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日本は武の国なり、古来武を以て国を建つ!? 押川春浪・天狗倶楽部の(実は健康的な)身体思想(後編)|中野慧
2022-09-16 07:00
ライター・編集者の中野慧さんによる連載『文化系のための野球入門』の第24回「日本は武の国なり、古来武を以て国を建つ!? 押川春浪・天狗倶楽部の(実は健康的な)身体思想」(後編)をお届けします。阿部磯雄や押川春浪ら、比較的外来文化にも寛容だった明治期の野球人たちが体育教育に見出していた重要性を、スペンサーの社会ダーウィニズムと三育思想を手がかりに分析します。前編はこちら。
中野慧 文化系のための野球入門第24回 日本は武の国なり、古来武を以て国を建つ!? 押川春浪・天狗倶楽部の(実は健康的な)身体思想」(後編)
理想のヒーローはジェイソン・ステイサム!?
春浪はテクノロジーの進歩とは裏腹に進行する「健康」の退歩を批判した上で、以下のように続ける。
世人かくもすれば、強壮頑健、石上に寝ね猛虎を撲殺すがごとき体力を、野蛮人の特色のごとく云うなれど、青白き顔色と疲労しやすき身体とは、文明人の特有物として誇るに足るか。肺病と脳病と蚊のごとき脛と火箸のごとき細首とは、第二十世紀の産物として欠くべからざるものなるか。余輩は三間(引用者注:約5.4m)の小河にも鉄橋のかかる今日を誠に目出たく思えど、それよりは人類一同しかる物質の発達すると同じく、その肉体も驚くべき自然力の発達を遂げ、三間ぐらいの小河は平気で飛越し得る程の体力となる方が、一層便利にはあらざるか。十里(引用者注:約40km)の道を一時間にして達しうる汽車の発明は、文明の産物として余輩の大いに歓迎するところなれど、人類も汽車と同じほどの速力を持って十里の道を走り得るごとき体力とならば、その方がさらに愉快にはあらざるべきか。我らの祖先には日に百里を走り、月に千里を歩み、獅子を蹴殺し鰐魚を引き裂くごとき勇者もありけるが、片輪の文明の進歩するに従い、我らの体力は次第次第に柔弱となり、これよりますます柔弱を加えんとす。もしこの傾向にして底止するところなくんば、今より幾百年後余輩の子孫は何人も空中飛行艇に乗じ、自由自在に天外を飛行して、あるは天女を唸らす新体詩を朗吟し、あるは無より有を生ずるがごとき魔術然たる事を成すなど、いわゆる物質的文明の発達の極致を見するやもしれずといえども、恐らく万人皆その身体は幽霊の如くなり、一事語るにもまず肺病の血を吐いて、この美しき世界を汚すに至らん、かくのごときに至っても世人はなお片輪の文明を謳歌しうるか。
第17回で、一高生・魚住影男が、個人主義を説いて野球部を始めとした体育会系の野蛮を批判する議論が生まれたことに触れた。魚住論文が発表されたのが1905年の10月末で、『最近野球術』の出版が11月であることを併せて考えると、春浪の「強壮頑健、石上に寝ね猛虎を撲殺すがごとき体力を、野蛮人の特色のごとく云う」という記述は、魚住をはじめとした個人主義論・体育会系批判論の台頭を意識したものであると考えられる。 そしてこの文章からは、春浪の身体観・ヒーロー観が見えてくるのも面白い。「我らの祖先には日に百里を走り、月に千里を歩み、獅子を蹴殺し鰐魚を引き裂くごとき勇者もありける」とあるが、これはのちのターザンやコナン・ザ・グレートのようなヒーローを彷彿とさせる描写だ。春浪はおそらく、現代のハリウッド映画でいえばアーノルド・シュワルツェネッガーやシルヴェスター・スタローン、ヴィン・ディーゼルやジェイソン・ステイサムのようなヒーローを理想としていたのだろう。というのも春浪の「海底軍艦」シリーズでは、段原剣東次という剣客ヒーローが世界を舞台に見せる大立ち回りが見どころとなっていたりもするからだ。 ただし、春浪自身は運動は好むものの、ジェイソン・ステイサムのような身体ではなく、華奢で青白い文学青年然とした佇まいで、野球もそれほど上手くないのにピッチャーやショートなどの花形ポジションをやりたがる男であったという。運動能力はさておき、「元気」や「気合い」に関しては、突出していたらしい。
そして春浪は、藤村操の華厳の滝への投身自殺事件以降、若者たちのあいだで沸き起こった「煩悶ブーム」、哲学・文学ブームに対して強烈な違和感を抱えていたらしいことが、以下の記述から伺える。
夫(そ)れ人類は研究と錬磨とによって、その智力の驚くべき発達を成し得るごとく、その体力もまたある理法に従って鍛錬を成せば、真に驚くべき発達を成し得る者なり。しかるに物質的文明にのみ酔える人々は、智力の宿る肉体、自然力の発達を度外視す、愚昧と言わんか滑稽と言わんか、余輩その真意を解する能(あた)わず。かの「健全なる精神は健全なる身体に宿る」との格言は、世人のすでに耳に胝(たこ)の出るほど聞きしところならんも、この格言を守りて健全なる身体を養わんとする者まれなるは何故なるか。智力もあまり発達しすぎてかえって愚となりしにはあらざるか。たとえ多少の智力を有すとも、頑健なる体力を有せざるもの、いずくんぞ天下の大事に当るを得ん。今日の世界は表面才人の舞台と見ゆれども、その実は猛者の舞台なり。今より後はますます奮闘乱戦の舞台とならん。強き者はすなわち勝ち、弱き者はすなわち敗る。智力もとより欠くべからずといえども、蛮勇なくんば不可なり、胆力なくんば不可なり、エネルギーなくんば不可なり、しかして蛮勇、胆力、エネルギーは、多くの場合において頑健なる体力の産物なり。体弱く気従って弱く、恋歌を唸って滝壺に身を投ずるが如き輩、何をか成し得ん。
「恋歌を唸って滝壺に身を投ずるが如き輩」は、明らかに藤村操のことである。だが春浪が文学ぎらいかというとそういうわけでもないようで、そもそも自身が(SF・冒険小説というエンタメ寄りとはいえ)小説を執筆しており、『海底軍艦』の直接の続編『武侠の日本』のはしがき(文武堂版)では、恋愛小説への共感を表明していたりもする。 おそらく春浪のなかで、哲学・文学と体育は対立するものではなかったのだろう。藤村の死に深い共感を示し体育への傾倒を痛烈に批判する魚住らの個人主義論・体育会系批判論は、春浪自身が対立するものと考えていなかった文学とスポーツを引き裂く試みに感じられ、それゆえ強い反発を覚えたのではないだろうか。
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日本は武の国なり、古来武を以て国を建つ!? 押川春浪・天狗倶楽部の(実は健康的な)身体思想(前編)|中野慧
2022-09-12 07:00
ライター・編集者の中野慧さんによる連載『文化系のための野球入門』の第24回「日本は武の国なり、古来武を以て国を建つ!? 押川春浪・天狗倶楽部の(実は健康的な)身体思想」(前編)をお届けします。精神主義一辺倒だった近代日本野球に対して痛烈な批判を浴びせた橋戸信の『最近野球術』。現代のスタンダードにもなっているコンディショニングや練習法が記された本書が伝えたかったこととは何なのでしょうか。
中野慧 文化系のための野球入門第24回 日本は武の国なり、古来武を以て国を建つ!? 押川春浪・天狗倶楽部の(実は健康的な)身体思想」(前編)
「科学」を標榜する野球技術書
1905年のアメリカ遠征から帰国した早稲田の主将・橋戸信は、野球技術書『最近野球術』を執筆し、アメリカの野球技術を広く世に伝えた。この本には、「科学」という言葉が頻出する。橋戸が意図したのは、それまでの日本野球界のメインカルチャーだった一高式武士道野球、つまり精神力ですべてを突破しようとする文化に風穴を空けることであった。 一高野球部は、本来彼らが持っているはずの頭脳を活用せず、過剰に精神主義的であることをアイデンティティとしていた。その背景には、当時の日本でメインカルチャーとして君臨していた武道のプレッシャーに対抗するため、あえて猛練習を演じて「頑張っている感」を演出し、野球文化を守るという側面もあった。またそれは、一高生たちが受験勉強の際に行った「猛勉強」のエートスを応用したものでもあっただろう。そこでは「野球を楽しむ」という感情は、外側に向かって表現されるのではなく、あくまでも個々人の内面へと封じ込められていた。 その一高式野球を打破するために持ち出されたのが、「科学」という概念だった。たとえば橋戸の『最近野球術』では、「ピッチャーは肩を大事にしよう」「休みはきちんととろう」「練習や試合をする前にはウォーミングアップをしよう」というような、コンディショニングの重要性が説かれている。ユニフォームの下にアンダーシャツを着用する方法もこのときもたらされたものだ。暑い日に沢山汗をかいたときにアンダーシャツを着替えることは、今では野球文化のなかで当たり前のこととなっている。練習法に関しても、闇雲に猛練習をすることが否定され、「アメリカの選手の練習時間は1時間半〜2時間程度で、効率よくやっている」ということが強調されている。 現代では野球における科学というと、スポーツ医学の成果を活用した科学的トレーニング、ウェアラブルデバイスやトラックマンなどを活用した動作解析、ビッグデータを用いたプレイ分析(=セイバーメトリクス)がイメージされるが、120年前には当然そのようなテクノロジーが存在しない。当時の「科学」というのは、要するに「論理的思考」のことであった。一高式の「肩が痛いのであれば精神力で突破せよ」という精神主義を排して、「肩が痛くなるのは投げすぎだと考えられるから、あまり投げすぎないようにしよう」と論理的に考え実行するという、現代の一般市民の感覚からすれば何でもないようなことが、当時の日本野球界にとってはイノベーションだった。 もっとも、つい最近まで日本の高校野球にはピッチャーの球数制限ルールが存在しなかったので、「精神力ですべてを突破しよう」という一高イズムの生命力は非常に力強かったとも言える。早稲田のアメリカ遠征と橋戸信の『最近野球術』は、日本の野球界(といっても今のように大きいものではなく、非常に小さなコミュニティだったが)を支配していた、そうした一高式武士道野球論に最初に楔を打ち込む試みだった。
『最近野球術』には日本児童文学のオリジネイターである巖谷小波、そして冒険・SF小説の祖である押川春浪が序文を寄せており、当時の一大出版社であった博文館から出版されている。巖谷小波は、1900年の春浪のデビュー作『海底軍艦』を博文館に紹介した人物でもある。また博文館は、1904年に始まる日露戦争で写真付きの戦争報道に新しいメディアの可能性を見出して雑誌「日露戦争写真画報」を創刊し、春浪は巖谷の推薦で編集者として博文館に就職、のちに「写真画報」と改題した同誌の主筆となった。『最近野球術』が博文館から刊行され、巌谷と春浪が序文を書いているのは、そうした縁もあったのであろう。 そして春浪が『最近野球述』のために書き下ろした序文「最近野球術に序す」からは、後の天狗倶楽部の活動に通じる、現代から見ると不思議な──だが、それゆえに可能性に満ちた──身体観・文明観を見て取ることができる。
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スポーツを経験するとスポーツマンシップが低下する? 指導者・安部磯雄の野球への“関わり方”(後編)|中野慧
2022-07-29 07:00
ライター・編集者の中野慧さんによる連載『文化系のための野球入門』の第23回「スポーツを経験するとスポーツマンシップが低下する? 指導者・安部磯雄の野球への“関わり方”」(後編)をお届けします。安部磯雄らが主導した早稲田野球部。彼らが野球に見出した「スポーツマンシップ」から、現代にも通じる体育教育について考察します。前編はこちら。
中野慧 文化系のための野球入門第23回 スポーツを経験するとスポーツマンシップが低下する? 指導者・安部磯雄の野球への“関わり方”(後編)
富(情報)を積極的にシェアするコモンズ的発想
前編でみてきたような最新の野球技術を、早稲田野球部の主要メンバーである橋戸信は著書『最近野球術』(博文館、1905年)にまとめた。橋戸はのちに当時の大手新聞である万朝報、東京日日新聞で記者としても活躍するが、在学時から本を書けるくらいには文章家であった。 この本は様々な点で画期的であった。 まず1つ目に「アメリカで得てきた情報を惜しみなくシェアする」という観点を持っていた点である。それまで日本の野球界を主導していた一高野球部の人々は、野球のルールや技術を解説した入門本を執筆したりはするものの、どちらかといえば精神論的な訓話に重きを置きがち(一高野球部OBで一時代を築いたエースである守山恒太郎の著書『野球之友』(民友社、1903年)など)で、自分たちのノウハウを「秘伝」とする傾向があった。情報を惜しみなくシェアし、野球文化の発展に貢献しようという意識には、やや欠けていたのである。 余談ながら、現代の高校野球強豪校の監督たちの著書にも似たところがあり、肝心の技術論はあまり語らず、どちらかといえば自らの権威性をアピールするような書きぶりのものが多い。重要な情報を自らライバル校に漏らして、その結果自分たちのチームが負けてしまうことを恐れているからである。現代の高校野球は勝利至上主義が特徴となっているが、そういったマインドでは「情報をシェアしよう」という考え方には至りにくい。現代の「甲子園の名将」たちは、自分の自慢話はするが肝心の「上手くなるための練習法」を広くシェアし野球文化の発展に貢献しよう、という人物はほとんどいない。自分たちの権威のPRには熱心だったがフェアプレー精神には欠けていた一高野球部と近い精神性である。 そのようにマインドセットが勝利至上主義であれば、自分たちが得たノウハウを門外不出・一子相伝の秘伝として早稲田野球部だけに語り継いでいてもおかしくない。だが120年前の橋戸の『最近野球術』は、アメリカで得た情報を惜しみなく日本の野球界に伝えようというものだった。この本は安部磯雄が橋戸に執筆を勧めたものである。その背景には、社会主義的な思想、つまり富(この場合はアメリカで得た豊富な情報)を積極的に周囲とシェアしていく「コモンズ(共有財)」の発想があったと考えるのが自然であろう。 安部磯雄は社会主義者であり、野球文化の発展に熱心に取り組んだ。現代の感覚では社会主義と野球というのはあまり結びつかないように思えるが、ロジックは非常に単純で、安部はフェアネス(公平性)の精神を野球に見ていたのである。野球の試合で相手や仲間、審判などに対してリスペクトを持って接する精神(フェアプレー精神)もフェアネスであり、格差を乗り越えて富をできるだけ公平に分配するのもフェアネスであり、男女の性差にかかわらず同等の権利を認めるのもフェアネスであり、武力での戦争をやめてかわりに運動競技で競い合い、それを通じて相互理解を深めるのもまたフェアネスなのだ。
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スポーツを経験するとスポーツマンシップが低下する? 指導者・安部磯雄の野球への“関わり方”(前編)|中野慧
2022-07-25 07:00
ライター・編集者の中野慧さんによる連載『文化系のための野球入門』の第23回「スポーツを経験するとスポーツマンシップが低下する? 指導者・安部磯雄の野球への“関わり方”」(前編)をお届けします。1905年に初のアメリカ遠征をおこなった早稲田野球部。彼らが持ち込んだ技術やファッション性が、その後の国内野球文化にどのような影響を与えたのか考察します。
中野慧 文化系のための野球入門第23回 スポーツを経験するとスポーツマンシップが低下する? 指導者・安部磯雄の野球への“関わり方”(前編)
北米西海岸の日本人移民――戦前日本の空間的広がり
前回は早稲田のアメリカ遠征について取り上げた。この遠征は従来の野球史の本では「日本野球史に燦然と輝く偉業」と仰々しく讃えられており、実際にこの遠征がきっかけとなって日本の野球文化が大きく動いたからだろう。 だが現実には、当時の早稲田野球部は草野球チーム程度の規模でしかなかった。一介の草野球サークルが、日露戦争に際して国内で同調圧力が強まるなかでアメリカ野球旅行という暢気なイベントを(採算すら取れずに)敢行した「破天荒さ」こそが画期的だったといえる。 安部磯雄はこの遠征の間、早稲田の学生たちにアメリカの野球や近代的な生活を体験させるだけでなく、アメリカ西海岸各都市を視察し講演活動を積極的に行った。このとき早稲田チームの連戦と安部の言論活動を支えたのが、アメリカ西海岸の留学生・労働者などの日本人コミュニティである。この人々の存在は、当時の日本社会を知る上で大事な要素でもあるので触れておきたい。安部は帰国直後、その移民コミュニティの様子を『北米の新日本』(博文館、1905年)という著書にまとめている。 北米移民の歴史は、明治維新直後から始まっている。江戸期までに確立されていた農村社会は明治初期の地租改正をきっかけに崩壊しはじめ、明治政府は農村部の生産力では賄えなくなった余剰人口を「輸出」する必要性に駆られていた。そのため1880年代以降、政府主導でハワイ、グアム、フィリピン、そして北米、やがて南米への移民が奨励されるようになっていた。 早稲田チームがアメリカ遠征を行った1905年当時、北米移民の数はすでに6万人にも達していたという。安部はもともと日本国内の貧困や格差是正に強い関心を寄せており、1901年に日本初の社会主義政党「社会民主党」を結成したが、すぐに政府から結社禁止処分を受けた。大っぴらに社会主義運動を行うことが難しくなってしまったため、それ以降の彼は言論活動の重心を男女同権と貧困問題解決へと移していく。安部は当時の知識人としては珍しく徹底した男女同権主義者であり、雑誌「婦人之友」などで女性の社会進出を強力にバックアップする言論を展開するとともに、廃娼運動にも取り組んでいた。 廃娼運動というのは、女性の人権擁護の立場から公娼制度を廃止しようとする社会運動のことである[1]。この時代、貧困家庭の女子が「出稼ぎ」または「身売り」の両側面を併せ持って日本の都市部や海外の娼館で働くということが広く行われていたのだ。特に海外に進出していく日本人娼婦は〈からゆきさん〉と呼ばれた。〈からゆきさん〉というのは「唐行きさん」、つまり唐=中国へと渡っていく女性たちのことであったが、転じて中国だけでなく世界各地へと出稼ぎ/または身売りされていく女性たちの一団をこう呼ぶようになった。 〈からゆきさん〉たちが海外進出に積極的であった(それがどの程度、本人たちの意思であったかはかなりケースバイケースのようである)一方、貧困に苦しんでいるわけではない一般家庭は女子の移民に強い抵抗感を持っていた。男子で海外移住する者の場合、農林業や建設業などの肉体労働に従事したが、女子に関してはそういった「正業」への進出があまり進んでいなかった。日本人移民の労働市場には、ジェンダー非対称な状況が成立してしまっていたのである。 安部はこういったアンフェアな状況に危機感を持っていた。そこで『北米の新日本』では、最初は下男下女の仕事をして貯金をし、農地を購入して自ら事業を興していった人々が存在することをレポートし、「正業」での移民のすすめを説いていたわけである。
北米では19世紀半ば〜後半にかけてゴールドラッシュが起こり、この時期に中国から大量の移民が流入した。彼らは低賃金で勤勉に働いたため、白人たちの間で「職を奪われるのではないか」という危機感が高まり、アメリカでは中国人移民は1882年の「中国人排斥法」で厳しく制限された。 一方で1900年代の段階で日本人移民はそれほど厳しく制限されていなかったが、1905年の早稲田野球部のアメリカ遠征当時、すでに北米で日本人移民差別・排斥運動が過熱していた。この時期は欧米世界で「黄禍論」が盛り上がりを見せていた時代でもある。日本から北米への移民希望者は非常に多かったものの、日本人移民への差別や排斥運動が苛烈さを増しつつあり、後の1924年にアメリカでは「排日移民法」が制定され、日本からアメリカへの移民は厳しく制限された。日本人移民は差別や規制の苛烈なアメリカではなく、カナダへと流入していくこととなった。 2014年公開の映画『バンクーバーの朝日』では、北米西海岸カナダのバンクーバーで形成された日本人街の日系人野球チーム「バンクーバー朝日」の活躍が描かれている。
▲『バンクーバーの朝日』(監督)石井裕也(出演)妻夫木聡、亀梨和也、勝地涼、佐藤浩市ほか。2014年。(出典)
バンクーバー朝日は堅守やバント、ヒットエンドランなどを活用する「Brain Ball(頭脳野球)」で次第に強くなり、カナダのリーグで優勝するなど活躍し、日系人チームに差別的な審判やラフプレーを繰り返す白人チームに対してもフェアな態度を徹底したことでアジア系だけでなく白人からも応援される人気チームとなり、差別や貧困と戦っていた日系人たちの希望の光となった。バンクーバー朝日はカナダの移民社会と野球文化への功績が認められ、2003年にカナダ野球殿堂入りを果たしている。
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草野球サークル、日露戦争中にアメリカへ行く――安部磯雄と早稲田野球部「チアフル倶楽部」の始動(後編)|中野慧
2022-06-10 07:00
ライター・編集者の中野慧さんによる連載『文化系のための野球入門』の第22回「草野球サークル、日露戦争中にアメリカへ行く――安部磯雄と早稲田野球部「チアフル倶楽部」の始動」(後編)をお届けします。早慶戦をはじめとして、今なお伝統を引き継ぎ続ける早稲田大学野球部。初の早慶戦と、日露戦争時のアメリカ遠征が「娯楽スポーツ」に果たした文化史的意義について考察します。(前編はこちら)
中野慧 文化系のための野球入門第22回 草野球サークル、日露戦争中にアメリカへ行く――安部磯雄と早稲田野球部「チアフル倶楽部」の始動(後編)
草野球サークル「チアフル倶楽部」の始動
安部が尽力したいと考えた「スポーツを通じた国際交流、相互理解」はしかし、すぐに実行できるものではなかった。留学を終えて帰国し、1899年に東京専門学校(1902年に早稲田大学に改称)に講師としての職を得た安部は、留学中にテニスに熱中していた経験を買われ、1901年に運動部長を兼務することになった。 東京専門学校ではこれより以前に押川春浪によって野球チームが創られていたものの、その後は事実上消滅していた。しかし1901年に安部が運動部長になった当時、学生たちのなかで中学時代に野球経験のある者が比較的多かったという事情もあり、学生たちの間で自然発生的に野球チームが生まれていく。安部もそれを顧問のようなかたちでサポートをすることになった。 現代では「早稲田大学野球部」といえば学生野球界随一の名門であり、何か男らしさに圧倒されるような響きを持っている。しかし明治期には1880年代までに一高、慶應、学習院、明治学院などで野球部ができており、早稲田は創部当初は野球界では新興勢力で、決して上手な選手たちがいるチームではなかったという。が、草創期の早稲田野球部は「チアフル倶楽部」という、ややファンシーな名前であった。結成当初の早稲田野球部は近所の子どもたちにも馬鹿にされるほど弱いチームだったため「腕前はともかく元気だけはどこにも負けない」という意味が込められていた[1]。今とは違ってこのときの早稲田野球部は、牧歌的な草野球サークルのようなものであったと思われる。なお「元気」という言葉は、早稲田野球部に限らずこのあと生まれる天狗倶楽部にも共通したキーワードである。 草野球サークルは当然ながら活動場所が問題となる。チアフル倶楽部は、当初は早稲田のキャンパス内で練習したり、他校に出向いて試合を行ったりしていたが、やがて学生たちは「自前で広いグラウンドを持ちたい」と考えるようになった。そこで安部は大隈重信総長に掛け合って大隈の邸宅そばの田んぼを埋め立て中だった土地(大隈の所有地である)を融通してもらい、さらに部員たちと安部が一緒になって草むしり、整地などの肉体労働を行い、DIYで野球の試合ができるグラウンドへと整備していった。そこで安部自身も学生と寝食をともにし、ユニフォームを着て練習に打ち込んだ。このグラウンドはのちに戸塚球場と呼ばれるようになり、戦前期の学生野球の一大中心地となった[2]。 また、安部は部員の勧誘も熱心におこなった。なかでも、中学時代に名選手として鳴らしていた橋戸信(はしど・しん)を野球部に勧誘したのは後から見ると大きかったと思われる。橋戸は入学当初、知人の怖い先輩が野球部にいるのを恐れてテニス部に入部していたが、同じくテニスを嗜む安部が鎌倉で練習中の橋戸に出会って声をかけたのがきっかけとなり、野球部に入部した。さらにその後、中学で名選手として鳴らした押川清(おしかわ・きよし)、さらにピッチャーの河野安通志(こうの・あつし)も入部してきた。ちなみに押川清は、押川春浪の実弟である。 この時期に早稲田野球部に加入した橋戸、押川清、河野の3名はやがて天狗倶楽部のメンバーともなって、甲子園野球の前身「全国中等学校優勝野球大会」、日本初のプロ野球チーム「日本運動協会」、社会人野球の全国大会「都市対抗野球大会」の創設など、起業家精神に富んだ活動を次々と展開し、3人とも現在では野球殿堂入りしている。
▲橋戸信/橋戸頑鉄(1879-1936)。現在の都市対抗野球でMVPに贈られる「橋戸賞」の由来となった人物でもある。a Japanese baseball player, 橋戸頑鉄(Gantetsu Hashido),Public domain, via Wikimedia Commons, Link
「早慶戦開始」の文化史的意義
早稲田野球部が始動した1900年代初めは、まだ一高が野球界の覇権を握っていた時代だった。これまでも述べてきたように、日本の野球界には今も「一高的なるもの」を神聖視する向きが強い。ところが当時の一高野球部の実際の行状は、明らかにスポーツマンシップに反するものが多かった。「一高野球部は別に見習うべきものでも、伝統として重視すべきものでもない」ということが明確になるエピソードが幾つかあるので、ここで挙げておきたい。
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草野球サークル、日露戦争中にアメリカへ行く――安部磯雄と早稲田野球部「チアフル倶楽部」の始動(前編)|中野慧
2022-06-03 07:00
ライター・編集者の中野慧さんによる連載『文化系のための野球入門』の第22回「草野球サークル、日露戦争中にアメリカへ行く――安部磯雄と早稲田野球部「チアフル倶楽部」の始動」(前編)をお届けします。現代の「eスポーツ批判」「ゲーム脳」論争と同じような構図で明治期におこなわれた「野球害毒論争」。当時のメディア間で野球の功罪が問われる中、国際スポーツの意義を見出した安部磯雄の思想とはどんなものだったのでしょうか。
中野慧 文化系のための野球入門第22回 草野球サークル、日露戦争中にアメリカへ行く――安部磯雄と早稲田野球部「チアフル倶楽部」の始動(前編)
明治の若者バッシング? ニューメディア悪玉論としての野球害毒論争
前回(第21回)は、一高野球部から早稲田大学の飛田穂洲、そして高野連・朝日新聞、桑田真澄へ野球観のベクトルが受け継がれてきた、という見通しを示した。学生野球を中心に見られる極端なエリート主義・アマチュアリズムを正統なものと見做す思想は、戦前のトップエリート校である一高で生まれ、時代の要請に合わせて修正されながらも今日まで受け継がれてきたのである。 なかでも飛田穂洲は「学生野球の父」とされ、戦前〜戦後にかけて早稲田大学野球部監督・顧問として、または編集者・記者としてさまざまな言論活動を行い、精神主義を基調とする一高野球部のスポーツ観を直接的に継承・発展させてきた中心人物である。 ところがこの飛田は、なかなかの曲者である。彼はそもそも一高野球部ではなく早稲田野球部の出身であり、編集者・記者としてはバンカラで知られる冒険SF小説家・押川春浪の弟子でもあった。押川春浪率いるスポーツ社交団体・天狗倶楽部、そして天狗倶楽部とかなりのメンバーが重複している早稲田野球部の関係者たちは、一高野球部の極端なエリート主義とは違う方向性を打ち出そうとした人々だった。 天狗倶楽部のメンバーで早稲田野球部出身でもあった飛田は、なぜ一高的野球観を取り入れていくことになったのか。その背景を理解する上で象徴的なのが、飛田が大学在学中の1911年(明治44年)に起こった「野球害毒論争」である。詳細はもう少し後で詳しく触れるが、簡単に言えば「野球が若者をダメにする」という危機感を煽る一大メディアキャンペーンが、当時の大新聞だった東京朝日新聞によって引き起こされたのだ。 このとき東京朝日は、新渡戸稲造や乃木希典といった名士たちに野球を痛烈に批判させた。こうした批判に対し、東京朝日のライバル紙であった読売新聞・東京日日新聞(現在の毎日新聞)などで反対論陣を張ったのが押川春浪と安部磯雄だった。 第17回で触れたとおり、1903年の藤村操の投身自殺を契機として当時の日本社会では「煩悶青年」ブームが起こっていた。「自分の存在とは何なのか」「何のために生きているのか」というアイデンティティの問題を探し求め、哲学書や小説に耽溺する若者たちが登場し、1900年代のメディア上を賑わせたのである。明治維新で「四民平等」が謳われるようになったものの実情として身分制度は残存しており、職業選択の自由が小さかった当時の大人たちにとって、アイデンティティの問題に悩む若者たちの登場は物珍しく、羨望と嫉妬の対象となった。 また、習慣としても「黙読」というアクティビティは新しいものであった。ライターの堀越英美はこの時代の社会変化を、以下のように分析している。
かつての読書の楽しみとは、家長が『南総里見八犬伝』などの娯楽小説を読み上げるのを家族全員で耳を傾けたり、母や祖母が子供に草双紙の絵解きを聞かせたりと、家族でわかちあうものだった。しかし明治三十年代から中等教育が全国的に整備されて識字率が向上し、出版点数が増える中で、若者たちは共同体から離れて、一人で好きな本を心ゆくまで堪能できるようになる。それは大人たちが教える伝統的な規範に抗い、個人としてものを考える内的指向型の人間を多数産み出すことになった。いわゆる「自我の目覚め」である。 (中略)伝統社会を生きてきた大人からすれば、新時代の書物を読む若者は何を考えているのかわからない、不安を誘う存在だった。ゲームやスマホ、ネットに興じる現代の子どもが保守的な教育者から嫌がられる理屈とそう変わらない。年少者・女の一人遊びは、とくにそれが新興メディアである場合に、共同体を支配したい権力者からおぞましいものと映る。(堀越英美『不道徳お母さん講座 私たちはなぜ母性と自己犠牲に感動するのか』河出書房新社、2018年、101頁)
それまで黙読の習慣になじみのなかった当時の大人たちにとって、読書に耽る「煩悶青年」は不気味なものに見えた。そして新聞などではやがて読書の害が強調されるようになっていった。煩悶青年ブームに続く1910年代に登場した野球害毒論は、煩悶青年批判の延長線上にある文化現象だった。 現代日本でも、たとえば1989年の宮崎勤事件を契機に起こったアニメ・マンガ文化へのバッシング、2002年に始まった「ゲーム脳」論争、2018年頃からのeスポーツへの批判など、ニューメディア悪玉論の系譜があった。煩悶青年批判(=読書への耽溺に対する批判)、野球害毒論(=アメリカ由来の文化である野球に熱中することへの批判)は、いわばニューメディア悪玉論の戦前版といったところだろう。
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桑田真澄の「野球道」に欠けているものは何か? 一高・東大的「ガリ勉のエートス」と「不良性」(後編)|中野慧
2022-04-18 07:00
ライター・編集者の中野慧さんによる連載『文化系のための野球入門』の第21回「桑田真澄の「野球道」に欠けているものは何か? 一高・東大的「ガリ勉のエートス」と「不良性」」(後編)をお届けします。現代野球界の「スポーツマンシップ」の欠如を批判する桑田真澄が見落としている点を検証し、日本野球草創メンバーの「バンカラ」的性格から、新たな野球史観を確立するための論点を絞り出します。前編はこちらから。
中野慧 文化系のための野球入門第21回 桑田真澄の「野球道」に欠けているものは何か? 一高・東大的「ガリ勉のエートス」と「不良性」(後編)
「武士道をスポーツマンシップに入れ換える」ことの問題(承前)
桑田は元プロ野球選手であるがゆえに、「野球界」のみを視野に入れた議論を無意識に展開しているように見える。だが、特に2021年の東京五輪強行開催以降に強まった日本社会のスポーツへの風当たりの強さを念頭に置いたとき、社会のなかでスポーツがいかにあるべきかを根本的に捉え返すような議論が必要になるはずだ。スポーツへのネガティブな感情をどう受け止め、そこからいかに新たな野球観・スポーツ観を紡いでいくのか──社会的な総合性のなかにスポーツの営みを位置づけ直す試みが重要だと考えられる。
さらに桑田は、「野球道」という言葉から武士道のエートスを取り除き、代わりに「スポーツマンシップ」を中核に据えるべきだと主張している。だが、戦前日本の野球文化創生に関わった人々が「武士道」という言葉にこだわったのは、前近代=江戸以前と近代=明治以降の価値観を何とか繋ごうとするバトンリレーの意識があったからである。桑田の議論には武士道=時代遅れのものである、という単純な認識が見え隠れする。武士=階級的なもの、男性的なものであり、したがって前時代的だ、というふうに考えられているように思える。 桑田は自身の議論のなかで、飛田の野球道の要素の3つの柱のうち、「絶対服従」に代わって「リスペクト」という概念を尊重すべきだと述べている。
桑田 まずは指導者と選手が互いにリスペクトし合うこと。そして先輩は後輩を思いやり、後輩は先輩を敬う。審判に文句を言ったり野次を飛ばしたり、今はそれが当たり前ですが、審判や対戦相手もリスペクトしなければいけないと思います。(桑田真澄・平田竹男『新・野球を学問する』106ページ)
たしかにスポーツに参加する上で「リスペクト」の概念を理解し実践することは、今は疎かにされがちだが、非常に重要なものだ。スポーツの場は、選手以外のさまざまな「ささえる」人々の存在がなければ成立できない。また、相手チームへの非礼な野次は多くの野球の試合の現場で実際に行われていることだが、その行いは「試合は対戦相手がいなければできない」という基本的な認識を欠いている。スポーツの場を実現するという「当たり前でないこと」が実現されていることを「当たり前のこと」かのように認識してしまっている点は、当然改めなければならない。 しかし桑田の「武士道をスポーツマンシップに入れ換えるべきだ」という主張は、それこそ先人たちの苦闘に対するリスペクトの念を欠いてしまっている。単純に「武士道」という観念を切って捨てるのではなく、一見古く見えるものをよく観察し問い直すことで、未来に活かすという発想があってもいいはずだ。
また、もう一つ桑田が見落としている点がある。
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桑田真澄の「野球道」に欠けているものは何か? 一高・東大的「ガリ勉のエートス」と「不良性」(前編)|中野慧
2022-04-12 07:00
ライター・編集者の中野慧さんによる連載『文化系のための野球入門』の第21回「桑田真澄の「野球道」に欠けているものは何か? 一高・東大的「ガリ勉のエートス」と「不良性」」(前編)をお届けします。一人のプロ選手として輝かしい成績を残しながら、引退後は言論活動を通じて野球界に貢献してきた桑田真澄。彼の野球史観を批判的に検証しつつ近代日本の野球について分析します。
中野慧 文化系のための野球入門第21回 桑田真澄の「野球道」に欠けているものは何か? 一高・東大的「ガリ勉のエートス」と「不良性」(前編)
一高中心史観と桑田真澄の「新野球道」
日本野球の文化性が形作られた最も重要な時期は、1900〜1920年代である。 この時代は明治末期から大正期、昭和初期へと続いていく時期で、日露戦争、韓国併合、第一次大戦への参戦、関東大震災、普通選挙法施行といった近代日本の歴史のなかでも重要な出来事が次々に起こった。日本は1868年の明治維新を契機に近代化を始めたがその歩みは遅く、高等教育(旧制高等学校、大学や専門学校[1])の普及、俸給生活者(サラリーマン)の登場、良妻賢母教育の広がりなど、今に続く文化の雛形が形成されたのは1900〜1920年代になってからだった。 前回、日本の野球文化を規定するものとして「一高中心史観(=日本野球は根性論と精神主義の歴史である)」の存在について論じた。戦前は現代に比べ高等教育の学資を支弁できる家庭は限られており、そのうえ一高は男子のみ入学可能、入試も日本最高難度で、1学年わずか300人程度しか入学できない非常に狭き門だった(現在の日本で最難関の大学とされる東京大学は1学年3000人程度である)。 その超エリートである一高で1890年代に「校技」となったのが野球であり、一高野球部の強さは日本一とされ、野球部員たちはスクールカーストでも頂点に君臨していた。そして野球部員以外の学生たちも「野球の応援に熱心に参加するべきである」とされていた。 ところが世紀転換期、藤村操の投身自殺をひとつの契機として一高生たちの間で個人主義が台頭し始め、野球応援に熱狂する集団主義的学生文化が冷ややかな目で見られるようになった。また経済成長を背景に旧制高校への進学を狙う家庭が増え始め、一高の入試難易度が上がったこと、そして野球の民衆への普及により日本野球全体のレベルが向上し、一高野球部に勝利する大学や中学(当時の中学は5年制で、現在の中学校・高等学校に相当する。当時は旧制高校と中学校の対戦もごく普通に行われていた)も現れ始めた。 しかし同年代男子内でもっとも学業優秀、スポーツにも秀でる「文武両道」の一高野球部に対するフェティシズムは強力に存在し続けた。こうしたフェティシズムを背景に、有山輝雄や佐山和夫といった戦後の歴史家たちは、一高野球部のプレゼンスを大きく見積もる歴史観を書き続けてきた。 こうした「一高中心史観」を現代に引き継いで発信を行っているのが、巨人やピッツバーグ・パイレーツなどで投手として活躍した桑田真澄(現:読売ジャイアンツ一軍投手チーフコーチ)である。桑田は現役引退後、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程に入学し、そこで論文「『野球道』の再定義による日本野球界のさらなる発展策に関する研究」を執筆し、脚光を浴びた。 元選手が野球史を論じる試みは現代において非常に珍しいものであり、その意味で注目に値する。だが桑田も有山や佐山の議論に大きく経路依存し、「日本野球は根性論と精神主義の歴史である」という一高中心史観を踏襲してしまっている。 以下、それの何が問題なのかを詳しく見ていこう。
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野球文化を創った冒険SF小説家・押川春浪は、なぜデビュー作で「大日本帝国万歳」を唱えたのか?(後編)|中野慧
2022-03-25 07:00
ライター・編集者の中野慧さんによる連載『文化系のための野球入門』の第20回「野球文化を創った冒険SF小説家・押川春浪は、なぜデビュー作で「大日本帝国万歳」を唱えたのか?」(後編)をお届けします。 日本野球の「ポップカルチャー」化に貢献した押川春浪。日本SFの祖としても知られる彼の生い立ちと、デビュー作『海底軍艦』について分析します。(前編はこちら)
中野慧 文化系のための野球入門第20回 野球文化を創った冒険SF小説家・押川春浪は、なぜデビュー作で「大日本帝国万歳」を唱えたのか?
反逆児・押川春浪(方存)、そのヤンキー漫画顔負けの青春時代
押川春浪は本名を押川方存(おしかわ・まさあり)という。以下、SF作家の横田順彌氏のいくつかの著作から、春浪の少年・青年時代について述べていこう。 方存はすでに述べたように、日本におけるキリスト教教育の先駆者である押川方義(おしかわ・まさよし) -
野球文化を創った冒険SF小説家・押川春浪は、なぜデビュー作で「大日本帝国万歳」を唱えたのか?(前編)|中野慧
2022-03-15 12:44
ライター・編集者の中野慧さんによる連載『文化系のための野球入門』の第20回「野球文化を創った冒険SF小説家・押川春浪は、なぜデビュー作で「大日本帝国万歳」を唱えたのか?」(前編)をお届けします。 しばしば「精神主義」の歴史として語られがちな日本野球ですが、実際には天狗倶楽部をはじめとする一部の文化人が、娯楽としての野球を自発的にプレイする歴史がありました。※3月15日7:00配信の本記事につきまして、一部、最終稿と異なる状態で配信してしまいましたため、修正して再配信いたします。著者・読者の皆様にご迷惑をおかけしましたことを、深くお詫び申し上げます。【3月15日13:00追記】
中野慧 文化系のための野球入門第20回 野球文化を創った冒険SF小説家・押川春浪は、なぜデビュー作で「大日本帝国万歳」を唱えたのか?
「一高中心史観」の問題とはなにか
前回までは、明治末期の日本で野球文化が
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