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【インタビュー】森田創 戦後の日本野球は何を生み出し何を失ったのか・後編(PLANETSアーカイブス)
2019-04-19 07:00
今朝のPLANETSアーカイブスは、草創期のプロ野球を描いたノンフィクション『洲崎球場のポール際』著者・森田創さんのインタビューの後編をお届けします。プロ野球人気の高まりと逆行するように衰退していく六大学野球。その一因となったのは、GHQが推奨したラジオ中継の存在でした。今後の大学野球のあり方や、沢村栄治ら往年の名選手たちの伝説的プレーはどう捉えるべきかなど、草創期の記憶を辿りながら戦後の野球文化について考えます。(聞き手/構成:中野慧) ※この記事は2016年10月25日に配信された記事の再配信です ※本記事には、前編と中編があります。
森田創『洲崎球場のポール際 プロ野球の「聖地」に輝いた一瞬の光』講談社、2014年
■「GHQの意向を汲んだライブコンテンツ」としての戦後プロ野球
――戦前は大学野球が非常に人気があって、後発のプロ野球は大学野球に負けていたということですが、その力関係が並列ないしはプロのほうが上になっていったのはいつぐらいなのでしょうか。
森田 これはいろんな議論があって「長嶋茂雄が昭和33(1958)年に巨人に入るまでは人気も実力もプロ野球より六大学のほうが上だった」という人もいますが、僕は実力自体はプロのほうが上だったと思います。六大学は週末しか試合がなくて年間30試合が最大なんですが、プロは最初の年は別としても昭和12(1937)年から100試合前後やっているわけで、それだけたくさんの試合をしていればどんどんうまくなりますよね。しかもプロ野球選手は野球で生計を立てていくしかないから危機感も全然違う。
戦争直後のゴタゴタの時期には、兵隊に取られて戦死してしまった選手もたくさんいたので一時的にプロのレベルは下がったようですが、昭和30(1955)年ごろには戦前のレベルに戻ったと言われています。
――人気の面ではどうでしょうか。
森田 人気面は、長嶋がプロ入りするぐらいまでは六大学のほうが上だったかもしれません。ただそれはあくまでも東京地区の話で、全国的にはプロ野球のほうが人気だったと思います。
メディア論的な観点から言えば、戦前も真珠湾攻撃の日までテレビが実験放送されていましたが、主要なメディアはやはりラジオ。終戦直後、GHQはそのラジオを「民主主義を広めるためのツール」として活用したんです。当時のGHQにとって、日本人の赤化を防ぐことが至上命題で、そのための特効薬が天皇制とベースボールだったわけですが、ベースボールはアメリカの国技であり、GHQの信じる「民主主義」と相性が良かったんですね。実際にGHQは大量のゴムを日本に持って来て、何十万個という軟式ボールを全国に配り、野球のさらなる普及を図っています。
で、当時のラジオは今のように切れ目なく放送していなかったんですが、GHQが出した指示は「切れ目なく放送せよ」。そのためにプロ野球が一気に中継されるようになったんです。ラジオは夕方の時間であればニュースや芸能、ラジオドラマがあるんですが、午後に放送するものが少なかった。当時のプロ野球は昼間にやっていたので、空白地帯を埋めるのに都合が良かったんです。こうして野球人気は一気に高まっていったんです。
もちろん戦前からラジオでプロ野球中継をやってはいたんですが、一番良いアナウンサーは六大学野球、なかでも早慶戦の実況中継を担当するという位置づけで、プロ野球はあくまでも1〜2年目の駆け出しアナウンサーの練習台だったんです。当時のプロ野球って六大学野球に対抗するためにもっとスピーディーにやろうという方針で、試合展開が早くて平均で80〜90分ぐらいで試合が終わっていた。テレビのような映像のない状態でヴィヴィッドに、かつ的を射た実況をしなければいけないので、アナウンス技術を磨くためには良い素材だったんですね。戦前に駆け出しだったNHKの志村正順さんのような人が、戦後には中堅どころになっていて、彼らの実況をコアにしてプロ野球中継がどんどん人気が高まっていったんです。
■戦後日本社会のなかの六大学野球
――最近、六大学野球は各大学の校風を象徴するようなポスターを制作していて、ネットでも話題になっていました。ただ不思議なのが、果たしてそこまでして人々は六大学野球に対して盛り上がらなければいけないのか? ということだったんです。
森田 まあ、六大学の人たちの側からすれば「六大学野球は人気がなければいけない」という思いがあるんでしょうね。大学のプロモーションとしても六大学野球は効果的なコンテンツだったので。
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【インタビュー】森田創 知られざる「大衆文化」としての戦前プロ野球・中編(PLANETSアーカイブス)
2019-04-12 07:00
今朝のPLANETSアーカイブスは、草創期のプロ野球を描いたノンフィクション『洲崎球場のポール際』著者・森田創さんのインタビュー中編をお届けします。戦前のプロ野球は、当時の東京都民にどのように受容されていたのか。洲崎球場と東京下町をホームとしたプロ球団の可能性や、当時人気絶頂だった大学野球と黎明期のプロ野球の関係について語ってもらいました。(聞き手/構成:中野慧)インタビュー前編はこちら ※この記事は2016年10月11日に配信された記事の再配信です
森田創『洲崎球場のポール際 プロ野球の「聖地」に輝いた一瞬の光』講談社、2014年
■新聞社・鉄道会社と絡み合いながら発展した戦前プロ野球
――野球というスポーツの発展は、マスメディア、特に読売グループとの関係を抜きにしては語れないと思います。戦前から東京の下町地域で読売新聞がシェアを伸ばしていったということでしたが、そこには様々な背景があったわけですよね。
森田 昭和10年代は東京の東側に市街地が拡大し新住民がたくさん移り住んできたわけですが、その地域を走っていたのが京成電鉄です。読売新聞社主の正力松太郎は、京成電鉄の社長だった後藤圀彦(ごとう くにひこ)と大親友だったんです。正力はこの沿線に着目して「谷津遊園」という遊園地や、谷津球場という巨人軍の練習場を京成と作ったんです。この谷津遊園は、今は「谷津バラ園」となっています。ちなみに浦安にディズニーランドができたのも、正力と京成電鉄の関係によるところが大きかったんです。
▲読売新聞社主(当時)の正力松太郎。プロ野球だけでなく、戦後のテレビ放送や原子力発電の普及において大きな役割を果たした。(画像出典)
前回お話ししたように読売は、山の手のインテリの住む地域では朝日や日日新聞に勝つことができなかった。だから下町に目を付けたんです。しかも紙面も、小難しいことは言わずに誰でもわかるようなものにしたわけですが、なかでも興味深いのは日本の新聞で初めて「都内版」を作ったことです。その第1号が「江東区版」でした。何をやったかというと、冠婚葬祭のニュースや人探しとか、とにかく住民の名前を載せたんです。そうすると「ご近所の◯◯さんが新聞に出てる」ということで、住民の人たちも人情で買いたくなる。この企画のコンセプトは、「政治とか経済とかそういう小難しいことはいいから、『自分ごと』として新聞を読んで貰えるようにしよう」ということだったわけです。
本紙のほうでも「エロ・グロ・ナンセンス」という言葉を作って、そのテーマに絞って記事を作っていった。そういった取り組みが下町の庶民の心を捉えたんですね。
発足当初のプロ野球って、そういった都市の発達・新住民の流入と密接に関係するビジネスだったんです。昭和11年のプロ野球発足時は、巨人、大阪タイガース(現・阪神タイガース)、阪急(現・オリックス・バファローズ)、名古屋軍(現在の中日ドラゴンズ)、名古屋金鯱軍、東京セネタース(西武を経営母体としていたが現在の埼玉西武ライオンズと直接の関係はない)、そして洲崎球場を本拠とした大東京軍(現在の横浜DeNAベイスターズの前身のひとつ)の7球団でスタートしたものなんですね。このうち巨人、名古屋軍、名古屋金鯱軍、大東京軍の4球団は新聞社を母体としていて、残りの3球団は鉄道会社を母体としていた。当時のプロ野球は本業だけで回収できるビジネスモデルではなく、鉄道会社は観客輸送による運賃増、新聞社なら新規読者の開拓による購読料収入増を織り込まないと、なかなか成り立たないものだったんです。
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