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  • なぜネット時代にゼクシィは売れ続ける?――レッグス野林徳行氏の"顔が浮かぶ"マーケティング ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.189 ☆

    2014-10-29 07:00  

    なぜネット時代にゼクシィは売れ続ける? 
    レッグス野林徳行氏の"顔が浮かぶ"マーケティング
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.10.29 vol.189
    http://wakusei2nd.com


    本日のほぼ惑では、リクルート、ブックオフ、ローソンなどで数々のサービスを仕掛けてきた野林徳行さんへのインタビューをお届けします。結婚情報誌、新古書店、コンビニといった生活サービスの進化によって、現代のライフスタイルはどう作られてきたのか――!? ビジネスの最前線で変化を目の当たりにしてきた野林さんに、そのマーケティングの極意を伺いました。
    リクルートでは『とらばーゆ』や『ゼクシィ』、ブックオフでは都内1号店の出店戦略に関わり、ローソンでは執行役員としてローソンパスカードなどの商品や、リラックマ等の有名キャンペーンを仕掛けてきたマーケッター ――といえば、その重要性にピンとくる人も多いだろう。現在はレッグス社の常務執行役員兼CMOを務める野林徳行氏は、80年代から本格的に台頭してきたサービス産業の知る人ぞ知る重要プレイヤーであり、またその歴史の生き証人でもある。今回、PLANETS編集部は、そんな数々のヒット商品に関わってきた野林氏に、これまでに手がけてきた事業についてお伺いした。意外なことに、その最前線で戦ってきた氏は「アンケートの自由回答欄を重視する」と語り、現場に足を運んでカスタマーを徹底的に観察するという人物であった。冒頭のリクルートについての話題に続き、有料公開部分では、そんな長年のマーケティングの知見からコンビニ戦争の歴史における貴重な証言まで、盛りだくさんの内容を語っていただいた。

    ▼プロフィール野林 徳行(のばやし・のりゆき)
    早稲田大学政治経済学部卒業。1987年、リクルート入社。経営企画、事業戦略、商品企画、プロモーションプランニングなどを担当。2003年、ローソン入社。執行役員としてマーケティング、エンタテイメント、商品開発に携わる。現在、レッグス常務執行役員兼CMO。ブックオフコーポレーション社外取締役。著書に、自身の体験をもとに、現場とカスタマーの調査を重視するプランニングを記した『とことん観察マーケティング』(ビジネス社・2013)。
     
    ◎聞き手・構成:稲葉ほたて
     
     
    ■リクルートの歴史は誰も知らない?
     
    宇野 現在のリクルートの姿がどのように形成されたのかって、実は意外と整理されていないような気がします。しっかりとまとめた本も存在しないですよね。もちろん出身者の仕事術みたいな本は沢山ありますが、リクルートイズムを受け継ぎつつも、それを少し揶揄的に批評しながら自分の人生観を表現したようなものが、ほとんどだと思います。結果的に、歴史を交えてその本質を客観的に語ったような資料が存在していないんですよ。
    まあ、それこそがリクルート的だと思うんですけどね(笑)。苦笑いしながら批判的に継承していくような人材を大量に輩出していること自体が、リクルートイズムを体現しているとも言えますから。
    野林 確かに、歴史をちゃんとまとめた本はないかもしれません。おっしゃられるように、リクルート出身者って、どんどん外に出て、けっこう勝手に本を出してしまいますね(笑)。私も出してますし。実際、僕も39歳で定年退職していますしね。人事担当の時に早期定年退職者制度を推奨していたので、自分がその年齢になったときに、「自分は退職しないというのはおかしいよね」と辞めました。
     
    ▲野林徳行『とことん観察マーケティング』ビジネス社、2013年
     
    しかも、リクルートは進化し続ける企業なんです。だから、まだ残っている人と出た人が、ちゃんとコミュニケーションをとることが必要になると思います。これは不思議なくらいよくできていますね。
    ――そういうとき、まさに野林さんのように、その中心で長く目撃していた人は歴史を語るときのキーマンだと思うんです。そもそも、いま話に出た早期退職者制度にしても、なんとなくリクルート伝説みたいになってますが、本来どういう経緯で出てきた発想なのかは誰も知らないと思います。
    野林 私は昭和62年入社で、リクルート事件の2年前に入りました。まだリクナビもなくて、学生に「リクルートブック」という冊子をダイレクトメールでドカッと届けていた時代です。一番大きな「会社研究編」なんて、8冊くらいの20kgぐらいある冊子でした。たまに「(家の前に置かれていて)扉が開かない」なんてクレームも来ていたくらいですね(笑)。
    そういう中で当時、リクルートはどんどん新卒入社を増やしていたんです。なにせ僕の入社した昭和62年の同期は850人で、その次の新卒が1000人を超えて、平成元年には1500人になった。でも、事業の成長って徐々に鈍化していくものでしょう。そうなると、やはり「人が多いなあ」となったわけです。当時は、事件や事故で経営的に厳しいタイミングもありましたからね。
    ――早く出て行ってくれないかな、みたいな(笑)。ということは、事業の急成長で社員をどんどん入れたはいいけど成長が鈍ってきて……という”ベンチャーあるある話”がキッカケだったわけですね。もちろん、そこでこの施策が回ったのが凄いと思うのですが。
    野林 まあ、「多い」と言うのは、時代の変化の先を行くには新しい世代の投入が必要で、その層の取り込みをはかるのであれば新陳代謝が必要になるというのもありますね。
    ただ、辞めた連中もやはりリクルートが大好きだったから、リクルートのためになるように仕事をしてくれたんですよ。それに、今言ったように、若い社員が沢山入ってきて、常に上が出て行く状態ですから、いつまでもカスタマーの気持ちに合ったものが作り続けられます。このサイクルを気持よく続けられているからこそ、伸びているのだと思いますね。
    でもね、逆に言うと、リクルートは一つもシニアビジネスは成功していないんです。就職や結婚の最新情報には強いけれども、やはり自分が知らないものはわからないわけです。
    宇野 いきなりリクルートの「本質」をめぐる話に迫ってしまいたいのですが、一般的にはリクルートって結婚や就職のような、人生において絶対に避けられないもののプラットフォームを握って存在感を増してきた企業という評価になると思うんです。しかし、その文脈は一体どこから生まれたのでしょうか。
    野林 江副さん(※ リクルートの創業者である故・江副浩正氏)が大学広告社として「新卒と企業をつなぐ」ビジネスを始めた段階で、もう出来ていたと思いますよ。そこで、次は中途採用もできるんじゃないかと「就職情報」というビーイングの前身になる雑誌をやりました。その後に求人から住宅にもノウハウを広げます。
    僕らが入社した頃には「これはマッチングビジネスというものではないか」という話になっていましたね。このマッチングというのは、クライアントとカスタマーさえいれば全てに当てはまるわけでしょう。だから、エイビーロード、カーセンサー、じゃらん……と、どんどんビジネスが広がりました。この辺は、自分で手を挙げて事業が出来る制度が社内にあったのも大きいですね。
     

    ▲江副浩正『かもめが翔んだ日』朝日新聞社、2003年
     
    ――ただ、江副さんたちの本を読んでいると、実は色々とやっていく中で、マッチングビジネスに強みが絞り込まれていったようにも見えます。実際、通信事業なんかにも江副さんは手を出されていますよね。
    野林 とはいえ、全くの別分野だったのは通信と不動産だけですよ。江副さんも大きな利益を生み出し、それを次に活かす野望がいろいろあったのだろうと思います。当時、リクルートコスモスなんて「女の子がアイスクリームを買いに来るくらいの感覚で、リクルートが不動産を買いに来る」なんて陰口を言われたと聞きました。
    通信の方は"第三電電"を創るくらいの勢いで着手したのですが、失敗してしまいましたね。その結果、私の同期には沢山の優秀な理系の方々がいたのですが、営業部署に異動になってちょっと切なかったです。結局、今までのナレッジを何も活かせないビジネスだったんですね。もちろん、この辺は直接やったわけではないですから……「たられば」とか本当の意図とか、自分にはわからないこともあるとは思いますけれども。
    ――でも、そういう歴史を語り直すことは「リクルート神話」を崇めるより有益だと思います。今やクレバーに経営しているイメージのリクルートも、実は色んなベンチャーが経験するような失敗をやらかす中で、コアコンピタンスを認識していったのだな、と思いました。
    宇野 それにしても、根本的すぎて身も蓋もない質問なのですが、なぜマッチングビジネス以外はうまくいかなかったのでしょうか? それは「リクルートとはなにか」という本質に迫る問いのような気がします。
    野林 その辺は難しいところですが……ただ、リクルートはメディアの会社である以前に、営業の会社なんです。江副さんは新卒採用にとんでもなく力を入れた人で、武道館で入社式やるわ、採用部隊に人材開発部150人を突っ込んで日本中から最高の学生をとるために動きまわるわで、入社後は研修もみっちりとやる。
    そこで採用されていたのは、単なる出版社の広告取りの営業ではなくて、コンサルしてニーズから生み出していくのが好きな連中でした。そして、そういう連中が下の世代に同じように教育をして、同じように採用をしていった……それだけとしか言いようがありません。そうなると、もはや言語化しにくいところがありますね。
     
     
    ■ゼクシィは”ポスト雑誌”から”モノとしての本”へ
     
    ――ただ、野林さんはむしろ営業部に対して、消費者の声を拾い上げる部署にいたんですよね。
    野林 ええ、マーケティング局にいましたから、基本的には営業には行ってません。私がいたのは情報誌が花盛りで、ちょうどホットペッパーのようなフリーペーパーが出始めた頃でした。とらばーゆからゼクシィくらいまでの時期ですね。宣伝・販売を扱っている部署で、当時の全ての事業を見ていました。
    私のリクルートでの改革は、メディアにカスタマー意識を徹底したことに尽きます。
    カスタマーとクライアントの意識の比率を50:50に……いや、可能なら51:49くらいにしよう、と。始めた頃は、せいぜいクライアント80に対して、カスタマー20くらいのものだったのですよ。営業が非常に強いので、受注が多い企業を増やそうとしてしまうんです。でも、それではカスタマーにとって無価値なメディアです。
    実際、企業だって最初は「採用に1億円かけてもいい」なんて思っても、効果がなければ次は出してくれません。特にリクルートはテレビCMと違って、応募とか資料請求という形で効果が見えるメディアでしょう。
    例えば、ゼクシィで一番売れるのは「結婚式 絶対しちゃいけない失敗100」みたいな特集なんです。これでもう、セレブ婚をやる読者たちではないとわかるでしょう?
    一生に一回だけの結婚だから失敗したくない。でも、どうしたらいいかわからなくて不安。調べ方もわからない。そんな人がある日、本屋でゼクシィを見つけるんです。そして中を開いてみると、今度はしっかりと編集された記事が載っていて、「あなたのような人を、私たちはこんなプランでお迎えします」と結婚式場が言っている――そうなれば、応募しますよね。
    ―― 単に情報を与えるだけではなく、編集記事でニーズを掘り起こすわけですね。
    野林 単なる一覧表や検索ではなかなか気づけない話だとか、人の失敗・成功を比較した記事だとかがあると、やはり選び方が変わります。
    例えば、転職の際には、女性でも転職事情や給料の比較表を非常によくチェックするとわかっています。それで「勉強しなければ、この給料は得られないのか」となれば、そこには勉強のニーズが生まれます。そうなれば、今度は「ケイコとマナブ」に繋げる手もあるでしょう。
    宇野 とても面白いですね。僕からすると、80年代や90年代のいわゆる「雑誌文化」って、東京なり海外なりにまだ読者が知らない文化や情報があると言い募って、読者の欲望を作っていたのだと思うんです。でも、リクルートの欲望の作り方は全く違いますね。もっと"プレ・インターネット"的だと思いました。「外部」へのあこがれを掻き立てるのではなくて、むしろ「内部」の人間や会社同士の比較によって欲望を作っていくわけで、現代風に言えばソーシャルネットワークの整備による欲望の生成装置ですよね。
    野林 そういう意味では、氾濫している情報を整備して「ステキ」を加えたんですね。海外旅行のパンフレットがあちこちに散らばっていたので、エイビーロードという1冊の本に集約する。しかも、インデックスや値段で調べられる。常にコンセプトはそういうところにありました。
    宇野 ただ、そんなリクルートマジックは「ゼクシィ」が最後だった気がします。インターネットビジネスが大衆化したときに、やはりその社会的役割というのは、半ば終わってしまったように見えるんです。
    野林 確かに、全体としては終わっていっているのかもしれません。でも、ゼクシィは全然終わっていませんよ。結婚式のカスタマーの9割以上がゼクシィを見ているんです。
    ――このネット時代に、ゼクシィはなぜこれほど強く生き残ってるのでしょうか?
    野林 「夢」を持てるんです。
    結婚式を挙げるというとき、カチャカチャと検索するよりも、「どこにしようかしら」と紙のページをめくっていく方が幸せなんですよ。だって、関東版なんて4kg以上ありますから、もう米を本屋から持って帰るみたいなものです(笑)。でも、幸せだったら、彼女たちには重くなんてない。むしろ嬉しいんです。
    ――もはやゼクシィを買う行為が、結婚に至る一連のイベントの一つに組み込まれたわけですね。
    宇野 なるほどなあ。結婚業界のインフラそのものになることで、生き残ったわけですね。
    よく僕は、雑誌のような紙媒体がネットに置き換えられるのは、ランプが電灯に変わるようなもので避けられないと話すんです。その喩えでいうなら、いわばゼクシィは"アンティークのランプ"として生き残ったわけですね。つまり、照明としての需要を超えて、むしろアンティークとして支持されている。
    あの形、重さ、質感、そして何よりも――大変な思いで持ち帰ったゼクシィが部屋に置かれている事実。もはや、それ自体が幸福の象徴であり、憧れになっている。ゼクシィはいち早く「嗜好品としての雑誌」という領域に辿り着いたのですね。
    野林 ええ、そういう面はあると思います。ゼクシィの担当者は「他社のフリーペーパーなんて怖くない」と言っていました。ある意味では、リクルートのマーケティングにおける最高傑作かもしれません。
    でもね、やはり徹底的にカスタマーを見ているのが大事なんですよ。ロゴ入りの婚姻届の付録なんかは有名ですが、他にも例えば、非協力的な彼氏の机の上に置くための付録があったりします。「あなたも考えないと」みたいな。
    ――怖すぎですね(笑)。
    宇野 よく雑誌みたいな紙媒体が生き残っていくには、もはや紙というオブジェクトそれ自体に価値を持たせるしかないと言われます。その一つが「宝島商法」なんて言われる付録ビジネスですが、ゼクシィはとうの昔にそれを実現していたのですね。
    これはもう、海外やアンダーグラウンドの最新情報の紹介を雑誌の役目だと思っている古い雑誌編集者たちからは出てきませんね。端から氾濫する情報を整理することで欲望を作ってきた、リクルートだからこそ辿りつけた領域なのだと思います。
    野林 それに、リクルートは広告収入で成り立ってるので、極端な話を言えば販売収入はゼロでも構いません。そもそも普通の雑誌とは、モデルが違うわけですね。しかも、当時の一部の雑誌は、書店にラックを渡して「自分たちで持ってきて、持って帰るんで」とやるわけです。もう本屋からすれば、雑誌だとすら思っていないんじゃないですか。「クライアントに効果を出すために置かせてくれ」と言っているようなものですから。
    ――日本の取次や本屋を、いわば情報を配るための便利なプラットフォームとして見ているのですね。
    宇野 傍から見ると、リクルートは情報誌からフリーペーパー、インターネットと媒体を変えていった歴史に思えてしまう。でも、野林さんからすれば、それは表層の変化に過ぎなくて、本質は別のところにある。
    要は、ユーザーにとってのブラックボックスにリクルートが比較・検討するプラットフォームを整備すれば、ニーズが生まれて売上も上がっていくから、それをガンガン企業に営業すればいい。それこそがリクルートの強みなのであって、そこは一貫しているわけですね。