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  • なぜゲーム産業はIT産業ではないのか(稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』第6回) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.372 ☆

    2015-07-23 07:00  
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    なぜゲーム産業はIT産業ではないのか稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』第6回
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.7.23 vol.372
    http://wakusei2nd.com



    本日は稲葉ほたての好評連載『ウェブカルチャーの系譜』最新回をお届けします。
    どうしても分けて考えられがちなゲーム産業とIT産業ですが、もともとこの2つはパーソナル・コンピュータ革命がもたらした双子のようなもの。今回の連載では、なぜその2つが分けて考えられるようになったのかを、日米の文化的差異をヒントに分析していきます。

    稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』これまでの連載はこちらのリンクから。
     ウェブにおける「共有」の問題を考えるときに、常に参照されるのがハッカー倫理である。それをスティーブン・レヴィは、ハッカーの歴史を描いた古典『ハッカーズ』の冒頭においてこう要約している。

    「コンピュータへのアクセス、加えて、何であれ、世界の機能の仕方について教えてくれるものへのアクセスは無制限かつ、全面的でなければならない。実地体験の要求を拒んではならない!」
    p33,『ハッカーズ』スティーブン・レビー(工学社・1987)

     レヴィは黎明期にコンピュータに触れた人々にとって、これは「声高に議論されるよりも、暗黙に了解されるものであった」と述べて、このハッカー倫理が(パーソナル)コンピュータ文化の発展史における通奏低音であったことを証明しようとする。
     彼がこの『ハッカーズ』を米国で上梓した1984年は、ハッカーにまつわる映画や、サイバーパンクなどのSF小説が次々に登場しており、その存在に対して人々の関心が高まっていた時期だった。日本でパソコン通信が始まったのも、この数年後のことである。そうした中で、このレヴィによる歴史観そのものがハッカー文化の聖典の一つとしての地位を獲得したのである。
     ところで、この『ハッカーズ』という本を今読み返してみると、不思議に「ゲーム」にまつわる描写が多いのが目につく。例えば、ハッカー倫理を記した第二章につづく第三章の表題は、いきなり「宇宙戦争」である。これは最初期のコンピュータゲームの名作(英題は『Spacewar!』)で、ノーラン・ブッシュネルがアタリ社を創業するキッカケになったゲームとしても知られる。その後もこの本では、あらゆる場所でハッカーたちがゲームを楽しんでいる描写が差し挟まれる。そしてついに、最後の部では「ゲーム・ハッカーたち」と題して、米国ゲーム産業の黎明期の姿が描かれるのである。
     しかし、それは特段、不思議な話ではない。ファミリーコンピュータの登場以降、ゲーム機のハードウェアが専用機に席巻されたために、現代の我々はIT産業とゲーム産業を切り離して考えてしまいがちだ。しかし、それらはともにパーソナル・コンピュータ革命がもたらした双子のようなものである。年配の読者であれば、専用機の普及後にさえパソコン機能がついたゲーム機があったのを覚えている人も多いだろう。
     また、このことは先日逝去した、まさに任天堂の代表取締役社長だった岩田氏の以下のような言葉からもわかる。
    岩田聡・任天堂社長の訃報に接して(編集長) | インサイド 
     この基調講演で彼は、自らをコンピュータの普及機に最初に魅せられた人々の一人として語る。ジョブズやザッカーバーグと、岩田聡を並べて語る人はあまりいないだろう。しかし、両者の根は同じパーソナル・コンピュータ革命にある。その革命がもたらした帰結の昼の顔がiPhoneやFacebookであるとすれば、その夜の顔がファミコンやWiiであった。
     だが、専用機の普及という事情を踏まえた上でも、やはりこの『ハッカーズ』という本が「ゲーム」という娯楽への言及を強く押し出して、ハッカー文化を描いているのは、現代においては隔世の感がある。というのも、その後ハッカー文化は90年代に入り、米国政府との衝突を経て、むしろしたたかな政治性を帯びていくからだ。そのことは前回にも紹介した、同じレヴィの手による『暗号化』などの著作に詳しい。
     事実、この本の出版から長い時間を経て、ハッカー文化そのものが、今や当時に比べてかなり政治性を付与されたイメージに変貌している。
     その印象は、例えば2004年に上梓されたジョン・マルコフの『パソコン創世 第三の神話』という本に顕著である。当時のシリコンバレーがいかにカウンターカルチャーの気風と強く手を結んでいたかを闊達に描き出したこの本は、最後にフレッド・ムーアという反戦運動家の政治青年が伝説のパソコンクラブ「ホームブリュー・コンピュータ・クラブ」【※】を立ち上げたところで終わる。
    【※】アップル創業者のスティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックが在籍していた、黎明期のパソコン文化に強い影響を与えたパソコンクラブ。
     『ハッカーズ』におけるムーアの扱いは、あまり大きなものではない。せいぜい従来の社会運動とハッカーイズムの違いを理解せぬまま、コンピュータを政治という「目的」に利用しようとして挫折し、会を立ち去った創立者というくらいの扱いである(ハッカーイズムは、ハックそのものを自己目的化する)。
     それに対して、本書ではむしろコンピュータをあまり理解しないまま、自らのコミュニズム的な政治思想をぶつけたムーアの夢こそが、現代の様々なコンピュータ文化の礎になっていると論じている。実際、ムーアが口癖のように述べていたという「共有」とは、金銭への嫌悪を伴う、ほとんど私有財産の否定に近いニュアンスを帯びている。彼が夢見たというオルタナティブなコミュニティ同士のネットワークも、彼の社会運動と強く結びついていた。それらは、レヴィが要約したようなハッカーイズムと共鳴するところはあるにせよ、あまりに政治的にすぎる。
     しかし、ジャスミン革命や雨傘革命、あるいはWinnyやYouTube、UberやAirbnbを目にしてきた現代の我々は、むしろ60年代後半のある種の極左青年の類型であったムーアの夢にも、いやその夢にこそリアリティを覚えるのではないだろうか。
     少なくともコンピュータという存在が、法的な拘束や業界慣習などによる規制を加えない限り、「富まざる者にpowerを与え、富める者からpowerを奪う」革命の装置たりえることを私たちはよく知っている。「コモディティ化」のような言葉は、その本質を情報弱者に向けて口当たりよく言い換えた言葉にすぎない。そもそも、前回まで論じてきたようにウェブカルチャーにおける行動は、市場の外側で行われる「贈与」による交換を相対的に強化していくものである。

    ■ 日本におけるコンピュータ文化の受容
     では、このような北米由来のコンピュータ文化は、日本においていかに受容されてきたのだろうか。以下の漫画家・すがやみつる氏の文章は、その当時の雰囲気を伝えるものだ。特に注目したいのが、米国の実名前提のコンピュサーブに慣れた氏が、日本のパソコン通信に本名で書き込んだところ、ユーザーから非難を浴びてしまったというエピソードである。
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  • つながるものを扱うために(稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』第5回) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.283 ☆

    2015-03-17 07:00  
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    つながるものを扱うために(稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』第5回) 
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.3.17 vol.283
    http://wakusei2nd.com



    本日のメルマガは、好評連載『ウェブカルチャーの系譜』第5回です。
    ふだんネットを使っていて、「なぜネット上で人々は(一見)利他的に振る舞うんだろう?」という疑問を抱く人は多いのではないでしょうか。今回はこの問題について、モースの『贈与論』のような学問的蓄積と、インターネット以降の様々な知見を接続しながら考えていきます。

    稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』これまでの連載はこちらのリンクから。
     
     
     なぜ人間はインターネット上で、一見して"利己的"とは思えない行動を取るのだろうか。
     この問題について、一つの回答を与えているのが、エリック・レイモンドのオープンソースにおける古典的文書『伽藍とバザール』に続く一連の文書である。とりわけ、二つ目の文書『ノウアスフィアの開墾』では、レイモンドは「なぜ人間がオープンソースのプロジェクトに参加するのか」という動機の問題を解説している。『伽藍とバザール』が、オープンソースについて開発スタイルの具体的なあり方という、言わば「How?」の側面から大きく取り上げた文書だとすれば、この『ノウアスフィアの開墾』では、なぜ人間がそんな行動を取るのかという「Why?」を深掘っている。
     
    Homesteading the Noosphere: Japanese
     
     その内容はウェブ上で全文が読めるが、その箇所の内容を端的に言えば、「仲間内の評判」を求めて、ハッカーたちはオープンソースに参加するというものだ。
     その説明を、彼は「贈与文化」に求めている。レイモンドによれば、私たちの社会に広く普及している、中央集権型の再分配や貨幣による交換経済のような分業の体制は、希少な財をいかに配分するかの適応行動から生じたものである。だが、温和な気候で食料の豊富な地域や、あるいはショービズやセレブのような財があり余った世界では、現在も贈与文化が見受けられる。そこでは、文化人類学者マルセル・モースらが分析してきたように、気前よく他者に贈与を行うことで「仲間内の評判(名誉)」を得るためのゲームが発展する。
     レイモンドの慧眼は、ハッカー文化にもこの特質が当てはまると指摘したことだ。
     

    オープンソース・ハッカーたちの社会がまさに贈与文化であるのは明らかだからだ。そのなかでは「生存に関わる必需品」――つまりディスク領域、ネットワーク帯域、計算能力など――が深刻に不足するようなことはない。ソフトは自由に共有される。この豊富さが産み出すのは、競争的な成功の尺度として唯一ありえるのが仲間内の評判だという状況だ

     
     そして、ここからレイモンドはオープンソースにまつわる様々な慣習について、贈与経済の特質と英米慣習法における土地所有権の理論から説明を加えていく。この文書を編著『角川インターネット講座 (10) 第三の産業革命経済と労働の変化』(角川学芸出版・2015)で紹介した山形浩生は、序文において本書をこう説明している。
     

    「フリーソフト/オープンソースのもたらす動機の分析として、いまだに本論を超えるものはないとぼくは思う。(中略)急に有名になったあらゆる現象の常として、フリーソフト/オープンソース運動にもそれなりの誤解がついてまわった。何やらソースコードさえ公開すれば、どんなソフトでも誰かが勝手に開発や改良を引き受けてくれるとか、オープンソースの旗を掲げればどんなソフトでも誰かが無料で開発してくれるとか。もちろん、そんな虫のイイ話はない」

     
     オープンソースという運動は、もちろんネットワーク技術の特性が可能にしたものだ。だが、可能であることと実際に機能することの間には大きな開きがある。オープンソースの参加者に働く独自の法則性のようなものを知らねば、掛け声だけが虚しく響く結果に終わる。当たり前の話といえば、当たり前の話である。
     しかし、この文書の認識の凄みは、まさにそんな単純な事実を鋭く指摘した点である。インターネットは、いつも「自由」と結びつけて語られがちだ。だが、私たちはそこにおいて、「いかなる行動でも取れる」というわけではない。これは、パソコン通信やインターネットが登場したことで見えた、人間についての一つの知見である。この文書の面白さは、プログラマのような合理性を尊ぶ人々が、いわば「未開の」社会の現象として観察されてきた行動原理にぴたりと当てはまる振る舞いを、まさに合理的であるがゆえに選択していることなのである。
     
     
    3つの関係意識の不変性
     
     さて、前2回において、私は1985年の電気通信事業法の施行以降に登場した、ダイヤルQ2をめぐって登場した言説から、3つの関係意識を抽出してきた。
     
    ・なぜチャットは「部屋」なのか(稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』第3回)
    ・"つながるのその先"は存在するか(稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』第4回)
     
     この1対ゼロ・1対1・1対Nの関係意識というのは、1対1の通信を行うアーキテクチャである電話の分析において取り出してきたものだ。今回は、これをインターネットの議論に繋げるための準備作業を行いたいと思う。そのためにまず確認しておきたいのは、この3つの関係意識がインターネットのようなN対Nの相互に絡み合ったネットワーク構造においても強く残存しているという事実である。
     
     例えば、インターネットの黎明期から、「ネット上の発言は常にオープンの場に曝されると意識せよ」や「双方向性の時代なのだから、オープン性を拒否するのはインターネット的ではない」などの言説が繰り返し登場する。事実、このオープン性を称揚する思想は一見して、インターネットという技術から自然に導かれるものに見える。
     だが、そのような発言はインターネットの可能性をむしろ過小評価している。一方で、インターネットにおいては黎明期から「暗号化」されたプライベートな通信への希求もまた、強烈に存在してきたからだ。スティーブン・レビーが著作『暗号化』に書き残したように、必ずしも衆人環視のもとで行いたくない欲望もまた、人々はインターネットに込めてきたのだ。その欲望と黎明期の技術者たちの情熱こそが、「暗号化」の技術にまつわる米政府の妨害を退け、電子メールや電子商取引を可能にしたのである。
      
     実際、前回に浅羽通明氏にまつわる議論で提示した、ECサイトやクラウドソーシングを用いて市場の中で孤独に閉じていく「1対ゼロ」の生き方とは、暗号化技術にもとづくオンライン決済なしにはありえない。また、携帯メールやLINEのように、新しい「1対1」関係の結び方もインターネットは可能にした。そして、オープンな場においては、ニコ動の歌い手やキャス主、ユーチューバー、あるいは地下アイドルブームの隆盛など、プチカリスマを大量に生成する装置としての機能(「1対N」)もウェブ以降のインターネットが果たしてきたのは言うまでもない。
     
     だから、私たちは事実を注意深く見なければいけない。ダイヤルQ2をめぐる電話論が提示してくれた関係意識の系譜は、後世にも残り続けている。だが一方で、1対1のアーキテクチャで物理的に閉じていた電話と、N対Nのネットワーク構造を扱うインターネットでは、やはり状況が異なってくる面もある。そこで、ここからは論の構成を、よりネットワーク上での情報のやりとりに向いた形に置き換えたいと思う。
     

    ▲スティーブン・レビー『暗号化 プライバシーを救った反乱者たち』紀伊國屋書店、2002年 
     
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  • "つながるのその先"は存在するか(稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』第4回)☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.235 ☆

    2015-01-07 07:00  

    "つながるのその先"は存在するか(稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』第4回)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.1.7 vol.235
    http://wakusei2nd.com


    本日のほぼ惑は、好評連載『ウェブカルチャーの系譜』第4回をお届けします。今回は「ウェブカルチャーの系譜」を辿っていくための補助線として、思想家・浅羽通明のメディア/コミュニケーション論を読み解きます。90年代前半の「ゴーマニズム宣言」にも強く影響を与えた浅羽通明という気鋭の論客は、なぜゼロ年代に迷走に陥ったのか――。「オナニスト」「職能の協働」をキーワードに、その限界と現代的意義を問い直します。
    稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』これまでの連載はこちらから。
     博報堂ケトルの嶋浩一郎氏が以前、(正確な言い方は忘れたが)BRUTUSで「ソーシャルメディアの登場以降、一般的なニュース記事が受けるようになってきた」ということを話していた。これは筆者にも実感がある。実際、現在でもポータルサイトのトピックス流入などでは、硬派な政治や経済のニュースにPVが集まることは少なく、そんな記事よりも「きのこたけのこ戦争」や「ノーバン始球式」の方が遥かに高いアクセスを叩き出す現状がある。しかし、そのくせFacebookのような場所では、妙に政治や経済のニュースが流れてくる。
     その記事で面白かったのは、確か嶋氏がその理由として「ソーシャルメディアでつぶやくから」と言っていたことである。そう、TwitterやFacebookで自分が見ているニュースをつぶやくことは、自分がどんな記事を読んでいるかの態度表明なのだ。そのとき、普段は「はちま起稿」だの「netgeek」だの「ロケットニュース」だのばかり読んでいる人間であっても、Facebookでは知的な仲間たちに向けて朝日新聞のピケティの書評記事でもつぶやいておくかと考える。まあ、ありそうな心理ではないだろうか。
     実際、筆者自身もタイトルをつける仕事をする際には、多少の釣り要素を考慮すると同時に、それをTwitterでつぶやいた人が周囲に良い顔が出来る文言になるように気をつけている。これは実感ベースではあるのだが、極端に不快であったり、内容からかけ離れた釣りタイトルの記事は、アクセス率は高くなるものの、やはりつぶやかれる確率は下がっているように思う。
     いずれにせよ、こういう話から見えてくるのは、単純にニュース記事を消費すると言っても、そこに他者の目があるか否かで、そのあり方や拡散の度合いは大きく違ってくるということだ。一方でそれを意識するかは、アーキテクチャの問題であると同時に、当人の自意識の問題でもある。それは、かつてリアルの満員電車において、おしゃれな表紙の雑誌を見せびらかす自意識過剰な若者がいた一方で、堂々とスポーツ新聞のエロ記事を他の乗客に向けて読んでいたオッサンもまた、いくらでも存在していたのと同じことである。
     前回から私が、電話という原始的な形態のコミュニケーション媒体に的を絞って、一種の他者論を展開している理由の一つは、まさにここにある。電話のアーキテクチャそれ自体に注目すれば、それは一対一で人間がコミュニケーションしあうメディアである。しかし、そこにおいてすらも電話の向こう側にいる他者をどのようにイメージするかは、究極的にはユーザーに委ねられていた。
     では今回、私たちが考えるのは、一体どうイメージされた他者なのか。私は前回、富田英典は他者と1対1の関係を取り結ぶ場合を考え、吉見俊哉は1対Nの関係を取り結ぶ場合を想定しているとした。その比喩で言えば、ここで考えるのは、言わば「1対ゼロ」の関係とでも言うべきものだ。そこでは、人間は自分とのみ関係を持つ。あるいは、この言い方が持って回って響くなら、単純に「孤独」なユーザーたちと言ってもよい。これが最後の電話ユーザーの類型である。
     この「孤独」にインターネットで活動するユーザー像というのは、かつてのネット論においてはむしろクリシェだった。例えば、パソコン通信、ホームページ、2ちゃんねるなどの匿名掲示板……そうした場所は事実、社会からも家族からも切り離された「個室」で孤独に展開されてきた趣味や自己イメージが、膨れ上がった自我そのままに表出したような空間だった。だが、そうしたパソ通やHPの思い出も、もはや「黒歴史」という言い方で回顧されることが増えた。この言葉の台頭がソーシャルメディアの流行に伴い、リアルグラフとネット上のバーチャルグラフが一致していく時期に当たっていたのは象徴的だ。
     その一方で、この「個室」における孤独な消費は、現在も静かに拡大を続けている。例えば時折、有名サービスのレコメンデーションやランキング機能に思わぬ商品が登場して話題になることがある。数年前には、Amazonで硫化水素入りのトイレ洗剤のページに、ポリ袋などの商品がレコメンドされることが話題になった。あるいは先日、筆者が体調を崩してAmazonで健康グッズを調べていたところ、ジャンル内の人気商品として巨大なバイブレーターが登場してきて、思わずのけぞった。もちろん、多くの日本人にとって肩こりは悩みの種であるが、さすがにこれを多くの人間が必要とするほど病が進行しているとは思えない。

    ▲Googleで「夫 こ」と打ち込むとこのように表示されます……。
     こんなふうに誰の目も気にせず孤独に使う類のサービスで集積されたデータが、ふいにランキングやレコメンデーションという形で「表象」の場に引きずり出されたとき、私たちはギョッとする。それは、「孤独」に利用するインターネットというあり方を、いかに私たちが意識の奥に追いやっているかを静かに告発する。だが、他者の視線に晒されてFacebookやLINEを使う時間と、一人Amazonやpixivで気の向くまま消費活動を行う時間―― 一体、本当のあなたはどっちにネットの時間を割いているのだろうか?
    「忘れられた思想家」浅羽通明
     さて、そろそろ本題に入ろう。私は今回、この「1対ゼロ」、すなわち「孤独」な電話ユーザーのことを考えた一人の思想家について考える。彼は、そんな電話ユーザーたちを「オナニスト」と呼び、激しく批判した。そして彼は、ほとんどその後の作家人生を賭けて、この問題を考え続けた。その人物の名を、浅羽通明という。 
     もしかしたら、PLANETSの読者には、この名前に懐かしい感情を抱く人は多いかもしれない。だが、多くの読者は聞いたこともないだろうし、もはやWikipediaに書かれていること以上に、手短に浅羽を説明するのも相当に難しい。
    浅羽通明 - Wikipedia
     例えば、彼がかつて小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』にブレーン的に関わっていたと言っても、いまやその後に『戦争論』を書いた小林が一周回ってネトウヨの敵になっているという、タイムマシンに乗って当時の読者に話したらキョトンとされそうな時代である(いや、意外とそうでもない……?)。同様に、当時の浅羽の「おたく」批判も、現代ではもはや文脈を違えてしまった。その矛先は大塚英志のような彼と同世代のインテリ趣味人としての「おたく」、後の言葉を使うならば「第一世代オタク」に向けられたものであって、そこにこそ彼の「おたく批判」と「知識人批判」が同一の地平で行われる理由もあった。しかし、既にオタクの世代も何度も入れ替わり、今や「ヲタ」は単なる趣味のカジュアルなカテゴライズ以上のものではなくなっている。
     しかも、浅羽はインターネットを嫌っていた。そのことは、後述するライブドア事件に寄せた識者コメントや、その認識の延長線上に書かれた『昭和三十年代主義』(幻冬舎・2008)を読めば分かるように、近年の彼の言論からアクチュアリティを奪っている。
     だが、それでもなお浅羽が問い続けたテーマを、私たちは考え直さねばならない。それは、こうして彼の問題意識が失効されていった過程に、現代を覆う消費社会の中でのインターネットの立ち位置もまた見えてくるからである。したがって今回は、この浅羽を通じてネットと「孤独」を考える。実のところこの話題、本連載における主題(※)からは些か脱線気味なので、サラッと片付けるべきだとも思ったのだが、重要な割にほとんど議論されていない問題でもあるので、むしろ一回分を割くことにした。おそらく、本メルマガが事業者に取材して回っているECサイト等の生活系サービスや検索エンジンの問題系、あるいは尾原和啓氏による連載「プラットフォーム運営の思想」を読者が考える補助線になるはずだと思う。
     
    (※)前回にも記したように、本連載はむしろ吉見俊哉の「1対N」のモデルに大きく寄せて、ユーザー文化論を展開していく予定である。
    浅羽とオナニスト――1.なぜそれは"おぞましい"のか
     まずは、浅羽の考えるオナニストとは何かを確認しよう。

    「他者は、それが一個の人格である以上、「私」と同じように、「私」を眺め、「私」を観察する。他者には視線があるのだ」(『澁澤龍彦の時代―幼年皇帝と昭和の精神史』p86)

     これは著作『澁澤龍彦の時代―幼年皇帝と昭和の精神史』(青弓社・1993)で浅羽が引用した、澁澤龍彦のエロティシズム論の一節である。浅羽は視覚とエロティシズムを結びつける視覚的な快楽の追求(「眼の欲望」)が、強引に対象を切り取り、対象をモノと化す行為であることを指摘する。そして、それが同時に「私」を観察する異性という他者への怯えと裏腹であることを指摘して、こう語る。

    「かくして「眼の欲望」の時代は、その裏面としての女性の視線におびえる童貞青年が増大する時代となる。彼らは「視線を意識しないで済む」「物(妄想のなかの死んだ相手)」が相手でなければ、性行為ができないオナニストたちなのである」(同書p86)

     ここで浅羽は「視線」を媒介にして、オナニストを説明している。せっかくなので、前回までの議論とこの浅羽の論を接続してしまおう。吉見にとっての「電話(伝言ダイヤル)の相手=他者」とは、演劇場の観客のような複数形の「他者」の眼差しとしてあった。しかも、それは未来から投射される故に、原理的に制御できない受動的なものだ。一方で、富田にとっての「電話(ツーショット)の相手=他者」とは一対一で向き合う、現在進行形で調整可能なものとしてあった。そこでは都市で登場するような見知らぬ他者を排除した、親密でほとんど自分と一体化した存在として他者をイメージできる。それは最終的に、互いに鏡写しに自らの視線の反射を確認しあうような姿になる。
     それに対して、オナニストにはそもそも自らを眼差す他者がいない。その代わりに、ただ徹底的に能動的に対象を眼差すのである。浅羽は、この眼差しの特徴について、「見るという関係性が優先してしまうと、もはや相手と溶け合うことができない」と表現する。その眼差しが人間に向けられたとき、それは極端に視覚に偏った、相手の内面に宿る個別性を徹底的に無視する、類型的で表層的な人間把握へと至る。そして浅羽は、その志向が一線を越えたときに、博物館の陳列ケースに過去の剥製を蒐集し続けるが如き、自立したデータベースを築く意思が生じるという。まさに"おたく"である。
     実は、このオナニストが浅羽の著作に現れたのは、このときが初めてではない。例えば、遡ること四年前のブックレット『伝言ダイヤルの魔力 電話狂時代をレポートする』(JICC出版局・1989)所収の「伝言ダイヤル症候群 どこかの誰かが上手くやっている」において、それは主題として論じられた。これはまさに伝言ダイヤルについて、若き日の浅羽が論じた文章でもある。
     この中で浅羽は強い調子で、ほぼ全編にわたって伝言ダイヤルを批判した。それは激しく感情的なもので、例えば後に評論集『天使の王国―「おたく」の倫理のために』(JICC出版局・1991)で同時に収められたセブン-イレブンを巡る、ほとんど現在のコンビニ論としても通用する理知的かつ網羅的な論述とは、対照的でさえある。ここで興味深いのは、浅羽が吉見とは全く別の認識で「伝言ダイヤル」を捉えていることだ。例えば、冒頭で浅羽は、吉見が「間接話法」と呼んだ伝言ダイヤルの話法を、にべもなくこう切って捨てる。

    「彼らの話法が、とんねるずに代表されるTVのバラエティ番組の若い司会者もしくはラジオのパーソナリティの語り口のコピーであることはまず明らかだ。それは多少の訓練で即、口をついて流れ出してくるくらい、彼らの耳に親しい話法なのだろう」(『伝言ダイヤルの魔力 電話狂時代をレポートする』p32)

     
     日本のカルチュラル・スタディーズの第一人者・吉見俊哉が、後に「他者のまなざし」を観客とした即興劇として描いた伝言ダイヤルも、気鋭の若手おたくライター・浅羽の手にかかれば、単なる芸人口調の安易な劣化コピーでしかない。では、浅羽にとっての伝言ダイヤルとはどんなものか。浅羽は、見知らぬ他者のコミュニケーションが、本来は相互警戒のプレッシャーを解く場面から始まることを指摘する。しかし、伝言ダイヤルではそれを失わせるどころか、声と断片的情報しかないことから、むしろ手前勝手な妄想を相手に抱けるのである。

    「相手方の他者性は希薄となり、半ば己の妄想を相手とする相互オナニー的交流が始まることになる。部外者にはなんとも異様に聴こえる演技過剰な伝言メッセージの語りの定形は、自分の他者性を希薄化するためのルールに他ならない。それは相手も当方も、他者ではなく己の妄想を相手にすれば済むように、各自を声のオナペット化する技術であった」(同書p33)

     ここでも、吉見と浅羽の論はすれ違う。吉見においては、むしろ自己の声さえも他者性を帯びるのが、伝言ダイヤルにおける発話だったからだ。一方でこの認識は、吉見よりもむしろツーショットにおいて富田が指摘した「ナルシシズム」に近いようにも見える。だが、ここでは自らの欲望を動物的に満たす対象=オナペットとして、相手が利用されている。比喩的に言えば、富田において電話相手は自分自身だが、浅羽にとってはただの妄想にすぎない。そして、富田は実はこうした電話コミュニケーションを現代人が自己愛を調達する手段として必ずしも否定的に捉えてはいないが、浅羽の認識においてはもはや自己愛すらも存在しないのだろう。あるのは一方的な眼差しであり、ただコンビニでオニギリを買うように、即物的な欲望のはけ口として相手を消費する行為だ。若き浅羽はその醜悪さに唾棄する。

    「どことなく長電話に伴う後ろめたさ、いたずら電話やテレフォン・セックスの醜悪さも、おそらく他者である相手を、オナペットと化して、相互にオナニーを楽しんでいるというおぞましさに由来するのだろう。費やされる膨大な性的想像力によって電話の彼方の異性を、こちらの思うがままのオナペットと化す点において、ヌードや下着から性的欲望を喚起する視覚によるオナニズムの場合とはまた異なって、電話のオナニズムはおぞましい」(同書p33)

     浅羽の論はその後『メンズ・ノンノ』が創刊された1985年頃に、社会に"普遍的な"「オナニズム」が誕生したとして、消費社会論の視点からその成立の分析を展開させていく。その内容そのものも興味深いが、むしろ重要なのは、オナニズムに対する浅羽の興味が、消費社会論と強く結びついていたことそれ自体だろう。浅羽は消費社会そのものの達成には極めて肯定的な思想家だった。だが、そんな彼がここでは激しく動揺し、終始書きなぐるようにして憤り続ける。それはなぜなのか。
     先に挙げた著作『澁澤龍彦の時代』も、実はこの電話論で表明された「憤怒」の延長線上に位置づけられる。糸井重里の西武百貨店のコピー「ほしいものが、ほしいわ」に象徴される消費社会とは、まさに他者の目を気にしないまま「孤独」に欲望を満たす生き方が(都市の若者には)可能になった社会でもあった。その「オナニスト」の生き方こそが、浅羽もその一人であったおたくやニューアカに純粋な形で象徴される、消費社会に登場してくる新しい「生」のありようであった。
     だが、それは当時の浅羽の目には危機に瀕していた。本の冒頭で浅羽は、同世代のニューアカ周辺にいた物書きたちが、チェルノブイリ原発、湾岸戦争の光景、そして何よりも埼玉連続幼女誘拐殺人事件(宮崎勤事件)に激しく動揺し、浮き足立ったことを苦渋とともに語る。その動揺の所以は、浅羽が語るところでは、自らの自閉的な生き方のもたらす末路を、そうした事件の陰惨に見出したからであった。とすれば、伝言ダイヤルにおける浅羽の動揺もまた、まさにその点にこそあったのではないか。例えば、浅羽は伝言ダイヤルにおけるオナニズムの、情報の交換と己の妄想によるイメージ補填に、一種のワナビー構造を見出している。互いに芸人口調を真似し合い、「上手くやってる」ナンパ師になった気分を味わい合う。その怠惰な遊戯に、当時の浅羽はほとんど国の危機すら憂う調子で筆を進める。だが、そこには後に、彼がニューアカ批判の文脈で反省的に語った、自身の似姿を見出してはいなかったか。
     そして、そんな最中に浅羽は「オナニスト」であることに堂々と居直るばかりか、それをモラルの糧とした澁澤の文章に出くわし、瞠目したという。浅羽にとって、人形やゴチックを愛好した異端の文学者・澁澤龍彦とは、まずはそんな「オナニスト」の青年たちの早すぎた先駆者としてあった。そして、1993年の浅羽がこの『澁澤龍彦の時代』で問うたのは、早すぎた「オナニスト」であるはずの澁澤が、何故に健康で、意外にもモラリストの相貌さえある精神性を保ち得たのかという問いだった。つまりは――なぜ澁澤龍彦は宮崎勤にはならなかったのか。その謎をひたすらに追求したこのとき、浅羽の「オナニスト」は克服さるべき消費社会の時代精神となった。そして、その最終的な解答は、小林よしのりの漫画『ゴーマニズム宣言』と並走した90年代の充実した成果を経て、「世間」「分際」「職能の協働」などの一連のキーワードからなる処方箋へと結実していくことになる。
    浅羽とオナニスト――2.処方箋としての「職能の協働」
     では、その最終的な解答とは何だったのか。それはある時期以降の浅羽が何度となく取り上げた劇作家・福田恆存の、この言葉に行き着くのではないか。

    「人間は生産を通じてでなければ附合へない。消費は人を孤獨に陥れる」(『消費ブームを論ず』福田恆存)

     
  • なぜチャットは「部屋」なのか(稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』第3回)☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.209 ☆

    2014-11-26 07:00  

    なぜチャットは「部屋」なのか(稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』第3回)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.11.26 vol.209
    http://wakusei2nd.com


    本日のほぼ惑は、好評連載『ウェブカルチャーの系譜』をお届けします。前回連載では「現代のネットカルチャーの成り立ちを考えるために、その前史として『電話ユーザーたちのコミュニケーション』を考えるべき」という問題提起がなされました。今回は、80-90年代に一世を風靡した「ダイヤルQ2」「伝言ダイヤル」を振り返りつつ、富田英典・吉見俊哉らによる「電話コミュニケーション」批評の可能性と限界を考えます。
    稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』これまでの連載はこちらから。
     

    『ネット起業! あのバカにやらせてみよう』岡本呻也(文藝春秋・2000)という本の中に、iモード開始直前の時期に交わされたという、こんな会話が登場する。



     「浦島太郎みたいに浮世離れした人ですねえ。でも僕らは今、携帯電話に情報配信する商売をやってるんですよ。今からやるんなら携帯ですよ」
     真田はすばやく計算して言った。Q2の経験で、スポーツで売れる情報は競輪競馬、プロレスと、サーファー用の波情報のみ、と相場が決まっていたからだ。サーフィン人口はごく少数に過ぎないのだが、海岸にどのような波が立っていて、人出がどのくらいあるかという情報を求めている人は確実にいる。
     「携帯電話? なんじゃそりゃ。おおっ、これはいいかも」
     「サーフポイントの波の情報はどうやって取るんですか」
     「それは簡単だよ。藤沢にあるサーフレジェンド社が"波伝説"というのをファクシミリで流しているから、それをそのまま流せばよい。
     ところで何で堀君が真田君と一緒にいるの?」
     実は彼は、大学時代の堀の兄貴分でもあった。この浦島太郎は金の卵を持ってきてくれた。
     ドコモに持っていくと、「やってみよう」ということで、企画が通った。サーフレジェンドの、ダイヤルQ2時代以来の長年の実績がモノを言った。
    (出典:http://www.nin-r.com/uneisha/netbaka/511.html )

    この本が書かれたのは、20世紀末に巻き起こったITバブルの末期。いわゆるビットバレーの担い手の姿を活写したこの本は、現在インターネット上で全文公開されている。ここに出てくる真田とは、実は現在ソーシャルゲーム『ラブライブ!』などが大人気のKLabの創業者・真田哲弥である。そして、この真田が堀主知ロバートらと共同で設立した会社が、iモードなどへの携帯コンテンツ提供で大きく名を上げたサイバード社である。
     

    出典:http://lovelive.bushimo.jp/
     
    1985年の電気通信事業法の改正以降、民営化されたNTTは新規事業の展開を迫られる中で、矢継ぎ早に電話事業に関する新しい施策を繰り出してゆく。その中で起きたのが、電話の「多機能化」であった。
    電話を使ったテレホンサービスには、それ以前にもキャッチホン(1970年)や転送でんわ(1982年)などの利用者の利便性にフォーカスしたサービスが既に存在していた。しかし、この時期から矢継ぎ早にNTTが繰り出したのは、伝言ダイヤル(1986年)などの人間のコミュニケーションのあり方そのものに介入していくサービスであった。
    そんな「多機能化」が臨界点を迎えたのが、1989年に登場したダイヤルQ2(以下、Q2)である。それは、現代風に言えばテレホンサービスの「オープンプラットフォーム化」であった。Q2はそれまでの事業とは違い、利益をNTTが独占するのではなくて、電話回線を登録者に開放してサービスを開かせ、その決済代行の手数料徴収で回していくビジネスだった。そこでは教育や育児相談、あるいはコールカウントと呼ばれる世論調査システムなど、多彩なテレホンサービスが提供されており、株式やスポーツの速報を、新聞やテレビより早く伝えるチャンネルなども、高い人気を博していた。
    このビジネスモデルを聞けば、多くの人がお気づきだろう。音声による提供になっているものの、これは後にNTTドコモが携帯電話において、データ通信で行った「iモード」における情報提供サービスの原始的な形になっている。実は、真田はかつてこのQ2事業における風雲児だった。そして、そんな真田が社会的バッシングの中で会社を潰すものの、当時の知識を活かしながらiモードで再起してゆくというのが、先の本のクライマックスを成している。実はQ2で人気があったコンテンツは、波情報のサービスがiモードでも成功したように、後にガラケーで人気を博すようなコンテンツに似通っていたところがある。女性向けの占いサービスなどはその良い例だし、そもそもQ2上がりの人間が係るサービスも少なくなかったと聞く。
    とはいえ、多くの人はダイヤルQ2に対して――iモードとは違って――おそらく「出会い系」のイメージがあるのではないか。それもあながち間違っていない。実際、最終的にQ2で大きく収益を得たのは、そうした健全なインフォメーションサービスではなかったと言われている。そもそも、そうした単方向サービスはシステムの構築も運営もコスト体質で、ビジネス的な旨味には乏しかった。
    代わりに大きく発展したのは、「場所代」を取るサービスである。複数人の同時通話を可能にするパーティーラインや、相手に番号を知らせず電話をかけられるツーショットなどの、「多機能化」した電話サービスを利用した、コミュニケーションの場を提供する事業こそが人気を得た。それこそが、まさにここから取り上げていく、NTTの意図を大きく裏切って発展した、「出会い厨」のユーザーたちに向けられた「電話コミュニケーション」の場であった。
     
     
    ■「電話論」の限界とその可能性
     
    前回に予告したように、これから私は80年代の後半から可視化されていった電話ユーザーの生態を紹介していく。私が注目するのは、彼らが受話器の向こう側にイメージした匿名の「他者」と取り結ぶ関係のありようである。
    電話とは、本来は電話番号を知っている知人と一対一で通話するためのツールに過ぎなかった。しかし1985年以降、NTTは電話を多機能化させる中で、結果的に後のインターネットに通じる二つの機能を導入した。一つは、電話番号を互いに知らせず、匿名性を保ったままで互いに電話する機能。これを一対一で行えたのが、後に社会問題となり「公営のテレクラ」とまで非難されたダイヤルQ2のツーショットである。また、NTTは一対一で通話を行うだけでなく、複数人で回線を共有して、リアルタイム(=同期型)にコミュニケーションを行えるパーティーライン(1989年開始)や、バラバラの時間(=非同期型)に録音メッセージを吹き込んでコミュニケーションできる伝言ダイヤルの機能も提供した。
    つまりは、コミュニケーションにおいて匿名/実名、一対一/多人数、同期/非同期などを選択できるようになった結果、受話器の向こうにイメージする他者との関係が多様化したのである。そして、驚くべきことに、そうした各々のシチュエーションにおける電話のコミュニケーションは、現代のネットユーザーの姿によく似ているのである。これがインターネットとは関係のない場所で成立したがゆえに、それは示唆的であるし、まさにそれ故にこそ私はここから議論を始めるのだ。
    ここからは、以下の3つの本の著者の議論を紹介しながら、どのように電話ユーザーたちが「他者」との関係を取り結んだと、彼らが考えたかを紹介していく。まず、一人目はダイヤルQ2研究を行った『声のオデッセイ―ダイヤルQ2の世界 電話文化の社会学』(恒星社厚生閣・1994)の富田英典、二人目は電話論の古典となった『メディアとしての電話』(弘文堂・1992)共著者の一人で都市論や万博の研究でも有名な吉見俊哉。そして、三人目は伝言ダイヤルのナンパについて論じ、後年『「携帯電話(モバイル)的人間」とは何か―"大デフレ時代"の向こうに待つ"ニッポン近未来図"?』(宝島社・2001)を著した浅羽通明である。彼らは三者三様のやり方で、80年代後半から登場した電話ユーザーたちに光を当てた。
     

    ▲『制服少女たちの選択』宮台真司(朝日文庫・1994=2006)
     
    ただし、彼らの論を見て行く前に、そこに孕まれたある種の限界を指摘しなければならない。社会学者の宮台真司は『制服少女たちの選択』(講談社・1994)で、電話にまつわる既存の社会学的言説を数十ページにわたって徹底的に批判している。宮台の苛立ちは、おそらく多くの「電話論」がそのコミュニケーションを、現実と切り離された仮想的な共同体として描くことで、背景にあるリアルの社会的文脈に目を向けないばかりか、その問題を温存してさえいる点である。強烈な調子の批判が延々と続いた最後に、宮台はこう言い放つ。

    わたしは、電話や「電話風俗」にかかわるコトバは、一種の踏み絵かリトマス試験紙のようなものだと感じている。そこには、メディア周辺に生じる一見新奇な現象を、「メディアが開く新たな身体性」(という神話!)に帰責したり、「理解不能な若者」(という他者性!)に帰責したりするような、陳腐で怠惰な物言いがあふれかえっている。そこでは「ニューアカ的共同体」と「赤提灯的共同体」がともに臆病に温存されるばかりで、問題の本質はいつまでたってもおおい隠されたままだ。「電話風俗」や「ブルセラショップ」や「アダルトビデオ」の取材で出会った何十人もの「普通の」――メディアが煽り立てる「フツーの」では断じてない!――女の子たちは、そのことをわたしに教えてくれるのである。
    (『制服少女たちの選択』宮台真司,講談社・1994,p116-p117)

    宮台のこの指摘は、まさに3人の論に見事に当てはまる。実際、匿名の電話コミュニケーションが基本的にリアルでの出会いを目的とした「電話風俗」であったことに対して、特に富田と吉見に顕著であるが、彼らはそこに言及しながら、しかし理論に組み込むのを奇妙に拒絶する。そのことが、いま読むと彼らの論に一種の"ニュータイプ論"的な若者論にありがちな寒々しさを与えているのもまた否めない。
    現実問題、今となってはネットのヘビーユーザーやサービス事業者であれば、匿名の、それも一対一を基調としたコミュニケーションが「出会い系」の温床であるのはほとんど常識に近い。その意味では、この宮台の指摘こそが、現代のネットユーザーの本質に迫っているという言い方もできるだろう。だが、これは奇妙な逆説なのだが――実はこの「出会い系」の側面を否認することで彼らの論に生じた歪みこそが、かえって当時の電話よりも、後世のインターネットユーザーを上手く映しだしてしまった面もあるのである。
    もちろん、そこには今なおネットの多くの場所が匿名的な、リアルと切り離された「仮想空間」としてイメージされている事情もある。「イメージされている」というのは、いかに「仮想空間」で匿名のコミュニケーションに興じているように見えようと、必ず全てのコミュニケーションは「現実空間」に通じているからだ【註】。なにせ会話の中で待ち合わせ場所や連絡先を教えてしまえば、その瞬間にすぐさま「出会い」という「現実空間」へと繋がる穴が穿たれる。故に人気のSNSやメッセンジャーの運営はカスタマーサポートコストが悩みのタネになる。そもそも優れたコミュニケーションサービスとは、人間と人間を効率的にマッチングする仕組みのことであり、それは常に優れた出会いを提供する仕組みたらざるを得ないのである。
    この全ての"バーチャルな"コミュニケーションにぽっかりと開く「出会い系」という穴に対して、そしてナンパ師を自称して「何十人もの」フィールドワークを重ねたと豪語する宮台のリアリティに対して、以下の3人はあまりに無防備である。だが、そこから目を背けた故に記述された、彼らの議論に秘められたポテンシャルもまた存在する。なぜなら彼らの知性は結果的に、一種の不可知論としての他者が、いかにコミュニケーション過程で把握されるかという、対面でのそれにすら孕まれる高度に普遍的な課題に挑んでいたからである。その確認から、まずは私たちは始めよう。
     
    【註】逆に言えば、コミュニケーションが自然に生じさせるリアルへの穴を無理矢理に塞いだときに、そのプラットフォームは「仮想空間」へと近づいていく。アバターサービスやオンラインゲームの企業で、カスタマーサポート部署が果たす大きな役割は、ある意味でそこにある。彼らは、いわば現代のアトラスである。後に私たちはアバターサービスの発展史を記述する際に、この「仮想空間」と「出会い系」の関係を再び見ることになるだろう。
     
     
    ■富田英典:インティメイト・ストレンジャー ――1.自己を反射する鏡としての「声」
     
    私たちは前回、電話の戦後史を文芸批評家・江藤淳の「閉された言語空間」を出発点として記述した。その江藤淳が田中康夫の小説『なんとなく、クリスタル』を絶賛したのは1980年。それから5年後の85年のプラザ合意の頃から始まった円高基調は、そこで田中康夫が描いた享楽の消費社会の風景を日本に本格的に展開してゆく。同時にこのプラザ合意の年は、電電公社がNTTに民営化された年でもあった。
    社会学者の富田英典がQ2の研究を行った著作『声のオデッセイ ダイヤルQ2の世界――電話文化の社会学』(以下、『声のオデッセイ』)の冒頭は、そんな電話の「多機能化」と消費社会の進展が歩みを揃えた時代背景を、こう表現する。
     

    ▲『声のオデッセイ』富田英典(恒星社厚生閣・1994)

    ダイヤルQ2のリカちゃんダイヤルは、ダイヤルQ2の本質を突いている。ダイヤルQ2で人気をよんだ「アダルト番組」「パーティーライン」「ツーショット」などは、大人向け、あるいは青少年向け「リカちゃん電話」なのである。ポルノ雑誌のグラビアで微笑む若い女性の声が聴けたり、AV女優が、直接、電話でしゃべってくれる。それは、着せ替え人形の「リカちゃん」の声が電話で聞ける「リカちゃん電話」と同じ構図である。
    (『声のオデッセイ』p4)

    「リカちゃん電話」とは、1967年に始まった老舗テレホンサービスで、普段は聞くことのできないリカちゃんの声が聴けるサービスだった。この文章は、消費社会の中で流通するシミュラークルとしての商品に対して、人々が求める現実的な手触り――例えば、好きなグラビア女優の声を実際に聴きたい、というような――への欲求に擬似的に応えるものとして、当時のQ2があったことを示唆している(ちなみに21世紀の日本人は、そんな欲望を「握手会」という大変にアナログな形で満足させている)。
    しかし一方で、2014年にこの文章を目にする私は、この富田の言葉たちを単純に奇妙に思う。例えば、パーティーラインという機能は、本当にリカちゃん電話に喩えられるべきものなのか。少なくとも、こちら側からも話しかけていくのを基本とする「能動的」な双方向メディアであるパーティラインを、録音された声を流す「受動的」な単方向メディアにすぎない「リカちゃん電話」と同列に語るのは、やはり座りが悪くはないか。匿名での一対一の通話であるツーショットにも、やはり同様の指摘は可能である。そもそもを言えば、先にも記したような実際に出会う「電話風俗」の側面を考えても、虚構の音声にすぎないリカちゃん電話と比較するのはおかしい。
    この冒頭に象徴される奇妙な「受動性」は、実は富田がこの本で展開する、多岐にわたるQ2文化の紹介と分析のあらゆる場面を覆う基本的な態度である【註】。とにかく、この本は「声の消費者」としての聞き手の立場からのQ2分析が多い。もちろん、電話における会話の分析が、どうしても聞き手のインプレッションを問うものになるのは仕方ない面はある。だが、実はこれは富田の、匿名的なコミュニケーションを行う電話ユーザーに対する理論的立場が要請するものでもある。
    富田の電話ユーザーに対する理論的立場――それを一言でいうならば、「互いの声を自分に都合よく消費し合う関係」である。だが、問題はそこにおける消費の内実である。
    その彼の理解が最も鋭く現れているのは、この本の最後に登場する、途中でリサーチを辞退したという、とある調査対象者の女性の告白ではないだろうか。そのQ2ユーザーの女性は、あるとき「相手の男性が、全部同じ人の声に聞こえてきて怖い」というメッセージを残して、富田の調査を突如辞退したという。それを富田は、耳を澄まして消費しなければいけないような微妙な声の差異がどうでもよくなったからこそ、彼女には全てが同じ声として聞こえるようになったのではないかとする。そして、こう言い放つのである。

    彼女が恐怖を感じた「電話の声」とは、現代の高度化した消費社会と情報社会に魂を売り渡してしまった私たち自身の声だったのである。
    (同書p149)

    Q2の匿名的なコミュニケーションにおいて、人々は発話に微妙な差異を見出そうとするが、本質的にはそこで人々が耳を澄ましているのは自分たち自身の声にすぎないという、結論だけ聞くと奇怪でさえある認識がここにはある。つまり富田にとって匿名での「電話の声」とは、究極的には自分を映し出す鏡のようなものとしてある。そのことを論証してゆくのがこの本なのだ。いわば富田にとって聴き取られた声とは、そのまま私の話す声でもあり、故にこそ聞き手としての立場に固執することが要請されるとも言える――しかし、なぜそうなるのか。
     
    【註】富田は本書で複数の電話ユーザーが通話するパーテイーラインにも紙幅を割いているが、その際に注目しているのも、やはり後のネット用語でいうところのROM専にあたる、会話に参加せずにただ受動的に聴くことだけを目的としたユーザーたちなのである。彼らは「モニター君」「無言クン」と呼ばれていた。余談だが、富田によれば聴くだけでありながらも同意や不満だけは電話のピッピ音で表明する「ピッピ君」と呼ばれたユーザーたちもいたという。これなどは、Twitterのふぁぼやいいね!ボタン程度の中間的な会話への参加を、当時のユーザーたちも欲望の水準で求めていたという事例になっているであろう。なお、パーティーラインについて、本稿では扱わない。しかし、それがどういう場であったかは、以下の2chスレを読めば、おそらく"(察した)"となるのではなかろうか……と思う。
    http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/mukashi/1335389029/
     
  • 稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』 第2回「『電話』から始まる日本的インターネット史」☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.179 ☆

    2014-10-15 07:00  

    稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』第2回「『電話』から始まる日本的インターネット史」
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.10.15 vol.179
    http://wakusei2nd.com


    本日のほぼ惑は、稲葉ほたて「ウェブカルチャーの系譜」第2回をお届けします。2ちゃんやはてなブックマーク、Twitterのようなテキストコミュニケーションではなく、「音声」によるコミュニケーションの歴史を解き明かすことによって描き出される「もうひとつのインターネット史」の可能性とはーー?

    前回記事「神の降臨で2ちゃんねるは変えられるか」はこちらから。

     
    ■「テキスト」国の「議論」村
    ■「文字」で「音声」を"ハック"する装置
    ■「電話」の戦後史――1.「閉された言語空間」における通信
    ■「電話」の戦後史――2.会社から家庭へ、家庭から個室へ
    ■ 情報民主主義の「個」と個室の「個」
     
    前回に続いて、まずは総論的な話から始めたい。
    ウェブビジネスの動向を語る中で、しばしば「言語」のウェブに対して「非言語」の流れが巨大になっていくだろうという議論がなされる。そこでの「言語」が「テキスト」という意味で使われているなら、それは確かに正しい。実際、米国におけるSnapchatやInstagramのような画像投稿プラットフォームの隆盛はその事実を示しているようにみえる。
    だが、例えば先日、AmazonがGoogleと争って買収したTwitchなどは「ゲーム実況」に強みを持つプラットフォームである。このジャンルで最も有名なスウェーデン人のゲーム実況者・ピューディパイはYouTubeチャンネルに3000万人の会員を持ち、2013年に運営から配分された年収は約4億円と言われている。
     

    ▲ピューディパイのYouTubeチャンネル
     
    実は、この「実況」というジャンルでは、「音声」による「言語」表現の面白さが問われるのである。日本に目を移しても、おそらくは最も多くの人間を食わせている娯楽のプラットフォームはニコニコ動画とYouTubeであるが、そこの人気のプレイヤーたちは、歌に実況に生放送にスナック菓子の開封中継に、という具合にとかく言葉を用いた「音声」の芸で勝負を賭けている。つまり、今のネットでカネになると注目されているのは、むしろ(「音声」という意味での)「言語」のウェブなのである。
    もちろん、この「言語/非言語」という区別は、かつては容量の小さいテキストがメインだったインターネットが、画像や動画などを扱えるまでに回線が向上したことを示すためのキャッチーな表現にすぎないのだから、それは当然である。だが、いずれにせよネットの「文化」を探っていく予定の我々には、もう少し細かな区別が必要になる。具体的には、テキスト・音声・画像・アバターなどの様々なメディアの「国家」において、各々のユーザーがいる。彼らはしばしば他国へと旅行するが、やはり軸足は必ずどこかの国に置いている……というくらいの粒度の視点の方が、特に娯楽に近い分野になるほどに多くのネットユーザーの実感に則したものになるはずだ。
    実際、ブログのページビューと動画の再生数を一概に比較できないことなどからもわかるように、ユーザーは各々のメディアの生態系に生息して、独自の振る舞いを見せるものである。その傾向は、ヘビーユーザーになるほど著しい。各々の国家の中には、その国に独特の国民性と統計データがあるのだ。そして、その国家の中には、例えば「音声」国であれば、ヤフチャからニコ生、ツイキャスへと続く問題児揃いの「チャット」村もあれば、ネットラジオの界隈から出てきた今やゲームから旅の風景まで中継してみせる芸達者な「実況」村もあるし、こえ部などでなりきり勢に近い層の集まる「ボイスドラマ」村もあれば、2chのカラオケ板のような場所からニコニコ動画へと流れ込んで今や一大商業圏となった「歌い手」村もある……というふうに、さらに細分化されたクラスタが形作られているわけである。
    前回、特定のプラットフォームやメディアに拠らない「文化」という切り口を提示したが、それに対して今回はむしろメディアごとのユーザーの差異を問題にすることから始めたい。というのも、これは既存のウェブ論がどのようなものであるかを示す上で欠かせない視点なのである。
     
     
    ■「テキスト」国の「議論」村
     
    そもそも、先に挙げたピューディパイやこえ部(正式には、現在はkoebu)などの名前をあなたは知っていただろうか。あるいは知っていたとして、実際にそれらを見に(聴きに)行ったことはあるだろうか。まあ、20代前半くらいまでの読者なら、そもそも実際に楽しんでいるかもしれないが、多くの読者は行ったことすらないのではないか。
    実はこうしたユーザーたちは、ネット論における暗黒大陸のようになっている。「音声」国だけではない。「画像」国や「アバター」国などの実態も、当該クラスタのユーザーたちにしかほぼ知られていない。実際、はてなブックマークやTwitterでウェブについて語っている人たちを見てみよう。彼らがこうした自分の知らないクラスタについて語るときは、大抵は「ガラパゴス論」と結びつけて批判的に語るか、とりあえずオリエンタリズム的に褒めておくか、というあたりになっている。つまり、興味がないのである。
    ここで問題なのは、こうしたネット論を語る人々そのものが「テキスト」国の「議論」村あたりに生息している、大変に狭い界隈の人々でしかないことだ(「狭い」というのは彼らにウケた際に記事に来るPV数も含めての話である)。しかも、その実像をつぶさに見ると、大変に偏りのある集団でもある。
    彼らの多くは団塊ジュニアからロスジェネ付近の、黎明期のテキストサイトや2ちゃんねるの隆盛期に居合わせて、その後にはてなやmixiが流行り、今度はTwitterに移行して、最近はFacebookにいるがNewsPicksも少し気になっている……みたいな感じの、まあすごく乱暴な言い方をしてしまうと、その多くがテキスト中心のネット全盛の時代を過ごしてきた、30代半ば以上の中年男性で、おそらくはパソコンをメインに使っているであろうユーザーである。
    一方で、例えば先に挙げた「音声」クラスタなどは、先駆的にヤフチャやねとらじなどがあったにせよ、基本的には近年ニコニコ動画やこえ部などの登場で大きく盛り上がったクラスタである。女性ユーザーも多いし、10代から20代の人間も多い。といっても、中高生の流行でしょ、といって済ます話でもない。例えば、ニコニコ動画が話題を呼んだ2007年に中二病真っ盛りの14歳だったネットユーザーなど、今年まさに新卒で就活中の年齢である。そういう視点で見たときに、彼らの「音声」や「画像」や「アバター」(ちなみに、筆者はアプリ以前のソーシャルゲームはアバターサービスの一種だったと考えている)への嘲笑的な態度は、単に自分の知らない界隈に対して相応の年齢の大人が抱く冷淡な反応でしかないことがわかるだろう。
    この問題がややこしいのは、最近になって、この「議論」村の住人がなんとなく”ネット論壇”のようなものを形成して、権力を持ち始めたことである。実際、彼らの間で話題になると、数日後に朝日新聞の文化面で取り上げられたりして、「ネットの話題が新聞に出る時代が来たのだねえ」などと牧歌的なコメントがTwitterで流れてくる。
    だが、実際には上に見た通りの無関心がもたらす排除の実態がある。ギャル文化やサブカルであれば出版メディアで専門ライターが確立しており、たとえ大抵の大人は興味がなくとも公的な場への発信者は必ずいる。もちろん、ネトウヨやジョブズについて書けるネットライターもいる。しかし、こうした非「議論」村のネット文化を書くネットライターは、ほぼいないに等しい。そして、こうしたネット論の占有は、例えばカゲロウプロジェクトのアニメ化で起きた大事故などを鑑みるに、やはり放置してよい問題ではないように思えるのだ。
    もちろん、慌てて付け加えておくと、そのことで「議論」村の住人を腐すのはお門違いである。むしろ、そんなことよりも本当に問題なのは、いまだ暗黒大陸となっている文化圏を記述する理論的基盤がどこにもないことではないだろうか。先のカゲロウプロジェクトの問題にしても、ボカロの議論がせいぜい黎明期のN次創作が騒がれていた時代で止まっており、歌い手文化やボカロ小説へと連なっていくようなその後の動きを肯定的に評価する言説が空白地帯となっていたことが、根底にあるように見える。
    そこで筆者が提案したいのは、まず現代のウェブカルチャーの成り立ちを解き明かすような、新しいインターネット史の作り直しである。それは「議論」村の歴史までも含む包括的な歴史観でなければならないだろう。そこまで行ってこそ、理論的な対抗軸になりうるからである。そして、それはパソコン通信があり、それに対してインターネットが登場して、テキストサイト、2ch、ブログ、Twitterと次々にプラットフォームが生まれては、アーリー・アダプタ層がそこに移動していく……というようなありきたりの発展史ではないはずだ。そもそも、それは「テキスト」国の「議論」村の住民たちの正史としては精確だろうが、決して他のクラスタへとそのまま敷衍しうるものではないだろう。
    代わりに、この連載ではパソコン通信よりさらに前の時代に遡り、そこから全く別の包括的な歴史の線を引いていきたいと思う。そもそも私の考えでは、プレ・インターネットに、寝ても覚めても議論ばかりしていたようなパソコン通信を置いてしまうことが、様々なものを見えにくくしているように思う。
    では、代わりに注目するのは何なのか? 私が注目するのは――「電話」である。
     
  • 【新連載】 稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』第1回「神の降臨で2ちゃんねるは変えられるか」 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.130 ☆

    2014-08-07 07:00  

    【新連載】
    稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』
    第1回
    「神の降臨で2ちゃんねるは変えられるか」
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.8.4 vol.127
    http://wakusei2nd.com


    ネット文化をウォッチし続けてきた稲葉ほたてさんが、ついに月イチで連載を開始。『ウェブカルチャーの系譜』と題して、インターネット以降の「文化」を問い直します。

    ■ 「なりきり」文化に見るウェブカルチャーの祖型
     
    筆者がいつもインターネットの文化――特に日本のそれについて考えるときに、必ず思考が戻っていく場所がある。それは「なりきり」と呼ばれる文化圏の存在である。まずは、そこから話を始めてみたい。
    ……と言っても、多くの人はそれを知らないに違いない。筆者にしても存在だけはずっと知っていたが、実際にハマったことは一度もなかった。そうした文化圏の詳しい姿を知ったのは、会社勤めの合間に同僚と始めた同人電子書籍の取材の中で、そのヘビーユーザーだった子から話を聞いたことである。
    「なりきり」とは、一言でいえば自分ではない別の人物になりきって、ネット上でコミュニケーションを図る行為だ。その人物とは、具体的な知人の誰かなどではない。多くの場合は有名なアニメや漫画などのフィクションのキャラクターであり、ときには人気アイドルなどのリアルの人間になりきることもある(いわゆる"ナマモノ"である)。また、少数ではあるが、オリジナルキャラクターを用いた「なりきり」も存在している。
    ここまで読んだ多くの人がお気づきのとおり、この文化は法的な意味で少々デンジャラスである。二次元のキャラクターになりきるにしても著作権の問題が浮上してくるし、三次元ともなると肖像権の侵害という問題が発生してしまい、「なりすまし」との境界線という問題が浮上してくる。故に、基本的には注意深く「検索避け」が施され、表の世界には出てこないようユーザー自身が極めて自制的に行動している。
    また、そんなややこしい問題以前に、なりきりのユーザーは大半が思春期の女の子であることもあって、当人たちとしては"お察しください"な行動の見本市であり、当時のことは黒歴史として固く口を閉ざすべき存在になっている人ばかりである。そんな感じだから、もはや市民権を得た感すらあるBLや、あまり表には出ていないが意外にも話したがる人の多い夢小説のような他の同人サイト文化とは違い、気楽な同人での原稿のわりにはかなりセンシティブな配慮をしながら話を聞かざるを得なかったのが印象深いのだが、そんな取材の中で一つ大変に興味深いことがあった。
    それは、ほとんど全てのネット上の表現メディアにおいて、この「なりきり」の文化が存在していたことである。
    例えば、最も有名なのは、キャラクターになりきってチャットを行う「なりきりチャット」である。これくらいは名前を聞いたことがある人も多いかもしれないが(ちなみに、実際に見に行ってみると、チャットというにはかなり物語性の高い長文の応酬が行われており、むしろリレー小説に近い)、他にもブログを用いた「なりきりブログ」、メルマガスタンドを使った「なりきりメルマガ」、HPを用いた「なりきりサイト」、さらにはmixiをつかった「ナリミク」に、最近では(実はネタアカウントとしての流れもあるのでそことの切り分けが必要だが)Twitterをつかった「なりきりbot」、さらにはLINEをつかった「なりきりLINE」まで……もはや枚挙にいとまがないのでこれ以上はやめるが、つまりは一定規模のユーザーが使っているツールやプラットフォームには、必ず「なりきり」は存在していると断言してよいくらいだ。
    こうしたユーザーの行動というのは、インターネットの大前提に根源的に逆らったものである。そもそもインターネットという場所は、その成り立ちからして人間がそこに「演技」や「フィクション」などの「嘘」の言葉を記すことを前提としていない(故に「虚構新聞」のような嘘サイトはその倫理を常にユーザーから問われるのだ)。ネットの検索流入の巨大な部分を占めるGoogleが自ら公開している検索評価のガイドラインでも、あたかもそんな表現活動はインターネット上に存在しないかのように記されている。
    だが、それにも関わらず、この「なりきり」という行為を行うユーザーは、検索避けなどで周到に公の目から隠れながら、必ず登場してくる。おそらくは、どのような意図のもとに作られたプラットフォームであろうとも、それは逃れられない。たとえアカウントを用いない匿名のサービスであっても(※)、おそらくは人の手による「表現」を投稿する機能を搭載している限りにおいて、「なりきり」のユーザーは必ずぽこぽこと現れてくる。ネットサービスという場所を与えられたときに、ある種の人間たちが必ず始めてしまうのが、この「なりきり」という行為なのだと言ってよいだろう。
    (※)2ちゃんねるにも「なりきりネタ」の板が存在する。
     
     
    ■ 設計・運営・文化という基本ユニット
     
    いきなりマニアックな話から始めているが、別に筆者はここで「なりきり」の話をしたいわけではない。ただ、インターネットの文化を考えるときに、筆者はこのような場所から出発するしかないように感じているのだ。もちろん、別に人間の黒歴史的などろどろとした欲望を探求せよという話をしたいわけでもない。ただ、思考の立脚点として、言説の足場の問題として、こういう場所から始めるのが必要だと思うのだ。
    例えば、現在このPLANETSメルマガでは、メディアアーティストの落合陽一さんと、楽天執行役員で『ITビジネスの原理』著者の尾原和啓さんの、ウェブを含む現代のITについて考える連載が始まっている。おそらくITに対するこの2つの連載とこの連載を比較するのが、(このお2人と自分を比較するのはあまりに僭越かもしれないが)筆者の立場が最もわかりやすいかもしれない。なぜなら3つの連載は互いに補完する関係でありながらも、大きく異なるものになっていくはずだからだ。
    落合陽一さんの『魔法の世紀』の場合は、初回の連載でも記されているようにコンピュータの作動原理から、21世紀の文化を広く規定する「構造」を記述するものだ。それはビジネスにとどまらず、文化、ひいては人間の意識に至るまで規定するのだと彼は語る。この立場を、テクノロジーの設計の水準にまでさかのぼって原理的な記述を試みるという点で、仮に「設計主義」と呼ぶことにしよう。一方で尾原和啓さんの『プラットフォーム運営の思想』では、いかにして運営者がIT技術を駆使しながら、プラットフォームの運営を行っているのかがわかる内容を目指している。それは運営者目線でインターネットを見ていくということだから、これをまた仮に「運営主義」と呼んでみる。
    では、筆者はこの「設計主義」と「運営主義」という極めて強い説得力をもつ立場である二つの連載に対して、どのような立場からインターネットについて記していくというのか。
    それは、さしづめ「文化主義」とでも言うべき立場かもしれない――と思う。つまり、インターネットの設計思想を無視して、運営者の意図さえも食い破っていく、まさに冒頭の「なりきり」ユーザーのような人々が担ってきた文化のダイナミズムのような場所から、インターネットを見てみたいのである。