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  • 【対談】中川大地×遠藤雅伸「日本ゲームよ、逆襲せよ『ゼビウス』から『ポケモンGO』への歴史を超えて」(後編)

    2017-04-04 07:00  
    540pt

    好評発売中の、評論家・編集者の中川大地さんによる大著『現代ゲーム全史──文明の遊戯史観から』。その刊行を記念し2017年1月27日に下北沢B&Bで行われた、中川さんとゲームクリエイター・大学教授の遠藤雅伸さんの対談の様子をお届けしています。後編では、人類学者・思想家の中沢新一さんも飛び入り参加し、「拡張現実の時代」におけるゲームと人々の関わりについて語りました。(構成:籔和馬、中野慧)
    ※本記事の前編はこちら。

    プレステが変えたゲームと街の風景
    中川 1990年代後半にプレステショックがあって、ビジネスモデル的にも任天堂の寡占状況が打破されました。この時代のキーワードは「マルチメディア」ですね。ソフトがCD-ROMになり、流通環境が音楽CDと似た流通になったことで、開発元と販売店がリアルタイムでインタラクティブに繋がることが可能になり、クリエイターがより小リスクでいろんなものを作れる時代になりました。流通の簡易化によって、異業種が参入しやすい状態にもなったわけです。
     さらに表現の面でも3Dポリゴンが出てきて高度化し、それまで「子どもの遊び」だったゲームが、映画に近いものになっていった。この時代はやはりゲームの歴史の中で大きな転換点の一つですよね。
    遠藤 プレステ登場以前、ソニーは任天堂と一緒にスーパーファミコンに繋げるCD-ROMドライブを開発していましたが、やがてソニーと任天堂のあいだで考え方の違いが出てくるわけです。たとえば、大容量を活かすゲームって子供に向かないわけで、任天堂はそちらの方向には行かない。任天堂はNINTENDO64(以下、64)を出したときに、大容量でムービーを見せていく開発スタイルを切り捨てにいっている。64で任天堂から各ソフトメーカーに最初に提示されたのは、『スーパーマリオ64』(1997年)のようなアクションゲームを作るのに最適なコードだったわけです。それを見て、「ファイナルファンタジー」のチームは「これではRPGが作れない」ということでやめているんです。
    中川 単に、プレステと64のどちらが勝ち組になったということではなかったわけですね。
    遠藤 まあ、任天堂がわざとそういう人たちを切りにいったというのが実情なんですよ。任天堂はやはりアクションという部分に非常にこだわる。しかしプレステはモーションJPEGというのが入っていて、ムービーを入れ込みやすかった。CD-ROMでの流通になったということで、当時パソコンゲームや音楽を作っていた人たち、そして動画やアニメを作れたりする人もプレステに参入していったわけです。
    中川 飯田和敏さんが『アクアノートの休日』のようなメディアアート的作品を作っていたりするのが、プレステの個性になっていった。一方、64はファミコン・スーファミ以来のROMカートリッジのままだったけれども、『ゼルダの伝説 時のオカリナ』に代表されるような3Dを使ったアクションを追求していった。
    遠藤 64は3Dスティックが非常に斬新でしたね。あの感覚はすごく良かった。3Dという点では、プレステの『パラッパラッパー』も素晴らしかった。キャラクター描写に3D技術を使っておきながら表現としてはペラペラという、そのあたりの感覚が日本の素晴らしさなんですよね。他にも、『ダンスダンスレボリューション(DDR)』も素晴らしいゲームでした。ゲーセンでも、上手い人がやっていると一気に見物客が集まっていましたよね。
    中川 この頃「ダンス甲子園」などもブームになっていましたが、そっちの人たちとは全然見た目が違う人たちがDDRにハマっていました。見た目はオタクっぽいのに、足だけはダンスがすごかったりとかですね。ちょうどこの時代にプリクラとかも出てきましたし、コンシューマーに対してアーケードは何ができるかということで劇場化、カジュアル化していったという印象です。
    初代『ポケモン』から『ポケモンGO』へと受け継がれたもの
    中川 ここで忘れてはいけない決定的な作品が、1996年に発売された『ポケットモンスター』ですね。
    遠藤 『ポケモン』は、ゲームボーイというハードが死ぬギリギリのところで出てきた。当時『ポケモン』が流行っていて売れているっていうのは、ゲーム関係者は全然知らなかったんですよね。この頃は「テレビでゲームをする=悪いこと」という社会通念があって、特にこの直後とかに「ゲーム脳」論とか出始めるんです。でもゲームボーイだと「テレビじゃないからいいかな」っていうことで、子供が遊ぶことを許してくれる親も多かった。
     それと「持ち運べる」っていうことが全然違うものを生み出していったんですよね。『ポケモン』のおかげで日本のポータブルゲーム機が伸びて、小型化・カラー化などの方向に進化していった。あれがなければポータブルゲームの文化は今頃なくなっていたかもしれません。
    中川 今の携帯ゲーム機の市場を生む大きなきっかけになっていますよね。基本的にゲームの市場はファミコンを経験した世代が引っ張ってきたのだけれど、ファミコン世代とは違う新たなゲームの新世代が初めて大きなパワーを発揮した、というのがこの『ポケモン」の時代ですね。僕はこの頃大学生だったのでポケモンは全く視野に入ってなかった。
    遠藤 『ポケモン』のおかげで、日本の携帯ゲーム機の市場は伸びていって、ポケットやライト、そしてカラーに進化していったんですよね。
    中川 そんな僕たちファミコン世代が知らなかった『ポケモン』を、当時からすでに高評価し、分析されていた中沢新一先生が、実は会場にお越しになっています。ちょっとここでコメントをいただければと思うのですが……(笑)。
    中沢 いまお二人のお話を聞いていて、『パラッパラッパー』などを真剣にやっていた自分を恥ずかしく思いました(笑)。しかし、『ゼビウス』が登場してきたときっていうのはものすごい衝撃だったんです。
    遠藤 中沢先生が「『ゼビウス』は素晴らしい」って言ってくれたから今のゲーム業界はあるといってもいい(笑)。当時は、「いい大人が子どもの遊びに夢中になって」って呆れられていた時代ですからね。
    中沢 僕は最初は『ゼビウス』はまったく知らなくて、「すごいものがあるんだ」って知り合いに喫茶店に連れていかれて、そこで初めてプレイして衝撃を受けたんです。これを何とかして語る、という挑戦をしなければいけないと思った。遠藤さんと初めてお会いしたのは、「ゲームフリークはバグと戯れる」を書いたあとでしたね。
     僕は『ポケモン』のことを、小学館の「コロコロコミック」の編集長だった上野さんに「これを知らないと小学生文化を語れないよ」ということで教えてもらっていました。その頃、ゼミの学生を連れて多摩川に野外レクチャーに行ったんですね。そうしたら川で小学生が網でザリガニを捕まえながら、もう片方の手では器用にゲームボーイを扱っている。彼に何をプレイしているのか聞いたら、『ポケモン』だったんです。『ポケモン』を野外に持ってきて、ザリガニを捕まえながら、同時にニョロモを獲っているわけですよね。現実とゲームを行ったり来たりして楽しむという風景が衝撃でした。そのとき、「これからは現実とバーチャルが交わっていくんだな」ということを確信したんですね。

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  • 【対談】中川大地×遠藤雅伸「日本ゲームよ、逆襲せよ『ゼビウス』から『ポケモンGO』への歴史を超えて」(前編)

    2017-03-24 07:00  
    540pt

    好評発売中の、評論家・編集者の中川大地さんによる大著『現代ゲーム全史──文明の遊戯史観から』。その刊行を記念し、2017年1月27日に下北沢B&Bで、中川さんとゲームクリエイター・大学教授の遠藤雅伸さんの対談が行われました。今回は、その模様を再構成してお届けします。伝説のシューティングゲーム『ゼビウス』の開発に携わり、日本ゲームの黎明期から業界を見続けている遠藤さんと、独自の視点からゲーム史を語り尽くします。(構成:籔和馬、中野慧)
    『ゼビウス』の革新性と歴史的影響
    中川 『現代ゲーム全史──文明の遊戯史観から』を出すことができたのは、ゲーム史のキーパーソンとして、『ゼビウス』(1983年)を出された遠藤さんがいらっしゃるからでもあるんです。『ポケットモンスター』(1996年)を作られた田尻智さんをゲーム業界に導く大きなきっかけを作ったのが『ゼビウス』だったんですよね。そして遠藤さんと田尻さんが積み重ねたものの上に、今の『ポケモンGO』(2016年)の世界的なブームがあると思います。そこで本書の刊行イベントを行うのであれば、ぜひとも遠藤さんをお招きしたいと思い、今回お声がけをさせていただきました。
     社会学者の見田宗介さんが、戦後をおおよそ15年ごとに、「理想の時代」「夢の時代」「虚構の時代」という3つの時期に区分していますよね。これは、現実が何と向かい合っていたかによって、戦後の文化史・精神史を記述しようという試みだったわけです。『現代ゲーム全史』ではこの見田さんの見立てにヒントを得ながら、ゲームとテクノロジーの発展を書いています。
     そこで、まずはそれぞれの時代において、遠藤さんがどのようにゲームやコンピュータテクノロジーに取り組まれていったのかを、前半の話の軸にしていきたいと思います。
     まず1945-1960年の「理想の時代」。第二次世界大戦の時代に原爆開発の物理的なシミュレーションのために生まれたのがコンピュータで、その開発の中から、スピンアウト的にコンピュータゲームは発展していきました。
     次に1960-1973年の「夢の時代」。巨大だったコンピュータが小型化し、『Spacewar!』(1962年)という宇宙戦争を題材にしたゲームが出ましたよね。これが、直接の触発例になって、ノーラン・ブッシュネルが『Computer Space』(1971年)という世界初のアーケードゲームを作りました。
     そして1973年から始まる「虚構の時代」。ノーランがアタリ社を設立し、『PONG』(1972年)を出しました。コンピュータを使ったゲームがアーケードゲームに入り込んで、初めて収益的にも大きな成功をしたんです。コンピュータ自体もこの時代になると民生用の家電として普及し始めましたよね。1972年に家庭用テレビゲームも生まれ、アタリがソフト交換式のゲーム機「Atari VCS」を出しました。遠藤さんがゲームに関わり始めたのはこの時代からですよね? 
    遠藤 僕がゲームで遊び始めたのはこの頃からでしたね。『スペースインベーダー』(1978年)を大学生時代にプレイしていたんですよ。70年代末の大学生文化で『スペースインベーダー』は非常にポピュラーなものでした。
     それと同時期に「Atari VCS」の上級バージョンで、ゲームが遊べる「Atari 800」というパソコンをお金持ちの友達が持っていたので遊ぶことができて、それでアタリファンになりましたね。
    中川 その時期のパソコンは、ある種の特権階級の人しか持てないものでしたよね。その後、80年代に入って、ようやく日本でも「マイコンブーム」と呼ばれる、最初のパソコン普及期が訪れるわけです。今のように生活必需品ではないので、ゲームを遊べる環境の格差がありましたよね。その格差を変えるきっかけになったのが、任天堂の「ゲーム&ウォッチ」(1980年)です。これを大当たりさせた任天堂が、さらに3年後に「ファミリーコンピュータ」(1983年)を出しました。それ以前はエポック社の「カセットビジョン」などがありましたけど。
    遠藤 いくつか出ていたけど、今も残っているのはファミコンくらいですね。
    中川 ファミコン登場以前には戦国時代のような状況だったんですよね。これの一つ前の時代だと、『ポン』みたいなテニスゲームや、ブロック崩しのようなシンプルなゲームが主流でした。この時代になってようやく一般の子供たちが、アーケードで遊べる『パックマン』のようなゲームと似たような水準で遊べるテレビゲーム時代が始まります。
     この時期に遠藤さんもゲーム制作を始められたと思うのですが、遠藤さんがゲームを作る側になるプロセスは具体的にどういったものだったんですか? 
    遠藤 僕自身は、高校で演劇、大学で映画をかじっていました。でも当時は今と違って、そのどちらも産業としては成り立たないレベルでした。創造的なものの未来を考えたときに、ビジュアルとサウンドを載せたものが今後新たな総合芸術になる可能性を感じていたんですが、その頃に就職活動に失敗したんです。それで何か面白いことをやりたいと思い、コンピュータとゲームに関係した仕事を探していたました。で、アタリに行きたいと思ったんですが英語ができないので、アタリジャパンの親会社である「ナムコ」に行って自分を売り込んだ結果、働かせてもらえることになったんですよ。
    中川 コンピュータスキルはあったんですか? 
    遠藤 まったくなかったです。なので、1ヶ月くらいでプログラミングを覚えました。プログラム言語は頭にあるものを記述するだけで、表現が簡単だったんです。当時のゲームのプログラム量は、今の画像1枚より少ないですからね。
    中川 遠藤さんのゲーム業界への入り方も画期的だったと思います。遠藤さんより以前の時代、ゲームクリエイターといえばコンピュータ技術者でしたが、遠藤さんの場合はむしろ映像や演劇に造詣が深いわけですよね。
    遠藤 綺麗なもの、新しいものを見せたいということをずっと考えていました。だから、同じ系統の作品は連作していません。
    中川 1980年代前半の段階では、『宇宙戦艦ヤマト』や『機動戦士ガンダム』をきっかけとするアニメブームが勃興していて、他にも様々なカルチャーが盛り上がりつつありました。橋本治さんはそういった様々なカルチャーの立ち上がりを、政治闘争から文化闘争に社会のパワーがシフトしたという意味で、「80年安保」と呼んでいたりします。
     遠藤さんは1983年、ちょうどファミコン発売と同年に『ゼビウス』を世に送り出されました。『スペースインベーダー』などそれまでのゲームがあくまでも画面上で展開される反射神経的快楽だけで作られていたのに対し、『ゼビウス』はビジュアル的にも体感的にもゲームの画面の先に不可視の世界があることを感じさせるバックストーリーをあらかじめ作られていたり、敵キャラが個性的な動きで出てきたりします。富野由悠季監督がアニメのカルチャーを変えていった空気を吸収されて、ゲームの方へ持ってこられましたよね。遠藤さんは80年代前半の同時代カルチャーをどのように見ていたんですか?

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