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京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第19回 アイドルアニメと震災後の想像力(PLANETSアーカイブス)
2018-02-26 07:00
今回のPLANETSアーカイブスは、本誌編集長・宇野常寛の『京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録』をお届けします。今回は「戦後アニメーションと終末思想」をテーマにした講義の最終回です。〈現実=アイドル〉に敗北したあと、〈虚構=アニメ〉は何を描くべきなのか? (この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年6月10日の講義を再構成したものです/2017 年4月7日に配信した記事の再配信です)
【書籍情報】
本連載が『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』 (朝日新聞出版)として書籍化することが決定しました!
〈現実=アイドル〉が〈虚構=アニメ〉を追い越した
こういった感覚は、アニメとインターネットの関係にも言えるわけです。アニメを含めた映像は原理的に虚構の中に閉じている。作家が演出し、編集したつくりものを視聴者はただ受けとることしかできない。しかしインターネットは原理的に半分は虚構だけれども半分は現実に接続してしまっている。どれだけ作り手が虚構の世界を完璧に作り上げても、受け手という現実がそれを打ち返すことができる。ニコニコ動画にコメントがつくように、虚構がそれ自体で完結できない。双方向的なメディアであるインターネットは、原理的に虚構の中に完結できず、現実に開かれてしまう。
震災後の日本に出現したのは、まさにこの感覚だったと思うんですね。「ここではない、どこか」、つまり完全な虚構に入り込んでしまうのではなく、現実の一部が虚構化している。日常の中に非日常が入り込んでいる、とはそういうことです。
この2011年頃は、アニメからアイドルへと若者向けのサブカルチャーの中心がはっきりと移行していった時期に当たります。AKBに先行して2006年頃にブレイクしたPerfumeにしても元は広島のローカルアイドルで、この時期にライブアイドルブームが起こり始めていました。インターネットの登場によって、アイドルというものがテレビに依存しなくても成立するようになってきた。小さい規模であればライブの現場+インターネットで盛り上がれるわけです。AKB48は2005年に結成されたわけですが、2008年ぐらいまでは今ほどテレビに出ておらず、そうしたライブアイドルとして着実に人気を伸ばしていました。
これ以前の80年代にもアイドルブームは起こりましたが、当時はテレビを中心とした「メディアアイドルブーム」でした。しかし21世紀のライブアイドルブームはテレビに依存せずに伸びてきて、同時にサブカルチャーの主役にも躍り出たわけです。
ここまで話してきたことを考えれば、それは当然の流れなわけです。そもそもアニメにアイドルを持ち込んだ80年代の『マクロス』でもライブシーンが重視されていました。当時のアイドルブームというものを意識して、実際の3次元のアイドルに負けないような映像を作ろうという意識がすごく強かったんですね。『マクロス』シリーズはその後も連綿と続いていくわけですが、近作『マクロスF』(2008年放映開始)の劇場版を観ると、それがより顕著になっていることがわかると思います。
▲劇場版マクロスF~サヨナラノツバサ~ [DVD] 中村悠一 (出演), 遠藤綾 (出演), 河森正治 (監督)
2012年には、秋元康が企画・監修した『AKB0048』というアニメが放映されました。近未来の宇宙を舞台に、伝説のアイドルグループ「AKB48」の名を継承したアイドルたちが、戦場にやってきてライブをして戦争に干渉するというストーリーです。これは本当に『マクロス』そのままの内容ですが、実際にアニメ制作は『マクロス』のスタッフがかなり関わっているんですね。
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京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第18回「世界の終わり」という想像力の敗北――東日本大震災と『Show must go on』(PLANETSアーカイブス)
2018-02-05 07:00
今回のPLANETSアーカイブスは、本誌編集長・宇野常寛の『京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録』をお届けします。ゼロ年代に起こった『電車男』のヒットとオタクのカジュアル化、そして2011年の東日本大震災がオタクたちの想像力に何をもたらしたのかを読み解きます。 (この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年6月10日の講義を再構成したものです/2017 年4月7日に配信した記事の再配信です))
オタクのカジュアル化と『電車男』のヒット
ここまでは、いわゆるセカイ系から日常系への国内アニメのトレンドの変化について解説してきました。そして、これと並行して起こったのが「オタクのメジャー化」です。
『電車男』はみなさん知っていますか?
……だいたい知っているようですね。この作品がブームになったのは2005年頃です。もともと2004年に立てられた、2ちゃんねるのある種のネタスレですね。モテないオタク男性が電車内でのトラブルをきっかけに歳上のリア充女性と知り合いになり、そのことを2ちゃんねる上で書き込んで板の住人たちの応援を受けながら交際にまで発展していったという経緯がリアルタイムで報告され、それが2ちゃんねるの外側でも話題になっていく、という「事件」にまで発展していった。もちろん、どこまでが事実で、どこまでが創作かは分かりません。当時の2ちゃんねるとその周辺は、こうした虚実入り混じった感覚を楽しんでいた側面が大きかったと思います。
そして、この「電車男」というスレッドは書籍化を経て一気にインターネットの外側にも紹介されるようになっていって、翌2005年には映画化・ドラマ化もされ大ヒットしました。
▲電車男 スタンダード・エディション [DVD] 山田孝之 (出演), 村上正典 (出演)
このとき『電車男』はインターネットのオタクカルチャーと、オタクたちのライフスタイルを世間に紹介する機能を負っていたと思います。そしてこのとき主人公の電車男は「不器用でモテないのだけど実は心の優しい男の子」として描かれているわけです。これは幼女連続誘拐殺人事件の頃には絶対に考えられなかったことですね。この時期ようやくオタクというものが差別の対象ではなく、単にありがちなキャラのひとつとして世間で受け入れられるようになり、マンガやアニメがカジュアルなインドア系の趣味のひとつとして市民権を得たと言えるでしょう。『エヴァ』以降の第三次アニメブームを経てオタクという存在が量的に拡大していった結果として、メジャーなものになっていった。その結果、アニメというものの中心が、「ここではない、どこか」のロマンを描くことではなく、「いま、ここ」の理想を描くことへと変わっていったわけです。それがセカイ系から日常系への流れでもあり、涼宮ハルヒが素直になっていく過程でもあるんですね。
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京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第17回 セカイ系から日常系へ――〈涼宮ハルヒ〉とオタク的想像力の変質(PLANETSアーカイブス)
2018-01-22 07:00
今回のPLANETSアーカイブスは、本誌編集長・宇野常寛による連載『京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録』をお届けします。2000年代後半のアニメ市場で起きた「セカイ系から日常系へ」のシフトを、オタクたちのアニメを通じたコミュニケーションの変化を鍵に読み解きます。
(この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年6月10日の講義を再構成したものです/2017 年3月3日に配信した記事の再配信です)
涼宮ハルヒの本音
2000年代初頭に最盛期となったセカイ系ブームは、やがて終わりを迎えていきます。ターニングポイントとなったのは、この作品です。
(『涼宮ハルヒの憂鬱』映像上映開始)
2006年に放映された京都アニメーション制作の『涼宮ハルヒの憂鬱』です。原作は谷川流のライトノベルで、シリーズの最初の一冊が発表されたのは2003年なので、まさにセカイ系ブーム真っ盛りの時期ですね。実際に、物語の骨子は平凡な男子高校生が、実はこの宇宙の「神」的な存在である(しかし本人はそのことに気づいていない)ヒロイン(涼宮ハルヒ)に愛される、というまさにセカイ系的な構造をもった作品です。
▲涼宮ハルヒの憂鬱 ブルーレイ コンプリート BOX 平野綾 (出演), 杉田智和 (出演)
この作品を読み解く上で重要なのは「実のところ、ハルヒは一体何を求めているか」ということです。この作品に登場するヒロインのハルヒは、70年代や80年代にはクラス内に必ず2、3人いたUFOや超能力が大好きな、いわゆるオカルトファンです。物語の舞台が当時だったら、転生戦士に目覚めていたかもしれませんね(笑)。
ハルヒは、当時のオカルトファンと同じようにこの消費社会の「終わりなき日常」のことを退屈だと思っています。この世界にはモノはあっても物語はない。なので、この変わらない世界の外側に連れて行ってくれるUFOや超能力を求める。でも実際はハルヒ本人が神様のような能力を持っていて無意識の欲望を叶えることができるので、本当に宇宙人や超能力者や未来人がやってきて(ハルヒはそうとは知らずに)高校生活の中で仲良くなっていきます。
ところが、ハルヒはそんな宇宙人や超能力者や未来人たちと何をやるのかというと、「SOS団」という部活を作って主人公を巻き込み、学生映画を撮ったりみんなでキャンプしたり、放課後に買い食いしたりと普通の青春をしているだけです。要するにそれがハルヒの欲望なんですね。彼女はふだん「この世界は退屈」なので、「宇宙人や超能力者や未来人に出会いたい」と言っていますが、表面的にそう言っているだけで、本当はリア充な学園生活を送りたいだけなんです。その方便として、日常的なつながりの契機として非日常が必要とされている、ということですね。
宮台真司さんが、80年代のアニメシーンを『宇宙戦艦ヤマト』的なものと『うる星やつら』的なものの対立で捉えた分析を紹介しましたが、ここでは要するに前者が後者に敗北しています。要するに『宇宙戦艦ヤマト』的な非日常への渇望と『うる星やつら』的な日常の祝福は、後者の欲望のほうがこの時代には強く、前者は後者のイイワケとしてしか作用しない、ということです。政治運動に夢中になってしまう人が、本当は単に寂しかっただけ、というケースは、たとえば60年代の学生運動が盛んだった頃からよく指摘されていた問題ですけれど、こうした消費社会への適応としてのコミュニケーションの自己目的化の問題が大衆化した結果だと言えると思います。
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京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第16回 「セカイ系」と『機動戦士Vガンダム』の呪縛――戦後アニメーションの描いた男性性(PLANETSアーカイブス)
2017-12-25 07:00
今回のPLANETSアーカイブスは、本誌編集長・宇野常寛の「京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録」をお届けします。『新世紀エヴァンゲリオン』に端を発した90年代後半の「セカイ系」ブーム。しかし、そのブーム以前に「セカイ系」的物語構造の徹底的な自己破壊を行った作品がありました。今回は、その問題作『機動戦士Vガンダム』の意義を論じます。(この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年6月10日の講義を再構成したものです/2017 年1月13日に配信した記事の再配信です)
「結末でアスカにフラれないエヴァ」としてのセカイ系作品群
90年代が終わり、00年代に入っていくなかで「セカイ系」といわれる一連の作品群が流行します。「セカイ系」って言葉を知ってますか? まぁ、ちょこちょこいますね。
この「セカイ系」は、「ポスト・エヴァンゲリオン症候群」とも言われたりします。代表的な作品は『ほしのこえ』(2002年に劇場公開)、『イリヤの空、UFOの夏』(電撃文庫で2001-03年にかけて刊行)などですね。よく特徴として言われるのが、「世界の問題を自意識の問題へと矮小化している」というものですね。
ここまでもお話ししてきたとおり、80年代のアニメでは頻繁に冷戦下の最終戦争のイメージで「世界の終わり」が描かれたわけですが、これらは基本的に消費社会下の若者の自意識の問題の表現だったわけです。「革命」のような歴史が個人の人生を意味づける回路が難しくなった時代のアイデンティティ不安の問題がここにはあった。
『エヴァンゲリオン』が画期的だったのは、そこで描かれていた世界の問題がすべて主人公のマザコン少年の自意識の問題の比喩であったことです。もちろん、これは人間と自然、あるいは人間と人間という社会の問題の安易な矮小化と言われても仕方がない。実際にそう批判されてきたし、僕もそう考えています。ただ、この作品の社会現象化は結果的に消費社会下におけるファンタジーの機能不全を露悪的に突きつけた、という言い方もできると思います。
そして「ポスト・エヴァンゲリオン症候群」であるところの「セカイ系」は、こういった「エヴァ」の露悪的な批評性がすっぽり抜け落ちて、描かれる世界の問題すべてを自意識の問題の比喩として扱う、というスタンスを徹底して主人公の少年のヒーリングに注力していくことになります。
具体的にどういうことかというと、「セカイ系」と言われる作品群は、だいたい思春期の男の子が主人公です。彼はどこにでもいそうな平凡な男の子なのだけど、そんな彼のそばに世界の運命を背負っている女の子がいて、その女の子に無条件に愛されることで何者でもない男の子が承認される、という形式を取ります。男の子への愛情を動機に女の子は世界の運命を背負って戦って、死んじゃったりもするわけです。ここでは男の子の存在=世界の運命という構図になる(笑)。「世界の運命を背負ってる女の子に愛される」って究極の承認ですよね。
僕の先輩格の評論家である更科修一郎さんがセカイ系の作品群を指して「結末でアスカにフラれないエヴァ」と言っていましたが、これはなかなかうまい表現だなと思います。『エヴァンゲリオン』の劇場版(Air/まごころを、君に)の結末は、世界が破滅してシンジとアスカの二人だけが世界に取り残されてしまいます。ここで二人が新世界のアダムとイブになるのだったらそれこそ後の「セカイ系」そのものになる。男の子が自分を無条件で、それこそ世界そのものと等価なものとして承認してくれる女性によって満たされる、というのは要するに母による承認ですよね。でもアスカはシンジの「お母さん」にはなってくれない。それはどっちかというともうひとりのヒロインで、シンジ君のお母さんのクローンである綾波レイの役目ですね。しかし庵野秀明は結末にシンジ君の隣にはレイではなくアスカを配置した。そしてアスカはシンジ君を「気持ち悪い」と拒絶する。あそこでシンジの隣にアスカではなくレイがいて、シンジ君を「母」的に承認してしまうと歴史が個人の人生を意味づけなくなってしまった世界には幼児的な全能感しか救済はなくなってしまう。たとえ生の意味を保証する大きなものが信じられなくても、(拒絶されることも受け入れながら)他者に手を伸ばすべきだ、というのが着地点なわけです。まあ、ちょっと一周回って当たり前すぎて何も言っていない感はあるんですが、この結末は、庵野秀明なりの倫理の表明だったと思います。
▲劇場版 NEON GENESIS EVANGELION - DEATH (TRUE) 2 : Air / まごころを君に [DVD]緒方恵美 (出演), 三石琴乃 (出演), 庵野秀明 (監督, 原著, 脚本)
けれど、『エヴァンゲリオン』の影響を受けた、もしくはアスカに振られて傷ついてしまったシンジ君たちは、結末でアスカに振られない=レイという母親に承認されるセカイ系を生み、支持していった、というわけです。
要するに先行する『エヴァンゲリオン』よりも表現的に後退してしまったんですね。『エヴァ』が最後の最後で拒絶したものを、むしろ全面的に承認して感動ポルノにしていったわけです。
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京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第14回 ラブコメと架空年代記のはざまで――完全自殺マニュアルと地下鉄サリン事件(PLANETSアーカイブス)
2017-11-27 07:00
今回のPLANETSアーカイブスは、本誌編集長・宇野常寛の「京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録」をお届けします。今回は、80年代の消費社会下で出現した「終わりなき日常」とその反作用としての「世界の終わり」というモチーフが、どのようにして90年代の文化へと接続されていったのかを論じます。
※本記事は、この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年6月10日の講義を再構成したものです。/2016 年12月9日に配信した記事の再配信です。
80年代ラブコメの空気と『きまぐれオレンジ☆ロード』『超時空要塞マクロス』
ここまでは80年代の消費社会を「モノがあっても物語のない」時代と受け止めたサブカルチャーについて考えてきました。「ここではない、どこか」への脱出願望としてのファンタジーの機能がピックアップされ、当時のマンガやアニメが描いた冷戦期の最終戦争のビジョンはそのはけ口として受容されていったわけです。
しかしその一方で、この「モノはあっても物語はない」「いま、ここ」の「終わりなき日常」を肯定しよう、という思想もサブカルチャーは内包していくことになります。その舞台となったのは、以前取り上げた高橋留美子『うる星やつら』が代表するラブコメの系譜です。
70年代の少年誌が「スポ根」の時代なら、80年代の少年誌は「ラブコメ」の時代でした。もちろん、絶対的な連載本数においてラブコメがスポ根マンガやバトルマンガを圧倒したわけではありません。しかし、青年誌や少女誌に較べて決して親和性が高いわけではないラブコメという新興のジャンルがこの時期に拡大していったという意味において、80年代の少年誌はラブコメの時代でした。
そしてあの〈ジャンプ〉にすら、ラブコメは登場します。
▲きまぐれオレンジ☆ロード 1巻(Kindle版)まつもと 泉 (著)
これは、〈ジャンプ〉で連載された『きまぐれオレンジ☆ロード』という作品です。
(『きまぐれオレンジ☆ロード』オープニング映像上映開始)
この作品は見てわかるとおり、主人公の春日恭介(かすが きょうすけ)がロングヘアーの同級生・鮎川まどか(あゆかわ まどか)とショートカットの後輩・檜山ひかる(ひやま ひかる)のどっちと付き合うかという、ただそれだけのラブコメです。主人公の声はアムロの古谷徹が演じていますね。当時は男子中高生のあいだで、まどか派かひかる派かでの論争が起こっていたようです(笑)。
そして恐るべきことに主人公の恭介くんは超能力者なんです。キービジュアルを見ただけではまったくわからないと思いますけどね。しかも物語の進行に、主人公が超能力者であるという要素はほとんど関係していない。当時は超能力設定が流行っていたから「とりあえず入れとく?」って感じで無駄に超能力要素が入っているんです。いまだに、『きまぐれオレンジ☆ロード』で主人公が超能力者であることの意味はよくわからないですね。
まあ、この時代にはそれぐらい超能力が流行っていたっていうことです。これまで話してきたように、超能力要素には「ここではない、どこか」への願望が込められていたわけです。そこに「いま、ここ」を目一杯楽しむというラブコメの思想が歪(いびつ)に合体しているのがこの『きまぐれオレンジ☆ロード』という作品なんですね。
同じような動きがロボットアニメにも現れます。以前扱った『超時空要塞マクロス』です。
(『超時空要塞マクロス』映像上映開始)
この『マクロス』という作品では、ゼントラーディっていう宇宙人軍団と地球人が戦争して、総力戦の中で人類の命運を賭けた大戦争をしているわけですけど、その大戦争があくまでも背景でしかない。メインは主人公の少年パイロットが美人上司とアイドルデビューした同級生のどっちと付き合うかっていう、非常にどうでもいいストーリーです。で、結局美人上司の方とくっつく。アイドルってやっぱり恋愛禁止だからというのもあって、フラれたアイドルのほうは本当に「みんなの恋人」として歌を届け、戦場のヒロインになっていく。当時80年代のアイドルブームの影響を受けているわけです。
これが80年代半ばの大きな二つの流れなんですね。ひとつは「ここではない、どこか」を求め、現実の世界から失われたドラマチックな世界観をファンタジーの中で取り戻そうというオカルトや架空年代記への欲望。そしてもうひとつが「いま、ここ」を目一杯楽しもうと言うラブ&コメディーへの欲望です。そしてこのふたつがいびつに結びついているのが、『きまぐれオレンジ☆ロード』であり、『超時空要塞マクロス』だったんです。
80年代末の宮崎勤事件と過去最大のオタクバッシング
ここまで80年代のオタク文化を見てきたわけですが、さきほどの転生戦士たちの自殺未遂事件と同時期の1988〜89年に、オタク文化の盛り上がりに水をさす事件が起こります。
宮崎勤という当時20代半ばの青年が、近所の女の子を次々と誘拐して殺し、しかもそのうちの何人かの肉を食べたという「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」です。みなさんはこの事件のことを知っていますか? 知っている人は挙手してください。
……なるほど、かなり少ないですね。これは当時マスコミでもかなり騒がれた事件なんです。この宮崎勤という人物は、今で言う「非コミュ」で当時の学校社会や企業社会には馴染めずに親の印刷工場を手伝っていたんですが、アニメ・特撮オタクでもありました。実家の離れのような場所で暮らしていて、そこに録画したVHSの山があったことがマスコミで大きく報道されました。
この当時は「オタク」という言葉が生まれて5、6年経っていた頃ですね。評論家の中森明夫さんが「漫画ブリッコ」という成人向けマンガ雑誌でコラムを連載するなかで、二次元の世界に逃避する若者たち、どちらかといえばコミュ障の人たちのことを指すのに使った言葉が「オタク」だったんです。
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京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第13回 教室に「転生戦士」たちがいた頃――「オカルト」ブームとオタク的想像力(PLANETSアーカイブス)
2017-11-13 07:00
今回のPLANETSアーカイブスは「京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録」。80年代のオカルトブームを取り上げます。70年代に始まったオカルトの流行は、『ぼくの地球を守って』など、「前世」や「転生」をモチーフにした一連の作品を生み出しますが、その影響を受けて、現実でも「前世の仲間」を探そうとする若者が大量に現れます(この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年6月10日の講義を再構成したものです/2016年12月2日に配信した記事の再配信です)。
つのだじろうとサブカルチャーとしての「心霊」
「オカルト」というかつて存在したジャンルと、その隣接領域としてのマンガ・アニメについてもう少し考えてみましょう。 つのだじろうの『恐怖新聞』という作品があります。このつのださんは、ミュージシャンのつのだ☆ひろさんのお兄さんですね。彼は藤子不二雄コンビや石森章太郎と同じトキワ荘グループのマンガ家で、初期はギャグマンガやスポーツマンガで知られていました。この時期の代表作『空手バカ一代』はアニメにもなったヒット作です。
しかし70年代半ばからはオカルトブームを背景に、すっかり「心霊マンガ家」になってしまいます。この時期つのださんは『うしろの百太郎』『恐怖新聞』で大ヒットを飛ばすわけですがブームに乗っかったのではなくて、プライベートでも心霊研究をかなり本格的にやっていたので、いわゆる「ガチ勢」ですね。
では『恐怖新聞』を少し読んでみましょう。 平凡な中学生の鬼形礼(きがた れい)という主人公はある日、霊に取り憑かれ呪われてしまい、「恐怖新聞」という、読むと必ず寿命が100日縮まる新聞が毎晩配達されるようになります。この恐怖新聞には「明日誰々が死ぬ」という不吉なことが書かれている。未来を知ることができるから、鬼形礼は不幸なことが起こるのを阻止すべく奮闘して、失敗したり成功したりするんですね。で、読むたびに寿命は縮まっていくので、最後には死んでしまいます。 『恐怖新聞』は心霊マンガなんですが、だんだんストーリーが進むにつれて今読みかえすとおかしな方向にも向かっていきます。たとえば「円盤に乗った少女」という回がありますが、なぜかUFOネタが入ってくるんですよ(笑)。心霊とUFOは全然関係ないですよね。 あるいはこの鬼形くん。物語の後半でなぜか埋蔵金を探しています。埋蔵金っていうのは豊臣秀吉や徳川家康が子孫のためにどこどこの山中に大量の金銀を埋めておいた云々という、例のアレですね。もはやここまで来ると心霊マンガでもなんでもないんですが、当時としてはそれほど不思議なことでもないんです。 当時の、いや、今もいくつか残っているオカルト雑誌を読むとよく分かるんですが、「超能力」も「心霊」も「UFO」も「埋蔵金」もジャンルとしては同じ「オカルト」なんです。当時の「オカルト」は陰謀論や疑似科学によって当時日本社会を覆っていた終わりなき消費社会の日常から逃避させてくる装置だったわけで、その逃避機能を保証する非科学性というところでジャンルの統一性を保っていたんですね。
80年代オカルトブーム絶頂期と『ぼくの地球を守って』
さて、「オカルト」ブームとマンガ・アニメの関係を語る上で外せない作品があります。 1986年から1994年まで少女マンガ誌「花とゆめ」に連載された日渡早紀『ぼくの地球を守って』です。のちにビデオアニメにもなっています。
(『ぼくの地球を守って』映像再生開始)
超古代に、高度な文明で栄えた異星人たちが月に基地を作って、そこで科学者たち男女7人が働いているんですが、恋愛関係のもつれと基地内での伝染病の蔓延によって全員死んでしまいます。その7人が何千年か後に現代日本人に転生してもういちど恋愛をする。当時流行っていた『男女7人夏物語』のようなトレンディドラマに、転生要素を加えたストーリーですね。 これはマンガでもヒットしましたが、オカルト界では大ヒットしました。前世ではヒロインと相手役の男は同じぐらいの年齢なんですが、前世で死亡したタイミングがずれたせいで転生後の再開時にはお姉さんと少年になるわけです。いやあ、いろんな欲望を同時に満たしすぎですよね(笑)。前世ではオラオラ系のイケメン、現世ではインテリ系の美少年をゲット、的な。 彼らは前世で超能力を持っていたのですが、現代日本に転生した主人公たちはだんだん前世の記憶とその能力を取り戻していき、現代日本で起きる事件に立ち向かっていきます。
▲日渡早紀『ぼくの地球を守って(1)』白泉社文庫
実はこの時期、この国では「前世は超古代文明(ムー大陸とかアトランティスとか)の人間で、超能力を持っている」という自称転生戦士たちが現実世界に溢れかえったんです(笑)。この現象についてはインターネット上のサイトにまとまっていますので、それを見ていきましょう。
(参考)『ムー』読者ページの“前世少女”年表 - ちゆ12歳
80年代当時はインターネットがなかったので、オカルト雑誌の「ムー」の投稿欄で「ペンパル」といって要は文通相手を募集したんです。そこに自称転生戦士が「こういう記憶を持っている人、お友達になりませんか?」という募集を出すわけです。というよりも、『ぼく僕の地球を守って』はそのオカルト雑誌の読者投稿欄に着想を得て作られているんです。 実際『ぼく僕の地球を守って』の序盤は「前世にこういう記憶を持っている人いませんか?」とペンフレンド募集をして生まれ変わった仲間が再会するというストーリーです。『幻魔大戦』が代表する転生戦士というサブカルチャーのトレンド、物語フォーマットが流行してオカルトブームにも影響を与え、「ムー」の投稿欄も先鋭化して、さらにそこから『ぼく僕の地球を守って』が生まれ大ヒットしたことで、自称転生戦士がまた増えるというサイクルだったんですね。 この当時、転生戦士はたくさんいました。さきほどのサイトを見てみましょう。
「戦士、巫女、天使、妖精、金星人、竜族の民の方、ぜひお手紙ください」 「前生アトランティスの戦士だった方、石の塔の戦いを覚えている方、最終戦士の方、エリア・ジェイ・マイナ・ライジャ・カルラの名を知っている方などと」
こういった手紙がたくさん「ムー」には掲載されていたわけです。すごいですね。
1979年 『ムー』創刊。創刊号から「自分が地球以外の宇宙人だと思う人と文通がしたいので~す」という14歳の女の子はいますが、まだ前世少女からの投稿はありません。 1980年 まだ前世少女はいません。 「あたし‥‥実は異星人なんだ‥‥」「異星人の仲間どこかにいない‥‥?」(3月号)という15歳の女の子はいますが、本気度は不明。
イラストがいいですね。当時のアニメブームのテイストの絵になっています。
1981年 この時期、「超人ロックが好きで、ロックのようなESPERになりたいとがんばっています」(5月号)という14歳の女の子など、エスパー志望者がやや目立ちます。 1982年 「転生、超能力、SFに興味がある女子」との文通を希望する18歳(4月号)や、「転生について異常なほど興味があり、明るすぎるほどのぼくにお手紙ください」という16歳(10月号)など、転生に関する投稿は少し増えました。 1983年 この頃、「人類救済を目的とするサークル」のメンバー募集(5月号)など、終末を意識した投稿が増加します(たぶん、3月公開の『幻魔大戦』劇場版の影響が大きかったと思われます)。
『幻魔大戦』の映画版がこの年に公開されています。
9月号では、「自分が宇宙とかかわる“光の戦士”か“救世主”だと思う方、連絡してください」という中3の女の子が登場。 10月号には、「前世の記憶がもどり、超常現象の体験がありま~す」という中3の女の子。
ここから、こういう手紙がだんだん増えてきますね。
1984年 「不思議な夢をよく見ます。私には何かの使命があるような…」という高2の少女(3月号)。 「この風景に見覚えのある方おまちしてます」と、イラストを投稿する18歳の女の子(7月号)。
……見覚えがあったら衝撃的ですね。
「古代ギリシアの地中海にいたころの過去世の記憶がある方で、自分の魂、もしくは守護神がギリシア神話に出てくる神々である方と。私の守護神はアポロンですが、同じ系列の仲間を捜しています」という23歳の男性(12月号)。
これもなかなかいい感じですね。当時23歳だと、現在は還暦に近いですよね。1985年だから、これは僕が小学校1年生の頃です。
1985年 「前世の記憶が“平家一門”だったのではと思われる方…そして“葵”という名の源氏方の若い武将にお心当たりの方」からの連絡を待つ17歳の女性(3月号)。 「あたしは幽体離脱、幽体分裂、時間をもどしたり、遅くすすめたり、タイムリープができます。100年に1度の天使のハネを持つ妖霊です」という18歳の女の子が、「マヤ出身の人(白い魂の子)」との文通を希望(3月号)。 ※「弥生時代か飛鳥時代に生きた記憶のある方、ご連絡ください」という高校3年生や、「毛利元就の2男・吉川氏の家系の前生をもたれる方、おききしたい事があります」という17歳(5月号)など、この頃までは、前世が異星や異次元なのは少数派でした。 7月号では、「自分がミヤリア一族だと思われる方、または、ソディラ、セカ、スィール、ミヤ、セヤ、ジィン、マラ、リヤ、トルファン、オルキムの名に心あたりがあるか、自分の魂の名がこのいずれかの方」を探す15歳の女の子が登場。これ以降、カッコイイ名前の尋ね人が増えます。
魂の名とはいったいなんでしょう。当時の文通覧は、住所も公開しているんですよね。これ、なかには実際に「俺が前世の恋人だ」とか言って押しかけてくるケースもあったと思うんですよね。そこでイケメンが来ればいいけれど、そうじゃなかったらどうしたんでしょうね……。
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京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第12回 「世界の終わり」はいかに消費されたか――〈宇宙戦艦ヤマト〉とオカルト・ブーム(PLANETSアーカイブス)
2017-10-23 07:00
今回のPLANETSアーカイブスは「京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録」をお届けします。ここからの講義録は「戦後アニメーションと終末思想」がテーマ。今回は70年代半ばに第一次アニメブームを起こした『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』におけるSF作品の内実の変化と、『幻魔大戦』に代表される「オカルト」というモチーフの浮上を扱います。(この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年6月10日の講義を再構成したものです/2016年11月25日に配信した記事の再配信です。)
冷戦下のリアリティと『宇宙戦艦ヤマト』が描いたもの
今回からは、マンガ・アニメを代表とするオタク系サブカルチャーの想像力とその変質について、戦後消費社会の展開を追いながら話していきたいと思います。
みなさんは「世界の終わり」という言葉を聞いてどんなことを想像するでしょうか?
……そうですね、痛い感じのビジネス中二病のバンド(SEKAI NO OWARI)のことしか思い浮かばないですよね。 でも僕が子どもの頃は、「世界の終わり」ってマンガ・アニメの定番モチーフだったんです。「人類最後の大戦争が起こって人間は滅びるんじゃないか」「大戦争によって本当に世界の終わりがやってくるんじゃないか」というイメージがすごく強かった。 これはなぜかというと、当時は米ソ冷戦の真っ最中だったからですね。どちらも核兵器を大陸間弾道ミサイル(ICBM)に載せていつでも発射できるようにしていて、もしアメリカとソ連が全面戦争になったら報復攻撃の連鎖で世界中が核ミサイルで破壊されてしまうのではないか。そういうイメージに非常にリアリティがあったんです。
それに加えて、特に1970年代から90年代にかけて「ノストラダムスの大予言」というものが大流行しました。「1999年7の月、空から恐怖の大王が下りてくる」というやつですね。それが日本のオカルト好きの間で広く共有されていて、「恐怖の大王って核兵器のことじゃないのか」と言われていたんです。なんとなく、「20世紀の末に世界は核の炎に包まれて人類は滅亡する」という「世界の終わり」のイメージが若者たちのあいだで共有されていたわけです。今回はそういった終末思想が、サブカルチャーの想像力によってどう描かれてきたのかを扱っていこうと思います。 また逆に、「なぜ現代ではそういうモチーフが消滅してしまったのか?」という問題も考えてみたいと思います。いまや「世界の終わり」といえば単にビジネス中二病バンドの名前でしかなくなっているわけですが、このモチーフがなぜそこまで陳腐化してしまったかということですね。
まずはこの作品からみていきましょう。
(『宇宙戦艦ヤマト』映像再生開始)
みなさんはこの作品を知っていますか? あ、さすがにほとんどの人が知っているようですね。でも存在を知っているだけで、中身までは知らないでしょう? この『宇宙戦艦ヤマト』は、一番最初のアニメブームの起爆剤となった作品です。1974年にテレビシリーズの放映が開始され、そのときはそこまでヒットしなかったんですが、再放送でじわじわと人気に火が付いていきました。 ここまでの講義でもお話ししてきたとおり、1970年代までアニメって多くが子ども向け番組だったわけですが、『宇宙戦艦ヤマト』はティーンエイジャーから20代の学生、若い社会人に支持を受け、社会現象とも言える大ヒットになった作品でした。そしてこれをきっかけに、70年代半ばから後半にかけて続々とティーンエイジャーから大人をターゲットにしたアニメが制作されるようになっていきます。
▲宇宙戦艦ヤマト 劇場版 [Blu-ray] 納谷悟朗 (出演), 富山敬 (出演), 舛田利雄 (監督)
『宇宙戦艦ヤマト』は――のちに『機動戦士ガンダム』でも繰り返されることですが――全国にファンクラブができて広がっていき映画化もされたんです。
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京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第11回 碇シンジとヒイロ・ユイの1995年(PLANETSアーカイブス)
2017-10-02 07:00
毎週月曜日は「PLANETSアーカイブス」と題して、過去の人気記事の再配信を行います。傑作バックナンバーをもう一度読むチャンス! 今回の再配信は「京都精華大学〈サブカルチャー〉論」をお届けします。『新世紀エヴァンゲリオン』が人気を集めるその裏側で、ボーイズラブ的に受容された『新機動戦記ガンダムW』が切り開いたロボットアニメの可能性。戦後日本の〈成熟〉にまつわる問題意識を乗り越える、新たな想像力の萌芽について論じます(この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年5月13日の講義を再構成したものです /2016年11月4日に配信した記事の再配信です )。 「宇野常寛の対話と講義録」配信記事一覧はこちらのリンクから。
ロボットアニメを書き換えた1995年の『新機動戦記ガンダムW』
初代『ガンダム』から『エヴァンゲリオン』に至るまで、ロボットアニメの主人公の少年たちは等身大の悩みを抱えた「内面のある」キャラクターでした。自意識過剰で、「お父さんに認められたい」「女の子をゲットしたい」「大人の男になりたい」とか、そういった思春期の悩みに溢れていましたよね。ところが、そういった悩みを一切抱えていない少年を描いたロボットアニメが登場します。それが、『エヴァンゲリオン』と同じ1995年に放映された、『新機動戦記ガンダムW(ウイング)』です。まずは映像を観てみましょう。
▲新機動戦記ガンダムW Blu-ray Box
これ、オープニングですけど、なんというかすごいですよね。この冒頭から差し込まれる美少年ナルシシズム。ファーストカットがいきなり、謎のポーズを決めている美少年です。いやあ、人間はどういう自意識で生きていたらこんなポーズが取れるんでしょうね。自分は既に完成されていて圧倒的にカッコいいという確信がないと、まず、ムリです(笑)。 そして、このあとに彼が乗るウイングガンダムが出てくる。この時点でもう、この作品ではモビルスーツと主人公の少年の力関係が逆転していることが示されてしまっているわけですね。 で、続いて同じように全能感に溢れた美少年が4人現れます。やっぱりドヤ顔で謎のポーズを取っています。そしてモビルスーツは決めポーズを取る少年の背景に過ぎない。 この『ガンダムW』は、主人公のヒイロ・ユイをはじめ5人の美少年がガンダムに乗って戦うという話です。彼らは最初から全能感に溢れていて、世の中に出て行くための不満とか、巨大な鋼鉄の身体を得て大人社会に認められたいとか、そういった気持ちはまったく持っていないですね。 そして『ガンダムW』は、実は男性ではなく女性ファンから圧倒的な支持を集めました。当時まだボーイズラブ(BL)という言葉は一般的ではありませんでしたが、『ガンダムW』は山のようにBL同人誌が作られて、コミックマーケットでも一大ジャンルになったんですね。一方で、昔ながらの男性ガンダムファンからは「ガンダムが女子に媚びた」「堕落した」と散々批判されていました。実は放送当時はろくに観もしないで、僕もそう思っていました。 実際に同年に放送されていた『エヴァンゲリオン』が社会現象化していく中で、言ってみればまあ宮崎駿や富野由悠季、押井守といった戦後アニメーションの巨匠たちの問題意識を受け継いだ、言ってみれば現代文学的なアニメとして時代の象徴になっていったのに対して、この『ガンダムW』は女子中高生のやり場のない性欲のはけ口程度にしか思われていなかった。 でも、どうなんでしょう。少なくとも僕は今考えると圧倒的にこの『ガンダムW』のほうが『エヴァンゲリオン』より新しかったと思うんですね。 こうして振り返ると『エヴァンゲリオン』は正しく日本的なロボットアニメの文脈を引き継いでいるわけです。主人公のシンジ少年の、屈折した成長願望として巨大ロボットが設定されていて、そしてだからこそ成熟の仮構装置としてのロボットアニメがもはや成立しないことを告発して、しっかり破綻してみせることで時代の精神を代表する作品になっていったわけです。
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京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第10回 戦後ロボットアニメの「終わり」のはじまり(PLANETSアーカイブス)
2017-09-11 07:00
今回の再配信は「京都精華大学〈サブカルチャー〉論」をお届けします。 富野由悠季『逆襲のシャア』で明らかにされた、ロボットアニメにおける〈成熟の不可能性〉というテーマは、80年代末の『機動警察パトレイバー』によるポリティカル・フィクション的なアプローチを経た後、1995年の『新世紀エヴァンゲリオン』によって再浮上します(この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年5月13日の講義を再構成したものです/2016年10月28日の記事の再配信です)。
ロボットの意味が脱臭された『機動警察パトレイバー』
たとえばバブル絶頂期の80年代末に人気となった『機動警察パトレイバー』というマンガ・アニメ作品があります。ブルドーザーやクレーンといった重機の役割を果たすロボット「レイバー」が普及している近未来の東京では、レイバーを悪用した犯罪が多発している。そこで警視庁がレイバーを導入して犯罪を取り締まっていくという物語です。 この『パトレイバー』のメインは若い警官たちの青春ドラマです。おそらく日本で初めて、警察という官僚組織を細かく描いてコメディドラマにした作品で、要は『踊る大捜査線』の元ネタですね。 『パトレイバー』においてロボットは「あったほうが絵的にかっこいい」ぐらいの扱いになっています。むしろロボットというSF的なアイテムを導入することによって、戦争もなければ民族対立も少ない現代日本において政治的なフィクションを成立させているところに意義がある作品ですね。たとえば劇場版第2作の『機動警察パトレイバー2 the Movie』はクーデターものです。ロボットアニメという器を使って、東京という大都市と、近未来社会のクーデターシミュレーションを描いているんです。
少し『パトレイバー2』を観てみましょう。これは敵のクーデター部隊が、主人公たちの所属するパトレイバー中隊を襲撃するシーンですね。戦闘ヘリの攻撃に、パトレイバーたちは起動する間もなく格納庫に置かれたまま一方的に破壊されていきます。 これとても象徴的なシーンです。レイバーはあくまでも重機の延長線上であって、戦闘ヘリの前では太刀打ちできないということが強調されています。企画段階から関わってアニメ監督を担当したのは『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』の押井守です。押井守にとって『パトレイバー』のロボットはあくまで企画を通すための方便でしかなく、実質的には東京の大規模テロのシミュレーションがしたかったんです。だからこそ、ロボットの意味を徹底的に否定しているわけです。近未来の日本に人型の重機が普及したとしても、その軍事的な価値はゼロだと、かなり露悪的にシミュレーションして見せているわけですね。 こうして、80年代のロボットアニメのノウハウを受け継ぎながらも内側から更新していくようなかたちでロボットアニメは進化していくことになります。 ただし、ロボットや怪獣などのファンタジー的なアイテムを用いることによって「日本の官僚組織や企業社会がどう動くか?」というシミュレーションをやる『パトレイバー』のメソッドは、むしろ『躍る大捜査線』や『平成ガメラシリーズ』といった実写作品のほうに受け継がれていくことになります。こうした潮流については別の回で詳しく扱おうと思います。
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【特別再配信】京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第9回 宇宙世紀と大人になれないニュータイプたち
2017-08-28 07:00
本誌編集長・宇野常寛の連載『京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録』、今回のテーマは1980年代の富野由悠季です。『Zガンダム』『逆襲のシャア』を通して明らかになった「成長物語としてのロボットアニメの限界」について論じます(この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年5月13日の講義を再構成したものです/2016年10月7日に配信した記事の再配信です )。
「キレる若者」カミーユが迎えた衝撃の結末――『機動戦士Zガンダム』
(画像出典)
『ガンダム』に端を発した第二次アニメブームは1980年前半で沈静化し、ブームを盛り上げたアニメ雑誌の文化も衰退してしまいます。理由は色々ありますが、まずひとつはヒット作があまり続かなかったこと。そしてもうひとつ大きかったのは、少年たちの支持がジャンプを中心とした大手マンガ雑誌の人気作品のアニメ版へと移っていったことが挙げられます。そうなるとアニメ雑誌も人気作を中心にした特集が組みにくくなり、1985、6年頃にはどんどん潰れてしまったわけです。 そういった状況だったので、アニメファンの間では再びブームの中核になる作品の登場が待ち望まれていました。要するに「『ガンダム』の続編を作ってくれ」という声がアニメ業界やファンのあいだで大きくなっていたんです。そうした声を受けて制作されたのが、初代『ガンダム』の直接の続編である『機動戦士Zガンダム』(1985年放送開始)でした。 『Zガンダム』の舞台は、『ガンダム』の一年戦争から7年後の世界です。初代『ガンダム』放映後に流れた現実世界の年月とだいたい同じ年数が経っているという設定です。前作の主人公であるアムロやそのライバルのシャアも登場し、みな年をとっています。これは当時としてはすごく斬新でした。前の戦争で「ニュータイプ」というある種の超能力者として覚醒し、地球連邦軍のエースパイロットに成長したアムロは、その能力を政府から危険視されて閑職に回され、屈折した人間になってしまっているんです。前作で成長したはずの主人公がいじけた大人になってしまっているというのはなかなか衝撃的ですよね。富野由悠季は「実際に宇宙世紀に生きていたら登場人物はこうなっているはずだ」というシミュレーションをここでも徹底しています。 『Zガンダム』では新しく設定された主人公、カミーユ・ビダンという高校生の少年が、前作のアムロと同様に戦争に巻き込まれ、成り行きでガンダムに搭乗して戦っていきます。どういうストーリーなのか、第1話の映像を観ていきましょう。
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