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記事 9件
  • ユートピアの終焉――あだち充と戦後日本社会の青春 第9回 劇画という〈父〉からの決別(前編)

    2019-09-18 07:00  
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    ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉――あだち充と戦後日本の青春」。第9回では、『ナイン』の内容について論じます。久々の少年誌への復帰で肩に力が入ったせいか、劇画時代の作風が抜けきらなかった第一話。しかしそこには、あだちが長年向き合ってきた「父なる存在」としての劇画への、あるメッセージが込められていました。
    「ほんとうのデビュー作」とあだち充自身がインタビューで語る漫画『ナイン』は、彼にとっても原作付きではない初のオリジナル連載作品となった。本来ならば一話だけの読み切りで終わるはずが、運命のいたずらかのように二回目の予告が雑誌に載ることとなった。 あだち充は第一話では肩に力を入れすぎていたことと、原作付きの劇画を描いているようなやり方になってしまったことを反省し、おまけの第二話は「やりたいようにやろう」と決意した。あだちは少女コミックで描いていたネームの作り方で第二話を描きあげた。その第二話は掲載された号の読者アンケートでいきなり一位になる。そのまま月一回の連載が開始され、デビューしてからずっとヒット作に恵まれなかった男は、この作品でブレイクしていく。 『ナイン』という漫画は、その後のあだち充作品の土台(ベース)となった作品としても読むことができる。今回は『ナイン』という、あだち充にとって初のオリジナル長編連載作品における、キャラクターや展開などを取り上げていく。
    「処女作には、その作家のすべてが出揃っている」などと言われることがある。皆さんも一度は聞いたことがあるだろう。実際、創作者の多くにそれは当てはまると私個人も感じる。ひとりの創作者が作り続けるテーマは、処女作や世に出た時の作品にすでに宿っている。そして、そのテーマを様々な角度から見つめて、削り出し、解釈しながら作り続けていくのが創作という行為ではないだろうか。 創作における進化とは螺旋階段を上っていくようなものであり、ひとつのテーマや関心のあるできごとが地の奥から宇宙の先へとまっすぐと伸びている。その周りにある螺旋階段をぐるぐると回りながら上へ上へと向かう。 ひとりの創作者が作る、向かい合うテーマは限られている。だからこそ、多くの創作者が必要になる。同じようなテーマでも個人ごとに向かうべき場所は違っていて、ある潮流が起きるときには同時多発的に複数で現れてくることもある。しかし、その先は本来それぞれ違うものであるはずだ。 表現の自由や創作における多様性を担保するためには、多くの創作者が個々の向かい合うテーマに向き合うことで、自分だけではなく他者やライバルを鼓舞しながら、自分の階段を上り続けるしかないのではないだろうか。
    「劇画」という象徴的な父の呪縛
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  • 碇本学 ユートピアの終焉――あだち充と戦後日本社会の青春 第8回 『ナイン』の成功と6人の編集者たち(後編)

    2019-08-06 07:00  
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    ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉――あだち充と戦後日本の青春」。第8回では、『ナイン』『みゆき』のヒットで時代の寵児となりゆく時代のあだち充を論じます。少女漫画誌で培った「力を抜いた」作風が、80年代目前の時代の空気と同調し、売れっ子作家になりつつあったあだち。その頃、少年サンデーでは、もうひとりの天才漫画家がデビューしていました。
    『ナイン』を担当することになった編集者たちが繋いだもの
     佐藤から藤本にバトンタッチされた一回読切の野球漫画だった『ナイン』は、少年サンデー増刊1978年10月号に掲載された。しかし、せっかくの復帰となった作品だったにも関わらず、肩肘の力が抜けていない作品となってしまった。佐藤が期待していた日常的であり、等身大の恋愛を描くという野球漫画にはならなかった。このことについてあだちは「少女誌でやっていたような気分では描けずに、少年誌にいた頃のような絵柄に戻ってしまった」「少年誌はこうあるべきという叩き込まれていたものが漫画に出てしまった」と回想している。  ここでも運命のいたずらが起こる。校了紙を読んだ編集長の反応はまずまずで、読者アンケートの結果は真ん中程度のものだった。その結果を見た編集長は、「あと一回な」と藤本に告げる。にもかかわらず、掲載号にはすでに次号予告に『ナイン』が載っているという事態が起きていた。なにが起きていたのかは佐藤が証言している。
    「ミスです(笑)。ただ、表紙の校了のほうが、次号予告の入稿より先でした。だから、編集長が表紙の入稿から校了の間に、原稿を読んで気が変わったんです。『これなら続けてもいいな』って。思えば不思議と編集長に、何度も『ちゃんと野球やらせてるよな』って言われてました」
     正直、やっちまったという気持ちがあったあだちに、二回目の掲載の話が藤本から告げられる。同時に「あと一回しかないかもしれない」という雰囲気を悟ったのか、あだちはこう証言している。
    「最初、2話目を描くつもりは全然なかったんです。だから2話目の話があった時、ここからはオマケだから好きにやろうと思いました。1話目から出てくるのちにエースになる倉橋永二なんて、まったくの別のキャラになりました。  1話目は、かなり気負ってた雰囲気が絵に現れてますね。2話目にあれだけ力を抜いて描けたのは、我ながらさすがだと思う。あの開き直りがあだち充です。」
     担当だった藤本も、第一話と第二話はキャラクターもタイトルも同じなのに全く違う、ある意味では別に作品になったと語っている。あだち節とも言える、肩の力を抜いて本領を発揮した第二話では、なんとアンケートの一位になる。ここであだち充の不遇の時代は終わったと言っていい。
    「そして第2話が掲載されると、ウケたんですよ。あんな適当なものが。自分でもビックリしちゃった。  第2話のネームは『少コミ』でやっていたやり方です。少年誌をまったく意識していなかった。その時代、少年誌でこんなことを描いている漫画家はいなかったから、新鮮に映ったんじゃないかな。実際のところは僕にはわからないけど、異常なウケ方をしてしまったんで、そこからは調子に乗りました。  少年誌の読者も少女誌を読んでたから、読者はもう育っていたんだろうね。でもまだ少年誌が、そういう読者に必要な漫画を用意できてなかった。  そこからはもう、連載終了まで好き勝手にやらせてもらいました。 「ナイン」が、それまで漫画を描いてきた中で、いちばん楽しかった。読者の反応や手応えがダイレクトに伝わってきたから。少年誌読者も、ちゃんとこういう漫画を読んでくれるんだという事実が衝撃でした。上のオジさんたちは、当時の若者たちが何を求めていたのか、その変化について、まだ気づいていなかった。そんな「しめ、しめ」のタイミングだったことに感謝です。  今描いてるような、物事を省略した不親切な描き方をしても、読者のほうが行間の読み方をちゃんとマスターしていました。昔は編集者から散々、「ちゃんと説明しなきゃダメだ」と言われていたけど、それをやるといろんなことが面白くないと思ってたから。  今回は読者を信用して、きっとわかってくれるはずと開き直って描いたら、伝わった。僕自身は全然変わらなかったのに、時代が変わってたんです。」
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  • 碇本学 ユートピアの終焉――あだち充と戦後日本社会の青春 第7回『ナイン』の成功と6人の編集者たち(前編)

    2019-07-17 07:00  
    540pt

    ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉――あだち充と戦後日本の青春」。第7回では、少女漫画誌から少年サンデーへの復帰、そして『ナイン』でブレイクを果たすまでの時期を語ります。才能はあれど時代に歓迎されなかったあだち充。そんな彼を粘り強く支えたのは6人の担当編集者たちでした。
    あだち充の本当のデビュー作
     1970年にデラックス少年サンデーにて『消えた爆音』で漫画家デビューしていたあだち充は、編集者の異動もあり少女誌の少女コミックに活躍の場所を移していた。70年代初頭から中盤にかけて劇画漫画は、学生運動の下火とともに、次第に人気や勢いに陰りが出てきていた。もともと劇画とは肌が合わなかったあだち充は、少女コミックで連載している萩尾望都や竹宮惠子たち「花の24年組」の自由な作風や活躍を見ながら、自分のやりたかったことを少しずつながら表現できるようになってきていた。  少女漫画誌で活動していたあだち充に、少年漫画誌に復帰する話が出たのは1978年だった。漫画家としてデビューしてから8年、原作付き漫画やコミカライズ、学年誌に漫画を描いていたあだちにとって、漫画人生を変える作品が掲載されることになる。  少年サンデー増刊1978年10月号に掲載された『ナイン』は、1980年11月号まで2年間続く。これはあだち充の本当の意味でのデビュー作であり最初のヒット作になるのだが、実は当初、一話だけの読み切りという話だった。なぜ、読み切り作品が月刊連載になり人気作になっていったのか。また、なぜあだち充に少年漫画誌への復帰の要請があったか。その理由は、当時の少年サンデーが抱えていた問題によるものだった。  今回取り上げる『ナイン』という、あだち充のその後の作品の原型とも呼べる漫画は、様々な要因が重なったことで生まれたものだった。その中でもやはり重要なのは、あだち充の担当編集者たちではないだろうか。あだち充の最初の教育者でありずっと面倒を見続けた武居俊樹から、『ナイン』最終回を担当した白井康介までの6人の編集者たちについて時系列で知ることで、ブレイクの理由がわかるのではないだろうか。
    ▲『ナイン』
    ヒット作の出ない漫画家・あだち充を支えた編集者たち
     あだち充の初代担当編集者である武居俊樹については以前の連載でも触れているが、もう一度書いておこう。武居は赤塚不二夫番として有名な漫画編集者であり、著書に『赤塚不二夫のことを書いたのだ‼︎』(文春文庫、解説はあだち充の原作をやっていたやまさき十三)がある。あだち充の兄・あだち勉は「赤塚四天王」と呼ばれていて、公私ともに赤塚に可愛がられた人物だった。また、武居は赤塚から紹介された漫画家の石井いさみと意気投合し仲良くなっていく。その石井の元で、高校を出てから兄と同居をしながら漫画デビューを目指していたあだち充が、アシスタントをしていた。 「俺のところに長くいたら、俺の悪い癖がついちゃうから独立させたほうがいい。武居さんに任せる。絵は描ける。しかも、ちゃんと女を描けるから」と石井からあだちを紹介された武居は、あだち充の絵を見た瞬間に決めたことがあった。
    「こいつだよ。こいつが『サンデー』のエースになる!」
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  • 碇本学 ユートピアの終焉ーあだち充と戦後日本の青春 第6回 あだち充と少女漫画の時代(後編)

    2019-06-11 07:00  
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    ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉――あだち充と戦後日本の青春」。第6回では「花の24年組」以降を追いかけます。萩尾望都らのSFが少女漫画で隆盛する一方、少年漫画のSFは衰退。『仮面ライダー』と永井豪にその可能性が継承されます。そして、コミックマーケットの開始、耽美系雑誌JUNの創刊など、現在に繋がるオタク文化の土台が着々と準備されていきます。
    SFの衰退と特撮の隆盛
     萩尾望都、大島弓子、竹宮惠子という「HOT時代」あるいは「別コミマニア御三家」と呼ばれるスター少女漫画家と、彼女らを含む「花の24年組」が時代を変えていくのと同時に、70年代は少女漫画の読者層にも大きな変化が起きていた。彼女たちによって拡大された少女漫画の世界は男性の読者も増やすことになった。これは彼女たちが描く作品が、歴史ものだったりハードSFだったりすることも、要因のひとつになったかもしれない。  米澤嘉博著『戦後SFマンガ史』によれば、70年代に入って少年サンデー、少年マガジンから長篇SFマンガが消えたのは、少年SFマンガに好意的だった週刊ぼくらマガジンが休刊したためだという。以降は少女漫画で描かれるSFに多くの男性読者が惹かれていくことになるが、少年漫画は最後に二つの道(可能性)を残したと語っている。
     そのひとつが、現在まで特撮番組として続く石ノ森章太郎『仮面ライダー』だ。漫画で発表されてすぐにテレビで特撮番組として大ヒットし、「変身ヒーローもの」のブームを作り、後の低年齢層向けの特撮作品のパターンを生み出すことになった。ある意味ではこの作品が、少年SF漫画の最終段階だったと語っている。  宇野常寛著『リトルピープルの時代』の第二章「ヒーローと公共性」に書かれていることもここに結びつくだろう。この章では「ビッグ・ブラザー/リトル・ピープル」とは「ウルトラマン/仮面ライダー」であり、それぞれ「60年代/70年代」に社会現象化することで、国内のポップカルチャー全般に決定的な影響を与え、前者は「政治の季節」、後者はその終わりに誕生していたことに言及している。 「政治の季節」の終わりが明確になっていた1971年4月2日、『ウルトラマン』『ウルトラセブン』に続く待望のシリーズ最新作『帰ってきたウルトラマン』の放映が始まり、その翌日に放映がスタートしたのが『仮面ライダー』だった。  仮面ライダーの主人公である本郷猛は改造人間であり、彼を改造したショッカーは世界征服を企む悪の秘密結社である。仮面ライダーは人々の自由のために悪の力を用いてショッカーと戦うヒーローだった。一方、ウルトラマンにおける巨大ヒーロー、宇宙人や巨大怪獣は事実上、「軍隊」の比喩として機能していた。これらは脚本家や製作者たちが戦争の体験者だったことも多く関係していた。
     当初、週刊ぼくらマガジンで石ノ森章太郎が連載していた漫画版『仮面ライダー』は、バッタの改造人間である仮面ライダーが象徴する「正しい自然」と、ショッカーの「誤った科学」の対立といった文明批評的なモチーフが前面に押し出されていた。テレビ版の第1クールでは、異形の存在に改造された本郷猛の孤独な生をめぐる葛藤が物語を牽引していたが、本郷猛を演じていた藤岡弘のオートバイ事故による一時降板を機会に、石ノ森章太郎の原作を引き継いだシリアス路線を早々に放棄し、新主人公である一文字隼人(仮面ライダー2号)を迎えた第二クールは、勧善懲悪の娯楽活劇が全面展開された。また、『ウルトラマン』は戦意高揚映画をルーツに持っていたが、『仮面ライダー』は時代劇、浅草東映のチャンバラ映画をルーツに持つという、宿命的に非政治的な存在であった。  突然起きた主役の降板劇を発端にした、シリアス路線から子どもにもわかりやすい勧善懲悪への転換が、現在まで続く長寿番組であり、変身ヒーローものを牽引する特撮の代表作が生まれたきっかけだと考えると、歴史というものはやはりおもしろく、不思議な運命を感じずにはいられない。
    ▲石ノ森章太郎『仮面ライダー』
     もう一つの可能性は、永井豪による「『ガクエン退屈男』で物語のダイナミズムを主人公の早乙女門戸の闘争エネルギーをにおわせた『魔王ダンテ』だ」と米澤は書いている。補足すると石ノ森章太郎『仮面ライダー』も永井豪の2作品も、週刊少年マガジンの弟分として刊行されていた週刊ぼくらマガジンで掲載されていた。当時の週刊少年マガジンは大学生に読まれるほど高年齢化が進んでいたために、週刊ぼくらマガジンは低年齢層向けの雑誌として発行されていた。  週刊ぼくらマガジンでは、梶原一騎『タイガーマスク』、さいとう・たかを『バロム・1』、吉田竜夫『ハクション大魔王』、赤塚不二夫『天才バカボン』、藤子不二雄『モジャ公』、ちばてつや『餓鬼』などが連載されていたが、創刊された1969年から一年半で『週刊少年マガジン』に統合される形で廃刊となった。  永井豪が描いた『ガクエン退屈男』『魔王ダンテ』は、後の『デビルマン』に繋がっていくが、それは神と悪魔の立場を逆転させた暴力や殺戮を描くことになり、少年SF漫画とは多く違う方向性を持っていた。  この頃の男性SFファンが漫画に求めていたSFは、もはや少女漫画の中にしか残されていなかった、引き継がれていなかったという見方ができるかもしれない。
    ▲永井豪『ガクエン退屈男』『魔王ダンテ』
    コミケと「やおい」のはじまり
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  • 碇本学 ユートピアの終焉ーあだち充と戦後日本の青春 第5回 あだち充と少女漫画の時代(中編)

    2019-05-07 07:00  
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    ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉――あだち充と戦後日本の青春」。第5回では「花の24年組」を代表する漫画家、萩尾望都と竹宮恵子を取り上げます。1970年代、二人が「少年」という主題を持ち込んだことで、少女漫画は飛躍的な発展を遂げますが、そこには戦後サブカルチャーに伏流する「成熟」の問題の萌芽が、すでに現れていました。
    「花の24年組」とは何だったのか
     週刊少女コミックで漫画を描いていた当時のことを、あだちは次のように語っている。
     竹宮恵子さんの『風と木の詩』をはじめ、かなり革新的な漫画が載ってて面白い雑誌だったんだよ。掲載されてる連載はほとんど読んでた。 (中略)  少女漫画は読切が多かったから、漫画家はいろんなことに挑戦していた感じがします。少年誌は「こうあるべき」という決まりが多くて、少女漫画のほうが圧倒的に自由だった。  まあ、自由にしてくれたのは、「花の24年組」の人たちがいたからなんだけど。それ以前の少女漫画はお涙頂戴みたいな話ばかりだったのが、24年組の登場でシーンがガラッと変わったんだよね。少年誌はそういう変革が遅れていたんだと思います。 (中略)  当時の少女漫画はセールスより作家性を重視していたと思う。それはやっぱり大きいことだよね。漫画家になってからは、少女漫画からの影響のほうが大きかったかもしれない。
     また、週刊少年ジャンプの黄金期を作り、のちに編集長になった鳥嶋和彦(鳥山明『Dr.スランプ』のDr.マシリトのモデルとしても知られる)も、当時の少女漫画に関してこのように言及している。
     ある時、ふっと資料室を見回したらジャンプ以外の漫画雑誌が置いてあったので試しに読んでみると、面白い漫画もいくつかあるなと思いました。竹宮惠子さんの『風と木の詩』とか萩尾望都さんの『ポーの一族』とかね。漫画はいろんなテクニックやバリエーションもあって、意外と面白いと感じたのです。でもその中のごく特殊な「偏った形の漫画だけがジャンプにある」と感じました。 (『Dr.スランプ』で「マシリト」と呼ばれた男・鳥嶋和彦の仕事哲学【前編】)
    「花の24年組」の漫画家たちの作品にはセリフだけではなく、内面のモノローグ、複雑な画面構成やデザインのようなコマ割り、枠外にも言葉が書かれるなど、それまでにはないものがあった。
    萩尾望都 私は子どもの頃、石森さん、手塚さん、水野英子さん、牧美也子さんたちのマンガを読んで育ったでしょ。この方たちのマンガは、コマの一つ一つが映画的だったんですよ。視野がものすごく拡がるんです。つまり、視点が遠くまであるんです。この拡がりが好きで、これがテレビなどが出てきたせいもあるのか、ある時期から少女マンガが構図的にアップが多くなってしまって、視野の拡がりみたいなものがなくなってしまったんです。私は、ずいぶん画面が窮屈だなと思いながら、長いこと読んでいたんです。それで、視点の遠いのを描きたいなあっていう願望が、少年マンガを描く際に根本にあるものだから、なんとか画面を広く持ったものを描きたいんです。 (『萩尾望都対談集 1970年代編 マンガのあなた SFのわたし』石ノ森章太郎との対談より)
     萩尾望都たちの世代からすると、幼少期から先行する女性漫画家はさほど多くなかった。彼女たちは手塚治虫や石ノ森章太郎などを読んで衝撃を受けており、無意識に描いた絵やコマなどが、彼らの漫画にあったものと似ている部分があるとも発言もしている。また、少女漫画の読者が少女であったにも関わらず、彼女たちは一度は「少年」が主人公の漫画を描いているという共通点もあった。
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  • 碇本学 ユートピアの終焉ーーあだち充と戦後日本の青春 第4回 あだち充と少女漫画の時代(前編)

    2019-02-21 07:00  
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    ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉――あだち充と戦後日本の青春」。劇画全盛の時代に適応できず、少女漫画誌へと移籍したあだち充ですが、週刊少女コミックは偶然にも、一時代を築いた大御所たちと才能煌めく若手作家たちが交差する場所でした。
     連載自体はあだち充論ではあるが、今回は「少女漫画」の歴史にも触れていく。その理由としては、1975年にあだち充が移籍した形になった週刊少女コミックで、どんな作品が連載されていたのかを知っておくことで、当時の漫画界がどんな状況だったのかがわかるからだ。また、『ナイン』が少女漫画のテイストを持ち込んだことで評価されたという部分を理解するために必要だと考える。  もうひとつは、現在の私たちが知っているサブカルチャーは、当然ながら脈々と続いている歴史の上に成り立っていて、今や当たり前になっている「萌え」や「BL」の始まりに、少女漫画や当時の女性読者たちがいたことを知っておくことは決して無駄なことではないと思うからだ。この時代の少女漫画について知っておくことで、現在の漫画・アニメカルチャーの想像力の始まりの地点にあったものを、多少なりとも理解できるのではないだろうか。
     余談になるが、2年前の2017年3月初旬に、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)で日本文学について講義をしていた小説家・古川日出男氏を訪ねたことがあった。授業には参加できなかったが、校内で開催された詩人の管啓次郎氏が教えている学生のワークショップの発表と古川氏と学生たちによる(日本語と英語と中国語の三ヶ国語での)小泉八雲『怪談』の朗読パフォーマンスに呼んでもらった。その際に、古川氏をUCLAに呼んだマイケル・エメリック氏や彼の学生たちとわずかだか交流することができた時に感じたことが大きい。  UCLAの大学院で日本文学を学んでいるような学生は当然ながらエリートであり、いろんな国籍の人がいたが、彼らは日本語で小説を読み、私が英語をがんばって話すこともなく、日本語でのやりとりができた。日本国外で日本文学となると、川端康成、井伏鱒二、谷崎潤一郎、大江健三郎、三島由紀夫などを基礎教養として持っていないと会話にならないという現実がある。そこをわかっていないと、現在の作家へと続く議論はできないと強く感じた。  ちなみに2018年12月に明治大学中野キャンパスで特別シンポジウム「古川日出男、最初の20年」というものが開催され、古川氏をはじめとし12名が登壇した。シンポジウムにはUCLAから来たマイケル・エメリック氏も登壇したが、会場でUCLAを訪れた時に話した生徒の一人と再会をした。彼を含め数名が来日して早稲田大学で日本文学を学んでいるということだった。こういう交流こそが本当の意味での文化交流であり、文化を発信する上で重要なことだと思う。  これは文学の話に限らない。『なぜ日本は<メディアミックスする国>なのか』を書いたカナダの研究者であるマーク・スタインバーグは、80年代の角川書店などを題材にメディアミックスの研究をしている。彼以外にも海外の様々な大学でメディアミックスについて研究が行われているし、そこには当然ながら、日本の漫画・アニメカルチャーの歴史が大きく関わっている。  そして、日本のメディアミックスの歴史を紐解いていくと、そこには第二次世界大戦があり、国民の動員として使われていていた事実がある。「クール・ジャパン」という戦略で完全に抜け落ちていたのは、そういう部分を理解した上で、日本のサブカルチャーが海外でどう受容され、どう影響を与えたのかのきちんとした分析や、海外でそれらが好きな人と話す際に必要な最低限の歴史の認識や理解だったのではないだろうか。  日本文学に興味がある海外の人とコミュニケーションを取る際に、村上春樹作品だけの話をしても当然ながら通じない。戦後日本文学なら最低限、大江健三郎や三島由紀夫についてのバックボーンを理解していないといけない。これから漫画やアニメに関しても、同じようなことがもっと頻繁に起きてくるのではないかと思う。「クール・ジャパン」はコンテンツを売るだけではなく、歴史を含めたサブカルチャーの総体を、海外に広めると同時に、国内にもきちんと伝えるべきだろう。自分が好きな文化の歴史を最低限、知っておくことが、今より大きな意味を持つ時代になってくるはずだ。
    少女漫画はどこから来たのか
     話を本題に戻そう。少女漫画の歴史を遡っていくと、戦前の少女雑誌に行き当たる。まだ少女漫画というメディアがない時代、女学生たちが夢中で読んでいたのは雑誌小説だった。  1899年に高等女学校令が公布され、各県に女学校が設立されたことで「女学生(少女)」という新しい概念が生まれ、出版社にとってはその「少女」は新しい読者層として商売のターゲットになった。この頃の少女雑誌の小説には必ず挿絵がついていて、彼女たちは「読む」ことと「見る」ことを雑誌で楽しんでいた。  現在、ラノベと一般文芸の中間に位置する小説をライト文芸(キャラノベ)と呼ぶが、私たちの祖母や曾祖母の時代から小説には挿絵が描かれ、そこに描かれていたキャラクターを小説に投影して読んでいたと考えることもできるかもしれない。  アール・ヌーヴォーを代表する、現在ならグラフィックデザイナーと呼ばれる仕事をしていたアルフォンス・ミュシャの挿絵やポスターを、与謝野鉄幹と与謝野晶子が刊行していた文学雑誌『明星』(1900~1908年)において、挿絵を担当していた藤島武二が盛んに模倣していたことも知られている。また、彼が手がけた与謝野晶子の歌集『みだれ髪』の表紙もアール・ヌーヴォーを取り入れたものになっている。
    ▲ミュシャ『黄道十二宮』(1897)と『明星』表紙(1902)
    ▲与謝野晶子『みだれ髪』表紙(1901)
     ミュシャと藤島武二の挿絵やポスターを見比べると、少女漫画の絵柄の源流がここにあることがよくわかる。日本において鳥獣戯画が漫画に、浮世絵が少女漫画に大きな影響を与えていると流布されていることが、いかに的外れであるかということは、明治や大正時代の文化を見るとわかるはずだ。  愛国者だと言いながらも、フェイク・ヒストリーを作ることに必死な人たちはどうしてもそういうものを結びつけ、日本の漫画を「クール・ジャパン」と呼んで海外に喧伝したがっている。日本の漫画は明らかに近代以降に諸外国からの文化の影響を強く受けているという事実を、どうしても認めたくないのだろう。大正デモクラシーとそこから派生した文化の影響、手塚治虫が戦時下に自らも投稿した「大政翼賛会」というメディアミックス、手塚がディズニーに出会ったことによって日本の漫画の歴史が大きく動き出したというのは、まぎれもない事実である。これらに関して詳しく知りたい人は大塚英志氏の著作である『まんがでわかるまんがの歴史』『手塚治虫と戦時下メディア理論 文化工作・記録映画・機械芸術』『大政翼賛会のメディアミックス』などを読んでみることをオススメします。
    戦前と戦後の少女漫画
     戦前の少女たちに人気があった挿絵家の筆頭は、中原淳一だった。竹久夢二の抒情画の伝統を引き継ぎながら、西洋風の雰囲気を加えることで、新しい独自の世界観を作り出していた。中原の描く少女は長い手足に、大きな潤んだ瞳、そしてリボンを頭に添えていた。ここから現在に至る少女的なイメージの原型が共有されていくことになった。
    ▲『中原淳一の女学生の服装帳』。現在でも企画展が開催されたり、LINEスタンプが発売されるなど、根強い人気がある
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  • 碇本学「ユートピアの終焉ーーあだち充と戦後日本の青春」 第3回 劇画作家としての挫折と80年代カルチャーの胎動

    2018-12-12 07:00  
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    ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉――あだち充と戦後日本の青春」。第3回では、70年代の劇画作家時代のあだち充について論じます。原作付き作品を大量に手がけながら、ヒット作に恵まれず苦しむあだち充ですが、実は彼のすぐ側で、80年代カルチャーの胎動は始まっていました。
    劇画作家・あだち充と編集者・武居俊樹
     今回は、あだち充が劇画作家として大量に作品を発表していた70年代と、その文化的な背景について触れていきたい。
     あだち充は1970年のデビュー作『消えた爆音』以降は、佐々木守ややまさき十三などの漫画原作者と組んで作品を発表していた。この時期の絵柄は、当時流行していた劇画調寄りなものであった。  1978年にあだち自身のオリジナル作品であり、少年漫画に少女漫画のテイストを持ち込み新しい風を吹かしたと賞賛された『ナイン』でブレイクするまでの間は、原作ものやコミカライズ(『レインボーマン』(1972年)、『おらあガン太だ』(1974年))などを手がけていた。  また、『中一コース』などの学習雑誌で連載していた『ヒラヒラくん青春』(1975年スタート)シリーズなども当初は原作があったが途中から自由に描くようになり、この作品が当時の主な収入源になったと語っている。
    ▲『ヒラヒラくん青春』(1975)[引用]
     あだち充の人生を大きく変えた編集者としては、最初の担当編集者だった武居俊樹の名が挙がるだろう。彼は赤塚不二夫の担当編集者として知られている人物である。  1963年に設立されトキワ荘出身の藤子不二雄、つのだじろう、石ノ森章太郎、赤塚不二夫たちが共同で作った「スタジオ・ゼロ」というアニメ製作会社が当時西新宿にあった。この「スタジオ・ゼロ」は1970年末に事実上解散することになるのだが、同フロアには「フジオ・プロ」「つのだプロ」があり、そのつのだプロで手伝いをしていたのが石井いさみだった。  1969年に武居は赤塚から「この人、絶対、明日のスターだよ、サンデーに描かせな」と石井を紹介された。武居は石井の担当にはなれなかったが、石井は『少年サンデー』で『くたばれ‼︎涙くん』(1969)の連載を始め、二人は同志のような関係になっていく。そして、ある日、石井いさみが武居に紹介したのが彼のアシスタントをしていたあだち充だった。  武居は石井からあだちを託される形になったが、あだちの絵を見た時に「こいつが『サンデー』のエースになる」と確信したという。だが、当時のあだちは他の新人作家のように持ち込みもせず、ネームも見せず、打ち合わせをしても一言も話さないで文庫本を読んでいるような青年だった。そんなあだちに武居は根気強く付き合ったし、さまざまな原作者と組ませて漫画を描かせたのも彼だった。
     デビュー後は『巨人の星』の原作者・梶原一騎劇の弟である真樹日佐夫と組んだ『裂けた霧笛』などの劇画調の不良ものだったり、『無常の罠』(1971)や『リングに帰れ』(1971)、原作・夏木信夫と組んだ『劣等生しょくん!』(1971)、『ゴングは鳴った』(1972)、原作・井上和士と組んだ『鮮血の最終ラウンド』(1973)などのボクシング漫画をあだちは手がけていた。  ボクシング漫画は、このあとに一度『ケン』(1978)を描くが、1973年以降に原作者の佐々木守とやまさき十三と組むようになってからは離れていく。その後、あだち充がボクシングを作品で扱うのは、ブレイク後の『タッチ』(1981)、 『スローステップ』(1986)、『KATSU!』(2001)だが、実はこの頃に原型があると考えられる。  あだち充作品と言えば野球漫画とボクシング漫画というイメージがあるが、これは70年代に少年漫画で人気があったジャンルと実は同じであり、いわゆる少年漫画の王道であった。
     1973年に原作・佐々木守と組んだ『リトルボーイ』、1975年にやまさき十三と組んだ『命のマウンド』など、次第にあだち充は野球漫画をメインに手がけるようになっていく。しかし、佐々木守ややまさき十三などの原作者と組んでも、あだち作品の人気はなかなか出なかった。
    ▲『リトルボーイ』(1973)[引用]
     佐々木守は当時すでに少年サンデーで水島新司と組んで『男どアホウ甲子園』をヒットさせていた。佐々木は映画監督・大島渚と映画の共同脚本を何作も書いたり、『ウルトラマン』『ウルトラセブン』などの特撮作品にも関わりのある、実績のある原作者だった。  やまさき十三は大学卒業後に契約社員として東映東京制作所で助監督をしていた。また、山崎充朗名義で『キャプテンウルトラ』『キイハンター』の脚本を手がけていたが、監督に昇進という際に労働組合の委員長に選ばれ、会社側と団体交渉する立場になってしまう。三年後に解決したものの、彼の監督昇進の話が流れて退所してしまった。まったく仕事がない時に、大学時代の親友だった編集者の武居俊樹から、「映画の脚本が書けるなら、漫画の原作も書けるだろう」と誘われ、漫画原作者の道を歩み始めることになった。  やまさき十三とあだち充が組んだ作品に大ヒットはないが、あだち充が少女漫画誌から少年漫画誌に戻っていく時期に、やまさき十三は後に映画化やドラマ化される大ヒット作『釣りバカ日誌』の連載を始めることになる。
     あだちは当時、他の原作者とも組んで漫画を描いているが、彼はまったく自己主張をせず、文句も言わず、素直に原作通りに漫画を描いていたので重宝されたという。幼少期から兄のあだち勉のキャラが濃かったこともあり、人には逆らわない、大人しい性格だった。また、漫画家になってからも自分の漫画を描きたいという欲がなかった(正確には「自分が描きたいものを見つけようとせず、きちんと考えていなかった」と自身のインタビューで答えている)。  佐々木守と組んだ作品に関しては、当時は劇画調の熱血モノばかり描かされていたので、原作を渡されて「好きに描いていい」と言われて楽になった、とあだちは発言している。また、やまさき十三と組んだ作品については、熱血モノやストレートな内容が多く、自分には熱血モノは向かないと気付かされたと語っている。ただし、後に週刊少女コミックにやまさき十三原作で連載した『初恋甲子園』は、「恥ずかしいような恋愛モノを描かせてくれた」こともあって、ここで野球と恋愛を不可分に描けたことが、のちの『ナイン』につながっていく。
     その頃から野球漫画を手がけていた理由は、武居があだち充を週刊少年サンデーのエースにしたいということもあり、エースと言えば野球、そして、週刊少年マガジンで人気を誇っていた『巨人の星』に対抗させようとしたからだったとインタビューで語っている。 『巨人の星』は1966〜1971年までの連載であり、同じく少年マガジンで連載していた『あしたのジョー』は1967〜1973年の連載だった。この二作品が劇画の時代を牽引したが、70年台前半にはどちらも完結しており、その後に続く野球漫画やボクシング漫画のヒット作を出そうと、各漫画誌の編集部は模索していた。  前述したように、1970年に少年サンデーで原作・佐々木守と水島新司が組んだ『男どアホウ甲子園』がヒットした。これは水島新司にとっての最初のヒット作品となり、水島は1972年からライバル誌である少年マガジンで『野球狂の詩』を不定期連載、同年に少年チャンピオンで『ドカベン』の連載を開始し、1973年にはビックコミックオリジナルで『あぶさん』の連載を始めている。  同時期には、1973年に月刊少年ジャンプで連載が始まったちばあきおによる『キャプテン』も人気を博していた。
     ポスト『巨人の星』となった水島新司作品や、ちばあきおの『キャプテン』を、少年サンデーの編集者だった武居が意識していないはずはなかっただろう。だからこそ彼はあだち充に、『巨人の星』のような一大ムーブメントとなる漫画が描ける漫画家になってほしいと期待し、原作者と組ませてどんどん作品を描かせていた。  このとき武居が蒔いた種は、80年代の『少年サンデー』で芽を出すことになる。武居がいなければ80年代の漫画界は、まったく違ったものになっていたかもしれない。
    赤塚不二夫と〈プレ80年代〉の文化人たち
     あだち充が劇画全盛の少年漫画誌で苦戦をしていた頃、すでに一部では80年代を牽引する、新しい文化の萌芽が生まれていた。それはあだち充のごく近くで胎動していた。その中心にいたのは、武居とあだち充が出会うきっかけを作った漫画家・赤塚不二夫だった。
     赤塚不二夫という存在は漫画家としてだけではなく、文化人として後世に非常に大きな影響を与えている唯一無二の存在でもある。  赤塚不二夫は戦後に上京して働きながら漫画を描いていた。彼が寄稿していた『漫画少年』に掲載された漫画を石ノ森章太郎が目に止めて、彼が主宰する「東日本漫画研究会」に所属することになった。また、その漫画をプロデビューしていた漫画家のつげ義春が興味を持ち、赤塚と遊ぶようになった。『漫画少年』が突如休刊した際には、つげからプロへ転向するように勧められ、書き下ろし『嵐をこえて』で赤塚不二夫はプロデビューする。その後に石ノ森章太郎を手伝う形でトキワ荘に移ることになった。  60年代には代表作として知られる『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』『天才バカボン』などの大ヒット作品を世に出すことになる。1967年には漫画家でありながら、テレビ番組『まんが海賊クイズ』で異例のテレビ司会を黒柳徹子と務めたことでお茶の間にも顔が知られるようになり、芸能界での交友も広がることになっていった。  そして1975年、赤塚は、後の日本の芸能界を大きく変えることになる人物と出会う。
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  • 碇本学「ユートピアの終焉ーーあだち充と戦後日本の青春」 第2回〈少年サンデー的なもの〉はいかにして誕生したか

    2018-10-03 07:00  
    540pt

    ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉――あだち充と戦後日本の青春」。第2回では、80年代にあだち充と高橋留美子が生んだ「ラブコメ」ブーム。その舞台となった「少年サンデー」の成り立ちを、60年代以降の少年漫画誌の歴史と共に追いかけます。
    「週刊少年サンデー」と「週刊少年マガジン」の誕生
     今回の第2回では、あだち充作品そのものについてではなく、最初のブレイク作『ナイン』と代表作でもある『タッチ』、そして共犯関係にある高橋留美子『うる星やつら』が『少年サンデー』に連載されるまでの少年誌の歴史について振り返る。  時代を変える作品が出てきたことを理解するには、それまでの歴史や関係性を知っておくことが必要になってくる。そして、今や当たり前になっている週刊少年誌の歴史には、「漫画の神様」と呼ばれていた手塚治虫が大きく関係していた事実がある。  あだち充と高橋留美子が活躍することになるラブコメ全盛期の〈80年代『少年サンデー』的な特色〉が生まれた経緯はいったいどんなものだったのか。  少年誌の始まりから見ていくと『少年サンデー』が紆余曲折した上で、ラブコメ方面に向かっていったのがわかる。
     現在のように週刊誌での漫画雑誌が発売されるようになったのは、1959年3月17日に『週刊少年サンデー』と『週刊少年マガジン』が刊行されたことによる。この二誌が週刊誌における少年漫画の歴史の始まりだった。  1958年の秋頃に小学館では「学習路線以外の雑誌」の検討が開始された。子会社である集英社で、漫画の月刊誌が成功していたことが大きな要因とされている。その動きを知った講談社が翌年の1月に『週刊少年マガジン』創刊準備を始める一方で、小学館の『週刊少年サンデー』は学年誌(『小学○年生』)で付き合いのあったことで手塚治虫に連載執筆の了承を得ていた。続いて寺田ヒロオや藤子不二雄などの「トキワ荘グループ」の連載も獲得して、創刊ラインアップのメンツを揃えていった。  当時の『少年サンデー』と『少年マガジン』は、連載する漫画家の獲得に奔走していた。藤子不二雄(A=安孫子素雄)の日記によれば、『少年サンデー』から創刊一ヶ月前の1959年2月11日に執筆依頼があったその二日後に『少年マガジン』からも執筆依頼があったが、すでに『少年サンデー』での連載を引き受けたという理由で断ったという。  ちなみに、その数年前に藤子不二雄は講談社の少女誌『なかよし』で連載をしていたが、仕事を抱えすぎてパンクしてしまい、原稿を落としたことで連載を打ち切られていた。そのことが原因で同社から四年間、一切仕事が来ないという状況にあったが、当時の『なかよし』の編集長だった牧野武朗が『少年マガジン』の初代編集長になり、藤子不二雄に執筆依頼をしに来たという因縁もあった。しかし、運命のいたずらか、彼らは『少年サンデー』での連載を先に引き受けていたために、土下座して牧野からの依頼を断ることになった。その後、編集長が変わってから、藤子不二雄は『少年マガジン』に連載をするようになるのだが、この藤子不二雄の執筆経緯は、両誌の路線の決定的な差、分岐点になってしまったのではないだろうか。それは藤子不二雄を起用できたかどうかが二大少年誌の最初の明暗を分け、雑誌のカラーの確立に大きな要因になっていると考えられるからだ。
     漫画界のトップランナーであった手塚治虫は『少年サンデー』での連載を引き受けていたが、週刊漫画の二誌創刊をとても喜んでいたこともあり、ライバル誌である『少年マガジン』にも何かできることがあればと声をかけていた。  トキワ荘グループのメンバーでは、石森章太郎だけが初期から『少年マガジン』に執筆していたが、彼が作画していた山田克原作『快傑ハリマオ』の構成を、手塚が密かに引き受けていたことが『実録!少年マガジン名作漫画編集奮闘記』の中で明かされている。 『少年サンデー』は野球の長嶋茂雄が創刊号表紙、創刊号のラインアップは手塚治虫『スリル博士』、横山隆一『宇宙少年トンダー』、寺田ヒロオ『スポーツマン金太郎』、 藤子不二雄『海の王子』、益子かつみ『南蛮小天狗』で価格は30円。発行部数は35万部だった。 『少年マガジン』は相撲の朝汐太郎が創刊号表紙、創刊号のラインアップは忍一平(原作・吉川英治)『左近右近』、山田えいじ『疾風十字星』、高野よしてる『13号発進せよ』、遠藤政治『冒険船長』、伊東章夫(原作・鈴木みちを)『もん吉くん』 で価格は40円。発行部数は20万5000部だった。
    ▲少年サンデー(左)と少年マガジン(右)の創刊号
     どちらとも1959年3月17日の水曜日に発売され、店頭に並んだ。部数でいきなり差を付けられた『少年マガジン』は、同年5号から30円に値下げして対抗しようとするが、『少年サンデー』は創刊ラインアップ作品で、読者に都会風で洗練された印象を与えたことも作用して、リードを続けていくことになった。その後も忍者ブームを受けての横山光輝『伊賀の影丸』、赤塚不二夫『おそ松くん』、小沢さとる『サブマリン707』、さらには藤子不二雄『オバケのQ太郎』が大ヒットして60年代中盤までに万全の態勢を作っていくことになる。  もし、藤子不二雄への執筆依頼が『少年マガジン』の方が先だったのなら、『オバケのQ太郎』は『少年マガジン』で連載されたいたという、「if」の可能性も、もしかしたら存在したのかもしれない。
    劇画とスポ根による「マガジン」の成功(60年代)
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  • 【新連載】碇本学「ユートピアの終焉ーーあだち充と戦後日本の青春」 第1回『あだち充の〈終わってしまう青春〉』

    2018-09-19 07:00  
    540pt

    ライター・碇本学さんの新連載「ユートピアの終焉ーーあだち充と戦後日本の青春」が始まります。『タッチ』『H2』などのヒット作で知られる漫画家・あだち充。その50年にも及ぶキャリアは、戦後のアメリカの抑圧のもとで、日本の少年漫画が〈成熟〉を描こうとした試みでもありました。第1回では、戦後民主主義の落とし子としての3人の漫画家、手塚治虫・高橋留美子・あだち充について取り上げます。
    なぜ今、「あだち充」を読むべきなのか
    「2020年について何を想像するか?」と聞かれたとき、多くの人は「東京オリンピック」と答えるはずだ。  今から約80年前(1940年)に行われる予定だった「幻の東京オリンピック」は関東大震災からの復興と皇紀2600年記念行事として準備が進められていた。しかし、支那事変の勃発や軍部の反対から中止となり、その後、日本は太平洋戦争に突き進んでいくことになった。  1964年の「東京オリンピック」は、第二次世界大戦で敗戦した日本が焦土からの復興を成し遂げたことを全世界へアピールし、再び国際社会の中心に復帰したシンボルとして歴史的には認識されている。  そして、2020年開催予定の東京オリンピックは、東日本大地震の復興を掲げて招致されている。  日本で行われるオリンピックは、なぜか大災害や人災からの復興アピールを理由に立候補し、開催されるという流れがあるようだ。  来年2019年には、宮藤官九郎脚本のNHK大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』が放送される。ドラマでは、日本が初めて夏季オリンピックに参加した1912年ストックホルム大会から1964年の東京大会開催までの52年間を、三部構成で描くということが発表されている。
     この連載で取り上げるあだち充は、1970年(昭和45年)に漫画家デビューしており、次の東京オリンピックが開催される2020年は、画業50周年という記念すべき年でもあるということは、あまり知られていないかもしれない。  あだち充は1964年の東京オリンピックの翌年に連載が開始され、スポ根漫画ブームの元祖と言われる『巨人の星』(原作:梶原一騎、作画:川崎のぼる)から始まったムーブメントに、終止符を打った漫画家でもある。スポ根の定義は「スポーツの世界で根性と努力によってライバルに打ち勝っていく主人公のドラマ」(米澤嘉博『戦後史大事典』より)であるが、あだち充は代表作『タッチ』において、それを乗り越えて過去のものとしたことで、少年誌だけではなく、漫画というジャンル全体の革新につながる新境地を切り開いていった。
     あだち充が描いてきた漫画とは何だったのか。それは一言でいえば「戦後日本社会の思春期」であった。  戦後日本社会は、軍事はアメリカに丸投げをして、彼らの核や軍事力によって庇護されながら経済発展を成し遂げた。一方、表向きには過去の戦争に向き合い、「二度と戦争のない世界を」という平和主義を謳った。その矛盾した「本音」と「建前」の二枚舌を使い分けた繁栄が続いていたが、バブル崩壊以後の長い不況によりそれを維持できなくなっているのが現在の日本である。  大人になることをできるだけ先延ばしして、責任を持ちたくないという「本音」と、自らの行動と発言に責任を持つ大人になることを対外的に表明する「建前」が当たり前のように、この日本社会には共存している。その「建前」の部分にあたる戦後日本社会の思春期の片側を、あだち充はずっと描き続けている。
     あるいは、1980年代の「ラブコメ」ブームは、「スポ根」や「劇画」の全共闘世代へのカウンターでもあったと言えるだろう。その中心となった『週刊少年サンデー』で大活躍していたのが、高橋留美子とあだち充という二人の若い漫画家である。 『うる星やつら』を大ヒットさせた高橋留美子が描いていたのは「終わらない思春期」であり、それに対して、あだち充が描いていたのは「終わってしまう思春期」だった。両者は相反し合いながら、同時に表裏一体の関係として『週刊少年サンデー』を躍進させる原動力となっていった。
     長く続いた昭和が終わり、構造改革に失敗し、先進国からも没落して、もはや経済大国ではなくなっていった日本の「平成」という元号がもうすぐ終わる。  昭和の20年間と、平成の30年間を通じて、絶え間なく作品を描き続けてきた漫画家・あだち充。これまで彼が描いてきた作品の要素がミックスされた、現在連載中の『MIX』は、おそらく次の元号まで連載が続いていくはずだ。『MIX』を読むということは、昭和、平成、そして次なる新しい元号の「三つの時代」を読むということになるのかもしれない。  あだち充のデビュー作から、最新作『MIX』までを読んでいくことで、かつてこの国にあった「青春時代」から、現在に持ち帰れるものはあるのだろうか。あるとすれば、それはどんなものなのだろうか。
    クール・ジャパンと「日本すごい」論の不毛
     バブル経済とその崩壊による、1991年からの約20年以上にわたる日本経済の低迷は「失われた20年」と呼ばれた。さらに構造改革が失敗したことで、「平成」という元号の期間は、そのまま「失われた30年」になった、という印象である。  21世紀に入ると、日本の漫画・アニメは国境を越えて海外にも熱狂的なファンがいることが一般的にも知られるようになり、それは国策として「クール・ジャパン」と謳われるようになった。  2010年に経済産業省が「クール・ジャパン室」を設置し、2013年には政府と電通など官民ファンドによる海外需要開拓支援機構(クール・ジャパン機構)が設立された。今年2018年のクールジャパン関連政府予算は459億円にのぼる(参照)。  しかし実際のところ、投資と宣伝には税金が投じられているが、国内の人材育成はまったくされていない。  国策というのならば、韓国映画のように海外でも戦えるようなレベルの人材を育てることが最重要の施策であり、海外の市場で日本とその国がどうコミットしていくかという部分に税金を使うべきだが、自国で売れているものをただ海外に持って行って、「日本の文化すごいでしょ!」という傲慢さは、かつての箱物行政の失敗を繰り返しているようにしか見えない。
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