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  • 今夜20:00から生放送!たかまつなな×松谷創一郎×宇野常寛「テレビと芸能界は変わることができるか」2019.8.20/PLANETS the BLUEPRINT

    2019-08-20 07:30  
    今夜20時から生放送!「PLANETS the BLUEPRINT」では、 毎回ゲストをお招きして、1つのイシューについて複合的な角度から議論し、 未来の青写真を一緒に作り上げていきます。 今回のゲストは、ライター/リサーチャーの松谷創一郎さんと、 お笑いジャーナリストのたかまつななさんです。 ジャニーズ事務所や吉本興業をめぐる一連の騒動から、 芸能事務所のタレントに対するハラスメントや、テレビ局との癒着が問題視されています。 果たしてこれらの事件をきっかけに「テレビ芸能村」は変わることができるのでしょうか? また、日本の芸能は今後どうなっていくのでしょうか。 今回の出来事を振り返りながら、テレビと芸能界の行方を語り合います。 ▼放送日時放送日時:本日8月20日(火)20:00〜☆☆放送URLはこちら☆☆
    ▼出演者たかまつなな(お笑いジャーナリスト) 松谷創一郎(ライター / リサーチャー
  • 宇野常寛 NewsX vol.35 ゲスト:松谷創一郎 「なぜJ-POPはK-POPに勝てないのか」【毎週月曜配信】

    2019-06-24 07:00  

    宇野常寛が火曜日のキャスターを担当する番組「NewsX」(dTVチャンネルにて放送中)の書き起こしをお届けします。5月21日に放送されたテーマは「なぜJ-POPはK−POPに勝てないのか」。ライター/リサーチャーの松谷創一郎さんをゲストに迎え、近年のK-POPの人気の要因を分析しながら、J-POP、特に2010年代前半に隆盛した日本のアイドルカルチャーが、なぜK-POPに勝てなかったのかについて考えます。(構成:佐藤雄)
    NewsX vol.35 「なぜJ-POPはK−POPに勝てないのか」 2019年5月21日放送 ゲスト:松谷創一郎(ライター/リサーチャー) アシスタント:得能絵理子
    宇野常寛の担当する「NewsX」火曜日は毎週22:00より、dTVチャンネルで生放送中です。 番組公式ページ dTVチャンネルで視聴するための詳細はこちら。 なお、弊社オンラインサロン「PLANETS CLUB」では、放送後1週間後にアーカイブ動画を会員限定でアップしています。
    J-POPとK-POPの世界地図
    得能 火曜NewsX、今日のゲストはライター・リサーチャーの松谷創一郎さんです。松谷さんと宇野さんはどのようにお知り合いになられたんですか?
    宇野 10年程前から僕がプロデュースしている媒体で書いてもらっています。昔は映画関係の原稿をお願いすることが多かった。それと今日のテーマのように音楽や芸能関係で出てもらっています。松谷さんが『ギャルと不思議ちゃん論』という本を出した時に対談したりといった付き合いがあります。10年程一緒に仕事をしていて、僕がすごく信頼している書き手の1人です。
    得能 今日は「なぜJ-POPはK-POPに勝てないのか」というテーマになっております。
    宇野 仕事でよくアジアに行くんですが、お店に入るとほぼK-POPがかかっています。
    松谷 アジアというと例えばどの国ですか?
    宇野 香港や台湾、シンガポールです。K-POPがかかっていたことを日本に帰ってきて話すと年上の人から、90年代にはそういった所ではJ-POPがかかってたという話を聞きます。現状を目の当たりにすると、少なくとも対アジアの戦略においてはK-POPがJ-POPを圧倒していると思わざるを得ない。一方でこの国はクールジャパンの掛け声の下にJ-POPやアイドル、そして日本食やアニメといったソフトパワーで世界に存在感を示しそうとしている。けれどもそれが完全に空回っている事も周知の事実。クールジャパンという言葉をポジティブに使うことが非常に難しい状態になってしまった。そういった現状を踏まえた上で「なぜJ-POPはK-POPに勝てないのか」というテーマで松谷さんのお話を聞いてみたいと思います。
    得能 1つ目のテーマは「J-POP対K-POPの現状」です。
    宇野 今回は「なぜJ-POPはK-POPに勝てないのか」というテーマにしました。最初のセクションではそもそも何をもって勝ち負けが決まるのか、というところから話を始めて、J-POPとK-POPの比較を行ってみたいと思います。
    松谷 「J-POP」という言葉ができる前の比較軸は洋楽と邦楽でした。邦楽は常に洋楽に劣ったものと認識されていました。この時の「海外」はイコール欧米で、音楽に限らず日本と海外を比較した時に、日本側には常に欧米コンプレックスがあった。その前提で洋楽と邦楽を比較しています。「洋楽」というのも基本はイギリスとアメリカで、一部フランスなどです。90年代後半にJ-POPがものすごく盛り上がったんです。98年が日本の音楽産業のピークでもあり、浜崎あゆみさん、椎名林檎さん、宇多田ヒカルさんが活躍していた時期であり、安室奈美恵さんが産休に入っていた頃です。ここからJ-POPは落ちていきます。最盛期から今までの間で20年ほど経っています。その間に出てきたのが洋楽でもJ-POPでもない第三項、K-POPだったわけです。韓国がどんどんカッコ良いものになっていった。これをまだ皆さんきちんと整理できていないと思います。洋楽と邦楽の対立軸の外に第三項が出てきてしまった。これは一体何なのかを考えるべき時期が今まさに来ている。今回のテーマのように「勝ち負け」の話をすること自体も、そういった対立構造が読み取れるということだと思います。昔の洋楽以上にK-POPの存在感が大きくなったということです。
    宇野 日本の音楽市場は基本的にドメスティックなJ-POPで満ち足りていて、一部の音楽ファンのために洋楽が意識されている状況がずっと続いていました。そこに第三項が入って来る余地はなかった。なぜその余地が生まれていったんですか?
    松谷 K-POPの歌手たちが日本に向けたローカライズをしてきたんです。
    宇野 戦略的に攻めて来たということだよね。
    松谷 具体的に何をしたかと言うと、ひとつは日本語で歌うこと──つまりローカライズです。BoA、東方神起、KARA、少女時代という順番でした韓国で作ってる音楽に日本語の歌詞を乗せる。一般の視聴者から見れば日本語で洋楽を歌ってる感じがしたわけです。BoAや東方神起はJ-POPにかなり寄っていましたが、2010年頃に少女時代が来たときは完全に洋楽寄りでした。それがすごく新鮮に感じられました。
    宇野 韓国の音楽産業が日本の一億人の市場をターゲッティングして攻めてくるまで日本はK-POPという存在を意識していなかった。
    松谷 ほぼ意識してなかったんですけど、一部の人が知ってはいたんです。知るきっかけはやはりYouTubeでした。K-POPのひとつの特徴を挙げると、YouTubeにフル尺のミュージックビデオを、しかも高画質で配信することをかなり早い段階からやっていました。YouTubeのサービスが開始したのは2006年で、本格化したのは2000年代後半からです。そこにK-POPは上手くアジャストしてきた。しかしJ-POPはいまだにフル尺をだすことをできていません。
    宇野 韓国が外国に出ないといけないのは国内市場が小さいという要因があると思います。人口は日本の半分以下ですよね?
    松谷 音楽に限らず韓国は外需をすごく求めてる国だという点に注意が必要です。これは輸出入の額をGDPで割った数値である貿易依存度を見れば明らかです。依存度が高ければ高いほど外需に期待をしていることになります。この数値が韓国は68%になります。日本は何%だと思いますか? 比較としてシンガポールも何%か当ててみてください。
    宇野 シンガポールはかなり高いよね?
    松谷 シンガポールは218%になります。
    得能 日本は30%前後ですかね?
    松谷 得能さん、近いです。日本は27%です。この数値が意味するのは、日本のマーケットが非常に大きいということです。音楽に限らず経済全分野的に内需が大きい。韓国のマーケットが小さくて外に出ていかなければいけないこと自体はその通りなんですが、そもそも海外に出ていくのが当たり前という気運が国にあるんですね。すごくシンプルに考えてGDP世界2位の中国と3位の日本に挟まれている国です。出て行かない理由なんてないですよね。
    宇野 目の前に巨大市場が2つありますからね。特に日本の場合はコンテンツ産業が内需だけで回っていて、それだけで食えてしまう。
    「K-POPとJ-POPはビジネスモデルが違うから単純に比較できない」は正しいか
    松谷 日本はまだ内需だけで「食えてしまう」と言えますよね。
    宇野 さらに言えば、20年前は完全にバブルだったわけです。K-POPのマネタイズの仕組みはかなり違っている気がします。日本の中で「CDが売れなくなって、フェスが伸びている」と頻繁に言われますが、それでもCDがすごく売れている国ですよね。
    松谷 逆に言うとCDがこれほど売れるのは日本だけです。世界的に今ものすごく伸びているのはSpotifyやApple Musicのような定額のストリーミングサービスです。YouTubeも含んでいいと思いますが、ストリーミングサービスで音楽を発表するのが今は主流になっています。そんな中、日本ではCDやDVDといったパッケージの売上は、2017年では音楽産業全体の72%になります。次に割合が高いのがドイツで、43%ですね。韓国もまだパッケージの割合が高い方で37%になります。アメリカは15%程度です(参照:日本レコード協会「THE RECORD」No.703、2018年6月号)
    宇野 世界的に音楽は配信で聴かれている。配信を通して好きになった曲をライブで聴いたり、コレクターズアイテムとしてのCDを購入してもらってお金を集める仕組みが完成されている。日本だけが未だに30年程前からのビジネスモデルを抜け出せていない。
    松谷 過去の体制にアジャストし過ぎていて、インターネット時代の音楽マーケットに向けて変化できていない。変わろうとする気運は徐々に見られていて、例えばジャニーズJrのSixTONESというグループがYouTubeにミュージックビデオを出していますが、やはり遅すぎる。それに対して韓国は世界で一番インターネットへのアジャストが進んでいる国です。そこから、たとえば2014年にシンガーのPSYが「江南スタイル」で世界的なブレイクもすることも生じましたした。
    宇野 音楽関係の人に、こういった話をするとK-POPとJ-POPではそもそも相手にしている市場が違っていて、ビジネスモデルも異なるから一概に比べられないと言う人がたくさん居る。だからこそ起きていることは深刻だと思う。そもそも違うゲームをプレイしてしまっているからこそ、決定的に負けている。
    松谷 今の日本でやっているゲームがこれ以降に続いていくのかと問い詰めたいですよね。インターネットはなくなりませんから。
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  • 『山田孝之の東京都北区赤羽』が明らかにした〈映像表現〉の臨界点(松谷創一郎×宇野常寛)(PLANETSアーカイブス)

    2018-06-04 07:00  

    今回のPLANETSアーカイブスは、2015年に話題になったドラマ『山田孝之の東京都北区赤羽』をめぐる、松谷創一郎さんと宇野常寛の対談をお届けします。虚実ないまぜのフェイクドキュメンタリー的手法で話題となったこの作品の意義を、同時期にアメリカで話題となった映画『バードマン』などと比較しながら考えます。 ※この記事は2015年6月23日に配信した記事の再配信です。(初出:「サイゾー」2015年6月号(サイゾー))
    ▼作品紹介
    『山田孝之の東京都北区赤羽』(Blu-ray BOX)
    原作/清野とおる 監督/山下敦弘、松江哲明 構成/竹村武司 出演/山田孝之、清野とおるほか 放映/テレビ東京にて毎週金曜24:52~25:23(15年1~3月)
    原作は、作者自身が生活する東京都北区赤羽で見聞きする出来事や、そこに住むクセの強い人々らを描いたコミックエッセイ。スランプに陥った山田孝之が、原作マンガを読んで感銘を受け、知人である山下敦弘に「赤羽に暮らす自分を撮影してほしい」と依頼する形で物語が始まる。
     
    宇野 朝日新聞の連載コラムで、この作品について「フェイクドキュメンタリー最後の傑作」と書いたんですよ。それに対して、映像ディレクターの大根仁さんがテレビブロスの連載で「あれは果たしてフェイクだったのか?」と書いていた。それは「撮影に参加したら、山田孝之の様子がおかしかったから」ということだったんだけど、なんだか話が噛み合っていないと思った。ある程度まで作り込んで、ある程度はガチンコで生の反応を撮るのはフェイクドキュメンタリーの常套手段でしょう?
    松谷 大根さんは「フェイク」という言葉に引っかかったんじゃないかな。『東京都北区赤羽』(以下『赤羽』)と同じく役者が主演しているフェイクドキュメンタリーで、『容疑者、ホアキン・フェニックス』【1】という映画がある。作中で主演のホアキンはぶくぶく太ってヒゲを生やして奇行に走ったりしているんだけど、演出があったにせよ、太ったことや奇行に走ったことは、事実として残る。山田孝之で言えば、現実にある北区赤羽に放り込まれ、そこで生きている生身の人たちと交流したのは紛れもない事実。そこはいくら山田孝之が芝居をしようとしても、ほころぶ瞬間が必ずあって、それこそが面白い。つまり、この手の作品を語るときに、嘘と本当がきっぱり分けられるようなイメージを持ってしまうこと自体がおかしい。ただそんなこと、大根さんは百も承知だと思うので、あえて内側の人間として番組のコンセプトに乗っかったのかもしれませんけどね。

    【1】『容疑者、ホアキン・フェニックス』
    監督/ケイシー・アフレック 出演/ホアキン・フェニックス 公開/2012年
    『グラディエーター』などで知られる俳優ホアキン・フェニックスが、義弟と共に製作したフェイクドキュメンタリー作品。08年に突如歌手転向を宣言するところから始まり、ヒップホップに傾倒して髭面で奇行に走る姿を映し出す。

    宇野 まぁ、とにかく僕が指摘したかったのはYouTubeで少し検索すれば世界中のリアルで面白い映像を無料で観賞できて、そしてその映像がどこまで真実かもわからない今にあって、作家が一生懸命どこまで“嘘”でどこまで“本当”かわからないものを作り上げて、そのグレーゾーンに面白さを見出すフェイクドキュメンタリー的な「映像」は明らかにその存在意義を後退させているってこと。そんな厳しい状況下で、山下・松江両監督はまだフェイクドキュメンタリーだからこそできるものを必死に探し当てようとしているわけなのだけど、要するにその答えとは、存在意義を失いつつある映像を撮ることの自意識を訴えることだったのだというのが僕の見解ですね。そしてこの作家たちの自意識は、作中で描かれる山田孝之の「演じる」ことをめぐる自意識の迷走と、その結果としての自分探しに重ね合わされている。「映像」というものが20世紀に持っていた魔力が解体されつつある時代に生きる、映像作家と映画俳優の迷いだけがリアルだという(笑)。
    松谷 その点で、公開中の映画『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』【2】と『赤羽』は比較することができると思う。『バードマン』にはふたつの自己言及があって、ひとつはハリウッド文脈に対する俳優の自己言及。もうひとつは映画表現史への自己言及。僕は後者のほうが重要だと思う。この2年で、映画界には『ゼロ・グラビティ』と『インターステラー』という宇宙ものが2つあった。つまり、“現実”じゃないものを見せようと思うと、もう宇宙に行くしかなかった。もちろん宇宙は現実にあるんだけど、人が簡単には見られない究極として。さらに、ハリウッドではアメコミ大作やアニメが量産され、実際にディズニーは結果を出している。

    【2】『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』
    監督/アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 出演/マイケル・キートンほか 公開中
    かつてヒーロー映画『バードマン』で一世を風靡したが、現在は落ちぶれている俳優リーガン。自身が脚色した舞台で再起を図ろうとするが、そこに現れた才能ある男の存在や、家族との不仲に苦しみ、やがて彼は舞台の役柄に自己を投影し始める。アカデミー作品賞受賞。

     映画表現にはリアリズムと非リアリズム(あるいは超リアリズム)のふたつの流れがあって、それが近寄ったり離れたりしながら進んできた。ここ最近は離れていたんだけど、今これを急速に結びつけようとする動きがあって、そのひとつが『ゼロ・グラビティ』の前半13分の長回し映像であり、同じ撮影監督のエマニュエル・ルベツキが撮った『バードマン』の、ワンカットで全部を撮り切る表現。非現実をリアリズムで表現しようとしていて、これは批評的だった。4K・8Kテレビの普及やそれに対応したカメラの低価格化で、映像の解像度の高さという映画の優位性すら崩れるときが近づいている。その中で映画は果たしてどうあるべきなのか、というときに、ハリウッドが出したひとつの回答が『バードマン』だとするなら、日本の回答は『赤羽』だったんじゃないか、と言ったら大げさすぎるかな。
    宇野 そう、『バードマン』と『赤羽』はほぼ同じ問題意識に基づいていると思う。20世紀における「映像」は、リアリティの大規模共有装置だったわけじゃないですか。現実の、つまり三次元の体験は、特定の狭い共同体の中のコンテクストをわかっていないと共有できないけれど、映像という二次元に置き直した現実、リアルではなくリアリティであれば広い人間が共有できる。だからこそ映像は社会統合に利用されてきたし、劇映画はずっと自然主義的なリアリズムに基づいた作品を中心に展開されてきた。だけど現代の情報環境はこの前提を崩しつつある。インターネットの登場は、誰もが同じ映像を見ることで大規模な社会が文脈を共有する時代を終わらせつつあるし、作家が作り込んだ映像よりも、中学生がスマホで撮影してネットに上げた映像のほうがよっぽどリアルに感じることができる現実がある。だからこそ劇映画に対する大衆の欲望は現実には撮れないもの・存在しないものを映した表現に向かい、ハリウッドではアニメと特撮ばかりが作られるようになった。そしてアニメや特撮の持つファンタジー的なリアリティのほうが、国家や地域の壁を超えて広く共有されやすい現実が出現している。
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  • 『火花』――“解像度”を上げて現実に対抗するフィクション――メガヒット小説映像化にNetflixが選ばれた理由(成馬零一×宇野常寛)☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.696 ☆

    2016-09-23 07:00  
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    『火花』“解像度”を上げて現実に対抗するフィクション――メガヒット小説映像化にNetflixが選ばれた理由(成馬零一×宇野常寛)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.9.23 vol.696
    http://wakusei2nd.com



    今朝のメルマガは、『火花』をめぐる成馬零一さんと宇野常寛の対談をお届けします。地上波ではなくNetflixで映像化されたピース・又吉直樹による小説『火花』。脂の乗った映画監督たちを起用して作られたこのドラマが、Netflixオリジナル作品だからできたこと、そして、現在のテレビが置かれている状況について語りました。(初出:「サイゾー」2016年9月号(サイゾー))


    (出典)
    ▼作品紹介
    『火花』
    総監督/廣木隆一 監督/廣木隆一、白石和彌、沖田修一ほか 出演/林遣都、波岡一喜、門脇麦ほか 制作/吉本興業 配信/Netflix
    若手漫才師“スパークス”のボケ・徳永は、営業で行った熱海で先輩芸人“あほんだら”のボケ・神谷と知り合う。その存在に惹かれ、弟子入りを志願すると神谷は「俺の伝記を書くんだったらいい」と受け入れる。そこから2人が笑いについて語り合って過ごした濃密な数年間と、売れる/売れないという永遠のテーマに翻弄される彼らを含めた若手芸人たちの姿を描く。原作は、ご存じ第153回芥川賞受賞作。若手から大御所まで、多くの芸人がカメオ出演している。
    ▼対談者プロフィール
    成馬零一(なりま・れいいち)
    1976年生まれ。ドラマ評論家。著書に、『TVドラマは、ジャニーズものだけ見ろ!』(宝島社)、『キャラクタードラマの誕生 テレビドラマを更新する6人の脚本家』(河出書房新社)ほか。
    ◎構成:橋本倫史
    『月刊カルチャー時評』過去の配信記事一覧はこちらのリンクから。
    成馬 小説『火花』がベストセラーになったときは、「お笑い芸人が書いた小説が芥川賞を受賞した」という話題が先行していて、内容面にまで話が及んでいなかった印象がありました。実際、小説ではわかりにくい部分があったのですが、ドラマ版を観ていると、『火花』が描いていたことがなんだったのか、よくわかります。
     全10話で、1話につき1年分くらいの時間経過で描かれるじゃないですか。舞台は2001年から10年頃で、つまりこれってゼロ年代の青春ドラマなんだな、と。微妙な懐かしさがありました。基本的には徳永(太歩)と神谷(才蔵)という2人の若手芸人の話で、彼らはゼロ年代以降のお笑いブームの中で、そこで生まれたルールに則ったゲームを戦わされている大勢の芸人のうちのひとりにすぎないんだ、という小説ではわかりにくかったことが、ドラマ版ではよくわかる。
     神谷は、もしかしたら松本人志になれたかもしれなかった天才型の芸人だったけど、ゼロ年代以降、キャラクター文化がお笑いに流入したことで、芸人の生き残り手段が「面白いキャラをどう演じるか」という勝負になってしまって、芸人を作家として捉える文化が総崩れしてしまった。『M-1グランプリ』のようなコンテストがその比重を高めていく中で、神谷のような芸人がどうなっていくのか、というのがドラマの基本になっていたと思う。
     もしゼロ年代にこの作品が作られていたら、神谷が最後に死んで、残された徳永が思い切りキャラを押し出して売れて成功する、という終わり方になっていたと思うんですよ。でも、そこで終わらずに、それよりも少し先まで描かれるのが面白かった。そこに多分、又吉が芥川賞を獲ったことと、この作品がNetflixで作られたことの意味が透けて見えるんじゃないかな、と思います。
    宇野 原作の小説については僕は、特に興味はないんですよね。ただ、このドラマ版はなかなか面白かった。どこが面白いかというといろいろあるんだけれど、原作の処理で言うと、この小説家デビューによってマルチタレントへと舵を切った又吉が無意識のうちに書いてしまっているところを拾って再解釈することで、ぐっと射程が長くなったと思う。
     徳永=又吉は、芥川賞を獲ったことで究極のキャラ芸人の道を歩み始めたと思うんだよね。ピースのコントは誰も知らないけど、又吉の文芸キャラだけは世間に伝わっていて、芸人として生き残れなくても文化人として生き残るであろうことは、ほぼ確定している。又吉は賢い人間だから、そんなことは百も承知でやっているはずで、「生存戦略として、これを受け入れたんだな」と思った。これって実は、フィクションより現実に起こっていることのほうが面白いという、インターネット以降に世界中で起こっていることを示すひとつの大きな例なんだよね。つまりNetflixは、小説『火花』の存在を凌駕して面白くなってしまっている“又吉現象”と戦わなければいけなかった。そこでどういう戦い方をするのかな、と思ったら、1話60分×10話という長尺を活かして、ほんのわずかなエピソードもめちゃくちゃ時間をかけて描くことで、ひたすら解像度を上げるという勝負に出た。

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  • 『トットてれび』――テレビドラマの死への祝福と哀しみを込めて――『あまちゃん』演出家が送るレクイエム(松谷創一郎×宇野常寛)☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.673 ☆

    2016-08-23 07:00  
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    『トットてれび』ーーテレビドラマの死への祝福と哀しみを込めて――『あまちゃん』演出家が送るレクイエム(松谷創一郎×宇野常寛)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.8.23 vol.673
    http://wakusei2nd.com


    今朝のメルマガは、『トットてれび』をめぐる松谷創一郎さんと宇野常寛の対談をお届けします。黒柳徹子の半生と、名優・渥美清や森繁久彌、脚本家・向田邦子らとの物語を描き、ドラマファンから熱心な支持を集めた本作。そこに漂っていた「死の匂い」が表していたこと、そして、テレビドラマの終わりについて語り合いました。(初出:「サイゾー」2016年8月号(サイゾー))

    (出典)
    ▼作品紹介
    『トットてれび』
    放送/NHKにて4~6月毎週土曜日、全7回 プロデューサー/訓覇圭、高橋練 演出/井上剛ほか 脚本/中園ミホ 音楽/大友良英ほか 出演/満島ひかり、中村獅童、錦戸亮、吉田鋼太郎、ミムラ、濱田岳、松重豊ほか
    NHKの専属女優としてデビューした黒柳徹子と、彼女が立ち会ってきた昭和のテレビの草創期、そこで共に活躍した渥美清や向田邦子といった戦友や先輩たちの生きざまを重ねて描く。毎話エンディングが、スタジオ生演奏の音楽に乗せたミュージカル仕立てになっているのも話題に。1話30分。
    ▼対談者プロフィール
    松谷創一郎(まつたに・そういちろう )
    [ ライター/リサーチャー] 
    1974年生まれ。著書に『ギャルと不思議ちゃん論』(原書房)、『どこか〈問題化〉される若者たち』(共著 /恒星社厚生閣)など。
    ◎構成:橋本倫史
    『月刊カルチャー時評』過去の配信記事一覧はこちらのリンクから。
    松谷 単刀直入にまず言ってしまうと、すごく面白かったんだけど、同時に非常に問題作だとも思いました。なぜなら、このドラマが描こうとしていたことは、テレビ放送というパラダイムの終焉だと受け取ったからです。その最大の理由はあのラストシーン。あれを観たときに、『崖の上のポニョ』(2008年)を連想した。『ポニョ』のラストシーンは大洪水の後の世界で、あそこに出てくる人たちは死後の世界にいる、と解釈できる。宮崎駿の中では人間と自然は地続きで、それを彼なりの死生観で描いたのが『ポニョ』だった。『トットてれび』のラストは、いろんな解釈ができるように作られていて、普通に捉えるならばカーテンコール。
     それで「よかった、よかった」と観てもいいのだけど、森繁久彌(吉田鋼太郎)とか渥美清(中村獅童)とか向田邦子(ミムラ)とか、亡くなった人がぞろぞろ出てくるわけですよ。しかも、子役が演じる黒柳徹子と満島ひかりさんが演じる黒柳徹子、本物の黒柳徹子の3人が出てきて、それぞれに「私は今日の私です」と言う。そこでは、死んだ人と生きている人が地続きになっている。ただ、死者のほうが多いことを考えると、黒柳徹子の遺書のようにも見えましたけどね。
    宇野 その演出の原型は、『トットてれび』演出の井上剛【1】さんが昨春に撮ったドラマ『LIVE! LOVE! SING! 生きて愛して歌うこと』【2】にあったと思う。これは神戸と福島をつなぐロードムービーで、被災してバラバラになっていた福島の学生たちが再集結して、タイムカプセルを掘り起こしに地元へ戻るという話だった。地元に帰ったヒロインが、夜中に見た夢か現実かわからない光景として、無人の街で生者と死者が一緒に歌って踊っている祭りが描かれていた。あれが『トットてれび』の演出プランの原型になっていて、井上さんは確信犯的にあの世とこの世を混在させる演出をしていいる。『LIVE! LOVE! SING!』では被災地とそれ以外という断絶したものをつなぎ得るものとして、あの世とこの世の境界を融解させる虚構の機能がピックアップされていたのだけど、それが『トットてれび』に応用されることで別の意味が加わっている。
     それは要するに、テレビも、テレビが象徴する戦後日本も、これから先はこうやって過去の記憶を温め直すことしかできないっていう宣言と、そこに開き直って最高の葬式をしてやろうっていうこと。その手段として、メタフィクション的なアプローチと音楽の力で生者と死者を混在させている。
     もっとはっきり言ってしまえば、テレビも戦後日本ももう死んだも同然で、僕らはリスペクトを込めてそれを弔う段階に来てしまっているってことを描いているんだと思う。

    【1】井上剛:NHKディレクター。1968年生まれ。『クライマーズ・ハイ』『ハゲタカ』、朝ドラの『ちりとてちん』や『てっぱん』を手がけ、NHKドラマにこの人あり、と注目され、『その街のこども』『あまちゃん』で一躍広く知られるようになった。
    【2】『LIVE! LOVE! SING!生きて愛して歌うこと』:福島で被災し、神戸に移住したヒロインが、恋人の教師と、元同級生らを巻き込んで母校の小学校を目指すロードムービー。15年3月にNHKで放送され、16年1月から再編集された劇場版が公開された。


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  • 『山田孝之の東京都北区赤羽』が明らかにした〈映像表現〉の臨界点(松谷創一郎×宇野常寛) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.350 ☆

    2015-06-23 07:00  

    『山田孝之の東京都北区赤羽』が明らかにした〈映像表現〉の臨界点(松谷創一郎×宇野常寛)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.6.23 vol.350
    http://wakusei2nd.com


    本日は、前クール話題のドラマ『山田孝之の東京都北区赤羽』をめぐる、松谷創一郎さんと宇野常寛の対談をお届けします。虚実ないまぜのフェイクドキュメンタリー的手法で話題となったこの作品の意義を、同時期にアメリカで話題となった映画『バードマン』などと比較しながら考えます。

    初出:「サイゾー」2015年6月号(サイゾー)
     
    ▼作品紹介
    『山田孝之の東京都北区赤羽』(Blu-ray BOX)
    原作/清野とおる 監督/山下敦弘、松江哲明 構成/竹村武司 出演/山田孝之、清野とおるほか 放映/テレビ東京にて毎週金曜24:52~25:23(15年1~3月)
    原作は、作者自身が生活する東京都北区赤羽で見聞きする出来事や、そこに住むクセの強い人々らを描いたコミックエッセイ。スランプに陥った山田孝之が、原作マンガを読んで感銘を受け、知人である山下敦弘に「赤羽に暮らす自分を撮影してほしい」と依頼する形で物語が始まる。
     
    ▼対談者プロフィール
    松谷創一郎(まつたに・そういちろう)
    1974年生まれ。著書に『ギャルと不思議ちゃん論』(原書房)、『どこか〈問題化〉される若者たち』(共著/恒星社厚生閣)など。
     
     
    宇野 朝日新聞の連載コラムで、この作品について「フェイクドキュメンタリー最後の傑作」と書いたんですよ。それに対して、映像ディレクターの大根仁さんがテレビブロスの連載で「あれは果たしてフェイクだったのか?」と書いていた。それは「撮影に参加したら、山田孝之の様子がおかしかったから」ということだったんだけど、なんだか話が噛み合っていないと思った。ある程度まで作り込んで、ある程度はガチンコで生の反応を撮るのはフェイクドキュメンタリーの常套手段でしょう?
    松谷 大根さんは「フェイク」という言葉に引っかかったんじゃないかな。『東京都北区赤羽』(以下『赤羽』)と同じく役者が主演しているフェイクドキュメンタリーで、『容疑者、ホアキン・フェニックス』【1】という映画がある。作中で主演のホアキンはぶくぶく太ってヒゲを生やして奇行に走ったりしているんだけど、演出があったにせよ、太ったことや奇行に走ったことは、事実として残る。山田孝之で言えば、現実にある北区赤羽に放り込まれ、そこで生きている生身の人たちと交流したのは紛れもない事実。そこはいくら山田孝之が芝居をしようとしても、ほころぶ瞬間が必ずあって、それこそが面白い。つまり、この手の作品を語るときに、嘘と本当がきっぱり分けられるようなイメージを持ってしまうこと自体がおかしい。ただそんなこと、大根さんは百も承知だと思うので、あえて内側の人間として番組のコンセプトに乗っかったのかもしれませんけどね。
    【1】『容疑者、ホアキン・フェニックス』
    監督/ケイシー・アフレック 出演/ホアキン・フェニックス 公開/2012年
    『グラディエーター』などで知られる俳優ホアキン・フェニックスが、義弟と共に製作したフェイクドキュメンタリー作品。08年に突如歌手転向を宣言するところから始まり、ヒップホップに傾倒して髭面で奇行に走る姿を映し出す。
    宇野 まぁ、とにかく僕が指摘したかったのはYouTubeで少し検索すれば世界中のリアルで面白い映像を無料で観賞できて、そしてその映像がどこまで真実かもわからない今にあって、作家が一生懸命どこまで“嘘”でどこまで“本当”かわからないものを作り上げて、そのグレーゾーンに面白さを見出すフェイクドキュメンタリー的な「映像」は明らかにその存在意義を後退させているってこと。そんな厳しい状況下で、山下・松江両監督はまだフェイクドキュメンタリーだからこそできるものを必死に探し当てようとしているわけなのだけど、要するにその答えとは、存在意義を失いつつある映像を撮ることの自意識を訴えることだったのだというのが僕の見解ですね。そしてこの作家たちの自意識は、作中で描かれる山田孝之の「演じる」ことをめぐる自意識の迷走と、その結果としての自分探しに重ね合わされている。「映像」というものが20世紀に持っていた魔力が解体されつつある時代に生きる、映像作家と映画俳優の迷いだけがリアルだという(笑)。
    松谷 その点で、公開中の映画『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』【2】と『赤羽』は比較することができると思う。『バードマン』にはふたつの自己言及があって、ひとつはハリウッド文脈に対する俳優の自己言及。もうひとつは映画表現史への自己言及。僕は後者のほうが重要だと思う。この2年で、映画界には『ゼロ・グラビティ』と『インターステラー』という宇宙ものが2つあった。つまり、“現実”じゃないものを見せようと思うと、もう宇宙に行くしかなかった。もちろん宇宙は現実にあるんだけど、人が簡単には見られない究極として。さらに、ハリウッドではアメコミ大作やアニメが量産され、実際にディズニーは結果を出している。
    【2】『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』
    監督/アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 出演/マイケル・キートンほか 公開中
    かつてヒーロー映画『バードマン』で一世を風靡したが、現在は落ちぶれている俳優リーガン。自身が脚色した舞台で再起を図ろうとするが、そこに現れた才能ある男の存在や、家族との不仲に苦しみ、やがて彼は舞台の役柄に自己を投影し始める。アカデミー作品賞受賞。
     映画表現にはリアリズムと非リアリズム(あるいは超リアリズム)のふたつの流れがあって、それが近寄ったり離れたりしながら進んできた。ここ最近は離れていたんだけど、今これを急速に結びつけようとする動きがあって、そのひとつが『ゼロ・グラビティ』の前半13分の長回し映像であり、同じ撮影監督のエマニュエル・ルベツキが撮った『バードマン』の、ワンカットで全部を撮り切る表現。非現実をリアリズムで表現しようとしていて、これは批評的だった。4K・8Kテレビの普及やそれに対応したカメラの低価格化で、映像の解像度の高さという映画の優位性すら崩れるときが近づいている。その中で映画は果たしてどうあるべきなのか、というときに、ハリウッドが出したひとつの回答が『バードマン』だとするなら、日本の回答は『赤羽』だったんじゃないか、と言ったら大げさすぎるかな。
    宇野 そう、『バードマン』と『赤羽』はほぼ同じ問題意識に基づいていると思う。20世紀における「映像」は、リアリティの大規模共有装置だったわけじゃないですか。現実の、つまり三次元の体験は、特定の狭い共同体の中のコンテクストをわかっていないと共有できないけれど、映像という二次元に置き直した現実、リアルではなくリアリティであれば広い人間が共有できる。だからこそ映像は社会統合に利用されてきたし、劇映画はずっと自然主義的なリアリズムに基づいた作品を中心に展開されてきた。だけど現代の情報環境はこの前提を崩しつつある。インターネットの登場は、誰もが同じ映像を見ることで大規模な社会が文脈を共有する時代を終わらせつつあるし、作家が作り込んだ映像よりも、中学生がスマホで撮影してネットに上げた映像のほうがよっぽどリアルに感じることができる現実がある。だからこそ劇映画に対する大衆の欲望は現実には撮れないもの・存在しないものを映した表現に向かい、ハリウッドではアニメと特撮ばかりが作られるようになった。そしてアニメや特撮の持つファンタジー的なリアリティのほうが、国家や地域の壁を超えて広く共有されやすい現実が出現している。
     

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  • なぜ"マイルドヤンキー"を描けなかったのか――松谷創一郎×宇野常寛が語る『クローズ EXPLODE』 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.096 ☆

    2014-06-19 07:00  

    なぜ"マイルドヤンキー"を描けなかったのか
    ――松谷創一郎×宇野常寛が語る『クローズ EXPLODE』
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.6.19 vol.096
    http://wakusei2nd.com


    ゼロ年代国内映画市場に大きなインパクトを残した『クローズZERO』『ZERO Ⅱ』。
    そして今春、キャストと設定を一新して公開されたさらなる続編『クローズ EXPLODE』は、
    高橋ヒロシが作り出したこの「鈴蘭」という箱庭世界にどうアプローチしたのか!?国内映画の動向に詳しいライター/リサーチャーの松谷創一郎と、大の『クローズ』好きでもある宇野常寛が語った。

    初出:『サイゾー』2014年6月号(サイゾー)
     
    近年のヤンキーマンガの金字塔である『クローズ』が、最初に映画化されたのは07年の『クローズZERO』だ。小栗旬・山田孝之主演の“イケメン映画”としても人気を博してヒットを果たした同作は09年に続編『ZEROⅡ』も公開された。そしてこの春、さらなる“新章”として再び『クローズ』映画が登場。キャストも設定も一新された『EXPLODE』、そのワルさのほどは──?◎構成:藤谷千明
    ▲『クローズEXPLODE』

    監督/豊田利晃 脚本/向井康介、水島力也 出演/東出昌大、柳楽優弥、勝地涼ほか 配給/東宝 公開/14年4月12日 高橋ヒロシのマンガ『クローズ』映画化シリーズの新章と位置づけられ、前2作から出演者を入れ替えた新作。前作『ZERO』の3年生たちが卒業したことにより空席となった鈴蘭高校の頂点を目指す内部抗争に加え、不安定な状態にある鈴蘭を狙う他校や周辺地域のヤクザらアウトローが絡み合う、盛大な勢力争いが始まる──。

    【対談出席者プロフィール】松谷創一郎(まつたに・そういちろう)
    1974年生まれ。著書に『ギャルと不思議ちゃん論』(原書房)、『どこか〈問題化〉される若者たち』(共著/恒星社厚生閣)など。
     
     
    ■『クローズ』新章――大ヒットした『ZERO』2作を超えられるのか?
     
    宇野 『クローズ EXPLODE』(以下、EXPLODE)は今年の邦画の中では面白いほうだけど、『クローズZERO』(以下、ZERO)【1】、『クローズZEROⅡ』(以下、ZEROⅡ)【2】の前2作ほどのエポック感はなかったですね。野心的なことをやろうとした形跡はあるけど、あまり成功しているとは言えない。前2作は映画界全体と闘っていたというか、国内のエンタメシーン全般に対してインパクトがあったと思うんだけど、今回はすでに確立された『クローズ』ブランドの中での比較的大きい花火にしかなっていない感じがした。及第点と褒められる映画の中間くらいにある作品かな、と。
    松谷 僕も同じ感想ですね。
    宇野 松谷さんは本作を、今年の邦画の中でどう位置づけますか?
    松谷 日本映画自体が去年から引き続いて低調な状況です。企画が細っている中で、「貴重なアクション映画」であることは特筆すべきことでしょう。日本映画は、アクションが弱いですからね。こうした中でシリーズものの『EXPLODE』は内容も及第点、興行収入もおそらく10億円を超えるでしょうから、十分に健闘してる。ただ、『ZERO』の興行収入25億円、『Ⅱ』の30億円と比べると弱いし、「Yahoo!映画」のレビュー点数が前2作に比べて異様に低い。原作や前作ファンが、かなりがっかりしていることがうかがえます。
    宇野 一言でいうと、『ZERO』ってゼロ年代の邦画ブームの、一番いい時期の大花火だったんですよね。あの時期は、メジャーシーンでヒットを狙いながらも、いや、メジャーだからこその大予算を用いてチャレンジングなことをやれる空気があって、そして作品的にも成果を残したものがいくつかあった。その代表例が『ZERO』と『告白』だったと思う。
    松谷 06年に21年ぶりに邦画のシェアが洋画を逆転し、以降現在まで好調な日本映画の波を作ってきた作品のひとつといえるでしょうね。07年に『ZERO』、09年に『ZEROⅡ』、10年に『告白』。ゼロ年代後期の日本映画を語る上で、『ZERO』はもっと見直されてもいい作品です。
    宇野 そういういい流れがあったのに、その遺伝子が今はあまり残っていないんだなということが、今の邦画の状況をみるとよくわかる。その中で『EXPLODE』はすごく健闘しているんだけど、前2作や原作といかに闘うかというところで力尽きていて、独自の表現を確立するまでには至っていない。
    松谷 マンネリ感もありますよね。ただ、それはキャストで克服できる問題だとも思いました。だって浅見れいなが一番よかったと思うくらい、前2作と比べてキャラが弱まっていた。主人公の鏑木旋風雄【3】役の東出昌大の演技も決して良くなかった。この撮影は『ごちそうさん』【4】の前でしょうしね。
    宇野 『ごちそうさん』をやって鍛えられた後の今の東出くんなら、もっといけただろう、と。
    松谷 そう。ただ、脇役もそんなに良くなかったんですよ。『ZERO』は、線が細くて作品的にはどうしても狂言回し的な役回りになる小栗旬【5】を、山田孝之や高岡蒼甫といった役者がしっかりとバックアップしていた。一応今回も、柳楽優弥(強羅徹役)【6】がいたけれど、それでも弱かった。
    宇野 あとは勝地涼(小岐須健一役)【7】が与えられた役割を一生懸命こなしてるくらいかな。あれだけたくさん登場人物がいた中で、あの2人しか印象に残ってない。『ZERO』の2作を踏襲しようとし過ぎていて、例えば強羅のキャラクターって、ほぼ『ZERO』の芹沢多摩雄(山田孝之)【8】から貧乏っていう設定を抜いただけじゃない。というか、そもそも今回はキャラが多すぎたと思う。
    松谷 キャラが立ってないんですよ。三代目J Soul Brothersの2人(ELLY、岩田剛典)は特にそうでした。例えば『ZEROⅡ』で漆原凌(綾野剛)【9】が傘を差して出てきたシーンはすごく記憶に残ってるじゃないですか。彼はあれが出世作になりましたよね。そういう掘り出し物な感じの役者が今回はいない。
    宇野 今回でいうと早乙女太一【10】が本当はそうなるはずで、悪くないけど柳楽優弥に負けてたよ。藤原一役の永山絢斗【11】も同様で、悪くはないんだけど……という。総合点は決して低くないんですよね。主演の東出くんも、演技力には問題があったかもしれないけど、フィジカル的な存在感はあったと思う。脚本に関しても「これだけ勢力がいて話がまとまるのかな?」と思ったけど、終わった後には「よくまとめたな」という印象を持った。でもやっぱりヤクザやOBのオッサンのドラマに頼っているところが弱いとも思う。
     原作の『クローズ』の世界では大人や女性がほぼ出てこず、不良男子高校生だけが存在する世界になっているでしょう? あれって要は今でいう「マイルドヤンキー」的な世界観の先駆けだと思うんですよ。「守るべき女」とか「反抗すべき教師」や「超えるべき父」がいない世界で、ヤンキーはアウトローでもなんでもなく、趣味でケンカをしているだけ。
     けれど、今ようやくオヤジ論壇がマイルドヤンキー的なものに気づき始めたことが象徴的だけれど、東京の鈍感なホワイトカラー層を観客に巻き込むには、従来のヤンキー観やアウトロー観に接続するためのクッションが必要だったと思うんですよね。だから、『ZERO』では大人や女子を配置していて、まさに「ゼロ」というか『クローズ』の世界観の入門になっていた。その「『クローズ』とは何か」というメタ解説的な要素は今回も踏襲されていたけれど、『EXPLODE』の場合はそれを構造ではなくてセリフや安っぽいトラウマエピソードで説明していて、僕は「そういうのが全部キャンセルされているのが”鈴蘭”なのに」と思った。
     もっというと、『ZERO』2作はそのまま「高橋ヒロシ」と「三池崇史」だった。つまり、「マイルドヤンキー」的世界観の代名詞である『クローズ』と、三池監督が撮ってきた日本のヤクザ映画が、そのまま滝谷源治と父親(岸谷五朗)の関係になっていた。そうやってその2つの中間をうまく立てて、学園の外側の要素を本当に最小限にして「鈴蘭入門」のドラマを作ることができていたんだけど、『EXPLODE』はドラマを構成しているのが鈴蘭の外側にいる人たちになってしまっていた。
    松谷 そこはやっぱりプロデューサーの山本又一朗【12】の考えなんだと思いますよ。脚本にクレジットされている「水島力也」は山本さんの変名ですが、もう還暦を迎えている人だから、「理由なく何かを目指す」ということが考えづらいのかもしれない。結果、今回も「父親との葛藤」みたいな動機付けをしてしまったのでしょう。
    宇野 その「理由なく何かを目指す」ことが気持ちいいっていうのが高橋ヒロシイズムなのに、そこを理解しないで描いてしまっていたんじゃないか。「なんでガキの喧嘩に夢中にならないといけないんだ」という藤原のセリフがあったけど、あれはまさに脚本家の叫びだと思うんですよ。原作に対して無理解な人間が、無理やり自分に言い聞かせるために饒舌に言い訳を重ねているみたいな印象を受けた。原案を山本又一朗が握っているとはいえ、豊田利晃【13】監督と向井康介【14】脚本なわけですよ。90年代サブカルの血を引いたゼロ年代中堅コンビがビッグタイトルに挑戦した結果、ベテラン三池崇史と若手の武藤将吾【15】のコンビの『ZERO』に負けてしまったというか。前2作からのマンネリを回避するためにいろんな策を講じていたのもわかるし、複雑なプロットをなんとかしようと頑張っていたとは思うんだけど。
     
     
    ■豊田利晃監督復活作?「内面」を捨てた面白さ
     
    松谷 豊田監督の話をすると、復帰後の3作が正直、悪い意味で「よく今の時代にこんなことできるな」というような作品ばかりでした。ユナボマー事件をヒントにした『モンスターズクラブ』(12)は主人公が自問自答してるだけだし、『I’M FLASH!』(12)も新興宗教の教祖がどんどん内閉的になる作品。そこに『EXPLODE』がきたから、考えようによっては、今回「復活」と捉えていいんじゃないかと思うんです。豊田監督は自分で脚本を書くし、『青い春』『空中庭園』以外はオリジナル作品。そんな彼が、演出だけでもここまでエンターテインメントなことができる、ということを証明したとも言えるわけです。もちろん、そこには若い頃の『ポルノスター』にあったようなゴツゴツした才気みたいなものは見られないですが。
    宇野 結局それって、豊田さんのような、ゼロ年代のインディーズ系、単館系の映画をつくってきた90年代サブカルに出自を持つ映画監督たちの、現代的な疎外感を男の子の自意識問題に仮託するアプローチの文法自体が古くなっているってことなんじゃないかな。
    松谷 でしょうね。中年監督の若者気分がいかにくだらないかってことなんですよ。でもそれは映画ムラでは温存されてしまう。映画マニアや評論家は映画しか見ないし、そういう自意識問題を抱えている中年ばかりだから。そう考えると今回の豊田監督の使い方っていうのは、うまい落とし所を見つけたと思えます。
    宇野 このくらいの世代の監督って2系統あると思うんですよね。ひとつは「山下敦弘マイナス才能」というか、男の子の自意識問題と童貞マインドをどう維持するかにしか興味がないような一群。