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  • 宇野常寛「1993年のニュータイプ──サブカルチャーの思春期とその終わりについて」(PLANETSアーカイブス)

    2018-05-07 07:00  


    毎週月曜日は「PLANETSアーカイブス」と題して、過去の人気記事の再配信を行います。 傑作バックナンバーをもう一度読むチャンス! 今回は『ダ・ヴィンチ』に掲載された宇野常寛の批評連載「THE SHOW MUST GO ON」をお届けします。『ニッポン戦後サブカルチャー史』『アオイホノオ』という2つの作品から、この国のサブカルチャーの〈思春期の終わり〉と〈向かうべき未来〉を、雑誌『Newtype』を手がかりに考えます。 初出:『ダ・ヴィンチ』2015年1月号(KADOKAWA) ※本記事は2015年1月14日に配信した記事の再配信です。

     先日、テレビをつけたら劇作家・宮沢章夫を講師に迎えた『ニッポン戦後サブカルチャー史』という番組がNHKで放送されていた。それは、よく考えると奇妙な光景だった。まだ関係者の大半が生存している、たかだが数十年前のことが「歴史」として語られているのだ。現代社会の爆発的な文化発信量の増大、情報そのものの肥大がこのような近過去の文化史の受容を生んでいるのは間違いない。そこには確実に必要性がある。だが、僕にはここにそれだけに留まらない意味があるように見えた。
     そしてほぼ同じ時期に、僕はテレビ東京系で放映されていたテレビドラマ『アオイホノオ』を毎週楽しみに観ていた。これは、漫画家の島本和彦の自伝的マンガを福田雄一が脚色、自ら監督を務めたテレビドラマで、島本が在籍した1980年代初頭の大阪芸術大学を舞台に、漫画家を目指す主人公(島本自身がモデル)の奮闘を、そして同時期に在学した庵野秀明、赤井孝美、山賀博之らが岡田斗司夫ら在阪のインディーズ作家たちと合流し、後のアニメ制作会社「ガイナックス」につながる活動(自主アニメ制作)で台頭していく過程を描いている。そして僕は、まるで戦国時代を扱った大河ドラマを見るような気持ちで、このドラマを毎週楽しんでいた。島本和彦や岡田斗司夫といった「歴史上の人物」たちがかかわる、かつて彼らの著作で知った「歴史上の事件」が、どう解釈されて描かれるのかをWikipediaを引きながら待ち構えていた。
     そう、同作は奇しくも『ニッポン戦後サブカルチャー史』の、いや、正確には同番組の下敷きになった宮沢の著書『80年代地下文化論講義』と同時代の大阪の、もうひとつのサブカルチャーが勃興していく時代を描いているのだ。そう、東京の渋谷でモンティ・パイソンのローカライズが行われていた時代、大阪の片隅ではやがて海をわたってファンの心をつかんでいく『エヴァンゲリオン』につながるアニメ作品が産声を上げつつあったのだ。

     《メインカルチャーとメジャーの権威をも文化資本は解体しつつあり、マイナーが分衆として資本に取り込まれるにはまだ間があった七六~八三年という転形期にあった、低成長下のサブカルチャーは奇妙な活性化をみせていたのだ。『すすめ!!パイレーツ』に『マカロニほうれん荘』。『LaLa』に『別マ』に『花とゆめ』。萩尾望都、大島弓子、山岸凉子。『JUNE』に『ALLAN』。諸星大二郎、ひさうちみちお。『ビックリハウス』『POPEYE』『写真時代』に『桃尻娘』に糸井重里。椎名誠。藤井新也。つかこうへいに野田秀樹。タモリとたけし。鈴木清順。異種格闘技戦に新日本プロレス。パンクにレゲエ、テクノ・ポップ、ニューウェーヴ、サザン、RCサクセション。YMO、『よい子の歌謡曲』『スター・ウォーズ』。ミニシアター。『ガンダム』に新井素子。世界幻想文学大系やラテンアメリカ文学。メジャー不在の大空位時代にあっては、あらゆる新しいものがマイナーのままメジャーであった。正義も真理も大芸術も滅び、世の中は、面白いもの、かっこいいもの、きれいなもの、笑えるもの、ヒョーキンなものを中心に回るしかない。この幸福な季節を、橋本治と中森明夫は八〇年安保と呼ぶ。》 浅羽通明『天使の王国 平成の精神史的起源』

     これらの番組で描かれていた80年代初頭は、後に「80年安保」と呼ばれるポップカルチャーの量的爆発が発生した時代だった。そして、宮沢の紹介する「サブカル」と、島本が描く「オタク」が明確に分離していく時代だった、と言える。
     紙幅の関係でものすごく大雑把な整理をすることを許してほしい。「一般的には」前者はインターナショナルなライブカルチャーで、後者はドメスティックなメディアカルチャーだとされている。前者は基本的に輸入文化であり欧米のユースカルチャーに対して敏感であり、その洗練されたローカライズを競うものだったと言えるだろう。ジャンル的にはその中心に音楽があり、そして演劇が独特の位置を占めていた。対して、マンガ、アニメ、ゲームなどを中心とする後者は「一般的」には国内の漫画雑誌とテレビアニメを基盤とする国内文化だったと言える。僕が思春期の頃は前者こそがサブカルチャーであり、後者は80年代末の幼女連続殺人事件の犯人がいわゆる「オタク」だったことの影響もあり、ほとんど犯罪者予備軍のようなイメージで見られることも多かった。それが、世紀の変わり目のあたりで逆転した。インターネットの普及を背景に、若者のサブカルチャーの中心は後者に移動し、国の掲げる「クールジャパン」は政策的に空回りしているが、日本のオタク系サブカルチャーがグローバルに支持を集めている現実が広く知られるようになり、ドメスティックだと思われていた後者の文化はむしろグローバルな輸出文化としての期待を帯びるようになった。
     このヘゲモニーの移動には様々な背景が想定されるが、ここでは特に前回論じた情報社会化による地理と文化の関係性の変化に注目してみたい。
     たとえばこの20年の原宿のあり方を考えてみよう。90年代に歩行者天国を中心にコミュニティが発生し、そこから育っていった少女文化(いまでいう原宿「カワイイ」系文化)は、歩行者天国の廃止や地価の高騰などにより一度衰退する。しかし現在においては、同文化のグローバルな拡散を背景に、まるでかつての原宿的なものを「コスプレ」するかのように登場したきゃりーぱみゅぱみゅがアイコンとなり、現在の原宿もまた同時にかつての原宿を「コスプレ」し始めている。同じような指摘が、2005年の『電車男』ブーム以降の観光地化していった秋葉原にも可能だろう。
     要するにかつては地理が文化を生んでいたのに対し、ここでは文化が地理を生んでいるのだ。このパワーバランスの変化はインターネットがもたらしたものだ。2008年に秋葉原連続殺傷事件が発生した際、秋葉原の一時的衰退はオタク系文化そのものの衰退につながる可能性はなくはなかった。しかし、そうはならなかった。理由は明確で、当時既にオタク系文化のコミュニティはインターネット上に移動していたからだ。当時の秋葉原は、むしろインターネット上のオタク系文化を「コスプレ」する観光地になりつつあった。そう、情報化はボトムアップの文化を生む場をストリートからソーシャルメディアに移動させたのだ。その結果、地理が文化を生むのではなく、文化が地理を決定するようになったのだ。
     こうして考えてみたとき、メディア上の表現に基盤を置くオタク系文化の量的な優位は当然発生することになる。その結果、前者(サブカル)の側は自分たちを正当と見做す「正史」を主張することでのヒーリング(『ニッポン戦後サブカルチャー史』)を求め、後者(オタク)はミーハーに歴史上の人物たちの偉業に目一杯「萌え」狂うこと(『アオイホノオ』)になったのが現代のサブカルチャー状況であるとひとまずは言えるだろう。
     以上が、非常に大雑把な僕流の戦後日本サブカルチャー史(のごくいち側面)だ。そしてこのサブカルチャーの「歴史化」を象徴する二つの番組の魅力、特に後者の福田雄一によるアプローチの素晴らしさについては語り尽くしても尽くせないものがあるが、僕がここで問題にしたいのはもう少し別のことだ。
     それは、これらの番組が支持される背景に存在するのは、はっきり言ってしまえば日本社会自体が中年に、いや「熟年」になろうとしているということなのではないかと僕は思うのだ。■PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。
     
  • 1993年のニュータイプ──サブカルチャーの思春期とその終わりについて(宇野常寛) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.240 ☆

    2015-01-14 07:00  
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    宇野常寛書き下ろし『「母性のディストピア2.0」へのメモ書き』第1回:「リトル・ピープルの時代」から「母性のディストピア2.0」へ


    1993年のニュータイプ──サブカルチャーの思春期とその終わりについて(宇野常寛)

    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.1.14 vol.240
    http://wakusei2nd.com


    本日のほぼ惑は、「ダ・ヴィンチ」に掲載されている宇野常寛の批評連載「THE SHOW MUST GO ON」のお蔵出しをお届けします。今回は『ニッポン戦後サブカルチャー史』『アオイホノオ』という2つの作品から、この国のサブカルチャーの〈思春期の終わり〉と〈向かうべき未来〉を、雑誌『Newtype』を手がかりに考えます。
    初出:『ダ・ヴィンチ』2015年1月号(KADOKAWA)
     先日、テレビをつけたら劇作家・宮沢章夫を講師に迎えた『ニッポン戦後サブカルチャー史』という番組がNHKで放送されていた。それは、よく考えると奇妙な光景だった。まだ関係者の大半が生存している、たかだが数十年前のことが「歴史」として語られているのだ。現代社会の爆発的な文化発信量の増大、情報そのものの肥大がこのような近過去の文化史の受容を生んでいるのは間違いない。そこには確実に必要性がある。だが、僕にはここにそれだけに留まらない意味があるように見えた。
     そしてほぼ同じ時期に、僕はテレビ東京系で放映されていたテレビドラマ『アオイホノオ』を毎週楽しみに観ていた。これは、漫画家の島本和彦の自伝的マンガを福田雄一が脚色、自ら監督を務めたテレビドラマで、島本が在籍した1980年代初頭の大阪芸術大学を舞台に、漫画家を目指す主人公(島本自身がモデル)の奮闘を、そして同時期に在学した庵野秀明、赤井孝美、山賀博之らが岡田斗司夫ら在阪のインディーズ作家たちと合流し、後のアニメ制作会社「ガイナックス」につながる活動(自主アニメ制作)で台頭していく過程を描いている。そして僕は、まるで戦国時代を扱った大河ドラマを見るような気持ちで、このドラマを毎週楽しんでいた。島本和彦や岡田斗司夫といった「歴史上の人物」たちがかかわる、かつて彼らの著作で知った「歴史上の事件」が、どう解釈されて描かれるのかをWikipediaを引きながら待ち構えていた。
     そう、同作は奇しくも『ニッポン戦後サブカルチャー史』の、いや、正確には同番組の下敷きになった宮沢の著書『80年代地下文化論講義』と同時代の大阪の、もうひとつのサブカルチャーが勃興していく時代を描いているのだ。そう、東京の渋谷でモンティ・パイソンのローカライズが行われていた時代、大阪の片隅ではやがて海をわたってファンの心をつかんでいく『エヴァンゲリオン』につながるアニメ作品が産声を上げつつあったのだ。

     《メインカルチャーとメジャーの権威をも文化資本は解体しつつあり、マイナーが分衆として資本に取り込まれるにはまだ間があった七六~八三年という転形期にあった、低成長下のサブカルチャーは奇妙な活性化をみせていたのだ。『すすめ!!パイレーツ』に『マカロニほうれん荘』。『LaLa』に『別マ』に『花とゆめ』。萩尾望都、大島弓子、山岸凉子。『JUNE』に『ALLAN』。諸星大二郎、ひさうちみちお。『ビックリハウス』『POPEYE』『写真時代』に『桃尻娘』に糸井重里。椎名誠。藤井新也。つかこうへいに野田秀樹。タモリとたけし。鈴木清順。異種格闘技戦に新日本プロレス。パンクにレゲエ、テクノ・ポップ、ニューウェーヴ、サザン、RCサクセション。YMO、『よい子の歌謡曲』『スター・ウォーズ』。ミニシアター。『ガンダム』に新井素子。世界幻想文学大系やラテンアメリカ文学。メジャー不在の大空位時代にあっては、あらゆる新しいものがマイナーのままメジャーであった。正義も真理も大芸術も滅び、世の中は、面白いもの、かっこいいもの、きれいなもの、笑えるもの、ヒョーキンなものを中心に回るしかない。この幸福な季節を、橋本治と中森明夫は八〇年安保と呼ぶ。》 浅羽通明『天使の王国 平成の精神史的起源』

     これらの番組で描かれていた80年代初頭は、後に「80年安保」と呼ばれるポップカルチャーの量的爆発が発生した時代だった。そして、宮沢の紹介する「サブカル」と、島本が描く「オタク」が明確に分離していく時代だった、と言える。
     紙幅の関係でものすごく大雑把な整理をすることを許してほしい。「一般的には」前者はインターナショナルなライブカルチャーで、後者はドメスティックなメディアカルチャーだとされている。前者は基本的に輸入文化であり欧米のユースカルチャーに対して敏感であり、その洗練されたローカライズを競うものだったと言えるだろう。ジャンル的にはその中心に音楽があり、そして演劇が独特の位置を占めていた。対して、マンガ、アニメ、ゲームなどを中心とする後者は「一般的」には国内の漫画雑誌とテレビアニメを基盤とする国内文化だったと言える。僕が思春期の頃は前者こそがサブカルチャーであり、後者は80年代末の幼女連続殺人事件の犯人がいわゆる「オタク」だったことの影響もあり、ほとんど犯罪者予備軍のようなイメージで見られることも多かった。それが、世紀の変わり目のあたりで逆転した。インターネットの普及を背景に、若者のサブカルチャーの中心は後者に移動し、国の掲げる「クールジャパン」は政策的に空回りしているが、日本のオタク系サブカルチャーがグローバルに支持を集めている現実が広く知られるようになり、ドメスティックだと思われていた後者の文化はむしろグローバルな輸出文化としての期待を帯びるようになった。
     このヘゲモニーの移動には様々な背景が想定されるが、ここでは特に前回論じた情報社会化による地理と文化の関係性の変化に注目してみたい。
     たとえばこの20年の原宿のあり方を考えてみよう。90年代に歩行者天国を中心にコミュニティが発生し、そこから育っていった少女文化(いまでいう原宿「カワイイ」系文化)は、歩行者天国の廃止や地価の高騰などにより一度衰退する。しかし現在においては、同文化のグローバルな拡散を背景に、まるでかつての原宿的なものを「コスプレ」するかのように登場したきゃりーぱみゅぱみゅがアイコンとなり、現在の原宿もまた同時にかつての原宿を「コスプレ」し始めている。同じような指摘が、2005年の『電車男』ブーム以降の観光地化していった秋葉原にも可能だろう。
     要するにかつては地理が文化を生んでいたのに対し、ここでは文化が地理を生んでいるのだ。このパワーバランスの変化はインターネットがもたらしたものだ。2008年に秋葉原連続殺傷事件が発生した際、秋葉原の一時的衰退はオタク系文化そのものの衰退につながる可能性はなくはなかった。しかし、そうはならなかった。理由は明確で、当時既にオタク系文化のコミュニティはインターネット上に移動していたからだ。当時の秋葉原は、むしろインターネット上のオタク系文化を「コスプレ」する観光地になりつつあった。そう、情報化はボトムアップの文化を生む場をストリートからソーシャルメディアに移動させたのだ。その結果、地理が文化を生むのではなく、文化が地理を決定するようになったのだ。
     こうして考えてみたとき、メディア上の表現に基盤を置くオタク系文化の量的な優位は当然発生することになる。その結果、前者(サブカル)の側は自分たちを正当と見做す「正史」を主張することでのヒーリング(『ニッポン戦後サブカルチャー史』)を求め、後者(オタク)はミーハーに歴史上の人物たちの偉業に目一杯「萌え」狂うこと(『アオイホノオ』)になったのが現代のサブカルチャー状況であるとひとまずは言えるだろう。
     以上が、非常に大雑把な僕流の戦後日本サブカルチャー史(のごくいち側面)だ。そしてこのサブカルチャーの「歴史化」を象徴する二つの番組の魅力、特に後者の福田雄一によるアプローチの素晴らしさについては語り尽くしても尽くせないものがあるが、僕がここで問題にしたいのはもう少し別のことだ。
     それは、これらの番組が支持される背景に存在するのは、はっきり言ってしまえば日本社会自体が中年に、いや「熟年」になろうとしているということなのではないかと僕は思うのだ。 
  • 「僕も、焔モユルと一緒なんですよ」――ドラマ24『アオイホノオ』脚本・監督 福田雄一インタビュー ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.152 ☆

    2014-09-05 07:00  

    「僕も、焔モユルと一緒なんですよ」
    ドラマ24『アオイホノオ』脚本・監督 福田雄一インタビュー
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.9.5 vol.152
    http://wakusei2nd.com


    初出:「TV Bros.」2014年7月19日号(東京ニュース通信社)掲載分を加筆・修正
    今日のほぼ惑は、現在大好評放送中、ドラマ24『アオイホノオ』の脚本・監督をつとめる、福田雄一さんのインタビューをお届けします。原作者・島本和彦さんを師と仰ぐ福田監督が語る、「島本メソッド」とは――?


    ▲ドラマ24『アオイホノオ』公式サイトはこちら作中に登場する、実在の作家名や作品名があまりに膨大すぎるために、映像化は困難だと言われていた島本和彦の自伝的青春漫画『アオイホノオ』が、テレビ東京の深夜ドラマ枠「ドラマ24」でドラマ化され、現在放送されている。ドラマ版『アオイホノオ』は1980年代初頭の大阪芸術大学を舞台に、漫画家を目指す焔モユルと、後にアニメ制作会社ガイナックスを立ち上げ、『新世紀エヴァンゲリオン』を手がけることになる庵野ヒデアキたち若きクリエイターの、蒼くて熱い青春時代を描いた作品だ。本作の脚本・監督を手がけるのは同放送枠で『勇者ヨシヒコ』シリーズを手がけた福田雄一。島本和彦を師匠と呼び、自身の作劇論を“島本メソッド”と呼ぶ福田雄一が『アオイホノオ』のドラマ化を手がけるというのは、これ以上にない最高のタッグだと言えよう。果たして、バラエティとドラマの垣根を超えて精力的に活躍する福田雄一は、師匠の傑作漫画『アオイホノオ』に、どのように立ち向かうのであろうか。
     
    ◎取材・文/成馬零一 
     
     
    ■テレビでやる以上、許可取りは必然だった。
     
    ――ドラマ化のお話は、いつ頃いただいたのですか。
    福田 ドラマ化は僕からの発案だったんです。元々、今年の7月クールに僕がこの枠(ドラマ24)で作品を作ることは決まっていて、さあ何をやろうかというときに、テレ東と電通のプロデューサーと食事をして、『アオイホノオ』をやりたいですと言ったんです。そうしたら、電通のプロデューサーの方もこの作品が好きだったらしく、すぐに意気投合してくれました。
    その電通の方は「島本(和彦)先生って難しそうだけど、原作権くれるかなあ」と心配していたんですけど、僕は島本先生のことを勝手に師匠と呼んでいて、映画『逆境ナイン』の脚本を担当して以来、懇意にさせていただいていたので、その場で先生に「ドラマ化させてください」とメールを送ったら5分後に「許す」と返ってきたんです(笑)。
    ――以前から『アオイホノオ』をドラマ化したいと考えていたのですか。
    福田 実は僕は『アオイホノオ』の連載を追って読んでいたわけではなかったんです。でも、ある後輩に面白いとオススメされて、だったら読んでみようと思ったんです。
    そのとき、ちょうど、『女子ーズ』のコスチュームデザインのお願いをするために、札幌にある島本先生の事務所に伺う用事があったので、「ちょっと貰っていっていいですか?」って、ちゃっかり単行本を貰ったんですよ(笑)。その日は東京までの最終便で帰る予定だったんですけど、たまたま大雪で飛行機が飛ばなかったんです。それでたまたま時間が空いたのでさっそく読み始めたらもう止まらなくなって。「今の島本和彦にこんなに面白いものが描けたのか!」と、久しぶりに漫画を読んで声を出して笑いましたね。
    ドラマ化の許可をもらえた後は、許可取りの準備に時間がかかるのがわかっていたから、一年くらいかけてじっくりと準備しました。
    ――許可取りが大変なのがわかっていたなら、作品内に登場する作家の名前や作品名を出さないで作るという選択肢もあったと思うのですが。
    福田 テレビでやる以上は作品名や実名は出していかないと、この作品の面白さの魔法が出ないと思ったので、許可が出るのであればやろうと考えました。なので、まずは掲載誌の「ゲッサン」担当編集の市原(武法)さんに相談に行きました。そうしたら、じつは僕らの前にも『アオイホノオ』の映像化を希望した方が何人か訪ねてきたことがあったらしくて。でも、許可取りが面倒だということに気づいて退散していく、ということが何度かあったそうです。だいたい、何回目かの打ち合わせを経て、許可取りの難しさに挫折して去っていったらしいんですけど、市原さんはその方たちに「監督が福田雄一なら原作権を渡す」と言っていたそうなんです。ありがたいことに、市原さんは同じ枠で作った『勇者ヨシヒコ』等の僕の作品を面白がって見てくれていて、だから僕が直接言いに来たのを喜んでくれたんですよ。
    それで、すぐにあだち充先生と高橋留美子先生に交渉してくれました。まず、このお二人の名前が劇中で出せないのであれば、作品の面白さは完全に失われてしまうと思ったんですよ。許可取りをはじめて思ったのですが、さすが、一時代を築いた作家の方たちは心が広いんです。「はい、どうぞ」って感じで面白がってくれたんですよ。
    ――小学館以外との交渉はどうだったんですか。
    福田 細かいことは言えないんですが、9割9分はクリアできました。たとえば、漫画家の矢野ケンタローさんが登場するのですが、島本先生に取材したところ、どうやら本当に『機動戦士ガンダム』のシャアの台詞を会話に織り交ぜる人だったらしくて、「あの“サムさ”は絶対に再現してほしい」って言われたんですよ。だったらドラマでは、「ガンダム」の劇中でシャアが登場する時の劇伴「颯爽たるシャア」がかかった方が絶対にいいので、その使用許可をサンライズにお願いするという感じで、一つ一つクリアしていきました。
    ――原作の『アオイホノオ』には、ギャグ漫画の要素もあるし、暗めの青春漫画でもあるし、80年代序盤という時代の記録でもあるわけですが、どの要素が一番、福田監督に響いたのでしょうか。
    福田 すべてですね。島本作品の魅力は、それらの要素のバランスがとれていることだと思うんですよ。僕は自分のドラマの方法論を“島本メソッド”と言っているのですが、たとえば『33分探偵』は、めちゃくちゃカッコイイ主人公が、ものすごくくだらないことを、ものすごく熱くシリアスに言う、ということなんです。これまでそういったことをドラマに取り入れた人は誰もいなくて、僕がずっとやりたかったことなんですよ。だから、いろんな要素が全部混ざっているので、どこをどうということではないんです。
    今回、焔モユルを演じている柳楽(優弥)くんは、とても苦労したと思うんです。焔は、とってもふざけたことを言っているんだけど、そこでおちゃらけるような演技をしてしまうと、全てが崩れてしまうんですよね。だから、ふざけた台詞をシリアスに言わないといけない。島本作品や僕の作品の面白さは、それを見た視聴者が「なんでこんなくだらないことをこんなにシリアスにやってるんだよ!」っていうツッコミの目線が持てることだと思うんです。
    ――シナリオを先に読ませて頂いたのですが、焔モユルと庵野ヒデアキの対立関係が原作以上に強調されていると思いました。
    福田 ドラマ版は、基本的にこの二人の対決モノにしています。庵野さんたちガイナックスのメンバーって、当時の島本先生に対する記憶はほとんどないんですよ。大学時代の二人は、実はほぼ関わっていないんですね。つまり、単純に相手にされてなかったと思うんです。庵野ヒデアキにしてみれば焔なんて眼中にないんだけど、焔は庵野の才能に対する嫉妬でいっぱいで、もがき苦しむわけです。
    ――脚本だと、すごく明確に描かれていますね。毎回、焔が「庵野めぇ~!」と、悔しがっている。
    福田 そういうところがないと主人公のうねりが作れなくて、ドラマにならないんですよね。これは島本先生の悪いところで、月刊で連載しているせいもあると思うんですけど、主人公の感情のラインの起伏が落ち込んだり、盛り上がったり、一話ごとにめちゃくちゃなんですよ。ドラマをつくるという面では、主人公の思いがあっちこっちにいって全然整理できていなさすぎるんです。だから、庵野に勝つんだということだけを、全11話のモチベーションにしました。
    ――脚本を読んだ時に、「こういう話だったんだ」って初めてわかったような気がしました。
    福田 それは島本先生からも言われましたね。原作よりドラマの脚本の方が面白いと原作者に言わせました(笑)。
    ――ご本人を前にして言うのも何ですが、原作の再解釈として、すごく上手い脚本だと思いました。
    福田 焔モユルの魅力は、喜怒哀楽を激しく出すところで、それを恥ずかしいことだと思っていないところだと思うんですよ。いまの若い人たちも含めて、みんな感情を激しく出すことをカッコ悪いと思っているんだけど、そこを出していこうよ、と柳楽君には言っています。
    結局、見ている側からすると、このドラマで一番気持ちがいいところは焔が感情を出してくるところなんですよね。だから、ドラマを盛り上げるためには焔をいじってくれる人が必要なんです。たとえば矢野ケンタローは、焔が落ち込んでいる時にわざわざ傷をえぐりにやってくるっていう、その役割しかないんですよ。あと、高橋っていう友達は、焔がジェラシーを感じるような情報を持ってきて、悔しいって言わせるんです(笑)。焔の喜怒哀楽を引き出すための登場人物の配置はうまくいったかな、と思います。
    ――恋愛の要素というか、トン子さんたち女性キャラクターの書き方も、原作とは違いますね。
    福田 トン子さんに関しては僕の解釈で、原作とはまったく違うゴールを用意しています。
    焔の女性に対する振る舞いの面白さは、「勝手な思い込み」にあると思うんですよ。「俺は恋愛のすべてをあだち充に学んだ!」という台詞があるのですが、焔は自分に近づいてくる女は、全員自分のことを好きだと思っている。そこの勘違いが、ものすごい形で最終回に向かっていくのですが、これは見てのお楽しみですね。
    ――ドラマ版のラストも絶妙な切り方ですよね。