『イシューからはじめよ』著者・安宅和人が神経科学とマーケティングの間で考えてきたこと
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.12.29 号外
    http://wakusei2nd.com



    2014年2月より約1年にわたってお送りしてきたメルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」。この年末は、200本以上の記事の中から編集長・宇野常寛が選んだ記事10本を、5日間に分けてカウントダウン形式で再配信していきます。第3位は、Yahoo!Japan CSOで『イシューからはじめよ』著者の安宅和人さんへのインタビューです!(2014年4月3日配信)これまでのベストセレクションはコチラ!
     
    ▼編集長・宇野常寛のコメント

    安宅さんの『イシューからはじめよ』という本は「ほぼ日」を通してビジネスマンにとても支持された隠れベストセラーで、僕自身も非常に影響を受けました。で、実はこの本は、ビジネス書というよりも安宅さんの哲学と人間観を表現した理論書だと思っています。要するに「高度な思考は言語化できない」という前提を受け入れることで、現代人のほとんどが避けている「非言語的」な論理的思考法を提案していると言えると思います。
    そしてこのインタビューでは、「その非言語的な思考を部分的に可視化するものとして、現代の情報テクノロジーを捉え直すことができないか」という話をしている。言葉が簡単なわりに話している内容が抽象的でわかりづらかったかもしれないですね。でも、ここで話した内容は僕の自分の本にもかなり直接的に活かそうと思っているので、そのあたりも楽しみにしていてほしいと思っています。


     
    2010年末に出版されベストセラーとなったビジネス書『イシューからはじめよ』の作者である、Yahoo! Japan CSOの安宅和人氏は、経営コンサルタントと神経科学者の2つの経歴を併せ持つ異色の人物だ。ネットユーザーには人気ブログ「ニューロサイエンスとマーケティングの間」のid:kaz_ataka氏としても有名である。
    ニューロサイエンスとマーケティングの間 - Being between Neuroscience and Marketinghttp://d.hatena.ne.jp/kaz_ataka/
    このブログや著作からも窺えるように、氏の経歴は双方ともに華々しい。外資系コンサルティングファームで、独自の消費者マーケティング手法によってヒット商品の開発に関わってきた一方、米国イェール大学での研究者時代には、平均7年弱かかるプログラムを、当時最短の3年9ヶ月でPh.Dを取得している。そんな氏の仕事術を明かしてみせた本が、『イシューからはじめよ』であった。
    今回、ひょんなことから安宅氏と知り合った宇野の希望で、我々PLANETS編集部は六本木の東京ミッドタウン内にあるYahoo! Japan本社を訪問することになった。宇野が今回、強く興味を惹かれていたのは、安宅氏の「哲学」である。『イシューからはじめよ』の背景で彼が考えていた内容にはじまり、二人の議論はインターネット時代における「言葉」や「人間」についての認識を問うものになっていった。
     
    ◎構成:稲葉ほたて
     
     
    ■『イシューからはじめよ』は"科学書"だった
     
    宇野 今日僕が聞きたいことは究極的には一つで、それは安宅さんの『イシューからはじめよ』という本の背景にある人間観についてなんですよ。あの本には、安宅さんが冒頭で書かれているように、ニューロサイエンスとマーケティングの間で考えた仕事術が詰め込まれているのですが、僕の興味はむしろその背景にある人間観の方なんです。科学者・安宅和人はニューロサイエンスとマーケティングの間からかなりユニークな人間像を持ち帰っている。そこを引き出したいんです。
    安宅 ありがとうございます。あれはブログで書いた記事の反響を受けて、重い腰を上げて書き始めた本なんです。しかも、ブログのハンドル名で出すつもりだったのですが、最後になって「こんなに濃い本なのだから、ちゃんと実名で出しましょう」という話になってしまった(笑)。
     

     
    でも、本来は科学研究のためののような本だったんですよ。大量のサイエンス事例を載せていたのですが、優秀なエディターの強烈なパワーによって一般向けに味付けが代わり、ビジネスチックな話を多く差し込みました。
    宇野 だとすると、僕が読みたいのはその理論編ですね。事例というのは研究結果についてですか。
    安宅 いえ、研究における知的生産の手法についてです。そもそも僕のブログの読者は何らかの研究をしている人がどうも多く、彼らのリクエストによって書籍化されたわけですから。そこで書いたのは、まさにタイトルの通り、「イシューからはじめよ」を優れた科学研究の事例に沿って説明しようとしたものでした。
    宇野 門外漢からすると、この2014年の現在においては特定の業界ではこの本の影響か、僕の周囲にいる人、たとえば楽天の尾原和啓さんなどがその代表ですが、「イシューから始める」ことを意識している人は決して少なくはない。でも、日本の自然科学の現場ではそういう発想が弱かったのですか?
    安宅 私の関係する分野では一部の優秀な研究者を除いて、明示的には行っていなかったと思いますね。日々これはどうだろうと実験をして、面白い結果が出てこないか、それをみて考えようという人が多かったのではと思います。現在もそうかは難しいところですが、僕のブログに対する数多の研究者からの反応を見るに、さほど状況は変わっていないように思います。
    しかし、少なくとも私の体験、見聞した米国の一部のラボは違いました。例えば、僕が留学していたとき、たった5人程度のある名もないラボが年間5本も6本も超一流誌に論文を掲載していたんです。その手法は驚くべきもので、彼らはまず論文のタイトルから真っ先に決めてしまうんです。そして、もう研究完成時の絵ができていて、「この5つが示せればよい」ということまで最初に設計しているんです。しかも、最初の問題の立て方が非常に秀逸で、みんなが議論している問題の本当に重要な論点を見事に突いてくるので、答えが何であろうが必ず大きなインパクトを持つ結果になるわけです。当時の僕はもう「こいつら、なんちゅうやり方しとんねん」と大変にショックでしたね。
    この研究室のやり方を書いたブログエントリーは、私が全く想定していなかったレベルの評判を呼びました。ある時など、国内の著名な分子生物学の研究者の方から「ぜひこれについて学会で紹介して、一席ぶちたい」とメールが来たり(笑)。あの本は、こういうふうに課題設定の在り方から先に始めて成功した研究、知的生産事例についてまとめたものだったんです。
     
     
    ■「ビジュアルの思考」が伝わらない世界で
     
    宇野 安宅さんはこの本で「言語で考える思考」と「絵で考える思考」のふたつを対置させて、ご自身は後者の思考を用いるタイプだと位置づけていますね。そしてこの「イシューからはじめよ」という本は、タイトルの通り回答の追求よりも問題設定を優先せよというメッセージを訴えた本なのだけど、これは同時に言語的な思考ではなく、絵的な思考でアプローチせよと主張しているのだと思うんです。
    安宅 そういう面は、確かにあるかもしれないと思います。自分はさておきですが正しい問いを見出す人というのは、個別の現象を解釈せずに、まずは構造的に全体で見る人が多いように思います。例えば、彼らは、法律を研究するとなったときに、六法全書を読んで条文にある言葉を一つ一つ意味を考えていくようなことをしないでしょう。一体、どの法律がどういう関係の中にあるのかを、まずは見るはずです。あるいは、この分野はここの部分がまだ研究されてないぞ、とかね。
    それは、やはり俯瞰して見る能力ですよ。一体どの問題が大事なのかということは、まずは大きい絵の中で見なければわかりませんから。そういう考えができる人のほうが有利ですが、少ないです。
    これは個人的に、非常に悩んだことでもあります。僕は日本の大学院で分子生物学の研究をしていたときに、コンサルティングファームに偶然、誘われたのですが、そこで急に科学者同士だと分かりあえていた話が通じなくなってしまったんです。ビジネスの世界に入ると「お前が言っていることは正しそうだけど、何も理解できない」と言われて、大変に苦労したのですね。
    科学者って、言語化が困難な部分をムリヤリに言語化して論文に叩き込むところがあって、そういう世界が存在する前提で生きてるんです。でも、一緒に仕事をしたチームの人たちの経済学部や法学部出身の人の多くには、それが伝わらない。だから、この言語化し得ないメタ形而上学のような世界をどうにか形にしなければいけないと感じました。
    宇野 「ビジュアルの思考」を用いないと「イシューからはじめることは困難」というのは大きな問題だと思います。ちょっと変な言い方になるのだけど、少なくともいま僕たちが用いている言語的な思考では記述することが難しい論理というものが世界には間違いなく存在している。それは「直感」や「感性」と呼ばれることも多いのけれど、実はあくまで「論理」なのだということですよね。
    安宅 同感ですね。もちろん、解決するために言葉に落としこむのは大事ですから、言葉の重要性を否定しているわけではありません。しかし、そういう側面は大きいと思います。
     
     
    ■言葉にするのが難しいものをどう言語化するか
     
    宇野 対して、現代の情報技術の発達は、従来の言語では記述できないものを可視化していっているんだと思うんですよ。例えば、僕はFacebookの「イイね!」の付け合いから、誰と誰が付き合っているかのような人間関係を見抜くのが得意で……
    安宅 はっはっは(笑)
    宇野 このとき僕は「イイね!」の数という、従来の言語では扱いづらかった、「空気」とか「感触」と言われていた曖昧な存在を数字というかたちで可視化する装置を用いて、論理的な分析を行っているんですよね。そこで『イシューからはじめよ』に話を戻すと、僕がこの本で面白いなと思ったのは、安宅さんがこうした「言葉にできない論理」をなんとか言葉に落とし込もうとしている悪戦苦闘の過程が見えているところで、そこに発見出来る試行錯誤こそが「イシューからはじめ」ること、つまり問題設定から解決のプロセスへの接続、つまりビジュアルの思考から言葉の思考へと接続する作業の極めて優れた例になっていることなんです。
     
     
    安宅 あの本には、ひじょうに感覚的なことをたくさん書いた気がします。自分が上手く問いを立てた経験と見聞きした事例をグルーピングして、うんうん考えるというなかなか大変な作業でした。とはいえ、普段から僕がやっているのは、そういうふわっとしたものを言語に落とす作業です。この"言語化が難しいもの"を言語化して枠組みに叩き落とす作業というのは、知的生産と呼ばれる営みの半分以上を占めていると思います。
     
     
    ■脳の中で言語が占める部位はオマケのようなもの
     
    宇野 そもそも世の中には、人間は言葉でしかものを考えられないとするか、言葉は考えられることの一部にしか過ぎないと捉えるか、の二通りがあると思うんです。僕は後者の方が正しいと思うのですが、これまでの世界では圧倒的に前者の考えの方が優勢ですよね。
    ところが現在、世の中を動かしている情報テクノロジーは後者の世界理解に親和性が高い。どんどん言語が追いつかない領域も可視化してコントロールしはじめていて、そのせいでたぶん言葉の世界だけで思考してる人たちが、世界から完全に置き去りにされちゃってる気がするんですよね。
    安宅 (スマホを手にとってスクロールさせながら)こういうUI/UXなんかによって、世界が変わってしまいますからね。言葉じゃない部分の実態に、人間が急速に気づきつつあるんだと思います。
    宇野 その変化は、具体的にどういう形で起こっていくと思いますか?
    安宅 やはり端緒はスマホになると思います。まず、このデバイスでのUI/UX自体が、基本的にTwitterのようなストリーム以外の形式で受け入れにくいんです。いつも手の中に何かがあって、あまりにも激しすぎる情報が流れてくるときに、上下にスクロールさせていくしかない。だって、昔テレビのチャンネルをチェンジしていた時の、1000倍くらいの情報を処理しているわけですから。そして、こういうふうに情報量がある閾値を超えたときに一瞬で理解する唯一の方法が、目で画像を見ることだと思うんですよ。結果的に、脱言語化しているんですよね。
    最初に画像がスマホで流れてくるのを見たとき、僕も、単に「綺麗だな」としか思わなかったのですが、現在はこれが本質だと思っています。膨大な情報をみんなが普通に消化して生きていく時代に、我々の脳の基本構造に立ち返ると、画像が中心にならざるをえないからです。実際、我々の脳の中で言語にダイレクトに関係する箇所なんて、(ウェルニッケ中枢とブローカの)2箇所くらいしかなくて、ほとんどおまけみたいなものですよ。でも、視覚というのは(後頭部を触りながら)この辺りの全部ですからね。人間の脳の7割は視覚処理に何らかの形で関与していて、その中で視覚にメインに使われているところだけでも皮質の3割から4割を占めているんです。
    宇野 そうなんですか! 
    安宅 映画や小説を見ても分かる通り、別れた彼女のことや手のひらのことを思い出すだけでも、脳のスクリプトのかなりの部分が視覚で埋め尽くされてしまいますしね。そのくらいに脳の構造は視覚に依存しているのに、人間が言語で思考してきたということに、そもそも限界があるんです。これほど情報量が膨大になった現代で、脳のキャパを広げて対応しなければいけなくなったときに、もっとも処理が長けている部分で情報処理をせざるをえなくなっている。
    宇野 情報技術はそうした「脳のキャパを広げて」過剰になった情報量を処理するための支援ツールとして発達しているわけですからね。それは言い換えると「ビジュアルの思考」を扱いやすくするための支援ツールだとも言える。
     
     
    ■ウィキペディアが示してしまった固有名の本質
     
    安宅 たとえば、そういう情報量への対応という点で、ウィキペディアは偉大な実験をしていると思いますね。ブリタニカの時代には、項目ごとにその分野の大家が書いていたのが、なんと一般人の集合知に負けてしまったわけですから。それに、もう一つ面白いのは、概念を固定化しなくてよいと証明したことです(笑)。人間は概念がエボルビングに(進化しながら)動いていっても全然回していけるし、むしろハッピーである。そういう当然といえば当然なことを、これ以上ない形で明示してしまったんですね。現在のウィキペディアはなにか概念を浮遊させて、転がして遊んでいるような感じがします。この言葉はいまこの位置にあるのだなというのが見えるし、その動きもわかる。
    宇野 なるほど。ある概念はいま、概ねこの状態にあるということがネットワーク上で常に確認できること、というかすべての概念が固定されるものではなくこの状態にあるというものでしかなくなってしまったとき、社会における言葉の位置づけが変わってしまいますよね。そうすることで今より「ビジュアルの思考」を置き換えやすいものに言葉を進化させることができるかもしれない。
    安宅 日本人はずっと苦しんでいるんじゃないかとは思います。というのは、ビジュアルもそうですが、もう知覚全般にまつわる意識が非常に強い国民なのに、外から入ってきた漢字を中心とする言語体系というのは極度にドライで殺伐としたものなのですね。
    宇野 たとえば、これまでの社会は専門職が専門家の言葉を使うことで成立していたのですが、現在はこうした言語の用法に規定された社会そのものからの解放が起きていると思うんです。インターネット以降、僕らは日常的に「書き言葉」でコミュニケーションをとっている。しかし、そこで使われる言葉は少なくとも日本語においては僕ら物書きが扱っている日本語の散文の形式からは次第に離れて行っている。文学の衰退や、オールドタイプの文化の没落の根源的な理由のひとつがここにあると僕は思うんです。要するに、ここでも日本語という言語が世界の変化に追いついていない。
    で、そんな僕が、では新しい日本語の書き言葉として、どんな形が有望だと思ってるかというと、たとえばそれはウィキペディアの文体だったりするんです。あれって、グローバルな表記ルールに無理矢理日本語を当てはめた結果いろいろおかしくなっているけれど、そこに可能性を感じるんですよ。
    いま僕らが使っている日本語の散文の文体は、どう考えても論理を記述するのに向いていないですからね。逆に、安宅さんのいうような「ビジュアルの思考」には適しているのかもしれないけれど、僕個人は「イイね!」の数を用いる方が「ビジュアルの思考」も取り扱いやすくなると思っています。だからウィキペディアのようなところから、ポスト近代日本語が出て来ると面白いと思っています。
    安宅 確かにそういうところはあるかと思います。言語が世の中、我々の感じるものをちゃんと表現できないこの時代に、新しい表現が生まれてきている、あるいは表現そのものが進化しようとしているのかなと感じますね。
     
     
    ■消費を人間単位で考えるのは生命に対する"冒涜"?
     
    宇野 もうひとつ、この本の背景にあるのは、「言葉の思考」の背景にある人間観への懐疑だと思うんです。安宅さんは一貫して人間の内面ではなく、人間と人間、あるいは人間とモノ、サービスなどとのつながり、構造に注目していて、そのためには「言葉の思考」ではなく「ビジュアルの思考」が必要だと主張しているのだと僕は解釈しました。言ってみると安宅さんには、内面に異様に高く価値を置くような「近代小説」的な思考とは根本的に異なる否定のものを感じますね。
     
     
  • "人間"を単位に考えるのは生命に失礼――Yahoo!Japan CSO・安宅和人が神経科学とマーケティングの間で考えてきたこと ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.044 ☆

    2014-04-03 07:00  
    220pt

    "人間"を単位に考えるのは生命に失礼
    Yahoo!Japan CSO・安宅和人が神経科学と
    マーケティングの間で考えてきたこと
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.4.3 vo.044
    http://wakusei2nd.com


    今朝の「ほぼ惑」で話をお伺いするのは、Yahoo!Japan CSOの安宅和人氏。ベストセラー『イシューからはじめよ』の著者であり、神経科学の研究者と経営コンサルタントの経歴を持つ人物です。そんな氏の「思想」に宇野が迫ります。

     
    2010年末に出版されベストセラーとなったビジネス書『イシューからはじめよ』の作者である、Yahoo! Japan CSOの安宅和人氏は、経営コンサルタントと神経科学者の2つの経歴を併せ持つ異色の人物だ。ネットユーザーには人気ブログ「ニューロサイエンスとマーケティングの間」のid:kaz_ataka氏としても有名である。
    ニューロサイエンスとマーケティングの間 - Being between Neuroscience and Marketinghttp://d.hatena.ne.jp/kaz_ataka/
    このブログや著作からも窺えるように、氏の経歴は双方ともに華々しい。外資系コンサルティングファームで、独自の消費者マーケティング手法によってヒット商品の開発に関わってきた一方、米国イェール大学での研究者時代には、平均7年弱かかるプログラムを、当時最短の3年9ヶ月でPh.Dを取得している。そんな氏の仕事術を明かしてみせた本が、『イシューからはじめよ』であった。
    今回、ひょんなことから安宅氏と知り合った宇野の希望で、我々PLANETS編集部は六本木の東京ミッドタウン内にあるYahoo! Japan本社を訪問することになった。宇野が今回、強く興味を惹かれていたのは、安宅氏の「哲学」である。『イシューからはじめよ』の背景で彼が考えていた内容にはじまり、二人の議論はインターネット時代における「言葉」や「人間」についての認識を問うものになっていった。
     
    ◎構成:稲葉ほたて
     
     
    ■『イシューからはじめよ』は"科学書"だった
     
    宇野 今日僕が聞きたいことは究極的には一つで、それは安宅さんの『イシューからはじめよ』という本の背景にある人間観についてなんですよ。あの本には、安宅さんが冒頭で書かれているように、ニューロサイエンスとマーケティングの間で考えた仕事術が詰め込まれているのですが、僕の興味はむしろその背景にある人間観の方なんです。科学者・安宅和人はニューロサイエンスとマーケティングの間からかなりユニークな人間像を持ち帰っている。そこを引き出したいんです。
    安宅 ありがとうございます。あれはブログで書いた記事の反響を受けて、重い腰を上げて書き始めた本なんです。しかも、ブログのハンドル名で出すつもりだったのですが、最後になって「こんなに濃い本なのだから、ちゃんと実名で出しましょう」という話になってしまった(笑)。
     

     
    でも、本来は科学研究のためののような本だったんですよ。大量のサイエンス事例を載せていたのですが、優秀なエディターの強烈なパワーによって一般向けに味付けが代わり、ビジネスチックな話を多く差し込みました。
    宇野 だとすると、僕が読みたいのはその理論編ですね。事例というのは研究結果についてですか。
    安宅 いえ、研究における知的生産の手法についてです。そもそも僕のブログの読者は何らかの研究をしている人がどうも多く、彼らのリクエストによって書籍化されたわけですから。そこで書いたのは、まさにタイトルの通り、「イシューからはじめよ」を優れた科学研究の事例に沿って説明しようとしたものでした。
    宇野 門外漢からすると、この2014年の現在においては特定の業界ではこの本の影響か、僕の周囲にいる人、たとえば楽天の尾原和啓さんなどがその代表ですが、「イシューから始める」ことを意識している人は決して少なくはない。でも、日本の自然科学の現場ではそういう発想が弱かったのですか?
    安宅 私の関係する分野では一部の優秀な研究者を除いて、明示的には行っていなかったと思いますね。日々これはどうだろうと実験をして、面白い結果が出てこないか、それをみて考えようという人が多かったのではと思います。現在もそうかは難しいところですが、僕のブログに対する数多の研究者からの反応を見るに、さほど状況は変わっていないように思います。
    しかし、少なくとも私の体験、見聞した米国の一部のラボは違いました。例えば、僕が留学していたとき、たった5人程度のある名もないラボが年間5本も6本も超一流誌に論文を掲載していたんです。その手法は驚くべきもので、彼らはまず論文のタイトルから真っ先に決めてしまうんです。そして、もう研究完成時の絵ができていて、「この5つが示せればよい」ということまで最初に設計しているんです。しかも、最初の問題の立て方が非常に秀逸で、みんなが議論している問題の本当に重要な論点を見事に突いてくるので、答えが何であろうが必ず大きなインパクトを持つ結果になるわけです。当時の僕はもう「こいつら、なんちゅうやり方しとんねん」と大変にショックでしたね。
    この研究室のやり方を書いたブログエントリーは、私が全く想定していなかったレベルの評判を呼びました。ある時など、国内の著名な分子生物学の研究者の方から「ぜひこれについて学会で紹介して、一席ぶちたい」とメールが来たり(笑)。あの本は、こういうふうに課題設定の在り方から先に始めて成功した研究、知的生産事例についてまとめたものだったんです。
     
     
    ■「ビジュアルの思考」が伝わらない世界で
     
    宇野 安宅さんはこの本で「言語で考える思考」と「絵で考える思考」のふたつを対置させて、ご自身は後者の思考を用いるタイプだと位置づけていますね。そしてこの「イシューからはじめよ」という本は、タイトルの通り回答の追求よりも問題設定を優先せよというメッセージを訴えた本なのだけど、これは同時に言語的な思考ではなく、絵的な思考でアプローチせよと主張しているのだと思うんです。
    安宅 そういう面は、確かにあるかもしれないと思います。自分はさておきですが正しい問いを見出す人というのは、個別の現象を解釈せずに、まずは構造的に全体で見る人が多いように思います。例えば、彼らは、法律を研究するとなったときに、六法全書を読んで条文にある言葉を一つ一つ意味を考えていくようなことをしないでしょう。一体、どの法律がどういう関係の中にあるのかを、まずは見るはずです。あるいは、この分野はここの部分がまだ研究されてないぞ、とかね。
    それは、やはり俯瞰して見る能力ですよ。一体どの問題が大事なのかということは、まずは大きい絵の中で見なければわかりませんから。そういう考えができる人のほうが有利ですが、少ないです。
    これは個人的に、非常に悩んだことでもあります。僕は日本の大学院で分子生物学の研究をしていたときに、コンサルティングファームに偶然、誘われたのですが、そこで急に科学者同士だと分かりあえていた話が通じなくなってしまったんです。ビジネスの世界に入ると「お前が言っていることは正しそうだけど、何も理解できない」と言われて、大変に苦労したのですね。
    科学者って、言語化が困難な部分をムリヤリに言語化して論文に叩き込むところがあって、そういう世界が存在する前提で生きてるんです。でも、一緒に仕事をしたチームの人たちの経済学部や法学部出身の人の多くには、それが伝わらない。だから、この言語化し得ないメタ形而上学のような世界をどうにか形にしなければいけないと感じました。
    宇野 「ビジュアルの思考」を用いないと「イシューからはじめることは困難」というのは大きな問題だと思います。ちょっと変な言い方になるのだけど、少なくともいま僕たちが用いている言語的な思考では記述することが難しい論理というものが世界には間違いなく存在している。それは「直感」や「感性」と呼ばれることも多いのけれど、実はあくまで「論理」なのだということですよね。
    安宅 同感ですね。もちろん、解決するために言葉に落としこむのは大事ですから、言葉の重要性を否定しているわけではありません。しかし、そういう側面は大きいと思います。
     
     
    ■言葉にするのが難しいものをどう言語化するか
     
    宇野 対して、現代の情報技術の発達は、従来の言語では記述できないものを可視化していっているんだと思うんですよ。例えば、僕はFacebookの「イイね!」の付け合いから、誰と誰が付き合っているかのような人間関係を見抜くのが得意で……
    安宅 はっはっは(笑)
    宇野 このとき僕は「イイね!」の数という、従来の言語では扱いづらかった、「空気」とか「感触」と言われていた曖昧な存在を数字というかたちで可視化する装置を用いて、論理的な分析を行っているんですよね。そこで『イシューからはじめよ』に話を戻すと、僕がこの本で面白いなと思ったのは、安宅さんがこうした「言葉にできない論理」をなんとか言葉に落とし込もうとしている悪戦苦闘の過程が見えているところで、そこに発見出来る試行錯誤こそが「イシューからはじめ」ること、つまり問題設定から解決のプロセスへの接続、つまりビジュアルの思考から言葉の思考へと接続する作業の極めて優れた例になっていることなんです。
     
     
    安宅 あの本には、ひじょうに感覚的なことをたくさん書いた気がします。自分が上手く問いを立てた経験と見聞きした事例をグルーピングして、うんうん考えるというなかなか大変な作業でした。とはいえ、普段から僕がやっているのは、そういうふわっとしたものを言語に落とす作業です。この"言語化が難しいもの"を言語化して枠組みに叩き落とす作業というのは、知的生産と呼ばれる営みの半分以上を占めていると思います。
     
     
    ■脳の中で言語が占める部位はオマケのようなもの
     
    宇野 そもそも世の中には、人間は言葉でしかものを考えられないとするか、言葉は考えられることの一部にしか過ぎないと捉えるか、の二通りがあると思うんです。僕は後者の方が正しいと思うのですが、これまでの世界では圧倒的に前者の考えの方が優勢ですよね。
    ところが現在、世の中を動かしている情報テクノロジーは後者の世界理解に親和性が高い。どんどん言語が追いつかない領域も可視化してコントロールしはじめていて、そのせいでたぶん言葉の世界だけで思考してる人たちが、世界から完全に置き去りにされちゃってる気がするんですよね。
    安宅 (スマホを手にとってスクロールさせながら)こういうUI/UXなんかによって、世界が変わってしまいますからね。言葉じゃない部分の実態に、人間が急速に気づきつつあるんだと思います。
    宇野 その変化は、具体的にどういう形で起こっていくと思いますか?
    安宅 やはり端緒はスマホになると思います。まず、このデバイスでのUI/UX自体が、基本的にTwitterのようなストリーム以外の形式で受け入れにくいんです。いつも手の中に何かがあって、あまりにも激しすぎる情報が流れてくるときに、上下にスクロールさせていくしかない。だって、昔テレビのチャンネルをチェンジしていた時の、1000倍くらいの情報を処理しているわけですから。そして、こういうふうに情報量がある閾値を超えたときに一瞬で理解する唯一の方法が、目で画像を見ることだと思うんですよ。結果的に、脱言語化しているんですよね。
    最初に画像がスマホで流れてくるのを見たとき、僕も、単に「綺麗だな」としか思わなかったのですが、現在はこれが本質だと思っています。膨大な情報をみんなが普通に消化して生きていく時代に、我々の脳の基本構造に立ち返ると、画像が中心にならざるをえないからです。実際、我々の脳の中で言語にダイレクトに関係する箇所なんて、(ウェルニッケ中枢とブローカの)2箇所くらいしかなくて、ほとんどおまけみたいなものですよ。でも、視覚というのは(後頭部を触りながら)この辺りの全部ですからね。人間の脳の7割は視覚処理に何らかの形で関与していて、その中で視覚にメインに使われているところだけでも皮質の3割から4割を占めているんです。
    宇野 そうなんですか! 
    安宅 映画や小説を見ても分かる通り、別れた彼女のことや手のひらのことを思い出すだけでも、脳のスクリプトのかなりの部分が視覚で埋め尽くされてしまいますしね。そのくらいに脳の構造は視覚に依存しているのに、人間が言語で思考してきたということに、そもそも限界があるんです。これほど情報量が膨大になった現代で、脳のキャパを広げて対応しなければいけなくなったときに、もっとも処理が長けている部分で情報処理をせざるをえなくなっている。
    宇野 情報技術はそうした「脳のキャパを広げて」過剰になった情報量を処理するための支援ツールとして発達しているわけですからね。それは言い換えると「ビジュアルの思考」を扱いやすくするための支援ツールだとも言える。
     
     
    ■ウィキペディアが示してしまった固有名の本質
     
    安宅 たとえば、そういう情報量への対応という点で、ウィキペディアは偉大な実験をしていると思いますね。ブリタニカの時代には、項目ごとにその分野の大家が書いていたのが、なんと一般人の集合知に負けてしまったわけですから。それに、もう一つ面白いのは、概念を固定化しなくてよいと証明したことです(笑)。人間は概念がエボルビングに(進化しながら)動いていっても全然回していけるし、むしろハッピーである。そういう当然といえば当然なことを、これ以上ない形で明示してしまったんですね。現在のウィキペディアはなにか概念を浮遊させて、転がして遊んでいるような感じがします。この言葉はいまこの位置にあるのだなというのが見えるし、その動きもわかる。
    宇野 なるほど。ある概念はいま、概ねこの状態にあるということがネットワーク上で常に確認できること、というかすべての概念が固定されるものではなくこの状態にあるというものでしかなくなってしまったとき、社会における言葉の位置づけが変わってしまいますよね。そうすることで今より「ビジュアルの思考」を置き換えやすいものに言葉を進化させることができるかもしれない。
    安宅 日本人はずっと苦しんでいるんじゃないかとは思います。というのは、ビジュアルもそうですが、もう知覚全般にまつわる意識が非常に強い国民なのに、外から入ってきた漢字を中心とする言語体系というのは極度にドライで殺伐としたものなのですね。
    宇野 たとえば、これまでの社会は専門職が専門家の言葉を使うことで成立していたのですが、現在はこうした言語の用法に規定された社会そのものからの解放が起きていると思うんです。インターネット以降、僕らは日常的に「書き言葉」でコミュニケーションをとっている。しかし、そこで使われる言葉は少なくとも日本語においては僕ら物書きが扱っている日本語の散文の形式からは次第に離れて行っている。文学の衰退や、オールドタイプの文化の没落の根源的な理由のひとつがここにあると僕は思うんです。要するに、ここでも日本語という言語が世界の変化に追いついていない。
    で、そんな僕が、では新しい日本語の書き言葉として、どんな形が有望だと思ってるかというと、たとえばそれはウィキペディアの文体だったりするんです。あれって、グローバルな表記ルールに無理矢理日本語を当てはめた結果いろいろおかしくなっているけれど、そこに可能性を感じるんですよ。
    いま僕らが使っている日本語の散文の文体は、どう考えても論理を記述するのに向いていないですからね。逆に、安宅さんのいうような「ビジュアルの思考」には適しているのかもしれないけれど、僕個人は「イイね!」の数を用いる方が「ビジュアルの思考」も取り扱いやすくなると思っています。だからウィキペディアのようなところから、ポスト近代日本語が出て来ると面白いと思っています。
    安宅 確かにそういうところはあるかと思います。言語が世の中、我々の感じるものをちゃんと表現できないこの時代に、新しい表現が生まれてきている、あるいは表現そのものが進化しようとしているのかなと感じますね。
     
     
    ■消費を人間単位で考えるのは生命に対する"冒涜"?
     
    宇野 もうひとつ、この本の背景にあるのは、「言葉の思考」の背景にある人間観への懐疑だと思うんです。安宅さんは一貫して人間の内面ではなく、人間と人間、あるいは人間とモノ、サービスなどとのつながり、構造に注目していて、そのためには「言葉の思考」ではなく「ビジュアルの思考」が必要だと主張しているのだと僕は解釈しました。言ってみると安宅さんには、内面に異様に高く価値を置くような「近代小説」的な思考とは根本的に異なる否定のものを感じますね。