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記事 6件
  • 中川大地 デジタルゲームの現在――「2016年ショック」以降の展開

    2018-12-26 07:00  
    540pt

    今朝のメルマガは、『現代ゲーム全史 文明の遊戯史観から』(2016年)の著者で評論家/編集者の中川大地さんによる、2018年までの日本のゲームシーンの総括です。『Fate/Grand Order』が先導する「虚構回帰」や、任天堂の「Switch」の成功、インディーゲームの席巻、そして「eスポーツ」の急速な勃興など、ゲーム業界を揺るがした地殻変動を改めて振り返りながら、〈拡張現実の時代〉に続く新たなパラダイムの可能性を構想します。 ※本稿は「S-Fマガジン 2018年6月号 ゲームSF大特集」に掲載された同名原稿の再録です。
     拙著『現代ゲーム全史 文明の遊戯史観から』では、一九四五年を起点に戦後史を十五年ごとにゆるやかに腑分けする社会文化史の時代区分に照らしながら、第二次大戦後の情報技術の発展とともに推移したデジタルゲームの史的展開を分析した。
    ▲『現代ゲーム全史』
     すなわち、ちょうど日本では昭和という元号のカバー期にほぼ一致する〈理想の時代(一九四五~一九五九年)〉〈夢の時代(一九六〇~一九七四年)〉〈虚構の時代(一九七五~一九八九年)〉の三セットと、ポスト冷戦という世界史的なメルクマールとも重なった平成前半の〈仮想現実の時代(一九九〇~二〇〇四年)〉、後半の〈拡張現実の時代(二〇〇五~二〇一九年)〉といった枠組みだ。  このうち、デジタルゲーム産業が本格的に成立していく〈虚構の時代〉以降の三時代は、それぞれをさらに五年間ずつの「確立期」「本格期」「変貌期」の三期に分けての章立てを行った(五年というのは、おおよそ家庭用ゲーム機の世代スパンにも該当するため、ゲーム史の枠組みを語りやすいためだ)。  その枠組みに照らせば、現在は二〇一五~二〇一九年の〈拡張現実の時代〉変貌期の最終盤ということになる。二〇一六年夏に刊行された拙著では、当時まさにブームの渦中にあった『ポケモンGO』や、「プレイステーションVR」の発売などで「VR元年」と呼ばれた事柄などを取りあげ、それまでコンセプト先行だったARやVRが、いよいよ市場での普及段階に入っていく期待までを取りあげていた。  以後の国内シーンに目を転ずれば、まさに東日本大震災を経由して「現実対虚構(ニッポン対ゴジラ)」を謳った特撮映画『シン・ゴジラ』を皮切りに、邦画として歴代二位の興行成績を記録した『君の名は。』、さらに『この世界の片隅に』の未曾有のロングラン化など、まさに戦後日本のフィクション・エンターテインメントの画期となるような社会現象的なヒットが相次ぐことになった。
     こうした周辺領域ふくめての状況が示しているのは、二〇〇〇年代初頭よりインターネットやモバイル端末が普及したことで、パッケージ流通のコンテンツが軒並み退潮し、ソーシャルメディア等を介したコミュニケーションや体験型の消費へと向かう、いわば「虚構から現実へ」に向かっていた二十一世紀的なトレンドが部分的に逆転し、ある意味での「虚構回帰」を起こしているというフェーズの変化だろう。 『ポケモンGO』が現実の風景の中にスマホを介して接触できるポケモンたちの姿を重畳させたように、『シン・ゴジラ』が震災後の日本のリアルな状況シミュレーションとしてゴジラを解き放ったように、二〇一六年を境に、現実の中に穿たれる虚構側のパワーバランスが相対的に強められている。  それが目下の情勢のように見える。
    『FGO』がもたらした「虚構回帰」
     局面別に見ていこう。  国産ゲームコンテンツがもたらした「虚構回帰」の直近の徴候として、おそらく最も商業的インパクトが大きかったのが、二〇一五年から運営されているスマートフォンゲーム『Fate/Grand Order』の展開だ。  TYPE-MOONによる人気伝奇シリーズ《Fate》の集大成とも言える本作は、『チェインクロニクル』(二〇一三年~)や『グランブルーファンタジー』(二〇一四年~)あたりで顕著になったシナリオ重視型のスマホRPGの潮流に乗り、複雑なキャラクタードラマの「連載媒体」としてガラケー時代からのソシャゲのフォーマットを転用したことで、一躍オタク業界における覇権コンテンツの一角に成長した。
     とりわけ本作の盛り上がりを演出したのが、おおむね現実とリンクしたリアルタイムの進行によって「人類史の修復」をテーマにした連作ストーリーを展開したことである。多くのプレイヤーの参加を要したレイドバトルなども含め、二〇一六年末までに第一部のラストシナリオをクリアしなければ劇中世界に二〇一七年が訪れないという「時間」の同期性を強調したイベント演出は、「空間」の同期性を追求した『ポケモンGO』と対になる〈拡張現実〉性だったとも言える。
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  • 【対談】三宅陽一郎×中川大地 モンスターが涙を流すとき——ゲームAIの哲学をめぐって(後編)

    2018-10-30 07:00  
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    身体論からのボトムアップで「人間」の構築を目論む西洋哲学的AIと、超越的な存在を仮構しようとする東洋哲学的AI。2つのアプローチが融合した先に、虚構のキャラクターが「涙を流す」ような情緒は宿るのか。ゲームAIが可能にする新しい想像力のあり方について語り合いました。(この対談は『人工知能のための哲学塾 東洋哲学篇』刊行記念トークイベントとして、2018年6月28日にジュンク堂書店池袋本店で開催されました)(構成:大内孝子)※本記事の前編はこちら
    三宅陽一郎さんの連載「三宅陽一郎 オートマトン・フィロソフィア――人工知能が「生命」になるとき」の記事一覧はこちら
    知能を形成する2つの流れをメタAIが補完
    中川 三宅さんの「人工知能のための哲学塾 東洋哲学篇」のセミナーにも何回か参加しているんですが、何回目かのときに「東洋哲学は人間の主体の側だけではなくて、それをもう少しメタな視点から見返す視座がある」という話をされていたと思います。
    三宅 知能を探求すると、2つの流れがあるんですね。「実世界と一緒に同期して動こうとする流れ」と、もう1つは「周りの環境世界とは別に自分を恒常的に保とうとする内面の流れ」、世界とともにありたいという欲求とむしろ世界を超越したいという人間のもう1つの欲求、この2つがいつも流れているというようなところが知能の本質なのかなと思います。
    ▲知能の場の形成
    実際のゲームAIを作るときも、片方を作った後にもう一方のほうを作らないと、どんどん壊れていくんです。60分の1秒で回さなきゃいけないとか、いろいろな計算途中のスレッドがたまってきて、なんか汚い感じになってしまう。ですが、たとえば人工知能を眠らすように内面の流れだけを流すというようにクリーンアップして、自分の形を整えていくみたいなところがあります。 生物学的に言うと、この2つの流れはアポトーシスとホメオスタシスと言います。自分を変えてまで環境に適応しようとするアポトーシス的な流れ、自分をある一定の形に保とうとするホメオスタシス的な流れ、この2つの力が生物の中で拮抗しているんです。知能を探求していくと、実は生物的な細胞レベルの話になる。知能の中にそういう2つの力が宿っているわけです。
    中川 アポトーシスとホメオスタシスと生命科学用語が出てきたので、一応解説しますと、まずホメオスタシスというのは、自己同一性を保つための秩序形成の話です。たとえば、何かものを食べてそれが身体の成分に変換されて……という形で、人間の細胞は入れ替わってるけど構造は変わらない。いわゆる動的平衡を保つ仕組みがホメオスタシスです。一方、全体の秩序形成のために部分的に壊れることをアポトーシスといいます。たとえば、人間が胎児からだんだん赤ん坊に育っていくときに、受精卵の段階からだんだん人間らしく形成されていく。初期は指の間に水かきがあったりするんですが、途中でそういうのがなくなっていく。 トップダウン的にこうなるべきだというふうに一つの秩序を保っていくのがホメオスタシス、それに対して、部分的に壊していくのがアポトーシスという意味ですね。
    三宅 極論すると、物理世界からの流れは極めて西洋的(機能的)なもので、物理世界と時間的に同期しながらボトムアップに自分が築かれます。一方、自分を超越した何かがコアにあり、そこに向かって自分自身が保たれているという流れは極めて東洋的です。
    中川 三宅さんの本を読むかぎり、環世界からボトムアップ的に自意識みたいなものができていく動きというのは、東洋哲学を導入しなくてもある程度説明できるという印象でした。以前の『人工知能のための哲学塾』(西洋篇)でフィーチャーされていたのは、ユクスキュルが定義した環世界から現象学、メルロ=ポンティの身体論などに至る流れが、デカルト的な自意識の構成原理を補完的に説明していくということだったと思いますが、そのへんの捉え方はいかがですか?
    三宅 そうですね。この図でいうと、どちらかというと、身体から出発しているほうが西洋篇で説明したこと、上のほうは東洋的、東洋哲学篇で語っていることです。超越的な何かから出発するというのは、あまり西洋では許されない思考だったりします。自分の存在の起源みたいなものが自分の中にあるみたいな神秘主義的なところなんですが、結局、自分自身を作り出しているものは身体からできるというのと、そんなこともないだろうという話もあって、僕はそこを補完するような理論を探求してきました。 もう1つ東洋哲学篇から図を引用します。井筒俊彦先生の回で書いたものですが、この構造は東洋思想には共通してあって、単にイスラムの神秘主義だけではなくて、実は、いろいろなところに出てきます。
    ▲上昇過程・下降過程
    イスラム哲学では「上昇過程」「下降過程」、仏教では「向上」「向下」、「向上門」「却来門」と言ったり、いろいろな呼び方がされています。そして、この一番上、いろいろな呼び方があるんですが、バルトは「存在の零度」、老子は「道」、イスラムでは「絶対的一者」、華厳教では「空」というように、同じことをいろいろな人が東洋的な存在の起源みたいな不思議な言葉で示しています。 これは西洋の人工知能には絶対に出てきません。これを人工知能に取り入れようとすると、先ほど言ったような、人工知能の存在の起源みたいなものを人工知能の中に組み込まなければいけない。昔の僕が使っていたモデルはどちらかというと「こちらから入ってきて、インフォメーションフローをぐるぐる回して終わり」というような単純なものだったんですが、この東洋思想を入れると、下からの環境世界からの流れ、上からの一なる全からの流れが交差するということになります。やはり、存在の起源というのがないといけないので。自分自身を修復している流れ、超時間的な流れが2つ存在する、そういうことです。
    ▲エージェントアーキテクチャの2つのフロー 
  • 【対談】三宅陽一郎×中川大地 モンスターが涙を流すとき——ゲームAIの哲学をめぐって(前編)

    2018-10-25 07:00  
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    車の両輪にもたとえられる「ゲームとAI」。実際、現実の社会に実装するにはまだ拙いAIを、今、解き放すことができる世界は(閉じた系ではあるが)ゲームの空間だけとも言えます。AIはゲームをおもしろくするための技術であり、ゲーム空間はある意味AIの実験場。そんな関係性にある"ゲーム"と"AI"、さらにその先にいるプレイヤー(="人間")。――ゲームのモンスターが涙を流すとき、人は駆け寄って、その手を差し伸べるのか? ゲームAIエンジニア・三宅陽一郎さん×評論家・中川大地さんの対談をお届けします。(この対談は『人工知能のための哲学塾 東洋哲学篇』刊行記念トークイベントとして、2018年6月28日にジュンク堂書店池袋本店で開催されました)(構成:大内孝子)
    三宅陽一郎さんの連載「三宅陽一郎 オートマトン・フィロソフィア――人工知能が「生命」になるとき」の記事一覧はこちら
    人工知能にとってゲームはどういう意味を持つか
    三宅 僕は、普段はゲーム会社でゲームの中で動く人工知能を作っています。人工知能を作るときにその足場として哲学があるんですが、人工知能を作るために僕が必要とした哲学を解説したものが2016年の夏に発刊した『人工知能のための哲学塾』で、第二弾として、この4月に東洋哲学を取り上げた『人工知能のための哲学塾 東洋哲学篇』を出しました。今日は、刊行記念トークイベントとして中川大地さんをゲストに、ゲームと人工知能、AIについて、さまざまな確度から議論したいと思います。
    中川 僕は評論家をやっておりまして、『現代ゲーム全史 文明の遊戯史観から』という本を出しています。これはその名の通り、基本的にはデジタルゲームの歴史を文明論的な視点から掘り下げた本なんですが、今日はそういった立場からお話しできればと思います。
    ▲中川大地『現代ゲーム全史 文明の遊戯史観から』
    ▲三宅陽一郎『人工知能のための哲学塾』『人工知能のための哲学塾 東洋哲学篇』
    三宅 人工知能を作っていると人間の業の深さがわかるというのはあります。僕が何をしているかというと、モンスターたちをいかに「堕落」させるかということをやっています。

    ゲームの中のモンスターは、生まれたときはただのポリゴンの塊です。欲求も、感覚もない。何も食べない、何も飲まない。プレイヤーを見ても何の反応もしない。世の中に何の執着もない。簡単に言うと、解脱している状態です。それを、いかにこの世界に執着させるかということで、欲望を持たせたり、感覚を持たせたり、プレイヤーを見たら「とりあえず、戦え」と教えてたり、堕落させるのが僕の仕事なんです。そうすると、だんだん生き物っぽく見えてくるわけですね。 この「人工知能にどう煩悩を与えるか」というのは東洋的な視点です。どちらかというと、西洋の人工知能は組み立てて作っていく。東洋はというと、全体の世界の中の一部として知能を作りましょう、と。非常に大雑把に言うと、そういう違いがあります。人工知能は変わった学問で、それぞれの文化的な土壌が出るんです。 西洋的には「神様がいて、人間がいて、人工知能がいる」という縦の序列で考えます。ですから、人工知能は最初から人間とは対立して、かつ、人間の下にいるというのが前提となります。ロボットもそうです。必ずしも人間の姿をしている必要はなくて、社会の中で使役する存在としてあればいい。ところが、東洋的知能観はちょっと違います。ゾウリムシと鹿とaiboとたまごっちと人間はだいたい同じ。生命はみな同じと考えます。
    中川 自然の生物も初音ミクとかaiboみたいな人工物も、区別なく捉えていく世界観なんですね。
    三宅 それが日本のエンタメを支える土壌でもあって、キャラクターの誕生日にチョコレートを送ってきたり、キャラクターがゲームの中で死んだら涙を流してくれたり、そういうシンパシーが、キャラクターそのものを作る土壌になっています。ですから、キャラクターに頭脳、つまり人工知能を入れるのは、日本が一番恵まれていると言えると思います。
    ▲西洋的知能観と東洋的知能観
    三宅 ゲームAIと一口に言っても3種類あって、キャラクターの頭の中のAI、これはみなさんが直感的に思っている頭脳のことです。そしてナビゲーションAIという地形を解釈するちょっと特殊なAI、メタAI。メタAIはキャラクターを使って、それとはわからないようにプレイヤーを楽しませる。ゲームを神様みたいに上から見ていて、プレイヤーがちょっと詰まっていたら、キャラクターに襲わせて正しい方向に行くよう仕向けたり、あるいはプレイヤーが下手だなと思ったらちょっと手を抜いてあげたり、ゲーム全体を制御するんです。うまくユーザーを楽しませてあげる、映画監督みたいな存在です。
    ▲ゲームAIの種類
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  • 中川大地 ふたつの「GO」が照らす〈空間〉と〈時間〉―――『ポケモンGO』『Fate/Grand Order』が体現する脱ソーシャルゲームの道筋 後編(現代ゲーム全史・特別編)

    2017-10-31 07:00  
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    文筆家/編集者・中川大地さんの『現代ゲーム全史』刊行から1年余。2015年で完結していた同書の“先”の展開を、特別編としてお届けします。〈空間〉を資源化する脱ソーシャルゲームの領域を切り拓いた『ポケモンGO』、現実の〈時間〉と連動しリアルタイムな臨場感で再神話化を試みた『Fate/Grand Order(FGO)』。2016年に誕生したふたつの「GO」が照らす、翌17年以降の〈複合現実の時代〉の展望に迫ります。 ※本稿は『ユリイカ』2017年2月号特集「ソーシャルゲームの現在」寄稿の同名原稿に加筆修正したものです。 ※この記事の前編はこちら。
    中川大地さんの『現代ゲーム全史──文明の遊戯史観から』 好評発売中!『ポケモンGO』現象の限界と特質
     とはいえ、あくまで萌芽は萌芽である。  現状の『ポケモンGO』には、スマホのカメラで採り込んだ周囲の風景にポケモンの姿を重ね合わせて記念のスクショを撮るといった以上のARらしい仕様はなく、効果的に捕獲していくためには、むしろ余分なAR機能を解除して仮想フィールド画面の中央にポケモンを固定し、まっすぐモンスターボールを投げるという遊び方へと通常は収斂していく。そうなると、プレイ環境こそ野外であれ、そのロケーションであることの意味は実質なく、あくまでスマホ画面の図像を睨みながらタッチパネルをなぞるだけの簡易ビデオゲーム的な作業に終始してしまう。  それゆえ、多くの場合は周囲の現実空間の場所性に注意や関心が払われることはなく、『ポケモンGO』を地域観光に利用しようとした町おこし担当者らの幻滅を招いてもいる。そのような行為性は、本人および周囲にとって危険か安全かという程度問題とは別の次元で、はたして人間の身体経験として、本当に健全で豊かなものと言えるのか。「『ポケモンGO』は引きこもりゲーマーを外に連れ出したのではない、屋外ですら引きこもれるパーソナルスペースと化しただけだ」という批判は、確かに本質を衝いている。
     実際、プレイ体験の多様性やユーザー間のコミュニケーションが織りなす創発性、土地性と結びつきやすい現実のロケーションへの関心喚起といった特性では、むしろ『Ingress』より多くの面で後退している。『Ingress』の場合は、二大勢力による陣取り合戦という基本設計や、クローズドサロン型のSNSである「Google+」との連動により、比較的知的レベルやITリテラシーの高い層に訴求した。そのため、両陣営のエージェント同士が常軌を超えたチーム連携で競い合ったり、本来のPvPのルールの縛りを超えた協働で、各地のモニュメントにちなんだフィールドアートを構築したりといった事象が世界中で展開され、その高度な創造性が注目を集めたのである。  対して『ポケモンGO』にあっては、現状そこまでの高度な組織性が発揮された現象は確認されておらず、公共的な社会実験としてのインパクトはいささか見劣りするものに留まっている。逆に『ポケモンGO』のムーブメント性が際立っているのは、参加ハードルの低さによるプレイヤーの裾野の広さと、ポケモンたちのキャラクター性が駆動する欲動の無軌道な強さだ。本作ではPvP的な要素がジムでのオプショナルなバトルに限られ、マルチプレイヤー型の連動性を喚起するゲーム内要素は「ルアーモジュール」によってエリアのポケモンの出現確率を高めて周辺のトレーナーに恩恵を及ぼすといった程度だ。そのため、ユーザーコミュニケーションの在り方も、オープンフロー型のSNSであるTwitterや口コミで拡散された「ポケモンの巣」に大勢のトレーナーが殺到するといったように、ソーシャルというよりも匿名的な准マス型の動員効果として帰結しやすい。
     つまり、『Ingress』が言葉の正しい意味で人間同士の社会性に依拠した「ソーシャルゲーム」であったとすれば、『ポケモンGO』もまた、多くの日本型ソシャゲが辿ったのと同様、相対的に「脱ソーシャル」なベクトルを帯びていたとも言える。その代わりに、図像とパラメーターによって表象される人間ならざる擬似生命との、知的なコミュニケーションには至らない感性的なインタラクションにリソースを割くことで、初めて〝普通の人々〟にも本格的な拡張現実型の位置情報ゲームに挑戦するだけのモチベーションを与えることができたのだと言えるだろう。  そうした特質が、かつて中沢新一が『ポケモン』が内包する可能性として指摘したような、人類の原初的な心性たる「野生の思考」の恢復と呼びうるかどうかについては、慎重な留保が必要だ。普通に考えて、現生人類のゲノムセットが進化的適応を果たして狩猟採集社会やアニミズムの心性を発達させた熱帯雨林などの複雑多様な自然環境に比べて、現行のスマホ程度のデバイスで合成できるレベルの擬似自然が情報環境として貧弱に過ぎることは言うまでもない。『ポケモンGO』のアプリそのものは、ヒトの環境認知を拡張するデジタル・アニミズムを直接的に実装したものではなく、あくまでもその状態に至るための人間の側の能動的な想像と行為を触発する契機となりうる補助具に過ぎないものだからだ。
     そのように捉え直すならば、現行のプロダクト条件において『ポケモンGO』の人類学的な可能性を最も濃密に体感させてくれるのは、スマホ画面を確認せずにポケモンの出現やポケストップへの接近を振動やLED発光によって通知し、捕獲やアイテム取得をボタン押しで簡易化してくれるオプション機器「ポケモンGOプラス」を使用した場合なのかもしれない。  このデバイスを用いる利点は、人間の認知にとって支配的すぎる視覚をスマホに占有されることなく、現実世界では見えないはずのポケモンの〝実在〟を、より原初的な体性感覚というチャンネルで感知させてくれることにある。「プラス」の操作性はきわめて記号的でミニマムなレベルに抑えられているが、それだけにトレーナー自身が『ポケモンGO』のプレイングプロセス全体を内面化していることを強く自覚させてくれるのである。本作の体験に野生の思考への接近を見出すとすれば、仏教的な色即是空の洞察にも通ずる、そのような局面を措いては考えられないだろう。
    ソシャゲのメディア特性を捉え直した『FGO』
     かようなかたちで、『ポケモンGO』は日本ゲーム外部のグローバルなITカルチャーの脈絡から、現実の〈空間〉を資源化する脱ソーシャルゲームの領域を切り拓いてみせた。それは結果的に、歴史以前の人類の精神性にテクノロジカルに条件付きながらも漸近してゆく、デジタル・アニミズムへの道筋を示唆するムーブメントとなった。  他方、『ポケモン』の鬼子として奇形的なガラパゴス的進化を遂げていた日本型ソシャゲの内的な脈絡にあっては、このカテゴリーのゲームサービスが資源化してきた〈時間〉のモチーフを主題化し、現実の年月の推移と同期しながら人類史のフィクショナルな捉え直しを試みる高度な物語が展開されていた。  2015年7月30日にサービス開始された、『Fate/Grand Order(FGO)』である。
     本作は、同人ノベルゲーム『月姫』(2001年)のブレイクを機にメジャーシーンに躍り出たインディーズ出身のレーベルTYPE-MOONが、『Fate/stay night』(2004年)以来積み重ねてきた人気ジュヴナイル伝綺シリーズの系譜の上に、初のスマートフォン向けオンラインRPGとして送り出したタイトルにあたる。ソーシャルゲーム以前からの人気IPを活用したアプリゲーム自体はごくありふれたものだが、『FGO』が傑出していたのは、それまで「Fate」シリーズが築き上げてきた世界観をトータルに捉え直しながら、「たかがソシャゲ」な先入観やジャンル制約にとらわれることなく、質・量ともにシリーズの総決算となるに相応しい正統性と壮大さを備えたシナリオを、惜しみなく展開してみせたことにある。
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  • 中川大地 ふたつの「GO」が照らす〈空間〉と〈時間〉―――『ポケモンGO』『Fate/Grand Order』が体現する脱ソーシャルゲームの道筋 前編(現代ゲーム全史・特別編)

    2017-10-24 07:00  
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    文筆家/編集者・中川大地さんの『現代ゲーム全史』刊行から1年余。2015年で完結していた同書の“先”の展開を、特別編としてお届けします。日本ゲームのソーシャル性の原点とも言える『ポケットモンスター』から20年。2016年に登場した『ポケモンGO』は、国産ゲームの発展とは切り離された脈絡から逆輸入され、人々に衝撃を与えました。今回は日本型ソーシャルゲームの発展と現状を踏まえつつ、『ポケGO』が見せた文化的な意義に迫ります。 ※本稿は『ユリイカ』2017年2月号特集「ソーシャルゲームの現在」寄稿の同名原稿に加筆修正したものです。
    中川大地さんの『現代ゲーム全史──文明の遊戯史観から』 好評発売中!「脱ソーシャル」ゲームの時代
     はじめに、そろそろ古めかしさの漂いつつある「ソーシャルゲーム」と呼ばれるゲームジャンルの成り立ちと現状を確認しておこう。  元々この語は、2000年代後半に登場したPCやフィーチャーフォン(ガラケー)ベースのSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)で構築されたソーシャルグラフ(登録会員のネットワーク)を利用して行われる、簡易な多人数参加型ブラウザゲームを指すカテゴリーとして登場した。  日本での大きな転機としては、『サンシャイン牧場』(2009年)や『怪盗ロワイヤル』(2009年)における、基本無料のアイテム課金型ビジネスモデルの成功によって、「Mobage」と「GREE」を双璧とするソーシャルゲーム市場は急拡大。さらに『ドラゴンコレクション』(2010年)などで確立された、ガチャ等によるコレクション要素のある簡易トレーディングカードゲーム(TCG)型のゲームデザインが驚異的な課金ユーザーの増加を促し、わずか数年で従来の家庭用ゲーム市場を抜き去るに至った。
     しかし2010年代に入ると、スマートフォンの普及が進行し、ガラケー時代のゲームSNSは成長期に劣らぬ急速さで衰退。とりわけ『パズル&ドラゴンズ』(2012年)のブレイク以降は、モバイルゲームの主流はネイティブアプリ型へと一気に移行し、SNSに立脚するという元来の意味でのソーシャルゲームは、ほぼ衰滅したも同然の状態となっている。  したがって現在「ソシャゲ」と略されながら慣習的に用いられているこの俗称は、『ドラコレ』以来のカードコレクション型のシステムを踏襲している、単なるフリーミアム課金型モバイルゲームの謂となりつつある。のみならず「ソーシャル」の原義に反し、2012年のコンプガチャ問題や2016年頭の『グランブルーファンタジー』(2014年)でのレアキャラ登場確率問題でしばしば槍玉に挙げられるように、反社会的な業態のレッテルに堕している面さえある。
     ソシャゲにおける有料アイテムの価値の多くは、究極的には時間経過によって無料でプレイできる権利が回復していく「スタミナ制」のゲームデザインに立脚している。つまり、良心的なタイトルであれば、無課金でも時間をかけたり戦略を工夫をしたりすることでゲームを楽しめるのだが、少なからぬユーザーがそれでは不足を感ずる難易度バランスになっている。それゆえ、様々なアイテムを購入したり、強いユニットのカードを引き当てることでハードルを引き下げ、トライアルの時間を短縮するために、人々は課金に誘導される。  これは悪く捉えれば、ユーザーの可処分時間を搾取してカネに換える〝時間泥棒〟なビジネスモデルに他ならない。加えて、その価値の正味の多寡がカードガチャのような射倖心を煽る手法によって不透明になっているため、パチンコ同様の情弱騙しのビジネスと目され、現在の日本型のソシャゲは、従来のゲームファンやコンテンツ愛好者から白眼視される蔑称としてのニュアンスをも帯びてしまっているのである。
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  • 新しいゲーム文化はユーザーから生まれる――「ニコニコ闘会議2015」会場レポート ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.261 ☆

    2015-02-13 07:00  
    216pt
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    新しいゲーム文化はユーザーから生まれる―「ニコニコ闘会議2015」会場レポート
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.2.13 vol.261
    http://wakusei2nd.com



    本日のメルマガは、1/31-2/1にかけて行なわれた、niconico主催の新たなゲームフェス「闘会議2015」のレビュー・レポートをお届けします。
    「ゲーム実況とゲーム大会の祭典」を謳い、メーカーではなくユーザー主導で作り上げてられていったゲームカルチャーをフィーチャーした同イベントは、現代日本のゲーム文化にいかなるインパクトをもたらすのか。
    『現代ゲーム全史』連載中の中川大地率いる取材チームが、ゲーム史的な観点からその試みの本質と可能性を分析します。

    「闘会議2015」公式サイトはこちらのリンクから。
     

    ◎文:籔和馬
    ◎監修:中川大地
     
    ※写真は断りのあるものを除き、niconicoの公式プレス向け写真を使用しています。
     
    ▼執筆者プロフィール
    籔和馬(やぶ・かずま)
    1986年滋賀県生まれ。地元で映画と音楽漬けのニート生活を送ったのち、一念発起し上京。映像の専門学校であるUTB映像アカデミーに入学し、映像制作の基礎知識を学ぶ。現在、派遣のアルバイトを主な収入源としつつ、放送作家の修行中。
    中川大地(なかがわ・だいち)
    1974年生。文筆家、編集者。PLANETS副編集長。アニメ・ゲーム関連のコンセプチュアルムックの制作を中心に、各種評論・ルポ・雑誌記事等を執筆。著書に『東京スカイツリー論』(光文社)。「ほぼ日刊惑星開発委員会」にて「中川大地の現代ゲーム全史」を連載中。
    ■曲がり角を迎えたTGSと「闘会議」の開催

    「ソシャゲとスマホゲーとコンシューマーゲームは全く別物で、ユーザーも別の目的の為にやってると思うので、TGS(東京ゲームショウ)はおとなしく規模縮小するか、なんとか任天堂に参加して貰うかした方が良いと思った。ソシャゲとスマホゲーは別のゲームショーの方が良いんじゃないかな。 2014年9月23日 20:48 」

    『ダンガンロンパ』シリーズの企画とシナリオを担当する、スパイク・チュンソフト小高和剛氏は、「東京ゲームショウ(TGS) 2014」を訪れた感想をTwitter上でこのようにつぶやいた。
    TGSに観客として出向いたことのある私は、小高氏の言葉に、はげしく同意した。
    諸事情で2014年には参加できなかったため、これは2013年時点での状況だが、大勢の人たちの間を縫うようにして歩くしかないくらい盛況のTGSで、唯一待ち時間なしで入れたのは、某ソーシャルゲーム/スマートフォンゲームメーカーのブースだけだった。
    そこには嬉々として遊ぶ来場者の姿はほとんどなく、暇を持て余し気味のキャンギャルたちがプレゼントを配るのを横目に、コンシューマーゲーム試遊の整理券配布に間に合わなかったと思われる人々が、あぶれて仕方なくやってきているという雰囲気しか感じられなかった。
    ゲーム市場全体を見渡せば、いまやスマホゲームこそが最も多くの人々がプレイするゲームになっているはずだが、ことゲームショーという空間ではまったく存在感がない。
    わざわざTGSのような新作ゲームお披露目会に出向いてくるのは、どちらかというとソシャゲやスマホゲームを「あんなものはゲームではない」と蔑視するような、あまり一般的ではないコアゲーマー層ばかりということなのだろう。
    そして、ゲームショーに来た以上は何かをプレイして帰らなければ元がとれないとばかりに亡霊のように彷徨う者たちが試遊台から試遊台へと移り、まるで工場での単純作業のようにゲームを「遊ばされている」。
    そんな光景に、自分には見えてしまったのだ。
    はたしてここに、本当に「ゲーム」というジャンルの現在があるのだろうか?
    いまやインターネットやスマホの普及により、現代日本のゲーム文化は、従来のゲーム会社の手から離れたところで独自の進化を遂げた。コンシューマーゲームの最新作を遊ぶことこそがゲーム文化の王道という考えは、とっくに古臭いものになってきていると言わざるをえない。
    一般的には、TGSは日本のゲームシーンの最先端を紹介する最大のイベントと言われているが、ゲームの遊び方が多様化している現在の状況に、企業主体の見本市では、対応できなくなっているのではないか。
    このような状況に一石を投ずるべく手を挙げたのがドワンゴである。
    2012年から幕張メッセで毎年開催されている、ドワンゴが主催するニコニコ動画のオフラインミーティングである参加型複合催事「ニコニコ超会議」。
    その中で最もユーザーが賑わうブースの一つである「ゲームエリア」を、「ニコニコ超会議」から切り離し、老若男女問わず誰でも気軽に参加することができ、純粋にゲームの魅力を体験することができる「ユーザー」を主体としたイベントにしたいという理念のもと、「ゲーム実況」と「ゲーム大会」の祭典として単独でイベントとして成り立たせたのが、今回の「闘会議」である。
    この「闘会議」は、2015年1月31日(土)と2月1日(日)の2日間にわたって「超会議」と同様に幕張メッセにて開催され、当日のイベントの模様はニコニコ生放送でも配信されていた。
    ▲「闘会議2015」会場全景
    つまり、ゲームの大規模イベントといえば、これまではゲーム企業側からの製品のプレゼン空間というレパートリーしか存在しなかったところ、初めてユーザー側のボトムアップな「遊び方」にフィーチャーする空間が提供されたのである。
    ■現代の日本ゲームシーンを縮図化した「闘会議」の空間構成
    最初に言及したいのは、この闘会議というイベント、会場の構成が実によくできている。まずは下の会場マップを見ていただきたい。
    【会場マップ】(「闘会議 2015」来場時に配布されるガイドブックから)
    幕張メッセの6~8ホールを利用した会場は端から端まですぐに行くことができ、実際に1周歩いてみての感想だが、移動で疲れるということはなかった。
    むしろ、歩いていると常時どこかしらのブースのモニターを観ることができ、そのモニターでは絶えずイベント映像が流れているので、歩くという行為にさえ楽しみを持たせてくれている印象を受けた。
    ブースの配置だが、会場の四隅に大きく陣取るのは、スマホゲームアプリの大手メーカーである、ガンホー・オンライン・エンターテイメント、コロプラ、mixi、LINEのブースだ。
    変な比較で恐縮だが、これはコミケに置き換えれば最も大手のサークルが配置される「壁際」にあたる。
    この4社のブースが、巨大スクリーンやステージを備えた最も華々しいプレゼン空間になっており、ニコニコ有名人やスター級の実況者たちが次々と生放送番組を配信していた。そして現在にあっては最も多くのライトユーザーを抱える、ゲーム市場全体の中でのスマホゲーの立ち位置を正確に反映するかたちで、集客の最大ボリュームゾーンを形成していたのである。
    ▲四隅のボリュームゾーンを形成するスマホアプリメーカーのステージ
    これら4ブースの合間を埋めるかたちで、闘会議のメインコンテンツである「ゲーム実況」「ゲーム大会」の2大ステージをはじめ、壁際ではアーケードやレトロゲーム、コスプレ、物販といったテーマ別のエリア群がそれぞれの小宇宙を展開しているという格好だ。
    ▲niconicoのメインステージにあたる「ゲーム実況ステージ」「ゲーム大会ステージ」
    反対に、コンシューマーゲーム業界を長年引っ張ってきている大手ゲームメーカーである、バンダイナムコゲームス、ソニー・コンピュータ・エンターテインメント、スクウェア・エニックス、セガ、およびサイバーエージェントの5社が、会場中央部の「島」のコーナーを形成するかたちで、比較的こじんまりしたブースの列を並べていた。
    そして、これら大手ゲームメーカーにコーナーを挟まれながらほぼ同等のブース規模で、『ドラクエX』や『スーパーマリオ64』『マインクラフト』等々の各タイトルごとの実況プレイを座って見られる「ゲーム実況ストリート」が軒を連ねる。
    つまり、これまたコミケで言うなら、大手コンシューマー企業が、ユーザー実況と同列の島サークルと軒を並べながら、せいぜい中堅サークル並みの「お誕生日席」を与えられているというような扱いだ。
    ここにも、プレイステーション4に「シェア」機能が搭載されたように、実況のネタになることで日本ゲームの斜陽傾向からなんとか生き残りの芽を探ろうとするコンシューマー業界の、リアリスティックな状況を垣間みることができる。
    このように、現代の日本のゲームシーンのパワーバランスをフラットな空間上に縮図化しつつ、壁際中央部の「レトロゲーム」エリアなどでは過去からの歴史的な脈略を緻密な年表やレアな実機展示などで押さえ、11対11人で行う『FIFA 15』の実況プレイや声で操作するゲームに話題が集まった「リアルゲーム」エリアなどではゲームが現実空間に侵食してゆく未来的な光景を演出するなど、新旧の時間的な流れをも体験できるブース構成が特徴的であった。
    ▲黎明期からのゲーム史の年表が掲げられた「レトロゲームエリア」。来場者が附箋に「俺歴史」を記入して貼りつけできる。
    ▲ドットアートの自作コーナーがあるのも面白い試み。
    ▲実際のサッカーのポジションを一人ずつプレイヤーが担当して『FIFA15』を対戦プレイする「リアルゲームエリア」。
    これはメーカーの商業要請に立脚した見本市とは異なるイベントだったからこそ、可能だった展開と言えるだろう。
    ■会場を圧する「任天道場」の君臨がもつ意義
    そして、会場のどこからでも見える中央部に、まさに王者の風格を漂わせながら屹立する看板がひときわ目立つエリアがあった。
    「任天道場」。その名の通り、日本ゲーム業界最大の老舗である任天堂の出展スペースである。
    各エリアの中でも、特にパーテーション分けされた参加型の独立アトラクション的性格が強く、ちょうど超会議における「ニコニコ神社」に相当するような配置で、会場全体のランドマークにも見えるような象徴性さえ帯びていたと言える。
    ▲「任天道場」の看板

     
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