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『騎士団長殺し』――「論外」と評した『多崎つくる』から4年、コピペ小説家と化した村上春樹を批評する言葉は最早ない!(福嶋亮大×宇野常寛)(PLANETSアーカイブス)
2018-12-17 07:00
今朝のPLANETSアーカイブスは、福嶋亮大さんと宇野常寛による、村上春樹『騎士団長殺し』を巡る対談をお届けします。いまや自己模倣を繰り返すだけの作家となりさがった村上春樹の新作は、顔を失い、読者も見失い、批評すべき点の全くない小説でした。『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』を刊行した福嶋亮大さんと宇野常寛が、嘆息まじりに語ります。(構成:金手健市/初出:「サイゾー」2017年4月号) ※この記事は2017年4月27日に配信した記事の再配信です・前編はこちら
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▲村上春樹『騎士団長殺し』
福嶋 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(2013年/文藝春秋)が出たときにもここで対談をして、あのときは村上春樹の小説史上、これ以上のワーストはないと思っていた。今回の『騎士団長殺し』は、主人公が自分と同じ36歳ということもあって、最初は少し期待して読み始めたんですが、結論から言うと何も中身がない。あまりにも中身がなさすぎて、正直何も言うことがないです。村上春樹におけるワースト長編小説を更新してしまった。
構成から具体的に言うと、前半に上田秋成や『ふしぎの国のアリス』、あるいはクリスタル・ナハトや南京虐殺といった伏線が張られているけれど、どれも後半に至って全く回収されない。文体的にも、ものすごく説明的で冗長になっている。村上春樹は、その初期においては文体のミニマリズム的実験をやっていた作家です。デビュー当初に彼が敵対していたような文体を、老境に至って自分が繰り返しているような感じがある。ひとことで言うと、小説が下手になっているんですよね。彼くらいのポジションの作家として、そんなことは普通あり得ない。
宇野 まったく同感です。『1Q84 』(09~10年/新潮社)「BOOK3」以降、後退が激しすぎる。あの作品も伏線がぶん投げられていたり、後半にいくに連れてテーマが矮小化されていて、まぁひどいもんでした。村上春樹は95年以降、「デタッチメントからコミットメントへ」といって、現代における正しさみたいなものをもう一度考えてみようとしていたわけですよね。「BOOK3」も最初にそういうテーマは設定されているんだけど、結局、主人公の父親との和解と、「蜂蜜パイ」【1】とほぼ同じような、自分の子どもではないかもしれないがそれを受け入れる、つまり春樹なりに間接的に父になるひとつのモデルみたいなものを提示して終わる。村上春樹にとっては大事な問題なのかもしれないけど、物語の前半で掲げられているテーマ、つまり現代における「正しさ」へのコミットメントは完全にどこかにいってしまっているのはあんまりでしょう。ここからどう持ち直していくんだろう? と思っていたけど、『多崎つくる』も『騎士団長殺し』も、「BOOK3」の延長線上で相も変わらず熟年男性の自分探し。自分の文章をコピペしている状態に陥ってしまっていて、しかもコピーすればするほど劣化していて、目も当てられない。これでは最初から結論がわかっていることを、なぜ1000ページも書くんだろうという疑問だけが、読者には残されるだけです。
福嶋 手法的には『ねじまき鳥クロニクル』(94~95年/新潮社)あたりからの自己模倣になっていて、その終着点が『騎士団長殺し』だったということなんでしょうね。村上春樹が抱えているひとつの問題は、読者層を想定できなくなっていることだと思う。つまり、今の彼の読者層は『AKIRA』の鉄雄のように際限なく膨張して、もはや顔がなくなっている。例えば宮﨑駿だったら、知り合いの女の子に向けて作るというような宛先を一応設定するわけだけど、村上春樹にはそれがない。結果として、大きなマスコミュニケーションの中に溶けてしまって、自分の顔がない小説になってしまっている。村上春樹は本来、消費社会の寵児と言われつつも、顔がない存在・顔がない社会に対して抵抗していたわけでしょう。それが、ついに自分自身がのっぺらぼうになってしまった。とても悲しいことだ、と思います。
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村上春樹『女のいない男たち』から読み解く、現代日本文学が抱える困難(森田真功×宇野常寛)(PLANETSアーカイブス)
2018-06-25 07:00
今回のPLANETSアーカイブスは、森田真功さんと宇野常寛による村上春樹『女のいない男たち』を巡る対談の再配信です。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の翌年に刊行された本作で明らかになった、村上春樹作品に象徴される「現代日本文学」が構造的に孕んでいる矛盾と困難とは――?(構成/橋本倫史)(初出:「サイゾー」2014年8月号)※本記事は2014年8月21日に配信した記事の再配信です。
▲Amazon.co.jp 村上春樹『女のいない男たち』
森田 村上春樹の新刊『女のいない男たち』は、語るべきことも少ないし、それほど面白い小説だとも思いません。ただ、これがなぜ面白くないかを考えると、色々なことが見えてくる作品ではあるんじゃないかとは思います。
表題作の中で解説されるように、「女のいない男たちになるのはとても簡単なことだ。ひとりの女性を深く愛し、それから彼女がどこかに去ってしまえばいいのだ」というのが今回の短編集のモチーフ。特定の異性が去る/自殺する/殺されるというモチーフは、村上春樹の過去の作品でも頻繁に用いられてきた。今までと大きく違うのは、中年以降の男性を主人公にしている点ですが、それはむしろ、今作がつまらない原因になっています。これは村上春樹という作家自身の限界でもあるし、彼に象徴される日本文学の限界でもある。
宇野 村上春樹は、『1Q84』【1】の『BOOK3』以降、明らかに迷走していると思う。『BOOK3』では、『BOOK1』と『BOOK2』についての言い訳──父になる/ならないという古いテーマから逃れられないのは仕方ないじゃないかということをずっと書いているわけですよね。前作の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』【2】(以下『多崎』)でも、そうした近代的な自意識としての男性と、それを成立させるための女性的な無意識、という構造から逃れられない自分の作品世界の限界についての言い訳をずっと繰り返している。そして『女のいない男たち』になると、いよいよその言い訳しか書いていないというのが僕の感想ですね。【1】『1Q84』:09~10年にかけ、現時点で3巻刊行(村上自身は『4』を書く可能性があるとインタビューで答えている)。1984年から異世界”1Q84”年に入り込んだ天吾と青豆の試練を中心に、宗教団体や大学闘争をモチーフに取り入れた作品。
【2】『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』:名古屋で過ごした高校時代の友人グループから、大学進学により一人で上京したのちに突然絶縁された多崎つくる。16年後、36歳になった鉄道会社社員のつくるは、デート相手の言葉によって4人の元を訪ねる旅を始める。
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宇野常寛「本当は色彩を帯びていた『多崎つくる』――村上春樹が見落とした新しいコミットメント(PLANETSアーカイブス)
2018-05-28 07:00
今回のPLANETSアーカイブスは、宇野常寛による『色彩を持たない多崎つくると、 彼の巡礼の年』論をお届けします。なぜ村上春樹は決定的な問いを避け続けてしまうのか。常に物事から距離を置く主人公が葛藤を乗り越えて他者と関わろうとする、作者の二十年来のテーマを扱いながらも中年男性の自己回復の物語に終始してしまった本作について宇野常寛が考察します。 ※この記事は2013年12月9日に配信した記事の再配信です。 (初出:「ダ・ヴィンチ」2013年6月号)
村上 春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』
〈文芸春秋は18日、村上春樹さんの新作小説「色彩を持たない多崎(たざき)つくると、彼の巡礼の年」を20万部増刷することを決め、累計発行部数が100万部に達したと発表した。
12日に発売されてから7日目。文芸春秋は「文芸作品では最速でのミリオン到達では」としている。村上さんの作品では前作「1Q84 BOOK3」が発売から12日目に100万部に到達している。
「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」はネット書店での予約などが多かったことを受け、発売前から増刷を重ね、計50万部で売り出された。発売初日にも異例の10万部の増刷を決めたが、売り切れ店が続出。15日にも20万部の増刷を決め、6刷80万部に達していた。〉(産経新聞2013年4月18日)
村上春樹の新作長編『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』が発売直後からベストセラーになっているという。
僕もまた、村上春樹の愛読者のひとりだ。僕の代表作『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)は村上春樹論でもある。「リトル・ピープル」とはこの本が刊行された当時の春樹の最新作『1Q84』に登場する超自然的な存在にして「悪」の象徴だ。この『1Q84』という小説に、僕は不満を覚えた。正確にはこれまでの村上春樹の長編小説に比べて、あまり想像力を刺激されなかった。そしてそのことが、僕がその本を書く動機になった。
春樹は二〇〇八年、おそらくは『1Q84』執筆初期に行われたインタビュー中の発言にてこう述べている。
〈「僕が今、一番恐ろしいと思うのは特定の主義主張による『精神的な囲い込み』のようなものです。多くの人は枠組みが必要で、それがなくなってしまうと耐えられない。オウム真理教は極端な例だけど、いろんな檻というか囲い込みがあって、そこに入ってしまうと下手すると抜けられなくなる」〉
(毎日新聞 2008年5月12日 僕にとっての〈世界文学〉そして〈世界〉)
リトル・ピープルとはまさに、人々を「精神的な囲い込み」にいざなう社会構造の象徴だ。このリトル・ピープルに対抗するために主人公とヒロインたちが行動を起こす─それが『1Q84』の物語の骨子だ。しかし『1Q84』は完結編であるBOOK3で、それまで中心にあったこの主題─リトル・ピープルの時代への「対抗」という主題─を大きく後退させて(事実上放棄して)しまう。前半に物語を牽引したリトル・ピープルとそれを奉じるカルト教団はほとんど姿を見せず、主人公の「父」との和解と、ヒロインの一人との再会がクローズアップされる。主人公=中年男性の自己回復と自分探しの物語が全面化し、時代へのコミットメントという主題は後退するのだ。僕はここに村上春樹の想像力の限界を感じて、そして前述したあの本(『リトル・ピープルの時代』)を書いた。現代=リトル・ピープルの時代へのコミットメントのかたちを模索する、という春樹から引き継いだ主題については、まったく別の作品群を用いて考え抜いた。
しかしその一方で、僕は春樹自身がいつか、それも近いうちにこの問題に彼なりの回答を示してくれるのではないかと期待していた。もちろん、これは僕の勝手な期待であり、作家が答える必要もなければ、答えないことで責められる必要もない。だから、僕は続く村上春樹の新作長編『色彩を持たない多崎つくると、 彼の巡礼の年』を一読したとき、個人的に落胆はしたがこれを批判しなければならないとは思わなかった。だから発売当日にこの本を買って読み終えた僕は、その日の夜に放送するこの春から担当することになったラジオの深夜放送番組で、この本はそもそも肩慣らし投球のようなもので、『ねじまき鳥クロニクル』や『海辺のカフカ』のような総合小説を期待してはいけないと釘を刺したうえで分析を始めた。
そう、『色彩を持たない多崎つくると、 彼の巡礼の年』は発売されたことだけで「事件」となる社会的インパクトとは裏腹に、作品自体はいわゆる「小品」だ。
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村上春樹『女のいない男たち』から読み解く、現代日本文学が抱える困難(森田真功×宇野常寛)☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.141 ☆
2014-08-21 16:00
村上春樹『女のいない男たち』から読み解く、現代日本文学が抱える困難
(森田真功×宇野常寛)
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.8.21 vol.141
http://wakusei2nd.com
初出:「サイゾー」2014年8月号
今日のほぼ惑は、今年春に発売となった村上春樹の新作『女のいない男たち』を宇野常寛とライターの森田真功さんの対談をお届けします。社会現象となった『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』から一年、いよいよ明らかになってきた、村上春樹作品に象徴される「現代日本文学」が構造的に孕む矛盾と困難とは――?
▼プロフィール森田真功(もりた・まさのり)
1974年生まれ。純文学からマンガ、ロックミュージックからジャニーズまで、取り扱うジャンルは幅広い。レビューブログ「Lエルトセヴン7 第2ステージ」
http://aboutagirl.seesaa.net/
◎構成/橋本倫史
作品紹介
▲『女のいない男たち』著/村上春樹 発行/文藝春秋 発売/4月18日
書きおろしの表題作のほか「ドライブ・マイ・カー」「イエスタデイ」「独立器官」「シェエラザード」「木野」の計6作を収録した短編集。「シェエラザード」は文芸誌「MONKEY」掲載、そのほかは「文藝春秋」掲載。
森田 村上春樹の新刊『女のいない男たち』は、語るべきことも少ないし、それほど面白い小説だとも思いません。ただ、これがなぜ面白くないかを考えると、色々なことが見えてくる作品ではあるんじゃないかとは思います。
表題作の中で解説されるように、「女のいない男たちになるのはとても簡単なことだ。ひとりの女性を深く愛し、それから彼女がどこかに去ってしまえばいいのだ」というのが今回の短編集のモチーフ。特定の異性が去る/自殺する/殺されるというモチーフは、村上春樹の過去の作品でも頻繁に用いられてきた。今までと大きく違うのは、中年以降の男性を主人公にしている点ですが、それはむしろ、今作がつまらない原因になっています。これは村上春樹という作家自身の限界でもあるし、彼に象徴される日本文学の限界でもある。
宇野 村上春樹は、『1Q84』【1】の『BOOK3』以降、明らかに迷走していると思う。『BOOK3』では、『BOOK1』と『BOOK2』についての言い訳──父になる/ならないという古いテーマから逃れられないのは仕方ないじゃないかということをずっと書いているわけですよね。前作の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』【2】(以下『多崎』)でも、そうした近代的な自意識としての男性と、それを成立させるための女性的な無意識、という構造から逃れられない自分の作品世界の限界についての言い訳をずっと繰り返している。そして『女のいない男たち』になると、いよいよその言い訳しか書いていないというのが僕の感想ですね。【1】『1Q84』:09~10年にかけ、現時点で3巻刊行(村上自身は『4』を書く可能性があるとインタビューで答えている)。1984年から異世界”1Q84”年に入り込んだ天吾と青豆の試練を中心に、宗教団体や大学闘争をモチーフに取り入れた作品。
【2】『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』:名古屋で過ごした高校時代の友人グループから、大学進学により一人で上京したのちに突然絶縁された多崎つくる。16年後、36歳になった鉄道会社社員のつくるは、デート相手の言葉によって4人の元を訪ねる旅を始める。
森田 村上春樹の限界と現代日本文学の限界というのはパラレルです。これは石原慎太郎が登場した頃に起源があるのかもしれないけど、70年代後半に村上春樹と村上龍が出てきた頃に「文学自体がユースカルチャーとして機能する」ということにされた。当時は作家も若かったし時代ともマッチしていたけれど、今やそう機能していないのに、同じモチーフの焼き直しをやっていても駄目なんです。
『多崎』の主人公・多崎つくるは、36歳という設定だった。村上春樹の短編「プールサイド」には「35歳が人生の折り返し地点だ」という話が出てきますが、多崎つくるも折り返しの年齢にある。「プールサイド」【3】が発表されたのは83年だから、村上春樹という作家は30年経っても人生の折り返し地点のことばかり描いていて、折り返したあとのことは描いてこなかった。それが今作では年を取らせてみたけれど、うまくいっていない。【3】「プールサイド」:短篇集『回転木馬のデッド・ヒート』(講談社/85年)所収。「35歳になった春、彼は自分が既に人生の折りかえし点を曲がってしまったことを確認した。」という書き出しから始まる。
宇野 内容的な話をすると、今作のタイトルは『男友達のできない男たち』としたほうが正確なんじゃないかと思うんだよね。というのも、「シェエラザード」を除くすべての短編が、魅力的な男友達と仲良くなるけれどうまくいかないという話になっている。初期作品にも「自分と対等な男のパートナーが欲しい」という欲望は伏流として流れていたと思うんだけど、それが驚くほど前面化しているのがこの作品集だという気がする。初期3部作の『羊をめぐる冒険』(82年)で「鼠」【4】が自殺して以降、そういう欲望は一切封印されていた。以降の作品では、嫌な言い方をすれば「かつて親友が自殺した」というエピソードが「人間的な深みを演出するためのスパイス」として、カジュアルな口説き文句に使われる程度だった「男友達」というモチーフが、ここにきてもう一度重要なモチーフとして浮上していることが、この作品の中で語るに値する唯一の要素だと思う。この先の村上春樹の長編は、同性の対等なプレイヤーとどう関係を紡ぐのかが鍵になるかもしれない。【4】「鼠」:デビュー作『風の歌を聴け』(79年)、『1973年のピンボール』(80年)、『羊をめぐる冒険』(82年/すべて講談社)の初期3部作は「僕と鼠」ものとも呼ばれ、主人公の「僕」と親友である「鼠」の関係が重要な軸となっている。
村上春樹の作品において、女性の存在は非常に差別的に扱われているんだけど、それは彼が女性を人間として見ていないからだと思う。女性は、世界に対する蝶番として存在しているんですよね。春樹の中では無意識の象徴として扱われる女性という蝶番を用いることで、イデオロギーや宗教とは違う回路で世界と繋がることができる──こうしたモチーフを繰り返し描いていた。それが”女のいない男たち”となると、まさに「女がいない」ということで世界に対する蝶番が外れてしまっている状態にある。そうした世界で人はどうなるのかというのが今作の隠れたテーマで、そこで同性の友達に対する期待や憧れと、そこに自分は踏み込むことができないという諦めがない交ぜになったものが描かれている。
かつての村上春樹の作品において、男友達は、全共闘世代が68年に損なってしまったものの象徴としてのみ描かれてきた。しかし今作では明確に異なっている。村上春樹がこの30年で培ってきたものとは別の世界に対する蝶番として男友達を位置づけようとしている。ただ、それを信じることができなくて、女を失い、男友達もできずに一人佇む話が並んでしまった。どこまで意識的かわからないけれど、この閉塞感は作家としての村上春樹の行き詰まりとも重なっている。ここ数年の作品では行き詰まり、別の回路を模索してはいるんだけど、本人がそれを全然信じられていないし、その回路を展開する想像力も持っていないということが露呈してしまっている。その意味で、今作は興味深い作品だというのが僕の判断。
森田 何かを寓話化して小説を書こうとするときに、村上春樹がモチーフとしたいものが発展していないので、同じものの焼き直しになってしまっているんですよね。2つの価値観の対立、リアリズムとアレゴリー──比喩、あるいはファンタジーが、『1Q84』も『多崎』も全然うまくいってない。『アフターダーク』【5】でもやっていた多人称の路線も総合小説としては『海辺のカフカ』【6】あたりが限界で、そこからの発展性は何もない。そこで再生産の段階に入ってしまったのがここ最近の作品じゃないか。男友達という存在の話にもつながるけれど、主人公をサポートする、あるいは対になる役割を物語の中に全然つくれていない。村上春樹の書き方の中から、それが失われたまま来てしまっている。初期の頃に評価されたアメリカ文化との緊張関係みたいなものも、今日において有効ではない。その部分を引き算にしなければならないことの影響も随所に及んでいます。
【5】『アフターダーク』:04年刊行。三人称形式と一人称複数の視点での語りが混じり合う、村上春樹作品としては珍しい試みがなされた長編。深夜の都会で起きる出来事を描写していく。
【6】『海辺のカフカ』
02年刊行。父親の呪いから逃れるために家出した15歳のカフカ少年と、猫探しをする知的障害の老人ナカタそれぞれの動きが徐々に交わり、異世界と現実が交錯する中で隠された謎が徐々に明らかになってゆく。
宇野 『アフターダーク』の頃の村上春樹は、結果的にだろうけど想像力のレベルでグーグルと戦っていた。
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