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記事 2件
  • 小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ 第2回「オーストリア的」な知はいかに立ち現れたか〜ドイツ近代哲学との対峙の中で

    2019-09-09 07:00  
    540pt

    分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第2回。アメリカに亡命して情報科学の土台を築いたフォン・ノイマン、ゲーデル、タルスキの3人に通底する「オーストリア的」な知の脈絡とは? その探求は、19世紀のドイツ統一運動以降の中欧諸邦の大学制度と学派形成へと遡っていきます。
    「オーストリア哲学」とは何か
     「オーストリア哲学」という言葉をご存知だろうか? 哲学では、「フランス哲学」や「東洋哲学」のように、国や民族、地域の名称を冠した分類がよく用いられる。「オーストリア哲学」もその一つである。とはいえ、この言葉を聞いたことのある人は専門家の中ですら、かなり少ないはずだ。ドイツやフランスといったヨーロッパの大国ならまだしも、オーストリアは人口一千万にも満たない小国であり、独自の言語があるわけでもない(主要言語はドイツ語である)。同じヨーロッパでも、例えばベルギーやポルトガルの人口はオーストリアより多く、一千万を超えているが、「ベルギー哲学」「ポルトガル哲学」という言葉が使われることはない。どうして哲学ではオーストリアが特別視されるのだろうか。その理由は、前回の連載でも少し述べたが、かつてのオーストリアが大国だったからである。  オーストリアが大国だったということは多くの方はご存知かもしれない。かの有名なマリー・アントワネットはオーストリア出身であり、その母マリア・テレジアはハプスブルク家の支配下にある諸国を統べる「女帝」であった。また、オーストリアの首都のウィーンは、特に音楽では現在でも文化的な中心地の一つである。そう考えれば、オーストリアにもドイツやフランスと同じように「〜哲学」と称されるものがあることはそれほど不思議なことでもないように思われるかもしれない。だがじつは、「オーストリア哲学とは何か?」という問題は、なかなか複雑な背景を持つ答えにくい問いなのである。  今回は、この問いを中心に、「オーストリア的」ということの内実を明らかにしていく。そのためには、しばらく世界史、そしてそれに翻弄されるドイツの大学制度と哲学について話をしなければならない。どうかお付き合い願いたい。
    19世紀のオーストリアとドイツ
     時は1814年のウィーン会議に遡る。オーストリアによるフランス革命への干渉を機に、全欧州を揺るがすナポレオン戦争の猛威が吹き荒れたのち、ウィーンに列強首脳が集まり、戦後体制についての話し合いが行われた。しかし議論は遅々として進まず、「会議は踊る、されど進まず」と揶揄されたことは有名だ。会議の終了は翌1815年。その結果、フランスではフランス革命で処刑された国王ルイ16世の弟、ルイ18世の即位が認められ、ブルボン朝が復活する。  ウィーン会議の議長は、戦争による神聖ローマ帝国の解体を受けて1804年に成立したオーストリア帝国の外相メッテルニヒ。会議の結果、オーストリア帝国の版図は、現在のオーストリア地域に加え、ヴェネツィアを含むイタリア北部、チェコ、スロバキア、ハンガリー、スロベニア、そしてガリツィア(現在のウクライナの一部)まで広がることになり、当時のヨーロッパ諸国の中で最大の面積を持つ国家になる。  オーストリア帝国の特徴は文字通りの「帝国(empire/imperium)」であること、すなわち、語源であるローマ帝国と同じように、複数の国家・民族からなる大規模国家である点だ。オーストリア帝国は、現在のオーストリア地域に以前から住んでいたドイツ人に加え、上述のように、イタリア人、チェコ人、スロバキア人、ハンガリー人、スロベニア人、そしてポーランド人(ガリツィアは1772年の「ポーランド分割」によってオーストリアの支配下に置かれる前まではポーランドの一部であり、前回の連載で登場したウィーンの数学者メンガーの父もガリツィア出身である)など、母語が異なる様々な民族から構成される多民族国家だったのである。ドイツ人は支配的な地位を占めていたし、公用語もドイツ語だったが、数の上では1/5程度に過ぎなかった。
    ▲オーストリア帝国の版図(1815年)(出典)■PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。
     
  • 【新連載】小山虎 知られざるコンピューターの思想史──オーストリア哲学と分析哲学から 第1回 フォン・ノイマン、ゲーデル、タルスキと一枚の写真

    2019-07-23 07:00  
    540pt

    今回から、分析哲学研究者の小山虎さんによる新連載「知られざるコンピューターの思想史──オーストリア哲学と分析哲学から」がスタートします。インターネットや人工知能など、現代の情報テクノロジーを築いた知の根幹には、アメリカに流れ着いた意外な哲学的潮流の開花があった…? 二度の大戦をまたぐ20世紀社会の激動を背景に、その知られざるルーツに迫る壮大な思想史絵巻が、いま紐解かれます。
    1946年、プリンストン
     一枚の写真がある。1946年9月にアメリカのプリンストン大学創立200周年を記念して開催された「The Problems of Mathematics(数学の諸問題)」という数学の会議での、参加者たちの記念撮影だ。
    写真出典:https://albert.ias.edu/handle/20.500.12111/4685
     当時の代表的な数学者が多数参加している。なかには読者が名前に記憶がある参加者もいることだろう。例えば、右端から5人目、中段にいるジョン・フォン・ノイマン。ノイマン型のコンピューター・アーキテクチャにその名を残すだけでなく、ENIACを元にしたコンピューターをアメリカ各地に建造することを推進したことでも知られている彼は、第二次世界大戦で日本に投下された原子爆弾の開発計画であるマンハッタン・プロジェクトにも参加していた「応用」数学者だった。現在のコンピューター・サイエンスの全貌は「応用数学」の名前が与えるイメージよりはるかに巨大なものになっているのに対し、当時のそれはまだ数学との繋がりがかなり大きかったのである。フォン・ノイマンはこの会議で「新分野」と題されたセッションの座長を担当していた。  あるいは、フォン・ノイマンとは逆の左端から5人目、前から2列目にいるクルト・ゲーデル。不完全性定理という、あまりにも知られすぎたために多くの誤解を生み出したあの定理を証明した20世紀、あるいは史上最大の数学者・論理学者である彼もまた、この会議に参加していた。
     他にも著名な数学者、論理学者、物理学者、そして哲学者の顔が見られる。例えば、ポール・ディラック、ヘルマン・ワイル、W. V. O. クワイン、アロンゾ・チャーチ、スティーブン・クリーネ、J. C. C. マッキンゼー、A. W. タッカー、……本連載のどこかでまた彼らに触れることになるかもしれないが、まずはフォン・ノイマンとゲーデルの間、フォン・ノイマンから左に5人目、ゲーデルから右に10人目に当たる、ある人物に焦点を当てたい。彼の名はアルフレッド・タルスキ。ゲーデルと並ぶ20世紀最大の論理学者とも呼ばれ、タルスキ型真理定義(意味論)やバナッハ・タルスキのパラドックスにその名を残し、幾何学の完全性証明やモデル論の基礎を築いたことで知られる彼のことは、哲学(とりわけ分析哲学)を学んだことのある人であれば聞いたことがあるはずだ。タルスキもまた、この会議に主要な参加者として招待されていたのである。  当時、1903年生まれのフォン・ノイマンは42歳、1906年生まれのゲーデルは40歳、1901年生まれのタルスキは45歳。この20世紀を代表する数学者・論理学者である3名は同年代でもあった。さらに、3人とも第一次世界大戦前、民族自決の激動に翻弄されていた中欧の生まれであり、母国で学位を取得した後、安定したポストに就く前の30代の時に、ナチス台頭によるユダヤ人迫害の影響でアメリカへ移民したという点でも共通している。
     彼らのうち一人でも違う世代に生まれていたならば、あるいは、アメリカに移民してこなかったならば、20世紀の数学の歴史だけでなく、コンピューターの発展にも大きな影響が出ていたに違いない。フォン・ノイマンだけでなく、ゲーデルもタルスキも初期のコンピューターの発展と無関係ではない。コンピューターは20世紀前半に大きく発展した数理論理学なしに生まれることはなく、ゲーデルとタルスキはフォン・ノイマン以上にそれに貢献したと言っても差し支えないからである。
     本連載では、この3人の邂逅に象徴されるアメリカのコンピューター・サイエンスの原点をめぐって、まだあまり知られていない思想史的背景を紐解いていく。  現在のコンピューターやインターネット、あるいは人工知能といった情報技術の発展のルーツには、先述したマンハッタン・プロジェクトに代表される第二次大戦期の巨大軍事科学開発があることは、言うまでもないだろう。また、それが戦後にハッカー文化やヒッピーイズムといったカウンター・カルチャーの機運と結びつき、アラン・ケイやスティーブ・ジョブズなどによって体現されるような西海岸的なIT思想を生み落としていったという「物語」も、今ではよく知られるようになってきている。  しかし、分析哲学を専門とする筆者の視点では、それはあくまで一面に過ぎない。分析哲学とコンピューター・サイエンスは、その名を知っている人の多くにとってはまったく無縁なものだろうし、両者の共通点が指摘されることなどめったにないが、じつはどちらも19世紀ヨーロッパで生まれた数理論理学を源泉とし、戦後アメリカで本格的に発展した分野である。じっさい、戦後しばらく、まさにこの写真が撮影された1946年ごろまでは、分析哲学とコンピューター・サイエンスは互いに影響しあいながら発展してきた。例えば、「コンピューターの父」と称されるアラン・チューリングはウィトゲンシュタインの講義に出席しており、二人の間で熱心な議論がなされていたことがわかっている。第二次大戦期の巨大科学と西海岸のカウンター・カルチャーの結びつきにしても、その背景に分析哲学の発展と通底する契機が見られるのである。  加えて、本連載が進むにつれて明らかになっていくだろうが、その背景に、20世紀初頭の近代科学にキリスト教的世界観との衝突など様々な「危機」が生じていたことを受け、そのありかたを問い直す営みとして当時生まれつつあった新たな分野である科学哲学の存在があったことも無視できない。そして彼ら3人の結びつきもまた、数理論理学と科学哲学を介してのものだったのだ。
     ところで、当然ながら、著名な数学者であるこの3人はこのプリンストンの会議で初めて出会ったわけではない。ただ、この3人が揃ったのはこの会議が最初かもしれない。少なくともアメリカでの公式な場としては、おそらく間違いない。3人のうち最後に移民したゲーデルがアメリカにたどり着いたのはすでに第二次世界大戦が始まっている1940年であり、この1946年のプリンストンでの会議は、アメリカでの戦後初の大規模な数学の会議として企画されたものだからである。
    1930年、ケーニヒスベルクとウィーン
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