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記事 774件
  • YouTubeとNetflixは世界をどう変えるのか|明石ガクト

    2020-08-04 07:00  
    550pt

    今朝のメルマガは、イベント「遅いインターネット会議」の冒頭60分間の書き起こしをお届けします。本日は、明石ガクトさんをゲストにお迎えした「YouTubeとNetflixは世界をどう変えるのか」です。YouTubeやNetflixなどの映像配信プラットフォームの台頭により、エンターテイメントの世界が大きな変容を迎える中、今後求められる映像コンテンツとはなにか。そして、それらのコンテンツは、どのように受容され、文化の地図をどう牽引していくのでしょうか。明石さんと考えます。(放送日:2020年7月7日)※本イベントのアーカイブ動画の前半30分はこちらから。後半30分はこちらから。
    【本日開催!】8月4日(火)19:30〜「思想としての発酵/発酵する思考」(ゲスト:小倉ヒラク)話題をあつめた『発酵文化人類学』や、各地のユニークな発酵食品を集めた専門店「発酵デパートメント」の開業など、世界でただひとりの「発酵デザイナー」として精力的に活動する小倉ヒラクさん。味噌や醤油、ヨーグルトに醸造酒と、人類が古来から豊かな食文化を築くために活用してきた微生物たちの「発酵」という活動には、どんな叡智が隠されているのか。そして多彩な発酵食品や醸造文化との付き合い方を見つめ直すことで、現代人の生活をどう豊かにしていけるのか。目に見えないものたちとの協働が育む思考や世界各地の発酵文化の魅力など、「発酵」を通じて見えてくる社会とライフスタイルへの気づきについて、たっぷりと学んでいきます。生放送のご視聴はこちらから!
    遅いインターネット会議 2020.7.7YouTubeとNetflixは世界をどう変えるのか|明石ガクト
    長谷川 こんばんは、本日ファシリテーターを務めます、モメンタム・ホースの長谷川リョーです。
    宇野 はい、みなさん、こんばんは。PLANETSの宇野常寛です。
    長谷川 「遅いインターネット会議」。この企画では政治からサブカルチャーまで、そしてビジネスからアートまで、様々な分野の講師をお招きしてお届けしております。本日は有楽町にある三菱地所さんのコワーキングスペース、SAAIからお送りしています。本来であれば、トークイベントとしてこの場を皆さんと共有したかったんですけれども、当面の間は新型コロナ感染防止のため動画配信と形式を変更しております。今日もよろしくお願いします。それではさっそくゲストの方をご紹介いたします。今日のゲストはワンメディア株式会社代表取締役の明石ガクトさんです。
    明石 よろしくお願いします。
    宇野 よろしくお願いします。
    明石 いやぁもうね、ほんとはここで割れんばかりの歓声と拍手。
    宇野 そう、僕の想定では猪木コールばりの、割れんばかりのガクトコールで始まる予定だったんですけど(笑)。
    明石 「ガクト! ガクト!」って感じになるはずが(笑)。
    宇野 そのはずが、まさかの無観客ですよ。
    明石 マジっすね、ほんと。
    宇野 僕ら、半年近く無観客やってるので、恐るべきことに無観客にこそ慣れつつある。
    明石 しかし、この広大な空間で無観客だと、短パン履いてきたことが間違いだったなってくらい足がスースーしますね(笑)。
    宇野 ちなみに僕も短パンで、ハセリョーはジャージ。有楽町でこんな格好してる3人組ってもう僕たちだけですよ(笑)。
    明石 ほんと、3密とは程遠い空間で(笑)。
    宇野 下半身から疎な感じで行こうかなと思ってます。
    明石 未来感じますね。
    宇野 間違いなく最先端なんで頑張って、気合入れていきましょう。
    長谷川 さて、本日のテーマですが、「YouTubeとNetflixは世界をどう変えるか」です。YouTubeやNetflixなどの映像配信プラットフォームの台頭により、エンターテインメントの世界は大きな変容を迎えております。今後、求められる動画コンテンツとは何か。私たちはそれをどのように受容し、楽しむことができるのか。それらのコンテンツは文化の地図をどのように牽引していくのか。動画制作のプロフェッショナルである明石ガクトさんと議論していきたいと思います。
    宇野 以前、明石さんが『動画2.0』という本を出したときにPLANETSチャンネルの番組に来ていただいて、いろいろ話したわけですよ。自分の著書『遅いインターネット』で引用させてもらったんだけど、20世紀を代表した劇映画というカルチャーが、インターネットの中で大きく変質していて、今や動画はコミュニケーションツールのひとつに過ぎないのだ、ということを「映像から動画へ」というキラーフレーズで表現していたのがあの本だった。あれから2年ぐらい経ったのかな?
    明石 そうですね、ちょうど2年くらいですね。
    宇野 この一連のコロナ騒ぎが起きてステイホームの時代になったことが、あの本が予言していた状況を決定的に後押ししたと思うんです。そこで今日は、このタイミングでもう一度、明石さんと議論の続きをしたいなと思ってお呼びしました。
    明石 いや、めっちゃありがたいですね。宇野さんほど、あの本で本当に言いたかったことを汲んでくれている人はいないです。いかに日本人の読解力が下がってるかっていうこともあるのかもしれないけど(笑)。「映像から動画」みたいなテーマの時には、みんな表面的なことを聞きたがるんですよ。けれども、宇野さんが今言ったように「動画はコミュニケーションツールのひとつになる」っていうことを、あの本では言いたかったんです。今まさにコロナ禍で大きな変化が起こっている中で、そのコミュニケーションツールとしての動画の役割が先鋭化してきている。そういうことを「これから動画に起きる10の変化」としてまとめていて、この後スライドにも出てくるんですけど、今日はそのあたりのことをたっぷり語り合いたいなと思っています。
    宇野 はい。よろしくお願いします。
    「withコロナ時代」において動画コンテンツ、ビジネスはどう変化するか
    長谷川 それではさっそく議論に入っていきたいと思います。本日は2部構成で番組をお届けします。前半では「with コロナ時代」において動画コンテンツ、ビジネスはどう変化していくのか議論していきたいと思います。後半では、これからの動画を考えるうえで、重要になる作品を5つ挙げていただき、それについて話していきたいと思います。ではまず、最初にコロナショックを受けて、これからの動画業界にどのような変化が起きるのか、動画コンテンツ、ビジネスはどう変化していくのかについて、明石さんからお話を伺いたいと思います。

    明石 いまお見せしている、この「The STORY MAKERS」というスライドを何のために作ったのかっていうと、コロナショックでONE MEDIAの仕事がめっちゃ飛んだんですよ。
    宇野 やっぱり飛ぶんですね。
    明石 具体的な金額をあえて言ってしまうと、3.8億円くらい飛んだんですよね。4〜5月の間、宇野さんとは別の収録で一回会ったんですけど、僕は本当にすごく暗かったんです。会社が潰れるかもしれない状況なんで暗くなるんですけど(笑)。
    宇野 そうですよね(笑)。
    明石 そこから復活するためには、「動画」とか言っていても仕方ないんじゃないかって思ったんです。要は、動画ってほとんどの人にとって、いわゆる不要不急のもので、もっと本質的なものに立ち返らなければいけない。それで作ったスライドを今日は持ってきています。

     それで、いろいろやろうと思って、最初にNewsPicksの記事を書きました。もう、困ったときのNewsPicks、みたいな感じで記事寄稿したんですが、これがすごいバズって。今、左下に「バズるは古い」って書いてあって自己矛盾がすごいんですが(笑)。
    宇野 これいいっすねぇ(笑)。
    明石 けっこう読まれた記事で、この中でいろんな表面的なテクニックみたいなものを書いているんですけど、本質的なメッセージとしては、「VUCA」の時代です。

     もともとは軍事用語として使われている言葉なんですが、今って不確定な時代で、いろんなものが複雑になっているから未来予測が非常に困難になっていくよね、ということです。たとえば、70年代、動画コンテンツ、映像コンテンツの世界では、レスラーが空手チョップをやるだけで群衆がワーッと沸き立ち、ウルトラマンがスペシウム光線を出すだけでキッズは大盛り上がりだったんです。そこと比べると、今の『仮面ライダー』や戦隊ものって、半端なく複雑になっているじゃないですか。これはビジネスにおいてもそうで、どんどん世の中の複雑性が増していて、何が当たるのかもわからなくなっている。

     そういう時代に、コロナショックが起きた。それで、最初に述べたように僕の会社も、飲食業界、旅行業界やいろんなところが大変なことになったんです。

     このスライド、イーロンマスクのロケットが打ちあがった瞬間の写真を使ってるんですよ(笑)。
    宇野 それ説明されなきゃわからないですよ(笑)。
    明石 僕、この打ち上げの写真を見ながら「動画とかって必要なのかな」とか考えちゃったんです。もっと言うと、僕らはクリエイティブを作る会社なので、絶対に打ち合わせが必要だと思っていました。会議室に集まって、ホワイトボードにワーッと書いた中からいいアイデアをひねり出そうとやっていたのが、コロナショックでみんなが在宅勤務になって、できなくなってしまった。それで、Zoomでやってみたら、意外とオンライン会議の方がアイデアが出るんです。オンラインの方が会議室の上座と下座みたいな概念もないし、偉そうにふんぞり返ってるだけじゃダメだから自分で意見を言わなきゃ、と思うようになって、むしろうちのクリエイティブが息を吹き返してきた。本質的には、いい議論が必要なのであって、ホワイトボードを使ったりして長時間の打ち合わせをする必要はなかったんです。それで、そういったエッセンシャルなものに向かっていかなきゃいけないと思ったんですね。
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  • 裏オリンピック計画 | 宇野常寛

    2020-07-27 07:00  
    550pt

    今朝のメルマガは、『宇野常寛コレクション』をお届けします。今回取り上げるのは、幻となった「2020年の東京オリンピック」についての2014年時点の展望です。新型コロナウイルス危機がなければ、まさに開幕したてだったはずの東京五輪。目下、開催は2021年に延期されていますが、もはや1964年の高度成長期のような「国民が一つになる」夢が実現不能なことが誰の目にも明らかな状況のなか、この祭典をめぐって、私たちは何を考えるべきだったのか。開催決定当時の空気感とともに、改めて再確認してみてください。 ※本記事は「楽器と武器だけが人を殺すことができる」(メディアファクトリー 2014年)に収録された内容の再録です。
    2020年に開催予定だった東京オリンピック計画と、それを契機にした東京と日本の未来像について、気鋭の論客たちが徹底的に考える一大提言特集『PLANETS vol.9 オルタナティブ・オリンピック・プロジェクト』、好評発売中です! オリンピックという、本質的には時代遅れな国家的イベントへの様々な立場からの賛否を超え、安易な「1964年の夢よ、もう一度」という懐古的なイメージを一新。リアリスティックでありながら、スポーツに興味のない人々をもワクワクさせる、PLANETSならではのオリンピックと東京の姿を描き出します。詳細・ご購入はこちらから。
    宇野常寛コレクション vol.27裏オリンピック計画
     僕がオリンピックの誘致について最初に意識したのは、今年の春に代々木の第一体育館で行われた東京ガールズコレクションに出かけたときだ(僕は職業柄、こうしたガラでもないタイプのイベントにも出かけたりするのだ)。そのまるで90年代で時間が止まったような、「流行」も「時流」も東京のマスメディアと広告業界が創出し、発信できるのだという(僕らからすると申し訳ないけれど時代遅れに見える)自信にあふれた空間に、眩暈がしたのを覚えている。  そんな中で、特に僕がぎょっとした──ほとんど嫌悪感すら覚えた──のが、会場に設置された東京オリンピック誘致への国民の賛意を訴える「広告」パネルだった。そこにはいわゆる「テレビタレント」と「スポーツ文化人」たちが、「(五輪招致が成功したら)私、〇〇〇〇は〜します」という「公約」が、ただし限りなくジョークに近いものが掲げられていた。たとえばお笑い芸人の浜田雅功(ダウンタウン)は「開会式のどこかのシーンで見切れます」と、女子サッカー日本代表選手・澤穂希は「銀座のホコ天でサッカーの試合をします」と、掲げている。僕はこういう遊び心を悪いとは思わない。しかし、この広告を一目見た瞬間にどうしようもなく白けてしまった。はっきり言って、サムかった。タレントのホラン千秋は「ちょっとの間、ゴリン千秋に改名します」と「公約」を掲げていたが、基本的にテレビを流しっぱなしにするという習慣のない(気になる番組だけを録画で見る)僕は彼女が何者なのかも分からなかった。その状態で「ドヤ顔」でつまらないダジャレを目に観させられても、何というか反応に困るしかない。そして何より、僕がウンザリしたのはこの企画(「楽しい公約プロジェクト」というらしい)を考えて実行した人たちは、いまだにテレビや広告が「世間」をつくることができて、人気者とそうでない者との差をつくることができて、そして世論をコントロールすることができると思っていることだ。誰もがテレビを見て、テレビタレントを「人気者」として認知する「世間」に所属していると思っているのだ。  もしそんな世の中が持続しているのなら、広告屋もテレビ業界も昔のように羽振りがいいはずだし、コミックマーケットもニコニコ動画もボーカロイドも普及していない。テレビに出ない(出られない)ライブアイドルのブームも起こらない。もはや、誰もが家にいる間はお茶の間のテレビをつけっぱなしにして、そこで扱われていること=世間の出来事という「前提」を共有しているのは社会の半分でしかない。いまだに20世紀を生きる、旧い日本人だけだ。そんな自明のことが頭に入っていない(もしくは目を逸らしている)人が税金で報酬が支払われるプロジェクトの広報を担当して、大手を振って歩いているのだ。(結果的に招致は成功したからいいようなものの)五輪招致の、国内に対する広報戦略で重要なのは招致反対派を抑え込むことだ。招致には現地住民からの「支持率」がものいうという。このとき重要なのは「(僕のような)特に五輪自体に関心はない、したがって大反対ではないけれど、面倒なのでできれば来ないでほしい」と思っている層を明確な「反対」層に育てないことだ。しかし、こういう広報戦略は、オールドタイプのマスコミたちの勘違いは間違いなく僕たちのような層の反感を育てるだろう。実際、僕はその日から以前より強く、五輪には「来ないでほしい」と考えるようになった。
     少し調べてみると、2020年の五輪招致には1964年のそれを反復し、高度成長の頃の日本を取り戻したいという願望の物語が強く伴われていることに気づいた。当然と言えば、当然のことだろう。人間は過去の成功体験に引きずられる生き物だ。戦後社会のしくみが行き詰まっていることを認めることなく、景気さえ上向けば抜本的な改革は必要ないと考えたがるオールドタイプたちにとって、オリンピック景気はどうしても期待したくなる。もちろん、景気はいい方がいいに決まっているし、とりあえず景気が良くならないと何も手を付けられないのも分かっている。しかし、いい加減日本は『プロジェクトX』『ALWAYS 三丁目の夕日』的な「あの頃はよかった」教から脱出すべきではないか。  亡くしたものの数を数えながら、過去の成功体験に逃げ込んで現実から目を逸らす人々を加速させるのなら、五輪は来ないほうがいい。僕はずっとそう考えていた。しかし、五輪はやって来てしまった。  招致が決定したあの日──僕はこう考えていた。五輪が「来てしまう」のはもう覆せない。それはもはや個人の好悪の問題ではない。だとすると、2020年に五輪がやってくることを「利用」して、どうこの国の社会と文化を再生するのかを考えたほうがいい。2020年の東京オリンピックが、20世紀の重力に魂を引かれた古い日本人たちの「希望」になり得ているのは、1964年のそれが(半ば結果的に)そう機能したからだ。復興から高度成長への大逆転を象徴し、その後の経済発展がもたらす明るい未来をイメージさせるイベントになったからだ。現在に至る首都圏の都市インフラの整備を加速し、カラーテレビの普及をもたらして来るべき「テレビの時代」の下地を整えたからだ。だから彼らは、何の根拠もなく「またオリンピックさえ来てくれれば」と心のどこかで思っている。  だとすると、僕らがやるべきはこの2020年のオリンピックを旧い日本人の思い出を温めるものから、新しい日本人の希望になるものに変えていくこと、奪い取っていくことではないか。
    ■PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。
     
  • 今夜19:30〜生放送!ノンフィクションライター・石戸諭さんをゲストに、「百田尚樹現象」の真実に迫ります

    2020-07-21 07:30  
    本日19:30〜、ゲストにノンフィクションライター・石戸諭さんをお迎えした生放送があります!
    https://live.nicovideo.jp/watch/lv326691717
    新著『ルポ 百田尚樹現象』で、この国の右派ポピュリズムの現在に迫った石戸さん。
    「新しい歴史教科書をつくる会」から百田尚樹「現象」へ、引き継がれたものとはなにか。
    この国の「普通の人々」の本質に迫る議論を試みます。

    ▽ゲストプロフィール

    ゲスト:石戸諭(いしど・さとる)
    1984年東京都生。毎日新聞社に入社後、岡山支局、大阪社会部、デジタル報道センターを経て、2016年1月にBuzzFeed Japanに移籍。18年4月に独立し、フリーランスの記者、ノンフィクションライターとして活躍。
    著書『リスクと生きる、死者と生きる』(亜紀書房)など。

    ファシリテーター:たかまつなな(お笑いジャーナリスト)

    ▽おす
  • 「2020年以降」の経済と、個人の生存戦略 | 山口揚平

    2020-07-20 07:00  
    550pt

    今朝のメルマガは、イベント「遅いインターネット会議」の冒頭60分間の書き起こしをお届けします。山口揚平さんをゲストにお迎えした「『2020年以降』の経済と、個人の生存戦略」です。新型コロナウイルスによるパンデミックによって、2020年以降の経済はいかに変わっていくのか。そして、変わりゆく時代を生き抜くための生存戦略を考えます。(放送日:2020年6月16日)※本イベントのアーカイブ動画の前半30分はこちらから。後半30分はこちらから。
    【明日開催!】7月21日(火)19:30〜「現象としての保守とインターネット(遅いインターネット会議)」(ゲスト:石戸諭)新著『ルポ 百田尚樹現象』で、この国の右派ポピュリズムの現在に迫った石戸さん。「新しい歴史教科書をつくる会」から百田尚樹「現象」へ、引き継がれたものとはなにか。この国の「普通の人たち」の本質に迫る議論を試みます。生放送のご視聴はこちらから!
    遅いインターネット会議 2020.6.16「2020年以降」の経済と、個人の生存戦略 | 山口揚平
    長谷川 司会を務めます、モメンタムホースの長谷川リョ―です。
    宇野 こんばんは。宇野常寛です。
    長谷川 この企画は、本来であれば有楽町コワーキングスペース三菱地所SAAIからトークイベントとしてみなさんにお届けしたかったのですが、当面の間は新型コロナの感染防止のため動画配信へと変更しています。それではゲストの方を紹介します。今日のゲストはブルーマリンパートナーズ株式会社代表取締役の山口揚平さんです。よろしくお願いします。
    山口 よろしくお願いします。
    長谷川 さて、本日のテーマは「2020年以降の経済と個人の生存戦略」です。新型コロナウイルスによるパンデミックは世界経済と社会生活をどう変えているのか。この危機を個人はどう生き抜くことができるのか。大きな構造の問題から小さな生活の問題まで議論していきたいと思います。
    宇野 コロナ禍に関してはこのイベント『遅いインターネット会議』シリーズでも、うちのほかの媒体でもだいぶ扱っていて、コロナ危機そのものを、どうやって感染を防いでいくのかといった議論をしてきました。今日は視点を変えて、コロナ禍によってわれわれの生活がどう変わったのか、経済構造をベースに考えていけたらと思って、山口さんに来ていただきました。改めて、今日はよろしくお願いします。
    山口 よろしくお願いします。1年ぶりですね。
    宇野 山口さんはこの1年、どうだったんですか?
    山口 変わらないですね。服も実は同じなんです(笑)。
    宇野 安定の山口さんですね(笑)。
    山口 宇野さんも変わらず。
    宇野 ぼくは……なんとか生きてるって感じです(笑)。
    山口 私は、最近髪の毛が心配なんですよね。
    宇野 そうですね。でも受け入れて生きていこうかなと思ってます。
    山口 いやいや、宇野さんは髪の毛大丈夫じゃないですか。
    宇野 そんなことないですよ。ぼくは家系を辿っていくと危険なので、常に怯えながら生きているんですが、怯えに慣れることをちょっと覚えようかなと思ってます。むしろ、こんなに残ってくれてありがとう、と思えるような日々の感謝みたいなところにたどり着きたいなと思って生きてます(笑)。
    山口 難しい(笑)。
    宇野 それでは、リョ―君よろしく。
    世界の産業構造はどう変わるのか?
    長谷川 それでは、さっそく議論に入っていきたいと思います。今日は全部で10個の質問を準備してきました。それらの質問を通じて、withコロナ時代に貨幣や経済のあり方がどう変わっていくのか。そしてわたしたちが時代を生き抜いていく方法を考えたいと思います。
     まず1つ目の質問は、「世界の産業構造はどう変わるのか?」です。今年3月に公開された記事では、山口さんは新旧産業の交代は2025年であり、一番辛いのはガラガラと崩れていく2020年の後半から2023年までの3年間です、と仰っていましたが、現在この予測は変わっていますか?
    山口 これは、今から5年前に渋谷ヒカリエで行われた「Tokyo Work Design Week」に登壇した際に、書いたものなんですが、今でも変わっていません。産業構造とか社会構造は常にじわじわと変化しています。2015年ぐらいからピークアウトが始まっていて、当時から「これはやばいぞ、2020年から本格的にアウトだ」と予測していました。当時オリンピックがある予定だったので、オリンピックまではこの国もなんとかするけれど、オリンピック後はもうイベントがない。なので、2020〜2021年に停滞し、2022〜2023年で産業・社会構造が崩壊します。そして、2024〜2025年で新しいものが立ち上がってくると考えていて、今もその考えは変わってないですね。
     でも、ある意味でラッキーだったのはオリンピックじゃなくてウイルスがやってきたこと。日本全体の産業構造にとってはラッキーだったんです。みんな違和感を持ってたと思うんですが、日本にそのままオリンピックが来ていたら、そのまま観光立国になってた可能性があるんです。ところが、どこの国にとっても観光立国っていうのは最後の道。今日はあえて経済的視点から見るということで言うと、歴史の産物、つまり過去の人々が作ってきてくれた遺物、レガシーをチラ見せして売るような産業構造になっちゃう訳です。それが1年遅れ、場合によってはないかもしれない。日本は最終手段を取らず、頑張らなくちゃいけなくなったわけです。この点が一番ポイントかなというふうに思っています。
     産業構造の転換は、シンプルに考えられます。自動車および部品、電機産業といった、昔でいうところの加工貿易産業が、日本経済のだいたい10%ぐらい、日本の経済はざっというと500兆円ですから、そのうちの50兆円を加工貿易産業が占めているんです。つるっとした数字なんですけれども、全体を見るときに、こういう数字を覚えておくことはとても大事なことです。貨幣は二次元、三次元と使うわけですが、一次元、つまり単なる数字として見るんです。500兆円ってなんか大きいなっていう感じで、単なる数字で見る。若い人が見てると思うので、この貨幣に関しては後で話すんですけれども、いくつか覚えておくべきものがあるんです。
     この国のGDPは500兆円なんです。GDPというのは売り上げだと思ってください。そのうちの10%が自動車関連産業。つまりトヨタとその周辺が50兆円。それに付随することを考えると、なんだかんだで20%から30%を自動車の販売に頼ってるんです。あとは、内需やサービス業と、いろいろあるんですけど、観光は20兆円ぐらいなので、1/25くらいなんですね。だから、観光立国なんて言ってても誰も食えない。そういう話です。
     冷たい印象があるけど、全体観を持っているといいことがあります。
     もう一つの数字としては、約5000万人が働いている国だと思ってください。本当は6300万人ですけど、減っていくので5000万人だと思ってください。5000万人のうち500万人が自動車工場で働いていたり、保険を売ったり、中古車ディーラーで食べている。けっこうな規模なんですが、トヨタが減収80%、ホンダが赤字ということで、自動車産業はもう崩れちゃっているわけです。そうすると、これが日本の基幹産業だから、もう大変なことになるんです。こうなると、社会保障、医療だとか身の回りのことや生活保護が大切、と言う話になっていきます。
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  • 予防医学者の考えるコロナ危機から学ぶべきこと|石川善樹

    2020-07-13 07:00  
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    今朝のメルマガは、イベント「遅いインターネット会議」の冒頭60分間の書き起こしをお届けします。今朝は、予防医学研究者の石川善樹さんをゲストにお迎えした「予防医学者の考えるコロナ危機から学ぶべきこと」です。世界的に拡大した新型コロナウイルス危機。予防医学の観点から、どのような対策が必要だったのでしょうか。そして、このパンデミックから私たちは何を学び、どう活かしていけばよいのでしょうか?(放送日:2020年6月9日)※本イベントのアーカイブ動画の前半30分はこちらから。後半30分はこちらから。
    【明日開催!】 7月14日(火)19:30〜「三権分立のパワーバランスはいかに再設定されるべきか(遅いインターネット会議)」(ゲスト:倉持麟太郎・玉木雄一郎) 著名人を含む多くの人々を巻き込み、SNS上で展開された「#検察庁法案改正案に抗議します」。今国会での成立は断念することになりましたが(5/19時点)、今後も改正のための議論は続けると政府は発表をしています。 そこで、今回の改正案の問題点はどこにあるのか、また、私たちはこの国の三権分立のあり方についてどう向き合うべきなのか、ゲストのお二人とともに議論します。 生放送のご視聴はこちらから!
    遅いインターネット会議 2020.6.9予防医学者の考えるコロナ危機から学ぶべきこと|石川善樹
    得能 こんばんは。本日ファシリテーターを務めます、得能絵理子です。
    宇野 こんばんは。評論家の宇野常寛です。
    得能 「遅いインターネット会議」。この企画では政治からサブカルチャーまで、そしてビジネスからアートまで、様々な分野のプロフェッショナルをお招きしてお届けしております。本日は有楽町にある三菱地所さんのコワーキングスペース、SAAIから放送しています。本来ですとトークイベントとしてこの場を皆さんと共有したかったんですけれども、当面の間は新型コロナ感染防止のため動画配信に形式を変更しております。
    宇野 いやー、この圧倒的なソーシャルディスタンス感、やばいっすね(笑)。
    得能 そうですね(笑)。やっぱりこのくらい離れるもんなんですね。
    石川 やりづらいっすね(笑)。
    得能 そうですね。このソーシャルディスタンスで議論盛り上がるのか、ちょっと心配ですね。
    宇野 でも恐るべきことに何回もやってると、慣れてくるんですよ。こんなことに慣れている自分がなんか疑問な感じすらありますけどね。まぁ、慣れてきます。
    得能 人間の適応力はすごいですね(笑)。では、本日のゲストをご紹介したいと思います。本日のゲストは予防医学研究者の石川善樹さんです。よろしくお願いします。
    石川 はい。よろしくお願いします。
    得能 本日のテーマは「予防医学者の考えるコロナ危機から学ぶべきこと」です。石川さんは予防医学研究者でありながら、組織論や幸福論であったり、広く社会に対して提言されていらっしゃると思います。その石川さんと共に現在のコロナ危機から人類全般が、人類社会が学んでいくことについて議論していきたいなと思っております。
    石川 でかいテーマでいいですね(笑)。
    宇野 やっぱり石川さんをお呼びするならでかいテーマじゃないとダメだと思ったんですよ。「具体的にどうウイルスを抑え込むのか」とか「具体的にどうすれば自粛解除できるか」とかそういった話も聞きたいけれど、それだけで終わるのはもったいないと思っていて。だから「コロナについて考える」ではなくて「コロナから考えること」について話し合うのがいいかなと思って今日はお呼びしました! よろしくお願いします!
    石川 いいっすね! よろしくお願いします。
    得能 はい。よろしくお願いします。それでは早速、議論に入っていきたいと思います。今日は大きく二部構成でお届けできればと思っております。前半は、予防医学研究者としての石川さんが今回のコロナ禍をどう分析されているのかをお伺いしたいと思っています。後半は、前半の議論を踏まえたうえで、これから訪れるウィズ・コロナの時代について考えていきたいと思います。「コロナから」というテーマのところですね。
    宇野 最初は、石川さんに今回のコロナ禍をどう分析しているか、お話を聞いたうえで、後半でコロナから考えたことについて深堀りしていこうかと思っています。
    予防医学史からみた新型コロナウイルス
    得能 最初の議題は「予防医学史からみた新型コロナウイルス」です。人類社会の歴史自体が、多くの疫病と闘ってきた歴史でもあると思うのですが、予防医学史において今回の新型コロナウイルスはどういう位置づけになるのか。この辺り、石川さんいかがでしょうか。
    石川 僕も、よく考えたらまだ言葉としてまとめたことはないんですけど、こういう感染症のパンデミックで印象に残っているのは、HIVエイズの時なんですよね。他にも鳥インフルとかエボラ出血熱とかいろいろありましたが、実は、HIVエイズの時に人類は重要な学びをしていて。「HIVエイズをなんとかするぞ」って、人も物も金も、多くのリソースを使い、結果としてHIVエイズの対策は進みました。でもHIVエイズ以外の対策が非常に遅れてしまったんですね。例えば、世界で今、一番人が亡くなっている原因って心臓病なんですけど、物流にしろ医療スタッフにしろ、HIVエイズ対策に行き過ぎてしまって、心臓病対策がアフリカで遅れてしまった。
     今回もそうですね。新型コロナウイルスのパンデミックがある一方で、隠れたパンデミックって言われるものがあって。生活習慣病の方々が医療機関受診を差し控えるってことが起きているんです。これは日本だけじゃなくて世界中で起こっていて、その結果、糖尿病とか高血圧が悪化している。どういうことかというと、パンデミックが起きた時ってその疾病対策にみんなすごいエネルギーを注ぐんですけど、ついつい、システム全体としてものごとを見る視点を失いがちになるってことなんですよね。
     HIVエイズの時に「疾病中心アプローチはもうやめよう」ってなったんです。もっとヘルスシステム全体でものごとを考えないと、局所最適になって、全体最適になっていかない。今回のコロナウイルスもそうだと思うんです。目の前の問題が起きた時は、そこに向けてみんな全力でリソースを集中させるんですけれども、そうするとシステム全体のほうが機能しなくなってしまう。こういった、システム全体で見たときにどうなってるのかという視点は、まだあまり議論されていないし、これから議論が起こっていくのかなと思いますけどね。
     予防医学史の観点から見ると、もともと予防医学は、病気と貧困と不衛生っていう、この悪のサイクルをどう断ち切るのかってところから始まってます。病気の人は貧困になるし、貧困の人は不衛生な状態になって病気になっていく、みたいな。
    得能 確かに循環してますね。
    石川 これが最初に目撃されたのが19世紀のロンドンなんです。人の上に人が住み、人の下に人が住むっていう。それまではこういう状態はなかったわけなんですけれども、「都市」という現象ですよね。そこで不衛生という問題が発生して、病気になり、また貧困に陥っていく。これを、どうシステムとして解決していくかというところから予防医学とか公衆衛生っていうのが始まっていきました。
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  • 1年延期になったオリンピックについて、もう一度だけ考え直す | 乙武洋匡

    2020-07-06 07:00  
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    今月より、イベント「遅いインターネット会議」の冒頭60分間の書き起こしをお届けします。今朝は、乙武洋匡さんをゲストにお迎えした「1年延期になったオリンピックについて、もう一度だけ考え直す」です。新型コロナウイルスの感染拡大により、1年延期となった東京五輪。withコロナ時代だからこそできる、開催の仕方とは。そして、今こそ議論されるべき、オリパラの本質とは何なのでしょうか。(放送日:2020年6月2日)※本イベントのアーカイブ動画の前半30分はこちらから。後半30分はこちらから。
    【明日開催!】7月7日(火)19:30〜「YouTubeとNetflixは世界をどう変えるのか(遅いインターネット会議)」(ゲスト:明石ガクト)YouTubeやNetflixなどの映像配信プラットフォームの台頭により、エンターテイメントの世界は大きな変容を迎えています。今後求められる映像コンテンツとはなにか。私たちはそれをどのように受容し、楽しむことができるのか。それらのコンテンツは、文化の地図をどう牽引していくのか。 映像制作のプロフェッショナルである明石ガクトさんと、お話しします。生放送のご視聴はこちらから!
    遅いインターネット会議 2020.6.2 1年延期になったオリンピックについて、もう一度だけ考え直す | 乙武洋匡
    たかまつ ごきげんよう。本日ファシリテーターを務めます、たかまつななです。
    宇野 評論家の宇野常寛です。
    たかまつ 「遅いインターネット会議」、この企画では政治からサブカルチャーまで、そしてビジネスからアートまで、様々な分野の講師をお招きしてお届けします。本日は有楽町にある三菱地所さんのコワーキングスペースSAAIから放送しています。本来ですとトークイベントとしてみなさんとこの場を共有したかったのですが、当面の間は新型コロナウイルスの感染防止の為、動画配信と形式を変更しております。今日もよろしくお願いします。
    宇野 もう2ヶ月ぶりのSAAIですよ。
    たかまつ めちゃくちゃ綺麗な会場ですね。
    宇野 このイベント「遅いインターネット会議」は3月から始まったのですが、まだ一度もお客さんを入れていません。本来ならここに100人くらいお客さんを入れてやろうかなと思っていたんですけど。ここ2ヶ月に至ってはリモートだったので、僕たちですらこの施設には入らずに実施していたんです。徐々に回復していって、夏ぐらいにはここにお客さんを入れてやれるかなという希望を持って再開してますので、皆さんよろしくお願いします。
    たかまつ ここで開催できるようになるのが楽しみですね。
    宇野 コロナウイルスが画期的な新薬とか宇宙からのメッセージで瞬間的に撲滅されたら来週からお客さんがバーッと来れますよ。だから皆さん、人類の勝利を楽しみにお待ち下さい。
    たかまつ それでは本日のゲストの方をご紹介いたします。本日のゲストは作家の乙武洋匡さんです。
    乙武 はい、よろしくお願いします。
    たかまつ よろしくお願いします。
    宇野 よろしくお願いします。
    乙武 これ気づいたんだけど、(上の照明を見て)これって炊飯器の中身なんだよね。
    宇野 そう、これ東京R不動産というサイトを運営しているOpen Aの馬場正尊さんがめっちゃいろんなところを凝ってやっていて。こういう細かいところも全部、リサイクル品がすごく多いんですよ。
    たかまつ 電球のカバーが炊飯器になっているという。
    宇野 このビル自体も有楽町の古いビルなんだけど、そこにある有り物を使っておしゃれにリノベしていくってコンセプトで作られてるんです。
    乙武 へぇ〜、素敵。
    たかまつ ちょっと興奮しますよね。
    宇野 本当だったらここをお客さんで埋め尽くす予定だったんです。
    たかまつ これはおしゃれですよね。勤務後にここに来て勉強するとか。
    宇野 ただ、コロナで本来やれるはずのものがやれなかったということは僕らも一緒なんだけど、今日は僕らの100倍くらいダメージを負っているものの話をしましょう、ということで。
    たかまつ さて、本日のテーマは「1年延期になったオリンピックについて、もう一度だけ考え直す」です。新型コロナウイルスによるパンデミックで2021年夏への延期が決まった東京オリンピック・パラリンピック。果たしてこの決定は正解なのか? 延期決定のプロセスで見えてきた問題とは何か? 21世紀のオリンピック・パラリンピックはどうあるべきなのか? 改めて議論していきたいと思います。ということで宇野さん、本日のこのテーマについてはいかがでしょうか?
    宇野 今日のゲストの乙武さんにも参加していただいたんですが、5年前に僕らが作っている雑誌『PLANETS vol.9』では「オルタナティブ・オリンピック・プロジェクト」といって、単にオリンピックに反対と言うのではなく、建設的な対案をぶつけることで現状のプランニングをポジティブに批判しようとしたんです。そこで、開会式のプランや、パラリンピックの新たな位置づけ、東京という街の開発計画など「僕らだったらオリンピックをこうやりたい」という夢の企画書を作りました。あれから5年経って、「さぁオリンピックはどんなものか」と待ち構えていたらまさかの延期だったんです。僕は、このタイミングがオリンピックを日本人がどう迎えていくのかを考える最後のチャンスだと思うんです。なので、もう一度乙武さんをお呼びして、じっくりオリンピックについて考えてみたいと思い、今日の会を企画しました。
    開催延期までの決定プロセスを振り返る
    たかまつ それでは早速議論に入っていきたいと思います。まず最初の議題はこちらです。「開催延期までの決定プロセスを振り返る」。今年3月下旬、新型コロナウイルスの世界的な感染拡大を受けて、東京オリパラの開催延期が決定しました。乙武さんはこの延期決定をどのようにご覧になっているでしょうか?
    乙武 3月末の3連休(編集部註:3月20日〜22日。オリンピック中止の発表は24日)でコロナウイルスの感染が一気に拡大したんですよね。ただ、このときには、オリンピックがどうなるのかがまだ決まっていなかった。
     本来ならあの3連休の前に国も緊急事態宣言を出すべきだったし、東京都としても、ちゃんと危機を叫ぶようなアクションを取るべきだったけれど、やっぱりオリンピックのことがあったから後手に回ったんじゃないか、という声もあります。単純に政治判断のミスで後手に回ってしまったのか、きちんと考えた結果として遅らせようという判断だったのか、こればかりは真相がわからないのでちょっと批評のしようがないなというのが正直なところです。
     これは結構いろんな人から批判をいただきそうな意見ですが、たとえ、後者の政治的判断によって感染拡大防止の為の一手が若干遅れたのだとしても、一旦、オリンピック・パラリンピックをどうするかをちゃんと決めようという判断をしたことは、僕としては結果的によかったんじゃないかなと思ってるんです。なぜなら政治って、結局は結果なので。
     結果として中止ではなく、なんとか1年延期ということでまとめられたし、東京でもそこまでの医療崩壊を起こさずに、何とか感染者数は減少を辿れた。そういう意味では、僕としては、もし政治判断によるものだったとしたら評価しても良いんじゃないかなと思っているんです。
     ただ1点、あまり納得がいっていないのが、IOCとの交渉の窓口です。今回のオリパラの主催都市は東京で、開催主体は組織委員会なわけですよね。でも、開催可否や延期するかどうかの交渉の過程で、IOCとの交渉窓口が安倍首相になっていたんです。それで「あれ? 国ってなんだっけ?」と思って。これまでのオリンピックって、東京都とオリパラの組織委員会が主体で、国はあくまでサポート役という立ち位置だったはずなのに、なぜこの決断には急に首相が入ってきたんだろう、というのは僕の中ではあまり整理しきれていない部分ですかね。
     IOCが安倍首相とこんな話をした、とかコメントを出すことが多くなってきて、「あれ? 今の日本の窓口って安倍さんになってるの?」と。それは批判という意味ではなく、ただ不思議でしたね。
    たかまつ わかりました、ありがとうございます。宇野さんはどのようにお考えですか?
    宇野 今回のコロナ禍は基本的には国家の反撃フェーズだったわけです。この10年は例えば、GAFAのような巨大なプラットフォームのような国家以外のプレーヤーの力が相対的には強くなってきていたところだった。ところが今回のコロナ禍によって、「やはり政治じゃないと決められないことってあるじゃん」という当たり前のことにみんなが気づいたんだと思うんです。なので、このタイミングで世界中の国家権力が、もう1回自分のターンが来たと思ったはず。だから、今回のオリンピックの官邸の対応もその一環だと僕は思っています。
     その上で今回のオリパラ延期について僕が何を思っているかというと、オリパラのことが問題になること自体が問題で、議論の順番を間違えてしまっているということです。単にパンデミックの抑制に対して最適な手を打てばよかったし、その上でどうすれば一番ダメージが少なくオリンピックを開催できるのか、感染拡大を防ぐためにはやめた方が良いんじゃないか、とか、何が最適かという議論をすればよかったと思うわけです。にもかかわらず、実際にはオリパラとコロナ対策、どちらを優先すれば支持率が維持できるかが天秤にかけられていた。
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  • テレビリアリティのゆくえ「笑っていいとも」の終わり|宇野常寛

    2020-06-29 07:00  
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    今朝のメルマガは、『宇野常寛コレクション』をお届けします。今回取り上げるのは2014年3月に放送終了した国民的お昼のバラエティ番組『笑っていいとも』です。『いいとも』に象徴される「楽屋を半分見せる」ことで「東京の業界人」の友達の輪に入れたかのように錯覚させる「テレビ的な」リアリティは、人々の情報環境の変化によって敗北しつつあります。奇しくも『いいとも』終了と同時期、放送作家・福田雄一が手掛けた『指原の乱』から垣間見える、テレビ的想像力に残された僅かな可能性とは? ※本記事は「楽器と武器だけが人を殺すことができる」(メディアファクトリー 2014年)に収録された内容の再録です。
    宇野常寛コレクション vol.26テレビリアリティのゆくえ「笑っていいとも」の終わり
     先日、天気が良かったので気分転換に散歩に出かけた。自宅のある高田馬場からまっすぐ南下して、新宿東口にさしかかったところで平日の昼間とは思えない人ごみに遭遇した。いったい何事かと僕は不審に思ったのだが、「32年間ありがとう」という横断幕を目にしてすべてに合点がいった。その日、31日は国民的お昼のバラエティ番組『笑っていいとも!』の最終回の日であり、そのとき東口のアルタ前はこれからはじまる最後の生放送の現場にかけつけたファンでごった返していたのだ。僕は、その瞬間まで『いいとも』が最終回を迎えることを完全に忘れていたのだ。  そして、僕は、Twitterにアップロードする写真を撮り終えると満足して、その場をあっさりと離れて行った。僕は東口のヨドバシカメラで最近ハマっているドイツの動物フィギュア(シュライヒ)を買うつもりで、ゆっくり選んで打ち合わせの時間までに高田馬場に戻るにはここで無駄な時間を過ごすわけにはいかなかった。
     僕は32年間この『笑っていいとも!』という番組を一度も面白いと感じたことがなかった。他に好きなものがたくさんあったせいか、子どもの頃から相対的に芸能界に関心が薄く、『いいとも』のあの、お互いのキャラクターをいじりあう空間を少しも楽しむことができなかった。僕にとってそれはまるで隣のクラスの内輪ネタを延々と見せられているようで、酷く退屈な代物だった。どうしても「この人たちはどうして自分たちのローカルな人間関係が社会そのものであるかのように振る舞えるのだろうか」と疑問に思ってしまう。  もちろん、今でこそ僕も僕なりにこの番組の持つユニークさとその洗練を理解してはいるつもりだ。教科書的な解説を加えれば、国内において消費社会の進行と同時に、「大きな物語」の失効が顕在化していった80年代はテレビや雑誌といった(当時の文化空間を牽引した)メディアが、ベタに物語を語ることではなくメタ的なアプローチによってメジャーシーンを形成していった時代だった。具体的には『おしん』的な高度成長期のイデオロギーの通用しない都市部のアーリーアダプターたちに対し、メディアの担い手たちは物語のレベルでは「相対主義という名の絶対主義」をもって(80年代的相対主義、面白主義を東京のギョーカイの掲げる絶対的な価値として)振りかざし、そして形式的にはそんな「東京のギョーカイ」が「楽屋を半分見せる」ことで送り手と受け手、ブラウン管の中と外の境界線を曖昧にすることでリアリティを担保していった。糸井重里が本来添え物に過ぎない雑誌の投稿欄を主戦場に変え、秋元康が番組内でそこに出演するアイドルのオーディションの経過を公開していった。そうすることで、本来東京のギョーカイに縁のない僕らも、そことつながっているように感じられたし、そして東京のギョーカイへの憧れも肥大していったのだ。それがこの時期に隆盛した「テレビ的なもの」の本質だ。  こうした手法は「客いじり」と「楽屋落ち」を基本にその笑いを組み立てていった萩本欽一と、彼の手がけた70年代のバラエティに起源を持つという(大見崇晴『「テレビリアリティ」の時代』)。そして70年代に萩本が培った手法はその批判的継承者であるビッグ3によって80年代のテレビシーンを、ひいては文化空間の性格を決定づけるものに成長した。そしてその最大の成果が『いいとも』だったのは間違いないだろう。台本らしい台本が存在せず、ただ、無目的で漫然としたお喋りと茶番じみた余興が、毎日のお昼休みに披露される。それはほとんど「楽屋」そのものであり、そしてその「楽屋」を共有することでその観客と視聴者もまたタモリの「友達の輪」に入っているような錯覚を覚えることができた。相対主義という名の絶対主義が、ギョーカイの内輪受けのおしゃべりという非物語が疑似的な大きな物語として機能することで、この国のテレビ文化は隆盛してきたと言っていい。    だとすると、『いいとも』が成立していたのは、テレビがその圧倒的な訴求力と、それを背景に80年代に形成し90年代を席巻したギョーカイ幻想があってのことだ、ということになる。どれだけ「楽屋を半分見せる」いや、「楽屋そのものを見せる」手法が卓越していても、その楽屋に憧れない人間=テレビ芸能人を人気者だと思わない人間には一文の価値もないのだ。そして、消費社会の進行と情報環境の変化は僕のように感じる人間を飛躍的に増やしていったのだと思う。こうして『いいとも』は過去のものになっていったのだろう。
     実際、インターネットの若者層の間では「テレビっぽい」という言葉が「サムい」と同義で使われはじめて久しい。メディアの多様化はテレビ=世間という等式を崩しつつあり、そこに胡坐をかいた番組作りが東京の業界人の内輪受け以上には映らなくなり始めているのだ。  たぶん、僕が最終回以前に『いいとも』に触れたのは後にも先にも一回だけだったと思う。それは昨年のAKB総選挙で1位を獲得した指原莉乃が、その勝利スピーチのクライマックスを『いいとも』ネタで締めたことに対して、僕は苦言を呈したのだ。  そう、僕はAKB48がテレビに近づいていくことを、あまりいいことだと思っていない。なぜならば、初期のAKB48はテレビとは異なる方法で人を惹き付けることに成功したところにその本質があると考えているからだ。僕が『いいとも』に出てくる芸能人たちには何の思い入れも持つことができない一方で、AKB48を応援することはできるのもそのためだ。楽屋を半分見せられることくらいでは、そもそもかつてほど「東京」の「ギョーカイ」が輝いていない現代、もはや僕らは彼らに憧れることはできない。だから『いいとも』は終わった。しかし、たとえ「クラスで四~五番目に可愛い女子」の集まりでも(いや、だからこそ)総選挙で票を入れ、握手会の列にならんで直接話すことで自分たちもこのゲームに参加しているという実感が得られる。タモリの友達の輪には入れない(入りたいとも思えない)僕も、AKB48には確実に参加できる。だから同じローカルサークルの内輪話でも、「テレフォンショッキング」には興味を持てないが彼女たちのおしゃべりには興味を持つことができるのだ。  
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  • 楽器と武器だけが人を殺すことができる『海の底のピアノ』| 宇野常寛

    2020-06-22 07:00  
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    今朝のメルマガは、『宇野常寛コレクション』をお届けします。今回取り上げるのは、本メルマガで『男とxxx』を連載中の井上敏樹先生による小説『海の底のピアノ』です。『仮面ライダーアギト』『仮面ライダー555』から、小説『海の底のピアノ』へ引き継がれた問題意識とは?そして、『衝撃!ゴウライガン』で示された、世界を変えるための想像力とは? ※本記事は「楽器と武器だけが人を殺すことができる」(メディアファクトリー 2014年)に収録された内容の再録です。
    宇野常寛コレクション vol.25楽器と武器だけが人を殺すことができる『海の底のピアノ』
     井上敏樹は1959年、脚本家・伊上勝の長男として埼玉県に生まれた。伊上勝は『隠密剣士』『仮面の忍者 赤影』など日本のテレビ草創期から児童向けの時代劇や冒険活劇などを手掛けるヒットメーカーとして知られた存在だった。(ライターの岩佐陽一は「主人公の必殺技にリスクがあり、敵がそこを攻めてくる」「敵が裏切りを偽装して主人公に接近するが、それをきっかけに改心し任務と心情の狭間で苦悩する」「リタイアした歴戦の勇士が悪の組織に人質を取られ、心ならずも主人公に戦いを挑む」といったヒーロー番組に頻出するプロットを伊上の「発明」だと指摘している。)そんな伊上の最大の代表作は1971年に放映開始された『仮面ライダー』シリーズだった。仮面ライダーは社会現象と言えるブーム(第二次怪獣ブーム/変身ブーム)を起こし、70年代を通して国民的ヒーロー番組に成長していったが、作家としての伊上は70年代の末には壊死しつつあったという。  晩年の伊上は酒に溺れるようになり、そして、当時大学生だった井上敏樹は「借金しか残さなかった」父親を傍らに家計を助けるという目的もあってアニメの脚本を手掛け始めた。やがて井上敏樹の名前は『鳥人戦隊ジェットマン』(1991~1992年)、『超光戦士シャンゼリオン』(1996年)など、東映特撮ヒーロー番組を通してファンの間に知られるようになる。その作風は1話完結パターンの発明と再利用に長けた父親のそれとは真逆のものだった。井上敏樹が得意とするのは特撮ヒーロー番組の長い放映期間を活用した複雑な群像劇の展開と、パターン破りによる問題提起的なストーリーだった。
     そして2001年、井上敏樹は父・伊上勝の手がけた仮面ライダーについにメインライターとして関わることになる。井上は『仮面ライダーアギト』(2001~2002年)にて全51話中50話を手掛けた。僕の知る限り、「アギト」は90年代を席巻したアメリカのサイコサスペンスドラマ(『ツイン・ピークス』がその代表例だろう)のノウハウの輸入とローカライズにもっとも成功した作品である。三人の仮面ライダー(主人公)を軸に膨大な登場人物が絡み合いながら、ある客船の遭難事件に端を発する巨大な謎を解き明かしていく。しかも、三人の主人公の三つの物語は互いに絡み合いながらも、物語の後半まで決して合流しない。そしてクライマックスでの合流の後、エピローグでは再び三つに分かれていく。僕の知る限り、こんなアクロバティックなドラマを一年間(全50話)展開し、破綻なく描ききった作家はいない。  しかし、それ以上に僕が衝撃を受けたのは、井上が本作で示した人間観と世界観だ。同作には複数の仮面ライダー(劇中では「アギト」と呼ばれる)が登場するが、この「アギト」とはいわゆる超能力者のことだ。そしてこの超能力者(アギト)たちが、自分の居場所を発見していく過程が物語の軸になる。  ここで僕たちは初代「仮面ライダー」が(特に石森章太郎の原作版で)「異形」のヒーローとして描かれていたことを思い出すべきだろう。原作漫画において仮面ライダー1号=本郷猛は感情が高ぶるとその顔面に改造手術で受けた傷跡が浮かび上がる。その醜い傷を隠すために本郷は仮面を被り、自らを拉致しサイボーグにしたショッカーと戦うのだ。  そして同作に登場する超能力者たちもまた、ことごとくその過去の体験から精神的外傷(トラウマ)をもつ。この世界ではトラウマと超能力が、比喩的に深く結びついているのだ。その結果彼らはその傷を埋め合わせるために力(超能力)を行使し、そしてその結果ことごとく命を落としていく。そしてその一方で、この物語には「いま、ここ」にある快楽に全力でぶつかっていく人々が登場する。彼らは生活自体を楽しみ、ことごとくよく食べる。そして彼らは劇中においてまったく命を落とすことなく、ほぼ全員が最後まで生き残っていく。そして彼らは全員アギト「ではない」普通の、超能力を「もたない」人間として設定されているのだ。  特に「食べる」というモチーフに井上の意図は明確に表れている。『仮面ライダーアギト』はヒーロー番組とは思えないくらい、食事のシーンが多い。登場人物たちは、何かにつけて家庭の食卓を囲み、外出先でサンドウィッチをむさぼり、屋台のラーメンを啜り、そしてストレスが溜まると焼肉屋で飲み明かしそれを発散する。そしてこれらの「食べる」という行為はどれも生き生きと描かれ、視聴者の食欲を誘う。(特に焼肉については、当時狂牛病問題で牛肉の消費が下がっていたため同番組は関連機関から感謝状を贈られているほどだ。)  そして、ほとんど毎回のように描かれる食事のシーンが、前者(超能力者=アギト)にはほとんどなく、後者(非超能力者)に集中しているのだ。  そんな哀しき超能力者=アギトの中で唯一例外的な存在として描かれるのが主人公の津上翔一(仮面ライダーアギト)だ。翔一は、この物語の中で唯一トラウマを持たない。と、いうかそもそも記憶喪失で過去のことをほぼ覚えていない。しかし、そのことを本人はあまり気に留めておらず、居候先での「主夫」生活を楽しんでいる。趣味は料理を作ることで、毎日のようにユニークな創作料理を手がけ、他人に振る舞おうとする。当然、自身の食事シーンも多い。  そう、翔一は劇中に登場する唯一の「もの食う」超能力者だ。そもそも記憶のない翔一は、トラウマに捉われない。したがって自身の超能力(仮面ライダーへの変身能力)にもこだわりはなく、警察の尋問にあっさりと「実は僕、アギトなんですよ」と答えてしまう。物語の終盤、記憶を取り戻してからもその佇まいは変わらない。「津上翔一」とは記憶喪失中に仮に与えられた名前だが、彼は物語後半に判明した本名にも関心がなく周囲の人間には好きなように呼ばせてしまう。翔一は、世界に与えられたもの(記憶、名前、超能力)に関心を示さない、ある種超越した存在だ。彼を支えるのは「食べる」ことが象徴する、「いま、ここ」の世界から快楽を、生きる力を汲みだす思想だ。そして物語では、ほとんどの仲間たちが死にゆく中、翔一に感化された超能力者たちだけが生き延びていく。  かつて伊上勝は石森章太郎の描く悲劇的なドラマツルギーを、痛快娯楽活劇の「パターン」に落とし込むことで事実上無効化していった。しかしその息子の井上敏樹は、石森的なものを継承しながらも、その世界観を完全に反転させたのだ。
     そして『仮面ライダーアギト』と双子の関係にあるのが、井上が全50話の脚本をすべて手掛けた『仮面ライダー555(ファイズ)』(2003~2004年)だろう。同作には、「アギト」同様、超能力(モンスターへの変身能力)をもつ人類の亜種が登場する。オルフェノクと呼ばれるその亜種は、人類を特殊な方法で殺害する。そして殺害された人類は一定の確率でオルフェノクとして蘇る。こうしてオルフェノクたちは密かに勢力を拡大していく。主人公の青年・乾巧は偶然手に入れたベルト(仮面ライダーへの変身能力を付与する)を用いて、人類を襲うオルフェノクたちと戦うことになる。
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  • 「D」は〇〇〇〇の「D」『頭文字D』| 宇野常寛

    2020-06-15 07:00  
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    今朝のメルマガは、『宇野常寛コレクション』をお届けします。今回は、しげの秀一による「走り屋」たちの世界を描いた漫画『頭文字D』を取り上げます。かつて「車」が背負っていたアメリカ的な「大人の男」の成熟像への憧れを、本作の物語はいかに覆していったのか。ゼロ年代への助走としての「走り屋」コミュニティが持つ意味と、タイトルに込められた「D」の謎に迫ります。 ※本記事は「楽器と武器だけが人を殺すことができる」(メディアファクトリー 2014年)に収録された内容の再録です。
    宇野常寛コレクション vol.24「D」は〇〇〇〇の「D」『頭文字D』
     正月休みに組み立てるレゴとプラモデルを買いに、池袋に出かけた。たぶん、大晦日のことだったと思う。僕は混みあうビックカメラの6階でレゴ・アーキテクチャーのマリーナ・ベイ・サンズと、1/144スケールのガンダムF91を手にして浮かれていた。そして6人待ちのレジに並んで、若干の苛立ちを覚えていたとき、あの車と僕は再会したのだ。 AE86 スプリンタートレノ、通称「ハチロク」。白黒のツートンカラーに塗り分けられたこのタイプ(パンダトレノ)は90年代に全国の「走り屋」たちに愛された名車にして、そんな走り屋たちの世界を題材に展開し、彼らのバイブルとなった漫画『頭文字D』の主人公・藤原拓海の愛車だ。  僕が目にしたのはレジ前のトミカコーナーに積まれた「ハチロク」藤原拓海仕様のミニカーだった。そう、国内を代表する児童向けミニカーシリーズ「トミカ」には、漫画・アニメなどに登場する車を「ドリームトミカ」として発売しているのだが、この年の秋に『頭文字D』のハチロクがラインナップに追加されたのだ。  思わず手に取りながら、そういえばこの漫画の連載も終わったんだな、と思い出していた。この年の夏に18年続いた『頭文字D』の物語はようやく完結を迎えていたのだ。この漫画の連載がヤングマガジンではじまったとき、僕は高校2年生だった。自動車の運転に憧れていても、法律上免許を取ることが許されていない年齢だった。しかし連載が始まった1995年の夏、高校3年生という設定で既に18歳を迎えていた藤原拓海は、免許をとってはじめての夏を迎えていた。作中で物語の舞台は「90年代」としか明かされていないが、仮に連載開始時の1995年だと考えれば拓海は僕と同世代、ひとつ年上のお兄さんにあたる。そんな拓海は自動車の購入計画に胸を弾ませる級友を「何がそんなに楽しいのか」と冷ややかに眺めていた。その拓海の冷めた感想は、実は僕がこの漫画に出会ったときの、そして僕が自動車というものに対して抱いていた感想にそっくりだった。そう、当時の僕は自動車にも、その運転にもまるで興味がない17歳だった。
     一昨年(2012年)の秋、トヨタ自動車社長の豊田章男氏が「車を持てば、女性にもてると思う」と発言しインターネットの若者層から強い反発を浴びた。豊田社長のこの発言は「若者の車離れ」を食い止めることをテーマに設定したイベントでの発言だったという。しかし、豊田社長は分かっていない。「車を持てば、女性にもてる」という発想が過去のものになったからこそ、若者の「車離れ」は起ったのだ。 戦後という長くて短い時間、自動車はアメリカ的な豊かな社会の象徴であり、それを実力で獲得できる「大人の男」の象徴だった。少年は安価で小回りの利くオートバイに憧れ、やがて自動車に乗り換えて大人の男になっていく。助手席に恋人を乗せるところからスタートして、やがて家族のためにファミリーカーに乗り換え、子育てを終えたあとは趣味の高級車に乗り換える……。そんな時代がこの国にも「あった」のだ。  そして拓海や僕の世代は、そんな物語の重力が失われた最初の世代でもあったはずだ。僕からしてみると、まず、男が女を助手席に乗せて自分の優位を示す、というマッチョな発想についていけない。そして、高校に上がるころにはすっかりバブルも崩壊していた僕らが、いまさら自動車にアメリカ的な豊かな消費生活を見ることなんか、あるわけがない。僕らが思春期を迎えたのは、一度アメリカを追い越したはいいものの、調子に乗ってスピードを出しすぎた結果コーナーを曲りきれず、ガードレールを突き破って谷底に転落した後の時代だ。古本屋で見つけた片岡義男の小説をめくったときは、昔の日本はこうだったのかと文化史の教科書のつもりで読んだ。それがヒルクライムではなく、ダウンヒルの時代に思春期を送った僕ら世代のリアリティだ。僕らにとって自動車を運転することで重要なのは、速く、力強く坂を上がることではなく、ガードレールを突き破らないように器用に坂を下ることだった。  だから僕も、そして藤原拓海もまた、そんな器用にやり遂げることだけを要求される世界=自動車の運転にまったく面白みを感じていなかったのだ。    その結果、藤原拓海はまったく自覚のないままに卓越したドライビングテクニックを身に付けていた。どうやらかつてプロのレーサーだったらしい父親によって、家業のとうふ屋の納品を代行するという名目で拓海は14歳の頃から自動車の運転を身に付けていた。毎朝、夜明け前に峠を全力疾走していた彼は自分でも気が付かない間にダウンヒルのスペシャリストになっていたのだ。しかし拓海にとってそれは単に効率よく家業の手伝いをこなすための技術であり、無味乾燥な作業だった。  そしてこの『頭文字D』はそんな拓海少年が車の快楽に目覚め、成長していく物語として幕を開ける。少なくとも、物語の開始時はそう構想されていたはずだ。かつて『バリバリ伝説』でオートバイを題材に少年の成長物語を描いたしげの秀一は、おそらくオートバイや自動車がかつて背負っていた物語を失いつつあることを察知して、その回復をこの作品を通して描こうとしていたのではないかと僕は思う。  だからこそ、拓海は父親から受け継いだハチロク(当時すでにレトロカーとして扱われていた)を愛車にしなければならなかったのだ。なぜならば本作は喪われた「車」の物語を回復するための作品としてはじまったのだから。  そして拓海が思いを寄せるクラスメートの女子(なつき)は高級車を乗り回す中年男性と援助交際をしていなければならなかったのだ。なぜならば、拓海は強い大人の男に成長して、間違った歳の取り方をした大人の男から彼女の心を奪い取らなければいけなかったのだから。  実際に、藤原拓海は走り屋の世界に触れることで、自動車の快楽に目覚めることで社会化し、やがて無難にやり過ごしていた自身の父子家庭や、なつきの問題に向き合っていく。  だがそんなアナクロな世界観が苦手で、僕は長い時間この漫画のいい読者ではなかった。拓海はやがていわゆる「ラスボス」としての父親と対決し、彼に勝利するのだろう。そして仲間たちに見守られながら、地元(群馬)を去り、レーサーになるために東京に発つのだろう。僕はこの物語の展開を勝手にそう決めつけて、そんなありきたりな、そしてアナクロな成長物語にリアリティを感じないと心の中で切り捨てていたのだ。  しかし、それは愚かな判断だった。
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  • 坊屋春道を/から「卒業」させる/する方法 『WORST』| 宇野常寛

    2020-06-08 07:00  
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    今朝のメルマガは、『宇野常寛コレクション』をお届けします。今回は、髙橋ヒロシによるヤンキー漫画『WORST』を取り上げます。1990年代を代表する傑作不良漫画『クローズ』の続編として描かれ、12年の歳月をかけて2013年に完結した『WORST』。前作主人公・坊屋春道なきあとの鈴蘭男子高校の抗争を通じて描かれた、「最強の男」と「最高の男」をめぐる葛藤とは? ※本記事は「楽器と武器だけが人を殺すことができる」(メディアファクトリー 2014年)に収録された内容の再録です。
    宇野常寛コレクション vol.23坊屋春道を/から「卒業」させる/する方法 『WORST』
    〈「オレはおまえらと同じで/よそを放り出されて鈴蘭へ来たただの勉強ぎらいさ/ただちょっと違うのは/オレはグレてもいねーしひねくれてもいねえ!/オレは不良なんかじゃねーし悪党でもねえ!!〉
     髙橋ヒロシによる90年代を代表するヤンキー漫画『クローズ』は、主人公・坊屋春道の自分は不良「ではない」という宣言ではじまった。引用したのはそんな彼=春道が物語の冒頭、転入してきたばかりの高校で貴様は何者だと問われたときの返答だ。  舞台となる架空の高校・鈴蘭男子高校はとある街にあるいわゆる「底辺」高校だ。不良少年の巣窟である同校では、その社会の「覇権」をめぐって常に派閥抗争が繰り広げられている。しかし所属する生徒の大半が不良高校生である鈴蘭は常に群雄割拠の状態にあり、もう何世代にもわたり「統一政権」が生まれていないのだという。世代を超えて数えきれないほどの不良少年がその統一を夢見て入学し、3年間をケンカに明け暮れて過ごし、そして鈴蘭統一の志半ばで卒業していく……そんなループが永遠に続く世界に、春道は転校してきたのだ。  春道は圧倒的な戦闘力を見せつけ、彼に戦いを挑む鈴蘭内の各派閥の領袖たちをことごとく破ってゆく。その勇名はやがて彼を他校との抗争の中に導いてゆくが、春道はその挑戦者たちをもことごとくほぼ初戦でノックアウトしてゆく。なぜ春道は「強い」のか。  答えは既に春道自身の口から語られている。春道は「グレてもい」なければ、「不良なんか」でもないからだ。  坊屋春道は劇中でほとんど唯一、鈴蘭の統一など不良少年社会での権力の獲得に興味を「示さない」人物として描かれている。そう、「グレてもいない」し「不良でもない」春道は単に「勉強が嫌い」で「ケンカが好き」なだけで、決してアウトローであることに意味を見出していないのだ。したがって「鈴蘭のてっぺん」にも「大人社会への反抗」にも興味がない。彼が戦う理由はふたつ、仲間を守るためと自分の快楽、面白さのためだ。そんな春道に、鈴蘭の統一や不良少年社会での覇権を夢見る少年たちが次々と挑戦し、そして敗れていくことで物語は進行する。
     これが意味するところは何か。髙橋ヒロシがここで描いているのは、ヤンキー漫画がその数十年の歴史の中で育んできた男性ナルシシズムの更新、「カッコイイ男」のイメージの更新だ。そう、髙橋ヒロシの作品世界において「強さ」とは「カッコよさ」の、「男」の価値を反映したものに他ならない。より「カッコいい」男こそが、より「強い」のだ。したがって、作中ほぼ無敵の坊屋春道は髙橋ヒロシの生み出したあたらしい「カッコよさ」を体現するキャラクターに他ならない。
     春道は不良少年たちの世界──思春期の数年間だけそこに留まることができるモラトリアム空間、疑似的な社会──の中での自己実現に拘泥する少年たちの挑戦を愛情をもって次々と退ける。「不良」である彼らは一般の社会から疎外されたアウトローであるという自覚を持ち、それゆえにもうひとつの社会での自己実現を権力奪取というかたちで目論む。しかし、そんな自己実現に全く興味を示さない春道に敗れることで、彼らはことごとく転向してゆく。疑似社会での期間限定の自己実現ではなく、ケンカすることそれ自体を楽しみ、魂を燃焼させることに美的な達成を見るという春道の示したモデルに転向してゆくのだ。(劇中で春道と互角以上の戦いを展開することができたのは、同様に権力闘争に興味を持たない林田恵・通称リンダマンのみだ。)  ここで髙橋が坊屋春道という男に託したのは、これまでのヤンキー漫画の美学の延長線上にありながらも、少なくとも従来の意味では「グレてもい」なければ、「不良なんか」でもない、しかし明らかにこの国の「ヤンキー」文化の延長戦上にあるあたらしい「男」の理想像に近づいていくのだ。、「大人社会への反抗」に意味を見出し、アウトローであることにアイデンティティを見出さ「ない」男の理想像に他ならない。だからこそ、この物語では従来のモデルの不良少年が春道の影響下に転向してゆくという物語が描かれたのだ。
     そんな坊屋春道の最後の戦いは、全国的な勢力を誇る不良少年グループ「萬侍帝國」の幹部・九頭神竜男とのタイマンだ。不良少年社会=疑似社会の頂点に君臨する九頭神はまさにこの物語で描かれてきた古い、従来の「不良」を代表する存在だ。そう髙橋ヒロシは物語の結末に、春道のこれまでの戦いとは何だったかを総括し、改めて読者に示すエピソードを配置したのだ。
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