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我々の身体を"マリオ"化する企て――チームラボ猪子の日本的想像力への介入 宇野常寛コレクション vol.19【毎週月曜配信】
2020-04-27 07:00
今朝のメルマガは、『宇野常寛コレクション』をお届けします。今回は2014年に開催された「チームラボと佐賀 巡る!巡り巡って巡る展」を取り上げます。海外ではすでに新世代のデジタルアートの旗手として大きな注目を浴びていながらも、チームラボにとって日本国内ではほぼ初めてだった大規模な展覧会。宇野にとっても彼らのアートと系統的に向き合っていくターニングポイントとなった異例ずくめの佐賀展は、情報技術と日本的想像力との関係を、どのように更新したのでしょうか? ※本記事は「楽器と武器だけが人を殺すことができる」(メディアファクトリー 2014年)に収録された内容の再録です。
※チームラボ代表・猪子寿之さんと宇野の対談を収録した「人類を前に進めたい チームラボと境界のない世界」(PLANETS刊)好評発売中です!詳細・ご購入はこちらから。
「超楽しいよ、佐賀」「佐賀、ハンパないよマジで」「福岡から電車で一時間しないよ。マジすぐだから」 打ち合わせにならなかった。 その日僕は事務所のスタッフと一緒に水道橋のチームラボに来ていた。チームラボとは猪子寿之が代表をつとめる情報技術のスペシャリストたちのチームで、近年はデジタルアート作品を数多く発表している。主催の猪子が掲げるコンセプトは情報技術による日本的な想像力の再解釈だ。西欧的なパースペクティブとは異なる日本画の空間把握の論理を現代の情報技術と組み合わせることで、猪子はユニークな視覚体験を提供するデジタルアートを多数産み出してきた。
僕はいま、彼らチームラボと2020年の東京オリンピックの開催計画を練っている。ほうっておけば高齢国家・日本が「あの頃は良かった」とものづくりとテレビが象徴する戦後日本を懐かしむだけのつまらないオリンピックが待っている。そこで、僕はいま仲間たちと若い世代が考えるあたらしいオリンピック・パラリンピックの企画を考えて、僕の雑誌(PLANETS)で発表しようとしているのだ。僕たちの考えではテレビアナウンサーが感動の押し売り的文句を連呼し、「同じ日本人だから」応援されることをマスメディアを通じて強要されるオリンピックの役目はもう、思想的にもテクノロジー的にも終わっている。僕たちが考えているのは最新の情報技術を背景にした、あたらしい個と公のつながりを提案するオリンピックだ。開会式の演出からメディア中継にいたるまで、実現可能な、そしてワクワクするプランを提案すべく日々議論している。だからこの日もそんな議論が行われるはずだったのだが、猪子の口から出るのはいつまで経っても「佐賀」の話題だった。
そう、その日(3月10日)佐賀県ではチームラボの展覧会「チームラボと佐賀 巡る!巡り巡って巡る展」が開催中だった。チームラボの評価はむしろシンガポール、台湾などアジア圏のアート市場で高く、国内での大規模な展覧会は今回が初めてのものとなる。今回の展示は佐賀県内の4ヶ所にも及ぶ施設にまたがる大規模なものだが、存命の、しかも弱冠36歳の若いアーティストの展示を県が主催するのは異例のことだ。この異例の開催については県庁内でもさまざまな議論が交わされたようだが、開催後は予想外の好評と来場者数の伸びに湧いているという。その日猪子は半分冗談まじりに、あと二週間足らずで終わるこの展覧会を僕に観ろ、と繰り返した。
たしかに一度、猪子の作品をまとめてじっくりと観てみたいという気持ちは以前からあった。しかし、観に行くとしたらその週末に弾丸ツアーを敢行するしかない。さすがにその展開はないだろう、と思っていた僕を動かしたのは何気ない猪子の一言だった。「会期延長しようぜ1ヶ月くらい。なら行ける」と口走った僕に、猪子はこう言ったのだ。「宇野さん、俺と宇野さんの一番の違いはね。なんだかんだで宇野さんは夢を生きている。でも、俺は現実を生きているんだよ」と。もちろん、これは冗談だったのだと思う。でも、僕はこの何気ない一言に猪子寿之という作家の本質があるような気がしたのだ。そして、僕は気がついたら答えていた。「え、じゃあ、行っちゃおうかな。うん、行くわ」と。
ここで猪子という作家の掲げる「理論」を簡易に説明しよう。猪子曰く、西欧的なパースペクティブとは異なる日本画的な空間把握は現代の情報技術が産み出すサイバースペースと相性がいい。全体を見渡すことのできる超越点をもたないサイバースペースは日本画的な空間と同じ論理で記述されるものだ、と猪子は主張する。そして、多様なコミュニティが並行的に存在し得る点は多神教的な世界観に通じる。猪子はこのような理解から日本的なものを情報技術と結びつけ、たとえば日本画や絵巻物に描かれた空間をコンピューター上で再解釈したデジタルアート(アニメーション)を多数発表している。
その題材の選択からオリエンタリズムとの安易な結託と批判されがちな猪子だが、実際に国内の情報社会がガラパゴス的な発展を続けていること/そしてその輸出可能性が検討されていることひとつをとっても、猪子の問題設定のもつ射程はオリエンタリズムに留まるレベルのものではないのは明らかである。
さて、その上で以前から僕が指摘しているのはむしろ猪子のキャラクター的なものへの態度についてだ。 猪子が度々指摘する主観的な、多神教的な、アニミズム的な世界観は同時にキャラクターというインターフェイスを備えている。たとえば私たち日本人は本来「人工知能の夢」の結晶であるはずの「ロボット」を「乗り物」として再設定している(マジンガーZ、ガンダム、エヴァンゲリオン)。「初音ミク」もまた集合知をかりそめの身体に集約して、作品を世界に問うための装置だと言える。要するに私たちは、日本人は自分とは異なる何かに、ときには集団で憑依して社会にコミットする(「世間の空気」を「天皇の意思」と言い換える)という感覚を強く有しているのだ。
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宇野常寛 チームラボと未来の社会像――3つの境界線を消失させるために(後編)
2019-11-20 07:00
今朝のメルマガは、宇野常寛によるチームラボ論の後編です。チームラボの「超主観空間」は、三次元空間を平面化する視点の変容により、鑑賞者を作品世界へと没入させます。デジタルアートと自然の融合が促す、人間と事物の境界の消失。さらには人間の間にある境界の融解による、理解や共感に依らない他者との共生の可能性を提示します。 ※本記事は『teamLab 永遠の今の中で』(青幻舎・2019年)に寄稿した論考を転載したものです ※本記事の前編はこちら本記事のリード文の一部に誤記があったため、修正して再配信いたしました。読者の皆様にご迷惑をおかけしましたことを深くお詫び申し上げます。【11月20日19時00分追記】
本メルマガの連載を書籍化した『人類を前に進めたい チームラボと境界のない世界』が11月21日に発売になります。ぜひお買い求めください(Amazon |BASE)
3 人間と事物との境界線を消失させる
チームラボのデジタルアート作品は、彼らの主張する「超主観空間」というコンセプトに基づいた平面的な絵画のアップデートから始まった。「超主観空間」とは何か。「一般的に伝統的な日本画は観念的だとか平面的だとかと言われているが、当時の人には、空間が日本画のように見えていたのではないだろうか」という疑問から、このコンセプトは生まれたという。チームラボは「デジタルという新たな方法論によって、その論理構造を模索」し、「コンピューター上に立体的な三次元空間の世界を構築し、日本美術の平面に見えるような論理構造」を仮定した。その論理構造を「超主観空間」と呼ぶ。こうして、チームラボ作品の多くが、コンピューター上に仮構された三次元の空間を「超主観空間」の論理式によって平面化することによって生まれてきた。[2] これによって日本画は無限に変化するアニメーションに、あるいは鑑賞者に対しインタラクティブなものにアップデートされたわけだが、ここで重要なのはむしろ視点の問題だ。 猪子は述べる。超主観空間によって描かれた自分たちの新しい日本画は「スーパーマリオブラザーズ」のようなものなのだと。猪子は「スーパーマリオブラザーズ」に見られるような80年代の日本のコンピューターゲームで発展した横スクロールアクションと、日本的な絵画の「視点」の問題に共通項を見出す。それは、鑑賞者≒プレイヤーが自分の感情移入対象である人物(キャラクター)と視点を共有しながらも、その姿を神の視点から把握していることだ。猪子はこの視点を平面(作品世界)への没入を可能にする視点だと位置づける。「超主観空間」は伝統的な日本絵画を動的に、インタラクティブにアップデートするためだけに導入されたのではない。むしろ、作品世界への鑑賞者の没入を、人間と事物(作品)との境界線とを消失させるためにこそ必要とされたのだ。 人間と事物との境界線の消失というコンセプトは、今日においてもチームラボの作品群の一つの中核をなしていると言えるだろう。 例えば〈Floating Flower Garden;花と我と同根、庭と我と一体〉(2015)は、本物の生花で埋め尽くされた空間として鑑賞者の前に登場する。しかし鑑賞者が近づくとモーターで制御された花たちは上昇を始め、鑑賞者の移動に合わせて半球状のドームが生まれていく。あるいは、同年のチームラボの代表作の一つ〈クリスタルユニバース/Crystal Universe〉は、無数のLED電球の配置された空間において鑑賞者がスマートフォン上のアプリケーションを操作することで、さまざまな光の彫刻を再現するインタラクティブな作品だが、鑑賞者は自在に変化するこの光の彫刻を操作するだけではなく、その彫刻の中に侵入することができる。これらの作品はいずれも超主観空間を平面から立体に、二次元から三次元に、目で見るものから手で触れられるものにアップデートしたものだ。そしてチームラボのデジタル日本画が鑑賞者の没入を誘うように、これらの立体作品もまた私たちを没入させる。 猪子は述べる。〈自然の中に入ったときに感じる「世界の一部になったような感覚」とか「他者と自分との境界がなくなる」とか「本当に自分の肉体が入っている」とか、そういう感覚も好きなんだよね。それがモノでできたらもっとすごい。〉[3]
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宇野常寛 チームラボと未来の社会像――3つの境界線を消失させるために(前編)
2019-11-19 07:00
今朝のメルマガは、宇野常寛によるチームラボ論をお届けします。2016年のトランプ大統領の誕生が明らかにした世界の分断。グローバリゼーションと、それに対する抵抗の間にある「境界」は、いかにして乗り越えられるのか。前編では、チームラボが「Borderless」のコンセプトを掲げて取り組む、作品間の「境界」を融解させる試みについて読み解きます。 ※本記事は『teamLab 永遠の今の中で』(青幻舎・2019年)に寄稿した論考を転載したものです
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1 2016年の敗北ともう一つの「壁」
2016年11月8日一それは世界を駆動していた一つの理想が決定的に蹟き、そして敗北した日だった。 その日行われたアメリカ大統領選挙によって第45代大統領に選ばれたのは、大方の予想(あるいは希望的な観測)を覆しドナルド・トランプだった。「壁を作れ」という象徴的な言葉が示すようにトランプの当選は、20世紀の惨禍から人類が学び得た理想(多文化主義)と、21世紀の人類を前に進める新しい「経済」的な理想(カリフォルニアン・イデオロギー)の二つに共にNoを突きつけるものだ。 多文化主義(政治的なアプローチ)とカリフォルニアン・イデオロギー(経済的なアプローチ)はともに、グローバル化と情報化によってこの世界を一つにつなげる力の背景にある思想だ。20世紀的な国民国家の集合(インターナショナル)から、世界単一の市場経済(グローバル)ヘ世界地図を描くべき図法は変化し、この新しい「境界のない世界」は冷戦終結から約四半世紀の間に急速に拡大していった。革命で時の政権を倒しても、ローカルな国民国家の法制度を変えることが関の山だが、情報産業にイノベイティブな商品やサービスを投入することができれば一瞬で世界中の人間の社会生活そのものを変えることができる。21世紀はグローバルな市場というゲームボードによって世界が一つの平面に統一され、その主役は国境を越えて活躍するグローバルな情報産業のプレイヤーたちだ。 しかし、この新しい「境界のない世界」へのアレルギー反応が噴出したのが、2016年だった。アメリカ大統領ドナルド・トランプの誕生、そして同じ2016年に行われたイギリスのEU離脱を支持する結果となった国民投票(ブレグジット)。去る2016年は冷戦終結後から一貫して進行してきたグローバリゼーションに、そしてそれと並走して進行してきた人類社会の情報化に対するアレルギー反応の時代に世界が突入したことを宣言する1年になったのだ。
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11月21日発売!猪子寿之×宇野常寛『人類を前に進めたい チームラボと境界のない世界』☆号外☆
2019-11-04 20:00
チームラボ代表・猪子寿之さんと宇野常寛との対談をまとめた書籍『人類を前に進めたい チームラボと境界のない世界』を11月21日(木)に発売します!
猪子さんと宇野の、4年間の対談をまとめたこの本は、(ときに大幅な脱線をはさみながら)、チームラボの展覧会や作品のコンセプト、その制作背景を、二人の対話とたくさんの写真を通じてまとめた本です。
毎回の連載を楽しみにしてくださっている方や(もちろんこのあとも連載は続きます!)、お台場や豊洲をはじめとしたチームラボの展覧会に行ったことのある方はもちろん、チームラボってなにもの? という方にも、楽しく読んでいただけるよう、精一杯つくりました。
作品の画像だけではなく、展覧会の現地で撮影した写真や、オフショットなども満載。全ページフルカラーでとても読みやすい、(しかし人類を前に進めるための真実も随所で語る)永久保存版です。
ただいまAmazonや全国の -
【冊子つき先行予約は10/31まで】猪子寿之×宇野常寛『人類を前に進めたい チームラボと境界のない世界』
2019-10-28 12:00
チームラボ代表・猪子寿之さんと、PLANETS編集長/評論家・宇野常寛との4年間におよぶ対談が書籍になります!
10月31日まで限定で、PLANETS公式オンラインストアにて冊子つき・先行予約を受付中。
特典冊子『ニッポンを前に進めたい』では、人口縮小社会への問題提起から、国家と民主主義のゆくえ、グローバル経済が人々を分断する中でのアートの役割など、この国の未来について二人が語り合いました。本書と合わせて必読です!
ご予約はこちらから
【公式ストアにて、10月31日(木)までのご予約限定】 (1)11月21日(木)の一般発売よりも先にお届け! (2)特典冊子『ニッポンを前に進めたい』(猪子寿之×宇野常寛)と特製ステッカーつき! ※11月1日(金)以降のご予約・ご購入分には特製ステッカーのみ付属します。
▼本書に込めた思いを、宇野常寛がnoteに寄稿しました。 『猪子寿之と「人類を前に進 -
10月31日(木)まで限定冊子つき・先行予約を受付開始!猪子寿之×宇野常寛『人類を前に進めたい チームラボと境界のない世界』
2019-10-10 19:30
チームラボ代表・猪子寿之氏と、評論家・宇野常寛との4年間に及ぶ対談が、ついに書籍化! 10月31日(木)まで限定で、冊子つき・先行予約を受付中です。
▼書籍紹介 チームラボはなぜ「境界のない世界」を目指し続けるのかーー?
2015年からの4年間、チームラボ代表の猪子寿之氏は、評論家・宇野常寛を聞き手に、展覧会や作品のコンセプト、その制作背景を語り続けてきました。
ニューヨーク、シリコンバレー、パリ、シンガポール、上海、九州、お台場……。共に多くの地を訪れた二人の対話を通じて、アートコレクティブ・チームラボの軌跡を追う1冊。 さらに、猪子氏による解説「チームラボのアートはこうして生まれた」も収録!
【目次】 CHAPTER1 「作品の境界」をなくしたい CHAPTER2 デジタルの力で「自然」と呼応したい CHAPTER3 〈アート〉の価値を更新したい CHAPTER4 「身体」の境界を -
宇野常寛 汎イメージ論――中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ 最終回 「汎イメージ」の時代と「遅いインターネット」(3)
2019-09-25 07:00
本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。ジャン・ジュネの論考から明らかなように、吉本隆明の「関係の絶対性」の根底にあるのは、自身の無性化、他者の風景化であり、その〈非日常〉と〈日常〉の境界を溶解する想像力は、チームラボのアートと共鳴します。父権的な〈テキスト〉の零落により、〈イメージ〉が氾濫する「母性のディストピア」に堕したインターネット。そこに投じるオルタナティブとは……?(初出:『小説トリッパー』 2019 春号 )
6 無性と風景
ここで私たちは、吉本隆明が『書物の解体学』で展開したジャン・ジュネについての論考を思い出すことができる。たとえば宇野邦一は「〈無性〉化に適するとは、自己の生理を、あるいは他者の肉体を〈風景〉とみなすことができるという、あの視線と距離とを意味している」と述べる吉本が、当時悪と同性愛の体験をナイーブに描いた〈外道の〉作家として読まれていたジュネについて人間の肉体を無性的に捉え、風景として描いた作家だと位置づけ直したと解釈する。 「意志した革命者はいつか革命者でなくなるにきまっている。なぜなら〈意志〉もまた主観的な覚悟性にすぎないからである。ただ〈強いられた〉革命者だけが、ほんとうに革命者である。なぜならば、それよりほかに生きようがない存在だからである」――これは吉本が「関係の絶対性」を主張した「マチウ書試論」の一節だ。 宇野はこの一節を引用しながら、こうした吉本のジュネ解釈背景には、道徳や性愛の境界を侵犯することは決して自由意志の選択ではなく、「関係の絶対性」の産物であるとする吉本の人間観の存在があると指摘する。 (当時のマジョリティの社会通念上の)性的な逸脱を非日常的な越境と捉える感性を、吉本は頓馬なものとして批判する。そうではなく、それは自身を無性化し、他者の肉体を風景とみなすことであり、性的なものを非日常ではなく日常の中に組み込むことなのだ。 宇野の吉本解釈は、すなわち「日常性のなかに非日常性を、非日常性のなかに日常性を〈視る〉ことができないとすれば、この世界は〈視る〉ことはできない」とまで述べる解釈は、本連載で展開した情報社会論として吉本隆明を読む視座から得られた解釈と一致する。世界視線と普遍視線の交差とは、すなわち臨死体験の比喩で吉本が予見し、ハンケらがGoogleMapで実装した新しい社会像とは、「日常性のなかに非日常性を、非日常性のなかに日常性を〈視る〉」視線と言い換えても過言ではない。そしてこの日常性の中に非日常性を組み込むために、ジュネ的な無性化が必要とされるのだ。 当時その同性愛的モチーフから〈外道の〉〈非日常の〉行為と位置づけられていたジュネの文学を、むしろ人間の肉体を無性化し、自己と世界との境界線を無化し、風景の一部にすること。非日常性を日常の中に組みこむこと。世界視線を普遍視線に組み込むこと。この無性性こそ、肉体を風景の一部にする想像力こそが、今日における有り得べき対幻想の姿を提示してくれるのではないか。後期の吉本は、「母」的な情報社会に対し楽観的にすぎた。しかし、この時期の吉本には来るべき「日常性のなかに非日常性を、非日常性のなかに日常性を〈視る〉」世界(後の情報社会)に対し、母性的なものではなく無性的なものを発見していたのだ。ここに、後期の吉本が陥った隘路を回避する可能性があったのではないか。 今日におけるフェイクニュース(イデオロギー回帰)とインターネット・ポピュリズム(下からの全体主義)の温床となる夫婦/親子的な対幻想ではない、もうひとつの対幻想――今日においてはローカルな国民国家(共同幻想)よりもグローバルな市場(非共同幻想)と親和性の高い、兄弟姉妹的な対幻想――を根拠に、いまこそ私たちは大衆の原像「から」自立すべきなのだ。そしてこのとき有効に働くのが、従来の多文化主義リベラリズム的な他者論ではなく、「語り口の問題」でつまずく(グローバルな情報産業のプレイヤー=世界市民だけを「仲間」として語りかける)カリフォルニアン・イデオロギー的(なものを誤って用いた)他者論でもなく、そのアップデートであるチームラボ的他者論ではないだろうか。自己を(比喩的に)無性化し、他者を一度「風景」と化すこと。そうすることでその存在自体を前提として肯定すること。そうすることではじめて、私たちはこの新しい「境界のない世界」に古い「境界のある世界」を取り込むことができるはずだ。「自己の生理を、あるいは他者の肉体を〈風景〉とみなすことができるという、あの視線と距離」を、チームラボのデジタルアートは私たちにもたらしてくれるのだ。
7 「汎イメージ」の時代と「遅いインターネット」
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宇野常寛 汎イメージ論――中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ 最終回 「汎イメージ」の時代と「遅いインターネット」(2)
2019-08-05 07:00
本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。共同幻想に抗うための方策――モノによる自己幻想の強化、あるいは夫婦・兄弟の対幻想の構築は、いずれも頓挫する宿命にあります。それに対して、チームラボのアートは「他者」を読み替えることで、自己幻想の解体を試みます。(初出:『小説トリッパー』 2019 春号 )
4 あたらしい対幻想
では、チームラボの作品群は「超主観空間」をコンセプトにした初期から、「三つの境界線の消失」にいたる今日にいたるまで、いかに発展し、そして吉本の述べる「母系的な」情報社会のもたらすボトムアップの全体主義を克服してきたのだろうか。 吉本は『共同幻想論』において、対幻想のうち親子/夫婦的な対幻想に立脚することで共同幻想からの独立を説いた。しかし前述したようにこの親子/夫婦的な閉じた対幻想こそが、今日におけるボトムアップの共同幻想による「下からの全体主義」の温床となっている。 これはどういうことか。今日の情報社会において共同幻想は自己幻想、対幻想を強化するための材料として機能する。国民国家の代表する大きな共同幻想が小さな個人をトップダウンで飲み込むのではなく、自己幻想を成立させるために、もしくは対幻想を成立させるために――たとえ世界のすべてがあなたを否定しても、私は無条件であなたを肯定する、という物語が成立するために――共同幻想が素材として導入される。自己を確認するために、あるいは閉じた二者関係を強化するために、私たちは誰から強制されたわけでもなく二〇世紀的なイデオロギーに回帰するのだ。 かつて戦後の消費社会下で対幻想は――戦後的な標準家庭の核家族を支えた対幻想は――天皇主義や戦後民主主義という共同幻想に依存しない、強くしたたかな「大衆の原像」を育んだ。しかしその一方で、それは標準化された「普通」という価値観を周囲に強制し、同調圧力で出る杭を打つことで、マイノリティを抑圧し、排除するテレビバラエティ、テレビワイドショー的な「下からの全体主義」を育んだ。ここではトップダウンではなく、ボトムアップの共同幻想がイデオロギーではなく同調圧力として、日本社会を支配しているのだ。この状況に風穴を開けることを期待されたインターネットは、Twitterの登場によってテレビ的な「下からの全体主義」を補完する装置に成り下がった。こうして情報技術に支援されることで、戦後日本的「母性のディストピア」は強化温存されたのだ。 ではどうするのか。この「下からの全体主義」を生む「ボトムアップの共同幻想(大衆の原像)」から、いかに私たちは「自立」すべきなのか。たとえば糸井のアプローチは消費社会に撤退することで自己幻想を操作し、それによって情報社会――「下からの全体主義」を生む「ボトムアップの共同幻想(大衆の原像)」に流されない主体の形成を目指したものだと言える(その限界は既に指摘済みだ)。 自己幻想の操作による「大衆の原像」からの「自立」が難しいのならば、やはり私たちは対幻想の水準で考えるしかない。しかし親子/夫婦的な閉じた対幻想こそが「大衆の原像」の温床となったこともまた既に指摘済みだ。よって、私はここで吉本がかつて排除したもうひとつの、開かれた対幻想に立脚する可能性を考えたい。 それは兄弟姉妹的なもうひとつの対幻想だ。『共同幻想論』にはふたつの対幻想が登場する。一つは夫婦親子的、核家族的な「閉じた」対幻想だ。もうひとつが兄弟姉妹的な「開かれた」対幻想だ。前者は時間的な永続を、後者は空間的な永続を司る。前者は閉じているがゆえに二〇世紀的なトップダウンの共同幻想に対する防波堤になり、後者は開かれているがゆえにむしろそれと結託する(よって、前者を足場に私たちは共同幻想から自立すべき)というのが吉本の主張だった。しかし、今日において両者の関係は逆転している。今日においては、前者の閉じた対幻想こそが信じたいものを信じ(フェイクニュース)、それを守るために同調圧力(下からの全体主義)を生むボトムアップの共同幻想の温床となっている。信じたいものを信じるという態度にインスタントに承認を与えるという点において、「二者関係に閉じた」対幻想は情報技術のもたらしたポスト・トゥルースの時代との親和性が高いのだ。 対して兄弟姉妹的な「開かれた」対幻想はどうか。かつて、まだ「市場とテクノロジー」ではなく「政治と文学」で世界と個人との関係性が記述されていたころ、この対幻想はトップダウンの共同幻想=イデオロギーによって家族が捏造される(「我らが同志、すなわち兄弟!」)時代には、かんたんに共同幻想と結託し得るものだった。いや、この事実自体は今日も変わらない。しかし、現代では空間の広がりは国家のみと結託するわけではない。むしろ逆だ。今日において国家という共同幻想と結託することは、むしろローカルな既存の「家族」に引きこもることを意味する。空間的な永続を追求することは、グローバルな市場という非共同幻想的なシステム上に、そのネットワークを、「家族」を拡大することを意味するのだ。 現にグローバル化とは何かを考えてみれば良い。それは国民国家の国境の消失などではない。グローバルな情報産業が栄えるメガシティのネットワークが発達することだ。グローバルな都市のネットワーク(非共同幻想的なシステム)に、ローカルな国民国家(ポピュリズムの結果として民主的に、ボトムアップで生まれる共同幻想)がそのアレルギー反応の場として再召喚される。それが今日の世界なのだ。 連載の冒頭で紹介した、六本木の「意識の高い」IT事業者たちの語り口を思い出してもらいたい。彼らの自意識は国民国家の住人のものではなく、グローバルな市場のプレイヤーのそれだ。彼らは共同幻想を必要とせず、世界中の「兄弟」に対等な立場で語りかける。問題は彼らの語り口そのものが境界を再生産していることだ。新世界と旧世界を、境界のない世界とある世界との「境界」を再生産していることだ。 では、シリコンバレーの起業家とラストベルトの自動車工は、いかにして「兄弟」足り得るのか。それもトランプ的な国民国家という共同幻想への回帰なくしてあり得るのか。
5 更新される他者像
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宇野常寛 汎イメージ論――中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ 最終回 「汎イメージ」の時代と「遅いインターネット」(1)
2019-07-22 07:00
本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。インターネットが生み出す母系的な共同幻想からの自立。かつて吉本隆明が〈文学〉で目指し、ジョン・ハンケは〈テクノロジー〉、糸井重里は〈モノ〉によって目論んだそれを、チームラボはいかにして成し遂げたか。デジタルアートによって試みられる〈境界〉と〈視線〉へのアプローチから考えます。(初出:『小説トリッパー』 2019 春号 2019年 3/18 号 )
1 吉本隆明からジョン・ハンケへ、あるいは糸井重里へ
これまでの議論を整理しよう。今日のグローバルな情報社会の進行はいま、乗り越えるべき大きな壁に直面している。 まずグローバルには多文化主義とカリフォルニアン・イデオロギーが、排外的ナショナリズムの前に躓いている。グローバル化、情報化といった「境界のない世界」の反動として、そこから取り残された人々が民主主義という装置を用いて「境界のある世界」への反動を支持している(トランプ/ブレグジット)。 そして国内ローカルには、Twitterに代表されるインターネットの言論空間が一方では「下からの全体主義」を発揮し、テレビ的なポピュリズムを補完し下支えすることで、社会から自由と多様性を奪っている。そしてフィルターバブルに支援され、二〇世紀的なイデオロギーに回帰した心の弱い人々が他方ではフェイクニュース、陰謀論を拡散している(この現象はかたちをかえて世界各国で観察できる傾向である)。 かつて吉本隆明が唱導した「大衆の原像」に立脚した「自立」の思想は、インターネット・ポピュリズムとフェイクニュース、下からの全体主義と排外主義として、いま世界を覆いつつあるのだ。吉本がアジア的段階、アフリカ的段階へのポジティブな回帰として、肯定的に予見した高度資本主義と情報化の帰結(今思えばこれはカリフォルニアン・イデオロギーのことだ)としての「母系的な」社会とは、情報技術によってもたらされた「母性のディストピア」に他ならなかったのだ。 本連載はその突破口を模索することを目的としてきた。たとえば「政治と文学」という問題設定から出発し、文学の「自立」を唱導し、政治と文学の本来的な「断絶」を受容せよと主張したのが吉本隆明だとするのなら、ジョン・ハンケはこの世界と個人との接続を「政治と文学」ではなく、「市場とテクノロジー」の次元で接続することで解決しようとしていると言える。
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猪子寿之の〈人類を前に進めたい〉第34回「密度を活かしてアートを〈自然〉に高めたい」
2019-04-25 07:00
2018年最後の配信は、チームラボ代表・猪子寿之さんの連載〈人類を前に進めたい〉。今回は上海の燃油タンク跡地をリノベーションした美術館・TANK Shanghaiでオープニングを飾るチームラボの展覧会がテーマです。工業地帯からIT都市へと生まれ変わりつつある地区に、なぜ今、現代アートが集結しているのか。議論は都市とアートの関係から、密度や混ざり具合の違いが人間の認識や行動に与える影響にまで広がっていきます。
▲チームラボは、中国・上海のTANK Shanghai(上海油罐芸術中心)にて、オープニング展「teamLab: Universe of Water Particles in the Tank」を開催中。会期は8月24日まで。
上海で燃油タンクが美術館になる意味
宇野 今回は上海で3月23日から始まった「teamLab: Universe of Water Particles in the Tank」に来ているわけだけど、まずは、この展覧会のコンセプトの話から聞きたいな。
猪子 この美術館、TANK Shanghaiは、燃油タンクの跡地の建物をそのまま使ってつくられたもので、そのオープニングのエキシビジョンのオファーがチームラボに来たんだよね。この美術館は私設なんだけど、オーナーの喬志兵(チャオ・ジービン)氏が世界でトップ200に入るような、中国を代表する現代アートのコレクターなんだ。そんな彼が燃油タンクをリノベーションして現代美術館にしたんだよね。
この西岸(ウェストバンド)エリアは、もともと川崎みたいな工業地帯だったんだけど、都市が拡大したことで工業地帯が移転して、今はアート地区みたいになってる。有名どころだと、火力発電所の跡地を国立の美術館にした上海当代美術博物館とか、現代アートの美術館の龍門雅集とか。六本木ヒルズに蜘蛛みたいな大きな彫刻があるでしょ。あれを作ったルイーズ・ブルジョワの大規模な回顧展をこの前まで開いていた龍美術館とかがある。あと余徳耀美術館(Yuz Museum)には『レイン・ルーム』が常設されてる。Random Internationalというアート集団の、雨の中を歩いても濡れないという作品ね。あれが常設されているのは以前はここだけだったんだよね。今はドバイにもあるらしいけど。
とにかく、ルイーズ・ブルジョワにしても『レイン・ルーム』にしても、世界的に見てもすごい作品で、それらを展示するパワフルな美術館が集まってる。この一帯は今後さらにパワーを持つエリアになっていくと思う。
TANK Shanghaiはその地区の一番端になるんだけど、敷地内にあるタンクのうちの一つでチームラボは個展をしています。あとの二つは、中国を代表する現代アーティストたちのグループ展と、アルゼンチンを代表するアドリアン・ビジャール・ロハスの展覧会になってますね。
会場は2フロアあります。まずは2階に上ってもらうと、燃油タンクの形状をそのまま使った、『Universe of Water Particles in the Tank, Transcending Boundaries』(以下『滝』)と『花と人、コントロールできないけれども、共に生きる、Transcending Boundaries - A Whole Year per Hour』(以下『花と人』)という作品を展示しています。燃油タンクって本当に巨大で円形だから、その中に一つの小宇宙を作りたいと思って、水の流れと生と死を繰り返す花の作品が共存している空間を作った。
▲『Universe of Water Particles in the Tank, Transcending Boundaries』
▲『花と人、コントロールできないけれども、共に生きる、Transcending Boundaries - A Whole Year per Hour』
そして、燃油タンク沿いに階段をおりていくと、1階では『Black Waves: 埋もれ失いそして生まれる』という波の作品を公開していて、来場者がさまよって方向感覚がわからなくなるような空間の中で、さらに三つのディスプレイ作品を展示している。大枠で言うとそういう展覧会です。
▲『Black Waves: 埋もれ失いそして生まれる』
宇野 まず作品の外側の話から始めたいんだよね。猪子さんが意識しているかはわからないけど、場所に意味が出ちゃうっていうこと。つまり、なぜあのタンクが美術館になったかというと、中国の沿岸部が経済発展してるってことだよね。燃油タンクって20世紀的な工業社会の重工業の象徴で、それがITを中心とした新しい産業の都市の中心にあるってことだから。
猪子 まさにその通りで、燃油タンクの目の前に超巨大IT企業の上海オフィスが建設されている最中なんだよ。
宇野 ITって実体を持たないじゃない? 工業社会では燃油タンクや工場といった目に見えるアイデンティンティがあったけど、IT社会ではそれを持てないから、代わりにアートで確立しようとしてると思うんだよね。ただ、自分たちのアイデンティティを、建物というモノによって記述するのは、その発想自体が工業社会のセンスだと思う。
チームラボがシリコンバレーやシンガポールに招かれたのも、それらの都市がアイデンティティを求めていたからで、都市が新しいステージに上がって自信をつけようとしたときに、それにふさわしいアートを備えようとするのだと思う。この地域に新しい美術館がつくられているのは、情報社会に生まれ変わった上海の新しいアイコンになろうとしているからだと思う。かつて燃油タングが並んでいた場所だからこそ、たとえばアリババやテンセントみたいな巨大IT企業の支社ができなきゃいけないし、新しい美術館ができないといけない。これは猪子さんが意図していなかったとしても、結果的にそういう意味が後から追いかけてくると思う。
猪子 なるほどね。もちろん建物を壊さずにそのまま使うのがカッコいいという、世界的なリノベーションの流れもあると思うけどね。彼らには日本のような20世紀へのノスタルジーは全くないし、世界の中心は自分たちだと本気で思っている気がする。ただ事実として、宇野さんの言うように、かつての工業地帯が今は美術館エリアになっているし、IT企業のオフィスがつくられている。
宇野 今後、IT企業のオフィスができたとき、この地区は新しい意味を持った場所になると思う。それこそ工業社会から情報社会に移り変わったことの象徴としてのね。そのときに、巨大IT企業の支社だけでなく美術館があるというのが現代的だよね。
以前、映像圏のカルチャーからもう一度、アートに揺り戻しが来るんじゃないかという話をしたけど(参照)、そういうことだと思うんだよね。アートというのは、鑑賞者にとっては固有の体験になるから。20世紀は、モニターの中で皆が同じ夢を見るということばかりを追求していた100年間だったんだけど、その揺り戻しが明らかにきている。そういう意味で、あそこに美術館がいくつもあることには意味があると思うよ。
作品に「360度」包まれる
宇野 しかしここの展示、つまり2階の、まさに燃油タンクの中にあたる部分の展示は圧巻だね。球形の空間の内壁がそのまま作品になっていて、鑑賞者が360度包まれるというのは、実は今まではあまりやってこなかったよね。いまだに僕も消化しきれていないんだけど、これはいろいろ応用できる気がする。
猪子 ちょっと近いのが豊洲(「チームラボプラネッツ TOKYO」)のドーム(『Floating in the Falling Universe of Flowers』)だよね。でもそちらは、ドームであることすら感じさせない作品だけど、今回はタンクの形状をより意図した作品だから。
宇野 豊洲ではどこに壁があるのかわからないような空間に没入させられるけど、今回は明確に球体の内側に閉じ込められていることを自覚せざるを得ない。視覚的にも新しいし、あの閉じ込められている感覚は面白い。床と壁が全部作品で、ぐるっと包まれている。この表現が正しいかはわからないけど、妙な安心感があるよね。
猪子 一つの小宇宙というか、箱庭みたいだよね。
宇野 僕はジオラマが好きなんだけど、あの感覚に近いなと思っていて。世界をまるごと手に入れたかのような錯覚。チームラボの一連の作品は自然のようなエコシステムを作り上げているわけなのだけど、それに360度囲まれるというのは、自分が一つの小宇宙を手に入れたような感覚がある。今回の作品はタンクの建物に合わせた、素材の面白さを引き出すためのアプローチを取ったのだと思うんだけど、すごく応用可能性があると思う。これは大事なことで、パリ展とかボーダレスのような大規模展示を見ちゃうと、全部あれの部分輸出に見えちゃうわけ。そうじゃない戦い方をするには街の文脈と対決する、つまり、この場所でこういう展示をするのはどういう意味があるかを追求するか、あるいは建物という素材に徹底的に向き合うかしかない。それは今後、チームラボが世界中のいろいろな都市で作品を展開していく上で重要なことだと思うんだよね。そこからはまた別の意味が出てくると思うし。
今回の作品でいうと、この地域でやっていることの意味と、360度という作品のコンセプトがうまく組み合わさると、より重層的になるのかなと思った。場所と建物に、今回の展示は結果的にかもしれないけれどしっかり向き合ったものになっていると思う。
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