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【本日、単行本発売です!】井上敏樹 新作小説『月神』第9回(発売記念ニコ生情報も!)☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.445 ☆
2015-11-06 07:00チャンネル会員の皆様へお知らせ
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【本日、単行本発売です!】井上敏樹 新作小説『月神』第9回(発売記念ニコ生情報も!)
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2015.11.06 vol.445
http://wakusei2nd.com
これまでPLANETSメルマガで配信してきた井上敏樹先生の新作小説『月神』ですが、いよいよ本日、単行本が発売となります! 書店へ急げ!
メルマガでの掲載は今回が最終回ですが、PLANETSチャンネルでは今月13日(金)に発売を記念した敏樹先生の料理ニコ生も放送予定です。
【いよいよ本日発売!】
井上敏樹 新作小説『月神』(朝日新聞出版)
▼内容紹介(Amazonより)
「仮面ライダーアギト」「仮面ライダー555」をはじめ、
平成ライダーシリーズの名作を送り出した脚本家による、
荒唐無稽な世界を多彩な文体で描き出す、異形のエンターテインメイント!
(Amazonでのご購入はこちらから!)
【ニコ生情報】11/13(金)20:00〜井上敏樹、その魂の料理を生中継! 小説『月神』刊行記念「帝王の食卓――美しき男たちと美食の夕べ」
平成仮面ライダーシリーズの脚本家として知られ、アルファでありオメガ、すなわちこの世界を司る神でもある井上敏樹さんの新作小説『月神』がいよいよ発売となります。
その発売を記念して、PLANETSチャンネルではなんと井上敏樹さんのアトリエからのニコ生中継を敢行します。
自宅では井上敏樹さん自らキッチンに立ち、普通の家庭ではあまり見かけない様々な食材に美味しい魔法をかけていき、敏樹さんを慕って集まった豪華俳優や作家たちがその料理に舌鼓を打ちます。
モニタの前のあなたも、ぜひお酒とおつまみを用意して一緒に宴を楽しみましょう!
おそらく本邦初公開! 井上敏樹さんの料理姿と、美しき男たちをお見逃しなく!!
▼スケジュール
11/13(金)20:00〜23:00(予定)
▼出演
井上敏樹(脚本家)
萩野崇、村上幸平(俳優)
森橋ビンゴ(脚本家)
宇野常寛(評論家)
岸本みゆき(脚本家)
そのほか、サプライズゲスト登場!?
▼タイムシフト予約はこちらから!
http://live.nicovideo.jp/gate/lv240131224
月 神
これまで配信した記事一覧はこちらから(※第1回は無料公開中です!)
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家族三人を殺し家に火を点けて以来、腰痛がひどい。腰の奥にずきりと重い痛みがある。時折、電流を流したような激痛が走る。ボディビルダーにとって腰痛は宿命のようなものでおれも何度かやった事はあるが今回は少し様子が違う。もっと嫌な感じの痛みだ。また、以前は放っておけば二、三日で治癒したものだがそれが一向に良くならない。
おれはクマルの前では痛みに耐えて平然と振る舞う。それがクマルとの約束だからだ。約束といっても二人で交わしたわけではなくおれが勝手に決めたのだが。
それでもおれは約束を守る。おれはずっと不死身の男でいなければならない。寺院のような肉体を持ち、いつまでも若々しいままでいなければならない。腰痛などに負けてはいけないのだ。
おれはいつも通りに生活した。だが、卓袱台の前であぐらを掻き食事をするのも一苦労だった。なるべくゆっくりと座り、背筋を立てたまま前かがみにならないように箸を伸ばす。腰に負担をかけないようにあらゆる動作に気を配る。
少しずつ姿勢を変えてトイレに座っても力む事ができない。腹に力を入れると刃を通されるような痛みが走るので自然と便が落ちるのを待った。
こんな時に限ってクマルはひどくおれに甘えた。丁度生理前だったのだ。
夜の行為の方はクマルを上にして誤魔化したがおれは達する事が出来なかった。クマルは二回目を求める。二回目が終わると三回目を求める。もちろんおれは応じてやった。それがクマルとの約束だからだ。
痛みに耐える事よりもジムに行けない方が辛かった。日に日に筋肉が萎んでいくような感じがする。おれは普段以上の蛋白質を摂取して筋肉の維持を図ったがそれでも不安は拭い切れない。おれの肉体はおれの唯一の作品である。おれは餓鬼の頃から一度として何かを作った事がない。歌すら歌った事がない。そんなおれが丹精込めて磨いて来たただひとつの作品であるおれ自身が損なわれていくのは我慢ならない。
おれを救ってくれたのはやはり月の力だった。腰の異常を感じたその日から、おれはクマルの目を盗んでおれ流の治療を続けていた。床の間の月の石を腰に乗せ、うつ伏せになって瞑想をする。月の光が体内に満ちていくのをイメージする。最初のうちは効果がなかったが、根気よく続けているうちに次第に痛みが薄らいで来た。
十日もすると完治とはいかないまでも、痛みに身構える必要がないぐらいに回復した。そうなるとやるべき事がふたつあった。十日間の消極的なセックスを埋めるためいつもより激しくクマルを抱く事とジムに行く事だ。おれは五回六回七回とクマルをいかせ、ジムでは半日かけて全身を鍛えた。トレーニングが終わると持参したバナナとプロテインを胃袋に収め、尻にステロイドを打つのを忘れない。
ジムの帰りに病院に寄った。
腰の治療のためではない。おれは定期的に病院に通っているが主な目的は成長ホルモンを打つ事にある。ステロイドと糖尿病のインシュリンも同じ病院で受け取っている。
病院はジムからそう遠くない住宅街にあって面倒はない。おれがその病院に通うようになってから十年か十五年か二十年、とにかくもう随分になる。その間、おれはずっとステロイドと成長ホルモンを摂取し続けて来た。ステロイド同様、成長ホルモンも筋肉の維持、発達には欠かせない。特におれのように老年になれば尚更だ。年と共に失われていくホルモンを補ってやる事で筋発達ばかりか免疫力、性的能力、心肺機能等の向上が期待出来るのだ。
おれは病院の前で立ち止まった。花崗岩の塀に嵌め込まれた表札の、『松村医院』の四文字が消えかけている。雑草の生い茂った庭には名前の分からない椰子に似た樹が植えてあり、平屋の屋根には積年の落ち葉が茅葺きのように積もっている。
この病院の暗さは何年も前に診療をやめているせいであり、また、おれが松村の過去を知っているからそう感じるせいもある。松村は妻を亡くした直後に病院を閉めた。今、奴はおれのためだけに病院を開ける。
玄関ベルを鳴らすと、ねじ込み式の鍵を開け曇り硝子の引き戸の向こうから松村が顔を出した。
どうぞ、先生、とおれを迎える。
松村はおれを先生と呼ぶ。おれが松村の女房を殺してやってから先生と呼ぶ。
松村はおれより年上だ。幾つだったかは忘れたが、多分、八十何歳かだ。女房の付き添いとして初めて会った時はまだ若さの名残りをとどめていたが今や立派な老人だ。老人も色々だが松村の場合はその佇まいに品がある。それは篠原も同じだ。おれのエージェントである篠原と主治医である松村はふたりとも品がよく、その点では遙かにおれを凌いでいる。
いかがですか、先生、体の調子は?
診察室の丸椅子に座ると松村が訊ねた。
ああ、問題ない、とおれ。おれは腰痛の事には触れない。黙っている。
インシュリンは忘れずに打っていますか?
そう聞かれてもちろんだと嘘をついた。おれはあの注射をよく忘れる。打ったかどうか思い出せない時もあえて打たない。これがステロイドなら二度打ちになっても構わない。もう一度打つ。
大体、おれは自分が糖尿病だとは思っていない。自覚症状がまるでない。糖尿患者の尿は甘い匂いがするというがおれの尿は極く普通だ。甘くはない。
おれは松村を人間として信用しているが、医者としての腕はどうなのだろうか。松村が主治医になってからおれが世話になったのはステロイドと成長ホルモンの投与を別にすれば喧嘩に巻き込まれたり自殺志願の依頼者の抵抗に遇って怪我をした時ぐらいだ。病気になった事は一度もない。松村の意向で定期的に血液と尿の検査をしているがずっと健常体だった。それが一年程前に糖尿だと診断された。きっと誤診に違いない。おれが病気であるはずがない。
松村も分かっているはずだ。おれは普通の人間ではない。
おれが腰痛の件を黙っていたのには理由がある。松村の前で、おれは超人でいたいのだ。腰痛や糖尿とは縁のない、不死身の男でいたいのだ。いや、事実、おれは不死身の超人であるはずだ。だからこそ松村の妻はあの時、おれを拝んだのだ。
十年か十五年か二十年前、おれは篠原からの連絡を受けてこの病院を訪れた。
以前の松村病院は今と違って隅々まで掃除が行き届き、今は外されてしまったが松村が趣味で撮ったという風景写真が廊下の所々に飾られていた。病院独特の匂いの代わりに甘い芳香剤の香りが漂っていたのを覚えている。
松村はおれを個室に案内し、ベッドで上体を起こしている女房を紹介した。
女房は包帯だらけだった。衣服から覗いている素肌は顔、両腕、両脚と、全てが包帯で覆われていた。火傷です、と松村が説明した。
死にたがっているのは女房の方だった。だが、女房は身の上話が出来なかった。痴呆症だったのだ。松村によれば、女房は火傷をした時だけ正気に戻る事が出来るという。女房は体に熱湯をかけたりガスで焼いたりして辛うじて自分を維持して来た。だが、それももう限界だった。女房は完全に自分を失う事を恐れていた。その前に死ぬ事を望んでいた。
よろしくお願いします、そう辛うじて呟き女房はおれに頭を下げた。
苦しまないようにお願いします、と松村が言う。
おれはベッドに近づき、包帯だらけの、ほっそりとした女の体を抱き上げた。
おれの腕の中で、女房は両手を合わせておれを拝んだ。包帯の下の目が、涙ぐんで笑っている。だが、その光はすぐに淀んだ。正気の光を雲が覆った。
おれは大きく息を吸い、下腹に意識を集中した。おれの体には月の光が溜まっている。下腹の奥に居座る玉のような物に意識を向けその光を解放する。あっと言う間に汗が滲み、全身の産毛が逆立っていく。体の表面に帯電した月の光が伝導し、女房は再び正気に戻った。
松村に腕を伸ばし、あなた、と呟く。
松村はそれに応えて女房を呼んだ。二度、女の名前を繰り返し呼んだ。おれは女房をひねり殺した。
あれ以来、おれを先生と言い、松村はおれの主治医になった。
先生、ステロイドの消費が早過ぎます、問診の末に松村が言う。ちゃんとサイクルを組んでいただかないと。
「心配するな。おれの体の事はおれが一番分かっている」
これはいつものやりとりだ。
松村はおれの体を気づかっている。ステロイドを使い過ぎると様々な副作用が出ると心配している。
最初の頃はおれも松村の指示に従いサイクルを組んだ。なにも難しい事ではない。ひと月ステロイドを使ったならひと月休む。それだけの話だ。だが、薬を抜いている間にいくら食事に気を配りトレーニングの量を増やしてもどうしても筋肉が落ちてしまう。だからおれはもう何年も前から休むのはやめてずっとステロイドを打ち続けている。
先生、それが、ですね、と珍しく口籠もって松村が言う。
前回の血液と尿の検査結果が出たのですが、少し気になる点がありまして。
松村はパソコンのデータを見つめている。その数値の意味するところをおれは知らない。
「何だ、はっきり言え」おれは椅子から立ち上がって松村を見降ろす。別に威嚇しているわけではない。腰が痛くなったのだ。「糖尿が悪化したとでも言うのか?」
いえ、糖尿の方は安定しています。
「じゃあ、なんだ、言ってみろ」
今の段階ではまだなにも言えません。
おれを見上げる松村の目に怯えはない。ただ、敬意があり、気づかいがある。
紹介状を書きますからもっと大きな病院で精密検査を受けてください。
「いつも通りにしろ」おれは松村に命令する。「ステロイドと成長ホルモンだ」
結局、おれは望むものを手に入れて病院を出た。松村はおれの脇腹に成長ホルモンの注射を打ち、一カ月分のステロイドとどうでもいいインシュリンを出してくれた。その代わりにおれは近いうちに必ず松村が紹介する病院に行くと約束した。それが松村の出した条件だった。
家までの道のりを歩きながらおれはなおも松村の医者としての能力を疑っていた。糖尿が治っているのがその証拠ではないか。まあ、奴は安定しているなどと表現したが、本当は治っているに違いない。いや、インシュリンをほとんど打たないのに治るはずがなく、つまりは誤診だったのだ。と、いう事はおれの体になんらかの異常を発見したという今回の見立ても信用するに値しない。
松村め、しょうがない奴だ。
そんな事を考えながら歩いていると、家の前でおれを待つクマルの姿が目に入った。おれを見つけて両手を振るクマルは満面の笑みを浮かべている。普段ならこの時間には料理をしているはずのクマルが外でおれを待っているとは珍しい。
どうかしたのかと訊ねるおれに、クマルは早く店に入ってみろと袖を引っ張る。
なにか気づかない?
そう言われておれはぐるりと店内を見回した。すぐに気づいた。
恐竜の化石が消えている。店の片隅で小さな竜巻のようにうねっていたあの化石がどこにもない。
売ったのだ、とクマルは説明した。それがクマルがはしゃいでいる理由だった。言葉の分からないクマルがおれのいない間に店に立ち、初めて役に立ったと喜んでいる。
どうしたの?
おれが黙ったままでいると、クマルは不安そうにおれの顔を覗き込んだ。私、いけない事した?
そんな事はない、よくやった、とおれはクマルの頭を撫でてやる。ただし、これからはおれに聞いてからにしろ。勝手に売るな。
うん、分かった、と頷くクマルにおれはいつ誰に化石を売ったのかと問い質した。
ふたり連れの男に。ついさっき。
クマルの言葉に、おれは店から走り出した。
おれには心当たりがあったのだ。
しばらく前に目つきの悪いサンダル履きの男がふらりと店にやって来て恐竜の化石に興味を示した。
おれはすぐにぴんと来た。こいつは化石を買い取って転売するつもりなのだと。それがこいつの仕事なのだと。値段を訊ねる男をなにも言わずに追い返したが、それから数日後、今度は仲間と一緒にトラックで乗り着けると一万円札で膨らんだ茶封筒をおれの前に叩きつけた。
これで売ってくれ。半分凄むようにそう言った。
籐椅子に脚を組んで座っていたおれは黙ってまま腰を上げた。おれが立ち上がると恐竜の頭蓋骨の下に頭が達する。巨大な骨の連なりがおれの背後に後光のように広がって、おれと恐竜がひとつになる。
「こいつは売り物じゃない。帰れ」
おれが甘かった。あの時、おれは奴らが納得したとものと思っていた。店にいる限りおれと恐竜は一心同体であり、いくら金を積んでも無駄なのだと理解したものとばかり思っていた。だが、甘かった。奴らはおれの留守を見計らってクマルを騙すような卑怯者だったのだ。
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【集中連載】井上敏樹 新作小説『月神』第8回 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.436 ☆
2015-10-23 07:00チャンネル会員の皆様へお知らせ
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【集中連載】井上敏樹 新作小説『月神』第8回
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2015.10.23 vol.436
http://wakusei2nd.com
平成仮面ライダーシリーズでおなじみ脚本家・井上敏樹先生。毎週金曜日は、その敏樹先生の新作小説『月神』を配信します! 今回は第8回です。
小説を読むその前に……PLANETSチャンネルの井上敏樹関連コンテンツ一覧はこちらから!入会すると下記のアーカイブ動画がご覧いただけます。
▼井上敏樹先生、そして超光戦士シャンゼリオン/仮面ライダー王蛇こと萩野崇さんが出演したPLANETSチャンネルのニコ生です!(2014年6月放送)
【前編】「岸本みゆきのミルキー・ナイトクラブ vol.1」井上敏樹×萩野崇×岸本みゆき
【後編】「岸本みゆきのミルキー・ナイトクラブ vol.1」井上敏樹×萩野崇×岸本みゆき
▼井上敏樹先生を語るニコ生も、かつて行なわれています……! 仮面ライダーカイザこと村上幸平さんも出演!(2014年2月放送)
【前編】「愛と欲望の井上敏樹――絶対的な存在とその美学について」村上幸平×岸本みゆき×宇野常寛
【後編】「愛と欲望の井上敏樹――絶対的な存在とその美学について」村上幸平×岸本みゆき×宇野常寛
▼井上敏樹先生脚本の「仮面ライダーキバ」「衝撃ゴウライガン!!」など出演の俳優、山本匠馬さんが登場したニコ生です。(2015年7月放送)
俳優・山本匠馬さんの素顔に迫る! 「饒舌のキャストオフ・ヒーローズ vol.1」
▼井上敏樹先生による『男と×××』をテーマにした連載エッセイです。(※メルマガ記事は、配信時点で未入会の方は単品課金でのご購入となります)井上敏樹『男と×××』掲載一覧
▼井上敏樹先生が表紙の題字を手がけた切通理作×宇野常寛『いま昭和仮面ライダーを問い直す』もAmazon Kindle Storeで好評発売中!(Amazonサイトへ飛びます)
月 神
これまで配信した記事一覧はこちらから(※第1回は無料公開中です!)
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きい様は村から大分離れた山の中腹で独居していた。
丸太を積み上げたような簡素な作りだったが室内はきれいに整っていた。所々毛羽立ってはいたものの床は畳敷きで天井からはランプが吊るされ土間には竈が設えてある。また壁のひとつが本棚になっていて糸で綴じた古い本が並んでいた。
満寿代はお前の母親じゃないよ。
おれを招き入れて引き戸を閉めるとそう言った。おれがきい様に引き取られた最初の日だ。
あの女は子供を産めない体なんだ、お前、母親を殺そうと思ったんだろ? とんだ人違いだったねぇ、でも、気にする事はないよ、あの女は嘘ばかりついているろくでなしだからさ、いい様さ。
きい様は二人分のお茶を入れると卓袱台に向かって腰を降ろした。座りなよ、とおれを促す。おれは仁王立ちでお茶を飲み、座らないのかい、ときい様が訊ね、おれが頷くと変わった子だよと呟いた。
おれはお前の事ならなんでも知っているんだよ、そう言いながら老婆はお茶を啜りおれを見つめた。毎晩月を見ている事や森の戦車の事もね、海に捨てられた時に助かったのも月を目指したからだろう、違うかい?
おれは黙って頷いた。
お前は月の子だ、おれと同じだ。
きい様はごろりと横になり腕枕でひとしきり鼾をかき、それから突然起き上がって風呂を焚き始めた。
風呂は家の裏手のドラム缶ですでに海水が汲んであった。ドラム缶の下に薪を入れて火を起こし竹筒でふうふうと息を吹く。きい様はおれの頭からお湯をかけ、体に灰を塗ってタワシで洗った。
お前の体には鬼が宿っているようだね、そう言った。きっと月が鬼を育ててくれるだろう、でもね、あまり月ばかり見ていてはいけない、見つめていいのは満月だけだよ、月はね、人の魂を食べるんだ、新月の時、月は腹を空かせている、人の魂を食い段々太って満月になる、満月になればもう月は魂を食ったりしない、だから見つめていいのは満月だけだ。
馬鹿を言うな、とおれは思った。月に魂を食われるなら望むところではないか。
おれときい様の生活が始まった。
きい様は一日のほとんどの時間を寝て過ごした。その間におれがするべき事を数日かけて叩き込んだ。朝、山に登ってバケツ二杯分の湧き水を汲む、食べられる野草を摘む、竈で飯を炊く、乾いた雑巾で畳を拭く、薪を集める、薪を割る、海水を汲んで風呂を焚く、夏は眠るきい様を団扇で扇ぐ、冬は火鉢に炭を入れる。
時々、若い衆が魚や米や野菜を運んで来たが、きい様と顔を合わせるのを避けるようにそそくさを村へ帰って行った。
きい様は魚の塩辛が好物でその作り方をおれに教えた。
魚の種類はなんでもよかった。ただ、ひたすら叩くのだ。頭ごと骨ごと腸ごと包丁でどろどろになるまで叩き続ける。そこにたっぷりの塩と少量の酒と山羊の乳を加えて混ぜ合わせる。あとは山羊の革袋に詰め三カ月ほど地面の中に埋めておけばどぶの臭いのするその食い物が完成する。
きい様は魚ばかり食べていた。血が汚れるという理由で肉食を禁じた。時々、おれはきい様の目を盗み、山羊を殺して食っていた。
糞尿の始末をするのもおれの仕事だった。小屋の裏手に埋められたふた抱えもある陶製の瓶が糞尿で満ちるとバケツで掬って海に捨てたり島の婆たちが耕す畑に撒き散らした。
後年、おれが子供とは見なされなくなって若い衆たちと働くようになると、今度は娼婦長屋の便所の掃除をする事になる。糞尿の海が乾燥して岩のように固まるとおれは体に巻いた命綱を若い衆に持たせ汚水槽の中に飛び込んだ。そして両腕を振り回して糞尿の岩を砕いていった。そこはおれの故郷だった。夥しい糞尿の中には何人ものおれの兄弟が溶けていたに違いない。
きい様には秘密の場所があった。そこは山の頂上付近の開けた場所に石を積み上げた築山だった。いびつな台形をしたその築山の天辺できい様は満月になると瞑想に耽った。きい様はそこを御聖所と呼び古代遺跡だと言っていたが、おれは嘘だと知っていた。それには遺跡のような威厳も風格もなく、積み上げられた石は新しいものが多かった。間違いなくきい様が自分で作ったのだ。
おれが通りかかるときい様は瞑想を中断して手招きをした。皺だらけの骨張った手がおぼろな光に包まれてこっちに来いとおれを呼んだ。おれはその誘いには乗らなかった。ただ一度を除いておれが築山に登った事はない。偽物の御聖所などまっぴらだったし、きい様の弟子になるつもりはなかったからだ。敢えて言えば、おそらくおれの師はおれを産みおれを捨てたおれの母だ。
きい様の方はおれを弟子と見なしていた。いずれきい様の後を継ぐようにとよく言った。後を継いで島を守れと言い聞かせた。
また、きい様はおれに文字を教えようと虚しい努力を繰り返した。
内容は覚えていないが卓袱台の上に広げた本を、きい様の真似をして朗読するように命令した。全く退屈で死にそうだった。おれは本を破りページを食って抵抗した。
何度も食っているうちに味を覚えた。本棚から本を抜き取って時々食った。古い方がうまかった。きっと本にも食い頃があるのだ。おれにとって本は読むものではない。食い物だ。本を読む奴の気が知れない。
島民たちは年に数回、きい様に怪しの物が降りると信じていた。きい様がみんなから馬鹿にされながら怖れられていたのはこの怪しの物のせいだった。
その日が近づくときい様は村に降りて「もうすぐ来るぞ、もうすぐ降りるぞ」と言い回る。そうなると誰もが落ち着きをなくし、祭りの前のような興奮が村を包んだ。その日のために体力をつけるようにと、元締めは山羊を潰して肉を配った。
怪しの物が降りるのは満月の日と決まっていた。
おれは何度かその瞬間を見た事がある。築山で瞑想中のきい様はわけの分からない叫び声を上げると数メートルもぴょんと飛び跳ね、疾走を始めた。怪しの物に憑かれたきい様はなにをするわけでもなかった。ただ、走るのだ。
その走り方が尋常ではなかった。この八十か九十か百歳の老婆は着物の裾をたくし上げ島の誰よりも速く力強く疾走した。川を飛び越え木々を擦り抜けあらゆる障害物をものともせず島のあちこちを縦横無尽にひた走り、きい様が通り過ぎると小さな竜巻が渦を巻いた。島民たちは元締めも若い衆も娼婦も婆もきい様を捕まえようとやっきになった。きい様を止めた者は一年間健康でいられると信じられていたのだ。
ある者は罠を張り、ある者は武器を手に、またある者は徒党を組んできい様を襲った。きい様はその全てを擦り抜けて二時間か三時間か四時間ひたすら走ると、突然立ち止まってばったりと倒れ、まる一日昏々と眠った。意識をなくしたきい様の顔は真っ赤に充血して膨張し、まるで満月のようだった。
おれが知る限りきい様を捕まえた者は誰もいない。
おれは一体どれぐらいの間きい様と一緒に暮らしたのだろう。よく覚えていない。多分、三年か五年か七年ぐらいだ。その間、月の光と日々の労働と山羊肉が筋肉を厚くし、おれは幼児から少年へと成長した。
夏になると若い衆たちは海で遊んだ。島の森と同様命の貧しい海で捕れるものと言えば肉の薄い蟹や船虫ばかりだったが涼をとるのに不都合はなかった。
おれは何度か若い衆に誘われ海に入り、必ず溺れた。若い衆は危うく溺死しそうなおれを引き上げ、時には人工呼吸を施さねばならなかった。
母親の胎内で泳ぎを覚え、昔は大海原からの生還を果たしたおれだったが、成長すると完全なカナヅチになっていた。おれの筋肉は水に浮くには重過ぎたのだ。また、おれは下腹部の奥深くにずしりと居座るなにか鉄の塊のようなものを感じていた。そのせいでいまだにおれは泳げない。
島の探索に飽きると、夜陰に紛れて村の方に降りて行った。
向こうは気づかなかったが何度か満寿代を目撃した。満寿代はランプの明かりを頼りに洗濯をしていた。井戸端で盥に水を汲み、洗濯板で汚れものを洗っていた。
満寿代の顔には鼻がなかった。おれがこん棒で頭を殴った時、内側からの衝撃波で吹き飛んだのだ。
長屋の周辺をうろついていると、部屋の窓を通して時々おれを呼ぶ声が聞こえた。
ある夜、「源太」と誰かが呼んだ。
別の夜には「恭二」と誰かが呼んだ。
また別の夜には「大介」と声をかけた。
みんなおれの名前だった。
明かりを消した部屋の中で暗闇に顔を塗り潰された女たちはおれの性器を見て驚嘆した。そしておれに跨がり、またおれの名前を呼んで打ち震えた。
きい様はおれの秘め事を知らなかった、と思う。だから、おれにいつもよりたらふく飯を食わせ、初めての酒を飲ませて眠らせた後、きい様がとった行動はおれの淫行を責めようとしたわけではない。
眠りに落ちてすぐ、おれは全身の痒みに目を覚ました。酒のせいで蕁麻疹が出来たのだ。酒の飲めない体質がおれを救った。
体中を掻きむしりながら顔を起こすと、股の間にきい様が座っていた。きい様も他の女たちと同じ事をしたいのかと思ったが、様子がおかしいとすぐに気づいた。きい様の手には包丁が握られ、闇自体が僅かに孕む青い光を集めていた。
おれは身を捩って振り降ろされる一撃を危うくかわした。
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【集中連載】井上敏樹 新作小説『月神』第7回 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.431 ☆
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【集中連載】井上敏樹 新作小説『月神』第7回
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2015.10.16 vol.431
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平成仮面ライダーシリーズでおなじみ脚本家・井上敏樹先生。毎週金曜日は、その敏樹先生の新作小説『月神』を配信します! 今回は第7回です。
小説を読むその前に……PLANETSチャンネルの井上敏樹関連コンテンツ一覧はこちらから!入会すると下記のアーカイブ動画がご覧いただけます。
▼井上敏樹先生、そして超光戦士シャンゼリオン/仮面ライダー王蛇こと萩野崇さんが出演したPLANETSチャンネルのニコ生です!(2014年6月放送)
【前編】「岸本みゆきのミルキー・ナイトクラブ vol.1」井上敏樹×萩野崇×岸本みゆき
【後編】「岸本みゆきのミルキー・ナイトクラブ vol.1」井上敏樹×萩野崇×岸本みゆき
▼井上敏樹先生を語るニコ生も、かつて行なわれています……! 仮面ライダーカイザこと村上幸平さんも出演!(2014年2月放送)
【前編】「愛と欲望の井上敏樹――絶対的な存在とその美学について」村上幸平×岸本みゆき×宇野常寛
【後編】「愛と欲望の井上敏樹――絶対的な存在とその美学について」村上幸平×岸本みゆき×宇野常寛
▼井上敏樹先生脚本の「仮面ライダーキバ」「衝撃ゴウライガン!!」など出演の俳優、山本匠馬さんが登場したニコ生です。(2015年7月放送)
俳優・山本匠馬さんの素顔に迫る! 「饒舌のキャストオフ・ヒーローズ vol.1」
▼井上敏樹先生による『男と×××』をテーマにした連載エッセイです。(※メルマガ記事は、配信時点で未入会の方は単品課金でのご購入となります)井上敏樹『男と×××』掲載一覧
▼井上敏樹先生が表紙の題字を手がけた切通理作×宇野常寛『いま昭和仮面ライダーを問い直す』もAmazon Kindle Storeで好評発売中!(Amazonサイトへ飛びます)
月 神
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翌日、篠原と連絡を取って仕事に向かった。家を出る前に床の間の月の石を頭に乗せ少しの間瞑想する。
おれはすでに篠原から現場までの詳細な地図を受け取っていた。奴はおれが指定された場所まで走っていく事を知っているので迷わぬように丁寧な地図を書いてくれる。
すっかり元気になったクマルに、おれはいつものように隕石を探しに行くと言って家を出た。
今回はかなり距離がある。体力が続く限り走っても日帰りは無理だ。おれはじっくり行こうと決め普段よりも楽なスピードで走り始める。昼過ぎから三時間ほど幹線道路を走って目についたステーキハウスで食事を摂る。今日のように有酸素運動の長い日は大量の炭水化物が必要だ。さもないと脂肪と一緒に筋肉までがエネルギーとして消費されてしまうのだ。
おれは500グラムのステーキを食いながらライスを七回お代わりする。たっぷりの野菜も忘れない。デザートにはチーズケーキをホールごと頼んだ。食事を終えるとリュックからサプリメントのボトルを取り出しテーブルに並べる。各種ビタミン錠、一酸化窒素ブースター、イチョウ葉エキス、ベータカロチン、ノコギリヤシ、コンドロイチン、コラーゲンと、次々に口に入れていく。
最後にコーヒーを飲みながら一時間ほど休憩して再び走った。水分補給にはスポーツドリンクにオレンジジュースとグルタミンを混ぜたものを頻繁に飲む。グルタミンというのは簡単に言えば筋肉のおやつだ。それを喉が乾く前に飲むようにする。食事も同じだ。空腹を感じる前に腹に詰め込み、常に体を栄養過多の状態にしておく。その過剰分が筋肉を作る。
おれほどの体格になると走る度に全身の筋肉がゆさゆさと揺れる。巨乳の女と同じ具合だ。そういう揺れの感覚も楽しいものだが長時間続くと疲労に繋がる。おれは上半身にきゅっと力を入れ、筋肉を固定して走る。その方が疲れないのだ。
三時間おきに店で食事をし、途中適当に休憩を挟みながら夜九時まで走り続け、ビジネスホテルに部屋を取った。
冷たいシャワーを浴びながら悪くないペースだと思う。この調子で行けば明日昼頃ホテルを出て夜七時か八時には目的地に着けるだろう。
人殺しをする際、おれが走るのには理由がある。それはおれなりの相手に対する礼儀なのだ。おれは武器を使わずに人を殺す。鍛え抜かれた肉体だけが頼りだ。人の命を奪うには自分の手で毟り取らねばならない。だから武器は使わない。おれの仕事はおれが家を出た時から始まっている。おれは依頼者に会いにいく。依頼者に死が近づいていく。その過程においてもおれはおれ以外のものに頼りたくないのだ。おれぐらいの巨躯になると走るのは苦痛だ。だが、それでいい。それがいい。おれは人を殺す。だからその前に、少しの苦痛を受け入れる。
翌日は予定通りに進んだ。おれは順調に走り続け、依頼者との距離を縮めたが、後少しという所で道に迷い電話をかけた。電話ボックスに入り篠原が地図の隅に書いてくれた依頼者の番号を押すとまず女が出たので「今日、会う予定の者だが」と言うと男に代わった。
男は落ち着いた口調で丁寧に道を教えてくれた。きっと頭のいい奴なのだろう。
おれは依頼者についてなにも知らない。篠原もおれの流儀に従って何も言わない。おれは殺す相手に対してどんな先入観も持ちたくない。おれの目で直に相手を見、直に身の上話を聞き、何の苦痛も与えずに、いや、出来ればおれの寺院のような肉体に抱かれる事で畏怖と喜悦を感じさせて殺してやりたい。それがおれのやり方だ。
だが、まさか今回の依頼者が個人ではなく、家族だとは意外だった。親子三人が自殺志願者だとはおれが人殺しになっての十五年か二十年か二十五年の間で実に初めてのケースだった。
男は大通りの街灯の下で待っていた。おれを見るとよくいらしてくださいましたと言ってにっこり笑った。久しぶりに遠い親戚にでも会ったような感じだった。男は白いワイシャツにグレイのスーツを着て臙脂のネクタイを締めていた。大会社のお偉いさんのような雰囲気だった。きっと実際にそうなのだろう。おれは男に従って脇道に入った。極く薄い三日月が雲の間に光っている。
まさか走っていらっしゃるとは思いませんでした。驚きましたよ。
おれは答えずにゆっくりと歩く。まだ、呼吸が乱れている。体中が汗塗れだ。男の体もおれと同じように濡れている。
夜の闇を通しても建ち並ぶ家々の新しさが分かる。街全体が新しい。ショッピングモールやコンビニや高層マンションが計算された配置に建てられ、道路はまだアスファルトの原色を残している。静かな街だ。この新興の街にはまだ住人が揃っていない。きっとこれからの街なのだろう。
おれは芝生の庭の豪邸に通される。同じような造りの両隣にはひとけがない。
さあ、どうぞ、お入りください、と言って男がスリッパを揃えてくれる。
だが、おれは靴を脱ぎ裸足のまま家に上がった。三十五センチのおれの足はスリッパに入らない。すぐに転びそうになり壁に手をついて危うく支えた。廊下が濡れているせいだ。
男は廊下を進み幾つかのドアを過ぎてふたつのシャンデリアが緋色のカーペットを照らす広々とした部屋に案内した。シャンデリアと同じように金色の装飾が施されたテーブルを黒い革製のソファセットが囲んでいる。
四人掛けのソファに離れて座るふたりを、男は妻と息子です、と言っておれに紹介した。全てがびっしょりと濡れていた。男も息子も女房も、カーペットもソファもテーブルも、部屋全体がガソリンで濡れている。おれは男と会った瞬間にその匂いに気づいていた。車の運転をしないおれでもガソリンの匂いぐらい分かる。
女房は真っ直ぐにおれを見つめて頭を下げた。年の頃は男と同じ五十になるかならないかといったところだろう。きれいに結い上げた髪も薄紫の着物もガソリンに塗れているが佇まいに動揺はない。
三人の中で息子だけが身なりが悪い。薄汚れたTシャツに短パン、肩まで伸びたボサボサの髪が顔を半分隠している。
おれは男に促されて一人掛けのソファに腰を降ろした。
テーブルにはすでに人数分のティーセットが並び、女房がおれにポットの紅茶を注いでくれる。その手が小刻みに震えている。手首に何本もの傷跡がある。
先程、女房が落ち着いて見えたのは間違いだった、と分かる。実は女房はここにいない。おれを見ても見てはいない。その目は焦点が合っておらず、何か他の物を凝視している。女がなにを見ているのかは分からない。だが、それを見たその瞬間の表情が僅かだがまだ女の顔にとどまっている。恐怖と驚愕。おれがよく知っている表情だ。おれに頭を下げてもお茶を注いでもそれは女の意思ではない。体内の歯車が動くように、ただ、自動的になされる動きなのだ。
男は紅茶を飲み、クッキーを摘んだ。篠原さんに言われた通りに遺書を書きましたが、とおれに言う。会社のパソコンの方に残してあります、それでいいですか?
おれにはよく分からない。それは篠原が決める事だ。
おれは紅茶に口をつけて顔をしかめる。ガソリンの味だ。
もうお察しの事と思いますが、と男はおれが黙ったままでいると言葉を続けた。あなたに仕事を依頼したのは私たち三人です。私と妻と息子をあなたに殺して欲しいのです。
おれは男を見つめて頷いた。問題はない。
また、篠原さんが言うには、あなたは仕事の前に相手の身の上話を望むそうですが今回は私たち家族が依頼者なのですから家族の歴史、というようなもので構わないでしょうか?
おれはもう一度頷く。構わない。
失礼ですが、生まれはどちらで、と男が訊ねる。
「島だ」おれは答える。今は人が住んでいるのかも分からない遠い島だ。
私と妻は栃木の生まれなんですよ、男が言う。幼馴染みでしてね、私は子供の頃からずっと妻の事が好きでした。
男はおれの正面の一人掛けのソファに座っている。腕を伸ばして女の手を握り締める。女は男に笑顔を向ける。だが、それも自動的な動きだ。それは笑顔に見えて笑顔ではない。女房は夫を見ていない。
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満寿代という名の女だった。
女はおれを正治と呼んだ。もし満寿代が本当の母親ならおれの名前は正治ということになる。くだらない名前だ。なんの面白みもない。頭の悪い女が付けそうな名前だ。
満寿代は入れ代わり立ち代わりおれの元にやって来る娼婦のうちのひとりだった。
他の女たち同様、満寿代も食事を運んだり耳垢を掘ったり爪を切ったりとあれこれおれの面倒を見てくれた。別段、変わったところのある女ではなかった。ただ、誰よりも料理が不味かったし、そして島で一番の美人だった。年の頃は二十から三十の間だった、と思う。
珍しく夜遅くに現れた満寿代はびっくりした表情でおれを見つめた。殺したばかりの子山羊の生肉を食べていたおれの口は血で濡れていたし、まだ包皮をかぶったままの性器がぴんと張り詰めていたからだ。山羊の肉を食べる度におれの性器は元気になった。それでも満寿代はなにも言わず持参した何枚もの濡れ雑巾で掃除を始めた。着物の裾と袖をたくし上げ掘っ建て小屋の床を拭き、おれは子山羊を食べ続けた。やがて満寿代は掃除を終え、おれが肉を食べ尽くすと、
「ねぇ、正治」
おれの性器に語りかけた。
「今まで黙っていてごめんなさい。お前を産んだのは私なんだよ」
そう言った。
それからと言うもの、満寿代はますます頻繁におれを訪れるようになった。時には小屋に泊まっていき、島の婆たちが作ってくれた小さな蒲団の中でおれを抱いて一緒に眠った。
他の女たちとかち合うと満寿代はあからさまな意地悪をして追い返した。島一番の美人である満寿代は、なかなかの力を持っていた。美人の方が客を取れる。島民の中で満寿代が逆らえないのは元締めときい様ぐらいだった。
満寿代は度々他の女の悪口をおれに聞かせた。
あの女は育ちが悪い、あの女は盗人だ、あの女は病気持ちだ、あの女は意地が悪い、あの女は若い衆と出来ている、あの女は客を殺して海に捨てた………。
元締めときい様の悪口も忘れなかった。元締めはやくざ者の守銭奴だ、きい様は頭が狂っている。
本当はね、私はこんなところにいる女じゃないのよ、と満寿代は言った。
私のお父さまはとても偉い人だった、政財界の顔役だった、私はこの島よりも大きな屋敷に住んでいた、女中さんが何人もいた、うちの雨戸を全部閉めようとすると女中さんが力を合わせても何時間もかかった、それほど大きな家だった、うちにはお宝が沢山あった、金や銀や宝石や、外国の美術品で溢れていた、でも、お父さまが病気で亡くなったせいで没落した、私はお母さまと弟を守るために工場で働く事にした、朝から晩まで額に汗して働いた、工場主が私を見染め言い寄って来た、私はお母さまと弟のために妾になった、工場主はお父さまが残した借金を返してくれた、旦那は優しかった、私は妾ではあったが幸せだった、でも、習い事の帰り道、書生さんと知り合った、突然の雨に困惑している私に傘を貸してくれたのがきっかけだった、私と書生さんは恋に落ちて私は妊娠した、それが旦那にばれて怒りを買った、旦那が払ってくれたお父さまの借金は私の借金になり、旦那は私を売り飛ばした、お前の父親は書生さんだ、きれいな顔の書生さんだ、きっと書生さんは偉くなって私を本島で待っている、私はお金を貯めて島を出る、その日は近い、もちろんお前も一緒に連れていく………。
実際、満寿代は金を貯めるために一生懸命、昼夜問わずに働いてた。
島一番の美人である満寿代は多くの得意客を持っていた。そして島で一番大きな声を出す女でもあった。
夜中に月を見上げていると、遠く、長屋の方からよく満寿代の声が聞こえて来た。その悦楽の声は微かではあったが、海からの風に乗って島全体に染み渡っていくようだった。
『森の戦車』を発見したのはこの頃の事だった、と思う。
三日月が暈を被り七色の光を投げかける夜、島の探索に出掛けたおれはまだ踏み込んだ事のない森の奥まで脚を延ばした。
狭い島だったが西側半分が山岳地帯で東側の山裾は起伏の激しい森林地帯になっていた。奇妙に静かな森だった。おれは何度も森の中を旅したが数種類の昆虫以外、生き物らしきものを見た事がない。蛇一匹、鳥一羽見た事がない。虫ケラたちもどこか覇気がなかった。蜘蛛は中途半端に巣を張ったままだらりと糸にぶら下がり、蛾は樹皮に同化して動かず、だんご虫はだんごのまま開かない。
動物たちはおれの気配を察して身を潜めていたのだろうか? 月の力を得て寺院のような肉体と鬼のような活力漲る不死身の人殺しになるであろうおれの未来の姿を見て怯えていたのだろうか。
この頃のおれはまだ子供ながら逞しい筋肉を獲得しつつあったが、森の戦車もまたおれの成長に貢献した。肉体的な発達だけに止まらず、月とおれの関係をより強めるような機会をくれた。
それは旧日本軍の戦車だった。
最初、おれにはそれがなんであるのか、さっぱり見当がつかなかった。ただ、それがそこにある事に強い違和感を感じたのを覚えている。
それは森の闇の中で月の木漏れ日を浴びながらぬめりと緑色に光っていた。
もし、その時のおれが戦車というものを知っていたなら、おれの違和感はさらに強いものになっていたに違いない。なぜなら戦車の四隅には図太いくぬぎの樹ががっちりと食い込んでいたからだ。まるでくぬぎの樹によって磔にされているようだった。
たとえ戦車が樹々をなぎ倒し森を蹂躪して来たのだとしても、こんな風に樹の牢獄に捕らわれるはずがない。
おれは長いこと戦車を見つめ、おそるおそる近寄って指で触れた。
じんと冷たい感触に指が痺れる。拳で殴った。こんな固いものを殴ったのは初めてだった。
おれは森の戦車について満寿代に訊ねた。
ああ、きっとそれは戦車ね、と満寿代は答えた。
さらに訊ね続けると、人殺しの道具だ、と教えてくれた。昔、きい様が森の中で見たって言ってたけど、本当だったのね、頭のおかしい婆の法螺話だと思っていたけど。
だが、それだけだった。満寿代はまるで戦車に対する興味も疑問も持っていないようだった。
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篠原はおれの話を聞いていない。
だから、おれは言葉を切って水を飲んだ。
篠原はとうにビールとカツオを食べ終わり、おれは追加の蕎麦を平らげている。
今日何本目かの煙草に火を点けて篠原はそれを灰皿に置く。篠原は滅多に煙草を吸わない。ただ、灰皿に置いておくだけだ。煙草の銘柄もいつも違う。きっとなんでもいいのだろう。
おれは蕎麦湯を頼んでちびちびやる。余った葱と山葵を蕎麦湯に溶かしてちびちびやる。
煙草の煙を目で追う篠原の顔を見つめながら、おれが馬鹿だった、と思う。
こいつにはおれの過去などどうでもいいのだ。
篠原は何に関しても興味を持たない。初めておれの店にやって来ておれに殺してくれと頼んだ時はこんな風ではなかった。まだ、死ぬ事に興味を持っていた。だが、死に損なって再びおれの前に現れた時、まるで違う人間に変わっていた。明るく輝く無関心、とでもいうようなものを身につけていた。僧侶のようだ、とおれは思った。
おれは篠原が嫌いではない。寧ろ好きだ。おれに関心を持たれるより放っておいてくれた方がありがたい。それなのになぜおれは身の上話など始めたのだろう。どうかしている。
先程のあなたの質問にお答えしましょう、篠原はおれの話の続きを待つ事なくそう言った。
なぜ、私はあなたに殺してくれと頼んだのか。
おれは手を伸ばし篠原の煙草を揉み消した。後で禁煙するように言ってやろう。
笑わないでくださいね、篠原がそう言うので、おれは「笑わない」と言ってやった。少し考えてから怒らないでくださいね、と付け加えるので、「怒らない」と言ってやる。
ほら、あなたの店に恐竜の化石があるでしょう?
「ああ」
あの日、店番をするあなたの頭の上に化石の首の骨がアーチのようにかかっていましてね、それが後光のように見えたんです。
「ごこう?」意味が分からず聞き返した。
聖なる光ですよ。そのせいであなたが聖者のように見えたんです。しかもあなたの人並み外れた体がまた凄かった。圧倒的な肉体を持つ聖者がいるなら、きっと私を殺してくれると思ったんです。あの時の私は大分追い詰められていましたからね、まあ藁にも縋る思いでした。
篠原はおれがなにも話さないのを確かめてから言葉を続けた。
でも、私は死ねなかった。別にあなたのせいじゃありませんよ。きっとそれが因果律ってやつだったんでしょう。私は病院のベッドで考えました。私はまだ死ぬべき時ではないのだ、と。もしそうなら私にもまだこの世でするべき事が残っているに違いない、と。そこで私は決めたんです。人の死のために尽くそうとね。私が死ねないのなら人を殺してやるために生きてやろうって。
ふと、篠原はおれを恨んでいるのでないかと思った。
篠原をうまく殺してやれなかったおれを憎んでいて、復讐のためにおれに人殺しをさせているのではないだろうか。だが、おれはすぐにそんな思いを否定した。恥を感じた。篠原は一度もおれに嘘をついた事はない。第一人殺しをさせるのが復讐になっていない事は明らかだ。なぜなら、このおれが相手だからだ。篠原は本当にこの世界では生きられない哀しい奴らの事を考えているのだ。そしておれを理解している。
篠原は蕎麦湯を飲み干すおれを見つめていた。おれの言葉を待っていた。
「おれは死なない」そう言った。「永遠に」
篠原はおれの言葉ににやりと笑った。篠原の笑いを見るのは久しぶりだった。もしかしたら初めてかもしれない。
「おれは永遠に死なない」もう一度繰り返した。「おれの仕事をするために。死にたい奴らを殺すために」
そうだ、おれは死なない。完璧な肉体のまま生き続ける。月を見上げて生き続ける。きっとおれは月には行けない。が、それでいい。その代わりにおれはおれが殺す奴らの魂が月に行けるように祈るのだ。新しい季節の中で生きていけるように祈るのだ。
6
老婆に捕まったその日の早朝、おれは裁判にかけられた。
この老婆はみんなからきい様と呼ばれていた。いつもきいきいうるさいからだ。
島一番の高齢で、ただひとりの医者であり、また、みんなから一目置かれる知恵者で誰もが恐れる変人だった。
ひとつ、分からない事がある。なぜ、きい様はおれの母親が誰かを知らなかったのか。
母親の体に様々な器具を突っ込み、おれを堕そうとしたのは島唯一の医者であるきい様だったに違いない。だが、おれの激しい抵抗に遭いきい様は堕胎に失敗した。だからおれを見つけた時に母親の見当ぐらいはついたはずなのだが、それが分からなかったとはどういうわけか。考えられる事はいくつかある。
まず、きい様はおれの母親の中からおれ以外のなにか別のものを引っ張りだし、堕胎に成功したと思い込んだという事だ。まあ、なにを引っ張りだしたのかは分からないが。
或いは堕胎を諦めて母親に任せたとも考えられる。つまり、便所に産み落として溺死させるように命じたのだ。島の女たちはネズミのようにしょっちゅう妊娠していて便所での処理は珍しくなかった。
また、これが一番可能性が高いと思うのだが、ただ、単にきい様が歳だったという話なのかもしれない。きっときい様はなにもかもを忘れていたのだ。
きい様主催の裁判には娼婦たち全員が参加した。
きい様はまだ元締めとその子分の若い衆たちが目覚める前に女ひとりひとりの部屋を訪れ、雑木林の会議場に来るようにと声をかけた。寝ぼけ眼の女たちは身繕いもせず、泊まりの客を取っていた者は客に悟られないように寝床を抜け出し木々の間の開けた場所にやって来た。
きい様は落とし物の持ち主を探すように両手でおれを持ち上げてこの子を産んだのは誰だと娼婦たちに訊ねた。答える者は誰もおらず、きい様はきいきい喚き始めた。
島の掟を忘れたのか、元締めにばれたらどうするのか、このままでは連帯責任になる、全員ひどい目に遭わされる、お前たちは動物と同じだ、犬が糞をひねり出すように子供を産む、昔の事を忘れたのか、子供を産んだ女はみんな殺された、もちろん子供も殺された、女の体は呪われている、女は腹に溜めた男の精液に血と糞を混ぜ合わせて子供を作る、今母親が名乗り出ればこの子と一緒に逃がしてやる、そうでなければ殺して埋めるだけだ。
だが、名乗り出る者はいなかった。おれの母親はまたおれを殺そうとしたのだ。
おれを救うきっかけを作ったのは押入れのおれを訪ねるうちに情を移した数人の娼婦たちだった。
娼婦たちはおれの助命を嘆願し、それに効果がないときい様を脅迫した。たとえ今子供を殺しても、子供を見つけた時点で元締めに報告しなかったのは罪になるのではないか、私たちは黙っていない、必ず元締めに言いつける。
そう言われてきい様は考えを変えた。急に穏やかな口調になると、おれの生死を賭けての多数決を提案した。
結果は圧倒的で、おれは命を救われたが、それで問題が解決したわけではなかった。この狭い島でずっとおれの存在を元締めや若い衆たちに隠しておくわけにはいかない。
そこできい様が知恵を絞った。元締めとの約束は子を産まないという事だ。
おれを産んだのはこの島の女ではない、おれは誰かが捨てた子供で海を渡って流れついたのを拾い上げた、それがきい様の考えた言い訳だった。
それからの数日間、女たちは夜になると代わる代わる森を訪れて大工仕事に精を出した。海から島へ、おれを運んで来た偽りの船を作るためだ。
なるべく古い木材を選んで完成させた揺り籠のようなその小舟はなかなかの出来ばえだったが元締めは疑わしそうな視線を船に向け、おれに向けた。
初めて見る元締めは、人間とは別の、なにか奇妙な生き物のように思われた。それは元締めの外見のせいというよりは、おれが誕生して以来、奴が最初に出会った男だったせいだろう。小太りで禿げ頭の、弛み始めた初老の皮膚に刺青を入れたその姿は今思えばそれほど異常というわけではなかったのだが。
うちに子供はいらない。
五十人だか百人だかの娼婦を前にして元締めはぼそぼそと呟いた。お経を読むような口調だった。
この島にやって来る客は普段の生活を忘れたいのだ、子供を見て女房の顔や家庭を思い出す客も多いだろう、そうなると客はしらけてしまって財布の紐を締めてしまう、この島は天国でなければならない、天国に子供はいらない、必要なのは天女だけだ。
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おれは便所の中で生まれた。まだ、水洗トイレなどなかった時代である。おれは汚水漕に糞尿を垂れ流すいわゆるぼっとん便所に産み落とされた。
もっとも時代に関係なく、あの島に水洗トイレが導入されるとは考えにくい。もしあの島がまだ存在するなら、きっと未だにぼっとん便所だ。
あの島の成り立ちについて、おれはほとんどなにも知らない。いつからあそこに人が住むようになったのか、原住民のようなものがいたのかどうか。島の大きさは二日もあればぐるりと一周できるぐらいで、住人の数は百人か二百人程度でそのほんどが女だった。そして女のほとんどは娼婦だった。
その他に知っている事と言えば、おれが生まれる前、島は漁師たちの遊び場だったことぐらいだ。昔は遠洋漁業で大儲けした漁師たちが札束をばらまいたものだ、と元娼婦で今は裁縫屋として娼婦たちに尽くす婆のひとりが言っていた。きっとすでに枯れ果ててしまったが、以前は島の近くに鱈やら鰊やらが捕れる豊かな漁場があったのだろう。懐にうなるほど札束を詰め込んだ漁師たちを目当てに娼婦たちが集まって自然と島に村が出来たのかもしれない。おれが生まれた頃は婆たちが懐かしむ好景気は終わっていたが、それでも女を求める本島の遊び人たちが行き来していた。
女が島の特産物だった。
本島からやって来るのは遊び人ばかりではなかった。女もまたやって来た。その全てがすでに娼婦か、これから娼婦になろうとする女だった。いずれにせよ本島では生きていけない暗い過去の持ち主だった。
女たちはまず元締めに面会し、娼婦としての契約を結び、村の長屋に部屋をもらった。契約といっても手続きはひどく簡単だった。元締めの前で全裸になり五体満足である事を証明する。それから勝手に島を出て行かない事、子供を産まない事、客と本気にならない事を約束する。要するに奴隷になると誓うのだ。その代わり元締めは女の生活と安全を保証する。客とのイザコザはもちろん、本島から追手があれば相手を殺してでも女を守る。
一度島の娼婦になれば皆同じような一生を送った。
数限りない客をとり、暇な時は島でただ一軒の居酒屋で仲間たちと卑猥な冗談を飛ばし或いは過去の思い出に涙を流し、女として使い物にならなくなると若い娼婦らの身の回りの世話をしたり百姓をしながら歳老いていく。ただし、これは途中で死ななければの話だ。病気になっても本島に送ってもらえる見込みはなくろくな治療は受けられない。自殺する者も多かった。
おれの母親もそんな娼婦のひとりだった。
信じられないかもしれないが、おれは女の腹の中にいた頃から目覚めていた。
激しい痛みが眠るおれの意識を覚醒させたのだ。暖かい羊水の中でとろんとしていた小さなおれに硬く冷たいものが噛みついた。そいつはおれの頭に齧りつきぐいぐいと引っ張る。おれをおれの場所から引き出そうとする。この時は分からなかったが母親はおれを堕ろそうとしていたのだ。
おれは余りの痛みに泣き叫びながら抵抗した。今にして思えば痛みに強いおれの精神はこの経験のおかげかもしれない。
おれはおれに襲いかかる様々な器具をかわしながら羊水の中を泳ぎ回った。どれぐらいの時間が経ったのかは分からない。羊水は再び穏やかに落ちつき、おれは痛みから解放された。だが、おれはこの時から眠るのを止めた。いつまた敵が襲って来ないとも限らない。柔らかな闇の中で、おれは敵の襲撃に備えて用心深く身構えていた。
やがて誕生の時が来た。これはどうしようもなかった。おれは本能的に外に出るのを恐れたが、女の体全体が誕生を命じ、この時は女とひとつだったおれの肉体も誕生を望んだ。暖かな世界が成長したおれを異物とみなして吐き出したのだ。
ひどい悪臭が鼻を突いた。胎内よりもさらに暗い。後で分かったのだがそこは便所の中だった。堕胎を諦めた母親はおれを便所に産み落として始末しようとしたのだ。
だが、母親はおれを知らなかった。すでに胎内で戦う事を学んだおれは母親の思惑を裏切った。
おれは便所の中で宙ぶらりんの状態だった。おれと母親はまだ臍の緒で繋がっていた。おれは小さな手で臍の緒を握って登り始めた。臍の緒などせいぜい五十センチぐらいのものだろう。だが、この時のおれにはとてつもない長さに感じられた。数メートル、いや、数十メートルはありそうだった。
おれは開いたばかりの目で頭上の光を見つめていた。遙か彼方でうっすらとした丸い光が滲んでいる。一瞬、その光の中に女の顔が現れた。逆光の中で表情の分からない黒い顔はおれを見降ろしすぐに消え、だが、女は臍の緒を掴んで股の闇からそれを引き出しさらに出し、何キロにも延びた道のりを、おれは腕に力を入れ脚を絡め、少しずつ光を目指して登って行った。誓ってもいいが、この時、おれの筋肉は覚醒したのだ。
トレーニングジムから帰宅するとクマルはまだ眠っていた。タオルケットを体に巻いておれが出掛ける前と同じ恰好で穏やかな寝息を立てている。おれは寝相のいい女が嫌いではない。野心のない感じがする。
四本のバナナと一緒に今日二回目のプロテインを飲み一階に降りた。
恐竜の化石の下に座りいつものように店番をする。店番ということはつまりなにもしないと言う事だ。おれが座る籐の揺り椅子は先代が愛用していたもので百八十キロを超えるおれの体重を支えてぎしぎしと軋む。だが、一度も壊れた事はない。古い物は信頼できる。今時の薄っぺらな物とは格が違う。おれもこうありたい、と思う。
おれは籐椅子を揺らしながら店内を見回す。気が向くと品物にはたきをかけたり乾いた布で拭いたりするが今日はしない。うちの商品はほとんどが家具、電化製品、そして衣類だが、中にはリサイクルショップに似つかわしくないものが混じっている。
もしかしたら先々代の頃、この店は質屋か骨董屋だったんじゃないだろうか。そうでなければ小判や外国製の古い懐中時計や縄文土器や掛け軸の説明がつかない。
ぼんやりしていると客が来た。鼻にピアスをした男だ。これを見て欲しいと両手に下げた紙袋を差し出す。ぎっしりと詰まった古着はほとんどが派手な柄のアロハだった。
「なぜピアスをしている?」客に訊ねた。
相手は目を見開いておれを見つめた。戸棚に妖怪でも見つけたような表情だ。
しばらく待っても返事がない。耳でも悪いのかと思い大声でもう一度繰り返した。
「なぜ鼻にピアスをしている? 親からもらった体に傷をつけてはいけない」
男はなにも言わないまま逃げるように姿を消した。紙袋を忘れている。
また、客が来た。今日は珍しく忙しい。今度のは中年の男だ。つまり、若造ということだ。
男はガムを噛みながら品物を見に来て欲しいと早口に言う。近々引っ越しをするので処分したいものが幾つかある、と。
「ガムを吐き出せ」おれは籐椅子の上で脚を組み直した。「人と話をする時にガムを噛むな」
男はおれと恐竜を見比べ、床にガムを吐いて外国人のように両手を広げて肩をすくめた。
「行くか」おれはゆっくりと腰を上げた。おれが立ち上がると丁度恐竜の頭蓋骨の下に頭が達する。「お前の住処を見てやろう」
男は指先で床のガムを拾い上げた。そして二歩三歩後じさりすいませんと頭を下げていなくなる。
電話が鳴った。篠原だった。店に着いた、と言う。そう言えば約束をしていたな、と思い出した。すぐに行く、と答えて電話を切る。
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平成ライダーシリーズでおなじみ脚本家・井上敏樹先生。その敏樹先生の新作小説『月神』をPLANETSチャンネルで週1回、集中連載中! 今回は第3回です。
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月 神
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おれの朝飯はいつもプロテインに決まっている。たっぷりのオレンジジュースに百グラムほどのプロテインを溶かして数種類のサプリメントと共に一気に胃袋に流し込む。普通なら一回に摂取するプロテインの量は三十から五十グラム程度で十分なのだがおれぐらいの巨躯になるとその倍は欲しい。筋肉の発達には大量の蛋白質が必要なのだ。
サプリメントはマルチビタミン、ビタミンC、ビタミンE、カフェイン錠、コラーゲン錠、ベータカロテン、テストロジャック、一酸化窒素ブースターが主だったところだ。テストロジャックには男性ホルモンを上昇させる様々な成分が配合され、一酸化窒素ブースターは血流をよくしてパンプアップを促進する。
パンプアップというのはウエイトトレーニングの際に筋肉が風船のように膨張していく現象だ。負荷を与えられた箇所の毛細血管に激流のように血液が流れ込み筋肉が膨らむ。これは一時的な現象でトレーニング後数時間で元に戻ってしまうのだが練習量を決める指標になる。パンプしないようなトレーニングでは意味がない。筋発達は望めない。
朝食を終えたおれは寝室に戻る。
雨戸が閉まっているので部屋は薄暗い。タオルケットを体に巻いてクマルはまだ眠っている。クマルはよく眠る。おれはよく眠る女が嫌いではない。放っておけばいいのだから楽でいい。
おれは蒲団の上であぐらを掻き床の間に飾った隕石を見つめる。握り拳ほどの物がひとつと喉仏ほどのものがひとつ。両方とも月の石だ。
大きい方のを頭に乗せておれは座禅を組んで瞑想する。宇宙空間の月から隕石を通して膨大なエネルギーが注ぎ込まれるのをイメージする。おれの体が光り始める。満月のように光り輝く。
おれは走ってジムに向かう。おれの店は商店街から大分離れた所にポツンと建っているのでご近所付き合いというものがない。だから走るおれとすれ違っても挨拶するものは誰もいない。寧ろ不吉な物と出くわしたように顔を背けて道を開ける。
昨夜クマルに友達を作れなどと言ったが、友人がいないのはおれも同じだ。ふと、篠原の顔が浮かんだが、奴を友人と言っていいのか微妙なところだ。奴は仕事のエージェントだ。無論、リサイクルショップではなく人殺しの方のパートナーだ。
おれは殺し屋という言い方が好きではない。人殺しと言う方がいい。殺し屋ではなにを殺すのか分からないし『屋』がつくとタコ焼き屋や豆腐屋のようになにかを売っているような感じがする。それが嫌なのだ。おれは人を殺す。だから人殺しだ。
三十分ほど走ってジムに到着する。ウォーミングアップには丁度いい時間だ。いい具合に体が温まっている。
おれは更衣室のロッカーに預けてあるサプリメントを使ってワークアウトドリンクを作る。クレアチンとグルタミンのパウダーをボトルに入れて水に溶かす。これを飲みながらトレーニングをすると疲れないし筋肉にいい。
エレベーターでジムに降りる。まだ時間が早いせいで利用者は少ない。数人のババアどもが柔軟運動をしたりランニングマシンで醜い贅肉を揺らしているだけだ。
おれはマシンを使わない。ダンベルやバーベルなどのフリーウエイトで鍛練をする。マシンだと窮屈だし物足りないのだ。
まず、ベンチプレスから始める。ベンチに横になりバーベルを握ってフックから外す。そのままゆっくりと降ろしていく。バーベルが胸に触れた瞬間一気にトップまで押し上げる。この動作を繰り返す。軽い重量から始めて最終的には三百キロまでもっていく。
四セット目になると筋肉が目覚め始める。負荷をかけられて大胸筋が喜んでいる。もっといじめてくれと騒いでいる。ざわざわしている。
セット間のインターバルにおれはおれの体を鏡に映す。全面鏡張りの壁に映ったその肉体は相当なものだ。ボディビルの大会に出てもきっといいところまで行くだろう。だが、まだまだおれの理想にはほど遠い。まだ『荘厳』という言葉が似合う域には達していない。おれは以前篠原と飯を食っている時、店のテレビで観たインドの寺院を思い出す。あれこそがおれの理想だ。その荘厳な存在感の前では人間などちっぽけな虫けらに等しい。
夜空に向かって真っ直ぐな道のように伸びる台形の本堂、本堂に縋りつくように寄り添う何本もの尖塔、寺院は隅から隅までびっしりと精緻な彫刻で覆われていた。無数の全裸の女神と動物たちが生の悦びを表して絡み合って踊っていた。そして夜空には月があった。
月に照らされ、光と影の狭間に聳える寺院は永遠のもののようだった。
おれはああいうものになりたい。あんな肉体を手に入れたい。そうなれば寺院で祈る人々が神と交合して震えるように、おれに抱かれて殺される奴らも喜悦とともに昇天出来るに違いない。もちろんそのためには月の協力が不可欠だ。月の光を浴びて初めておれの肉体は寺院と等しい威厳を帯びる。
おれはベンチプレスを繰り返す。すでにバーベルの重さは百五十キロに達している。バーベルシャフトが弓なりに撓る。だが、おれにとっては大した重量ではない。おれは百五十キロの鉄の塊を軽々と挙げる。ゆっくりと降ろす。
筋肉の発達には三つの要素が必要だとよく言われる。運動と休息と栄養だ。だが、おれに言わせればもっと重要なものがふたつある。素質と薬だ。
当然、おれは滅多にない素質に恵まれている。信じられないかもしれないがこの世に生まれ落ちたその時からおれの体は筋肉に覆われていた。今のように隆々たる鎧のようなものではなかったが、それでも鉄板のような筋肉がピンクの肌の下に張りついていた。だからこそおれは生き残る事が出来た。幼いおれに向けられた母親の殺意を跳ね返す事が出来たのだ。
薬というのはステロイドの事だ。おれはステロイドユーザーだ。人でありながら人を超えようとするならどうしてもこういうものが必要になる。しかもおれのように老境に入って久しければ尚更だ。ステロイドにも色々あっておれが使っているのは名前は忘れたが馬用のものだ。馬に有効ならば人間にはもっと劇的な効果があるに違いない。ステロイドは経口のものよりは注射の方が安全だし卓効がある。おれは尻に注射を打つ。おれの尻は注射ダコで石のように硬い。
ベンチプレスも八セット目に入って重量は三百キロに達している。これぐらいになるとバーベルをフックから外すだけでも気が抜けない。下手をすると重量に耐えかねてバーベルを握るグリップが崩れる。そうなると落下する三百キロの重さが凶器となって体を潰す。顔や喉を直撃されたらいくらおれでも命にかかわる。
普通の奴は万一のためにストッバーを使う。落ちるバーベルを受け止めてくれる安全装置なのだがおれには無用だ。緊張感がなくなるのが嫌なのだ。
重量がおれに襲いかかる。おれは骨と筋肉で対抗する。骨がぎしぎしと軋み緩衝材のぷちぷちが潰れるように筋細胞が破裂していく。おれは足を踏ん張り肩甲骨を寄せて胸を踏ん張り腕を直角に曲げている。その形を維持している。フォームの崩れは隙となってそこから重量が押し寄せる。おれを潰しに落ちてくる。正しい姿勢を保つ事は生き残る秘訣だ。乳首の位置で二秒ほどバーベルを維持してから全身に力を込めて押し上げる。大きく吸い込んだ息を止め、腰を浮かせえび反りになって押し上げる。頭に血が登って顔が膨張する。耳鳴りがする。眼球の毛細血管が切れて視界がピンクに染まっていく。
おれの尻は注射ダコでデコボコだが、他にも大小様々な傷跡が体中に残っている。
古い物は糞尿の匂い漂う生まれ故郷のあの島でつけられたものだ。最近のものも少なくはない。無意味な喧嘩に巻き込まれて受けた刀傷、また、抵抗する依頼者が残した刻印もある。依頼者の中には死を望みながら本能的に迫り来る死に抗って襲いかかって来る者がいるのだ。バーベルを握る手の甲にもその種の傷痕が残っている。これは篠原がつけた傷痕だ。奴が残した噛み跡だ。
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家に着くと裏口から店内に入り所狭しと並べられたガラクタを掻き分けるようにして階段を登った。
いつものようにクマルはまだ起きていた。
ご飯にしますかお風呂にしますかとおれを見て訊ねる。
風呂だ、と答えてTシャツを脱ごうとするが思った通り汗塗れの生地が体に絡みついて鬱陶しい。おれはTシャツを引き裂いてクマルに叩きつけた。クマルは顔を覆った黒いシャツを剥がそうとジタバタともがく。
おれは立て付けの悪い引き戸をぴしゃりと開け、タイル敷きの風呂場に立ち両腕を上げる。下着姿になったクマルが慌てて追いかけて来ておれの体を洗い始める。濡らしたヘチマにたっぷりの塩をかけて力を込めてごしごしと洗う。
思ったより時間がかかったな、とおれは思う。家に着くまで走り続けて四時間半はかかったはずだ。途中、若者たちとのいざこざがあったにせよ、それにしても長い。どうも最近体力が落ちているような気がする。やはり歳、という事だろうか。
しかも明日は満月だ。以前は満月が近づくにつれおれの体内に膨大なエネルギーが満ちたものだ。触れた者が痺れてしまうほど、湧き上がる生気が皮膚の表面にまで帯電していた。そういう感覚が、最近弱くなっている。
おれの全身を洗うクマルの息が上がり始める。分厚い唇の、歯並びの悪い口からぜえぜえと息を吐き、額に汗を浮かべている。手桶の湯で二度三度とおれの体を洗い流し、クマルが風呂場から出て行くと、おれは檜の湯船に身を沈めた。この家で、おれが気に入っているのは風呂場だけだ。檜の香りに包まれて湯の中で四肢を伸ばすとどんなに疲れていても癒される。
一階がリサイクルショップになっているこの家は一体いつ建てられたのだろうか。おれが客としてここに初めてやって来てから二十年か三十年か四十年になる。随分と昔の話だ。当時から今にも崩れ落ちそうなボロ屋だったがいまだにボロ屋のまま辛うじて家屋の態をなしている。
今ではおれがここの主人だ。この店はおれの物だ。おれは三年か五年か八年の間ここでバイトをしていたが、先代の主が死ぬ間際におれにくれた。だからおれの物だ。
この店にはなんの看板もない。ただ、ガラス戸を通して見える店内の様子からそれと知れるだけだ。店には様々な種類の家電やら衣類やらその他諸々の品物が無造作に陳列されているが、中でも一番目を引くのはやはり恐竜の化石だろう。チラノなんとかとかテラノなんとかとか先代が教えてくれたが正確な名前は忘れてしまった。もっとも先代も相当適当な奴だったからそれがあっているのかもわからない。とにかく恐竜だ。しかも全身の化石である。床から天井まで、尾骨、腰骨、脊椎と、一連の骨の連なりが小さな竜巻のようにうねっている。こちらを見降ろす巨大な頭蓋骨は耳まで裂けた口を開け、おれの頭など簡単に噛み砕けそうな無数の牙が並んでいる。
なぜこんな物がここにあるのかおれは知らない。一度先代に聞いてみたが、先々代の頃からあったそうで先代も詳しい事情は知らなかった。どうせ偽物だと思っていたが、以前、どこで噂を聞いたのかどこかの博物館の職員がやって来て隅々まで化石を検分し相当の値段を提示した事があったので、やはり本物なのだろう。これは売り物ではないと言って先代は交渉する暇すら与えずその職員を追い返したのだが。
最初、おれは客としてこの店にやって来た。当時のおれはつまらない仕事を首になりいつもすきっ腹を抱えていた。そこでおれの少ない所持品の中で最も高価な革ジャンを売ろうとここに来たのだ。
こんな物は売れない、と先代は言った。梅干しの種のように干からびて小柄な男だが容赦ない言い方だった。サイズがでか過ぎる、プロレスラーぐらいしか着る者はない。うちはリサイクルショップであって質屋ではないのでモノが売れなければ金は払えない。
それならばここで働かせてくれないか、とおれは頼んだ。もう丸二日もなにも食べていないのだ、と。
丸メガネ越しの上目遣いで先代はおれをジッと見つめた。その唇が少し笑った。
いいだろう、と先代は言った。今日から働け。
先代がああもあっさりとおれを雇った理由は分からない。もしかしたら力仕事なら出来ると思ったのかもしれないが、おれとしては先代がいつも口癖のように言っていた言葉の方を信じたい。
おれは物を見る目には自信がある。
先代は物を見るようにおれを見て採用を決めたのではないだろうか。そうだとしたらうれしいのだが。
最初は通いのバイトだったがすぐに住み込みで働くようになった。
三年か五年か八年後、先代は朝飯を食っている最中突然倒れた。そしてその日のうちにあの世に行った。
死ぬ間際にこの店をお前にやる、と先代は言った。
遠慮するな、全く遠慮していないおれにそう言って先代はおれの手を握り締めた。
ああ、とおれは答えた。「いただこう」
先代は先々代から、先々代は先々々代から店をもらった、だから気にするなと全く気にしていないおれに言い残し先代は息を引き取った。
そんなわけでこの店はおれのものなのだ。
湯船から上がると冷たいシャワーを浴びておれは脱衣場で腕を水平に上げた。
タオルを手に待機していたクマルが手早く濡れた体を拭いていく。それから化粧水をおれの全身に叩き込み、さらにボディクリームを丁寧に塗る。
おれの肉体は完璧だ。大きく膨らんだ筋肉を艶やかな皮膚が包んでいる。普通、歳を取るとどんなに鍛えている奴でも筋肉の維持は出来るが皮膚は無残に老化していく。皺が寄りシミに覆われて張りがなくなる。だが、おれの体は皮膚も筋肉もまだまだ若い。今、おれは老境にいるが、顔は壮年、体は青年のそれだ。これも日々のケアのおかげだ。車好きが愛車の手入れをするようにおれは肉体のケアを怠らない。
おれはおれという存在のピークを維持するためならどんな努力も惜しまない。先程は歳には勝てないなどと弱音を吐いたがトレーニングの量を増やし医療の力をうまく使えば問題なく取り戻せる。
おれの肉体へのこだわりは死にたい奴を殺してやるといういわば裏の稼業のためだ。おれは依頼者を出来るだけ鮮やかに、苦しませずに殺してやりたい。理想を言うなら恍惚感を与えてやりたい。たとえばあまりにも荘厳な寺院を前にすると、人は畏怖と恍惚を覚えるだろう。おれはそんな寺院のような存在でありたい。そのためには圧倒的な肉体と人間離れしたパワーが必要なのだ。おれが殺す相手の前立腺を刺激して性的快感を与えるのはいわば保険のようなものだ。死に対する恐怖を拭えない者への、ささやかな気づかいというわけだ。
おれの肉体へのこだわりにはもうひとつ隠れた理由がある。
クマルのためだ。クマルはおれの体を愛している。
ふたりが愛し合う時、クマルはおれの筋肉のひとつひとつを撫でて噛んで舌を這わせる。そうして股の間から汁を流す。
クマルがうちに転がり込んで五年か十年か十五年になるがおれの本当の歳を知らない。一度も聞かれた事がないから歳などどうでもいいのだろう。そんなクマルのためにもおれはおれのままでいてやりたい。ずっと今のおれのままで。
おれの体を拭き終えたクマルが夕食の支度に戻っていくとおれは夜の生活のための準備を始める。
洗面台の棚から薬瓶を取り出し手のひらいっぱいのバイアグラを口に放り込んでかみ砕く。水道の水を何杯も飲む。大量の水を飲む事も肉体の維持には必要なのだ。
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2015.8.31 vol.399
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平成仮面ライダーシリーズでおなじみの脚本家・井上敏樹先生。その敏樹先生の新作小説『月神』を、PLANETSチャンネルで本日より週1回、集中配信します! 『仮面ライダーアギト』『555』『キバ』といった平成ライダーシリーズ、さらには昨年発表の書き下ろし小説『海の底のピアノ』を経て敏樹先生が切り拓いた新境地とは――? 今回は連載初回につき、全文無料での公開です。(※毎週月曜日はハングアウト書き起こしを配信していますが、本日は予定を変更してお届けします。ハングアウト書き起こしは今週水曜に配信予定です)
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俳優・山本匠馬さんの素顔に迫る! 「饒舌のキャストオフ・ヒーローズ vol.1」
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月 神
1
おれは春が嫌いだ。ぬるい。夏が嫌いだ。うだる。秋が嫌いだ。沈む。冬が嫌いだ。痛い。なぜこの世には四つの季節しかないのだろう。おれには住むべき季節がない。
今は夏だ。おれはひどい汗かきなので、ぐっしゃりと汗を吸ったTシャツが痛いくらいに体を締めつけている。おれは家に帰ってシャツを脱ぐ時の事を考えてうんざりした。きっと濡れた生地が体に絡みついて苦労するに違いない。最後にはシャツを引き裂いて床に叩き付けることになるだろう。
せめてもの慰めは空に月が出ている事だ。このマンションの屋上からは満月に近い月がよく見える。おれは月が好きだ。きっと月には春でも夏でも秋でも冬でもない未知の季節が存在する。おれに優しい季節だ。
目の前の男はずっと身の上話を続けている。屋上のフェンスに寄り掛かり膝を抱えて座ったままなぜ死にたくなったのかを低い声で時々涙を拭いながら訴えている。男はもう若くはない。頭の頂点が白いのは髪を染めた色が抜けかけているからだ。薄汚れた白いワイシャツの腹の所には黄色い吐瀉物が染み込んでいる。おれと会う前にいやというほど酒を飲んだのだろう。考えてみればこの男はおれと同じだ。この男にも住むべき季節がなかったのだ。月に生まれていればもしかしたら別の人生があったかもしれない。
男は指輪をしていない。だからと言って独身とは限らないが、おれはそうあって欲しいとふと願った。男が死んだ後の家族の悲しみを想像したからだがすぐにそんな気持ちを否定した。おれには関係のないことだ。
おれは男から目を離してもう一度月を見上げた。日本では月の表面に餅を搗く兎が見えるという。その他にも外国ではバケツを運ぶ少女や本を読む老婆や吠えるライオンを見るらしい。だが、いくら凝視しても想像力の足りないおれにはなんの映像も浮かんで来ない。おれは月に物語を読める奴らが羨ましい。そういう奴らはおれよりも月に近づいているのではないだろうか。
おれは生まれてから一度も本を読んだ事はないが竹取物語ぐらいは知っている。まだあの島にいた頃、月ばかり見上げている幼いおれに誰かが話してくれたんだろう。話してくれた相手は覚えていないが物語の内容ははっきりと記憶に残っている。まあ言うまでもないだろうが、昔々貧乏な老人がいて竹を切っていると中から小さな女の子が現れて、老夫婦に育てられた女の子は成長してとてもきれいな女になるが数人の鬱陶しい求婚者共を惨殺して大勢の役人たちに追われるものの最後には月からお迎えが来て天空に消える、そういう話だった。
その話を聞いて以来、頭の悪いおれは夜な夜な鉈を手に島の竹林に行っては竹を切った。もちろん小さな女の子を探すためだ。だが、当然、女の子などいるはずもない。いくら切っても竹の中身は空っぽだった。いや、一度だけ、奇妙な体験をした事がある。いつものように竹を割り続け疲労困憊したおれはこれが最後の一本と決めて振り上げた鉈を叩きつけた。中を覗くとなにやら黒いものが入っている。引っ張り出してみるとそれは一匹の鼠だった。おれにはわけが分からなかった。いまだに全く分からない。密閉状態の竹の中にどうやって鼠が入ったのか。おれは鼠を掌に乗せて顔を寄せた。死んでいるのか眠っているのかそいつはぐったりと動かない。おれは黒い毛並みを指先で撫で、それからギュッと握りしめてから放り出したが、そいつは地面に落ちた瞬間一度大きく飛び跳ねるとそのままどこかに姿を消した。
足元でライターの擦過音がする。
身の上話を終えた男が座った姿勢のまま煙草に火を点けようとしているが南からのなまぬるい風のせいが手が震えているためかうまくいかない。
おれは男の正面にしゃがみ込んだ。おれを見る男の瞳がぎゅっと小さく縮まるのが分かる。怯えているのだ。気持ちは分からないではないがこれはおかしな話だ。おれは相手にどんな感情も抱いていない。殺意もない。死を選んだのは男自身なのだ。だから怯えるならばおれに対してではなく自分自身に怯えるべきではないだろうか。
おれは男の手から百円ライターを奪い取り煙草に火を点けてやる。
男は二度三度大きく煙草を吸いよろけながら立ち上がると街の明かりを見降ろし月を見上げた。地上からの熱波となまぬるい風のせいで街の明かりがゆらゆらと揺れ、物語の読めない月がクリスタルのように澄み切った光を放射している。きっと明日も晴れだろう。
「どうする?」男に訊ねた。「死ぬか?」
男は煙草の空き箱を握り潰した。屋上の外に投げ捨てた。頷いて笑った。
なまぬるい風が熱風になる。
おれは男を殺した。投げ捨てた。
2
おれはマンションの屋上からエレベーターに乗り一階に降りた。エントランスを抜けて外に出ると女の悲鳴と人々のざわめきが聞こえて来る。きっとおれが投げ捨てた男の死体が発見されたのだろう。男は体のどこかに拇印の押された遺書を身につけているはずだ。それがおれの仕事の条件だからだ。遺書のおかげで男の死は自殺として処理されることになる。まあ、遺書などなくても自殺には違いないのだが。仕事をするにあたっておれは依頼者にふたつの条件を出す。遺書を書くこと、それからもうひとつ、おれに身の上話を聞かせる事だ。
もう一度女の悲鳴と誰かの叫び声が聞こえて来る。おれはその場から遠ざかるように道路を反対側に歩き始めた。
おれには死体のひとつやふたつで大騒ぎする奴らが理解できない。知的障害者なのだろうか。この世は死で溢れている。生は死の海に浮かぶ泡のようなものだ。おれはその事をよく知っている。母親の腹の中にいた時から知っている。
死を想わぬ者、死を知らぬ者はきっと催眠術にかかっているのだ。この街が、いやこの世界全体が巨大な催眠マシーンだ。絶え間ない騒音、街の明かり、コンクリートや鉄骨やガラスのきらめきに騙されて、人々はなまぬるい幻想に生きている。
おれはゆっくりと夜の街を走り始めた。おれが電車や車を利用する事は滅多にない。人間には足がある。だからどこかに行きたければ歩くか走るかすればいい。簡単な事だ。今度の仕事の場所は家から走って四時間ほどの距離だったからうまくいけば午前二時には帰宅できる。
おれの前方斜め上には澄み切った月が懸かっている。おれは月に向かって走るのが好きだ。すうっと体が浮かび上がって月に吸い込まれて行くような気がする。車や電車ではこうはいかない。
都会の催眠術から離れ真実に生きたいなら月の光に頼る事だ。月の光だけが物事の真実を暴き出す。あの島にいた頃、おれは月光に照らされた樹々がまるでレントゲン写真のように透き通っていくのを何度も見た。透明な幹の中を幾状もの樹液の流れが上昇し、枝葉の隅々にまで循環していて、樹全体が内側からぼんやりと青く発光していた。おれは知っている。あれが樹というものの本当の姿なのだ。
樹、だけではない。月の光は人間の真実をも暴き出す。街灯ひとつないあの島で見る女たちの姿は昼間とはまるで違っていた。愛想のいい顔が月光を浴びて悲しみに爛れ、無表情な顔が怒りの炎に燃え、また、無邪気な顔に底知れぬ絶望の穴が開いていた。
三十分ほど道路を走り、自宅を目指して南に曲がった。いつまでも月に向かって走るわけにはいかない。さらに十五分ほど走ると繁華街に出る。高層ビルが月を隠した。
テイクアウト専門のお好み焼き屋の前で三人の若者が肥満体の男をいたぶっていた。
若者たちの意味不明の怒声が響き渡り、店の窓口から髪を引っ詰めにした若い女店員が事の成り行きを見守っている。その顔は『お好み焼き』と書かれた提灯と同じくらい無表情だ。
肥満男は路上に倒れ、体を丸めて頭を両腕で庇っていた。タンクトップの若者たちは贅肉の揺れる男の腹を蹴り、踏みにじり、唾を吐いた。男の白いTシャツに点々と血痕が散り、股間は小便で濡れている。
通行人たちは何事もなかったように通り過ぎる。或いは、安全な距離を保って事態を見守る。
おれはその場を走り過ぎようとして立ち止まった。暴行を続ける若者たちの足元に包装紙に包まれたお好み焼きが落ちている。
おれはお好み焼きを拾い肥満男を蹴り続ける若者のひとりに歩み寄った。
「これはお前のか」若者に言った。「食べ物を粗末にしてはいけない」
若者が振り向き、おれを見上げる。その顔が一瞬、きょとんとなり、すぐに凶悪なものに歪んでいく。
なんだテメェ関係ねぇやつは引っ込んでろ。
おれは相手の顎を掴み強引に開かせた口にお好み焼きをねじり込んだ。
「食べ物を粗末にしてはいけない」
喉を詰まらせたそいつは胸を叩きながら胃袋の中身と一緒にお好み焼きを吐き出した。他のふたりがおれの方に近寄って来る。どの目もどこかとろりとしている。こいつらはなにかに酔っているに違いない。酒か、クスリか。普通なら二メートルを越える身長に筋肉の鎧をまとったおれに逆らう奴は滅多にいない。
消えな、おっさん、怪我するぜ。
ひとりが言う。
「おっさん? 幾つに見える?」おれが訊ねる。
先程まで走り続け大きく上がっていたおれの心拍数が急速に下がっていく。
「幾つに見える?」おれは質問を繰り返す。
若者のひとりがローキックを放った。おれは脚を外側に開いてその蹴りを膝で受ける。相手の脛がほぼ直角に折れ曲がり若者は膝を抱えて路上に転がる。
おれはおれの質問に自分で答える。若者たちにおれの歳を教えてやる。おっさん、などと呼ばれるほど若くない。おれは歳よりずっと若く見えるのだ。
三人目の若者がお好み屋に走り込み、包丁を手に戻って来た。タンクトップの二の腕に青い龍の刺青が見える。こいつも催眠術にかかっている、とおれは思う。この街の、この世界の催眠術にあきたらず自分で自分に催眠術をかけている。
おれは人を殺す際、時に相手の肛門に指を入れる。そうして前立腺を刺激して束の間の快感を与え相手が射精した瞬間に首を捻じって骨を折る。だが、おれが目の前の若者を殺す事はない。おれが殺すのは死にたがっている者に限られている。
若者は包丁を頭上に構えて突っ込んで来た。
おれは振り降ろされる包丁の軌跡を読みながら手拍子を打つように両手をぱんっと打ち鳴らした。同時に真っ二つに割れた刃が甲高い音を立てて地面に落ちる。
それで、終わった。戦意をなくした若者たちは逃げる事も出来ず両腕をだらりと体の前に垂らして立ち尽くしている。脛を折られた奴だけが相変わらず路上を転がり呻いていた。肥満体の男の姿はすでにない。お好み焼き屋の女の顔は同じままだ。提灯と同じように無表情だ。おれは呻き続ける若者に近づき脛を元の形に戻してやる。足を引っ張り手を放すと、カチリと音がして骨が繋がる。三カ月もじっとしていれば治るだろう。
おれは軽くその場でジャンプして再び走り始めた。遠巻きの野次馬たちがおれのために道を開ける。早く家に帰りたかった。家に帰ってゆっくり風呂に浸かりたかった。(続く)
▼執筆者プロフィール
井上敏樹(いのうえ・としき)
1959年埼玉県生まれ。大学在学中の81年にテレビアニメの脚本家としてのキャリアをスタートさせる。その後、アニメや特撮で数々の作品を執筆。『鳥人戦隊ジェットマン』『超光戦士シャンゼリオン』などのほか、『仮面ライダーアギト』『仮面ライダー龍騎』『仮面ライダー555』『仮面ライダー響鬼』『仮面ライダーキバ』など、平成仮面ライダーシリーズで活躍。2014年には書き下ろし小説『海の底のピアノ』(朝日新聞出版)を発表。
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