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宇野常寛『母性のディストピア EXTRA』第6回 三次元化する想像力(1)
2018-04-04 07:00
2017年に刊行された『母性のディストピア』に収録されなかった未収録原稿をメールマガジン限定で配信する、本誌編集長・宇野常寛の連載 『母性のディストピア EXTRA』。宮崎駿、富野由悠季、押井守--戦後アニメーションを牽引した映像作家たちが、〈映像の世紀〉の終焉とともに批判力を失ってしまったいま、〈ゴジラの命題〉を受け継ぐものとは? (初出:集英社文芸単行本公式サイト「RENZABURO[レンザブロー]」)
「それが、ほんとうにできる」こと
戦後アニメーションの「終わり」について考えてきた本稿の最後に現在を生きる私たちはこの戦後アニメーションの、いや、戦後サブカルチャーの遺産――〈ゴジラの命題〉――から何を持ち帰り、何をなし得るのかについて問いたい。
それは同時に、Google的な、Ingress的な、ポケモンGO的な、そしてジョン・ハンケ的なアプローチ――政治と文学を(大きな)物語ではなくゲームで結ぶアプローチ――とは異なる想像力のかたちを問う行為でもある。
もはや「映像の世紀」は過去のものとなりつつあり、社会の情報化は情報(文章、音声、映像)それ自体が価値を持っていた時代を過去のものにした。レコードからフェスへ、自分だけの感動を与えうる体験が、現実だけが人の心を動かす時代が既に世界を侵食し始めている。それは、世界ではなく自己を変え、世界を変える代わりに世界の見え方を変えることしか信じられなかった時代の終わりを意味している。そして自らがこの新しい世界を牽引するのだ、と自負するGoogleは世界をあまねく情報化し、適切なゲーミフィケーションを施すことで誰もが自分だけの感動、自分の物語を体験し得る環境の整備を進めている。
そしてこのGoogle的な想像力は、いま戦後サブカルチャーの遺産を吸収することで、急速にハイブリッドなかたちに進化しつつある。
日本的妖怪(キャラクター)としてのモンスター群に導かれて、私たちはこのGoogle的な想像力で情報化され、検索可能になった世界に深く潜ることができる。そして世界を見る目を養うことができる。そして自然に、歴史に触れることで人々は確率的に解放され得る――それが、カリフォルニアン・イデオロギーの体現者であるGoogle的な想像力の最新のかたちであり、それはいま日本的な、それもプリミティブなものを取り込むことで進化/深化しつつあると言えるだろう。
しかし、私が最後に提示したいのは、このGoogle的なものとの結託とはまた異なった、正確にはその前提を同じくしながらも微妙に異なった応答としての道だ。
それはGoogleとは異なるアプローチによる、カリフォルニアン・イデオロギーに対する戦後日本サブカルチャーからの応答案のようなものだろう。
2014年の5月、私は自分の媒体(メールマガジン)の取材として、あるプロダクトデザイナー(根津孝太(ねづこうた))と対談していた。トヨタからそのキャリアをスタートし、現在は超小型モビリティの主導者として知られる根津との対談は彼の本業であるカーデザインの話題からはじまり、そしてお互いの趣味であるレゴブロックに移動した。根津は少年時代からレゴに親しみ、コンクールで入賞した経験すらあるのだという。プロダクトデザインの思考は、それが現実に存在できることを前提に要求される。根津少年はその思考をレゴから学んだのだ、と。そして続けて根津はこう述べた。
《根津 河森正治さんって変形モノで有名なメカデザイナーの方がいらっしゃいますよね。河森さんって、レゴで試作を作るらしいんですよ。バルキリーとかも、ロボットから飛行機になるプロセスや構造を、レゴ・テクニックを使って作るんだそうです。
バルキリーは、明らかに現実ではない。言わば妄想です。でもそれをおもちゃやプラモデルにしようとすると、それなりに変形してロボットから飛行機になってもらわないといけないというリアリティが必要なんです。
宇野 80年代前半から半ばはマクロスやトランスフォーマーの影響で、変形ロボットばかりが幅を利かせていて、挙句の果てにガンダムまで変形してしまったわけですが、玩具やプラモデルで変形とプロポーションを両立することは不可能だったんですよね。変形モデルはまずプロポーションがガタガタで、そしてプロポーション重視のモデルは変形しなかった。
根津 最近のトランスフォーマーの映画になると、CGでバンパーの裏からニョキニョキとパーツが生えてくるという(笑)。あれはあれでああいう金属なんだっていう設定もちゃんと用意されているし、映像としてはいいんですけどね。
おもちゃにするっていうのは、実は圧倒的なリアリティのひとつなわけなんですよ。例えばミニ四駆なんかも、実車じゃないけど、実車より厳しいデザインの要件もあるんです。インジェクション成形で一発で抜けないといけないとか。河森さんは、そういうことをレゴを使って検証しつつ、しかもかっこよくしているんです。妄想と現実に、きちんと片足ずつ足をつけている。》(【特別対談】根津孝太(znug design)×宇野常寛「レゴとは、現実よりもリアルなブロックである」)
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宇野常寛『母性のディストピア EXTRA』第5回「空気系」と疑似同性愛的コミュニケーション(2)
2018-03-23 07:00
2017年に刊行された『母性のディストピア』に収録されなかった未収録原稿をメールマガジン限定で配信する、本誌編集長・宇野常寛の連載 『母性のディストピア EXTRA』。アニメファンの間で定着している「聖地巡礼」という文化、そして疑似同性愛的コミュニケーションの消費。そこには「空気系」の世界観が大きく寄与していると宇野常寛は指摘します。 (初出:集英社文芸単行本公式サイト「RENZABURO[レンザブロー]」)
データベースと聖地巡礼
〈外部〉=〈ここではない、どこか〉を喪い、〈いま、ここ〉の関係性=「つながりの社会性」が肥大する――。「空気系」の前提となる社会の風景は、多分に政治的に決定されたものだ。
たとえば前述の「無場所性」について考えてみよう。前節で紹介したように『木更津キャッツアイ』における千葉県木更津市は、その典型的な「郊外」の風景によって無場所性の象徴として機能している。グローバル資本主義が画一化させる消費環境とライフスタイルが、この「無場所性を体現する風景」を体現しているのだ。そしてこの「郊外」の風景は日本においてもまた、当然極めて政治的に醸成されたものだ。「ぶっさん」が二十歳まで木更津から出たことがないという設定は、彼の性格設定上の演出ではなくむしろこの物語世界の比喩に基づいたものだと考えたほうがいいだろう。本作は、世界中のどこへ行っても同じ風景(同じライフスタイル)が存在する現代、グローバル/ネットワーク化によって世界が一つに接続され、〈外部〉=〈ここではない、どこか〉を喪い、〈いま、ここ〉だけが無限に広がるようになってしまった現代社会を、木更津という無場所的な郊外都市に象徴させているのだ。「ぶっさん」は、木更津から出られなかったのではなく、どこへ移動してもそこが木更津と変わらない場所だから「出なかった」のだ。「空気系」はその外見とは裏腹に、極めて政治的な「風景」に規定されてきた想像力でもあるのだ(※1)。
郊外都市の風景が体現するグローバル/ネットワーク化後の世界の風景の下、ローカルな関係性がアイデンティティ獲得の要素として肥大する=「つながりの社会性」が肥大する現代において、「空気系」は極めて直接的に消費者の欲望を捉えていると言える。だが第1節で述べたように、私がこの「空気系」に注目するのは、その消費者の欲望に忠実なサプリメント性を引き受けるがゆえに、少なくとも「ユニーク」ではある奇形的進化を遂げているケースが少なくないからだ。前述の『リンダ リンダ リンダ』や『木更津キャッツアイ』が、空気系への分析的アプローチによって成立しているメタ空気系とも言うべき作品群だとするのならば、これから取り上げるのはその一方で極めてベタに空気系的な欲望を追求することで、異質なものを結果的に読み込んでいる作品群、いや、消費者たちの作品受容だろう。
たとえば「空気系」の代表作である美水かがみ『らき☆すた』は2007年に放映されたテレビアニメ版をきっかけに、「聖地巡礼」というユニークな現象をアニメファンコミュニティに定着させた。これはこのテレビアニメの背景美術に、埼玉県鷲宮町や幸手市など実在の都市の風景をほぼトレースしたものが使用されたことから、同作のファンたちがそのモデルとなったスポット=聖地を巡礼するという「お遊び」である。しかしこの「お遊び」はインターネットを中心にブームとなり、当該の自治体のいくつかは町おこし企画の一環としてこの「聖地巡礼」を奨励し、取り込んでいくという動きを見せた。もちろん、こうしたファン活動自体はそれほど珍しいものではない。だが、ここ数年の「聖地巡礼」ブームはその規模と作品それ自体の性質とのかかわりにおいて特筆すべきものを見せている。
▲『らき☆すた』
後者については補足が必要だろう。本作の、とくにテレビアニメ版は随所にオタク系ポップカルチャーのパロディがちりばめられている。このパロディ群は、無場所的で無時間的な「空気系」の作品世界に、運動をもたらす要素として機能している。つまり端的に理想化されたキャラクター間の関係性を描く「空気系」の予定調和的な快楽に介入可能であり異質な要素としてポップカルチャーのデータベースが選ばれているのだ。〈外部〉を喪った(無場所的、無時間的)な世界を引き受けながらも、それを多重化するために、ここではポップカルチャーのデータベースが導入されている、と言い換えることも可能だろう。そして、このポップカルチャーのデータベースの「活用」は、テレビアニメ『らき☆すた』の作者たちの採った手法であると同時に、同作の消費者たちが「聖地巡礼」で採った消費行動でもある。本来何ものでもない街並みが、ポップカルチャー(ここでは『らき☆すた』)のデータベースを流しこむことにより、その土地本来の歴史性や土着性とは関係なく「聖地」と化すのだ。
批評家の福嶋亮大はここで作用している想像力を「偽史的想像力」と呼んでいる。福嶋がこの言葉を選んだ背景には、ポストモダン的な「大きな物語=歴史」の凋落後の想像力という意味合いが存在すると思われる。〈外部〉を喪い、歴史が個人の生を意味づけないポストモダンの現在において、〈いま、ここ〉の「つながりの社会性」が肥大する。このとき〈外部〉の不可能性を自覚しつつも祈り続けるという否定神学的な態度に捉われることなく、「つながりの社会性」を引き受けながらも世界に想像力を行使する方法として「偽史」が選ばれるのだ。
※1 また無時間性のもつ、子を生み、育て、そして死んでいくという時間的な運動に対する抵抗、または排除という要素は「空気系」、特に男性消費者を対象にした「萌え四コマ漫画」において重要なモチーフとして機能している。たとえば「空気系」の源流とされるあずまきよひこ『あずまんが大王』や、現在(2011年)の「空気系」を代表するヒット作品である『けいおん!』(及びそのテレビアニメ版)では、「卒業」という無時間性を強制的に遮断する装置を経ても(学園を去っても)彼女たちのコミュニティがいかに「そのまま」であり続けるかという主題が、静かに、しかし極めて大きな存在感をもって描かれることになる。
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宇野常寛『母性のディストピア EXTRA』第4回「空気系」と疑似同性愛的コミュニケーション(1)
2018-03-16 07:00
2017年に刊行された『母性のディストピア』に収録されなかった未収録原稿をメールマガジン限定で配信する、本誌編集長・宇野常寛の連載 『母性のディストピア EXTRA』。今回からのテーマは「空気系」です。物語から「目的」の排除とホモソーシャリティの導入した『ウォーターボーイズ』を中心に、その後の作品群について論じていきます。 (初出:集英社文芸単行本公式サイト「RENZABURO[レンザブロー]」)
【お知らせ】
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「空気系」と疑似同性愛的コミュニケーション
1 「空気系」と萌え四コマ漫画
「空気系」とはインターネットの漫画、アニメなどのファンコミュニティ上で用いられる、特定の物語形式を指す造語である。インターネット発の造語ということで、まずはWikipediaを参照してみよう。
空気系(くうきけい)とは、主にゼロ年代以降の日本のオタク系コンテンツにおいてみられる、美少女キャラクターのたわいもない会話や日常生活を延々と描くことを主眼とした作品群。日常系(にちじょうけい)ともいう。これらは2006年頃からインターネット上で使われ始めた用語である。(2011年3月7日参照)
漫画ジャンルは今や日本の出版産業を事実上支える巨大産業に成長している。その産業としての肥大はコンテンツの多様化とシーンの拡散をもたらし、ゼロ年代と呼ばれた先の十年は「漫画」というジャンル全体を視野に入れた状況論が難しいという認識が共有されていた。そんな中で、数少ない明確な変化が、「萌え四コマ漫画」というジャンルの勃興だったと言える。
90年代以前から性的な魅力をアピールしたいわゆる「萌え」系のキャラクターデザインを用いた四コマ漫画は散見されたが、ジャンルとしての勃興とその後の定着の端緒となったのは1999年の『あずまんが大王』のヒットだろう。あずまきよひこによる同作は、ある高校に通う美少女キャラクター数名のグループの、他愛もない日常生活をコメディタッチで描きオタク系文化の男性消費者たちの大きな支持を受けた。この『あずまんが大王』のヒットを契機に、オタク系の男性消費者をターゲットにした類作=萌え四コマ漫画は大きく隆盛した。2003年の『まんがタイムきらら』創刊を契機に専門誌も複数刊行されるようになった。専門誌については漫画雑誌という制度自体の斜陽もあって休刊するものも散見されたが、単行本市場における萌え四コマ漫画は先の十年を通じて完全にジャンルとして定着したと言ってよいだろう。
▲『あずまんが大王』
もちろん、萌え四コマ漫画=空気系という等式が成立しているわけではない。しかし、この十年主にテレビアニメ化などのメディアミックスを経て、オタク系男性消費者に強く支持された萌え四コマ漫画を列挙すると、萌え四コマブームと「空気系」ブームが限りなくイコールであることが分かるだろう。美水かがみ『らき☆すた』、蒼樹うめ『ひだまりスケッチ』、かきふらい『けいおん!』――これらの漫画作品はいずれも先の十年において新房昭之、山本寛といった若手演出家、あるいはシャフト、京都アニメーションなど有力スタジオによって映像化され、国内のテレビアニメシーンを牽引した作品となっている。そして、これらの作品はいずれも前述の――あくまでインターネット上のファンコミュニティから自然発生した造語なのでその定義は曖昧なのだが――「空気系」の特徴を有している。
そこで描かれるのは男性の登場人物が(ある程度)排除された女性だけの共同体であり、そしてそこで展開する物語は達成すべき目的や、倒すべき敵の存在しない日常生活上のエピソードだ。そして、これらの作品はその状態を幸福なものとして描き、読者の共感を誘引している。
萌え系と呼ばれるオタク系作品が広義のポルノグラフィとして機能している側面に注目したとき、この「空気系」の隆盛は非常に興味深い論点を孕んでいる。90年代末の美少女(ポルノ)ゲームブームを参照すると明らかなように、従来の「萌え」は消費者の感情移入の対象となる男性主人公が設定されており、この男性主人公がヒロイン(たち)に愛されることで疑似恋愛的な快楽をもたらすという回路が採用されてきた。そのため、この種の作品における男性主人公は中肉中背で無個性的な人物に設定され、消費者が自身のステータスと照合して感情移入に失敗してしまうことを事前に回避する方法が頻繁に採用されていた。しかし、空気系作品には美少女(ポルノ)ゲームにおける男性主人公のような「視点」を担うキャラクターが存在していないのだ。
もちろん、空気系作品はそれ以前の「萌え」作品と同等に、あるいはそれ以上にポルノグラフィとして消費されており、制作者の多くがそのことに自覚的であり積極的にその快楽を追求していると言ってよい。つまり、空気系作品は「萌え」=ここではキャラクターを介した女性所有の快楽を追求した結果、視点を担う男性主人公を消去してしまっているのだ。そして空気系におけるこの視点=男性主人公の消去は、物語における目的の消去と必然的に重なり合っている。
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