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記事 13件
  • ショッピングモール&テーマパークの発想でつくる東京五輪「選手村計画」――デザイナー・浅子佳英が考える”職住近接”の都市生活の未来(PLANETSアーカイブス)

    2019-03-22 07:00  

    今朝のPLANETSアーカイブスは、デザイナーの浅子佳英さんによる都市論です。2020年の東京オリンピックの中心となる東京湾岸部はいかに再開発されるべきか。ショッピングモールとテーマパークの発想を持ち込んだ、新しい都市空間の構想を伺いました。(聞き手:宇野常寛/構成:真辺昂+PLANETS編集部) ※この記事は2014年10月7日に配信した記事の再配信です
    ■タワーマンションが立ち並ぶ今の東京湾岸部に足りないもの――浅子さんは、新国立競技場の問題から、都市設計の問題まで、オリンピックに関する建築の問題についてシンポジウムやソーシャルメディアで発言されていますよね。そこで今日はデザイナーあるいは建築家である浅子佳英が、2020年の東京をどうしたいと思っているのかをダイレクトに聞かせてください。
    浅子 選手村をはじめとするオリンピック各種施設の計画案を見ていると「小規模でお金をかけずやればいいんじゃないか」という消極的なメッセージしかなくて、非常につまらないなと思います。今さら「そもそもオリンピックは東京でやるべきではなかった」と言っても、開催が決まってしまった以上は意味がないし、それよりも「東京を世界のなかで戦っていける都市にするための機会として、オリンピックを活用しよう」というふうに発想を切り替えるべきだと思っているのですが、実際に新しい都市のビジョンを出そうと動いている人はなかなかいない。一方で新しいビジョンがない状態のまま、オリンピックに向けた開発だけは進むという状態になっています。
    たとえば2020年の東京五輪では、選手村や競技施設・メディアセンターなどが建設されていく東京湾岸部のまちづくりが焦点になるわけですよね。実際に湾岸の街を歩いてみたんですが、勝鬨(かちどき)ぐらいまではまだしも、豊洲、東雲のあたりまで行くと歩いていてもまったく楽しくない。湾岸部は完全な埋立地にゼロから都市計画をして作っているわけですが、広く公開空地をとってタワーマンションが20個ぐらい並び、その間にショッピングモールが1個あるというつくりです。結局、今は郊外も湾岸のような都心部も、タワーマンションとショッピングモールだけで作られるようになっていて、この状況に対するオルタナティブが出せていないわけです。
    ――湾岸ってこの20年の日本の迷走の象徴だと思うんですよ。国や都はずっと湾岸に新都心をつくろうとして、その度に失敗してきた。直近では90年代の、まさにアフターバブルの新しい日本の「つくりなおし」の象徴としての開発計画があって、それが見事に頓挫した。その結果、フジテレビがその代表だけど中途半端に現代的なデザインの建築物と、バブリーなタワーマンションと原野が点在するちぐはぐな空間になっている。まるで、行政改革だ、構造改革だと旗を振ったけど、ポスト戦後の社会モデルについては結局中途半端な軟着陸しか残せなかったこの二十年の日本社会の姿、そのものですね。
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  • 【いよいよ単行本発売!】今、これからの「カッコよさ」について語るということ(門脇耕三)/ 全文無料公開 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.400 ☆

    2015-09-01 07:00  
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    【いよいよ単行本発売!】今、これからの「カッコよさ」について語るということ(門脇耕三)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.9.1 vol.400
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    デザイナー・浅子佳英さん、建築学者・門脇耕三さんと本誌編集長・宇野常寛による鼎談シリーズ『これからの「カッコよさ」の話をしよう』。この
  • 情報技術とプロダクトが変える世界──「モノ」を中心とした新しいカルチャーの未来(浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛「これからのカッコよさの話をしよう」vol.6) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.388 ☆

    2015-08-14 07:00  
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    情報技術とプロダクトが変える世界──「モノ」を中心とした新しいカルチャーの未来(浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛「これからのカッコよさの話をしよう」vol.6)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.8.14 vol.388
    http://wakusei2nd.com


    デザイナー・浅子佳英さん、建築学者・門脇耕三さんと本誌編集長・宇野常寛の3人による鼎談シリーズ「これからのカッコよさの話をしよう」。いまデザインやライフスタイルが置かれている状況、そしてこれからの展望を考えてきたこのシリーズも今回で最終回となります。そこでこれまでのまとめとして、「インターネット以降のモノとヒトとの関係」という、シリーズ全体を貫くテーマについて改めて議論しました。
    ▼「これからのカッコよさの話をしよう」これまでの記事
    (vol.1)これからの「カッコよさ」の話をしよう――ファッション、インテリア、プロダクト、そしてカルチャーの未来
    (vol.2)無印良品、ユニクロから考える「ライフデザイン・プラットフォーム」の可能性
    (vol.3)住宅建築で巡る東京の旅――「ラビリンス」「森山邸」「調布の家」から考える
    (vol.4)インテリアデザインの現在形――〈内装〉はモノとヒトとの間をいかに設計してきたか
    (vol.5 前編)〈デザイン〉としての立体玩具――レゴ、プラモデル、ミニカー、鉄道模型
    (vol.5 後編)〈デザイン〉としての立体玩具――レゴ、プラモデル、ミニカー、鉄道模型
    【関連イベント開催!】9/1(火)19:00〜もう一度、これからの「カッコよさ」の話をしよう…浅子佳英×門脇耕三×AR三兄弟・川田十夢×宇野常寛×よっぴーが語り合う!

    イベントの詳細はこちらのページから!
    http://peatix.com/event/108418
    ▼プロフィール
    門脇耕三(かどわき・こうぞう)
    1977年生。建築学者・明治大学専任講師。専門は建築構法、建築設計、設計方法論。効率的にデザインされた近代都市と近代建築が、人口減少期を迎えて変わりゆく姿を、建築思想の領域から考察。著書に『シェアをデザインする』〔共編著〕(学芸出版社、2013年)ほか。
    浅子佳英(あさこ・よしひで)
    1972年生。インテリアデザイン、建築設計、ブックデザインを手がける。論文に『コムデギャルソンのインテリアデザイン』など。
    ◎構成:菊池俊輔
    ■ 団塊ジュニア世代とカリフォルニアン・イデオロギー
    宇野 世界的なスローフード&シンプルライフの潮流は、カリフォルニアン・イデオロギーと相性がよかったのは間違いない。それはカリフォルニアン・イデオロギー自体がヒッピーの遺伝子を強く引き継いでいて、消費社会のオルタナティブであったことに起因しているわけですよね。フロンティアのないところ、つまり外部を失った世界で、消費の生む差異だけが価値をも生む消費社会のイデオロギーに対し、サイバースペースというフロンティアを発見することで外部を獲得することが出来たのがカリフォルニアン・イデオロギーだったわけで、そこまではいいのだけど、それが資本主義批判の文脈でスローフード&シンプルライフの潮流と結びつきながらグローバル化していく中で、いつの間にかライフスタイルを画一化し、そして最終的には「自分の肉体を鍛えるのが究極のファッションであり、瘦せすぎていたり太りすぎている人が何を着ても意味がない」とかいう、ナチスも真っ青の五体満足主義まで口にする知識人まで出現するに至ってしまった。
    この「新しい全体主義」の問題は非常に厄介です。なぜならば、この思想は資本主義批判、消費社会批判の文脈の中で生まれたもので、彼らとしてはモノを追いかけて他人に対する差異を生むことに血道を上げる哀しい現代人の生き方を反省し、もっと人間らしい、モノから解放された生き方を求めた結果、ナチス的五体満足主義に帰結してしまっているわけなので。要するにこの問題をとおして、人間の自意識と、人間が市場を通じて生む「モノ」とでは、実は前者が画一的で、後者が多様であることがわかってしまった。
    これは普通に考えれば逆なんですよ。右翼も左翼も、20世紀の知識人たちは消費社会がいきすぎると人間の価値観は画一化していく、みんなディズニーとマクドナルドが好きになって文化の多様性が失われる、だから人間らしさをマーケットから取り戻さなきゃいけないと、ずっと考えていた。そして、そう考えていた人の一部が情報技術でそれを実現したのは間違いない。左翼は認めたがらないと思うけど、これは事実。ただ問題はその先で、そうやって人間を市場から解放してしまったら、実は人間なんて多様でもなんでもなかったことがわかってしまった(笑)。
    一昔前は、いや、まだまだたくさんいるんだけれど、文化左翼たちがマクドナルドとユニクロを批判しながら、「私はグローバル資本主義に流されず個性的な自分を維持していますよ」と、みんな同じようなキャラで売っていた。つまり、一見多様だけれど自意識としては画一的なスタイルを選択していたわけですよね。いわゆる「個性的な私という没個性的な自己表現」を一様に選択していた。その結果、彼らの文化もどんどんテンプレート化していって、それが、まあハッキリ言えばカッコ悪く見えて、若い世代から支持されなくなっていった。そして今は、ノームコアに身を包んだ情報化された人々が「一様にナチュラルな」スタイルを選択して、その延長戦上で五体満足主義を肯定するかのような発言を平気でしてしまうところにまできてしまったわけです。
    浅子 いま振り返ると2008年あたりが、ネットがフロンティアだとまだ信じることが出来た最後の年だったと思います。初音ミクがヒットし、WikipediaやUGC(User-Generated-Content)の可能性が語られ、権威的で保守的な上の世代に対して団塊ジュニアやその下の世代は、ネットやITなどの技術を背景に新しい価値観を提示して、いずれは社会をも変えていくだろう、と。ただ、そのようなある種の楽観的なものの見方は、ここ数年で大きく変わりましたよね。要はネットが普及することで、逆にこれまでは見えなかった問題も噴出してきた。
    宇野 インターネットが世界を変えるというビジョンに説得力がなくなったのは、東日本大震災後のインターネットのジャーナリズムの失敗が原因だと思う。「動員の革命」も噓っぱちだったし、「ウェブで政治を動かす」ことも出来なかった。結局ネット右翼と〝放射脳〟がはびこって、ソーシャルメディアはワイドショーの劣化コピーとして、週に1度「空気の読めない」「悪目立ちした」人間を袋叩きにしてスッキリする文化に成り下がっている。そして、「動員の革命」で、「ウェブで政治を動かす」と叫んでいた団塊ジュニアの文化人たちは、最悪な意味で〝第二のテレビ〟と化したTwitter社会において、中立を装いながら上手くいじめる側に回るゲームに明け暮れている。これが日本社会におけるインターネットが、希望ではなく、むしろ失望を生んでいった経緯ですよ。
    ただ僕がここで言いたいのはもうちょっと違う角度からのことで、社会の情報化が人々にモノの所有以外にもカジュアルな自己表現の回路を与えたときに、そこに出現したのはモノの所有を競っていた時代よりも、もっと画一的で凡庸な、しかもそのことに全く気づいていない愚かしい個でしかなかった、ということなんですよね。だから僕は「モノ」を通じて新しい「カッコよさ」を考えることが必要だと思ったわけです。
    門脇 人間生来の感覚的なレベルでの一元性、そこにポリティカル・コレクトネス(公平・中立で、かつ差別や偏見がない言葉や表現を推奨する運動)が奇妙に結びついて、ファシズム的な全体性を生んでいる。そういう状況に対して、いかに「カッコよさ」を対置していくかが、この連載の本質的な問題意識でした。この構図の前提には、「カッコよさ」が人間の生得的・生物学的本質からは一意に導けないという仮定がある。つまり「カッコよさ」は、社会や時代の状況に依存する、極めて文化的な産物だということですね。当たり前のことかもしれませんが、だからこそ、これからの「カッコよさ」を考えることに意味が出てくる。新しい「カッコよさ」は、来るべき社会の到来を実現する原動力にもなり得るからです。 
    この連載では、ファッション、建築、インテリア、フィギュアなど、さまざまなプロダクトを取り巻く現代的な「カッコよさ」について考えてきましたが、たびたび話題に上がったのが、「プラットフォームとコンテンツ」という構図でした。この構図は、インターネットの登場によって大きく浮上してきたものだと理解してよいでしょう。
    ■ プラットフォーム対コンテンツという隘路
    浅子 「ニコニコ動画」も「YouTube」もそうだけど、結局ネットはプラットフォームの思想ですよね。基本的にフリーであることが重要なので、プラットフォームに対価を払うことはあってもコンテンツにはほとんど支払われない。完全にデータのやり取りだからいくら複製しても劣化はなく、オリジナルとコピーの問題も変容する。そこではどうしたって、あらゆるコンテンツは無料でユーザーが勝手につくるものだという思想が支配的になってくる。結果、プラットフォームだけが重要になる。
    宇野 身も蓋もないことを言うと、ソーシャルメディアは横のつながりを広げることで、ごく普通の人たちの発言力を強化する仕組みですよね。その結果、日本では全くロクなことにならなかった。ブログからは何も生まれなかったし、Twitterにはワイドショー的なイジメ文化、Facebookにはスノッブな自慢文化しかなくなってしまった。
    数少ない成功例が「ニコニコ動画」だと思う。あれは日本的なムラ社会に本来馴染まない競争原理を注入するとか、Google検索に意図的に引っかからなくする、つまりあえてクローズドにするとか、さまざまな工夫を駆使してボトムアップで才能を発掘することに成功していたと思う。ただ、「ニコニコ」はマーケティングの問題もあって、その力が及ぶ世代とジャンルはかなり限定されている。
    浅子 そこで、「コト」ではなく「モノ」によって、いかに人々を攪乱していくか、欲望を刺激していくかという話が重要になってくる。
    門脇 「コト」の抽象性、形のなさというのは、どうしても「気持ちよさ」や「正しさ」に向かいやすい。それに対抗するための「モノ」という発想ですね。つまり、だんだんと明らかになってきた人間の一元性を乗り越え、舞台の上での振る舞いに多様性を回復させるためには、アイコン的な意味での「モノ」が必要なんじゃないか。プラットフォームに「モノ」が乗っていないと、それを巻き込むような渦は生まれないし、抽象的な「コト」のレベルで考えている限り結論は一つにならざるを得ない。それが、プラットフォーム主義が陥りやすい一つの罠なんでしょう。
    宇野 僕は、プラットフォーム対コンテンツという問題設定は間違っていると思う。そんなものは疑似問題で、結局プラットフォームはコンテンツが生まれる環境を整えることしか出来ないし、作家にはどんな時代でも今ある創作環境、つまりプラットフォームをどう利用して、ハックして、内破して面白いものをつくるのか、という問題があるだけでしょう。プラットフォームに支配された現代における作家性、とかいうことを議論したがるのは才能のない作家が作家の自意識論に逃避しているだけだと思う。
    それよりも、僕らは端的に情報技術の発展で次に何が出来るようになるのかを今から考えたほうがいい。だからこのシリーズでは、「モノ」についてずっと考えてきた。現代のソーシャルなプラットフォームが人間を解放すると、むしろ人間の画一性がむき出しになる、だから「モノ」の多様性が必要だ、という議論もそうなのだけど、これからはもっと端的にソーシャルに人間同士をつなぐIoH(Internet of Humans、ヒトのインターネット)からIoT(編注:Internet of Things、モノゴトのインターネット。IT関連機器だけでなく、自動車や家電、その他デバイスをインターネットに接続し、それらを介することによって利用者の使用環境や行動、その変化をもインターネットに接続する技術の総称)に技術発展の力点は移動していって、この流れが世界を変えていく時代になるわけじゃないですか。
    門脇 プラットフォーム主義の上書き、要はアップデートですね。
    宇野 例えば、パソコンのディスプレイの内部でプラットフォームの覇を競うゲームが飽和したときに、iPhoneという「モノ」の再発明によって突破口を開いたのがAppleだった。ここでのiPhoneはプラットフォームであると同時にコンテンツでもある。「モノ」の価値の再評価はプラットフォーム主義の正しい発展として、ここ数年、自然発生的に起きている。この流れを、どう周辺ジャンルに応用して考えていくのかが大事なんじゃないかな。
    浅子 プラットフォームの思想を建築に置き換えると、それこそApple Storeが一番わかりやすいんですが、ミニマルで、シンプルで、すべてのものが等価に並んでいるものがいまだに「善」とされています。だけどApple Storeは時間軸に対しての考え方がないですよね。本当だったらプラットフォームにはいろんなコンテンツが入る可能性があるわけで、変化したら追随できるようにもつくらないといけない。だけど、Apple Storeはそういうふうにはデザインされていない。
    建築をプラットフォームとしてつくることにはこれと同じ問題があって、あらゆるコンテンツを許容できますよ、と言えば聞こえはいいけれど、コンテンツはプラットフォームの下位に位置づけられたまま両者が拮抗することがないので、どうしても何もない最初の状態が最も美しくなるようなものをつくってしまう。いつまで経っても時間的な思想を内包できない。
    宇野 すべてのインターネットのコンテンツ、ウェブサイトは「永遠のβ(ベータ)版」なわけで、これはネットサービスの基本であり、プラットフォームの定義に近いものだと思う。ただ、同じようなことを建築でやろうとすると、コスト的に難しいという問題がある。
    浅子 そう、だからまさに「永遠のβ版」、ずっと改装を続ける家とか、そういうものがプラットフォームとして正しい姿だと思うんです。例えばカリフォルニアにフランク・ゲーリーという、ビルバオのグッゲンハイム美術館をつくった世界的に有名な建築家の自邸【図1】があります。これは20世紀につくられた住宅の中でも、特に名作だと言われているものなんですが、カリフォルニアによくあるごくごく普通の建て売り住宅の外側に、これまたその辺にありふれているけれど住宅では使われていなかった金網や波板などを張り巡らせてわけのわからない空間にした、とても面白い作品です。
    もともと外壁だった場所には窓がそのまま残されているので、中なのか外なのか、そもそも出来上がっているのかどうかさえパッと見にはわからない(笑)。そして、ゲーリーはメディアへ発表する際に「カリフォルニアの既存住宅の改装。私の住まいであるこの建物は今後も手が入れられていき、そしていつまでも完成しない」とハッキリ書いている。非常に生き生きとした自由な空間で、コンテンツとしての魅力もあるし、どんどんハッキングして変えられていくという意味では、住宅としての用途の変化への対応、例えば子供が成長したら部屋をつくり替えるといったことも出来る。こういう「永遠のβ版」と自ら宣言している、ある意味でネット的な、新しいプラットフォーム的な住宅がアメリカの西海岸から生まれたのは非常に示唆的ですよね。この鼎談の第3回で紹介した「調布の家」なんかは、もろにこういった作品の影響を受けています。

    【図1】カリフォルニアの「フランク・ゲーリー邸」
    出典(https://en.wikipedia.org/wiki/Gehry_Residence#/media/File:Gehry_House_-_Image01.jpg)
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  • 【後編】〈デザイン〉としての立体玩具――レゴ、プラモデル、ミニカー、鉄道模型(浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛「これからのカッコよさの話をしよう」vol.5) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.373 ☆

    2015-07-24 07:00  
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    【後編】〈デザイン〉としての立体玩具――レゴ、プラモデル、ミニカー、鉄道模型(浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛「これからのカッコよさの話をしよう」vol.5)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.7.24 vol.373
    http://wakusei2nd.com


    本日は、好評の鼎談シリーズ「これからのカッコよさの話をしよう」第5弾の後編をお届けします(前編はこちらから)。今回は、奇形的な進化を遂げた立体玩具の「フィクショナルなデザイン」をヒントに、ドローンや車など「リアルのデザイン」の未来を考えていきます。
    ▼「これからのカッコよさの話をしよう」これまでの記事
    (vol.1)これからの「カッコよさ」の話をしよう――ファッション、インテリア、プロダクト、そしてカルチャーの未来
    (vol.2)無印良品、ユニクロから考える「ライフデザイン・プラットフォーム」の可能性
    (vol.3)住宅建築で巡る東京の旅――「ラビリンス」「森山邸」「調布の家」から考える
    (vol.4)インテリアデザインの現在形――〈内装〉はモノとヒトとの間をいかに設計してきたか
    ▼プロフィール
    門脇耕三(かどわき・こうぞう)
    1977年生。建築学者・明治大学専任講師。専門は建築構法、建築設計、設計方法論。効率的にデザインされた近代都市と近代建築が、人口減少期を迎えて変わりゆく姿を、建築思想の領域から考察。著書に『シェアをデザインする』〔共編著〕(学芸出版社、2013年)ほか。
    浅子佳英(あさこ・よしひで)
    1972年生。インテリアデザイン、建築設計、ブックデザインを手がける。論文に『コムデギャルソンのインテリアデザイン』など。
    ◎構成:有田シュン、中野慧
    ■ 80年代以降、日本のサブカルチャーは「ベースデザイン」を生んでいない
    宇野 僕が今日考えたい3つの論点を振り返ると、まず一つ目は「20世紀には現実の縮小を欲望していた人類が、21世紀にそれらを欲望しなくなっていったのはなぜか」。二つ目は、こうした戦後日本の、特にキャラクター文化のベースデザインが60年代から80年代に集中しているのはなぜか。そして最後の三つ目が、「戦後的な男性性の問題が解消された結果として、奇形的な進化を遂げたデザインをどう評価するか」です。
    浅子 一つ目と二つ目については、やっぱり「未来に対する明るい希望を信じられた時代だった」という部分が大きいんじゃないですか?
    宇野 例えば、成田亨により60年代に生み出されたウルトラ怪獣って、ストレートに明るい未来を信じるフューチャリズムの感覚とつながっているとは思えないわけですよ。ウルトラマンの方の造形はフューチャリズムと結びついていると思うけれど、怪獣には当てはまらない。むしろ戦後復興から高度成長への狂騒の中で発生したひずみや余剰が、サブカルチャーの片隅に集中していたと考えた方がいい。もっと大きな、社会と暴力のイメージや男性性の関係の問題があると思うんですよね。それも、かなり日本ローカルな問題がある。戦後的ネオテニー・ジャパンの表現が幼児的な文化を発展させた、といった教科書的な解説には収まらないものが、ゼットンにもキングジョーにもジャミラにも恐竜戦車にもあると思う。
    浅子 僕がもうひとつ気になるのは、三つ目の「奇形的な進化」が、なぜ現実におけるプロダクトデザインも含めた「デザイン」全体の本流にはならなかったののか、という問題です。
     70年代末の『ガンダム』がベースデザインとなりえたのは、後になってフォロワーがどんどん出てきたからですよね。同じように、ウルトラマンで言えば成田亨がウルトラマンをスケッチブックに描いた瞬間にベースデザインになったのではなく、その後のフォロワーが生まれていく過程で、徐々にベースデザインとなっていったのだと思います。
     話を少し迂回しますが、建築デザインの世界では、ここ50年くらいのあいだ、「建築家から新しい都市のヴィジョンが提案されて盛り上がる」ということがほぼなくなりました。キャラクターデザインも同じで、蛸壺化された社会では、誰かが提示した新しいヴィジョンを、みなで広く共有することができなくなったいうことでもあるんじゃないですか。
    門脇 ベースデザインという意味で示唆的なのは、アノマロカリス(古生代カンブリア紀前半に繁栄した捕食性動物)に代表されるバージェス動物群です。バージェス動物群には、口がカメラのシャッターのような機構をした動物など、それ以降の時代には見られないデザインをした変な生物がたくさんいるんですね。そのベースデザインの多様さは圧倒的なのですが、その後、たまたま脊椎動物に連なる生物が生き残って、両生類や爬虫類、哺乳類のベースデザインになりました。

    ▲バージェス動物群の代表格のひとつ「アノマロカリス」(【最強最大の捕食者】アノマロカリスという大スター【カンブリア紀の覇王】 より)
     脊椎動物が5本指をしているというのは、最初に両生類の指が5本になって、それ以降は基本的にまったく変化していないんです。1回ベースデザインができてしまうと、そのベースのなかで進化していくわけです。しかしベースデザインができる前は、バージェス動物群のようにそもそものベースデザインのバリエーションがたくさん出てきていた。さらに言えば、脊椎動物系が生き残ったのはあくまでも偶然であって、合理的な選択の結果ではないんです。
     こうして考えていくと、「60~70年代はベースデザインのない時代だった」と言えるかもしれません。だからこそたくさんの実験的なデザインが花開いたのではないか、と。たとえば『ウルトラマン』なら、隊員が巨大化して怪獣と戦うという新しいベースデザインがここで生み出されたということではないでしょうか。
    浅子 ベースデザインとして残ったものが、必ずしもプラットフォームとして優れていたわけではないということですよね。
    宇野 たしかに、ジャンルの勃興とともにベースデザインは生まれるものなんですよ。特撮が生まれたから成田亨のベースデザインが生まれ、乗り物としてのロボットが発明されたからこそガンダムがベースデザインになった。要するに「近年はジャンルを作ることができていない」ということに収斂されていくんじゃないですか。
     60~70年代にアメリカのサブカルチャーの受容とそのローカライズに基本作業は完了してしまっていて、それ以降サブカルチャーはベースデザインの枠内での進化を遂げていったわけです。80年代以降にジャンルそのものとして新たに生み出されたものは「テレビゲーム」ぐらいしかない。
    浅子 しかし、そう考えると、特撮はこれまで人間が怪獣の着ぐるみに入っていたものが、CG全盛に変化したんだから、全く違うものが生み出されていてもおかしくないですよね。にも関わらず、新しいものが出てきていないのはなぜなのでしょう?
    宇野 技術の進歩とジャンルの創出は、それほど相関していないんじゃないかと思います。円谷英二が『ウルトラマン』を撮影したときの特撮の技術はほぼ戦中に開発されていて、その技術を「テレビ番組として毎週一本作る」というフォーマットに合わせてはじめて『ウルトラマン』が生まれた。ジャンルの創出には技術の進歩よりもむしろ、メディア的な要請のほうが要因として大きい。
    浅子 海外の映像業界で言えば、特に『24』以降、「テレビドラマ」がこれまでとは違う意味で勃興してきたと言えるとは思います。だけどテレビドラマという形式自体は昔からあるものなので、現代のテレビドラマの特徴は、予算や時間など様々な制約のために映画ではできないことを、テレビドラマという旧いフォーマットを再利用して新しい表現形式でやっている点にある。ただ、これだけでは「ジャンルを生み出した」とまでは言えないですよね。
    門脇 ベースデザインを変えるのはものすごくエネルギーが必要ですが、今あるベースを開発側が改変し、二重三重にひねくれたストーリーを考えて、各世代の好みに合わせていく「コンテンツデザイン」は比較的エネルギーが少なくて済むというのはあるんじゃないですか。ハリウッドの映画と海外ドラマの関係もそうですし、もともとのロボットアニメである『ガンダム』シリーズと、その奇形的進化であるSDガンダムの関係などもそうなんじゃないかな、と思います。
    ■ キャラクターを現実の風景と対決させることによってベースデザインが生まれる
    門脇 初期の『ガンダム』のモビルスーツは兵器であるという側面が強くあったと思うのですが、SDガンダムはそのエッセンス自体もなくなっていて、ベースとして残っているのは人型のロボットということくらいですよね。
    宇野 ガンダムってそもそも基本的には重火力型ではなくて、高機動型でスマートなんですよ。つまりストレートにマッチョで力強いものではなく、むしろスピード重視の高機動なもので、これって日本人の文化的でインテリ寄りの男性の自意識に結びついていたと思うんです。
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  • 【前編】〈デザイン〉としての立体玩具――レゴ、プラモデル、ミニカー、鉄道模型(浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛「これからのカッコよさの話をしよう」vol.5) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.358 ☆

    2015-07-03 07:00  

    【前編】〈デザイン〉としての立体玩具――レゴ、プラモデル、ミニカー、鉄道模型(浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛「これからのカッコよさの話をしよう」vol.5)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.7.3 vol.358
    http://wakusei2nd.com


    本日は、好評の鼎談シリーズ「これからのカッコよさの話をしよう」第5弾です。今回は、宇野常寛プレゼンツのスケールモデル/キャラクターモデル論。模型やレゴ、キャラクターモデルなどの立体製作物から、現代における「モノ」=コンテンツを考えていきます。(今回は前編を配信します。後編は近日中に公開予定!)
    ▼「これからのカッコよさの話をしよう」これまでの記事
    (vol.1)これからの「カッコよさ」の話をしよう――ファッション、インテリア、プロダクト、そしてカルチャーの未来
    (vol.2)無印良品、ユニクロから考える「ライフデザイン・プラットフォーム」の可能性
    (vol.3)住宅建築で巡る東京の旅――「ラビリンス」「森山邸」「調布の家」から考える
    (vol.4)インテリアデザインの現在形――〈内装〉はモノとヒトとの間をいかに設計してきたか 
    ▼プロフィール
    門脇耕三(かどわき・こうぞう)
    1977年生。建築学者・明治大学専任講師。専門は建築構法、建築設計、設計方法論。効率的にデザインされた近代都市と近代建築が、人口減少期を迎えて変わりゆく姿を、建築思想の領域から考察。著書に『シェアをデザインする』〔共編著〕(学芸出版社、2013年)ほか。
     
    浅子佳英(あさこ・よしひで)
    1972年生。インテリアデザイン、建築設計、ブックデザインを手がける。論文に『コムデギャルソンのインテリアデザイン』など。
     
    ◎構成:有田シュン、中野慧
    ◎撮影:編集部
     
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  • インテリアデザインの現在形――〈内装〉はモノとヒトとの間をいかに設計してきたか(浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛「これからのカッコよさの話をしよう」vol.4) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.325 ☆

    2015-05-19 07:00  
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    インテリアデザインの現在形――〈内装〉はモノとヒトとの間をいかに設計してきたか(浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛「これからのカッコよさの話をしよう」vol.4)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.5.19 vol.325
    http://wakusei2nd.com


    本日のメルマガは、浅子佳英さん、門脇耕三さん、宇野常寛による好評の鼎談シリーズ「これからのカッコよさの話をしよう」第4弾です。今回のテーマはインテリアデザイナー/批評家である浅子さん企画による「インテリアデザインの現在」。最新のショップデザインひしめく表参道・中目黒を巡り、リノベブーム以降のインテリアデザインを考えます。

     
    ▼これまでの記事
    (vol.1)これからの「カッコよさ」の話をしよう――ファッション、インテリア、プロダクト、そしてカルチャーの未来
    (vol.2)無印良品、ユニクロから考える「ライフデザイン・プラットフォーム」の可能性(「これからの『カッコよさ』の話をしよう」第2弾)
    (vol.3)住宅建築で巡る東京の旅――「ラビリンス」「森山邸」「調布の家」から考える(浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛「これからのカッコよさの話をしよう」第3弾) 
     
    ▼プロフィール
    門脇耕三(かどわき・こうぞう)
    1977年生。建築学者・明治大学専任講師。専門は建築構法、建築設計、設計方法論。効率的にデザインされた近代都市と近代建築が、人口減少期を迎えて変わりゆく姿を、建築思想の領域から考察。著書に『シェアをデザインする』〔共編著〕(学芸出版社、2013年)ほか。
     
    浅子佳英(あさこ・よしひで)
    1972年生。インテリアデザイン、建築設計、ブックデザインを手がける。論文に『コムデギャルソンのインテリアデザイン』など。
     
    ◎構成:中野慧
    ◎撮影:編集部
     
     
     ある春の晴れた日の午後、浅子佳英さん、門脇耕三さん、宇野常寛の3人はデザインとインテリアのメッカ、表参道に降り立ちました。
     

    ▲表参道の交差点。収録当日は天気にも恵まれていました。
     
     浅子さんの案内のもと一行がまず向かったのは、イソップ青山店。
     

    ▲イソップ 青山店
     
     〈イソップ〉はオーガニックなスキンケア、ヘアケア、ボディケア製品を販売し世界的に人気を得ているオーストラリア・メルボルン発のブランド。この青山店は日本初のショップで、建築家・長坂常さんのデザインによるもの。元あった内装を引き剥がし、スケルトンにして空間を広く使ういわゆるリノベーションなのですが、壁や天井は塗装すらされておらず、別の場所で解体された住宅の廃材や家具を再利用しているのが特徴です。
     
     そして次に向かったのは、表参道の大通りから少し入った場所にある「イザベル・マラン東京」。
     

    ▲表参道にある「イザベル・マラン東京」
     
     〈イザベル・マラン〉は、フランスのファッションブランド。インテリアデザインはフランスの若手建築家集団CIGUË(シグー)によるもので、〈イソップ〉同様、もともとあった建物のリノベーション。ファッションブランドとしては珍しく木造の建物の2階をショップにしていて、やはり元々あった内装はすべて引き剥がし、木の軸組は全て露出しています。そこに異素材として、FRP(繊維強化プラスチック)でできた大きな照明やフィッテイングルームが挿入されています。
     
     そして次に訪れたのは、ハイブランドの旗艦店ひしめく表参道の通りに面した〈セリーヌ〉でした。
     

    ▲CELINE(セリーヌ)表参道店
     
     こちらは〈イソップ〉や〈イザベル・マラン〉とは対照的に、床面積も広く2階建てでとても豪華な作りです。〈イザベル・マラン〉と同じくフランスのファッションブランドですが、こちらはどちらかというと昔ながらのハイブランド。〈セリーヌ〉の外観・内装をひとしきり見た後、再び青山方面に向かいました。
     

    ▲途中、話題の「ブルーボトルコーヒー」(写真2F)を通り掛かりましたが人が多かったのと、「まあ、ここはええよ、、」(浅子さん)ということで華麗にスルー……。
     
     そして青山の裏通りの細い道を行くと、そこには何やら要塞のような建物が……。
     

    ▲〈トム・ブラウン〉旗艦店(南青山)
     
     この〈トム・ブラウン〉は、50〜60年代のアメリカ黄金時代やケネディ大統領のファッションにインスピレーションを受けた服を販売するニューヨーク発のブランド。浅子さんによればこの要塞のような外観は、お店の内部を「黄金時代のアメリカ」として演出するため、外界から完全に切断する役割を果たしているのだそう。
     
     表参道・青山エリアでは最後に浅子さんおすすめのブランド〈リック・オウエンス〉の店舗を見学した後、中目黒に移動し、2000年代以降流行したライフスタイルショップの代表格〈1LDK〉へ。そして浅子さんの自宅兼アトリエにて座談会を収録しました。
     

    ▲中目黒にある〈1LDK〉。
     
     
    ■ 9.11/リーマンショック以降のリノベブームと〈中目黒的なもの〉
     
    宇野 今回はインテリアデザイナーを本業とするーー最近は建築家的な仕事、あるいはプロダクトデザイン的な仕事のほうが目立って来ているような気もしますがーー浅子佳英さんプレゼンツによる「東京インテリア巡り」です。まずは企画者の浅子さんから今回の趣旨の説明をお願いします。
    浅子 今のインテリアデザインは「リノベーション」が重要なキーワードになっているのですが、まずはそこに行く前にファッションとの関係から語るのが良いと思います。
     ファッションの世界では数年前から、「ノームコア」という言葉が話題になっています。ノーマルのハードコアという意味なので、そもそも語義矛盾のような言葉なのですが、いわゆる霜降りのジーンズとか白い靴下とか「ちょっとダサい人たちが着る普通の服をオシャレに見せる」というトレンドが生まれました。言ってしまえば「一般人のコスプレ」ですね。アメリカでまず話題になり、昨年あたりから日本でも言葉自体は定着してきました。ただ、これってもともとは様々なファッションの流行が行き着いた先のちょっとスノッブで嫌らしいものなんだけど、それがコピーのコピーのコピーのようなかたちで日本に入ってきた頃には「シンプルで定番の服を着ている人がオシャレなんだ」というような、逆転したかたちで受容されてしまいました。そこで象徴的なキーワードとして「スローフード」や「中目黒」がアイコンになったというわけです。
     今日見たなかでは、最後に行った中目黒の〈1LDK〉がわかりやすい例ですね。ノンウォッシュのジーンズにコットンシャツ、スウェットパンツにNEW BALANCEだったり、黒縁眼鏡にニットキャップなど、形としては普通なんだけど、上質な素材で作られているものだったり、定番品や日常で使えるもの、日々の暮らしで使えるものが逆転して流行のアイテムになっています。いわば「暮らし」がテーマなので食器なども一緒に売っています。
     話は変わりますが、90年代後半から2000年代前半にかけて中目黒がエリアとして急に注目されたことで地価が上がり、それまであった面白い店が出て行ってしまい、ダメな店ばかりが増えて行くという現象が起こりました。
    門脇 中目黒も、それ以前の原宿や代官山と同じような運命を辿ったわけですよね。ジェントリフィケーションによって地価や家賃が上昇して、実験的なショップを構えることのリスクが相対的に高くなってしまうという。そうなると、「その街のイメージ」を安易にコピーして貼り付けたようなショップが増えていきます。
    浅子 まさにそういう話で、〈1LDK〉はそんなふうに中目黒が駄目になったあと、メインの川沿いではなく裏通りに出店し、いわば中目黒が復活するための下支えをしたような店なんですね。そういう経緯もあって、僕は〈1LDK〉自体はとても好きなんですが、最近の中目黒周辺には、そのコピーのコピーのような感じでニット帽と食器を売るライフスタイル系のお店ばかりになっています。また同じ事を繰り返している。
     

    ▲〈1LDK〉の内装。シンプルでベーシックなアイテムが並んでいます。
    画像出典:http://1ldkshop.com/shop_info
     
    宇野 こんなこというとおしゃれな自意識をもった皆様方に怒られそうだけど、中目黒のああいったお店で売っているようなすごくシンプルな定番アイテムや、ライフスタイル系の食器とかって、無印良品で十分じゃない? って思ってしまうんだけど……。
    浅子 (笑)たしかにそのとおりで、ひとつひとつのアイテムを見たら普通のものばかりで、それをちょっとオシャレっぽくレイアウトしているだけに見えますよね。もちろん、それぞれの商品にもその文脈を知っている人には読み取れる違いがきちんとあるのですが、その差異は「サードウェーブ系男子」で話題になったおぐらりゅうじ氏も指摘しているように、NBの生産国の違いなど、外から見ればごく小さなものです。
     さらに重要なのは、その定番アイテムを細かく読み解いていくと、ジーンズにしてもニットキャップにしても、スニーカーにしてもすべて元々はアメリカの大量生産品だということです。なので、これらは元を辿ると、9・11やリーマン・ショックでアメリカが自信をなくしていくのと並行して進んだ現象だと思っています。つまり、未来志向でどんどん新しいものを生み出すのではなく、「古き良きアメリカを取り戻したい」という欲望の現れです。その象徴としてひとつ挙げられるのが、表参道で見た〈トム・ブラウン〉のようなブランドではないかな、と。
     

    ▲トム・ブラウン青山店の内装。50〜60年代の「古き良きアメリカ」を忠実に再現している。
    画像出典:トム ブラウン世界2店舗目の旗艦店公開 イメージはオフィス | Fashionsnap.com 
     
    宇野 なるほど! 2000年代にピクサーがCGアニメーション映画でやっていたような「古き良きアメリカ的男性性の回復」というノスタルジー消費が、ファッションやショップデザインの文脈でも起きていたというわけだよね。
    浅子 そうなんですよ! そもそも今のリノベーションブームには、シアトル発でポートランドやニューヨークにも出店して人気となった「エースホテル」が大きな役割を果たしています。それこそ、セコハンで買った大量生産品の古き良きアメリカの家具だったり、あまり作りこんでいないDIY的な内装のホテルで、すごく人気が出たんです。
     

     

    ▲アメリカ西海岸、オレゴン州はポートランドにある「エースホテル」。ちなみにポートランドは、「ブルーボトルコーヒー」を代表格とする「サードウェーブコーヒー」の発祥地でもあります。(この流れについて詳しくは佐久間裕美子さんの著書『ヒップな生活革命』(朝日出版社)をご参照ください)
    画像出典:http://www2.acehotel.com/ja/brochures/portland/
     
     僕自身は〈トム・ブラウン〉もエースホテルもとても好きなんですが、その劣化コピーの劣化コピーになってくると「古いものをそのまま使うのはいいことなんだ」というようなとてもベタな需要の仕方になってしまう。洋服で言うならノームコアのように「長く使える定番品を着ることが消費社会への抵抗なんだ」というような変な受け取られ方をしてしまう。
     でもこのままだと何も新しいものが生み出されません。この流れにどうやって対抗していくか、というのがここ5~6年のデザイン界のテーマだと僕は思っています。そのための対抗策のひとつとして「ラグジュアリーなもの」をどうやって現代的に表現していくか、というのがあるんじゃないか。ひとつは、最初に見た青山の〈イソップ〉を手掛けた長坂常さんのように、元々あった空間や物の意味を転換させるというのがありますね。
     

    ▲「イソップ 青山店」の内装
    画像出典:http://www.aesop.com/jp/article/aesop-aoyama-jp.html
     
     また、その次に見た〈イザベル・マラン〉では、古い建物をそのまま生かしつつも、FRPのようなハイテクな素材を混ぜたりして異種混合戦のような面白い空間をつくろうとしています。
     

    ▲「イザベル・マラン東京」の内装。もともとあった建物の骨組みを剥き出しにつつ、ブティック的な清潔感・高級感も同時に演出している。
    画像出典:http://www.isabelmarant.com/jp/stores/asia/japan/tokyo/1366-shibuya-ku.html
     
     さらに違う方向性だと、表参道で見た〈セリーヌ〉のように、箱自体はすごくシンプルなのに、ひとつひとつの作りが超絶豪華で見たことのない素材の使い方をするというものもあります。今の時代は、奇抜な形態のものばかりを並べるとウソっぽくなりすぎて醒めてしまう。だから大前提としてシンプルであることは引き受けつつ、そこにどういう介入や新しい提案ができるのかというのが、今の時代のインテリアデザインの課題なんじゃないかと思っています。
     

    ▲「セリーヌ表参道店」の内装。OSB(木材をチップ状にして固めた合板)などの安価な素材から大理石まで、さまざまな材料をミックスした什器が使われている。
    画像出典:https://www.celine.com/jp/celine-stores/asia-pacific/japan/tokyo/omotesando
     
     
    ■ 暫定一位としての〈セリーヌ〉
     
    宇野 今日見たいくつかのお店は、要は20世紀的なものを批評的に表現しているわけですよね。〈イザベル・マラン〉なら、20世紀半ばまでの工業社会がテーマで、そのために当時つくられたもともとの建物に機能として必要とされていた柱や配線をあえて剥き出しにすることで内装にしている。そしてもちろん、それだけだと単なる乱雑なものになってしまうから、配線をきっちりしたり新しい素材を入れ込んだり、色んな介入を行うことによってデザインとして完成している…って理解でいいですか?
    浅子 イザベル・マランというブランド自体は、工業社会が前面的なテーマになっている訳ではないと思いますが、インテリアをデザインしているシグーは自分たちで工房を持ち、本国のフランスでは手作業も行なっているので基本的にはその理解でいいと思います。
    宇野 一方で〈トム・ブラウン〉は2000年代のピクサーのように、黄金時代アメリカの「古き良き男性性」を現代的な感覚のなかで利用していくというものだろうし、〈セリーヌ〉はバブリーな贅沢さを、今の感覚で見てもダサくならないようにシンプルの中に過剰さを埋め込んでいる。今日見て回って、なんとなくこれくらいのことは想像がついたのだけど、浅子さん自身が今日見たなかで一番評価が高いのはどこなんですか?
    浅子 今のところは〈セリーヌ〉ですね。その理由は、現代的な潮流に合わせてリノベーション的な感覚を前面化するだけではなく「ラグジュアリー」について最も真剣に取組んでいるように見えるからです。
     また、〈セリーヌ〉にはもう一つ文脈があって、実は現在の〈セリーヌ〉表参道店は、これまでに改装を3回しているんですね。そもそも〈セリーヌ〉は老舗ブランドのひとつなわけですが、欧米の老舗ブランドって1990年頃から、そのままでは生き残れないからと新しいクリエイティブ・ディレクターを登用するようになりました。有名なのは〈シャネル〉のカール・ラガーフェルド、もうやめてしまいましたが、〈ルイ・ヴィトン〉のマーク・ジェイコブスなどです。
     そのような流れの中、〈セリーヌ〉も、2008年からフィービー・フィロという女性デザイナーをクリエイティブ・ディレクターに登用し、そのときにパリと東京のショップデザインも変えました。フィービー・フィロはこの時の改装も担当しているんですが、それらは、元あったインテリアをほぼそのまま残し、プラスターボード(石膏を紙で固めた下地材として使われる最も安価な材料)を仕上げとして、しかも嫌味たっぷりに裏返して使っていたのです。要はわざと工事中のような表層にしつつも、中の什器や服は今のように優雅でたっぷりと並べられていた。これってマダムが買うような高級ブランドとしてはありえないことで、もうそれだけで事件だったんですよ。
     そして昨年、2014年に今のようなシンプルでありつつラグジュアリーなお店に改装したのですが、お客さんからすると仮設のようなショップのあとにあれを見せられるわけで、驚きもより大きくなる。その2つの物語をつくったから〈セリーヌ〉は面白いと思うんですよね。
    門脇 僕も〈セリーヌ〉は素直に良いなと思いました。現代のデザインって虚構だけでは成立しないんですよね。「自分でばしっとキメながら、自分でツッコむ」というようなメタ視点がないと面白くない。〈セリーヌ〉はまさに、ラグジュアリーなものを作っておいて「全部ハリボテですよ」というネタばらしみたいなことをやっている。
     今日見たものはショップデザインで、10〜20分ぐらい居る場所だから、その中で長い時間を過ごす建築デザインの分野ではあまり参考になる感じではないんですけど、短時間しかいないとはいえ、キメキメのデザインをして「これかっこいいだろ!」っていうのは今はもう無理なんだなと改めて思いました。そこに酔いきれずに冷めた目をしているもう一人の自分を発見してしまって、居心地の悪い気分になる。
    宇野 僕が今回見たなかで一番辛いなと思ったのって〈トム・ブラウン〉なんですよね。あれぐらいテーマパークにしてしまうと、もちろん洗練されているんだけど、観光で鎌倉の大仏を見に行くような感覚でしかアクセスできない。
     その点、〈イザベル・マラン〉はシンプルライフ&スローフードの現代的な感覚に寄せるという点ではよくできていると思う。浅子さんも門脇さんも嫌いかもしれないけれど、あれって20世紀半ばまでの工業社会のイメージのパロディであると同時に、インテリアとしては最低限におさめて、つまり柱や配線自体をインテリアにするだけにとどめて、あとはただひたすら棚と台があって、そこにはどんな商品でも並べられるようにしてある。そして半分はその並べた商品のカラーで店の雰囲気が決まるわけだから、これは意外とどんなライフスタイルや文化、具体的には商品も許容できる内装だと思うんです。実際、ああいう内装のヴィレッジ・バンガードもあれば自然食の店もあるわけでしょう?
     

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  • 住宅建築で巡る東京の旅――「ラビリンス」「森山邸」「調布の家」から考える(浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛「これからのカッコよさの話をしよう」第3弾) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.284 ☆

    2015-03-18 07:00  
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    住宅建築で巡る東京の旅――「ラビリンス」「森山邸」「調布の家」から考える(浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛「これからのカッコよさの話をしよう」第3弾)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.3.18 vol.284
    http://wakusei2nd.com


    本日は、好評の「これからのカッコよさの話をしよう」第3弾をお届けします。今回のテーマは「住宅建築」。浅子佳英さん、門脇耕三さん、宇野常寛の3人で、東京にある3軒の住宅建築を巡りながら「住まい」のデザインと機能について考えました。
    ▼これまでの記事
    ・これからの「カッコよさ」の話をしよう――ファッション、インテリア、プロダクト、そしてカルチャーの未来
    ・無印良品、ユニクロから考える「ライフデザイン・プラットフォーム」の可能性(「これからの『カッコよさ』の話をしよう」第2弾)
     
    ▼プロフィール
    門脇耕三(かどわき・こうぞう)
    1977年生。建築学者・明治大学専任講師。専門は建築構法、建築設計、設計方法論。効率的にデザインされた近代都市と近代建築が、人口減少期を迎えて変わりゆく姿を、建築思想の領域から考察。著書に『シェアをデザインする』〔共編著〕(学芸出版社、2013年)ほか。
     
    浅子佳英(あさこ・よしひで)
    1972年生。インテリアデザイン、建築設計、ブックデザインを手がける。論文に『コムデギャルソンのインテリアデザイン』など。
     
    ◎構成:中野慧
     
     
     「これからのカッコよさ」鼎談シリーズ第3弾となる今回は、門脇さんの発案で、都内にある3軒の有名住宅を一日かけて周りました。最初に訪れたのは80年代の集合住宅の代表作のひとつである、杉並区下井草の「ラビリンス」。そして90年代から00年代的方法論の最高傑作とされる「森山邸」を訪れ、その後はJR南武線に乗って多摩地区に向かい、2010年代的なリノベーション住宅である「調布の家」を訪れました。それぞれの時代精神を象徴する3つの住宅から見えてきた、これからの「住まいとライフスタイル」が向かうべき未来とは――?
     
    当日の宇野のツイートはこちらから。
    http://twilog.org/wakusei2nd/date-150122
     
     
    ■周辺環境からの〈切断〉と内部への〈演出〉――80年代の「ラビリンス」(杉並区井草/設計:早川邦彦建築研究室、1989年)
     
    宇野 今日のテーマは「建築めぐり」ということですけど、まずこのコンセプトメイクをした門脇さんから今日の趣旨説明をお願いします。
    門脇 今日は80年代、90年代から00年代、2010年代の各年代の建築デザインを代表するような、現在でも「カッコいい」と思える3つの有名な住宅建築を周りました。建築にはヒトの生き方そのものをデザインするようなところがあるので、いつの時代も「カッコイイ生き方・ライフスタイルとはどういうものか」を考えているところがあるんだけれども、その「カッコよさ」がどんな世界観・空間観に基づいているのかを紐解きつつ、そもそも各時代の「カッコよさ」が、周辺領域のどういう文化と関連しながら形成されていったのかも考えていきたいと思っています。
     最初に行った「ラビリンス」は、80年代トレンディドラマの代表格である『抱きしめたい!』(1988年放映、フジテレビ系)で、主演のW浅野(浅野温子・浅野ゆう子)のうち、浅野温子のほうが住んでいたマンションを設計した早川邦彦さんの作品なんですね。そのマンション(=「アトリウム」)は中野区にあったんですが、すでに取り壊されてしまっていることもあって、下井草にあるこの「ラビリンス」を訪れることにしました。これはいわば「デザイナーズマンションの走り」ですね。
     

    ▲「ラビリンス」の外観。中庭を囲むように敷地の周縁部に建物が配置されています。
    (写真提供:早川邦彦建築研究室)
     

    ▲フジテレビ開局50周年記念DVD 抱きしめたい! DVD BOX
     
    浅子 「アトリウム」も、この「ラビリンス」と同じくパステルカラーが全面的に使われているのですが、さらに尖った色とデザインで水盤まであったんですよ。あそこまで作り込んだ外部空間は中々ないのでもう一度見たかった! 最近は80年代的なもののリバイバルがあり、それこそ復活したKENZOにはとても似合ったはず。なくなったのがとても残念ですね。 それはともかく、2つとも、中庭を公共スペースとして大きく取り、その周りを住戸で固めるという設計になっています。
     

    ▲各住戸への階段は複雑に張り巡らされています。
    (写真提供:早川邦彦建築研究室)
     
    門脇 我々は建物のブロックとしてのまとまりを「ボリューム」と言うんだけれど、ボリュームの中庭側はさまざまな色で彩られていますが、街並みと連続する道路側は実は落ち着いた色に塗られています。そのことによって、中庭側に足を踏み入れた瞬間にハッとするような、すごく特異な「カッコいい」世界が、まさに「演出」されている。
    浅子 一方で各住戸の内部のプランは割とオーソドックスで、そんなに特殊なものではないんですよね。
    宇野 ちなみにあの中庭の共用部はどう使われてたんですか?
    門脇 詳しいことはわかりませんが、基本的にはあまり使われていないと思います。ただ、集合住宅として考えると、あそこで家族の記念撮影とかはしたんじゃないかな。普通のマンションって家族写真を撮りたくなるような場所はないけれど、集合住宅にそういうフォトジェニックなスペースがあるというのはすごく良いことだと思います。
    浅子 あとは、集合住宅の機能的なこととは別に、階段を抜けると全然違う場所にたどり着くという「迷路」のような空間自体を作りたかったということもあると思います。
    門脇 迷路性と関連させると、「ラビリンス」は面ごとにさまざまな色が塗られていて、それが重層的に重なることによって、奥行きのようなものが作り出されています。建築的には色々ルーツが考えられますが、すぐに指摘できるのが、建築史家であり建築家でもあったコーリン・ロウによる「透明性」についての議論です。コーリン・ロウは、モダニズムの代表的な建築家であるル・コルビュジェの作品分析を通じて、さまざまな面が重なり合って奥行き感が生まれるような空間を、視線は抜けなくても体験的には「透明」であると位置付け、後の建築に大きな影響を与えました。「ラビリンス」の色の塗り方は、カラースキームとしてもコルビュジェの作品に通じるものを感じますので、モダニズムの文脈との結びつきは強く感じます。
     ただやっぱり、当時の80年代の日本のポップカルチャーとの結びつきも大きい気はしますね。
    浅子 さっきの『抱きしめたい!』もそうだし、今改めて見ると、色使いに関してはわたせせいぞうのイラストや、江口寿史の『ストップ!! ひばりくん!』に近いものがある。 ポップさや、 アメリカ的な物をそれこそ平面的に取り入れる80年代のあのちょっと浮かれた感じの世界観。やっぱり建築史的なルーツとは別に、他ジャンルとの近接性を感じますよね。
     

    ▲わたせせいぞう 卓上ポストカードカレンダー 2014年度版
     

    ▲ストップ!!ひばりくん!コンプリート・エディション 2
     
    門脇 80年代のイラストって、ベタに塗った面の上に星や三角形などの記号的なアイコンを散らせたりするなど、面としての重層性で奥行きを出すという方法で、作り方としては近い感じがある。
    浅子 2015年の感覚でみると、そもそも共用部をあれだけ広く取るというのがいまいち理解できないはず。だって、普通に考えたら、あの空間には何の機能もないしメンテナンスも大変だし、それだったら一つ一つの住戸がもっと広いほうがいいですよね。ただ、当時の感覚からすると、建築家というのは、それなりの規模の建築を作る場合には、そこに住む住人のためだけではなく、周囲の人々のために公共空間を作らなければならないという意識があったんですよ。実際にあそこが公共的な役割を持てていたかどうかは別にして。
    宇野 しかしこれは単純なツッコミですけど、下井草のど真ん中にああいう建物があったとして、周辺住民は景観被害のように捉えなかったんですか?
    門脇 周辺にはきちんと配慮していて、敷地を囲むように建物を配置して、周辺と切断した上で、中に独自の空間を生み出しているんですよね。だからこそ「演出」的な感じを強く受けるとも言える。けれどもそのように「表」と「裏」を作らざるをえなかったことへの反動として、90年代、00年代の「裏表のない世界」への志向につながっていく。同じ頃、周辺領域にもトレンディドラマのようなキメキメの世界観から自然体へという流れがあって、おそらく建築界にも共通した雰囲気はあったんじゃないかな。
     

    写真提供:早川邦彦建築研究室
     
     
    ■90年代・00年代デザインの結晶としての「森山邸」(東京都南部/設計:西沢立衛建築設計事務所、2005年)
     
    門脇 そうした中で、90年代になると、たとえば雑誌なんかだと文字組みを均一にしていって、すべてがフラットなものが「カッコいい」とされる時代になっていくわけです。その流れの中に、次の「森山邸」も位置付けられると思います。
     

    ▲「森山邸」の外観。大小様々なかたちの「箱」が並んでいて、それぞれが住人の部屋になっています。オーナーの森山さんによれば、左側の建物の屋上スペースでは住人同士でバーベキューをしたり、さらにはここで出会って結婚した方までいらっしゃるそうです。
    (C)TakeshiYAMAGISHI
     
     ちなみに「森山邸」の設計者の西沢立衛(にしざわ・りゅうえ)さんは、妹島和世さんとプリツカー賞(建築界でももっとも権威ある賞)を受賞していて、お二人は世界的な建築家ユニットです。
     この住宅は「ラビリンス」のような演出された空間とは違って、「日常世界にいかにフラットに連続させていくか」という問題意識に基づいているように思えます。周辺から切断された特異な世界を差し込むのではなく、外の世界との連続のなかからどのように日常を豊かにしていくか、というアプローチをしているんですね。
    浅子 これまで見た事のないほど強烈で新しいデザインでありながら、小さな建物の多い周囲の街並みに溶け込むようにもなっているんですよね。
     あと「森山邸」が特徴的なのは、塀がないこと。「ラビリンス」はある種の閉ざされた世界をつくっていたけれど、こちらは小さな庭をいっぱい配置しながら敷地の外側の世界とも完全に連続している。
     

    ▲下町風景の残る周辺の街並みにもそれほど違和感なく溶け込んでいます。
    (C)TakeshiYAMAGISHI
     
    宇野 あれは非常に素晴らしいと思いましたね。敷地内の地面や木を、窓の配置や採光を工夫することで間接的に取り込んでいく。建物外の環境に対して切断的でなくて連続的な空間になっているわけですよね。
     さらにいえば、それほど広大とはいえない敷地のなかでも、窓の位置や大きさを使って部屋ごとに取り込む風景を変えているじゃないですか。あの狭い空間の中に、あれだけ多様な文脈を共存させるという設計は舌を巻くものがある。
    浅子 「森山邸」もラビリンスと同様に集合住宅なのですが、一見適当に箱をばらまいているだけに見えて、たとえば隣の棟の窓がふたつとも開いていると、自分の窓から他人の家の窓を貫通してさらにその先が見える、というように実はとても緻密な設計がなされている。写真だと平面的に見えるんだけど、実際にはすごく奥行きが感じられますよね。
    宇野 その上で、ちゃんとプライベートな空間も確保されていて、非常に計算されていますよね。今日(収録は1月下旬)は雨だったこともあって家の中がすごく寒かったんだけど、その問題さえなければ、ビジュアル的・空間的には一番魅力的な住宅だと思いました。
    浅子 実際、この「森山邸」がこの十数年の住宅建築のなかではもっとも素晴らしい建築だと言ってもいいと思いますよ。宇野さんの言っている寒さの問題にしても、それほど広くない敷地のなかにたくさんの部屋を共存させるためにはどうしても壁を薄くせざるをえないというところもある。要は外壁を間仕切り壁のように扱っているわけで、建物ひとつひとつそして庭がそれぞれ部屋になっていて、リビング、ベッドルーム、キッチンやお風呂がそれぞれ独立し大量にばらまかれているわけだから。
     

    ▲建物の中にも外にも読書やお茶ができるスペースが。ちなみにこの棟の梯子を登った上の階には「茶室」があります。
    (C)TakeshiYAMAGISHI
     

    ▲森山さん専用のバスルーム。こちらも独立した建物になっています。森山さん曰く「露天風呂のように使っていて、雪の日なんかはとてもお風呂が楽しいんです」。共同風呂ではないのに他の住人の方も時折「借りたい」と言って入るんだそう。
    (C)TakeshiYAMAGISHI
     
    門脇 「森山邸」では、私的な領域を細かくして敷地にばらまいた結果、公共スペースも細かくなっているわけですが、小さな公共スペースは親密な雰囲気を醸し出しはじめていて、私的領域と公共的領域が境目なく混じり合ってしまうんだよね。
    宇野 住民がよく屋上でバーベキューをしているって話が象徴的ですよね。ただ、僕が気になったのは入居者のライフスタイルというか、センスがどの部屋も似たり寄ったりになっていたこと。
    浅子 共通チケットが要る、ということですね。
    宇野 意外と住むのが難しい部屋で、若い人がうっかり住んじゃうとことごとく代官山のショウウィンドウのような、いわゆる「オシャレ」な生活が並んでしまうことになってしまうんだと思う。
    門脇 ある程度他人の部屋が見えてしまうということによって、むしろ自分の生活をディスプレイする欲求が生まれてしまう。
    宇野 やっぱり限界があると思うのは、ここには変態は住めないこと。生活が丸見えだから。特に日本の場合、ある特定の文化的コミュニティの中で承認されているライフスタイル以外は、あそこまでオープンにすることはできない。浅子さんの言う通り、暗黙のうちに特定の文化圏の住人であるというアピールを要求されてしまっていると思うんだよね。建物を取り巻く文化状況とのかかわりの中で、Facebookのリア充写真投稿がみんな同じパターンになるのと近い現象が起こってしまっていると思う。
    門脇 80年代的作り方は「演出」的だから、物語的なアイテムをたくさん使っているんですよね。壁をチェック状にペイントしてみたりだとか。それはあくまで見せる場所、つまり公的な領域でしか発露しなかったのだけど、「演出」だからこその非日常性にも到達できた。その非日常性が私的領域にも及べば、「変態」と表現されるような異質なものの宿り代にもなり得たかもしれませんが、それはいずれにしても「表」と「裏」の切断をもたらしかねない。ジレンマですね。
     デザイン言語的にも、80年代的な「演出」に対する反動として、90年代から00年代は徹底的に抽象性を志向した時代です。建築にはもともと屋根とか庇(ひさし)とか、雑多なものがくっついてくるんですが、そうした雑多なものを徹底的に排除して、四角いシンプルなかたちにして、色も白で、というようにダイアグラム的に空間をつくろうという意識が強い。で、「森山邸」になると「集合住宅を解体して四角の箱にしてばら撒くという論理的な操作だけで空間が作れますよ」というダイアグラム的方法論の達成に至るわけです。
     ところがそうした表現は、浅子さんがこれまで2回の座談会で指摘してきたような「白いもの」、つまりアートギャラリーのような空間に近づいてしまう。「白いもの」は00年代に蔓延しきった結果、文化的な記号としても作用するようになってしまったから、そこで宇野さんの言っているような排他性の問題も生まれてしまうんだと思います。
    浅子 屋根だったら雨を受けて下に流すという機能があるし、壁だったらまた違う機能があるんだけど、例えば森山邸は屋根も壁も床も同じ鉄板で出来ている。本来は別々の材料で、別々の作り方で作っていたものを1つの要素で作ってみようという挑戦をした結果、デザインとしては極端にシンプルになったのだけど、なってしまったとも言える。
    宇野 ウェブデザインもそうだけれど、ああいった一種のミニマリズムって、画一的なプラットフォームの上に多様なコミュニティを花開かせるために採用されているものじゃないですか。でも建築の場合、森山邸のような達成ですらも、多様性を生むことに成功していないような気がする。これはどうしてなんでしょうか?
    門脇 建築の場合は「プラットフォームであろう」としても、それ自体がどうしても形を持ってしまうんですよね。
    浅子 つまり、コンテンツの側面がどうしても出てきてしまって、単純なプラットフォームだけにはなりえない。「森山邸」のデザインも様々な人を受け入れるプラットフォームとしての機能より、この見た事のない新しく面白いデザインの家に住みたい、というコンテンツの機能のほうが大きいんじゃないかと思うんです。
    宇野 つまり建築という存在自体が、定義的にミニマルであり得ないと。ミニマルというイデオロギーにはなり得るけど、ミニマルなプラットフォームにはなり得ない。
    門脇 建築が存在を感じさせないようなものになり得るのであれば、それこそオープンなプラットフォームだと言えるんでしょうが、建築のデザインとして、それは白くてミニマルなものではない、ということなのでしょうね。
     
     
    ■多様なものを包摂する「住まい」とは?――「調布の家」(調布市調布ケ丘/設計:青木弘司建築設計事務所、2014年)
     
    門脇 この新たに生じた問題をどう乗り越えるのかということについて、ひとつの解答を示していると思えるのが、最後に見た「調布の家」です。
     

    (C)TakeshiYAMAGISHI

    ▲一見普通の集合住宅の1階・2階と屋根裏部分をぶち抜き、三階建ての居住スペースにリノベーションした「調布の家」。3階から下を見ると2階部分とガラスで隔てられた1階部分が少し見えます。
    (C)TakeshiYAMAGISHI
      
     この住宅は「建築が本来持っていた雑多な要素はそのまま扱っていいんじゃないか」という思想で作られている。その建築の雑多な要素ひとつひとつをデザインとして自律させて、バラバラに見せていくと、建築のスケールが空間未満に小さく解体されて、家具とか人とか犬とか、建築以外の要素とも混じり合ってしまう。そういう作り方ですね。
     また、「調布の家」は敢えて仕上げを剥がしたり、逆に仕上げをしていたり、古いものを残したり、新しいものを作ったりと、とにかく情報を増やすような設計になっています。
     

    ▲2階部分。写真右下の暖炉の熱が上下の階に行き渡り、室内はとても暖かかったです。
    (C)TakeshiYAMAGISHI
     
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  • 【再配信】無印良品、ユニクロから考える「ライフデザイン・プラットフォーム」の可能性 ーー浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛「これからの『カッコよさ』の話をしよう」第2弾 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 号外 ☆

    2015-02-21 16:30  
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    無印良品、ユニクロから考える 「ライフデザイン・プラットフォーム」の可能性 (浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛「これからの『カッコよさ』の話をしよう」第2弾)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.2.21 号外
    http://wakusei2nd.com


    「ほぼ惑」では不定期で過去の好評記事を再配信中! 今回は昨年10月に配信した、建築家の門脇耕三さん、インテリアデザイナーの浅子佳英さん、そして宇野常寛を交えた鼎談シリーズ「これからのカッコよさの話をしよう」第2弾をお蔵出しします。 この回のテーマは、「無印良品」「ユニクロ」です!
    今月PLANETSチャンネルに入会すると、前回記事(これからの「カッコよさ」の話をしよう ――ファッション、インテリア、プロダクト、そしてカルチャーの未来)も読むことができます!
    なお、この「カッコよさ」鼎談シリーズの第3弾「住宅建築でめぐる東京の旅」は来月初旬に配信予定です。戦後の住宅建築の名作をまわりながら、「住まい」のデザインと機能について考えます。そちらもお楽しみに!
     
    ▼プロフィール
    門脇耕三(かどわき・こうぞう)
    1977年生。建築学者・明治大学専任講師。専門は建築構法、建築設計、設計方法論。効率的にデザインされた近代都市と近代建築が、人口減少期を迎えて変わりゆく姿を、建築思想の領域から考察。著書に『シェアをデザインする』〔共編著〕(学芸出版社 、2013年)ほか。
    浅子佳英(あさこ・よしひで)
    1972年生。インテリアデザイン、建築設計、ブックデザインを手がける。論文に『コム デ ギャルソンのインテリアデザイン』など。
    ◉構成:中野慧
     
    ファストファッション、IKEAやニトリ、アップル製品など、ゼロ年代以降の私たちの生活に欠かせなくなった様々な「モノ」と「デザイン」について考えた前回の鼎談企画「これからの『カッコよさ』の話をしよう」。第2弾となる今回は、鼎談の収録前に、まず実際に門脇・浅子・宇野の3氏で、銀座の街にある様々なお店を廻ることにしました。
     
    3氏がまず足を運んだのは、世界一巨大な規模を誇るユニクロ銀座店。

    ▲銀座の中央通沿いにある、ユニクロ店舗でも世界最大のグローバル旗艦店「ユニクロ 銀座店」。12階建てだそうです。
     

    ▲床から天井まで隙間なく服が並んでいます。
     

    ▲Tシャツフロア。フロア全体に多種多様なデザインのTシャツがひしめいていました。ぶらぶらと見ていたら、浅子さんが当日着ていたスヌーピーTシャツと似たようなデザインのものを発見。「このTシャツけっこう高かったのにw!」(浅子さん)
     

    ▲女性ものの丈長のスウェットシャツが気になるという門脇さん。このあと「XLサイズなら僕でもダボッと着れそう」とのことで、お買い上げになっていました。
     
     
    ユニクロ銀座店の次に3人は、ユニクロ銀座店と渡り廊下でつながっているお隣のドーバーストリートマーケット(コム・デ・ギャルソンの川久保玲氏がトータルプロデュースするセレクトショップ)へと向かいました。

    ▲ドーバーストリートマーケット ギンザ。
     
    渡り廊下を渡るとそこには、ユニクロとはまるで別世界が広がっていました。好対照だったのはお店のレイアウト。通路は広く取りつつも縦にぎっしりと服を並べるユニクロと違い、様々なアイテムがゆったりと店内に配置されていました。
     
    ドーバーストリートマーケットを出た一行は、「無印良品 有楽町店」へ向かいました。
     

    ▲無印良品有楽町店。ここもかなりの大型店舗です。
     

    ▲無印良品の家。
     
    無印らしいアースカラーの服が並ぶ店内を分け入っていくと、目に入ってきたのはスチールの外壁(「金属系サイディング」というものだそう)の、「家」でした。そう、最近、無印では「無印良品の家」を販売しているとのこと。コンパクトなサイズながら、吹き抜けと、ガラス張り(でも断熱性も高いそうです)による採光のよさもあって、見た目以上にゆったりとした住空間。「暮らしに合わせて間取りが変えられる」とのことです。(出典:「無印良品の家」ホームページ )
     
    その後、一行はクロムハーツ、ミュウミュウ(MiuMiu)、Aesop(イソップ)、フライターグなどを回ってこの日の街歩きを終えました。
     
     
    ■ユニクロとコム・デ・ギャルソン、何が明暗を分けたのか?
     
    宇野 まず簡単に前回のおさらいをすると、今の時代のファッションは、ノームコア(※ノーマル+ハードコアという意味の造語。スティーブ・ジョブズの「いつも黒のタートルニットにジーンズ」というスタイルに代表されるような、極めてシンプルなファッションのこと。最近のファストファッションの隆盛を受けたトレンドでもある)的なものが優位になっている。そしてその潮流は一部で「身体自体を鍛えるのが真のオシャレであり、自分の身体さえしっかり鍛えていれば着るものはなんでもいい」という五体満足主義的な思想に回収されつつある。それはファッションが本来持っていた「やせっぽちでも太っていても、工夫しだいでカッコよく、気持ちよくなれる」という、文化としての豊かさがやせ細ってしまっているということでもある。こういう現状に対する違和感は共有されていますよね。
    そこに対して例えばデザイナーである浅子さんは、ノームコア的なものを批判して「新しいラグジュアリー」のような価値を提示していくことが必要なのではないかという立場でした。
    また、鼎談のなかで見えてきたのは、ファッションだけでなく、インテリアや建築のような「デザイン」と言われる世界ではどこでも、90年代以降に似たようなことが起こっているのではないか、ということでした。
    今日は第二弾ということで、ファストファッションからデザイナーズブランドまで、銀座のいろいろなお店を実際に回ってきたわけですが、みなさんは改めてどう感じましたか?
    浅子 やっぱりユニクロが今強いのは、面白いデザインの服を揃えているわけではないけれど、カラーバリエーションやちょっとしたデザインの違いの製品を大量に揃えていて、その「多くのものから一つを選ぶ」という体験自体に楽しさがあるからなんだと思いましたね。
    宇野 ショッピングにゲーム的な楽しさがあるということですよね。
    浅子 そうです。銀座店は特に、12階建てなのにもかかわらず、フロアのレイアウトがほとんど同じだったりして、あの感じは僕自身はそんなに好きじゃないんだけど、実際に上から下まで全部見て回ると本当にゲーム空間にいるようで面白かったです。
    門脇 ユニクロの店内のレイアウトは「とにかく下から上まで整然と服を並べる」という思想ですよね。対照的だったのはそのあとに行ったドーバーストリートマーケットで、店内に余白をたくさん取っていました。あれは「アート的に見せる」というテクニックなんだけど、物量としてはユニクロよりも全然少ないですよね。そうすると服の一点一点が高くならざるをえない。置いているモノはカッコいいんだけど、トータルで見るとどうしても元気がないように見えてしまった。
    浅子 僕は立場的にコム・デ・ギャルソンを擁護するしかないんだけど、たしかに銀座店は少しゆったりしすぎているかもしれないですね。ただ、最初にできたロンドンのドーバーストリートマーケットはとてもエキサイティングな空間です。もともとオフィスか何かだった建物に、川久保玲やセットデザイナーなどが介入して百貨店にしてしまっている。たとえばエスカレーターでなく階段で登らないといけなかったりとか、フロアの使い方もわけのわからないことになっていて。
    そもそもドーバーストリートマーケットの面白さって、コム・デ・ギャルソンというブランドが、自分たちの服を売るだけではなく様々なブランドの服を売ったり、アーティストの作品を展示するスペースをつくったり、ある種のプラットフォームとしてお店を構えたところにあると思うんですよ。
    ただ銀座のお店はやっぱり、「ギンザコマツ」という百貨店の建て替えで用意された空間に出店しているから、そういう面白い化学反応が起こらなかったんだと思います。だからそこを責めるのはちょっと気の毒な感じがするんですよね。
    門脇さんは店内のレイアウトのことを指摘されたけど、インテリアのデザイナーとして言うとやっぱり余白というか、そもそも白い壁が良くないと思う。確かに白い壁にするとニュートラルであるかのようにふるまいながらも簡単に綺麗に見せることができるんだけど、それは何も考えていないということの裏返しでもあるんですよね。
    門脇 結局現代アートもそうだけど、白いところにポツーンと何かゴミが置いてあるだけでアートに見えたりするんですよ。それ以外の見せ方を開発できてないのはちょっと残念だった。そういう意味ではユニクロの見せ方のほうが面白かったですよね。
    宇野 ユニクロって、ある時期まではフリースだったり、インナーや寝間着を買うお店というイメージで捉えられていましたよね。で、誰が着てもそこそこ似合うものを、豊富なカラーバリエーションで提供していたのがフリース時代だとすると、今は第2段階、いわばUT(=ユニクロのTシャツ)以降の時代に入っていると思うんですよ。
    UTって色々な企業のロゴだったり、スヌーピーやディズニーなどのキャラクターイラストに、多種多様なカラーバリエーションを掛け合わせるという発想でつくられていますよね。あれってインターネット以降の感覚だと思っていて、要するに統一されたフォーマットに多様なコンテンツを流し込むことで無限にバリエーションを生成できるということだと思うんです。そういう思想が商品ラインナップだったり、レイアウトの方法とも結びついていて、UTという独特のジャンルを生んでいるんじゃないか、と。
    門脇 フォーマットが決まっているからこそ多様な表現が生まれてくる、ということですよね。僕には商品そのものとしてあれが良いのかどうかピンと来ないところがあるけど、でもあれだけのバリエーションがあるなかで選ぶという体験はたしかに楽しかった。さっきもスウェットを買ったけれど、たぶんドーバーストリートマーケットに並んでても買わないんじゃないかな。たくさんのバリエーションが並んでいるなかで気に入ったものを見つけて、買ってしまう。そういう体験を含めて買っている気がしますね。
     
     
    ■「バブルの鬼子」としての無印良品
     
    宇野 これは都市部に限った話かもしれないけど、ユニクロと無印良品ってもうインフラみたいになっているじゃないですか。「あ、この街って駅前にユニクロと無印あるんだ、便利だね」とみんな思ったりする。だからこの2つの企業って、日本の生活文化においては非常に強いと思うんだけど、でも今日見ていて改めて思ったのは、ユニクロはまだ無印を倒せていないということなんですよ。要するに今の無印良品はライフスタイルそのものを提案できているけど、ユニクロはまだそこまで行けていない。
    たとえばユニクロの主力製品であるヒートテックひとつとっても、「冬のファッションで重ね着させない」ということを目標にしたもののはずです。厚着させないということは、つまり「こういう身体が美しい」とか「こういう屋内ライフスタイルが気持ちいい」という提案であるはずで、それを延長していくと僕たちの身体観やライフスタイルの変革へと結びついていくはず。でも、今のユニクロのラインナップからはまだ「新しいライフスタイルの提案」まで読み取ることはできない。アイテム1個1個の持っている快楽やゲーム性に留まっていて、総合的なビジョンがまだないんだなあ、と思ってしまいました。
    一方で無印は、僕の考えでは言わばディフェンディング・チャンピオンだと思うんですよ。あそこに行くと衣食住全部ある――というか、今は家具だけでなく家まで売っているわけですからね。総合的なライフスタイルを提案できているわけです。たとえば僕はあの透明の衣装ケースも使っているし、食べ物にしても僕はMUJIカフェによく行くし、無印カレーも大好きなんですよ。
    そもそも、無印良品のコンセプトって基本的に「アンチバブル」だったわけですよね。80年代の消費社会=バブル的な価値観に対して距離をとりつつ、かといってニューエイジや昔のヒッピーのように消費社会を全面的に批判するわけでもなく、要するに「消費社会に対してはこれぐらいの中距離で付き合いましょう」というライフスタイルを提案している。
    浅子 いや、それもあるけれど、その前にみんな忘れているのは、僕らが子どもの頃の昭和の時代って、ともかくダサイもので溢れていたんですよ。布団がなぜか花柄だったり、家具も変な色に塗られていたり、ほとんどの家庭にはわけのわからないデザインのものがいっぱいあって、子ども心にあれがすごく嫌だったわけですよね。そこに対して無印は、「柄のない布団のほうがいい」というようなニュートラルでフラットでシンプルなデザインを提案し、支持を受けた結果、今やそれがスタンダードにまでなったと。
    宇野 無印だけが、モノだけでなく「こういうライフスタイルがいい」という世界観を提示するに至っているんじゃないかなと思うんです。そしてそれは90年代以降の世界的な潮流ともマッチしていた。たとえば宮台真司さんがよく言っているけど、スローフードが好きな奴って、エアコンの効いた部屋でスターバックスのコーヒーを飲みながら環境問題の本を読んで悩んだふりをしている人なんですよ。要するにスローフードとはグローバル資本主義下におけるアッパーミドル向けの優秀な商品にすぎないわけです。でも、それでいいと思う。だから無印良品は強い。僕も大好きです。あの「素材を大切にした」シリーズのカレーやスープのレトルトパウチは家に常備している。あれは、「レトルトのスローフード」という矛盾するコンセプトが同居しているわけなんですが、そこが素晴らしい。
    門脇 レトルト食品を排除するのではなく、レトルトをいかに美味しくて栄養バランスもいいものにしていくかという発想ですよね。ただ、無印の提案しているライフスタイルって、今ではちょっと古くなってしまっている気もするんです。「家族で郊外に住み、お父さんは電車で都心に通勤する」という昭和的モデルのバージョンアップで、まだその先に突き抜けられていないというか。
    宇野 無印はやはりバブルの落とし子なので、どうしてもそうなってしまうところはありますよね。それに、当初のコンセプトである「アンチバブル」が実はすごく狭いイデオロギーなので、その価値観が押し付けがましいと感じる人も多いと思うんですよ。たとえばこれだけ無印大好きな僕でさえも、ほぼアースカラーオンリーの衣料や、家具類の「柔らかい木目」のゴリ押しはちょっとしんどく感じることがある。浅子 正直、僕もそう思っていますよ。
    門脇 無印良品ってすごく哲学がしっかりしていて、「文明は共通化して文化は差異化する」という未来予測を展開しています。つまりグローバル化のなかで「感じのよい暮らしをリーズナブルに」という方向性はぶれずに追求していきつつ、それだとほかの国や地方、あるいは「無印的価値観にドンピシャな世代」以外には展開できないから、地域性や時代性に紐付いた文化で彩っていくということになるんだと思いますが、それだとどうしても既成の価値観を無印的にセレクトすることになってしまうから、まったく新しいものを生み出すことが難しくなってしまう。
    無印も本当は「新しいラグジュアリー」のようなものを追求すべきなんだけど、そもそものコンセプトが「オルタナティブなスタンダード」なので、クリエイションに根拠を与えるものが既にあるものにしかならない。無印のインパクトって確かに大きいし、それがいよいよ浸透してきた勢いも感じますが、次の時代を考えるとそこが弱いところだと思うんですよね。
    浅子 無印のデザインって文化の多様化と言うにはちょっと一本調子すぎますよね。たとえばヤンキーが作るわけのわからないバイクのようなものって、文化の多様化そのものだと思うけれど、そういうデザインのものは絶対に製品ラインナップに入ってこない。だからすごく偽善的な感じがするわけです。これは無印だけでなく、アップルのデザインにも言えることだと思うんですけど。
     
  • 【再配信】これからの「カッコよさ」の話をしよう ——ファッション、インテリア、プロダクト、そしてカルチャーの未来(浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛)☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 号外 ☆

    2015-02-14 17:30  
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    【再配信】これからの「カッコよさ」の話をしよう――ファッション、インテリア、 プロダクト、そしてカルチャーの未来(浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.2.14 号外
    http://wakusei2nd.com


    「ほぼ惑」では不定期で過去の好評記事を再配信中! 今回は昨年8月に配信した、建築家の門脇耕三さん、インテリアデザイナーの浅子佳英さん、そして宇野常寛を交えた鼎談をお蔵出しします。
    テーマはこれからの「カッコよさ」について。ユニクロを代表とするファストファッションに隠されたイデオロギーとは? そして、男子のカッコよさが向かう未来とは――?
    なお、この「カッコよさ」鼎談シリーズの第3弾「住宅建築でめぐる東京の旅」が今月末に配信予定です。戦後の住宅建築の名作をまわりながら、「住まい」のデザインと機能について考えます。そちらもお楽しみに!
     
    ▼プロフィール 門脇耕三(かどわき・こうぞう)
    1977年生。建築学者・明治大学専任講師。建築構法、建築設計、設計方法論を専門とし、公共住宅の再生プロジェクトにアドバイザー/ディレクターとして多数携わる。
     
    浅子佳英(あさこ・よしひで)
    1972年生。インテリアデザイン、建築設計、ブックデザインを手がける。論文に『コム デ ギャルソンのインテリアデザイン』など。
     
    ◎構成:池田明季哉、中野慧
     
     
    ■六本木には「カッコよさ」が必要だ――文化を更新するために
     
    宇野 今日は「これからのカッコよさの話をしよう」ということで、ごく私的に声をかけてお二人に集まってもらいました。なんでいきなりこんなことをはじめたかという話からしたいのですが、きっかけは先日僕が登壇したイベントのあるパネラーの発言です。それはどんな発言かというと、「身体自体を鍛えるのが真のオシャレであり、自分の身体さえしっかり鍛えていれば着るものはなんでもいい」というものなんですよね。
    僕はこの発言を耳にしたとき、正直愕然としたんですよ。その人は「痩せっぽちな人間や太った人間がどんな服を着ても似合わない」とか言うわけですが、それってほとんどナチスの五体満足主義と変わらない。自分が障害をもっていたり、健常者でも60代や70代になって筋力が落ちてきたら絶対にそんなことは言えないと思うんですよね。こんな発言が「リベラル」を自称する知識人から出てしまったことに、軽いめまいがした。
    そしてもうひとつ。この五体満足主義的なナルシシズムは文化的にあまりにも貧しい発想なんですよね。だってどんな体形の人間でも工夫次第でカッコよく、かわいく、あるいは気持ちよく過ごせるということがファッションの本質だし、それがなければファッションというか、文化自体が無意味なはずでしょう。でも、その場ではみんな「なんていいことを言うんだろう」みたいに頷いていた。それを見て、これは本当にどうにかしないといけないと思ったんです。
    最近、僕は自分のお客さんが、比喩的に表現して中央沿線や代官山、中目黒といった東京西部と六本木が代表する都心のど真ん中、どちらにいるのかをすごく考えているんです。中央沿線や代官山というのは、戦後的な中流文化の、とくに90年代以降の「文化系」の象徴ですね。こうした東京西部の「いい街」には戦後的な文化が残っているけれど形骸化して久しい。仕事ができない編集者ほどゴールデン街で飲みたがる。「本や映画が好き」なんじゃなくて、「本や映画が好きな自分が好き」なだけな人たちですね。
    対して六本木側に集まっているのはITや外資など、この二十年優秀な人たちがどっと流れ込んでいったジャンルが強い。彼らは、地頭が良くてポジティブで学習意欲も高くいけれど、壊滅的に話がつまらない(笑)。学習意欲も高くて、セミナーや勉強会が大好き。とにかく「自分のパフォーマンスを引き上げる」ことには一生懸命だけど、引き上げたパフォーマンスで何をやっていいかわからない。なんでそうなるかというと、彼らは効率化が得意だけれど、文化がないからですよ。
    そしてあの日、例のイベントで例の五体満足主義発言にうんうん肯いていたのは、見事にこの六本木クラスタだった。要するに、自分の外側に大事なものがない空疎なナルシシストは、あっさりと五体満足主義的な差別者になってしまうってことなんですよね。
    実は僕が東京で7-8年活動して出した結論は、自分の読者層としてはとりあえず後者に賭けようということなんです。前者は底に穴の開いた洗面器のようなものなので、いくら水を注いでも意味がない。だから今は文化的に貧しくても、後者の高い学習意欲に応えようと思って、そのイベントも意図的に六本木系が集まる場所とパッケージングで開催したのだけど、彼らが単に文化的にスカスカなだけじゃなくて、諸手を挙げて、先述したような排他的なナルシシズムに結びついてしまうことがわかって、正直ぞっとしたんですよね。
    少し解説を加えると、六本木的な、あるいはその参照元のアメリカ西海岸的な文化というのは、計算で設計主義的に「良い生き方」や「正しいあり方」を規定できると考えているところがある。でもそんなことは本当はありえなくて、究極的にはオカルトと結びついてしまい、五体満足主義や優生思想と結びついた危険なイデオロギーに至ってしまう。これは彼らのルーツにニューエイジ思想があるから。ニューエイジというのは要するに疑似科学で複雑化して拡散した社会の全体性を記述できる、という発想ですからね。それがテクノロジーを根拠に「よい生き方」を規定できるという発想に結びついている。先日のイベントでの五体満足主義への支持も、これに近いものがある。
    ただ、こういったものに対抗する言論として「文化というのは計算不可能なものだ」「計算不可能な他者に出会うためにリアルに回帰せよ」という東京西部的なアナログ懐古主義は頭が悪すぎる。どう考えても、この10年余りのデジタル文化はアナログな人間のコミュニケーションや自然環境を究極の乱数供給源としてむしろ積極的に利用することで、文化的多様性を育んで発展しているわけでしょう? アナログとデジタルがむしろ結託している今、東京西側的な考え方に戻っても意味がない。
    問題はむしろ、現代のデジタル文化がもつ文化的な多様性を、西海岸カルチャーを歪めて受け取った六本木の意識高い系たちがきちんと消化できずに、五体満足主義に傾いて文化を否定する方向に傾いていることだと思うんですよね。
    浅子 僕は「効率を求めること」自体は間違っていないと思うんです。実際にそれで豊かになるということもある。でも計算可能であるというスタンスのどこかに、自分はこれが好きだとか、カッコいいと思えるものがないと、結局は保守的なものに回帰してしまう。すごく古い肉体的な価値というか、たとえば「顔が男前なやつがかっこいい」といった観念に囚われてしまう。僕は宇野さんの言うニューエイジ的な考え方が、保守回帰に繋がるのが怖いんですよね。そうなると文化的にも面白くなくなってしまうから。
    宇野 一応、断っておくと僕は六本木系のスタイル、つまりシンプルで効率的なライフスタイルの美学というのはよくわかるんです。僕自身、いつも夏はTシャツと短パンで過ごしているし、その服も基本的には無印良品とユニクロとH&Mでしか買わない。それも安いからではなくて、飾り気のない、シンプルなデザインのものが好きだからですしね。交通事故にあってやめてしまったけれど自転車ももともと好きだし、生で食べてもおいしい野菜を取り寄せて食べるのも大好きで、そういった生活を気持ちがいいと思っている。ただその美学を肯定するロジックが、身体論というマジックワードを盲目的に振りかざす五体満足主義や優生思想しかないというのは、非常に問題だと思うんです。もっとそういったシンプルライフを、カッコよさとか、気持ち良さの次元で肯定する言葉が必要なんですよ。つまり「(身体を鍛えることこそが究極のおしゃれなので)ユニクロでもいいんだ」というのではなく、「(シンプルな)ユニクロのデザインがカッコイイんだ」という論理じゃないといけないと思う。実際に、僕はそう思っているし。
    門脇 いまの話は時代的な位置付けも踏まえて理解した方が良いんでしょうね。いまのカジュアルとかつてのカジュアルはだいぶ違った状況に置かれていると感じます。かつては「フォーマル」というものが厳然として成立していたからこそ、敢えてカジュアルな格好をすることがカッコ良かった。でも今は、「絶対にフォーマルな格好をしなくてはならない」という場面がどんどん少なくなっています。現在のユニクロ的なるものの隆盛は、「フォーマルが瓦解している」という状況とも関係しているのではないでしょうか。
    浅子さんは、スーツはあと十年以内に滅びるってよく言っていますよね。「滅びる」というのは比喩的な表現だとは思いますが、スーツを着なくてはならない場面が極端に少なくなるだろうことは間違いない。スーツはある意味での様式であって、「クールビズ」といった考え方に代表されるように、それを着ることが必ずしも合理的ではないからです。シンプルライフ的な志向は、スーツのような封建的でフォーマルな形式から「より合理的に、自由に生きよう」というマインドへとシフトしたことによって起こっている側面があるのは間違いないと思います。「ノームコア」(※ノーマル+ハードコアという意味の造語。スティーブ・ジョブズの「いつも黒のタートルニットにジーンズ」というスタイルに代表されるような、極めてシンプルなファッションのこと)のような、シンプル・イズ・ベストを極端に進めたトレンドの存在もそうした流れの上にあるのでしょう。でも、それは宇野さんが指摘するように、優生学的な流れに合流しかねない危険も孕んでいる。一方でモード・ファッションでは、「ありのままの身体」を肯定する動きが主流で、「理想的な身体」を仮定することに警鐘を鳴らすような試みが常にありましたよね。
    浅子 有名な話ですが、コム・デ・ギャルソンの服に、瘤(こぶ)のついたドレスがあったんです。囚人服みたいで背中や腰に瘤がついているんだけど、ドレスになっているというもの。あとは背の低い人やおじいちゃんのモデルを使ったりもしていました。それ以外にも当時アヴァンギャルドと呼ばれていたファッションブランドは、普通だったらファッションの俎上に上がらないような肉体に対して美を見出す方法論を構築していた。でも今は、そういった流れがスコーンと全部抜けてしまっていますよね。
     

    ▲コム・デ・ギャルソンの「こぶドレス」
    出典:http://munstylisti.jugem.jp/?month=201101
     
    門脇 今はモードの影響力が小さくなっているように感じますね。
    浅子 売れなくなってしまったんですよね……。だから結構いろんなことが重なってこういう状況になっている、というのはあるかもしれません。
    僕は最近、インテリアツアーというのをやっているんですよ。そこでいろんなお店を一年間くらい見て回りました。高級なアパレルブランドや、高級な家具屋さんも見に行ったのですが……90年代やゼロ年代の初頭に比べると、全然お客さんがいないんです。こういった場所も、それこそスーツと同じように、20年くらいでほとんどが市場から退場してしまうんだろうなと肌で感じました。
    宇野 昔だったらボーコンセプトで買わなければいけなかったものが、全部イケアとニトリで買えるようになってしまいましたからね。
    浅子 しかもイケアとニトリの商品がそれほど粗悪なものかというと、そうではない。確かに比べればモノとしては高級な家具屋さんの方がいいけれど……。
    宇野 価格が1/6とか1/8ですからね。
    浅子 そう、だからそれはそれで構わないのではないか、というのも一方ではあります。でも自分の好きな文化ですからね。以前はそういうお店のダメな所を見ても「こいつらダメだな」と言っていられたんですが、今はこのままだと本当に滅んでしまうという危機感が強くて、どう守るかという方に考えが反転しています。
     

    ▲ニトリの家具
    出典:公式サイトより
     
     
    ■空虚なパロディとしてのカフェ風デザイン――FABが作るべき未来
     
    浅子 あと、つい最近、「インテリア特集」という小さな冊子を作ったんです。その序文に、90年代以降のインテリアデザイン、特にブティックのデザインについて書いたんですが、インテリアデザインの流れを90年代から整理してみたんです。
    まず90年代の最初は、80年代のバブルやポストモダンへの反動からミニマルが流行りました。今も建築家として活躍しているジョン・ポーソンの作品や、カルバン・クライン、ジル・サンダーのような、線が少なくてシンプルなデザインが流行したんです。
    それが90年代の半ばから大きな変化があるんです。ミレニアムという世紀の変わり目であることから近未来的でフューチャリスティックなデザインが求められたことに加えて、90年代の不況がITバブルなどの影響で回復したこと、さらにそこに大流行したミニマルの反動で少し面白いデザインが欲しいという流れが合流して、90年代半ばから2000年代の半ばにかけて、すごく多種多様な面白いデザインのブティックが一気に出てくるんです。フューチャー・システムズが手がけたコム・デ・ギャルソンのインテリアもそうだし、ルイ・ヴィトンもそうだし、ヘルムート・ラングもそうです。
    なぜ急にブティックのインテリアデザインが多様化したかというと、やはりインターネットの登場が大きかった。それまでブティックというのは、実際に足を運べる人だけが見られるものでした。でもインターネット以降は、ブティックを作るとそれがプレスリリースや雑誌やオンラインの記事になって、写真がその日のうちに世界中で見られるようになった。だから空間を作ることそのものが、そこに行ける人だけでなく、そこに行けない人たちへの広告にもなるようになったんです。だから各メゾンはこぞって大きな投資をして、自分のブランドの価値を上げるためにいろんな実験を行った。
    でも悲しいことに、2001年に9.11が起きてしまった。非常に社会が不安定になり、旧来の価値が破壊された結果、反動で価値観自体が保守化してしまうんです。さらにリーマンショックなどで景気が悪くなったこともあって、雑多な多種多様なデザインというものを、だんだん許容することができなくなっていく。だから2003年くらいまではすごく面白いのに、ゼロ年代後半にかけてインテリアデザインは不毛の時期を迎えて、すごくつまらなくなっていくんですよ。
    門脇 それはファッションそのものの流れとも連動しているんでしょうね。同時多発テロ以降のファッションは、「安心感を求める人々の心を反映するように、天然繊維、手仕事への傾倒、あるいはTシャツを代表とする合理的な定番服など、人々の見慣れたファッションを提示し、ファスト・ファッションと呼ばれる合理性に基づいた安価なコピー服を世界規模で広げた」という指摘もあるようです(※新居理絵「ヘルムート・ラングとその創造的世界」(『ドレスタディ』Vol.56)参照)。
    浅子 そうなんです。ではその流れで今のインテリアデザインを見るとどうか。街を見て貰えればわかると思うのですが、Tシャツやチノパンと共に食器を売るような、「ライフスタイルショップ」というのがすごく増えています。でもそれらのインテリアのデザインは、躯体を残して仕上げを剥がし、足場板をどこかに貼って、手描きの金文字のサインをガラスに書き、最後に工場で使われていたようなアンティークのスチールのペンダントライトをぶら下げて終わり、みたいなものばかりです。結局これらは全て、「輝いていた50年代のアメリカを取り戻そう」というパロディで、本当にパッケージが保守化しているんです。そういうことがブティックやカフェで同時に起きている。これは価値観自体が新しくないし、さすがに不毛だと思います。
    門脇 日本の今の流れも長引く不況や東日本大震災から来る保守化の流れに位置付けられるのでしょうか。
    浅子 この先10年くらいこれが続くと思うと、デザイナーとしては正直うんざりしますね。
    宇野 荻上直子監督の『かもめ食堂』の世界ですね。言わば「北欧おばちゃんニューエイジ」というか……。なんだろうなあ、僕自身はスローフード的な暮らしはすごく憧れる。でもあの映画を支配する強烈なイデオロギーというか、無言の排他性がどうしても苦手で……。ライダーキックで破壊したい(笑)。
    浅子 でもあれが中目黒とかでは強いんですよ。まさにああいうカフェが山ほどありますから。
    門脇 カフェ風というか、ああいった自然素材や古びたものを適当にパッチワークしていくものって、すごくまずいと思うんですよ。
    あるとき赤坂の草月会館であった建築界の重鎮たちのパーティに呼んでもらったことがあったんですが、それがすごく80年代的な空気だったんですよ。天井はミラー張りだし、カウンターにはシャンパンが注がれたシャンパングラスがきれいに並んでいるし、「ああ、バブルってこういうことだったのか」みたいな感じ(笑)。
    でもそのスタイルが、すごくかっこいいなと思ったんです。もちろん今の時代とは感覚がズレています。でも、そこには彼らの世代が何をカッコイイと思っているのかがしっかりと表象されている。それは空間のデザインばかりでなく、来ている人のファッションや、パーティでの振る舞いなども含めて、あるトータリティを持っていて、「人はこうやって生きるのがカッコイイ」という人生観というか、哲学のようなものを感じさせるものでした。だからああいう空間を含めたトータルなカッコよさを、僕たちの世代が残せないと負けだなと思いました。そう考えたときに、古びたもので安心してしまうのはまずいだろうと。
    浅子 そう、だから今こそ「これがカッコいいんだ!」というものが必要なんですよね。
    僕がいますごく重要だと思っているのが、80年代に活躍したフランス人のフィリップ・スタルクというデザイナーです。彼はホテルのインテリアデザインなどを手がけたのですが、僕は彼のやったことの本質って「デザインの民主化」だったと思うんです。
    スタルクの手がけたインテリアデザインがどのようなものだったかというと、ものすごく大きい4mくらいあるようなわざとらしいぐらい豪華な鏡を立てかけるとか、必要ないくらい大きなドレープのカーテンをぶら下げてみるとか、あるいはそれまでは同じ椅子を並べるのがセオリーだったホテルのロビーに、全て違うデザインの椅子を並べる、というようなものだったんです。そこでは世界各国の有名デザイナーの椅子と、土産物屋で買ってきたような椅子が等しく並べられていた。
    インテリアデザインというのは、突き詰めると、どうしてもどこかで権威的になってしまうものです。でもスタルクはその価値を転倒させて、民主化しようとした。そういった意味で、すごく重要な役割を果たしたデザイナーです。
    これを踏まえた上で今後のことを考えると、デザイナーの役割が見えてくると思うんです。今、レーザーカッターや3Dプリンターの普及によって、FABと言われるようなムーブメントが流行していて、デザイナーでない一般の人たちが、自分でモノを作れるようになっている。これはスタルク以降のデザインの民主化の流れにある運動だと言える。この流れは止められないし、今後の大きな流れのひとつになるのは間違いない。でも、一般の人たちというのは、ともすると「これがカッコいい」という思想がないまま、例えば雑誌で見たものをそのまま作ってしまうので、価値観の転倒どころか逆に保守回帰してしまう。これは非常に問題です。だから今こそ「一般の人たちがカッコいいと思えるようなもの」を、デザイナーは作らないといけないんじゃないかと思うのです。
     

    ▲スタルクによるインテリアデザイン
    出典:Stark.com
     
     
    ■「もしデザイナーズブランドとユニクロの服が同じ価格だったら、ユニクロを買う人のほうが多いのではないか?」
     
    宇野 さっきも言ったけれど、僕はユニクロや無印良品、H&Mをなぜいいと思うかというと、そこに美学を感じるからなんです。ファストファッションは効率化と最適化の産物だと思われているけど、当然そこに実は美的なイデオロギーが存在する。ファストファッションをデフレカルチャーの一端として切り捨てるのではなく、その明確な思想に基づいたデザイン自体をしっかりと分析することが必要なんじゃないかと思うんですが。
    門脇 まず無印良品に関して僕の雑感を言うと、男子のファッションはきれいめなお父さんスタイルという感じで、まったく惹かれません。でも女子は意外といい。ファッション雑誌でいうと90年代のオリーブ・anan系の価値観を色濃く受け継いだような感じがして、ある種のコスプレとして成立している。無印好きそうな女子のスタイルって想像できますよね? ちゃんとスタイルになっているんです。
    宇野 無印良品には、高度消費社会に対してこれくらいの中距離で行きましょう、という明確なメッセージがありますよね。あの白と黒とネイビーしか使わないデザインが、そうした強力なイデオロギーに基づいていることは誰の目にも明らかです。あれは非常に分かりやすいでしょう?
    無印良品だけではなく、ユニクロにもそういったイデオロギーがあると思うんですよ。だからデザイナーの固有名詞で語るようにユニクロを語ることだってできるはずなんです。そういった視点を持てずに、デザイナーズブランド対ファストファッションみたいな問題の立て方をしてしまうところに弱さがあるのではないか。
    浅子 ただ、一応言っておくと、ファストファションについては剽窃、パクリの問題がありますよね。あるファストファションはコレクションでめぼしいものをピックアップして彼らが売る前に店頭に出してしまうというのも言われています。これは流石に問題です。
    また、ユニクロはTシャツとかフリースとか、どちらかというと生活必需品に近い、生活に必要な洋服で売り上げを伸ばしたブランドというイメージはありますけどね。だからカラーバリエーションがあるということ自体が圧倒的に重要で、必要なものしか買わない人たちにも色を選ぶという意味でファッションに必要な喜びを与えたからすごく成功した。
    宇野 色の問題一つとっても、ユニクロにせよH&Mにせよ、日本だとそれまでスポーツウェアとかアウトドアウェアでしか使わないようなのような蛍光色や派手な色を取り入れているわけでしょう? 単に安いからではなくて、僕はユニクロにしかないものを求めているつもりなんですよね。色合いだけじゃなくて、デザインや着心地にも同じことが言えるんじゃないかと思う。要するに固有名詞のデザイナーが、ユニクロのデザインに、単に勝てていないだけなのではないでしょうか。実は同じ価格でもユニクロを買う人が結構いるんじゃないかというのが僕の仮説です。ユニクロのデザインも、単にデフレジャパンのスカスカのものとしてではなく、イデオロギーとして支持されているんですよ。
    門脇 僕は服を見るとき発色とかをけっこう気にする方なんですが、ユニクロはよく見るとかなり独特の色使いをしているせいだからなのか、そんなに気にならないんですよね。
     
  • 【ほぼ惑ベストセレクション2014:第5位】無印良品、ユニクロから考える「ライフデザイン・プラットフォーム」の可能性 ーー浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛「これからの『カッコよさ』の話をしよう」第2弾 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 号外 ☆

    2014-12-29 11:10  

    【ほぼ惑ベストセレクション2014:第5位】無印良品、ユニクロから考える「ライフデザイン・プラットフォーム」の可能性 ――浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛「これからの『カッコよさ』の話をしよう」第2弾
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.12.29 号外
    http://wakusei2nd.com



    2014年2月より約1年にわたってお送りしてきたメルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」。この年末は、200本以上の記事の中から編集長・宇野常寛が選んだ記事10本を、5日間に分けてカウントダウン形式で再配信していきます。第5位は、建築学者・門脇耕三さんとデザイナー・浅子佳英さんによる連続鼎談企画「これからの『カッコよさ』の話をしよう」第2弾、「無印良品・ユニクロ論」です!(2014年10月14日配信)これまでのベストセレクションはコチラ!
     
    ▼編集長・宇野常寛のコメント







    この鼎談シリーズ自体はもともと、「ノームコア」(編註:ノーマル+ハードコアという意味の造語。極めてシンプルなファッションのこと)の持つある種の「五体満足主義」に対しての反発から始まった企画です。で、この無印やユニクロの思想を考えた回はスピンオフ的な内容だけれど、結果的にすごく盛り上がった。次回以降は再びデザインの話に戻っていくので、そちらも楽しみにしていてほしいと思っています。
    これから世の中が変わっていくために一番必要なのは、無印良品やユニクロのような「総合的なライフスタイルを提案しているプレイヤー」が、ECサイトのようなところから新たに出てくることではないかと思っています。こういったPB(編註:プライベートブランドのこと。独自のブランドとして企画し、小売も行う無印良品やユニクロのような業態のこと)から消費文化やライフスタイルを考えるというシリーズは別の企画として進めていきたいと思っていて、とりあえずいま僕が考えているのはセブン-イレブンですね。そちらも来年ぜひ楽しみにしていてほしいと思っています。
    ▼関連記事
    ・これからの「カッコよさ」の話をしよう――ファッション、インテリア、プロダクト、そしてカルチャーの未来
     
    ▼プロフィール
    門脇耕三(かどわき・こうぞう)
    1977年生。建築学者・明治大学専任講師。専門は建築構法、建築設計、設計方法論。効率的にデザインされた近代都市と近代建築が、人口減少期を迎えて変わりゆく姿を、建築思想の領域から考察。著書に『シェアをデザインする』〔共編著〕(学芸出版社 、2013年)ほか。
     
    浅子佳英(あさこ・よしひで)
    1972年生。インテリアデザイン、建築設計、ブックデザインを手がける。論文に『コム デ ギャルソンのインテリアデザイン』など。
     
    ◎構成:中野慧
     
    ファストファッション、IKEAやニトリ、アップル製品など、ゼロ年代以降の私たちの生活に欠かせなくなった様々な「モノ」と「デザイン」について考えた前回の鼎談企画「これからの『カッコよさ』の話をしよう」。第2弾となる今回は、鼎談の収録前に、まず実際に門脇・浅子・宇野の3氏で、銀座の街にある様々なお店を廻ることにしました。
    3氏がまず足を運んだのは、世界一巨大な規模を誇るユニクロ銀座店。
     

    ▲銀座の中央通沿いにある、ユニクロ店舗でも世界最大のグローバル旗艦店「ユニクロ 銀座店」。12階建てだそうです。
     

    ▲床から天井まで隙間なく服が並んでいます。
     

    ▲Tシャツフロア。フロア全体に多種多様なデザインのTシャツがひしめいていました。ぶらぶらと見ていたら、浅子さんが当日着ていたスヌーピーTシャツと似たようなデザインのものを発見。「このTシャツけっこう高かったのにw!」(浅子さん)
     

    ▲女性ものの丈長のスウェットシャツが気になるという門脇さん。このあと「XLサイズなら僕でもダボッと着れそう」とのことで、お買い上げになっていました。
     
    ユニクロ銀座店の次に3人は、ユニクロ銀座店と渡り廊下でつながっているお隣のドーバーストリートマーケット(コム・デ・ギャルソンの川久保玲氏がトータルプロデュースするセレクトショップ)へと向かいました。
     

    ▲ドーバーストリートマーケット ギンザ。
     
    渡り廊下を渡るとそこには、ユニクロとはまるで別世界が広がっていました。好対照だったのはお店のレイアウト。通路は広く取りつつも縦にぎっしりと服を並べるユニクロと違い、様々なアイテムがゆったりと店内に配置されていました。
    ドーバーストリートマーケットを出た一行は、「無印良品 有楽町店」へ向かいました。
     

    ▲無印良品有楽町店。ここもかなりの大型店舗です。
     

    ▲無印良品の家。
     
    無印らしいアースカラーの服が並ぶ店内を分け入っていくと、目に入ってきたのはスチールの外壁(「金属系サイディング」というものだそう)の、「家」でしたーー。そう、最近、無印では「無印良品の家」を販売しているとのこと。コンパクトなサイズながら、吹き抜けと、ガラス張り(でも断熱性も高いそうです)による採光のよさもあって、見た目以上にゆったりとした住空間。「暮らしに合わせて間取りが変えられる」とのことです。(出典:「無印良品の家」ホームページ )
    その後、一行はクロムハーツ、ミュウミュウ(MiuMiu)、Aesop(イソップ)、フライターグなどを回ってこの日の街歩きを終えました。
     
     
    ■ユニクロとコム・デ・ギャルソン、何が明暗を分けたのか?宇野 まず簡単に前回のおさらいをすると、今の時代のファッションは、ノームコア(※ノーマル+ハードコアという意味の造語。スティーブ・ジョブズの「いつも黒のタートルニットにジーンズ」というスタイルに代表されるような、極めてシンプルなファッションのこと。最近のファストファッションの隆盛を受けたトレンドでもある)的なものが優位になっている。そしてその潮流は一部で「身体自体を鍛えるのが真のオシャレであり、自分の身体さえしっかり鍛えていれば着るものはなんでもいい」という五体満足主義的な思想に回収されつつある。それはファッションが本来持っていた「やせっぽちでも太っていても、工夫しだいでカッコよく、気持ちよくなれる」という、文化としての豊かさがやせ細ってしまっているということでもある。こういう現状に対する違和感は共有されていますよね。
    そこに対して例えばデザイナーである浅子さんは、ノームコア的なものを批判して「新しいラグジュアリー」のような価値を提示していくことが必要なのではないかという立場でした。
    また、鼎談のなかで見えてきたのは、ファッションだけでなく、インテリアや建築のような「デザイン」と言われる世界ではどこでも、90年代以降に似たようなことが起こっているのではないか、ということでした。
    今日は第二弾ということで、ファストファッションからデザイナーズブランドまで、銀座のいろいろなお店を実際に回ってきたわけですが、みなさんは改めてどう感じましたか?
    浅子 やっぱりユニクロが今強いのは、面白いデザインの服を揃えているわけではないけれど、カラーバリエーションやちょっとしたデザインの違いの製品を大量に揃えていて、その「多くのものから一つを選ぶ」という体験自体に楽しさがあるからなんだと思いましたね。
    宇野 ショッピングにゲーム的な楽しさがあるということですよね。
    浅子 そうです。銀座店は特に、12階建てなのにもかかわらず、フロアのレイアウトがほとんど同じだったりして、あの感じは僕自身はそんなに好きじゃないんだけど、実際に上から下まで全部見て回ると本当にゲーム空間にいるようで面白かったです。
    門脇 ユニクロの店内のレイアウトは「とにかく下から上まで整然と服を並べる」という思想ですよね。対照的だったのはそのあとに行ったドーバーストリートマーケットで、店内に余白をたくさん取っていました。あれは「アート的に見せる」というテクニックなんだけど、物量としてはユニクロよりも全然少ないですよね。そうすると服の一点一点が高くならざるをえない。置いているモノはカッコいいんだけど、トータルで見るとどうしても元気がないように見えてしまった。
    浅子 僕は立場的にコム・デ・ギャルソンを擁護するしかないんだけど、たしかに銀座店は少しゆったりしすぎているかもしれないですね。ただ、最初にできたロンドンのドーバーストリートマーケットはとてもエキサイティングな空間です。もともとオフィスか何かだった建物に、川久保玲やセットデザイナーなどが介入して百貨店にしてしまっている。たとえばエスカレーターでなく階段で登らないといけなかったりとか、フロアの使い方もわけのわからないことになっていて。
    そもそもドーバーストリートマーケットの面白さって、コム・デ・ギャルソンというブランドが、自分たちの服を売るだけではなく様々なブランドの服を売ったり、アーティストの作品を展示するスペースをつくったり、ある種のプラットフォームとしてお店を構えたところにあると思うんですよ。
    ただ銀座のお店はやっぱり、「ギンザコマツ」という百貨店の建て替えで用意された空間に出店しているから、そういう面白い化学反応が起こらなかったんだと思います。だからそこを責めるのはちょっと気の毒な感じがするんですよね。
    門脇さんは店内のレイアウトのことを指摘されたけど、インテリアのデザイナーとして言うとやっぱり余白というか、そもそも白い壁が良くないと思う。確かに白い壁にするとニュートラルであるかのようにふるまいながらも簡単に綺麗に見せることができるんだけど、それは何も考えていないということの裏返しでもあるんですよね。
    門脇 結局現代アートもそうだけど、白いところにポツーンと何かゴミが置いてあるだけでアートに見えたりするんですよ。それ以外の見せ方を開発できてないのはちょっと残念だった。そういう意味ではユニクロの見せ方のほうが面白かったですよね。
    宇野 ユニクロって、ある時期まではフリースだったり、インナーや寝間着を買うお店というイメージで捉えられていましたよね。で、誰が着てもそこそこ似合うものを、豊富なカラーバリエーションで提供していたのがフリース時代だとすると、今は第2段階、いわばUT(=ユニクロのTシャツ)以降の時代に入っていると思うんですよ。
    UTって色々な企業のロゴだったり、スヌーピーやディズニーなどのキャラクターイラストに、多種多様なカラーバリエーションを掛け合わせるという発想でつくられていますよね。あれってインターネット以降の感覚だと思っていて、要するに統一されたフォーマットに多様なコンテンツを流し込むことで無限にバリエーションを生成できるということだと思うんです。そういう思想が商品ラインナップだったり、レイアウトの方法とも結びついていて、UTという独特のジャンルを生んでいるんじゃないか、と。
    門脇 フォーマットが決まっているからこそ多様な表現が生まれてくる、ということですよね。僕には商品そのものとしてあれが良いのかどうかピンと来ないところがあるけど、でもあれだけのバリエーションがあるなかで選ぶという体験はたしかに楽しかった。さっきもスウェットを買ったけれど、たぶんドーバーストリートマーケットに並んでても買わないんじゃないかな。たくさんのバリエーションが並んでいるなかで気に入ったものを見つけて、買ってしまう。そういう体験を含めて買っている気がしますね。
     
     
    ■「バブルの鬼子」としての無印良品
     
    宇野 これは都市部に限った話かもしれないけど、ユニクロと無印良品ってもうインフラみたいになっているじゃないですか。「あ、この街って駅前にユニクロと無印あるんだ、便利だね」とみんな思ったりする。だからこの2つの企業って、日本の生活文化においては非常に強いと思うんだけど、でも今日見ていて改めて思ったのは、ユニクロはまだ無印を倒せていないということなんですよ。要するに今の無印良品はライフスタイルそのものを提案できているけど、ユニクロはまだそこまで行けていない。
    たとえばユニクロの主力製品であるヒートテックひとつとっても、「冬のファッションで重ね着させない」ということを目標にしたもののはずです。厚着させないということは、つまり「こういう身体が美しい」とか「こういう屋内ライフスタイルが気持ちいい」という提案であるはずで、それを延長していくと僕たちの身体観やライフスタイルの変革へと結びついていくはず。でも、今のユニクロのラインナップからはまだ「新しいライフスタイルの提案」まで読み取ることはできない。アイテム1個1個の持っている快楽やゲーム性に留まっていて、総合的なビジョンがまだないんだなあ、と思ってしまいました。
    一方で無印は、僕の考えでは言わばディフェンディング・チャンピオンだと思うんですよ。あそこに行くと衣食住全部ある――というか、今は家具だけでなく家まで売っているわけですからね。総合的なライフスタイルを提案できているわけです。たとえば僕はあの透明の衣装ケースも使っているし、食べ物にしても僕はMUJIカフェによく行くし、無印カレーも大好きなんですよ。
    そもそも、無印良品のコンセプトって基本的に「アンチバブル」だったわけですよね。80年代の消費社会=バブル的な価値観に対して距離をとりつつ、かといってニューエイジや昔のヒッピーのように消費社会を全面的に批判するわけでもなく、要するに「消費社会に対してはこれぐらいの中距離で付き合いましょう」というライフスタイルを提案している。
    浅子 いや、それもあるけれど、その前にみんな忘れているのは、僕らが子どもの頃の昭和の時代って、ともかくダサイもので溢れていたんですよ。布団がなぜか花柄だったり、家具も変な色に塗られていたり、ほとんどの家庭にはわけのわからないデザインのものがいっぱいあって、子ども心にあれがすごく嫌だったわけですよね。そこに対して無印は、「柄のない布団のほうがいい」というようなニュートラルでフラットでシンプルなデザインを提案し、支持を受けた結果、今やそれがスタンダードにまでなったと。
    宇野 無印だけが、モノだけでなく「こういうライフスタイルがいい」という世界観を提示するに至っているんじゃないかなと思うんです。そしてそれは90年代以降の世界的な潮流ともマッチしていた。たとえば宮台真司さんがよく言っているけど、スローフードが好きな奴って、エアコンの効いた部屋でスターバックスのコーヒーを飲みながら環境問題の本を読んで悩んだふりをしている人なんですよ。要するにスローフードとはグローバル資本主義下におけるアッパーミドル向けの優秀な商品にすぎないわけです。でも、それでいいと思う。だから無印良品は強い。僕も大好きです。あの「素材を大切にした」シリーズのカレーやスープのレトルトパウチは家に常備している。あれは、「レトルトのスローフード」という矛盾するコンセプトが同居しているわけなんですが、そこが素晴らしい。
    門脇 レトルト食品を排除するのではなく、レトルトをいかに美味しくて栄養バランスもいいものにしていくかという発想ですよね。ただ、無印の提案しているライフスタイルって、今ではちょっと古くなってしまっている気もするんです。「家族で郊外に住み、お父さんは電車で都心に通勤する」という昭和的モデルのバージョンアップで、まだその先に突き抜けられていないというか。
    宇野 無印はやはりバブルの落とし子なので、どうしてもそうなってしまうところはありますよね。それに、当初のコンセプトである「アンチバブル」が実はすごく狭いイデオロギーなので、その価値観が押し付けがましいと感じる人も多いと思うんですよ。たとえばこれだけ無印大好きな僕でさえも、ほぼアースカラーオンリーの衣料や、家具類の「柔らかい木目」のゴリ押しはちょっとしんどく感じることがある。
    浅子 正直、僕もそう思っていますよ。
    門脇 無印良品ってすごく哲学がしっかりしていて、「文明は共通化して文化は差異化する」という未来予測を展開しています。つまりグローバル化のなかで「感じのよい暮らしをリーズナブルに」という方向性はぶれずに追求していきつつ、それだとほかの国や地方、あるいは「無印的価値観にドンピシャな世代」以外には展開できないから、地域性や時代性に紐付いた文化で彩っていくということになるんだと思いますが、それだとどうしても既成の価値観を無印的にセレクトすることになってしまうから、まったく新しいものを生み出すことが難しくなってしまう。
    無印も本当は「新しいラグジュアリー」のようなものを追求すべきなんだけど、そもそものコンセプトが「オルタナティブなスタンダード」なので、クリエイションに根拠を与えるものが既にあるものにしかならない。無印のインパクトって確かに大きいし、それがいよいよ浸透してきた勢いも感じますが、次の時代を考えるとそこが弱いところだと思うんですよね。
    浅子 無印のデザインって文化の多様化と言うにはちょっと一本調子すぎますよね。たとえばヤンキーが作るわけのわからないバイクのようなものって、文化の多様化そのものだと思うけれど、そういうデザインのものは絶対に製品ラインナップに入ってこない。だからすごく偽善的な感じがするわけです。これは無印だけでなく、アップルのデザインにも言えることだと思うんですけど。