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サブカルチャーだから描ける現実とは?――香港の社会学者・張彧暋と宇野常寛が語る『機動戦士ガンダムUC』 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.170 ☆
2014-10-02 07:00220pt
サブカルチャーだから描ける現実とは?
――香港の社会学者・張彧暋と
宇野常寛が語る『機動戦士ガンダムUC』
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.10.2 vol.170
http://wakusei2nd.com
本日のほぼ惑は、香港の社会学者・張イクマンさんと宇野常寛の、『機動戦士ガンダムUC(ユニコーン)』についての対談をお届けします。"富野殺し"を謳ったUCは本当にそれを実行できたのか。香港の社会学者と宇野常寛が「政治」の側面から読み解きます。
初出:サイゾー2014年9月号
▼プロフィール
張 彧暋(チョー・イクマン)
1977年、香港生まれ。香港中文大学社会学研究科卒、博士(社会学)。同大学社会学科講師。専門は歴史社会学と文化社会学。香港最初の日本サブカル同人評論誌『Platform』の編集長を務める。
◎構成:佐藤大志
■40代男性の即物的欲望しか描けない"ロボットアニメ"の残念さ張 『機動戦士ガンダムUC』(以下、『UC』)、おもしろくなかったわけではないのですが、はっきり言ってしまうとこれまでのガンダムシリーズの二次創作にすぎないというか、結局30年経っても富野由悠季さんの引力から逃れられていない、というのが全体の感想です。私は正直にいえばそこまでガンダムにすごく詳しいわけではないので、今回この対談の前に、香港のガンダムファンコミュニティで一番有名で”香港のシャア”いう異名も持つショーイ・リョーン(梁栄忠)さんという方にも意見を聞いたのですが、彼も同じ感想でした。彼は「富野ガンダムと比べて新しい観点があるかどうか」という評価基準なのですが、その点で結局『UC』は富野ガンダムを超えることができずに、ガンプラの宣伝アニメにしかなれなかったのではないか、と。そうした発展性の無さがはっきりわかるのは、戦闘シーンと、誰かしらおじさんが主人公のバナージ・リンクス(※1)に説教をするシーンを交代でやっているところですよね。全7話で、毎回同じようにその2つの場面を繰り返し続けるという、ある意味新しい(笑)様式美になってしまっていた。(※1)バナージ・リンクス …私生児として育つも16歳のときに偶然謎の少女オードリー(=ミネバ)と出会い、実は自身の父が政財界に君臨するビスト財団の当主であることを知る。父が死に際に託したユニコーンガンダムに搭乗し、オードリーと共にラプラスの箱の謎をめぐる戦いに足を踏み入れてゆく。
宇野 僕はひたすらその説教が続くところにうんざりした。あの中で言われている説教は一行で要約できて、「世の中は複雑なんだから、多面的なものの見方をしていこう」程度のことしか言ってないんだよ。普通に社会に出て働いたりしていれば自然に学べることを、なんでわざわざロボットアニメで言わないといけないんだ、と思う。あの説教からは、バブルには間に合わなかったけどネット以降の本当の”ニュータイプ”の世界にも間に合わなかった、中途半端な自意識を抱えてうじうじしている40代くらいのオッサンたちの無駄に高いプライドと自信のなさだけが伝わってくる。説教の部分を全部取り払っても『UC』のストーリーって成り立つでしょう。わざわざ限られた分数を割いて、絵を停滞させてまで原作者である福井晴敏が説教にこだわったというのは、ある種の戦後日本人男性のメンタリティの弱さがここまで及んでしまっているという症例としておもしろかったくらいだよ。
張 宇野さんは「ダ・ヴィンチ」(KADOKAWA)の連載で『UC』について、フル・フロンタル(※2)の立場をプラグマティズムとし、バナージ・リンクスの側を陰謀論者だという図式で論じられてましたね。私は国際関係論から考えると別の見方もできると思っていて、あれはリアリストと社会構築主義者の図式ともいえるんじゃないか。フル・フロンタルのほうが、権力と金で交渉を行う現実主義者で、バナージはアイデアと理念を重視する社会構築主義者。
(※2)フル・フロンタル…ネオ・ジオン軍残党「袖付き」の首魁である大佐。「赤い彗星の再来」と呼ばれ、素顔や声もシャアとよく似ている。実際は、もともとシャアに似せて作られた人工ニュータイプ(強化人間)。ラプラスの箱を奪取することで連邦と取り引きをし、ジオンの自治権保持を延長させることで「コロニー共栄圏」構想を実現させようとする。
宇野 僕はフル・フロンタルはすごくいいと思う。なぜなら彼はリアリストでありながら、ちゃんとロマンを持っているから。一方でバナージたちは、「ラプラスの箱」に隠されたこの世界の秘密が暴露されれば世界は変革できると考えていて、これは完全な陰謀史観だよ。そこには日本の戦後民主主義のダメな部分が表れてしまっていると思う。ネット右翼や”放射脳”もそうだけど、イデオロギー回帰が陰謀論としか結びつかなくなってしまっているのが戦後70年のこの国の帰結なんだよ。そんなバナージ側が善玉であって、実現可能な達成を積み重ねていくことで理想を実現させようというフル・フロンタルが悪役になってしまうというのはすごく象徴的だと思う。
張 それが日本の戦後図式だというのはわかるんだけど、たとえば私のような香港の人間が見たときにはまた少し受け取り方が違ってくる。それは「ガンダムがどうやって国境を超えるか」という問題でもあるんですが、香港は1997年に中国の一部になって、自治都市として成立した。つまり、宇宙植民地サイドです。そして中国が地球連邦にあたる。そうした状況で香港人が『UC』を観ると、現在進行中の香港を含めた東アジア政治そのままの状況に見えると思う。要するに、工業化に成功して経済的発展も遂げつつある中国が東アジアにその力を拡大している真っ最中に、香港あるいは台湾、そして日本がどうやって対応していくのか? という読み方です。そこでは、現実主義者であるフル・フロンタルのような、可能な限りの交渉カードを持って向こうと妥協していくという対話のやり方と、バナージのようなイチかバチか革命の可能性に賭けるというやり方が交互に繰り返されている。80年代以降の日本の戦後想像力で『UC』を読みとくと、宇野さんの言うようにプラグマティズムVS陰謀論という読み方になるのは賛成です。でももう少し広げて、ガンダムの東アジアにおける拡散の仕方を考えると、そういう捉え方もあると思います。
宇野 それはでも、『進撃の巨人』(講談社)が香港では「巨人=中国」「人類=香港」という比喩として捉えられたといわれているのと同じで、日本ではそんな文脈はないんですよ。むしろ日本においては、たとえば戦後民主主義的な反戦もの以外大っぴらに戦争映画を作ることができない戦後の状況があって、サブカルチャーの中に歴史や政治というテーマが忍ばざるを得なかった経緯がある。そのせいで直接的な政治的課題から想像力を育むことができなくなってしまって、ポリティカルフィクションは後退してしまった。そのことと、実際にイデオロギーや政治に対してビジョンを持とうとしたときにどうしても陰謀論が召喚されてしまう問題は、つながっていると思う。そうした部分を見て取ってしまって、『UC』は日本のダメなところの結晶なんだなと思ってしまう。
■「富野殺し」どころか表現の乏しさが際立った
張 私がもうひとつ気になったのは、血のつながりを重視しすぎている点ですね。高貴な血でつながったブルーブラッドというのは、すごく前近代的な発想だと思う。
宇野 富野由悠季が80年代当時に描いていたものにはいくつかの道があって、ひとつは当時の現実に対して、前近代的なある種の”ノーブルな血”によって越えていこうというもの。 -
フル・フロンタルこそ真の「可能性の獣」である ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.134 ☆
2014-08-13 07:00220pt
フル・フロンタルこそ真の「可能性の獣」である
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.8.13 vol.134
http://wakusei2nd.com
(初出:「ダ・ヴィンチ」2014年8月号)
"あえて言おう。フル・フロンタルこそが真の「可能性の獣」である、と。"今日のほぼ惑はダ・ヴィンチ8月号に掲載された宇野常寛の『機動戦士ガンダムUC』論。作中では矮小な悪党として描かれたフロンタルにシャアの絶望に抗う可能性を見出します。
▲機動戦士ガンダムUC(ユニコーン) [Mobile Suit Gundam UC] 2 [Blu-ray] より
今からさかのぼること33年前──1981年2月22日、今やそこはまったく別の意味で「聖地」となりつつある新宿東口のスタジオ・アルタ前はアニメファンでごったがえしていたという。70年代末からのアニメブームは『宇宙戦艦ヤマト』などのヒット作を中心に、国内におけるアニメーションを児童向けのいわゆる「ジャリ番」から、大人まで楽しめるサブカルチャーの1ジャンルに押し上げていった。その流れの中核にあったのが、79年にテレビアニメ第一作が放映開始された『機動戦士ガンダム』だった。テレビでの本放送時は玩具の売り上げ不振等の理由からいわゆる「打ち切り」の憂き目を見た『ガンダム』だが、その革新的な世界観と重厚な物語などで折から形成されていたアニメファンのコミュニティで大きな支持を受け、アニメブームの主役となっていった。
そして加熱するファンコミュニティの空気に応えるかたちで『ガンダム』劇場版三部作の公開が決定され、その宣伝イベントして企画されたのがこの「アニメ新世紀宣言」だった。
「私たちは、アニメによって拓かれる私たちの時代とアニメ新世紀の幕開けをここに宣言する」壇上に立った富野喜幸(現:由悠季)はそう宣言した。『ガンダム』の生みの親として、今でこそ広く知られている富野だが当時はまだ知る人ぞ知る存在だった。この時期の富野の発言にはたびたび、自作を中心とするアニメを子供向けの低俗な娯楽としてではなく、独立した1つの文化ジャンルとして受け入れる若者たちの感性を、新世代の感性として肯定する内容が見られる。80年代の後半から富野はどちらかといえばサブカルチャーに耽溺し、情報社会に適応した若者を現代病の患者として否定的に言及することが多くなったので、現在の富野を知る読者はこうした発言を知るとむしろ驚くかもしれない。
さて、ここで注目したいのは『機動戦士ガンダム』の作中で登場する「ニュータイプ」という概念が、当時の新世代─アニメ新世紀宣言に賛同した若いファンたちの世代─と重ね合わされていたということだ。「ニュータイプ」とはファースト・ガンダムと呼ばれる初代『機動戦士ガンダム』の作中で、新兵のアムロがエースパイロットとしてわずか数カ月の間に急成長する根拠として与えられた設定である。それは人類が宇宙環境に適応することで発現する一種の超能力である。しかしそれはテレキネシスやテレポーテーションといったものではなく、極めて概念的で、抽象的な超能力で超認識力ともいうべきものだ。「ニュータイプ」に覚醒した人類は、地理や時間を超えて他の人間の存在を、それも言語を超えて無意識のレベルまで感じることができる。これは富野による極めて個性的な超能力設定だと言える。宇宙移民時代に人類が適応し始めたとき、その認識力がこのようなかたちで拡大していく、と考えた作家は古今東西他にいないはずだ。
そしてこの「ニュータイプ」という概念は、作品外のムーブメントと結果として重ね合わされることになった。後にメディアを賑わせる「新人類」の語源のひとつがこの「ニュータイプ」であるという説もあるが、おそらくは「新世紀宣言」が代表する当時のアニメブームが、前述のように世代論と深く結びついていたことがその説の背景にあると思われる。当時物語の中で描かれた「ニュータイプ」とは人類の革新であり、社会的にそれは「アニメ新世紀宣言」が掲げたように、新しいメディアに対応した新世代の感性の比喩だったのだ。
あれから約30年、当時ティーンだった「ニュータイプ」たちは今や40代の堂々たる中年になっている計算になる。その後『ガンダム』は81年から上映された劇場版三部作と、小中学生の間でのプラモデル商品の大ヒットを通じて社会現象化していった。そしてそれから30年、何度か下火になりながらも断続的に続編が発表され、その広がりはアニメに留まらず、プラモデル、ゲームなどにもおよび「ガンダム産業」と呼ばれる現在においては国大最大級のキャラクター・ビジネスを生み出すシリーズに成長している。
そのシリーズ展開は多岐にわたり、ティーンを対象とした続編が制作され続ける一方でファースト・ガンダムのファン層をターゲットにした中年向け作品も存在する。いや、正確にはこの「ガンダム産業」はこうした中高年市場に大きく依存していると言っても過言ではないだろう。
さて、そんな中高年向けガンダム市場の中核にここ数年君臨しているのが今回取り上げる『機動戦士ガンダムUC』である。本作はストーリーテラーに『終戦のローレライ』などの歴史SF、『亡国のイージス』などのポリティカルフィクションで知られる福井晴敏を迎え、『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』の続編的な物語を展開している。本作ではこれまで事実上の原作者であった富野のみが許されていたファースト・ガンダムから続く架空歴史=宇宙世紀への改変・介入をはじめて富野以外の作家が行い、作中にはブライト・ノア、カイ・シデンといったファースト・ガンダム以来の人気キャラクターが多数登場する。要するに高齢の原作者に代わり、40代のファーストガンダム世代の作家が「正史」を紡ぐ権利を手に入れた、と言えなくもないだろう。その結果、本作はファーストガンダム世代の「ファン代表」である福井による、富野批評的な側面を否応がなく負うことになった。そして、結論から述べれば本作をもって、富野由悠季が築き上げてきた「ガンダム」シリーズの、特に物語面での達成はほぼ引き継がれることなく失われてしまうであろうことがはっきりしたように思う。
本作『UC』の舞台は『逆襲のシャア』から3年後の宇宙世紀0096年だ。『逆襲のシャア』で連邦軍に敗北したネオ・ジオンの残党は「袖付き」と通称されるテロ組織を結成し、連邦軍に戦いを挑む。「袖付き」の目的は「ラプラスの箱」と呼ばれるおよそ100年前のテロ事件に関わる連邦軍の機密だ。主人公の少年バナージは、この「ラプラスの箱」を狙う袖付きのテロに巻き込まれたことをきっかけにガンダムのパイロットになり、軍とテロリストと巨大軍事産業の入り乱れる陰謀劇に巻き込まれていくことになる、といったのが大まかなストーリーだ。(ついでに言うと、このバナージ少年にも出生の秘密があって、実は新型ガンダムを建造した軍事産業の幹部の隠し子だった、なんて設定が開陳される。)
表面的にこの物語はファースト・ガンダムがそうであったように、少年の社会化の物語として展開していく。ロボットを人工知能の器としてではなく、少年の成長願望の象徴として(操縦することで得られるかりそめの、巨大な身体として)位置づけた日本のロボットアニメは、常に少年の欲望と並走してきた。巨大な身体を得て、大人社会に混じって活躍し、そして少女を得る。本作『UC』も例外ではない。父からガンダムを託されたバナージ少年は、「ニュータイプ」としての才能を開花させ、時にはテロリストの、そして時には軍の陰謀に立ち向かう。彼の前にはジオンの王女ミネバをはじめとする美少女が彼の救済を求めて現れる。良くも悪くも、その表面的な物語構造は思春期男子の欲望に応えるべく日本のロボットアニメの洗練させてきたパターンだ。
しかし、福井による小説を、そしてこのたび完結したアニメ版を読んだ/観た人間は気付くだろう。本作は決して少年の成長物語を主眼に置いた作品「ではない」と。
この『ガンダムUC』という作品を一言で表現するとしたら、それは「説教リレー」という言葉が相応しいだろう。本作は基本的に1パターンのエピソードの反復で構成されている。それは主人公のバナージ君(たまにヒロインのミネバ)が中高年の(つまり、想定視聴者が感情移入しやすい年齢設定の)男性に説教される→適度に(勝たない程度に)バナージ君が反論→結局おじさんの説教に感動して涙目→そのまま出撃してガンダムで大活躍→力を使いすぎて気絶、敵につかまる→つかまった先の中高年男性が出てきてまた説教→(以下繰り返し)……といったループである。
第1話のバナージの父親からはじまって、「袖付き」のジンネマン艦長、連邦軍特殊部隊のダグザ……と次々と説教のバトンが渡される。中盤でミネバが偶然立ち寄ったレストランのオヤジまで説教を始めたときはほんとうにどうしようかと思った。そして彼らの説教には基本的に中身がなく、どれも「大人の社会はいろいろ立場があるんだけど、みんながまんしてがんばっているんだ(だから俺たちをバカにするな)」の一行に要約することができる。今どきの若者ならスマートフォンをいじりながら聞き流してしまいそうな内容なのだが、バナージ君はどの説教もじっと真剣に聞いている。ほんとうにいい子だと思う。そしてバナージ君に感心すればするほど、情けない気持ちがこみ上げてくる。ここに現れているのは、端的に今の40代男性の自信のなさではないか。バブル入社世代から団塊ジュニア世代─要するにファースト・ガンダム直撃世代にあたる40代男性の「自信のなさ」ではないだろうか。
『ガンダムUC』は30代、40代を中心に、決して盛り上がっているとは言えない現代のアニメシーンにおいて絶大な支持を獲得した作品だ。完結第7話の先行プレミアム上映の興行収入は10億に上ると言われている。もちろん、この説教臭さがどれほど支持を集めているかどうかは分からないので、性急な結論は避けるべきだろう。しかし少なくとも作品の表面に現れているものが証明しているのは、過剰に「父」として振る舞いたいという欲望に他ならない。『ガンダムUC』は明らかに物語の進行を毎回挿入されるこの過剰な「説教」が停滞させているし、その上前述した通りその説教にはまったく中身がない。そこに存在するのは、少年に説教することで自己確認を行う=「父」的な存在としての尊厳を確認する中高年の悲しい背中だけだ。(個人的にはこの21世紀の世界で旧世紀的な「父」になることに拘泥していること自体があまりにアナクロで滑稽にすら思えるのだが。)
意地悪な比喩をあえて選べば、今どきの「飲みニケーション」を拒否する20代の若い部下たちに説教する場を与えられない40代の中間管理職たちが、アニメの中に満たされない欲望を吐き出している、ようなものなのではないか。そう、思春期の頃はエースパイロットとして大人社会に混じって活躍することと、お姫さまや薄幸の強化人間美少女との恋愛を夢見ていた彼らは、あれから30年たった今、なんだかんだで結婚し、何割かの確率で子どももいて、そして年功序列的に多少なりとも社会的な立場のできた今、そのような夢はもはや見る必要がなくなっているのだ。その代わりに彼らが欲望しているのはむしろ、「何ものでもない自分の説教を聞いて感動してくれる新入社員」なのではないか。その上教育コストゼロで戦場で大活躍の(だって「ニュータイプ」だから)即戦力新入社員なのではないか。
ではこの『ガンダムUC』」という壮大な物語に、『ガンダム』世代の作家が原作者=富野殺しを宣言して広げた大風呂敷の上に、自信のない中高年男性の説教ヒーリング以外の可能性はあるのだろうか。
結論から言えば、「ある」。もちろんそれはひたすらさえない中間管理職のお説教を聞いてあげているだけのバナージ少年や王女ミネバにもなければ、彼らに説教して自信回復する情けない説教オヤジたちにもない。あるとすればそれは、作中ではそんなバナージ君とぞろぞろ出てくるそのお父さん候補たちに否定されつくす「悪役」フル・フロンタルという存在に他ならない。
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