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  • 『タッチ』の明青学園を再び舞台とした『MIX』​​(後編・最終回)| 碇本学

    2022-06-27 07:00  

    ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」。今回がいよいよ最終回です。現在連載中のあだち充最新作『MIX』では、どのように「成熟」が描かれているのか、過去のあだち作品と比較しながら分析します。そして、愚直に「成熟」と向き合ってきたあだち作品を、いま私たちが見返す意味とはなんなのか、これまでの連載を総括します。(前編はこちら)
    碇本学 ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本社会の青春第23回 『タッチ』の明青学園を再び舞台とした『MIX』​​(後編・最終回)
    立花投馬と立花音美はどんな大人になっていくのか?

     最初に決めたのは、主人公の立花投馬とヒロインで血の繋がらない妹・立花音美の家庭の人物関係だけです。投馬の父と音美の母が連れ子同士で結婚したことや、音美には投馬と同じ生年月日に生まれた兄・走一郎がいること。そしてピッチャー・投馬とキャッチャー・走一郎が明青学園野球部でバッテリーを組むということ。〔参考文献1〕


     血の繋がらない兄妹という「みゆき」の要素とか、もういろいろとぶち込んでおきました。「タッチ」と同じ空間の中で、果たしてどこまでいっていいのか。悩みながら、ブラブラしながら、今、13巻まで来ましたね。〔参考文献1〕

    あだち充がブレイクすることとなった『みゆき』からは血の繋がらない兄と妹が同じ家に住んでいるという部分を、そして国民的な漫画となりアニメも含めて野球漫画の代名詞のひとつとなった『タッチ』からは双子の兄弟を彷彿させるまったく誕生日が同じ兄弟という部分を掛け合わしたのが『MIX』という作品である。 『MIX』は『タッチ』で主人公の上杉達也とヒロインの浅倉南が通っていた明青学園が舞台になっている。そのためどうしても『タッチ』の登場人物たちがまったく出ないのは違和感があるため、野球関係者として違和感のない西村勇が、そして、立花兄妹が大人になっていく通過儀礼を手助けできるかもしれない存在として原田正平が登場することになったのではないかと思われる。 以降は連載中の作品の最新のネタバレを少し含んでいる。知りたくない方はぜひ19巻を読んでからお読みいただきたい。
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     週刊連載だったら、もうとっくに誰かを殺しているかもしれないね。月刊誌だとじっくり考える時間があるから……じっくり考えても良いことないんだよ。あだち充がデタラメな漫画家であるということを、もう一度自覚しないとね。もっと破綻させて、引っかき回しますよ。月刊連載をもう一度考え直します。〔参考文献1〕

    2022年6月の時点ではコミックスは18巻まで刊行されており、物語は高校二年生の地区大会準決勝まで進んでいる。そして、7月に刊行される19巻からは地区大会決勝戦が始まると思いきや、物語は大きな転換期を迎える。 それは『タッチ』でいうところの双子の弟である上杉和也が交通事故で死んでしまうというあの衝撃的な場面を彷彿させ、『H2』では雨宮ひかりの母が突然亡くなってしまったことで国見比呂と雨宮ひかりの幼馴染の関係性が変化して、橘英雄と古賀春華を含んだ四角関係に一気に進んでいくということを読者に思い出させるような出来事だ。

    野球はちゃんと描こうとしてますよ。その分まだラブストーリーが足りないから、これからかな。最近の連載では、「タッチ」の原田正平を登場させました。どっちに転がるかはわからないけど、どこかで動いてくれるんじゃないかな。〔参考文献1〕

    『MIX』初登場時の原田正平は記憶喪失者となっており、18巻まででは西村勇とはニアミスをしていたが、19巻で彼らは面と向かって再会することになる。 原田正平について、この連載で『タッチ』を取り上げた際に「単一神話論」や「英雄神話」構造における「贈与者」と「賢者」であり、ナビゲーター的な役割を果たしたと書いた。

    終始、原田は達也の側に立ち、同時に浅倉南のことを好きだったが自分は舞台に上がることではできないと早々に諦めていたため、二人が結びつくのを見守るという損な役割を演じることになった。そのため彼だけが物語において客観的な目線を持ちつつも、老成した賢者のように二人を導いていった。〔『タッチ』における「賢者」としての原田正平と「影(シャドウ)」としての柏葉英二郎(前編)〕

    というふうに『タッチ』におけるラブストーリーの面がそれ以前よりも強くなったのも和也が死んでからであり、原田が達也を鼓舞するようになったからである。 上杉達也は弟の和也が浅倉南のために叶えようとしていた甲子園出場を代わりに叶えることで、自分の本当の気持ちを南に伝えることができた。その際にずっと達也と南の近くにいて、二人を見守っていたのがまさに原田正平だった。 そして、『MIX』に原田正平が登場したのはあだち充が、「どっちに転がるかはわからないけど、どこかで動いてくれるんじゃないかな。」と語るように『MIX』における今後のラブストーリー展開に重要な役割を果たす存在が必要だったという本能からのものだったのではないだろうか。
    19巻に収録される第109話「あとひとつ」では、勢南高校に勝利した明青学園の関係者の試合終わりのあとのことが描かれる。誰もが試合の投馬は神がかっていたと言う凄さだった。しかし、まるで試合中に別人になったかのような投馬のピッチングを見ても次に対戦するはずの健丈高校の小宮山監督も赤井智仁も不思議と「まったく負ける気がしない」と口を揃えていた。 試合後の球場の外では間崎が英介の荷物を持ったまま立っていた。そこにやってきた原田に間崎は英介がトイレに行くといったまま荷物を自分に預けてから、試合が終わっても戻ってこないと告げる。また、家にスマホを忘れていたまま試合の観戦に出ていた英介のスマホを預かっていた音美のバッグの中でそのスマホが鳴る。大山監督が電話をかけてきていた。電話した大山は出たのが英介だと思っていたのに音美が出たことで双方が不思議がってこの回は終わる。英介は勢南高校戦が始まる前から一度も姿を見せていなかった。
    続く第110話「この時間だったな」ではトイレットペーパーを買いに外出した投馬がばったり原田正平と出くわす。原田自身も自分の名前が「原田正平」だと認識できるようになっていたが、過去の記憶はまだ戻っていなかった。 立花家に世話になっていた原田は「おれの家族らしい連中にも興味あるだろ?」と声をかけて強引に投馬を連れていく。その場面を車にガソリンを入れていた西村親子が偶然目撃する。父・勇が原田正平を見て、彼にまつわるいろいろな噂を息子に話す。「昔の知り合い?」と拓味に聞かれると新体操をしている浅倉南、そしてそれを並んで見ている西村勇と原田正平と新田明男というかつての記憶が勇の脳裏に蘇り、「失恋仲間だよ」と少しせつなそうに答える。 原田正平の実家に行くと投馬は原田の母からお世話になったお礼を言われる。出されたジュースを飲んでいると原田が壁時計を見ており、時刻は12時50分ごろを指していた。「ちょうど、この時間だったな。勢南戦でおまえが西村にホームランを打たれたのは…、──そして、親父さんが亡くなったのも…」と言われる。最終ページでは場面が立花家に戻る。ある部屋には立花英介の遺影と遺骨が置かれていた。そこでこの回は終わり、英介が亡くなったことが読者に明かされる。
    立花兄弟は決勝戦で健丈高校に敗れ、高校二年の夏が終わったこともその後描かれる。 インタビューであだちが「週刊連載だったら、もうとっくに誰かを殺しているかもしれないね」と第110話を描く数年前に語っていたが、ここで主人公の実父である立花英介が亡くなるという物語でも大きな転換点を迎えることになった。 3歳の時に実母を亡くしていた投馬は高校二年生の夏に実の両親をどちらも亡くしてしまうことになる。義母の真由美、義兄の走一郎、義妹の音美と一緒に住んでいる家族はいるが血のつながった者が立花家には誰もいなくなってしまう。 投馬は天涯孤独とは言えないものの、血のつながった家族が周りに誰もいないという状況であり、実は『みゆき』のヒロインの若松みゆきと同じ境遇になる。
    ここから最終回(高校三年の夏から秋)に向かって主人公の立花投馬はあだち充作品で通底しているテーマである、責任を取ることのできる大人へと成長していくことになると考えられる。 そのため投馬を導く存在として原田正平があだち充によって投入されていたのだろう。つまりあだち充は物語における細部は決めていなかったものの、原田を作品に出すということは主人公にとって乗り越えないといけない障害を近いうちに出さないといけないと考えていたはずだ。 たった一人の肉親を失い、血は繋がっていない家族と一緒にいるということで、投馬は走一郎と音美と真弓と以前よりも強い絆のある家族になって、父英介の死を乗り越えていくだろう。そして、投馬と音美はそれまでの兄と妹という関係性から、自分たちは血の繋がらないということを前よりも強く自覚し、異性として相手のことを考えるようになるのではないだろうか。ここから投馬が立花家を出ていくというのはあまり考えられないので、今まで通り立花家で投馬と音美は一緒に生活しながらも自分の思いを相手に伝えていいのか、と悩んでいくという展開になっていくと考えられる。その時に自分の気持ちに正直になること、英介の死によって落ち込んでいた彼を鼓舞する存在が原田正平のはずだ。と今までずっとあだち充作品を読んでいた読者としてはそれを期待してしまう。
    『MIX』は規格を立ち上げた担当編集者の市川が「明青学園を、もう一度甲子園に連れていってください」と言ってあだち充を口説いたことを考えると、やはり、投馬の最終目標は甲子園に出場することに改めて設定されるのではないだろうか。上杉達也が浅倉南に自分の気持ちを伝えるために、自分に課した目標が甲子園出場だったように。 この先は同じ家に住みながらも互いの気持ちに気付いた投馬と音美の二人が、一線を超えないためにも音美が「父さんたち(立花英介と澤井圭一という明青学園野球部OB)を甲子園に連れていってほしい」と伝え、それが叶えることができたら投馬が自分の気持ちを伝えるという展開が考えられる。そうなれば、1年後の高校三年の夏の東東京地区大会での甲子園予選大会は、投馬にとって自分の想いを音美に伝える最後のチャンスとなり、音美の実兄である走一郎も二人がうまくいってほしいと思うようになっていて、立花兄弟バッテリーが家族のためにも甲子園出場を目指すという大きなドラマが成立することになる。そして、やはり決勝戦では健丈高校の赤井智仁が明青学園の前に立ち塞がるものの、立花兄弟が二年次の決勝戦での借りを返すという展開になってほしい。 地区大会で優勝し甲子園出場が決まって、投馬が音美に気持ちを伝えることで物語が終わっていくというのが現状で考えられる展開のひとつである。 ただ、あだち充がもっと破綻させたいと言っていること、そしてこの連載でも何度も書いてきたように毎回連載は読み切りのような感じで描くというフリージャズスタイル手法を用いているため、ここから投馬たちの最後の夏が終わるまでの一年の間にどんな展開が起きるかはまったく予想がつかない。ただ、英介が亡くなったということは息子である投馬と走一郎と音美という子供たちの思春期が終わっていき、大人になるという段階に入ったと過去作品から見てもわかる部分ではある。
     
  • 『タッチ』の明青学園を再び舞台とした『MIX』​​(前編)| 碇本学

    2022-06-24 07:00  

    ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」。今回は、いよいよ現在連載中の最新作『MIX』を扱います。長きにわたるあだち充の魔画家人生の中で『MIX』はどう位置づけられるのか、過去のインタビューも振り返りながら考察します。
    碇本学 ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本社会の青春第23回 『タッチ』の明青学園を再び舞台とした『MIX』​​(前編)
    「明青学園を、もう一度甲子園に連れていってください」
    前作『QあんどA』終了から1ヶ月空けただけの『ゲッサン』2012年6月号から現在も連載中の『MIX』が開始されることになった。現在2022年6月時点ではコミックスは18巻まで発売中、7月に最新刊19巻が発売となる。 『KATSU!』からあだち充の担当編集者となり、この連載でも『KATSU!』『クロスゲーム』『アイドルA』『QあんどA』の回で名前が出てきた編集者の市原武法がいたからこそ、この『MIX』という作品の連載は始まったといえる。
    市原は「人生における大切なことは、すべて上杉達也に教わったと言ってもいい」というほどに『タッチ』の上杉達也が特別な存在であり、小学館に入社後に「少年サンデー」に配属されてからもずっとあだち充の担当になりたいと年度ごとに担当替えを編集部に訴えていた人物だった。そして、2004年に『タッチ』二代目担当編集者であり、当時の「少年サンデー」編集長だった三上信一から『KATSU!』連載中に担当編集者を任されることになる。 ちなみに『MIX』にも三上信一という名前の先生が登場し、彼が黒板に「市原武法」と書いて生徒に「何をした人物だ?」と聞くお遊びの場面があり、この二人のことをあだち充がいかに信頼しているのかがわかる。 『KATSU!』連載中のあだちは兄の勉の体調が悪かったこともあり、モチベーションが下がっていた時期だった。そのことを知らなかった市原は「あだち充はこんな漫画を描くような人ではない」という危機感を持っていたという。 実際に担当編集者となった市原は『KATSU!』を早く終わらせて、新連載を立ち上げようと動き出す。そして始まったのが逆『タッチ』ともいえるあだち充の集大成的な要素が詰まった『クロスゲーム』だった。少年漫画家としての限界も囁かれていたあだち充は『クロスゲーム』によって少年漫画家としての復活を果たすこととなった。
    「月刊少年サンデー」を立ち上げるために市原は社内でも動いており、実際に2009年にその尽力もあって『ゲッサン』が創刊されることになった。そこでは編集長代理を務めながらも新人発掘と新人育成に力を入れていた。また、引き続きあだち充の担当編集者でもあった。 長期連載の合間となる肩の力を抜いたあだち兄弟を彷彿させる『QあんどA』は創刊号から2012年4月号まで約3年間続いた。連載終了する際に、市原はずっと企画として温めていたテーマを次作としてあだちに提案することになる。

     市原は密かに計算していた。1986年、達也は18歳だった。ならば、彼らが大人になったのなら、2012年は、その子どもたちがちょうど高校生くらいの年齢に差し掛かるはず。「この企画は、今しかできない」と市原は確信した。ただ、あだち充は常々「続編は絶対に描かない」と宣言している。 「続編なんか描いて欲しくないんです。達也や南のその後を描く必要はない。ただ、僕らが愛したのは達也や南はもちろんですけど、明青学園の世界観をも愛していたはず。その明青学園を、もう一度描いて欲しかった」  新連載の打ち合わせ、喫茶店「アンデス」。雑談から始まり、あだちが頼んだ2杯目のアメリカンが運ばれると、あだちが切り出した。 「次は何描きゃいいんだよ?」  市原は「南っぽく言おう」と悩んだ末、決めていた。 「明青学園を、もう一度甲子園に連れていってください」  20秒か30秒、あだちはしばらく何も言わず黙った。開口一番、イエスでも、ノーでもなく、あだちは言った。 「前商(前橋商業)に行ってみねーと、なんとも言えねーな」  描いてくれるんですか? そんな野暮天はいけない。この時、担当になって既に8年の歳月が流れている。市原は即答した。 「そうですね。すぐ行きましょう」〔参考文献1〕


    「MIX」は市原のわがままで、「明青学園を、もう一度甲子園に連れていってください」という指定でした。「タッチ」の続編ではないけど、同じ時空間の中の話だから絶対やりにくくなるんじゃないかと思った。「タッチ」の人物に触れないわけにはいかなくなっちゃうぞって。  以前から僕は「続編は描かない」と言ってきました。だから最初は断ったんです。でも市原が、「一回だけ取材に行きましょう」としつこいから、明青学園の校舎のモデルとなった母校の前橋商業へ行ってみました。そしたら校舎から何もかも変わっていて、まったく新しい場所になってた。それを見ていたら、この時間の変化のようなものをなんとなく描けるかもしれないと思ってしまった。じゃあ、少しは自分が力になれる間は、やっておこうかなと思って始めました。〔参考文献1〕

    「描いてくれるんですか? そんな野暮天はいけない。」という部分はあだち充の性格を市原がよくわかっている描写に見える。おそらく、そこで「描いてくれるんですか?」と聞けば、あだちは『MIX』となる作品を描かなかっただろう。 粋であるかどうか、言わなくてもわかるという江戸っ子的な気質はあだち充が影響を受けている落語や好きな落語家である立川談志や三遊亭圓生や古今亭志ん生たちの振る舞いを思えば、聞かなくてまさに大正解と思ってしまうものだ。 本筋とは関係ないが、『MIX』において主人公の立花兄弟の両親がデートで落語を見にいくシーンがある。演芸場に置かれているめくりには「胡麻」とあり、頭を下げて舞台から下がっていく落語家の姿は『虹色とうがらし』の七兄弟の長男である落語家の胡麻と少し似ている、まさに「あだち充劇団」とも言える。そもそも「あだち充劇団」と揶揄もされるほとんど顔がかわらない登場人物たちは「漫画の神様」と呼ばれた手塚治虫が用いた「スターシステム」の系譜にあると考えた方が理解しやすい。
    上記の引用はどちらも『あだち充本』からだが、前者は市原武法へのインタビューの部分からの引用であり、後者はあだち充への全作品徹底解説の『MIX』部分からの引用である。 どちらとも読むとわずかな話のズレが感じられなくもないが、それぞれの人物の視点からの出来事であったり、記憶というものは当然ながらまったく同じではないし、見て聞いたものもまったく同じということはない。 たとえば、自分が話したと何十年も信じていたものが、当時の日記や書き残されているものやその場にいた人の証言から、実は他人が話したことを自分が言ったものだと思い込んでしまっていたということは起きうる。それはノンフィクションやドキュメンタリー作品ではよく出てくる事柄だろう。どちらが間違っているわけではなく、どちらも自分にとってはそれが正しいと覚えている当時の風景や記憶である。人は記憶を書き換えたり、忘却していく生き物でもある。世界は生きている(生きてきた)人たちそれぞれに存在すると言われるのもそれ故である。
    この連載でも資料として非常に参考にさせてもらっている『あだち充本』はあだち充が全作品についての解説という、当時のことを思い出して語っている証言がとても貴重な一冊になっている。そしてこの連載でも何度も名前を出してきた担当編集者たちもあだち充担当編集者時代や彼との関わりをインタビューされて掲載されている。そのことで漫画家と担当編集者それぞれに見て感じていたことがわかり、同時に同じ出来事でもそれぞれの考えや記憶にも多少の誤差のようなズレがいくつか見られる。一方だけではそれがある種の真実として信じられてしまうが、双方であれば重なる部分と重ならない部分が出てくる。私個人としてはその方がよりリアルだと感じるし、漫画史に残る重要な証言となっている。

     市原が様々なメディアのインタビューを受けてくれて、言葉を選んで、「タッチ」の続編とは一言も言っていないはずなんだけど。改めて、「タッチ」という漫画のすごさを思い知りました。「タッチ」で育った連中が騒いでくれる年齢になって、それぞれのメディアで偉くなって取り上げてくれたんですね。〔参考文献1〕

    『タッチ』の連載最終回を中学生一年の時に読んだ市原武法が、あだち充好きだからと記念受験とした小学館に受かって「少年サンデー」に配属され、三上信一からあだち充の担当編集者を任されたということがまさに運命だったとしか言いようがない。そして、思春期に自分に影響を最も与えた漫画『タッチ』と同じ舞台で、あだち充に「明青学園を、もう一度甲子園に連れていってください」と言えるほどの関係性と信頼を市原が得ていたことが非常に大きかった。
    漫画家や小説家で才能豊かで若い時期にデビューした作家がずっと第一線にいても、ある時期から仕事がなくなると言われることがある。それは共に戦ってきた同世代や上の世代の編集者たちが30代から40代にかけて編集長などの管理職となっていき、現場にいなくなってしまうことが大きく影響している。 もちろん第一線にいる作家には後任の担当者がついて作品を一緒に作っていくのだが、その辺りの関係性や同世代ではないとわからない皮膚(時代)感覚のようなもののズレも影響していき、徐々に第一線から離れていくということが起きうる。 だが、第一線級の作家がある時期から見なくなったり、ヒット作が出なくなっても何年か十数年のインターバルを置いて再び作品を見たり、名前を聞くようになって復活したと感じることが時折ある。それはかつての読者やファンだった世代が出版社などに就職して編集者となっていることが多い。かつて憧れていた作家と一緒に仕事をしたいと編集者が望むことがうまくプラスに作用して作家に新たな力を与えて再生させることで、第一線に戻ってくるというものだ。 あだち充と市原武法という関係はまさにこの影響を与えた作家と影響をかつて受けたファンが編集者になったという構図の大成功パターンだと言えるだろう。
    映画関連でいえば、何作もヒット作をプロデュースし、自身も小説を執筆して映画監督もするようになった東宝映画の川村元気が思い浮かぶ。川村元気原作の映画『世界から猫が消えたなら』の作中に出てくる映画館に岩井俊二監督『花とアリス』のポスターが貼られており、公開時に少し気になっていた。 その後、岩井俊二監督の初期の代表作『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』(ある世代の映画監督が作る作品において深夜のプールに忍び込むシーンを入れたがるのはこの作品の影響が大きい)のアニメ映画を川村元気が企画・プロデュースしている。そして、岩井俊二監督の名作『Love Letter』(韓流ブームに火をつけることになった『冬のソナタ』はかなり『Love Letter』の影響を受けたと思われる箇所が随所に見られる。また、岩井俊二監督は現在でも韓国と中国では圧倒的な人気を誇る日本の映画監督である)のアンサー的な要素を持つ『ラストレター』を川村元気が企画・プロデュースを行なっている。 川村は『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』が岩井俊二監督作品でいちばん好きで完璧な作品だとあるインタビューで語っていた。このようにかつて影響を受けた世代によって、影響を与えた側がフックアップされる(一緒に仕事をするようになる)ことで、彼らを知らない若い世代にもその名前や作品たちが知られ、当時のファンも戻ってくることの相乗効果が起きるということは漫画や小説や映画などでは度々起きており、リバイバルヒットもそういう中で起きやすくなる。その意味では同世代に圧倒的に受けるよりも、下の世代に影響を与えられる人はおのずとして活動期間が長くなっていくとも言える。 熱心なファンであり自分の作品を愛してくれていた相手との仕事は、やはり作家の心を鼓舞するはずだ。そこにはある程度の年齢差があることも重要になってくるのだろう。もちろん、それも諸刃の剣的な要素はあるので、思いが強すぎてぶつかってしまい作品が失敗する可能性もあるが、『MIX』はそれがうまく作用したからこそ実現した作品となっている。 そう考えると「続編は作らない」と宣言していたあだち充が『タッチ』と同じ明青学園を舞台にした『MIX』を描くことになった経緯自体がかつてのあだち充自身でもあると言っていいのではないだろうか。
     
  • 「ゲッサン」創刊とあだち兄弟を彷彿させる『QあんどA』​​(後編)| 碇本学

    2022-05-30 07:00  

    ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」。一種の「ループもの」のような結末を迎えた『QあんどA』。かつては戦後日本の精神性を独特な形で描いたとして評価されたこともある「ループもの」ですが、本作で描かれたあだち充なりのループからの脱却にはどんな意味があったのでしょうか。前編はこちら。
    碇本学 ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本社会の青春第22回 「ゲッサン」創刊とあだち兄弟を彷彿させる『QあんどA』​​(後編)​​
    亡き兄と繰り返される日常

     そんなに意識はしてないけど、兄貴について描こうとしてたんだろうね。それについて描くには、このかたちしかなかったかな。〔参考文献1〕

    今作は主人公の厚と亡くなった兄の久を中心に物語は展開していく。あだち自身もインタビューで答えているように、あだち兄弟のことを知っている人が読めば、庵堂兄弟はあだち兄弟のことを描いているように読める内容になっていた。 もともと今作であだち充に兄弟の話を描いて欲しいと提案したのは「ゲッサン」を立ち上げて、新連載の打ち合わせをあだちとしていた市原だった。

    「死んだ兄貴が幽霊になって帰ってくる話を描いてください」 「あーん、なるほどね。じゃ、それで行くか」  ただ、あだちはこう続けた。 「勉のことなんか描かねえからな」  実兄、あだち勉が亡くなったのが、市原が担当になる半年前、「KATSU!」連載中の2004年6月。一周忌に市原は出席している。その時に撮った写真を現像した時のことだった。あだちが、嬉しそうに写真を市原に見せる。集合写真には、オーブのような大きな光の玉が写っていた。 「来たんじゃねえの、勉!」  あだちの嬉しそうな顔を見た市原は、あだちに描いて欲しいネタをメモしておくノートに「死んだ兄貴が幽霊になって帰ってくる話」と書き留めた。〔参考文献1〕

    ラストページにあるコマで厚の部屋に浮かんでいる人魂のような久はまさにこの時のオーブのことを描いているのではないかと思ってしまう。また、あだちが市原のことを信頼していたとわかるのは今作で、厚たちの担任の名前が市原という名前であり、わりとガタイのいい姿で描かれていて実際の市原がモデルになっていることがわかる。『タッチ』の2代目担当編集者の三上信一は度々作中で「三上」という先生などで登場させられてきたが、あだちは自分が信頼している編集者は作中に出すというちょっとひねくれた性格をしているため、市原もかなりあだちから信頼を得て、気に入られていたのがよくわかる。
    久にあだち充の亡くなった兄のあだち勉が投影されているように感じるのは、周りの人たちからは人気者として愛されていたが、イタズラ(ばか騒ぎ)ばかりしており、度々弟に迷惑をかけていたという部分である。あだちは「意識はしてないけど」と言っているが、やはり亡くなった兄貴が幽霊になって帰ってくるという設定であり、市原も勉について描いてほしいと考えていたのだろう、それらが形になったと考えるのが妥当だ。 現在「サンデーうぇぶり」でありま猛が連載している『あだち勉物語 ~あだち充を漫画家にした男~』はあだち勉が「赤塚四天王」だった時代にことが中心に描かれており、久のキャラクター造形にあだち勉の要素がかなり入っていることがわかるものであるので、『QあんどA』と一緒に読んでみてほしい。

     バカバカしい話を一席、という感じでしょうか。夢落ちは初めてですね。うまくいったな、と思います。最後にもう一度物語が始まるというのも、最終回までは全然考えてませんでした。ラストの余韻は良いはずです。楽しく描けた漫画ですね。〔参考文献1〕

    前述した物語の流れでも書いたように、この『QあんどA』は第1話と最終回が円環のようになっており、あだち充は「夢落ち」だと答えている展開になっている。そのため、繰り返される日常を描いたようにも見える。

    「エヴァ」はくり返しの物語です。 主人公が何度も同じ目に遭いながら、ひたすら立ち上がっていく話です。 わずかでも前に進もうとする、意思の話です。 曖昧な孤独に耐え他者に触れるのが怖くても一緒にいたいと思う、覚悟の話です。 同じ物語からまた違うカタチへ変化していく4つの作品を、楽しんでいただければ幸いです。〔参考文献2〕

    久しぶりに『QあんどA』を読み終えて最初に浮かんだのは、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』シリーズとそのリブートが発表された際の庵野秀明総監督の所信表明だった。また、ゼロ年代以降には、『ひぐらしのなく頃に』『魔法少女まどか☆マギカ』など大ヒットした作品で共通していたのは「終わらない日常」を繰り返しながら、「TRUE END」へ向かうために何度も主人公たちがその運命や世界を経験していくというものだった。 1990年代中盤以降にはエルフの『河原崎家の一族』などのいわゆるエロゲーでは、フローチャート式に主人公が選択したことによりルートが分岐していくものがあった。真のエンディングとしての「TRUE END」に行く唯一のルートを選べなかった場合以外は基本的には殺されてしまう(トラップなどで死んでしまう)などの「BAD END」になりゲームオーバーになってしまう。コンティニューしてリスタートすると最初からまたプレイヤーが選んだルートを進んでいくというものになっていた(その際に前にプレイしていたフローチャートが表記されるものもあった)。まさに宮台真司が提言した「終わりなき日常」をゲームにしたような内容であり、この流れがサウンドノベルとして始まった『ひぐらしのなく頃に』に引き継がれていった部分もあった。
     
  • 「ゲッサン」創刊とあだち兄弟を彷彿させる『QあんどA』​​(前編)| 碇本学

    2022-05-27 07:00  

    ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」。今回は「ゲッサン」創刊号から連載を開始した『QあんどA』を扱います。「サンデー」初の月刊誌ということで新人作家の育成を狙う編集部の意向もあるなか、良い意味で「肩の力が抜けた」ベテラン作家による本作の特徴とはどんなものだったのでしょうか。
    碇本学 ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本社会の青春第22回 「ゲッサン」創刊とあだち兄弟を彷彿させる『QあんどA』​​(前編)​​
    「サンデー」レーベルの月刊少年誌「ゲッサン」創刊
    『QあんどA』は2009年5月に創刊された「ゲッサン」2009年6月号から2012年4月号まで約3年にわたって連載された(コミックスは全6巻が刊行)。現在同じく「ゲッサン」で連載中の『MIX』は2012年6月号から開始されており、二つの作品の間には二ヶ月しかなく、何度かの休載もあるものの、あだち充は2009年から2022年現在まで連載の主軸を「ゲッサン」に移していると言えるだろう。
    この「ゲッサン」という少年漫画誌の創刊には『クロスゲーム』担当編集者だった市原武法が大きく関わっている。そのこともあって、「少年サンデー」において、いや小学館の漫画においてトップクラスの少年漫画家であり、もはやレジェンドクラスのあだちは創刊から『QあんどA』を連載することになった。

     僕が中・高生のころ好きだったのは「タッチ」「うる星やつら」「ジャストミート」「究極超人あ~る」「B・B」……。後ろのほうには尾瀬あきら先生の「リュウ」(原作・矢島正雄さん)というマンガが載っていたり、村上もとか先生の「風を抜け!」や「ヘヴィ」、吉田聡先生の「ちょっとヨロシク!」とか。今より連載本数は少なかったはずだけど、本当にすごい布陣だったと思います。若い作家も次々と出てくる印象があったし、新人とベテランのバランスも良かった。また、80年代の「サンデー増刊号」が新人の宝庫だったんですよ。島本和彦先生とか安永航一郎先生とか、どんどん新人が出てきて。


     「サンデー」というレーベルで究極の使命は「多くのマンガ家さんを世に出すこと」だと思うんですね。それで28歳のとき、初めて「ゲッサン」創刊の企画を出しました。「週刊」というサイクル以外でも「サンデー」のレーベルで世に出ていける新人作家さんを増やしたかったんです。  マンガ家さんには週刊連載ができない人っているんですよ。才能があっても物理的にどうしても週刊連載できない。それは持って生まれた執筆スピードの問題なので、本人のせいではないんです。ところが、「月刊少年サンデー」ってずっとなかったんですよ。「ジャンプ」や「マガジン」には月刊があるのに、「サンデー」には増刊しかない。ずっと、それをおかしいと思っていました。2009年に僕が35歳のとき、編集長代理になって創刊しました。

    上記は「週刊少年サンデー:異例の宣言文 あだち充と高橋留美子は真意を見抜いた 市原武法編集長に聞く・前編」のインタビューの一部だ。
    創刊した2009年時点では市原は「ゲッサン」編集長代理だったが、翌年には編集長に就任する。創刊に先立ち、公式サイト「ゲッサンWEB」を設立し、「漫画力絶対主義」をキャッチコピーとし、「男の子が自立するために絶対必要なふたつのキーワード」として「愛と勇気」を掲げた。また「サンデー」系列の雑誌の中でも、特に新人育成に力を入れており、月例賞である「GET THE SUN新人賞」で受賞した新人作家の読み切りを積極的に掲載したり、連載させていった。 「ゲッサン」編集長時代には『信長協奏曲』『からかい上手の高木さん』などを手掛けてヒットさせるなどその手腕を発揮し、「サンデー」レーベルにおける新世代を世に出すことに尽力していた。市原自身が少年時代に「少年サンデー」、および「サンデー」レーベルを満喫した団塊ジュニア世代であり、雑誌における「雑」を大事にしている編集者でもあった。そのため、ベテラン漫画家と新人漫画家のバランスに関して、自身が関わる「サンデー」レーベルがうまくいっていないと感じていた。そのため、「ゲッサン」を創刊することで新人漫画家の発掘と育成をメインにしてレーベル自体の底上げを行おうと考えていた。

    「クロスゲーム」を立ち上げる際、市原はあだちに「そんなに長くもたねーぞ。60歳まで週刊連載したら死んじゃうよ」と言われ、「『月刊少年サンデー』を作りましょう!」と、以前から温めていたアイデアを披露している。〔参考文献1〕


     都合よく市原が『ゲッサン』を創刊してくれたので、そのままスムーズに月刊誌へ移行することができました。僕もずっと、「ちゃんとした少年誌の月刊誌を作ってくれ」と騒いでたんです。当時は少年週刊誌を卒業すると、幼年誌か青年誌に行くしかなかった。でも、週刊は無理でも、自分は少年漫画家でいたいと思っていたので。 『ゲッサン』もギリギリのタイミングで創刊できましたね。亀井さんが現役でいるうちに、市原が上層部の各方面に直訴して、具体化することができた。市原は亀井さんから、「『ゲッサン』を創刊するなら、あだち充の連載を取れ」と言われて頭を抱えてました。まだ『サンデー』で、「クロスゲーム」を連載中だったからね。  でもあとから考えると、いろんなことが綱渡りで、ギリギリのところでうまくいったと思ってます。〔参考文献1〕

    インタビューで答えているように、あだち自身が年齢もあって月刊漫画雑誌の創刊を求めていた。そして、あだちを育てた編集者である亀井修(小学館常務取締役)からの一言によって、市原は「少年サンデー」で『クロスゲーム』連載中のあだちになんとか「ゲッサン」で新連載をしてもらうしかなかった。

    「クロスゲーム」を何回かやると1回休みをもらって、「QあんどA」を描いてました。 『ゲッサン』はなんとしても創刊しないといかんと思ってたから、久々に週刊と月間を並行して連載しましたよ。〔参考文献1〕


    「クロスゲーム」をやってたから、野球漫画はなかったでしょ。力まない作品で、とりあえずお茶を濁しておこうと。いきなり雑誌を背負わされちゃ困るし、『ゲッサン』は新人たちが頑張ってくれればいいなと思ってたから。だからとても気楽に始めました。〔参考文献1〕


     笑いがメインの作品は初めてでしたね。とにかく気楽に描けるネタという発想です。ギャグというか落語が好きなんで、特に連載だと、笑いがないのはちょっと耐えきれないんです。〔参考文献1〕

    ある種の板挟みにあっていた市原をよそ目に、と言えばいいのか、創刊のために一肌脱ごうという気持ちもありながら、「とりあえずお茶を濁しておこう」という気楽さがあだち充らしい。もちろん市原が『クロスゲーム』と『QあんどA』のどちらともの担当編集者だったからこそ同時連載の舵取りができていたのだろう。また、あだち自身も新創刊された雑誌だからこそ、若い漫画家たちにがんばってほしいという気持ちも強かったので、気負わずに済む笑いをメインにした作品を描くことにしたようだ。
    これはこの連載でも書いてきたように、連載誌における四番バッターのようなポジションで大ヒット漫画を描いたあとには肩休めのような力の抜いた漫画を描くといういつものパターンである。 この時期のあだち充の漫画を連載順に並べてみると、『クロスゲーム』(2005年〜2010年)、『アイドルA』(2005年〜不定期連載中)、『QあんどA』(2009年〜2012年)、『MIX』(2012年〜連載中)というように野球漫画で長期連載になった『クロスゲーム』と連載中の『MIX』の間にあるのが、前回取り上げた『アイドルA』と『QあんどA』となっている。 『アイドルA』は前回取り上げたようにその前に連載していた『KATSU!』と『クロスゲーム』のヒロインたちの無念をありえない展開ながら昇華した男女逆転コメディ野球漫画だった。だが、こちらは不定期連載であり、今のところ終わったというアナウンスはない。また、コメディ的な要素が強いので、こちらも肩に力は入っていない作品となっているが野球を描いている。 今回取り上げる『QあんどA』はまさにあだち充が肩の力を抜いて描いた作品であり、以前の作品で言うなら『虹色とうがらし』と『いつも美空』の系統にある。『虹色とうがらし』はSF×時代劇という内容だが、落語の要素を感じさせる物語展開になっていた。『いつも美空』は青春×超能力という物語だった。そして、今作『QあんどA』は青春×幽霊という内容だが、『虹色とうがらし』同様に落語の要素を感じさせる笑えるたのしい内容になった。
    「ゲッサン」を立ち上げた市原は2015年8月号まで編集長を務め、古巣である「少年サンデー」に戻って編集長となり、「所信表明」を掲載し大きな話題を集めることになった。生え抜きの新人作家の育成を「少年サンデー」の絶対的指名とすると言い、同時に中堅やベテランを起用することでアンバランスになっていた「少年サンデー」に「雑」的な要素を入れてバランスある漫画誌へ変革していくことになる。2021年10月には6年勤めた「少年サンデー」編集長を退任し、小学館第二コミック局プロデューサーに就任したが、2022年4月15日付けで小学館を退職したことをツイッターで報告し、今後は漫画原作者として活動していくことを発表している。市原には気持ちのどこかではあだち充に一度は自身が描いた漫画原作をやってほしいという思いがあるのではないかなと私自身は思うのだが、どうだろうか。
     
  • ヒロインたちの夢を叶えた男女入れ替わりの野球漫画『アイドルA』(後編)​​| 碇本学

    2022-04-28 07:00  

    ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」。「ヤングサンデー」「ゲッサン」で2005年から不定期連載されている異色作『アイドルA』。主人公が男女入れ替わりながらアイドルと野球の二足のわらじで活躍するというデタラメな設定の本作が、デビュー以来の「あだち充劇団」の成立と発展を経て叶えてみせた歴代ヒロインたちの「夢」とは?(前編はこちら)
    碇本学 ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本社会の青春第21回 ヒロインたちの夢を叶えた男女入れ替わりの野球漫画『アイドルA』(後編)​​
    『KATSU!』のヒロイン・水谷香月と『クロスゲーム』のヒロイン・月島青葉の夢を叶える希望の存在としての里美あずさ
    『アイドルA』主人公の里美あずさはプロ野球選手であり国民的なスーパーアイドルという二刀流をこなせる圧倒的な才能を持っていた。本来なら主人公格であるはずの平山圭太が実質的にはヒロインとして機能しているという部分があだち充作品としてはそれまでになく、非常に新しく突出していた。 あずさと圭太は幼馴染であり、一方はプロ野球選手、もう一方はスーパーアイドルという時点で二人の顔が似ていることに周りの誰かが気づくだろうし、二人の関係性を嗅ぎ回るようなマスコミがいそうなものだが、そういう無粋な視点は今作には投入されない。この辺りが漫画だからこそギリギリOKになってしまう内容で、こうしたデタラメ感がありツッコミどころが満載な設定に関しては、読者をして読みながら「あだち充が好き放題するとこういうものになるんだよな」と強引に納得させるものでもあった。 おそらく、この『アイドルA』のみを読んだ人は「あだち充がデタラメな作品を描いたんだなあ」という感想で終わってしまうだろう。しかし、『KATSU!』『クロスゲーム』『アイドルA』と連載順で追いかけて読んでいるとはっきりとわかることがある。デタラメな設定に見せかけながらも今作の里美あずさは前々作『KATSU!』のヒロインだった水谷香月と『クロスゲーム』のヒロインだった月島青葉の夢の体現者として描かれているということだ。
    『KATSU!』のヒロインである水谷香月はプロボクサーだった父の影響で幼少期からボクシングをしており、並の男性では叶わないボクサーとなっていた。高校からボクシングを始めることになった主人公の里山活樹の才能に惚れ込んでいき、香月は自分のボクシングの夢を彼に託すようになり、彼のサポートをすることになり、相思相愛の恋人関係となっていった。 『クロスゲーム』のヒロインである月島青葉は小学生の頃から野球をやっていた。そのピッチングフォームに憧れて高校から野球を始める主人公の樹多村光(コウ)のお手本のようになっていく。中学高校と野球部に入る青葉だが、女性であるため練習試合などには出られたが公式戦には出ることができなかった。コウは青葉の姉で小学五年生の時に亡くなってしまった幼馴染の若葉に言われて、青葉がやっていた練習メニューをこなしながら体を鍛えていたこともあり、高校から野球部に入って甲子園を目指せるピッチャーへと成長していく。なによりもコウには野球選手としてのお手本だった青葉がいたからこそ、素晴らしい選手になることができた。 『アイドルA』という作品は、前2作品のヒロインが男性である主人公に自分の夢を託さず、自分自身の能力と努力で夢を切り開いていったものとしても見ることができる。ヒロインであることよりも自らが主人公となる(ガイ・リッチー監督『アラジン』における姫であるジャスミンが自ら王となるのを選んだことを彷彿させる)、性別を超越していく物語になっていた。
    宇野常寛 責任編集『モノノメ#2』PLANETS公式ストアで特典付販売中!『モノノメ 創刊号』+ 「『モノノメ#2』が100倍おもしろくなる全ページ解説集」付
     
  • ヒロインたちの夢を叶えた男女入れ替わりの野球漫画『アイドルA』(前編)​​| 碇本学

    2022-04-25 07:00  

    ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」。今回は「ヤングサンデー」「ゲッサン」で2005年から不定期連載されている異色作『アイドルA』を取り上げます。スーパーヒロインとその幼なじみが、男女入れ替わりながらアイドル活動と野球の二足のわらじで活躍するという荒唐無稽な設定の本作。その成立背景を、担当編集者のバトンリレーから辿ります。
    碇本学 ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本社会の青春第21回 ヒロインたちの夢を叶えた男女入れ替わりの野球漫画『アイドルA』(前編)​​
    あだち充だからこそ描けたデタラメな野球漫画
    前回まで取り上げていた『クロスゲーム』の連載が「少年サンデー」で開始された2005年のほぼ同時期に、「週刊ヤングサンデー」第36・37合併号で読み切りが掲載されたのが『アイドルA』だった。 本来は一回きりだったが人気が出たため、その後も2006年第17号、2007年第5・6号合併号、第36・37合併号、「ヤングサンデー」が休刊になったため「ゲッサン」に掲載誌が移り、「ゲッサン」2010年11月号、2011年8月号に掲載されている。 2011年に「ゲッサン少年サンデーコミックススペシャル」コミックスとして1巻(第1話から第6話)が発売されている。2011年以降新作は描かれていないが、不定期連載ということになっているので現在も連載中という形になっている作品である。
    『アイドルA』の第1話から第3話までは短編集『ショート・プログラム3』にも収録されているが、ぜひ「ゲッサン少年サンデーコミックススペシャル」コミックスで読むのをオススメしたい。こちらでは第6話までに加えて、「サンデー50周年記念! あだち充×高橋留美子合作読切」も収録されている。この合作読み切りは2009年に50周年を迎えた記念として、「少年サンデー」の二代巨頭として時代を牽引してきた二人が「少年サンデーと出会うまで」をテーマに合作&リレー形式で執筆されたエッセイ漫画となっている。 高橋留美子は10才の時に兄が買っていた「COM」の読者投稿コーナーで、佳作として掲載されたあだち充(当時16才)『虫と少年』をリアルタイムで読んでいた。また、中学一年生の時に漫画の初投稿をしている。投稿先は「少年サンデー」であり、一次審査を通過するなど才能の片鱗を見せていたことなども描かれており、日本漫画の歴史のひとつとして興味深いものとなっている。 コミックスの奥付けに記載されている連載担当は木暮義隆と市原武法の二人となっている。木暮は「少年サンデー」で『H2』『いつも美空』、市原は同じく「少年サンデー」で『KATSU!』『クロスゲーム』、「ゲッサン」で『QあんどA』『MIX』というあだち充作品をそれぞれ担当している編集者である。
    木暮は前担当編集者だった三上信一から『H2』の担当編集者を引き継ぎ、大人気作『H2』を連載終了まであだち充と並走している。また、木暮自身がプロボクシングのプロライセンスを持っていたことから、ボクシング漫画をあだちに描いてほしいと何度か提案して実際にボクシングの取材にも同行し、選手なども紹介していた。しかし、スポーツ漫画が続くのは大変ということもあり、新連載はボクシング漫画とはならずにもっと気楽な内容である『いつも美空』の連載が始まった。しかし、『いつも美空』は人気が振るわなかったことで何度か連載担当の変更を提案されたものの、自分があだちの担当から外されると連載が終わると思ってなんとか固辞していた。だが、連載途中で「ヤングサンデー」へと異動となってしまう。そして、木暮が提案していたボクシング漫画は『いつも美空』終了後に、違う担当編集者がついて始まることになった。それが『KATSU!』だった。
    『KATSU!』はこの連載で取り上げたように、あだち充の兄であるあだち勉が連載中に亡くなってしまう。また、プロ編も最初は視野に入れていたものの、死とも向き合う真剣なスポーツをあだち自身も描くのが難しくなっていき、本来のあだち充の良さが見られない作品になっていってしまっていた。 「少年サンデー」編集長になっていた三上はそんなあだちの状況を見て、配属時からずっとあだち充の担当をやりたいと言っていた市原に最後の希望を託し、彼を担当編集者に指名することになった。 8年越しの夢が叶った市原はあだちに自分の考えた意見を話して、『KATSU!』の連載を早く切り上げて新連載を始めようと動く。市原にあだち充の担当の話を振った三上はそれから2週間後には木暮も在籍する「ヤングサンデー」に異動してそこで「ヤングサンデー」の最後の編集長となる。ここであだち充担当編集者のバトンは危機一髪で手渡され、市原が提案した「逆『タッチ』」作品として『クロスゲーム』の連載が始まることになった。
    木暮義隆と市原武法という後期あだち充作品の重要な担当編集者の二人が『アイドルA』の担当編集者として名前が載っているのはなぜか?  理由は簡単である。あだちは自分の担当編集者が異動した際にはお祝いがてら、異動先の漫画誌で読み切りを描くということが度々あった。 「ヤングサンデー」に異動した木暮はあだちにシリーズ連載か読み切りを描いてほしいと口説き始めていた。おそらく木暮が頼んだ時点であだちは兄のあだち勉が最も可愛がった元担当編集者の願いを受けようと思っていたのだろう。木暮は「ヤングサンデー」でグラビアの担当もしていたこともあって、グラビア撮影の参考として沖縄で行われたアイドルの平田裕香のロケにあだちも連れていき取材をした。そうやって、読み切りとして掲載されたのが『アイドルA』だった。
    宇野常寛 責任編集『モノノメ#2』PLANETS公式ストアで特典付販売中「『モノノメ#2』が100倍おもしろくなる全ページ解説集」付
     
  • ゼロ年代における新自由主義の行方を描いていた『クロスゲーム』​​(後編)| 碇本学

    2022-03-31 07:00  

    ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」。あだち充の現状最後の少年誌連載作品である『クロスゲーム』読み解きの完結編です。浅野いにおの『ソラニン』とも同時期の連載だった本作の底に垣間見える、2000年代前半の新自由主義的な時代性を捉え直す視点について検証します。 (前編はこちら)
    碇本学 ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本社会の青春第20回 ③ ゼロ年代における新自由主義の行方を描いていた『クロスゲーム』
    『クロスゲーム』連載が開始された2005年ぐらいの空気感(承前)
    浅野いにおが『ソラニン』のあとに2007年から「ヤングサンデー」で連載を開始しつつも、同誌が休刊したため「ビッグコミックスピリッツ」に移行した連載作品が『おやすみプンプン』だった。この作品の主人公であるプンプンは人としては描かれておらず、彼とその家族だけがらくがきのヒヨコのような姿であるなど実験的なシュルレアリスム表現がされていたが、その内容はまさに1970年代後半から1980年代前半生まれ(浅野いにおは1980年生まれ)の人たちの幼少期から青年期とリンクする、ゼロ年代中盤前の同時代性とシンクロするような物語だった。私は上京後に浅野いにお作品にリアルタイムでハマっていき、自分たちの世代の漫画家としてその作品に自分を重ねることができていた。
    ちなみに「ビッグコミックスピリッツ」で2014年から連載が開始された『デッドデッドデーモンズデデデデストラクション』が、今年の3月に入って最終回を迎えて終わった。『デッドデッドデーモンズデデデデストラクション』はいわゆるディストピアものであるが、内容はクリストファー・ノーラン監督『インセプション』&『インターステラー』&『TENET』×『魔法少女まどか☆マギカ』の要素を感じさせる漫画だった。その組み合わせにおける並行世界であったり、3次元以上の4次元や5次元という高次元だったりといった世界の表現もされている。また、登場人物が元居た世界で起きた出来事を修正するために違う時間軸へ移動するなどの設定も含め、本作はこの20年近くに起きた現実世界とネット社会が当たり前に混ざり合うようになった世界を見事に漫画として表現しているように思う。 実際には令和4年に終了したわけだが、平成後期のゼロ年代以降のひとつの集大成的な表現でもあるように思える。それもあって、私としては浅野いにお作品は「戦後日本社会における平成的な青春」を描いていると思っていたのは間違いではなかったように感じている。
    そして、当時リアルタイムで読むことができていなかった『ソラニン』と同時期に連載がされていた『クロスゲーム』を2020年代に改めて読むと感じるのは、この作品がもつほかのあだち充作品と圧倒的に違う点だ。それは前述したように星秀学園高等部野球部における一軍と二軍の戦いがメインになっていることである。

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  • ゼロ年代における新自由主義の行方を描いていた『クロスゲーム』​​| 碇本学

    2022-03-24 07:00  

    ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」。あだち充の現状最後の少年誌連載作品である『クロスゲーム』読み解きの完結編です。『ナイン』以来のあだち充の「ラブコメ×野球」路線の集大成とも言える本作で描かれた主人公コウと青葉の恋愛描写の成熟度と、2005年の連載当時の文化シーンの空気感を振り返ります。
    碇本学 ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本社会の青春第20回③ ゼロ年代における新自由主義の行方を描いていた『クロスゲーム』(前編)​​
    あだち充作品のほかの主人公たちよりも早く成熟に向かっていた樹多村光の諦観
    2022年現在、「少年サンデー」での最後の連載作品となっている『クロスゲーム』は、それまでのあだち充作品の集大成的な要素がいくつも入っていた。しかし、本作は「ラブコメ×野球といえばあだち充」という王道の要素をおさえていながらも、ラブコメ具合は他の作品に比べると少しばかり薄く感じられる作品だった。 その理由としては最初のコミックス一巻で描かれた第一部【若葉の季節】において、主人公の樹多村光(以下「コウ」)とお馴染みであり、同じ誕生日に生まれた相思相愛だった月島若葉の突然の死があった。 物語のメインである当時、小学五年生のコウと小学四年生だった若葉の妹である月島青葉は喪失を抱えて思春期を過ごしていくことになる。第20回①で書いたように、この作品のラブコメの主軸は似ている者同士だから大嫌いだったふたりの物語として展開されていく。それもあってかラブコメというよりは多少シリアスな雰囲気が他の作品よりもあるものとなっていった。
    このファーストヒロインである若葉の突然の死は、『タッチ』における上杉達也の双子の弟の上杉和也の交通事故に巻き込まれた死を、もう一度繰り返すような設定だった。すでに述べたように、『クロスゲーム』は担当編集者である市原武法が「逆『タッチ』を描いてほしいんです」という口説き文句によって始まった作品だったからだ。 和也が亡くなったのは達也と浅倉南が高校一年生の夏だった。絶妙なバランスで成り立っていた三角関係を構成していたうちの一人が欠けてしまったことで、残された二人は互いの本心を伝えることが難しくなっていく。和也の死は二人にとっては見えない壁のような役割を果たしていた。それゆえにその壁を越えていき、上杉達也が浅倉南に好きだと本心を告白するというクライマックスは読者の心に響き、彼らの思春期が終わっていくという成熟に向かっていくという物語になっていた。
    亡くなった若葉のことが好きだったコウと特に姉の若葉に懐いていた妹の青葉の二人は若葉からすれば似た者同士であり、若葉はいつか青葉がコウのことが好きになる可能性を秘めていると感じているような描写もされていた。 「あだち充劇場」における主人公として、コウはどこか冷めた感じがあり、他の主人公よりも達観している部分があった。幼少期のコウは物事によく動揺するタイプだったが、小学生のときに将来は結婚するという約束をしていた若葉を失ったことで、成長と共に動じない性格に変わっていった。 コウはウソをつくのが昔から得意だったこともあり、自分のプレッシャーや不安などは表に出さない冷静さを持つようになり、どんな状況であっても周囲に気を遣ったり元気付ける役目を果たすようになっていく。そういう描写があることで飄々としたものを感じさせる登場人物だった。 また、彼自身は高等部から野球部に入ることになるが、野球選手としての成長は見られるものの、人間的な成長はほかの主人公に比べると少なく感じられるものだった。ある種の諦観のようなものを抱えて成長したことが大きかったのだろう。 だが、そんな感情的になることが少ない冷静なコウを変えるのはいつも青葉とのやりとりであり、彼女といる時だけは十代の少年らしさが滲み出てしまっていた。青葉がデートをするという話を妹の紅葉から聞くと動揺する一面があるなど、青葉に関しては感情的になることが度々あり、青葉が彼にとっては特別な存在だったということがわかる描写がなされていた。
    一方、ヒロインとなる青葉は、中等部に引き続き高等部でも野球部に入るものの、中等部同様に練習試合には出場できるが、公式試合には出場できない。野球選手としての資質はほかの男子部員にひけをとらない才能があり努力もしていたが、性別の問題で自分のやりたい野球をめいっぱいできない存在として描かれていた。 コウは小学生時代に若葉の勧めもあり、青葉がこなしていたトレーニングを始める。中等部では野球部には入らなかったものの、そのトレーニングは継続していたので高校野球にも充分な肉体づくりができていた。小学時代に青葉にピッチングで負けたことで、彼女の投球フォームに憧れを持つようになった。青葉のピッチングフォームを見て真似ることで「ひじを痛めない理想的なフォーム」をコウは身につけることになる。つまり、『クロスゲーム』における主人公の樹多村光が甲子園出場を果たすようなピッチャーとなったのは、ほとんど青葉の影響と言って差し支えない。 青葉としては自分のピッチングフォームなどを真似ていたコウがどんどん実力をつけていったことで、大門秀悟率いる星秀高校一軍チームを倒して二軍チームを甲子園に出場できるほどのチームに引き上げられる投手だということはすぐにわかったはずだ。そして、表面上犬猿の仲であったものの惹かれる部分を表には出さないまま、女性ということで高校野球の公式戦には出場できない自分の高校野球への夢をコウに託すようになっていった。
    ヒロインが自分の夢を主人公に託すことになるという設定は、前作のボクシング漫画『KATSU!』の水谷香月から青葉に引き継がれていると言える。香月は元プロボクサーだった父の影響もあり、幼少期から男同士の殴り合いに憧れていた。しかし女性であることでそれは叶わない現実であることも、成長するにつれて突きつけられるようになっていく。その夢を諦めることができたのは、ずっと胸に抱いていたボクシングの夢を主人公の里山活樹の才能に惚れることで、彼に託すことができたからだった。

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  • 喪失を抱えるヒロインとその姉妹たちを描いた『クロスゲーム』​​| 碇本学

    2022-01-24 07:00  

    ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」。今回は、あだち充の2000年代後半の少年誌連載作品『クロスゲーム』のヒロイン・月島若葉の人物像を掘り下げます。代表作『タッチ』とは逆に、主人公の相手役姉妹が喪失を抱える図式で描かれた本作で、あだち充が『ナイン』以降の蓄積の上に見出した新たなヒロイン像とは?
    碇本学 ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本社会の青春第20回 ② 喪失を抱えるヒロインとその姉妹たちを描いた『クロスゲーム』
    月島四姉妹の原型となった「居候」シリーズ

    「居候よりひとこと」は、もろ今に繋がってますね。なんか掴んだんじゃないかな。描きながら楽しかったし、こんな漫画を描けていけたらいいなぁと思いながら描いてた。
     群像劇でコメディ色が強いラブコメ。これは都築とじゃないとできなかった作品ですね。のちの『陽あたり良好!』の元になってるし、四姉妹が出てくるところは『クロスゲーム』にも近い。
     この話、実はモデルがいて、実名をもろに使ってます。キャラクターがすごく動いた、そういう手応えがあった作品。こいつらだったらもっと話ができるなと思ったから、続編も描くことになります。〔参考文献1〕

    『クロスゲーム』のヒロインとなる月島青葉は四姉妹の三女だった。 月島家には長女・一葉(連載開始当時高校一年生)、次女・若葉(連載開始当時小学五年生)、三女・青葉(連載開始当時小学四年生)、四女・紅葉(連載開始当時幼稚園児)の四人の娘がいた。父は「月島バッティングセンター」と「喫茶店クローバー」を経営している娘想いの月島清次。四姉妹の名前をつけたのは母の洋子だったが、若葉が小学二年生の時に他界しており、物語が始まった時点ですでに故人だった。
    物語は第一部【若葉の季節】(コミック第1巻)、第二部【青葉の季節】(コミック第2巻~第14巻)、第三部【四つ葉の季節】(コミック第15巻~第17巻)に分かれており、第一部【若葉の季節】の最後で次女の月島若葉は小学五年生で亡くなってしまう。若葉が亡くなった第10話のラスト2ページではバッティングセンターで泣きながらバットを振る青葉が描かれ、そのあとにおそらく洋子が名づけたであろう「喫茶店クローバー」の店名だけが描かれる。その次の最後のページでは「マメ科多年草……」「──江戸時代オランダ船が荷詰用に用いたことから、和名ツメクサ(詰草)。」「四つの葉は幸福をもたらすという──」というナレーションと共に水際とそこに生えたクローバーが描かれていた。月島四姉妹のひとりが亡くなってしまったことで四つ葉のクローバーのひとつの葉が欠けてしまったというとわかりやすいが、読み手に染み入ってくる描写がなされている。あだち充による省略の美とでも言える、余計なものは描かない風景描写によって、若葉と関わっていた人たちが彼女を失ったという喪失とともに生きていき、このあとも物語は続くのだと感じさせる効果を出している。ここで読者も登場人物たちと同様に月島若葉を失ったものとして物語に併走し、より深く物語の世界観に入り込んでいけるものとなっていた。

    「『タッチ』で困ったのが、中学時代から物語を描き始めたため、幼少期の回想シーンを描くと、どうしても唐突な感じが否めず苦労した。だから、『クロスゲーム』では、ファーストヒロインが死ぬまでをちゃんと描こう。ただ、そうすると最初は人気が出ないかもしれない。それでも、10話で中学生編にいけば、読者はついてきてくれるはず。」
     あだちの狙い通り、中学生編に突入すると、「クロスゲーム」の人気は急上昇し、単行本も次々と重版がかかった。〔参考文献1〕

    『クロスゲーム』は「逆『タッチ』」をやるというものだったので、本来であればヒロインになるであろう次女の若葉が小学五年生で亡くなってしまうことは最初から決まっていた。若葉の幼馴染であり相思相愛だった主人公の樹多村光(コウ)と、若葉のことが大好きでいつも一緒にいたがった三女の青葉という、本人たちは気づいていないが周りから見ると似た者同士だった二人が成長して大人になっていく手前までを描いた作品だった。そして、前回書いたようにあだち充作品でずっと描かれてきた「喪失」をめぐる物語であり、「あだち充劇場」の集大成となっていた。コミックス1巻分を使った小学生編はスローテンポになりやすく、話も地味になってしまうとあだちも危惧した部分ではあったが、ここをしっかり描いたことで他のあだち作品とは少し肌触りの違う作品となった。人気や知名度で言えば、あだち充作品として一番最初に挙がるのはやはり『タッチ』だろう。しかし、ストーリーの展開と作品の完成度として一番の出来はこの『クロスゲーム』になるのではないだろうか。
    「四姉妹が出てくるところは『クロスゲーム』にも近い」と引用した箇所であだち充が答えているように、「居候」シリーズともいえる「居候よりひとこと」(1978年)、「続・居候よりひとこと」(1978年)、「居候はつらいよ」(1979年)という作品が『クロスゲーム』を遡ること27年前に描かれていた。「居候よりひとこと」「続・居候よりひとこと」「居候はつらいよ」の三作品は現在では『ショートプログラム ガールズタイム』に収録されているのでそちらで読むことができる。また、『ショートプログラム ガールズタイム』では「恋人宣言」(1979年)という短編も収録されており、若い男女が一つ屋根の下で暮らすという内容だった。「少年ビッグコミック」でいきなり人気トップになってしまい、そのことでこれを原型として『みゆき』がのちに連載されることになった。そして、この「居候」シリーズが原型となって『陽あたり良好!』が描かれていることになる。あだち充がブレイクするきっかけとなった『ナイン』が1978年から1980年に連載されていた時期と並行してこれらの短編が描かれていた。明らかにこの1978年から1980年に現在へと続くあだち充的なもの(「あだち充劇場」)の原型ができたと言えるだろう。
    「少女コミック」で短編読み切りとして描いた「居候」シリーズと「少年ビッグコミック」で短編読み切りとして描いた「恋人宣言」は主人公とヒロインが同居するものの原型(『陽あたり良好!』『みゆき』)となっていた。また、『ナイン』は野球漫画に少女漫画的な要素を持ち込んだ新しいラブコメとして受けいれられ、1980年代を代表する漫画『タッチ』に繋がっていった。そのあだち充が手応えを摑んだそのふたつの形式がひとつになった最終形とも言えるのが現在「ゲッサン」で連載中の『MIX』である。『MIX』は主人公の立花投馬と血は繋がらないが親が再婚して妹になった音美の同居ものになっており、さらには『タッチ』の明青学園を舞台にした野球漫画である。『クロスゲーム』は「あだち充劇場」としての集大成だったが、『MIX』が最終形と言えるのは、あだち充的なものであるその二つのラインが共存しているからである。
    「居候」シリーズは地方都市で「亀の湯」という銭湯を営んでいる清水家を舞台に展開される。主人公の掛布銀次(通称・サイの目銀次)が清水家に転がり込んで、銭湯のボイラーマンとして働きながら、姉妹と交流を重ねていく。清水家には父母すでに他界しておらず、長女の洋子(おそらく20代中ごろから後半、長い髪で眼鏡をしていて、いつもたばこを咥えている。何事にも動じない性格。以前は東京にいたことがあり、その時に銀次と知り合っている。一家の大黒柱)、次女の雅子(おそらく20代前半、セミロングのウェーブがかった髪。銀次とはよく言い合いになる。エリートで金持ちの健一と付き合っている)、三女・弘子(おそらく十代後半、ショートヘアで『みゆき』など以降のヒロインの感じに一番近い。空手初段、柔道二段でめっぽう強い)、四女・セツ(おそらく小学校低学年から中学年、一番早く銀次になつく)の四姉妹と銀次は一つ屋根の下で暮らすようになる。内容はドタバタコメディであり、後に出てくる作品の要素がいくつか入っている点も今読み返すと発見できる。たとえば雅子の恋人の健一は二枚目でさわやかな印象だが、実は清水家に来たときには姉妹の下着を盗んでいるような人物で、キャラクター造形としては『陽あたり良好!』の美樹本伸の原型だろう。彼の正体が暴かれたことで、最初に家にやってきた泥棒で下着を盗んでいたと雅子に誤解されていた銀次は疑いが晴れる。その後、銀次と雅子は喧嘩をするほど仲がいい、というようなラブコメの主人公とヒロインの関係性になっていった。また、三回目となる『居候はつらいよ』では清水四姉妹と銀次が雪山にスキーに行き、そこで銀次のかつての幼馴染でスターとなっている山内百美(山口百恵をイメージしている)が映画の撮影をしているところに出くわしたことで、最終的に銀次と雅子が互いの思いを伝えあうという展開になっている。あだち充作品では何度かアイドルが出てくることはあるが、この時点でそれはすでに描かれていたことになる。また、終盤に雪山でトラブルが起こって物語が終焉していくのは超能力とアイドル(兼女優)を描いた『いつも美空』を彷彿させる。
    清水四姉妹の長女の名前が洋子であり、『クロスゲーム』の月島四姉妹の母親の名前も洋子だった。「居候」シリーズにはモデルがいて、実名を使っているとあだちが言っているので、彼は四姉妹というと浮かんでくる名前が清水四姉妹たちだったはずだ。『クロスゲーム』はクローバーがモチーフにあり、四姉妹それぞれが「葉」がつく名前にしようと考えた時に、亡くなっていて物語には出てこないが、母親の名前にはかつて描いた四姉妹の長女の名前を無意識に使ったのではないかと思われる。また、『クロスゲーム』以外では、『H2』の明和第一のマネージャーの小山内美歩が実は四姉妹の末っ子だったという設定であり、小山内美歩は四姉妹の中で上の三人とは年が離れていた。小山内四姉妹も清水四姉妹も月島四姉妹も四女だけが上の三人と年が離れている。あだち充が清水四姉妹のモデルとした四姉妹もおそらく一番下の末っ子だけが年が離れていたのではないかと想像できるのだが、清水四姉妹と月島四姉妹で考えると年の離れた四女の存在があだち充作品における「喪失」を体現していたのではないだろうか。長女がどちらとも四女に対しては、ある種「母」的な存在であり、幼い四女は姉である姉妹たちに庇護されるべき立場である。そして、幼児の時点で母親が亡くなってしまっていることで、母親の思い出がほとんどないという部分も共通している。つまり清水セツも月島紅葉も物心ついた時点で「母」が死んでしまっているという「喪失」と共に、それを抱えて生きていく人生とも言える。
    以前にも書いたがあだち充や兄のあだち勉は戦後生まれであり、兄弟姉妹が多い家庭が多かった。また、同時に戦後には戦争孤児などもたくさんいた。団塊の世代とも言えるあだち充にとっては、現在よりは人が病気や栄養失調などで亡くなることが身近なものとしてあったと考えられる。その時のイメージの反映がもしかしたら無意識のうちに四姉妹の四女に反映されていた可能性もあるかもしれない。つまり、上の姉妹たちに庇護を受けながら成長していく四女はある種、母から直接的な愛を受けなかった「孤児」として描かれているようにも感じられる。どんなに姉たちに愛情を注がれても四女だけは、彼女たちが母親から受けた愛情を得られることは今世ではないことだけがはっきりしている。つまり、あだち充作品の幼い四女は最初から「喪失」を受け入れる存在であり、そのせいか幼児にしてはやけに大人びているという特徴を持つ。もちろん、それは寂しさの裏返しであるのだろう。
    そして、あだち充自身も三男一女の末っ子、四番目の子供である。あだち充は両親とは不仲ではないが、兄の勉の漫画の手伝いをすることで漫画の描き方を覚え、麻雀にハマって学校にもあまり行かないような学生時代を過ごしていた。彼にとっては実の父よりも、次男である勉が父的な存在(メンター)だった。そういう経験も四姉妹の四女のキャラクター造形に影響を与えているのだろう。今作における四女の月島紅葉は作中で時間が進み、幼稚園児から小学生になって学年が上がっていくと亡くなった次女の若葉に似ていると周りから言われるように成長をしていく。
    『クロスゲーム』であだち充は亡くなった次女の若葉が成長したら、こんな女性になっていたのではないかという人物の滝川あかねというキャラクターをいきなり登場させた。このことによってコウと青葉の関係性も変化し、王道ラブコメにおける三角関係のような展開にもなっていく。コウや月島家だけではなく、若葉のことを知っていた誰もが滝川あかねを見て若葉の幽霊だと思うほどだった。そのあかねは「喫茶店クローバー」でアルバイトを始めるようになり、若葉の死によって欠けた四姉妹にあかねが加わることで補完されたような形となった。あかねはあり得たかもしれない可能性としての月島若葉として描かれ、同時に四女の月島紅葉は亡くなるまでの月島若葉を後追いするような存在となっていく。つまり、小学五年生で時間が止まっていた月島若葉の人生が未来と過去のどちらでも展開していくような設定になっている。しかし、月島若葉は月島若葉でしかなく、月島紅葉は月島紅葉でしかなく、滝川あかねは滝川あかねでしかない。そのことをコウをはじめ、あかねに懐くようになっていた青葉もしだいに理解することで、若葉を失った「喪失」は他の誰かが代わりになるものではないと認めることになる。これもひとつの成長として描かれていく。
    『タッチ』では上杉和也が亡くなってから、上杉達也と浅倉南が相思相愛であるということは誰もが気づいており、そこにライバル未満としかならない新田明男や西村勇が登場したが、上杉達也のライバルはずっと双子の弟である上杉和也でしかなかった。『クロスゲーム』ではヒロイン候補だった若葉が亡くなっており、男女が反転しているが、こちらでは実際の肉体を持った「もう一人の月島若葉」としての滝川あかねを登場させていた。何の前触れもなく滝川あかねを出したネームを読んだ担当編集者の市原はかなり衝撃を受けたという。あだちは『タッチ』ではできなかったことであり、担当編集者の市原を驚かすために若葉そっくりの滝川あかねを登場させたのだろう。そして、若葉の代わりとしてあかねを月島姉妹と出会わすことでもう一度、偽りでも四姉妹という形で残された彼女たちを描きたかったのかもしれない。
    月島青葉はあだち充のヒロインの系譜のどこに位置するか
    月島青葉はあだち充作品におけるヒロインの系統ではどういう位置になるのだろうか。基本的にはブレイク作で、再デビューのようになった『ナイン』以降の作品で、主人公が女性ではない作品のヒロインたちから考えてみたい。

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  • 「あだち充劇場」の集大成としての『クロスゲーム』| 碇本学

    2021-11-02 07:00  

    ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」。今回から、あだち充の現状最後の少年誌連載作品である『クロスゲーム』を読み解きます。消化不良のまま終了した前作『KATSU!』とは一転、新世代の編集者とのタッグで「逆『タッチ』」をコンセプトに始まった王道の恋愛野球漫画の成立背景とその作品史的な立ち位置を解説します。
    碇本学 ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本社会の青春第20回 ①「あだち充劇場」の集大成としての『クロスゲーム』
    「喪失」を描き続けるあだち充

    「クロスゲーム」は死者と向き合うことがひとつのテーマになってますけど、それはやっぱり自分の年齢的なものだと思う。兄貴も亡くなりましたから、いろんなことを自分なりに整理して描きました。  54歳から6年間、60歳手前まで連載したのか。『週刊少年サンデー』の最後の作品として、満足してますよ。ラストもいい感じだったなと。ああいうラストを選ぶことができた。これで週刊連載はもういいと思えました。燃え尽きましたね。〔参考文献1〕


     どうせこの作品で、週刊連載は最後だと思ってたから、開き直って「あだち充劇場」をやるしかないと思ってました。ここまで読者に見捨てられなかった漫画家なんだから、もう何やってもいいんじゃないかなと。それが意外と、今までと違う漫画になったんです。〔参考文献1〕

    前作『KATSU!』が2005年12号で最終回を迎え、わずか10号しか期間をあけずに、2005年22・23合併号から2010年12号まで約6年間連載をしたのが『クロスゲーム』だった。 インタビューであだち充が答えているように今作が現在のところではあだち充作品における最後の週刊連載作品となっている。
    以前にも紹介したように、本連載ではあだち充のデビュー以降の作品史を四期に分けたことがある。下記にその第三期についての記述を引用する。
    第三期は『H2』(1992〜1999年)、『じんべえ』(1992〜1997年)、『冒険少年』(1998〜2005年)、『いつも美空』(2000〜2001年)、『KATSU!』(2001〜2005年)、『クロスゲーム』(2005〜2010年)。連載誌が「少年サンデー」と「ビッグコミックオリジナル」の二誌であり、『クロスゲーム』が現状では最後の「少年サンデー」で連載した野球漫画となっている。
    前回も取り上げたように、『クロスゲーム』の担当編集者・市原武法は小学館に入社し、「少年サンデー」に配置されてからずっとあだち充の担当をやりたいと言っていた。当時の「週刊少年サンデー」編集長だった三上信一はその意気を買い、それまでのあだち充の担当者たちのバトンを引き渡すように、「あだち先生を頼むぞ」という気持ちも含めて市原を『KATSU!』の終盤で担当編集者に指名。市原が企画の立ち上げからあだち充作品に関わるのは、この『クロスゲーム』が初めてとなった。 市原がこの時点であだちの担当編集者となって『クロスゲーム』に関わり、その後に「ゲッサン」を立ち上げなければ、今現在まであだち充が漫画連載をしていた可能性はかなり低かったのではないか。あだち充を少年漫画家として再生させる上で、市原が担当編集者になったのは、かなりギリギリであったものの、なんとか間に合ったという感じがする。 そして、市原の熱意をきっかけに、開き直ってあだち自身が「あだち充劇場」をやろうとしたことで『クロスゲーム』はそれまでのあだち充作品の集大成となった。そして、兄の死の影響があり、プロ編へ移行できずに最終巻で強引にまとめて終わらすことになった『KATSU!』では描ききれなかったものを、しっかりと引き継ぎながら描ききった作品となった。

    「クロスゲーム」は最初から短い巻数で、ちゃんとした話をやろうと話してました。僕の担当では、木暮がもともと「あだち充ファン」だったけど、市原ほどのファンはいないかな。市原は僕の漫画をすべて憶えてる。特に「タッチ」は何から何まで憶えてる。  野球の話をやろうということになって、最初の1巻分は、主人公たちの子ども時代をちゃんと描こうと決めました。そこをちゃんと描いておけば、あとでなんとでもなるだろうと思った。〔参考文献1〕

    「逆『タッチ』を描いてほしいんです」という口説き文句を連載開始前の打ち合わせの際に市原があだちに言った。 「面白いな、それで行こう」とあだちが了承したことでこの『クロスゲーム』は始まることになった。 『タッチ』といえば、1980年代を代表するラブコメ&野球漫画の金字塔であり、あだち充の代表作である。多くの人が『タッチ』と聞いて思い浮かぶのは、双子の上杉兄弟と幼馴染の朝倉南の三角関係だろう。そして、上杉兄弟の弟の和也が夢半ばで死んでしまい、彼の夢だった「朝倉南を甲子園に連れていく」という目標を兄の達也が引き継ぐかたちになって野球を始めたというものだと思われる。 市原が「逆『タッチ』」と言った時点で、亡くなるのは主人公の側ではなくヒロインの側だというイメージがあだちにもすぐ浮かんだのだろう。そう言った市原もヒロインとなるべき登場人物のひとりを殺してくださいと言っているようなものだった。 『タッチ』という作品があまりにも国民的な漫画だったからこそ可能になった「逆」バージョンとしての『クロスゲーム』は、ずっと第一線で戦い続けた少年漫画家のあだち充だからこそ描ける、いわば「あだち充劇場」を使ったデータベース消費的な作品でもあった。
    あだち充作品では主要キャラクターだけでなく、物語の途中で主要人物に関係のあるキャラクターがある日突然亡くなってしまうことが多い。そのことで「人が死にすぎ」「主要人物の誰かが死ぬのが定番なんですか?」と言われてしまうのだが、物語の展開上仕方ないこともあるし、上杉和也のように連載前から死ぬことだけは決められていたキャラクターもいる。 人はいつか死ぬという現実を、あだち充はただ漫画で描いているだけだと考えるほうが自然でもある。また、あだちが好きだと公言している落語や時代劇では、人が亡くなるのは不自然ではないということもあるかもしれない。
    あだち充は三男一女の末っ子であるが、3歳半上のあだち勉は戦後すぐの生まれだった。長兄は戦中生まれである。 あだち兄弟のような戦後生まれの「団塊の世代」は、人口ベースで見ればもっとも人口の多い層である。 筆者の父もあだち勉と同学年で、下に弟がいてふたり兄弟なのだが、幼い頃に墓参りに一緒に行った際になにも刻まれていない小さな墓石があり、父たちの生まれなかった姉だったと祖母から聞かされたことがある。戦後すぐの状況で栄養不足でありながらも働きすぎていたせいで流産したのだと祖母は教えてくれた。このように戦争体験者だった彼らの両親は戦後の復興と共に多くの子を作ったが、戦後すぐの貧しい期間においては生まれなかった子どもも多くいたし、大人になるまで成長できずになくなってしまう子どもたちもたくさんいた。 あだち充たち戦後生まれの世代は戦後の復興と共に成長していったが、同時に人が亡くなるのは今よりも当たり前で自然で身近なものとしてあったはずだ。 経済復興と核家族化が広がっていくと人が生まれるのも亡くなるのも病院というケースが当たり前のように多くなっていった(現在では緩和ケアなども増えており、かつてのように家で家族に看取られることや、大事な家族を看取ることを選ぶ人も増えてきているが)。
    人間が生きていく中で抱えてしまうそんな「喪失」を当たり前のこととして描いているのがあだち充作品である。そして、人はいつか死んでしまうというリアリズムを漫画に持ち込んでいるとも言えるのではないだろうか。 バトル漫画などでは人が死ぬのは当たり前のものかもしれないが、そうでなくても日常生活の中で人がふいにいなくなってしまうという現実を、あだちは少年漫画でずっと描いてきたとも言えるだろう。 あだち充が主体性と責任を持つ大人という成熟へ向かっていく物語を描き続けてきたことと、物語の中でふいに人が亡くなってしまうことは繋がっているのではないだろうか。彼の漫画は夢を魅せる(夢に留まらせる)ためではなく、夢から醒ませて現実と向き合うための物語だからである。
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