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  • 森と干潟の流域を歩く「小網代の森」探訪記・後編(毎週金曜配信「宇野常寛の対話と講義録」) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.480 ☆

    2015-12-25 07:00  
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    森と干潟の流域を歩く「小網代の森」探訪記・後編(毎週金曜配信「宇野常寛の対話と講義録」)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.12.25 vol.480
    http://wakusei2nd.com


    今朝は、神奈川県の三浦半島にある「小網代の森」の保全活動を推進している進化生態学者・岸由二さんのインタビューの後編をお届けします。岸さんが「小網代の森」に関わるようになったきっかけ、さらには〈流域の思考〉によって培った、新しい自然環境保護の思想について、語ってもらいました。(本記事の前編はこちらから。)
    ▼プロフィール

    岸由二(きし・ゆうじ)
    慶應義塾大学名誉教授。1947年東京生まれ。横浜市大、東京都立大大学院を経て、1976年より慶應義塾大学経済学部助手。助教授、教授を経て2013年退職。進化生態学専攻。流域思考の防災・環境保全型都市再生に関心をもち、三浦半島小網代や鶴見川流域で、NPOの代表として理論・実践活動を続けている。共訳書に『利己的な遺伝子』、著書に『流域地図のつくり方』など。
    ◎聞き手・構成:宇野常寛、PLANETS編集部
    ■ 「見る」ための地図と「住まう」ための地図
    ―― 僕はいま高田馬場に住んでいるんですが、距離的には雑司ヶ谷や目白台はすごく近いはずなんですけれど、体感的には渋谷や九段下の方が近く感じるんです。それは多分、電車のせいなんですが。そこにずっと違和感を感じていたんですよね。
    岸 前回も話しましたが、宇野さんもほとんどすべての現代人も、普段はリアルな流域の地形に沿って暮らしているわけじゃなく、自分の住んでいる駅の沿線の住人として生きていますからね。ある意味で当然です。一方で、そこに違和感を感じる人と感じない人がいる。たとえばいま『ブラタモリ』のような番組が面白がられるのは、ちょっと違和感のある人があの番組にひっかかるからでしょう。ずっと都市に暮らしていても宇野さんのように違和感を持つ人はいるわけで、そんな人は自分の感覚の中に、前回お話ししたような、二次元のデカルト的な行政地図だけじゃなく、3次元の大地の凸凹マップが本人のマザーマップとして残っているのかもしれない。流域地図は、その基本単位なんですね。
    ―― 僕自身、東京に来る前は自転車移動が中心でした。それが東京に来てからというものすっかり電車移動ばかりになってしまって、そしてずっとこの街が好きになれないでいました。東京が少しは好きになれそうだな、と思えるようになったのは散歩を趣味にするようになってからですね。歩くことで、随分と街の見え方が変わったように思えます。
    岸 原始の狩猟採集民のように徒歩か、あるいは自分で重力の負担を感じられる自転車での移動じゃないと、生物としての人間がリアルな地形を体感し、流域地図を自身のマザーマップとして獲得することは難しいでしょうね。自動車や電車や飛行機での移動は、地形をすっとばしてしまうから、あくまで景色としてしか外観を認識できない。
    ―― 僕も『ブラタモリ』は大好きな番組だし、あとは中沢新一さんの『アースダイバー』にも強い衝撃を受けたクチです。しかし、岸さんのおっしゃる〈流域の思考〉はそのふたつとはちょっとずれたところにあるように思えます。
    岸 『アースダイバー』は、現代の行政地図ではなく、地形や歴史を踏まえた数千年前の縄文海進時代の地図を持って街を歩く、という視座を提供しました。その意味ではとても面白かったのですが、学術的なものではないので自然科学や防災のようなリアルな仕事にはいまひとつ使えない。
    ―― 『ブラタモリ』は江戸と東京、ふたつの時代の文脈の差異で、『アースダイバー』は土地の歴史と作家・中沢新一の文学的想像力との間の差異で世界の見え方を変える、という試みだと思います。対して、〈流域の思考〉を身につけるということは、実際にその土地に住み、資本主義の中で暮らしている僕らの生活の中で世界を見る目を二次元から三次元へと拡大する、というか三次元的に捉える目を取り戻すものに思えますね。
    岸 『ブラタモリ』や『アースダイバー』の地図は、過去の歴史と戯れるためのもの、という側面がある。最近のタモリさんは、『ブラタモリ』の軽井沢の回で、とある峠が2つの川の分水嶺で、水を流すと片側は日本海に、片側は東京湾に流れる、なんてことをやったり、『タモリ倶楽部』で荒川上流の施設にある立体流域地図で遊んだりと、現代・未来の「流域」に明らかに興味を持ち始めているな、と思いますが。
    いずれにせよ、日常の「住まう」ことの基礎に大地のリアルな凸凹地形に対する感覚をベースにした流域地図があって、その流域地図が個々人のマザーマップになる、というのが常識になるのには、まだまだ時間がかかるでしょう。だから、前回もお話ししたように、まずは「流域地図」を具体的な道具として、役立ちそうなところならどこででも使ってほしい。防災や街づくりや自然保全の仕事には絶大な効力を発揮するはず。
    ここ小網代では、まさに流域のかたちを明確に認識し、流域のかたちに沿って、自然の維持や保全、管理を行っています。ここに水を流そう。ここに湿地をつくろう。ここに土砂を貯めよう。ここの川幅を広げよう。「流域思考」を持って、小網代の流域のかたちを具体的に利用して、作業しています。それを繰り返しているうちに、現場で作業しているひとの体の中に、哲学としての「流域思考」だってインストールされていく。
    話は変わりますが、現代生態学には、1980代からアメリカで流行りだしたランドスケープエコロジー【1】という概念があります。空間的な構造を基礎においた生態学ですが、ここで使われている「ランドスケープ」(landscape)という言葉は、定義を辞書で引くと「風景画」「景観」と出てくる。つまりあくまで「見る」地形のことであって「住まう」地形のことじゃない。英語圏においては、”live in landscape”、ランドスケープの中に生きる、という文章は本来成立しないんですね。
    にもかかわらず、欧米では「ランドスケープエコロジー」なんて概念を提唱し始めちゃった時期がある。この単語、本来おかしいわけです。エコロジー=生態学には、具体的なジオグラフィー(地形)がセットに決まっている。そこで生きものが暮らすわけですから。ランドスケープエコロジーじゃ、風景の中に生きものが暮らしていることになっちゃう。だから、専門家があわてて「要素生態系を複数繋げたものをランドスケープと呼ぶ」なんて馬鹿な定義をしちゃったりもした。
    ところが、それから20〜30年経つと、自然保護や環境保全の領域から「ランドスケープ」という言葉の意味が変化してきた。現在では”live in landscape”という文章は、それらしい英語の本を読めばいくらでも登場するし、ネットで検索しても出てくる。出版物でも普通に使える表現になってきたんですね。
    つまり、この30年くらいで、ランドスケープは「見る」と同時に「住まう」ものになったんです。こういった言語的転換を前提にすれば、この「小網代の森」こそが、ランドスケープエコロジーを具現化した場所とも言える。人々が見る場所でもあるし、生きものが住まう場所でもある。そしてもちろん、私たちNPOがまるでそこに住まうかのように、自然の世話をする場所でもあります。
    ■ あらゆる土地に現れる「流域」の構造
    ――岸さんは進化生態学者として大学でキャリアを積まれていますが、「小網代の森」の保全活動のように、大学とは関係のないところで、実践的な環境保護活動に関わり始めたきっかけは何だったのでしょうか?
    岸 小網代は1960年代までは田んぼがあって、斜面は薪炭林として使われていた。おそらく何百年も稲作が営まれていた。河口の干潟では貝なんかをとっていた。地元の人たちにとっては、食をつくり、燃料を得る場所で、徹底的に人が手入れし、利用してきたところです。
    それが、1964年の東京オリンピックの頃を境に、電気やガスが普及して、燃料をとる必要がなくなり、わざわざ稲作をやる人もいなくなった。一方、三浦半島は日本で最初のリゾート開発の場となりました。ヨットハーバーが葉山から油壺、小網代までできました。小網代にはリゾートマンションまで建った。そこで小網代の森も湿地も将来はリゾート開発をという声も聞かれるようになり、1970年の都市計画の線引きで市街化地域となった。でも、こんな深い谷に、地権者は誰も家を建てなかったんですね。その間、小網代の薪炭林は明るい広葉樹林の林になり、水田は深い湿地にかわっていきました。そして80年代に入ると具体的なゴルフ場建設を含む大規模な開発計画が立ち上がったんですね。
    83年、慶応大学の教員仲間が小網代の近所に住んでいてこの森を偶然見つけ、「おい岸、三浦半島に原生林があるぞ」と連絡してきたのがきっかけです。翌年、実際に小網代に足を運んだら、原生林じゃないけど、もっともっと貴重な場所、ということが直感的にわかった。山のてっぺんから河口の干潟までがまるごと守られている。流域生態系の保全に理想的な環境だ、と。
    ゴルフ計画を含む総合的な開発計画(三戸・小網代開発)が発表されたのは翌年の1985年。よし、流域思考の方法にそって、あくまで都市計画への代案提示という線で、小網代の谷の保全をめざそうと、運動(ポラーノ村運動)に参加したのです。それから全力で小網代通いをはじめ、自然の調査もすすめました。
    1987年には、小網代の中央の谷を前面保全することを基本の要素として開発計画全体をみなおそうと呼びかける「小網代の森の未来への提案」という記念碑的な冊子を出版し、同時に、小網代ファンをふやすため、またアカテガニと一緒に森をまもる運動の戦略書として『いのちあつまれ小網代』という著書を出版しました。
    その後、激動の紆余曲折はありながら、1995年には神奈川県が小網代の谷の全面保全の方針を明示するにいたり、開発主体だった企業も賛同して、三戸・小網代開発は、70haの小網代流域全体を保全する新たな開発計画に改定されることになりました。農地造成、道路、宅造計画などはそれとして進んでおりますが、小網代の谷そのものは、2005年、国土交通省の国土審議会の審議をへて、近郊緑地保全区域に指定されました。
    ただし、保全の決まった当時は、まだ土地収用が済んでいなかったため、水田から、見事な湿地帯へ、さらにそこから乾燥したササ原、そしてササヤブへと荒れ放題になっていく小網代の自然の手入れをすることはできませんでした。2009年になって、神奈川県が保全事業に必要な土地の買収が順調にすすみ、可能な場所から順に、やっと手入れをしていいことになりました。そこで、かつて湿原だったのに乾燥してササヤブになっていたところを湿原に戻す作業から始めたんです。
    それから足掛け6年。今、皆さんが歩いてきた湿原は、すべて僕らがササヤブになってしまった場所を湿原に戻したものです。
    柳瀬 そもそも三浦半島において、川沿いの湿地という環境は、自然のままにほったらかしにしていたら、本来存在しないんです。
    ここは標高80メートルの最上流のてっぺんから、わずか1.3キロで海抜ゼロメートルまで下っている。それだけ急な川だと、人が手を入れなかったら深い深い渓谷になって、一気に海に流れ落ちる。実際、三浦半島の葉山や逗子のあたりの川は、深くて暗い谷を形成し、湿原も平野も作らずに、一気に海に流れこんでいる。
    では、なぜ、小網代は真ん中あたりから下流部にかけて広く平らな湿原が谷の低地にあるかというと、それはここでは昔から人間が何百年もかけて、川をせき止め、土砂を溜め、水路を工夫して田んぼをつくり、ゆっくりゆっくり水が流れ、土が堆積し、湿地構造ができるように手入れをしてきたからです。いま手付かずの自然に見える小網代の湿原こそは人間の手入れによってできた地形なんですね。
    ―― なるほど。私たちは「ありのまま自然」といった、人の手が一切介入しない環境を尊びがちですが、それが必ずしも「豊か」であるとは限らないんですね。人間の手を経ないと、このように森から湿地、干潟と続くグラデーションは生まれなかったと。
    柳瀬 人間が関わったことによって、小網代には三浦半島ではレアな湿地環境が生まれたんです。元々、人間が作った田んぼの環境の隅っこにあった自然を、かつての田んぼの面積全部で展開しようというのが小網代の自然維持の発想です。逆にいえば、人間が常に手入れをしないとこのかたちの自然は維持できない。
    ―― ひとつ気になっていたのが、「流域」の大きさについてです。〈流域の思考〉は人間が体感できる空間の規模に制限されるようにも思えます。ここ小網代ではウォーキングできる距離に流域が収まっていますが、例えば何十キロも続く大きな河川の場合、流域全体を体感的に把握するのは難しいですよね?
    岸 どこかの場所で流域を体感し、理解できれば、構造は一緒、水理学的な必然も一緒だから、大小にかかわらずどこに行っても応用が効きます。流域は、雨の水の集まり、流れる、大地の基本単位。表面流になれば、浸食、運搬、堆積作用は必然、定常流なら、瀬淵のリズムができるし、乾燥すれば池・土手構造の大地のリズムができることも、流域の大小に関係なし。そんな流域構造が雨の降る大地をうめつくしているんですね。
    ここは小網代流域、隣に三戸浜の流域があって、さらにその横に別の流域があって、半島主尾根の東側には東京湾に注ぐ流域があって、その横にはまた別の流域があって、広げていくと三浦半島が全部いくつもの流域で区分できて、さらに西に行けば相模川の流域があって、東に行けば鶴見川の流域が、多摩川の流域が、荒川の流域が、利根川の流域が、と大地をどんどん流域で区分できていける。日本を飛び出して、アジアに行っても、アフリカに行っても、アメリカに行っても、みんな同じです。
    さらに、ひとつの流域の中には入れ子構造でフラクタル【2】に流域が重なっている。いま、僕たちは小網代の浦の川本流ぞいの中間地点、真ん中広場の横にいます。この流れには、源流からすでに3つの支流が合流している。つまり今いる地点から上手は、3つの支流の流域がつブドウの房のように本流に接続した複合流域だということですね。
    この下手では、大きなものだけでさらに4つの支流が合流します。それぞれの小流域は、さらに小さな、沢や窪地といった流域構造の複合ですので、小網代の谷全体が壮大な小流域のフラクタル、複合ということですね。
    たとえば、いま私たちのいる足元の地面に、棒切れで溝を作る。これでもう、小網代の流域の中にもう一つフラクタクルな小さな流域ができた。ここに雨が降れば、この溝に向かって雨水が集まり、低い方へと流れて、最後は浦の川に合流する。
    こんな具合に世界を「流域の構造の入れ子」として感じることができれば、後は伸縮自在です。雨が降る大地は全て流域で区分できるわけですから。区分できない大地は、水の重力で土地が削られ、浸食・運搬・堆積の構造で地形ができない氷河と大砂漠くらい。それ以外の場所はすべてどこかの川の流域なんです。
    柳瀬 ただ、流域については、「すごくわかる人」と「全然わからない人」がいるんです。意外と知識人が全然ダメだったりする。下手に勉強している人はさっぱりわからないことがある。逆に、普通の子供やおばちゃんのほうが理解が速かったりします。これは、空間の印象を身体的に感じられるかどうかにかかっていて、理屈で頭に入れても、体感で感じられないと訳がわからなくなっちゃう。
    ―― 身体的に三次元の地図が読める人と読めない人が世界にはいる、という話ですね。この違いが生まれる背景には、確かに子供の頃の経験があるのかもしれない。大人になると、どうしても慣れ親しんだ平面的なマップの概念に引きずられて、立体的に土地を見る感覚が働きにくいんですよね。普段から、車や電車での移動が多い生活を送っているとなおさらです。
    柳瀬 先日、江東区の人たちを小網代の森を案内したときに、小網代の流域と江東区が属する荒川の流域をなぞらえて、地形をイメージしてもらったんです。江東区は荒川の流域の河口部にあたり、荒川を遡ると秩父の奥まで繋がっている。そこで、秩父から始まる荒川の流域を、小網代でシミュレーションしながら実際に歩いてみる。
    入り口は標高1000メートルの秩父山脈で、そこから川沿いに下っていって、海抜1メートルのここは門前仲町、あそこにある州が豊洲あたり、という風に、自分が住んでいる土地の形とリンクさせて考える。つまり小網代のたった1.3キロの浦の川でも荒川でも利根川でもアマゾン川でも基本は同じ。面積や形は違うけど、構造としてはひとつの集水域に水が流れて最後は海に出る。これは自然界の法則だから、どんな土地でも重ね合わせて見ることができます。

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  • 森と干潟の流域を歩く「小網代の森」探訪記・前編(毎週金曜配信「宇野常寛の対話と講義録」) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.475 ☆

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    今朝は、神奈川県の三浦半島にある「小網代(こあじろ)の森」を訪問したレポートと、「小網代の森」の保全活動を推進している進化生態学者・岸由二さんのインタビューの前編をお届けします。リチャード・ドーキンスの著書『利己的な遺伝子』の翻訳者としても知られる岸さんが提唱している、「流域思考」が目指すものとは?
    ▼プロフィール

    岸由二(きし・ゆうじ)
    慶應義塾大学名誉教授。1947年東京生まれ。横浜市大、東京都立大大学院を経て、1976年より慶應義塾大学経済学部助手。助教授、教授を経て2013年退職。進化生態学専攻。流域思考の防災・環境保全型都市再生に関心をもち、三浦半島小網代や鶴見川流域で、NPOの代表として理論・実践活動を続けている。共訳書に『利己的な遺伝子』、著書に『流域地図のつくり方』など。
     宇野常寛とPLANETS編集部が初めて「小網代の森」を訪れたのは、2015年8月のとても暑い日のことでした。
     「小網代の森」とは、三浦半島の先端に位置する小さな森です。品川から京急線にゆられて一時間あまり。東京都心から少し足を伸ばせば届く距離にありながら、都内では見られないとても多様な動植物が生育しています。
     PLANETSのイベントにも登壇していただいたことのある、日経BPの編集者・柳瀬博一さんがFacebookに投稿していた写真で「小網代の森」に興味をもっていた宇野常寛一行は、8月のこの日、思い切って行ってみよう! と、ドキドキしながら森を目指したのでした。
    ■ 「小網代の森」に初めて行ってみた
     京急線・三崎口駅からバスに5分ほど乗って引橋で下車。すぐ近くに「小網代の森」の入り口が見えてきます。
     森の入り口は高台となっており、やや急な木道を下ると、周りの木々がどんどん生い茂っていきます……。女子メンバーからはなんだか不安そうな目線も。少しすると、森の遊歩道の始まりに到着しました。

    ▲入口直後の下りの木道。あまり日の光も差し込まない鬱蒼とした森が続く
     遊歩道をさらに下って行くと、鬱蒼とした周囲の植物に圧倒されます。まるで、いきなり森の深くに迷い込んだような感覚です。少し薄暗く、空気もなんだかひんやりしています。足元には小さな河が流れます。
     道沿いには、大きなシダのような植物がたくさん。「ここはジュラ紀!?」と思ってしまう空間です。
     繁茂した植物のなかをぐんぐん進んでいくと、太陽がまぶしい、平らな湿地が始まりました。バッタ、チョウ、トンボといった昆虫もたくさん姿をあらわし始め、風景の変化に驚かされます。

    ▲木道沿いにフキバッタを発見

    ▲トンボや蝶の種類も豊富。これは枝に紛れていたオオシオカラトンボが枝に止まった瞬間を激写!
     日射しが照りつける中、広い湿地をさらに抜けると、最後はなんと海に到着!
     歩き始めて1時間弱の間に、これほどに景色が変化し、たくさんの動植物が存在していることに一行はびっくり。暑さにへとへとになりつつ、「小網代の森」の魅力に引き込まれて、最後には全員が笑顔になりました。

    ▲海が見えてきた! 一同、歓喜

    ▲海辺まで近づくことができます
     この日の宇野の投稿を見かけた柳瀬さんから、「毎月第3日曜日の朝に、NPOによるボランティアウォークがありますよ」とのお声がけが。
     この森の面白さをもっと知りたいと思っていた宇野常寛と編集部一行は、翌9月のボランティアウォーク参加を決意したのでした。
    ■ 小網代ボランティアウォークに参加
     9月の第3日曜日。朝9時30分に三崎口駅の改札に集合して、ボランティアウォークに向かいます。
     同じくバスで森の入り口まで移動し、グループに分かれてウォーキングが始まりました。1グループごとに、NPO法人「小網代野外活動調整会議」の方が案内に付いてくださいます。今回は、まさしく柳瀬さんの案内・解説のもと、ウォーキングできることに!
     柳瀬さんはこのNPO法人小網代野外活動調整会議の副代表を務めており、「小網代の森」との関わりは学生時代から足掛け30年以上にも及ぶのだそうです。

    ▲柳瀬さんによる解説の元、森を歩きます!
     遊歩道が始まってすぐ、植物が鬱蒼と茂っているゾーンから、解説は始まりました。

    ▲「小網代の森」マップ(出典)
     そもそも「小網代の森」とは、長さ1.2キロメートルの小さな川が流れる、約70ヘクタールの森のこと。広さは明治神宮とほぼ同じで、東京ドーム15個分だそうです。
     この森は都市近郊では珍しい、1個の完結した流域生態系を形成しているとのこと。森から湿原、干潟、海へと連なる河川の流域が、間に人工物を介さず丸ごと保全されているのは、首都圏ではこの場所のみ。同じ緯度で地球をぐるりと巡って探しても、同様な条件をみたす生態系は極めてまれだろうとの専門家たちの意見もあるそうです。
     バラエティに富んだ自然環境の様子を見ることができるのは、ひとつの流域が狭い地域に凝縮されているから。森、崖、川、湿原、泥沼、干潟、そして海と、歩いて1時間程度の間に、あらゆる自然がぎゅっと詰まっているのです。
     さらに生息する生き物も多種多様で、2001年の時点で約2000種が確認されており、本格的な調査の手が入ったらその数は3000~4000種にも及ぶだろうとのこと。
     なるほど、初めて訪問したときの、「この多様さはなんだろう?」という疑問が、少しずつ解きほぐされていきます。
     さらに少し歩いたところで、本日のボランティア作業を行います。この日は、笹を刈る作業でした。
     柳瀬さんの解説を聞いて「笹が生えすぎた場所はほかの植物が育たなくなる!」と知った一行は、怒涛の勢いで笹刈りに参加しました。笹を刈り取ったこの一角が、少しでも森の保全に役立つことを期待して、名残を惜しみつつ次の場所に移動します。
     いくつかの谷が合流しながら、今度は見晴らしの良い湿原が始まっていきます。「真ん中湿地」という名前の通り、小網代の森のちょうど真ん中にある湿原です。
     柳瀬さんいわく、この真ん中湿地を含め、現在小網代の湿地となっている川沿いの低地は、1960年代まで何百年間も田んぼとして利用されてきたそうです。斜面の林は、薪炭林として薪をとっていたとのこと。人間がずっと利用してきた自然だったんですね。
     1964年の東京オリンピックを境に田んぼも薪炭林も利用されなくなった結果、小網代の林は落葉樹を中心とする自然林に、田んぼはアシやガマやオギが繁茂する見事な湿地になったそうです。柳瀬さんが小網代の保全にかかわるようになった1980年代は、ちょうどそんなときだったとのこと。
     後編で詳しくお話を伺いますが、当時、小網代はゴルフ場を核にしたリゾート開発の対象地になっていました。小網代は完全な民有地で、開発は自由にできる状態だったそうです。
     その後、NPOの尽力もあり小網代の自然は守られ、神奈川県がまるごと土地を買い取ることになったそうですが、その間ほったらかしになった小網代の自然は、どんどん荒れていってしまったそうです。
     斜面の林は木が茂り過ぎて、かつ常緑樹が大きくなってしまったために、足元に光が入らなくなり、下草などの植物がなくなってしまいました。一方、かつての田んぼが湿地に変化した川沿いの低地は、川がどんどん深く土地を掘り込んでいったために、水は掘り込まれた川にだけ集まってしまい、湿地だったところは乾燥して笹ヤブになってしまい、これもまた他の植物が生えなくなり、生き物が激減してしまったそうです。
     保全が確定してから柳瀬さんたちは、森の足元に光が十分入り、川沿いの低地が豊かな湿原に戻るよう毎月定例作業を続けているそうです。
     今は明るい湿原になっている真ん中湿地も、5〜6年前は数メートルの笹に覆われた乾燥した笹ヤブだったそう。NPOの人たちが手分けをして笹をすべて刈り取り、同時にかつての水田がそうだったように、川の流れを低地のいちばん高いほうに変えて、低地ぜんぶに水が溢れるようにして湿原状態を再生してきたとのことです。
     驚くべきことに、川の流れを変える作業はショベルカーのような機械を使わず、足のかかとで土をほじって蹴飛ばして、水を乾いた土地に流すことから始めるそうです。子どもの砂場遊びのようですが、それが乾燥した土地を湿地に変える仕事になるというのが実に面白いですね。
     湿原を取り戻すと生き物の数は飛躍的に増えるそうです。たとえば乾燥した笹ヤブだったときはほぼ絶滅しかかっていたホタルが、いまでは初夏になると一晩に1000匹単位で乱舞するようになったと柳瀬さんは話します。ぜひその季節にまた訪れてみたいですね。


    ▲背の高い笹を刈る前と、現在の写真。まさに劇的な変化!
     そして最後は、海辺でカニの観察です!
     潮の満ち引きに合わせて活動するチゴカニの様子を間近で見ることができました。干潟に無数にいるチゴガニはオスがみんな両手をリズミカルにふってメスを誘っているとのこと。NPOの調査によると、現在、小網代の森と海に生息するカニは60種類以上。中には絶滅危惧種もいるとのこと。川の最源流から、中流、さまざまな湿原、河口、2ヘクタールの干潟です(相模湾ではとても珍しいそうです)。
     そして桟橋近辺の岩礁地帯と、距離にして2キロ少々の範囲に、流域のつくる自然のほとんどが小網代には含まれているため、いろいろなカニが生息できるそうです。東京湾と比較すると、荒川の最源流にいるサワガニもいれば、木更津あたりの干潟のカニ、そして湾口のサンゴがあるような館山あたりの海のカニもいるというからびっくりです。

    ▲海辺で動き回る大きなハマガニ!(ボランティアウォークの日に撮影)
     最後に「展望テラス」から海辺の景色を見ながら、この辺りは将来的にはすべて干潟に戻すのだ、という衝撃のお話が! 明治時代の地図を見ると当時は一面の干潟。その後に干拓されて農地利用されていたものを、また元の海に戻すのだそうです。数年後にはこの展望テラスの足元で、チゴガニのダンスを観察したり、アカテガニのお産を観察できるはず、と柳瀬さんは語っていました。

    ▲この辺りもすべて、海の中になってしまうらしい!
     この日のボランティアウォークは、記念撮影をして終了。
     これまで、自然というのは、人間が一切手を入れない「手付かずの自然」が一番いいもので、人間が関わったら自然というのはダメージを受けるとばかり思っていました。
     最初に訪れたとき、この小網代もそんな「手付かずの自然」だと信じていました。ところがこの日、柳瀬さんにお話を聞いて、目からウロコが落ちました。手付かずどころか、いまの豊かな小網代の自然は、積極的な「人の手入れ」によって実現しているんです。
     アマゾンの熱帯雨林やアメリカの国立公園のような規模が桁違いに大きい自然はともかく、小網代のように70ヘクタールしかないこじんまりとした自然は、そもそもそのサイズで自然が分断されている時点で、もはや人類がいなかったときの自然とは異なるので、庭や水槽をメンテナンスするように、人間が水の流れや光の当たり方をコントロールしないと生物多様性はあっという間に失われてしまうそうです。
     一見「手付かずの自然」に見えていた小網代の景色が、人の手入れによって作り出されたものであること。継続的に保全を続けているからこそこの多様な自然が保たれているのだということを、ボランティアウォークを通じて知ることができました。

    ▲初・ボランティアウォーク参加の記念写真
    ■ 岸由二先生インタビュー
     1980年代前半からこの「小網代の森」の保全活動をリードしてきた人物が、NPO法人小網代野外活動調整会議の代表理事を務める岸由二さんです。岸先生は慶応大学の名誉教授であり、あのリチャード・ドーキンスの著書『利己的な遺伝子』などの翻訳を手がけた進化生態学者としても知られています。
     ボランティアウォークを終えて小網代の森をさらに深く知りたいと考えた宇野常寛と編集部は、後日、岸先生にインタビューを申し込みました。今日のメルマガでは、そんな岸先生に「小網代の森」の保全の歴史や、その根本に潜む「流域思考」という哲学、そして自然保護活動の裏に潜む思想についてお話を伺いました。

    ▲ついに会えた、アカテガニ! アカテガニは普段は陸で生活しており、産卵のときだけ海に入ります。その習性がまさに小網代の森を象徴するということで、この森のシンボルの生き物になったのだそうです。(岸先生インタビュー時に撮影)
    ――今日はよろしくお願いいたします。まずは、岸先生がどのようなお仕事をされているかについてお聞かせください。
    岸 メインの仕事は、鶴見川流域のNPOリーダーとして、温暖化豪雨時代に備えるための流域視野の防災・自然環境保全活動をすすめること。同時に、「小網代の森」の保全活動にも取り組んでいます。あとは、宮城県の牡鹿半島で流域の復興に取り組んだり、フィリピンの南にあるイロイロ市で防災文化育成の支援をしたりと、さまざまです。
     いずれにしても基本は「流域に降る雨水がどのように流れていくか」を考える仕事であると言えるでしょうね。ただ、その雨水をどう扱うかはさまざまです。たとえば、鶴見川では「洪水を起こさないためにはどうすればいいか?」というテーマに取り組んでいますが、小網代では逆に「湿原を潤す氾濫を誘導するにはどうしたらいいか?」ということを1年中考えているわけです。小網代では、雨が降るたびに小さな洪水を低地で起こすことで、湿原を維持するわけですね。

    ▲手を加える以前の「小網代の森」。地面は枯れ草と笹で覆い尽くされている
    岸 僕らがこの谷の湿原再生を本格的に始めたのは2009年からです。それから足掛け6年かけてやった最初の仕事の一つが、湿原の再生でした。大規模な湿原再生のために、土地の水分が増える仕組みを作ってきたんですね。湿原を再生するには、「住宅地で洪水を起こさないための施策」とは正反対の施策が必要になる。
     一番重要なのは、谷に集まった水がそのまま一気に川に流れ落ちて海に流れ出ないようにすることです。田んぼだったころは、畦(あぜ)のおかげで水が溜まっていたので、それを復活させればいい。(谷で作業するスタッフを指して)あそこでやっている作業がまさにそれで、大きい木を切り倒して、当時の畔のようにダムを作っています。

    ▲谷に杭を打ち込んで、ダムの元になる木を固定している
    ―― なるほど、田んぼと同等の機能を、もう一度作っていると。
    岸 そう、雨が上がった後、溜まった水がゆっくり染み出してくるような構造の谷をいくつも作って、5~10年かけて、出てくる水の量が増えてくるのを期待する。今は6年ぐらいかけて、やっとおおよその格好がついた段階です。
    ―― これって常にメンテナンスをしてないと今の状態は保てないんですか?
    岸 ここは、湿原とは言っても尾瀬やアマゾンとは違うんです。小網代の水は、雨水が絞り出されたものだけで、湧水があるわけでもないですし。V字谷だった場所に、人間が木を倒して土をためて、何百年もかけて水田を営むことで形成された地形だから、放置すると土が流れ出して、トンボも蛍も魚もいない真っ暗な谷に戻ってしまう。自然保護をやっている人の多くが理解していないことですが、「人間が手を加えなければ、生き物にとって一番いい自然になる」というのは、生態学を知らないトンチンカンな発想なんです。
    ―― より豊かに生き物が暮らせるために自然に手を加えていると。岸先生の本業である進化生態学の研究者としてのキャリアと、こういった自然保護活動の考え方には、どのような繋がりがあるのでしょうか?
    岸 ここにたどり着くまでの経緯はけっこう長いんですよ。
     僕は鶴見川の下流にある横浜市鶴見区の川辺の町で育ちました。洪水被害が激しい場所で、1958年から1982年の間に起こった鶴見川の大きな氾濫は、ほぼすべて受けた地域です。加えて、京浜工業地帯なのでスモッグの公害もひどくて、ぜん息に苛まれる母親を見て育ったので、どうやったら都市を安全で自然豊かで安らかな場所にできるのか、小さな頃から考えていました。
     破格の野性児でした。休日は夜明け前に家を出て、鶴見川を7キロほど遡った上流で、一日中魚を獲って遊ぶような生活を、小学校4年生くらいから送っていました。おかげで川の流れを基調とした徒歩圏内の大地の凸凹の地図が体の中にできているんですね。平面的な行政地図はどこかとっても気持ち悪かった。「これは僕の知っている大地じゃない」と、自分の体感の地図とのギャップをものすごく感じたんです。その後、紆余曲折あって大学に入って、生態学を勉強し、研究者としての暮らしもはじまって、いつしかその違和感の正体をつきとめる思索をはじめていたんですね。
     生態学者としては、70年代から台頭した進化生態学の流れに、日本ではたぶん最も早く合流していました。1980年にリチャード・ドーキンスの『The Selfish Gene』を、『生物=生存機械論』というタイトルで翻訳したのも、その流れの中でのことですね。
     その翻訳本がその後、『利己的な遺伝子』という本来のタイトルに戻されて大変な売れ行きになり、成果をあげた版元の紀伊国屋書店の担当者の紹介で『自然へのまなざし―ナチュラリストたちの大地』という本を出させてもらうことになったんですよ。
     その本を出すにあたって、僕はずっと感じていた地図への違和感について考えたんです。そのとき、僕のマザーマップ、体にしみついた心の中にある地図は、行政区分で仕切られたみんなが知っている地図ではなく、「鶴見川流域、鶴見川支流流域……」という流域の地図なんだと捉えたら、とてもしっくりきたんです。
    ■「流域思考」の地図を身に付ける
    岸 僕の専門は進化生態学なんですが、その一方でバイオエコロジー、草や鳥や魚といった生態系を総合的に扱う素朴な生態学も大好きでした。素朴な生態学で論文を書いても学位はもらえませんが、世の中のためになると思って、学生の頃から総合的な生態学をベースに都市計画に絡んだ提案をしたりしていました。
     1970年代から80年代にかけては、進化生態学の台頭期だったので、キャリアをつんで教授になる道は進化生態学のほうでやりましたが、それとは別に、私たちの文明の生命圏適応を推進するための理論・実践をどのようにすすめてゆくか、進化理論と生態学とをいかに統合するかを常に考えていました。
     そのコアで自分の中で固まっていったのが、「流域思考」なんです。
     そもそも、地球上の雨が降る土地は、例外なく流域に区分できます。
     首都圏でいうと、関東平野をつくっている利根川流域があって、その隣が荒川流域、その隣が武蔵野台地の細かな流域、神田川流域、渋谷川流域、目黒川流域、その隣に多摩川流域があって、さらにその隣に鶴見川流域があって、という具合に、最後はいずれも海に流れ込むかたちでジグゾーパズルのように、大地はそれぞれの流域で区分されています。
     つまり、皆さんは必ずどこかの流域の上に立っている。暮らしている。
     この小網代にしても、小網代の流域は、相模湾に面した小網代の入江に流れ込み、その南隣には、油壺の入江に流れこむ流域があって、北隣には三戸浜に流れ込む流域がある。小網代のてっぺんの反対側は東京湾に注ぐ小さな流域が並んでいる。

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