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記事 35件
  • 與那覇潤 平成史──ぼくらの昨日の世界 第12回 「近代」の秋:2011-12(後編)

    2020-06-26 07:00  
    550pt

    今朝のメルマガは、與那覇潤さんの「平成史──ぼくらの昨日の世界」の第12回の後編をお送りします。挫折した民主党政権に替わる、トップダウンで改革を進める小泉路線の新たな担い手として維新の会の橋下徹に注目が集まっていた2012年。その「橋下旋風」の下、意識を経由しない「直観」によるスピーディーな決断が支持されるようになっていきます。混迷する国内の政治状況の中、わずかに残っていた「自公民」三党での大連立の可能性は、東アジア体制の変動と、歴史を軽視しナショナリズムを煽る「自分を抑えない」政治家によって打ち砕かれてしまいます。
    與那覇潤  平成史──ぼくらの昨日の世界 第12回 「近代」の秋:2011-12(後編)
    機動戦幻想の蹉跌
     2012年の4月、研究室で献本の封筒を開けた私は、文字通り椅子から転げ落ちました。入っていたのはPHP研究所の論壇誌『Voice』で、特集名はなんと「橋下徹に日本の改革を委ねよ!」。橋下氏の盟友である松井一郎氏(当時、大阪府知事)や、かつて「平成維新の会」を組織した大前研一氏(第3回)はいかにもな人選ですが、前月放映のテレビでご一緒したばかりの意外な名前が混じっていました。
     宮崎哲弥さん(評論家)を司会役にした鼎談で、萱野稔人さんは行財政のスリム化のためには「『ポピュリズム』以外に有効な手法があるかといえば、疑問」。当時、大阪維新の会が国政進出に向けて検討中の公約案(維新八策)でうたったフラットタックスについては、飯田泰之さん(経済学)いわく「経済学者は全員、賛成でしょう(笑)」[24]。全体を通読すると、手放しの礼賛ではなく懸念の指摘も見られるとはいえ、挫折した民主党政権に替わる「新たな改革」の担い手として、橋下維新に期待する基調があることは拭えません。
     もっとも世の中には上手がいるもので、同誌が再度同様の特集を組んだ11月号には竹中平蔵氏が登場。いわく、取締役会がCEOを解任できるように「独裁を制御する仕組みさえあれば、強いリーダーの登場を期待しても、まったく問題はないはず」で、バラマキ政策ではなく国民の自立を促しているから、「小泉〔純一郎〕さんも橋下さんも、ポピュラーですが、ポピュリズムではありません」[25]。さすがにこれは本人も恥ずかしい論法ではと思いますが、それだけ橋下氏を通じた小泉路線の再生に期するところがあったのでしょう。
     同じ年の9月9日、国政政党樹立に向けた維新の公開討論会には北岡伸一氏が出席。「一部の教科書には自衛隊や安保条約には(憲法問題で)問題が多いとゆがんだ例をあげている」と戦後教育への批判を展開し[26]、まるで「つくる会」のような口吻だと歴史学者の界隈で波紋を呼びますが、個人的には少子化問題を「ナショナリズムで解決する」「日独伊で少子化が深刻なのは敗戦国で、国のプライドが未回復だから」なる発言の方に[27]、これが一流の政治学者の構想かと哀しくなります。
     なぜこうまでして、学者が「時の政治家」に近づきたがるのか。ヒントになる思想家に、イタリアの社会主義者だったアントニオ・グラムシがいます。ロシア革命のみが成功して西欧の共産化は挫折し続けた戦前、グラムシは「東方では国家がすべてであり、市民社会は原初的でゼラチン状であった」から、機動戦で中央政府の権力を奪取するレーニン主義が成功したが、「国家が揺らぐとただちに市民社会の堅固な構造が姿を現」す西ヨーロッパでは、むしろ長期的に左派系の中間団体を育成し、文化や価値観の面でも支持を調達していく陣地戦が必要だったと反省しました[28]。この発想は戦後、イタリア共産党のユーロコミュニズムに受け継がれ、日本でも革新自治体を支える理論になりました(第11回)。
     ところが平成期には、1993年の──北岡・竹中氏らが支えた──小沢一郎氏のクーデター、2001年からの小泉純一郎政権という形で、「一気に首相官邸を握って、上から改革を進める」手法こそが有効に見えてしまった。ロシア革命に比せるかはともかく、結果として国民の政治意識も「非・西洋民主主義的」な方向へと、大きく傾いた側面があります。2012年10月に刊行した池田信夫さんとの対談本では、当時邦訳書が刊行され注目の集まっていたダニエル・カーネマン(2002年のノーベル経済学賞受賞者)の概念を踏まえて、こうした政治情勢を論じました。

    「與那覇 橋下さんは政治というものを徹底して『勝つか、負けるか』のモデルで捉えているわけじゃないですか。  池田 やっぱり彼はそういう庶民のシステム1のところを捉える本能的なマーケティングを知っているんですよ。  與那覇 逆に、橋下さんがツイッターで連日罵倒している、リベラルと呼ばれる人々が考えてきた政治は、まさしくシステム2だったわけです」[29]

     システム1・2とは、心理学者でもあるカーネマンが命名した人間の脳機能の二層構造を指すものです。システム1は、意識を経由しない「直観」による判断で、反射神経や動物的な本能に近いスピーディな決定を下すもの。対してシステム2は自覚的に行う「推論」による思考法で、幅広い情報を対照することで先入見を抑制し、合理的な結論を出そうとするもの。「西洋近代のすごかったところは、条件反射的なシステム1の作動を『抑制する機構』をかなりがっちりと作って、それがいわば社会的なシステム2なのではないか」と述べているとおり(発言者は與那覇)[30]、橋下旋風の下で起きているのは日本の西洋化の終焉だというのが、当時の私の判断でした。
     ──「近代」の秋、だな。
     三島由紀夫の盟友と呼ばれた批評家の村松剛が、三島の自死にまで連なる日本人の死生観を探究した『死の日本文学史』(1975年)に、「『中世』の秋」と題する章があります。歴史家ホイジンガの名著として知られる『中世の秋』(1919年)を意識しつつ、「中世ということばには、ヨオロッパ時代区分のにおいがしみついていて、室町時代を中世の後期と呼ぶことには多少のためらいが感じられる」ので[31]、応仁の乱を描く際にはカギカッコをつけて「中世」の秋。そのひそみにならえば、そもそも日本史上に十全な近代化があったかといえば怪しいが、それでも一応は近代を範としてきた時代がおわるという意味では、いまはカッコつきの「近代」の秋なのだろう。
     ホイジンガの著書はルネサンス期を扱うフランス/オランダの文化史ですが、タイトルが『近代の春』ではないことがポイントです。新しい何かが始まろうとするポジティヴな時代としてではなく、むしろ既存の体制が爛熟するとともに煮詰まり、限界に直面し、滅びの予感に包まれてゆく。脱原発デモの高揚や個性派首長の挑戦に「日本が変わる」との期待が託されていた時期、こうしたメランコリック(鬱的)な視点で同時代を描く識者は少なかったのですが、その後の展開は私の正しさを証明したように思います。
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  • 與那覇潤 平成史──ぼくらの昨日の世界 第12回 「近代」の秋:2011-12(前編)

    2020-06-25 07:00  
    550pt

    今朝のメルマガは、與那覇潤さんの「平成史──ぼくらの昨日の世界」第12回の前編です。2011年3月11日に発生した東日本大震災と、その翌日に明らかになった福島第一原発事故によって終焉を迎えた「後期戦後」。反原発を旗印に盛り上がったネット連動型の市民運動は「アラブの春」などの世界的な潮流とも呼応し、戦後日本の一大転換になるかと思われましたが、それは具体的な展望を欠き、やがて政治の領域の破裂に繋がります。
    與那覇潤  平成史──ぼくらの昨日の世界 第12回 「近代」の秋:2011-12(前編)
    デモへと砕けた政治
     まさか、こんな日本を目にする日が来るとは。
     「戦後日本」の平和と安定に慣れ親しんできた多くの人々がそう感じた機会は、平成のあいだ、必ずしも少なくはありませんでした。1993年と2009年の非自民政権への交代、95年のオウム真理教によるテロ、03年のイラク戦争への自衛隊派遣。しかしそれらすべての衝撃を合わせても、平成23(2011)年の3月11日に及ぶことはないでしょう。
     14時46分18秒、宮城県沖で地震とそれに伴う津波が発生。モーメントマグニチュードは9.0Mwで観測史上空前、記録された最大震度はもちろん(95年の阪神・淡路大震災で初めて適用された)震度7。しかも波高10メートルにも及ぶ巨大津波の襲来のため、被害の広範さは阪神大震災とは比較になりませんでした。2019年末の警察庁の統計では、死者約1万6000名、行方不明者約2500名。
     混乱に輪をかけたのは、翌12日に原子炉建屋が爆発して全国民に知られる福島第一原発事故です。地震に伴い原子炉自体は緊急停止したものの、停電時に用いる非常発電機が津波で浸水し、全電源を喪失。核燃料の冷却ができなくなったのです。前日のうちから近郊に出ていた避難指示は、収束の目処が立たない中で徐々に拡大し、かつ電力不足から首都圏でも計画停電が実施されたため、地震の被害は軽微だった地域にも甚大な影響が及びました。
     宗教的な黙示録か、ほとんどSF作品を思わせる光景があらゆる国民を絶句させたのですが、私にとっての「こんな日本」の感じ方は、周囲とだいぶ違っていたようです。震災発生から一か月後の4月10日、都内で初めて1万人を超える反原発デモが発生。実は、もともとサブカル的な軽いテーマを想定して事前に申請していた企画を、震災を受け急遽看板を掛けかえただけだったらしいのですが[1]、火のついた民意は止まらず、ピークとなった翌2012年には(主催者発表で)最大時に20万人とも呼ばれる群衆が、毎週金曜に首相官邸を取り巻く事態となっていきました。
     ──ああ、原点に返るんだ。戦後の。
     2008年度からずっと、大学で日本通史を講じていた私の目に当時浮かんでいたのは、ニュースフィルムの抜粋を教室で上映していた1947年1月、2.1ゼネストに向けた皇居前広場での大会でした[2]。30万とも報じられた労働者が赤旗を振るなか、司会は戦前、人民戦線事件で投獄されても反戦を貫いた加藤勘十(社会党左派)、演説はモスクワ・延安に亡命して日本の帝国主義と戦った野坂参三(共産党)。そんなものを見せても、ふだんは誰もなにも感じないのが歴史なき社会ですが、ポスト3.11の「眼前に似た風景があった季節」には、学生が息をのむような表情を浮かべていたのを思い出します。
     震災の年を代表する話題書になった開沼博さん(社会学)の『「フクシマ」論』が指摘するように、ほぼすべての原発は1960年代の高度成長下に誘致が始まっています[3]。都心部への労働力の流出によって過疎化が進むなか、原子力政策への協力によって(補助金で)地域を維持する体制は、田中角栄首相―中曽根康弘通産相が主導して74年に整備された電源三法交付金制度に結実しました[4]。実は、当初は原発導入に積極的だった社会党をはじめとする革新勢力が、「反核」を掲げて反対に転じるのも70年代初頭になってからで[5]──86年のチェルノブイリ事故直後の反原発ブームを除くと──おおむね憲法論争ほかと同様の、「いつもの定番の争い」として長く聞き流されてきた。その意味で日本での過酷事故の発生による原発問題の顕在化は、不可視の場所で作られるエネルギーに支えられた穏和で生ぬるい「後期戦後」の終焉を、象徴するものでもありました。
     いつまでも55年体制下の自社対立という「おなじみの構図」では、もはや対応できない課題が広がっていく。その問題意識は細川非自民政権に先んじて、金丸信による自社連立の構想から存在していたことに以前触れましたが(第4回)、中道政党出身の菅直人が率いた震災発生時の政権は、そうした平成の宿命を継ぐものとも言えました。震災直前の2011年1月、もともと自民党の重鎮だった与謝野馨が(たちあがれ日本を経て)電撃的に経済財政相として入閣し批判を浴びますが、与謝野は日本原子力発電の出身で、政界入りは1968年に中曽根の秘書として(初当選は76年)。消費増税から逃げない社会保障財源の安定化を持論とし、前年夏には参院選敗北後の菅首相にも、自民党との大連立を説いていました[6]。変節の誹りを覚悟で入閣を決めた理由は1938年生、当時72歳という年齢。下咽頭がんの後遺症に悩まされ、政策実現に残された時間は長くないと覚悟してのことで[7]、大臣退任後の12年には一時発声不能に陥り、17年に亡くなります。
     しかし、そうした後期戦後以来の問題意識をあざ笑うかのように、福島事故はコントロール不能に陥ります。震災から一夜明けた3月12日の朝、東工大卒で一定の知識を持つ菅首相はヘリコプターで直接事故現場に飛び、情報の掌握を図りますが、私は「スリーマイルだ」とすぐにわかりました(1979年の米国での原発事故。当時大統領のジミー・カーターは工科大出身で原子力潜水艦の開発にあたった経験があり、現地を視察して民心の安定に努めた)。ところが帰京後に、起きるはずのなかった建屋の爆発が発生して菅氏は激昂、以降の東京電力に対する敵対的な姿勢については、いまも評価が分かれています。
     相当数の国民が期待したように、このとき危機対応のための「挙国一致内閣」として、民主・自民で連立を組む可能性はある程度あったようです。民主党きっての実務家として急遽、官房副長官に復帰した仙谷由人が自民党副総裁・大島理森(現衆院議長)と、また「加藤の乱」以来の加藤紘一の仲介をへて菅自身が谷垣禎一総裁と、それぞれに大連立の構想を協議(3月16~19日)。しかし二つのラインは調整がついておらず、不信感を抱いた自民党側は申し入れを拒否。前年の官房長官更迭以来、菅・仙谷の二人は関係が微妙だったようで、当初は仙谷氏が就くと見られた復興相(6月末に新設)は結局、松本龍防災相の兼務となりますが、「九州の人間だから東北の何市がどこの県か分からない」など信じがたい暴言を吐きわずか9日間で辞任[8]。もはやむちゃくちゃと評するほかはない国政の惨状でした。
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  • 與那覇潤 平成史──ぼくらの昨日の世界 第11回 遅すぎた祝祭:2009-10(後編)

    2020-04-22 07:00  
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    今朝のメルマガは、與那覇潤さんの「平成史──ぼくらの昨日の世界」の第11回の後編をお送りします。政権交代以降、鳩山民主党政権が様々な幻滅を振りまく一方で、地方では橋下徹らのタレント首長がSNS環境を背景に「躁的」なムーブメントを引き起こします。2010年に政権を継いだ菅直人首相の誕生は、「後期戦後」の社会課題に対応したニューレフトがついに国政のトップを握った瞬間でしたが、21世紀の国際情勢の変化を前に無力を露呈していきます。
    軽躁化する地方自治
     「わたしを次期総裁候補として、次の衆院選を戦う覚悟があるのか」
     時計を政権交代前の2009年6月に戻します。目玉候補として口説くため、わざわざ会談に訪れた自民党の政治家にこう言い放った地方首長をご記憶でしょうか。言われた相手は当時、選対委員長を務めていた古賀誠。党内派閥・宏池会(現在は岸田派)の会長にして、短期間ながら森喜朗政権の後半(2000~01年)に幹事長も務めた大物です。
     正解は、宮崎県知事だった東国原英夫。元々は芸名を「そのまんま東」というビートたけし門下のタレントでしたが、第一次安倍政権下の2007年1月に無所属で知事に当選。往年の人脈も活かして積極的なTV出演をこなし、地域おこしのシンボルとして人気を博していました。もっとも自民党の側はさすがに冷静で、当日のうちに細田博之幹事長が「知事が総裁候補を条件にしたのは、(出馬打診を)断るための冗談だろう」と一蹴します[22]。
     そういう有権者がどれだけいたかはともかく、私にはこれはある昭和の挿話を思わせ、哀愁をそそる光景でした。1977年の12月、現職の横浜市長のままで飛鳥田一雄が社会党委員長に就任(翌年3月に市長辞職)。都市部のニューカマーの票を共産党や公明党に食われ(第6回)、退潮傾向が続く社会党が、革新自治体のエースとして声望の高かった飛鳥田を担いだものです。もともと60年安保に前後して同党の衆院議員だったこともある飛鳥田は、市長時代には政令に基づきベトナム戦争を支える米軍車両の通行を阻止するなど、精力的な活動で左派系市民の共感を得ていました。逆にいえば、名物首長にすがる2009年の自民党は、当時の社会党にも通ずる凋落過程に入ったとも見えたわけです。
     このころ私がよく、仕事でつきあう人に口にしていたジョークは、「革新自治体とネオリベ自治体は順番がだいたい同じ」。前者は飛鳥田一雄・横浜市長(初当選は1963年)→美濃部亮吉・東京都知事(67年)→黒田了一・大阪府知事(71年)→本山政雄・名古屋市長(73年)。後者は石原慎太郎・東京都知事(1999年)→中田宏・横浜市長(2002年)→橋下徹・大阪府知事(08年)→河村たかし・名古屋市長(09年)。要は首都圏から始まったうねりに少し遅れて関西が食いつき、最後に東海地方が乗っかるというオチですが、ゼロ年代末のタレント首長ブームは国政での二大政党化が行き止まりを迎える中で、誰も予想しなかった風雲の震源地となっていきます。
     なかでも台風の目となったのは、元々は自公の府連の支援(ただし公明は「核武装容認」など過去の問題発言を危惧し、推薦でなく支持のみ)で当選しながら、2010年4月に「大阪維新の会」を結成、やがてそれを国政政党に育てる橋下徹さんでした。1969年生で、政治家デビュー時はわずか38歳。小学校高学年で80年代を迎え、平成の訪れとともに新成人になった世代ですから、地方政治といえば「オール与党」が当たり前で、革新自治体の記憶はほぼないでしょう[23]。橋下現象にいたる地域史を長い視野で捉えた、砂原庸介さん(政治学)の『大阪』を参照すると、そのことが持つ大きな意味が見えてきます。
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  • 與那覇潤 平成史──ぼくらの昨日の世界 第11回 遅すぎた祝祭:2009-10(前編)

    2020-04-21 07:00  
    550pt

    今朝のメルマガは、與那覇潤さんの「平成史──ぼくらの昨日の世界」の第11回の前編をお送りします。2009年9月、ポスト小泉期の自民党政権の迷走を打破するかたちで発足した鳩山民主党政権。それは平成初期からの政治改革勢力の悲願だった二大政党型の政権交代の実現として大いに歓迎されますが、この国の〈成熟〉を促す契機としては、何重もの意味で「遅すぎた」ものでした。
    【イベント情報】4月21日(火)のイベント「遅いインターネット会議」に與那覇潤さんがご出演されます。自らの『中国化する日本』は「間違いだった」と述べる與那覇さんが、その反省からいま改めて現代史を整理するパースペクティブを再提示します。詳細・お申し込みはこちらまで!
    市民参加の果てに
     双極性障害の最重度の病態に、ラピッドサイクラー(急速交代型)と呼ばれるものがあります。躁とうつのサイクルを1年間に4回以上繰り返す症例を指す概念ですが、平成21~22(2009~10)年の日本政治は、ほとんどこれに近かったかもしれません。
     ポスト小泉期の信用失墜とリーマンショックの直撃もあり、自民党の麻生太郎政権の支持率は2009年8月時にわずか22%(『東京新聞』)。同月の衆院選を経て9月に発足した民主党首班の鳩山由紀夫内閣(社民党・国民新党との連立)は、自民党寄りの講読者の多い『読売新聞』の調査ですら、当初75%の圧倒的支持率を記録します。これが翌10年5月には19%まで急降下するものの、しかし首相を菅直人に交代するや64%に回復。ところが菅氏の唐突な消費増税発言を受け、7月の参院選で民主党は大敗。とはいえ9月に同党の代表選で菅が小沢一郎を破ると、世論は好感して再び支持率が66%に戻り、しかしその後の政局で、11月にはリベラル派の『朝日新聞』の調査でも27%に再降下──[1]。短命政権の多さで知られる平成の政治史でも、ここまで極端な民意のぶれ方は空前のものでした。
     なぜ、発足時には国民に歓迎された二度目の──小選挙区制による「直接対決」を経て生まれた点では最初の、非自民政権はかくも不安定だったのか。平成冒頭からの歩みをふり返ってきたいま、ひとことでその理由をまとめるなら、この2009年の政権交代が何重もの意味で「遅すぎた」からだと言うほかはありません。
     「反自民」だけが共通点の寄せ集めと揶揄された民主党ですが、しかし鳩山由紀夫・菅直人・小沢一郎らはいずれも1993年に細川非自民連立を作ったメンバーで、実際にこの連立を「第一次民主党政権」とする見方もあります(2009年の相違点は、公明党が自民側へと抜けていたこと)[2]。当時、小沢氏がビジョンとして掲げた『日本改造計画』は、北岡伸一や竹中平蔵など後に自民党政権を支えるブレーンも動員して作られており(第3回)、その点で「非自民」の側に政権のボールが返ってきたとしても、ある程度の安定性を持った政策の遂行は可能なはずでした。
     最初のつまずきは、麻生政権の意外な不人気と経済危機で衆院解散が引き延ばされていた2009年3月、民主党代表だった小沢一郎の資金管理団体「陸山会」に検察のメスが入ったことでした。建設会社から裏金を受領したとするのが主な嫌疑で、仮に事実としても小沢本人の責任をどこまで問えるかなど、疑問点の多い事件ですが、同月の世論調査でも66.6%が「代表を辞めるべき」と答える厳しい声が相次ぎ(共同通信調べ)[3]、秋の政権交代時には同党代表=首相は鳩山由紀夫に替わっていたのです。総選挙の遅れによるこのボタンの掛け違いは、やがてハレーションのように民主党政権の不安定要因となっていきます。
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  • 【対談】與那覇潤×宇野常寛 「鬱の時代」の終わりに――個を超えた知性を考える(後編)(PLANETSアーカイブス)

    2020-03-27 07:00  
    550pt


    今朝のPLANETSアーカイブスは、前回に引き続き『知性は死なない――平成の鬱をこえて』を上梓した、歴史学者の與那覇潤さんと宇野常寛の対談の後編をお届けします。平成初期の「啓蒙の時代」、2000年代初頭の「インターネットの理想」が頓挫した後に、ソーシャルメディアによる「言葉のインスタ化」の時代が始まります。平成の30年間を総括しながら、次世代を担うであろう知性の萌芽について語り合いました。
    ※この記事は2018年5月1日に配信した記事の再配信です。
    この記事の前編はこちら

    書籍情報
    『知性は死なない――平成の鬱をこえて』 平成とはなんだったのか!? 崩れていった大学、知識人、リベラル…。次の時代に、再生するためのヒントを探して―いま「知」に関心をもつ人へ、必読の一冊!
    「95年の思想」と「啓蒙の時代」
    與那覇 2014年から長期連載になる予定だった、宇野さんと一緒にベストセラーを読み解きながら平成史を語る企画を、自分の病気でだめにしてしまって本当に申し訳なかったと思っているのですが…。そこで考えたかったことのひとつが、「平成の啓蒙主義」はいかに挫折したか、ということだったんです。 たとえば1994年に、東京大学出版会から東大駒場の名物教授たちのオムニバスという形で出された『知の技法』が、数十万部売れるということがありました。「象牙の塔から開かれた濃密さへ」みたいなコピーだったと思うけど、昭和の頃はエリート限定で閉ざされていた知性が平成にはオープンになり、国民全体の知的な底上げが起きる、いや起こすんだといったムードがあったと思うんです。東大教授がベストセラーを出すどころか、ジャーナリストの立花隆さんが「知の巨人」と言われて、「いまの東大生は教養がない。もっと上を目指せ」みたいに煽って、ますます人気が出るといった現象も起きました。 宇野さんの『ゼロ年代の想像力』では、「95年の思想」とその破綻が論じられていましたよね。95年に発生したオウム真理教事件に集約される問題と格闘して、処方箋を模索するすごく真摯な試みが宮台真司・小林よしのり・庵野秀明の各氏によってなされたけど、それらは発表されると同時に行き詰まってしまってもいたと。にもかかわらず、なのか、まさにそれゆえに、なのかはわからないのですが、ぼくはその後の1996年から2001年くらいまでが、いわば「啓蒙2.0」――そういう表記はこの頃まだなかったですが――の時代だったと思うんです。 右派であれば「新しい歴史教科書をつくる会」が96年末に記者会見をして(翌年初頭に発足)、小林さんがその主張を漫画で描きまくった。賛否は別にして、少なくとも戦前世代の軍国老人どうしでなれあうんじゃなくて、若い人たちを「啓蒙」して国民的な主体にするんだという意識があったわけです。左派的な側でも、やはり96年の丸山眞男の死を一つの契機として、姜尚中さんや高橋哲哉さんによって、「戦後啓蒙」の死角になっていたところに光を当てていこうと。たとえば旧植民地の視点をもっと取り入れて、連帯して、よりバージョンアップした市民社会を下から築いていこうという試みがなされました。 いわばここまでは、戦後民主主義と同様に「啓蒙」は続けようと。ただし、戦後日本が見落としたものを拾う方向で、という空気が言論の世界で広く共有され、育成されるべきは「国民」か「市民」かをめぐって、識者が争った時代だったと思うんです。しかしそれが2000年代前半に、左右ともガタガタッとコケていき、啓蒙へのエネルギーがむしろ「自己啓発」に向かうようになる。2007年から一世を風靡しはじめた勝間和代さん的な、国民でも市民でもなく「自分」が賢くなって、もっと稼ぎましょう、という潮流に傾いていった。
    宇野 「95年の思想」と「啓蒙の時代」はシームレスに繋がっていると言えます。「95年の思想」には、80年代的な「ネタ」の時代からの90年代前半のバックラッシュとしての「ベタ」への転換が背景にあった。中身のないこと、意味のないことに意味があるというモードの80年代に対して、90年代になると文学者たちが湾岸戦争反対の署名運動をやり、『それが大事』や『愛は勝つ』がミリオンセラーになるベタソングブームがあった。この「ベタ回帰」に対して、ためらいや試行錯誤を受け入れて、あえて迷い続けることを選ぶ態度。「80年代の相対主義には戻れないが、かといってベタ回帰に陥るのも避けたい」というある種の良心が「95年の思想」には込められていたわけです。しかし、それはニーチェ主義的な超人思想でもあったわけです。小林よしのりさんの変節が体現するように、人間はその状況には耐えられず、やがて「人は物語なしでは生きられない」という開き直りの方が強くなっていく。平成初期の時点では、まだ啓蒙という理念が生きていて、それが右では「新しい教科書をつくる会」、左ではカルチュラル・スタディーズやポリティカル・コレクトネスの動向として現れていた。どちらもイデオロギー回帰的な運動体ですが、與那覇さんのお考えでは当時のこれらの運動にはまだ動員のロジックに負けない啓蒙主義の強さがあった、というわけですね。
    與那覇 もちろん動員は動員なのだけど、「最初から味方」な人たちを動かせばそれでいいんだ、というのではなく、ニュートラルな人たちに訴えかけて、新しく味方を作っていくことを真剣に考えてはいた。それが啓蒙ということではないでしょうか。政治的にも1996年にオリジナルの民主党が結成されたときは、「自民党・対・小沢一郎」みたいな、どっちもプロどうしの札束合戦、既存の組織票の積みあいはもう嫌だと。健全なアマチュアリズムをめざそうじゃないかという、時代の空気をつかんだ面はあったと思う。 木村幹さんの『日韓歴史認識問題とは何か』での「つくる会」評に感嘆したのは、そこを描かれているところでした。直前までむしろリベラルだった小林さん、もとは共産党系の教育学者だった藤岡信勝さんが前面に出て、アマチュアに訴えかける手法を持ち込んで展開した点が、それまでの保守系の運動とは違っていた。いまの若い方は知らないと思うけど、『教科書が教えない歴史』みたいなタイトルって、昭和時代にはむしろ左翼的な人たちが、「自国に都合の悪いエピソードを隠す、文部省の教科書検定に抗おう」というニュアンスで使ったものだったんですよ。ぼくなんかそういう本だと思って立ち読みして、全然正反対で驚いた記憶がある。 しかし、初代会長を務めた西尾幹二さんが『保守の怒り』という本で怒っていましたが、2000年代の前半を通じて運動がいわゆる日本会議系統の「昔ながらの保守」の人たちに主導権をとられていき、西尾さんも2006年に手を引くことになる。その後は要するに、自民党の地方議員を動かして、国会議員をつき上げましょう、経済系の親睦団体をつうじて、地場産業の保守オヤジで結束しましょうといった「ありがちな昭和の風景」に戻っていった。 「家のPCでインターネットにつなぐ」のが、富裕層や先進的な趣味人に限定されない普通の生活スタイルになっていったのが、孫正義さんの参入でブロードバンド(ADSL)が普及した2001年ごろからかと思うのですが、そこにも当初は、いい意味でのアマチュアリズムの残り香があったと思います。同年にローレンス・レッシグの『CODE インターネットの合法・違法・プライバシー』を山形浩生さんが訳して、その解釈をめぐって池田信夫さんと論争したりもしましたが、どちらも「ネット発の論客」という新しさがあった。もちろん、それぞれ翻訳家・経済学者としての業績はお持ちでしたけど、それまで多かった「すでにテレビや本で有名な人が、ファンサービスでホームページも開きました」というのとは違っていた。 かつ、この頃はまだ、そうしたインターネットの新しさが、のちに「ネットde真実」と揶揄されるような、書籍中心の知識人に対するいわゆる反知性主義的な攻撃という形をとってはいなかったんですよね。書物的な教養には敬意を払った上で、相互に補完していこうというスタンスだった。2000年にベストセラーになったジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』の日本語版で、Further Readings (参考文献リスト)が削除されていたことに怒って、山形さんたち有志が復刻版を公開したりとかもありましたよね。
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  • 與那覇潤 平成史──ぼくらの昨日の世界 第10回 消えゆく中道:2007-08(後編)

    2020-03-25 07:00  
    550pt

    今朝のメルマガは、與那覇潤さんの「平成史──ぼくらの昨日の世界」の第10回の後編をお届けします。ソーシャルメディアが普及し、インターネットに新しい可能性が期待されていた一方、リーマンショックが世界経済を直撃。政治や社会の様々な領域で歴史的な文脈が失われていってしまいます。
    セカイから遠く離れて
     いよいよ世の中が本格的に壊れてきたなぁ──。2007年7月、ちょうど安倍退陣をもたらす参院選のころに博士号をとり、10月から准教授として地方の公立大学に赴任した私は、ずっとそんな風にひとりうめいていました。
    『論座』の同年1月号に載って話題を席巻したのは、当時フリーターだった赤木智弘さん(1975年生)の「『丸山眞男』をひっぱたきたい。 31歳フリーター。希望は、戦争」。特集「現代の貧困」の一環をなすもので、掲載号では表紙にタイトルの入らない地味な扱いでしたが、あまりの反響の大きさに4月号には福島瑞穂(社民党首)、若松孝二・森達也(映画監督)、佐高信(評論家)など錚々たる左派論客による反論が掲載。赤木氏が6月号で応答した際には「続『丸山眞男』をひっぱたきたい」と堂々表紙に刷られたあたりに、同時代の空気が反映されています。さらに翌2008年6月には、元派遣工の青年(1982年生)が通り魔で7名を殺害、10名を負傷させる秋葉原事件が発生。これがなんと「格差社会に対する怒りの叫び」として奇妙な共感を呼び、岩波書店は3か月後、大澤真幸氏を編者とする論集まで緊急出版するほどでした[20]。
     ここから見ていくように、これらの出来事にはそれぞれ、論ずるべき意味や価値があるものです。しかし歴史学という専攻も災いしてか、博士号をとり常勤の研究職となってもなにひとつ社会的に発言する機会が訪れず、教室では「高校までの日本史と違うから、あの先生はオカシイ」と嗤われていた当時の私(1979年生)にとって、レトリックで戦争待望を叫んだり、じっさいに人を殺したりする営為の方が「メッセージ」として機能するメディアの状況は、異様そのものに映っていました。私がいま、リベラル派の諸氏の反知性主義批判に冷淡なのは、彼らがこのとき示した、格差社会を叩くためなら「反知性主義でもなんでもありだ」とする態度をずっと覚えているからです。
     赤木さんの論旨はシンプルです。新卒採用と長期の正規雇用を中軸に置く日本的雇用の体系のもとでは、大学を卒業した時期が「好況か、不況か」でその後の人生が決まってしまう。彼のような就職氷河期世代──文中の表現では「ポストバブル世代」──は最初から、非正規の道しか選べないハンデを負わされていたのに、目下の論壇で展開される「格差社会論」はそうした世代の差を無視して、「リストラで失業した人はかわいそうだが、ずっとフリーターなのは自助努力の不足だ」といった扱いさえしてくる。本稿でも先に触れた佐藤俊樹『不平等社会日本』なども引用され、中途までの論の運びはむしろ理性的です。
     もっとも反響を呼んだ最大の理由は、苅部直『丸山眞男 リベラリストの肖像』(2006年)で知ったという、戦時下で徴兵された丸山が農村出身の兵卒に殴打された挿話に「中学にも進んでいない一等兵にとっては、東大のエリートをイジメることができる機会など、戦争が起こらない限りはありえなかった」[21]とコメントし、世代間の不平等が放置される現状が続くなら、自分はむしろ新たな戦争を望むとする結論でしょう。丸山眞男といえば「戦後知識人の頂点であり、絶対善」だとする感覚がある程度通用した、最後のタイミングで偶像破壊を──それもリベラルな朝日新聞系の媒体で──行ったことが[22]、衝撃を与えたわけです。しかし今日再訪したとき引用に残るのは、むしろ左派論客からの批判に応答した続編の末尾にある、以下の一節です。
    「戦争は、それ自体が不幸を生み出すものの、硬直化した社会を再び円滑に流動させるための『必要悪』ではないのか。……成功した人や、生活の安定を望む人は、社会が硬直化することを望んでいる。そうした勢力に対抗し、流動性を必須のものとして人類全体で支えていくような社会づくりは本当に可能だろうか?」[23]
     もういちど戦争を始めて丸山を殴ってやりたいという「反・戦後」的な煽りとは異なり、ここで表明されているのは、①「戦争か平和か」は実際には疑似的な命題にすぎず、本当の対立軸は②「硬直化か流動性か」にあるのだとする価値観でしょう。同じことを裏からいうと、社会の硬直性を解きほぐすことさえ可能なら、もちろん平和なままでいいし、逆に戦争のようなカタストロフへの待望が生まれる理由は、いまの日本が硬直化しきって身動きできないからだというわけです。翌2008年は宇野常寛さん(1978年生)が『ゼロ年代の想像力』、濱野智史さん(80年生)が『アーキテクチャの生態系』でそれぞれデビューした年ですが、これらはともに期せずして、上記した赤木さんの「真意」のほうを引きとって発展させる内容を持っていました。
     前者は2000年代初頭にマンガやアニメを席巻したセカイ系──「凡庸な主人公に無条件でイノセントな愛情を捧げる少女(たいてい世界の運命を背負っている)がいて、彼女は世界の存在と引き換えに主人公への愛を貫く」[24]タイプの、自己承認を引き立たせるために世界像の崩落を描く諸作品を内向きのナルシシズムだと批判し、別個の想像力を対置する評論。後者は、すでに触れた2004年のFacebookから07年のiPhone(ともに日本版は08年から)にいたるソーシャルメディアの台頭を総括しつつ(第8回)、日本独自のIT環境がもたらした新しい「人とのつながり」の形を探る研究です。言い換えれば、宇野さんの本は「もう①の問題系に引きずられるのはやめよう」と主張し、濱野さんの方は「②の命題をテクノロジーで解決しよう」と呼びかけている。
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  • 與那覇潤 平成史──ぼくらの昨日の世界 第10回 消えゆく中道:2007-08(前編)

    2020-03-24 07:00  
    550pt

    今朝のメルマガは、與那覇潤さんの「平成史──ぼくらの昨日の世界」の第10回の前編をお届けします。自民党から民主党への政権交代への期待が高まっていた2007年〜2008年。小泉ブームの中で後継指名を受け、順風満帆に船出したはずの第一次安倍内閣が失速します。その後継であった福田康夫内閣では民主党に「大連立」を持ち掛けますが、その大連立構想も挫折。その背景には、二大政党化にともなう「中間派の消滅」という大きな課題が横たわっていました。
    現在の鏡のように
    平成19~20(2007~08)年ほど、いま私にとって懐かしく、また多くの人には「理解しがたい」時代も珍しいに違いありません。平成の最末期からの安倍長期政権下、「安倍さんを好きでもないけど、野党がダメすぎるから支持せざるを得ない」有権者は少なくありませんね。2007年夏から09年秋までの2年間は、ちょうど鏡像のように正反対の「野党(民主党)を信じるわけではないが、自民党がオワコンなので期待するしかない」とする気分が、国民のあいだに満ちていました。
     すべては、安倍晋三という宰相の「子供っぽさ」が招いたつけでした。前任の小泉政権の五年半にスキャンダルで去った大臣は2名のみでしたが、第一次安倍内閣(2006年9月~翌年同月)では約1年で5名が交代(うち1名は改造後)。それも現職閣僚として史上二人目の自殺となった松岡利勝農相、「原爆投下はしょうがなかった」の失言で引責した久間章生防衛相など[1]、あぜんとさせる体たらくは学級崩壊にたとえられたほどでした。直後に行われた07年7月の参院選で、自民党は30議席減の大敗を喫し、公明党と足してもなお過半数を割る「ねじれ国会」に追い込まれます。おまけに安倍氏が当初続投を表明し、内閣改造の後に「官房長官(与謝野馨)すら会見で初めて知る」前代未聞の投げ出し辞任を行ったことで[2]、政権政党としての信頼は地に堕ちました。
     なにがまちがっていたのか。小泉自身の後継指名もうけて順風満帆に船出したはずの安倍政権を躓かせたのは、直接には争点形成の失敗でした。憲法改正につながる国民投票法の制定や、戦後初めての教育基本法の改正は、コアな保守層にはアピールしても国民全体の関心とはずれていた。くわえて親しい保守系議員の多かった「郵政造反組」の大部分を自民党に復党させたことで、民営化を応援してきた小泉改革の支持層が離反。「小泉はかつて革新と呼ばれていたような『野党的』な層を多く惹きつけていたが、これらの人々は安倍政権の方針や政策とは相容れなかった」[3]というのが、鋭い同時代のデータ分析で知られる菅原琢さん(政治学)の総括です。
     しかしその小泉氏の郵政民営化への執念も、合理的な政策というよりは多分に私怨だとみられる以上(第7回)、安倍さんについてだけ「幼さ」を嗤うのはフェアではないでしょう。小泉・安倍の両氏が属した自民党の派閥である清和会(現・細田派)の前身は、佐藤栄作の後継となることを期して、福田赳夫が1970年に旗揚げした紀尾井会。しかし72年の総裁選で田中角栄に敗れ、角福戦争と呼ばれた熾烈な抗争に突入するのですが、平成前半の1995年に福田が著した回顧録を読むと、その独自の思想は派閥の後継者にも影響していることに気づきます。
    「東京中のあちこちがオリンピック施設や道路建設のため取り壊され……代わりに補償金がころがりこんだ『にわか成金』たちが、そこら中に誕生した。セックス映画が氾濫し、朝から晩まで『お座敷小唄』など浮かれ調子の流行歌が流れている。どこもかしこも物と金の風潮に覆われて、『謙譲の美徳』や『勿体ない』という倹約の心掛けといった古来からの日本人の心が失われかけていた。」[4]
     福田は主計局長まで勤めた大蔵省の大物OBですが、こうした描写に見られるのは「よき戦後」のシンボルとされる高度経済成長の否定(!)です。省の先輩にあたる当時の池田勇人首相を、「池田氏の消費美徳論は、私に言わせればまさに暴論」・「池田さんの『物と金優先』の考え方は、私には到底受け入れ難いもの」と酷評している点からみても、単なるレトリック上の詠嘆ではありません。安倍さんは最初の首相への就任直前、流行中だった『ALWAYS 三丁目の夕日』を「東京タワーが戦後復興と物質的豊かさの象徴だとすれば、まぼろしの指輪はお金で買えない価値の象徴である」[5]と、中学生の感想文のように評論してインテリの嘲笑を浴びますが、実はそれは戦後史の裏面で脈々と流れてきた情念だったのです。
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  • 【対談】與那覇潤×宇野常寛「鬱の時代」の終わりに――個を超えた知性を考える(前編)(PLANETSアーカイブス)

    2020-03-13 07:00  
    550pt


    今朝のPLANETSアーカイブスは『知性は死なない――平成の鬱をこえて』を上梓した、歴史学者の與那覇潤さんと宇野常寛の対談の前編をお届けします。「中国化」がもたらす科挙的な能力主義、あるいは平成という「鬱(うつ)の時代」を乗り越えるための知性とは……? 與那覇さんが闘病の中で見出した「新しい知性」のあり方について議論しました。
    ※この記事は2018年4月24日に配信した記事の再配信です。

    書籍情報
    『知性は死なない――平成の鬱をこえて』 平成とはなんだったのか!? 崩れていった大学、知識人、リベラル…。次の時代に、再生するためのヒントを探して―いま「知」に関心をもつ人へ、必読の一冊!
    『中国化する日本』の世界観を乗り越える
    宇野 與那覇さんの新刊『知性は死なない――平成の鬱をこえて』(文藝春秋、4月6日刊)を読ませていただきました。素晴らしい内容で、非常に勉強になりました。いくつも話したい点はありますが、まずは、この本を書くことになったきっかけやコンセプトについてお伺いしたいと思います。
    與那覇 もちろん直接的なきっかけは、躁うつ病(双極性障害)にともなう激しいうつ状態の体験ですが、病気とはまったく別に、「いつかは同時代史を書きたい」という気持ちは歴史研究の過程で強く持っていたんです。「自分たちが生きてきた、平成とはどんな時代だったのか?」という問題意識ですね。 元々そう思っていたところに、病気と休職・離職を経験したことで、「大学教員などの知識人が、自身の知見を広く社会に還元することで、人々を啓蒙し、日本をよりよい国にしていく」といった理想が、自分もふくめてことごとく失敗していった時代として、平成を総括しようと考えるようになりました。どこでつまずいたのか、それを分析して、反省すべき点を次の時代につながなくてはいけない。そうすることが、大学はやめても、「知性」に対して自分ができる最後のご奉公だろうと。
    宇野 躁うつ病という個人的な体験を掘り下げることが、結果的に平成という「鬱の時代」を論じることに繋がっている。そこに非常に説得力を感じました。 この本には、與那覇さんがうつ状態で仕事を辞めざるをえなくなり、闘病生活を送った記録、病気によって自分自身の世界観そのものが打ち砕かれていった過程が記されています。うつは複合的な症状をもたらしますが、そのひとつは知的能力が大きく低下してしまうことで、この体験を結節点として究極の近代主義としてのネオリベラリズムに対する、そして同時に『中国化する日本』で與那覇さんが提示したネオリベラリズムの進化系というか、その本質の露呈としての「中国化」を乗り越えるための思考が展開されるわけですね。それは具体的には人間の能力は個人の内側にあるのではなく、共同体や個人の関係性の中で発動するものだという能力観の転換として提示されるわけです。 『中国化する日本』では、歴史的にグローバルな「中国化」とローカルな「江戸化」の間で揺れ動いてきた日本が、今、否応なしに「中国化」への対応を迫られていることが指摘されています。この傾向は著者としては決して望ましくはないが、その状況に対応するしかないことを半ば宣言しているという、非常に挑発的な本でした。 『中国化する日本』をいま僕なりに読み返すと、中国的な血族主義はネオリベラリズムに対して有効なセーフティネットになるのだけれど日本的なムラ社会、ご近所コミュニティや昭和の大企業共同体はなすすべもなく解体されてしまったし、一時期日本でも流行っていたグラノヴェッターのいう「弱いつながり」がそれを代替するには、まだまだ環境が整っていない。さあ、どうするんだという挑発で終わっているのだけど、対してこの『知性は死なない』では「中国化」と「江戸化」のどちらでもない「第3の道」が見出されているわけですね。
    與那覇 ありがとうございます。同書も色々な誤読をされた本ですが、『知性は死なない』に一番つながる観点で振り返るなら、「中国化」とは人類最初の本格的メリトクラシー(能力主義)、つまり宋以来の伝統である「科挙」の価値観が全面化した社会のことですね。 自分も病気で、一時は日常会話にも不自由するようになって身にしみたけど、公正な社会の条件でもある能力主義は、「能力が低い」人にとっては地獄そのものなわけです。だから、それ「だけ」では社会を維持できないので、必ずバッファー(緩衝材)がいる。  緩和策として伝統中国で採用されたのが、宗族(父系血縁集団)という親族体系で、要は「能力がないやつは、能力のある親戚にタカって暮らせ」という発想ですね。しかしこれが、今日の共産党にいたるまで、政治腐敗の温床になった。宗族ってものすごい人数の血縁集団で、そこからたった一人の秀才に投資して官僚になってもらい、残りの凡人全員がぶらさがって暮らすということだから、いくら不正蓄財しても足りなくなってしまう。  逆に日本の江戸時代は、身分制度が残った点では中国より「遅れて」いたわけですが、能力主義が徹底しない分、いまでいう核家族に近い小規模の家族経営で、親の仕事を見よう見まねで続けていけば、そこそこ食べられる仕組みだった。皮肉にもこれが相対的には、近代化に向いていたんです。数人の家族を食わせるだけでいい分、官吏がそこまで汚職をしなくてすんだというのが、京極純一さんの『日本の政治』での分析でした。 『中国化する日本』を「中国システムを礼賛し、ヨイショする本だ」と誤解する人が多かったので、当時講演を頼まれたりしたときは、この京極説を紹介して中和したりしてたんですよ。必ず聴衆がどっと笑って、「なんだ。やっぱり中国は二流、日本が一流じゃん。安心した」みたいな空気になる。でも、その後ぼくが病気で寝ているあいだに、もうそんなことを言っていられない情勢になったようで…。
    宇野 『中国化する日本』が刊行された2011年は、中国はグレート・ファイアウォールに囲まれ、グローバルスタンダードから外れた特殊な国という理解をされていたと思うんです。あれから5年以上経った今、たぶん僕たちが生きている間はずっと世界経済の中心は中国であり続ける可能性が高い。20世紀後半がアメリカを中心とした「西側諸国」と「それ以外」に(安易な見方をすれば)区分できる時代だったとするのなら、これからは「中国」と「それ以外」の時代になるわけです。政治的には欧米型リベラル、経済的には資本主義の組み合わせでやっているアメリカやEU、そして日本は中国という新しいスタンダードから外れた「周辺」になることも十分考えられるわけです。良くも悪くも。そして今でこそ経済誌などを中心にこうした中国観は珍しくないのだけど、與那覇さんは当時からグローバル化とは、実は「中国化」であると指摘していたわけですね。
    與那覇 同書を出した頃は、ネットには叩く人も相当いましたね。「こいつは『最新の学問の成果』を詐称して、中国が先進国だなどとトンデモを広めている!」みたいな感じで。たしかに当時、たとえばサムスンの韓国製スマホやタブレットは日本でも広まっていたけど、ファーウェイなんかは無名でしたよね。  でも病気から起き上がってみたら、IT企業で日本は中国に完敗、コンテンツ産業もそのうち抜かれそう、権力者を恐れて官僚が公文書を偽造だなんて「もう中国並みだ」みたいな記事がネットに溢れていて…。もし同書をいま出していたら、「学問、学問って偉そうなくせに、内容が平凡すぎる」と逆から叩かれそうですね(笑)。
    宇野 テンセントやアリババも、今のような巨大な存在感を示していませんでしたからね。
    與那覇 今回、自分なりの平成史をまとめてみて再認識したのですが、いちおうは歴史研究者をしていたこともあって、やっぱり発想が後ろ向きなんですよね。あの本にしても、「中国はどんどん伸びる!将来は世界を支配するぞ!」みたいなことには、あまり関心がない。  ぼくはむしろ、そうして「中国的になってゆく世界」に合わせなきゃ競争に負けるぞ!、というかけ声の下で、どんどん日本社会が機能不全に陥ってゆく、そのなかで失われてゆくものの方を見ていたんだなと思います。ただし保守派の人たちと違うのは、それを「古きよき日本が外圧で奪われた」とは捉えずに、むしろ中途半端に日本の「悪いところ」が残り続け、それが中国的な競争社会のダークサイドと癒合して、奇っ怪な病理的症状を呈していると考えた。「ブロン効果」【※注】という言葉で指摘したものですね。
    ※注 ブロン効果:星新一の短編『リオン』に由来する概念。メロンとブドウをかけ合わせ、巨大な実がたくさんなる新品種を作ろうとしたら、ブドウのような小さな実がメロンのように少数できる品種になってしまった。このエピソードから、両者の「良いとこ取り」を狙ったにも関わらず、結果的に「悪いとこ取り」になってしまう現象のことを指す。
    宇野 そしてこの本では、「中国化」と「江戸化」の対立の中で、「中国化」を批判的に受容しながら上手く舵取りをしていくべきだった大学が、言葉の最悪の意味で「江戸化」していった。個人の研究では相応の実績を残しながら、組織としては日本的なムラ社会以上の機能を果たしてない今の大学の状況が、克明に描写されていたと思います。
    與那覇 認めるのはつらいことですが、まさにそうです。あの頃、宇野さんとはテレビの討論番組とかの「若手論壇」的な場でずいぶんご一緒したけど、だいたい、似たような話になったじゃないですか。日本の戦後社会を支えてきた、典型的には終身雇用企業的な「中間集団」は、これからも要るのか、むしろ崩してしまうべきなのか、みたいな。  「もう崩しちゃえよ」って言ったほうが一貫するのはよくわかっていたけど、そういう場で自分がなかなかそう言えなかったのは、やっぱり所属していた大学というものへの信頼というか忠誠心と、期待があったんです。知性によって選抜された人たちが、議論に基づいて運営してゆく大学というものが、いまの日本で一番、いわば「理想の中間集団」みたいなものに近いところにいるのではないかと。そんなの、お前が当時は准教授をしてたことから来るだけのナルシシズムだろ、と言われたら、それまでかもしれませんが…。  そういう虚妄に賭けて、みじめに失敗したことはよくわかっているのだけど、でもそこで見聞きした実態をぶちまけるだけでは、ただの露悪的なゴシップになってしまう。どうしたら、そうではなく自分の体験を普遍性のある考察につなげられるかと考えたときに、見えてきたのが「能力」の概念、能力主義の意味を根底から組み替える再考察、という一本の筋だったんですね。
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  • 與那覇潤 平成史──ぼくらの昨日の世界 第9回 保守という気分:2005-06(後編)

    2020-02-19 07:00  
    550pt

    今朝のメルマガは、與那覇潤さんの「平成史──ぼくらの昨日の世界」の第9回の後編をお届けします。ゼロ年代の中盤に進行した「昭和回帰」は、虚構みならず思想の世界にまで蔓延します。新たなテクノロジーとベタなノスタルジーの結合が着々と進行する中、飛ぶ鳥を落とす勢いだった堀江貴文氏の逮捕、いわゆる「ライブドア事件」が発生します。
    ノスタルジアの外部
    「いまの世界の支配者は押しつけがましい西欧育ちの資本主義経済で、この支配者は自分の原理にしたがわないアジール〔避難所〕を、どんどんつぶしてきた。それに対抗できる原理が、天皇制にはあるかもしれないのである。  もしも天皇制がグローバリズムに対抗するアジールとして、自分の存在をはっきりと意識するとき、この国は変われるかもしれない。そのとき天皇は、この列島に生きる人間の抱いている、グローバリズムにたいする否定の気持ちを表現する、真実の「国民の象徴」となるのではないだろうか」[18]
     主張の中身はこのころの宮台真司氏とほぼ同じですが、文体の柔らかさからわかるように、著者は宮台さんではありません。中沢新一さんが前年来の『週刊現代』での連載をまとめた『アースダイバー』(2005年)の結論部で、同作は好評を博しシリーズ化。浅田彰と並ぶポストモダンのスターだった中沢氏は、宗教学者としてオウム真理教を持ち上げた過去が事件後に批判され、しばらく不遇だったのですが、04年の『僕の叔父さん 網野善彦』(同年に死去した網野をめぐる回想記)、06年の『憲法九条を世界遺産に』(爆笑問題の太田光との対談)などヒットを連発し、バブル期に比肩する人気を取り戻しています。
     『アースダイバー』という表題は、アメリカ先住民の世界創造の神話からとられたもので、同書は縄文時代の海岸線を記した地図を片手に中沢さんが東京を歩き、民俗学・国文学的な知見も交えて「いまいる場所の意味」を探究してゆく紀行エッセイです。さすがに本人も、これを学問とは思っていないでしょう。驚くのは、2003年にトム・クルーズが渡辺謙(アカデミー賞候補となり、ハリウッドでの地位を確立)や小雪と共演して話題になった『ラスト・サムライ』について、「言われてみれば、サムライの生き方や死に方の理想は、たしかにインディアンの戦士の伝統として伝えられているものと、そっくり」だと素朴に受けとり、なぜなら東日本のサムライは縄文の狩猟文化の系譜をひくからだと解説するところ[19]。「あえて」ですらなく、完全にベタなのです。
     テロとの戦争にせよ、過酷な市場競争にせよ、とにかく眼前に展開する米国主導のグローバル化が耐えられない。そうではない居場所を提供してくれる原理なら、かつて「右翼的」と批判された天皇でも、「封建的」なサムライでも、「未開」と呼ばれてきたインディアンでもかまわない。そうした追いつめられた切迫感を秘めつつも前面には出さず、あくまで「こんな風に街を歩くと、日々の風景が豊かになりますよ」とほんわかしたタッチで進むのは中沢節の力でしょう。単行本の巻末には、中沢さんの手許にあったのと同じ「アースダイビング・マップ」も封入されて、読者が実際に追体験できるようになっていますが、こうした虚実ないまぜで「演出された過去」を楽しむノスタルジア・ツーリズムは、この時期いっせいに多分野で開花していました。
     ゼロ年代半ばの「昭和回帰」はちょっと驚くほどで、映画では50年代末の高度成長初期を描く『ALWAYS 三丁目の夕日』と、70年安保時の青春群像に託して在日問題をとりあげた『パッチギ!』がともに2005年。宇野常寛さんが批判的に触れていますが[20]、興味深いのは「同時代」を描いて成功した作家やモチーフすら、すぐこの傾向に吸い込まれることで、クドカンこと宮藤官九郎(脚本家)が落語に材をとった『タイガー&ドラゴン』で伝統志向に傾くのも05年。男子シンクロを描く映画『ウォーターボーイズ』(01年)が端緒になった、「冴えない若者どうしが奇矯なプロジェクトで自己実現を果たす」という語り口を、60年代に衰亡する炭鉱地帯を救った常磐ハワイアンセンター(福島県いわき市)の実話に応用した『フラガール』は06年です。その他、テレビドラマでは山崎豊子や松本清張など、昭和の社会派サスペンスのリバイバルがあり、出版界でも宮台・中沢より明白に「右」を志向する形で、武士道道徳の復権をうたう藤原正彦『国家の品格』(2006年)がベストセラーになりました。

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  • 與那覇潤 平成史──ぼくらの昨日の世界 第9回 保守という気分:2005-06(前編)

    2020-02-18 07:00  
    550pt

    今朝のメルマガは、與那覇潤さんの「平成史──ぼくらの昨日の世界」の第9回の前編をお届けします。郵政事業の民営化をめぐる、いわゆる郵政選挙の圧勝と、8月15日の靖国参拝を置き土産に、2006年、小泉純一郎は総理の座を安倍晋三へと禅譲します。それは、グローバルな新自由主義とノスタルジックな保守主義の、蜜月の時代の始まりでもありました。
    リベラルと改革の離婚
     時代の凪が明けた平成17~18(2005~06)年は、ポスト55年体制の政治文化が大きく転換した二年間でした。小泉純一郎政権の最末期を象徴するふたつの事件──2005年9月11日の衆院選(いわゆる郵政選挙)と06年8月15日の靖国神社参拝を経て、9月26日は後継の第一次安倍晋三内閣が発足します。
     なにがどう変貌したのか。平成初頭の非自民連立政権による小選挙区制の導入以来、長らく続いてきたリベラルと「改革」の幸せな結婚が、このとき破綻した。むしろ昭和がおわり自民党が下野した際には、だれも予想だにしなかった「保守」こそが、時代のキーワードとして抗いがたく浮上してくる。「リベラルの凋落と国民の保守回帰」は、しばしば2012年末からの第二次安倍政権について指摘されますが、その原点はあきらかに、ゼロ年代なかばのこの時期にあったのです。
     2004年から郵政民営化担当相を務めていた竹中平蔵さんは粘着質な人で、小泉退陣と同時に政界を退いたのちに公表した回想録(06年12月刊)では、入閣中にメディアから浴びた批判を抜粋して、逐一やり返しています。面白いのは、その方向性です。2003年に不良債権の強行処理にあたった際、竹中は過激すぎると批判したのは保守系の『読売新聞』で、逆に生ぬるいと正反対の方向から発破をかけたのが、市場重視の『日本経済新聞』とリベラル派の『毎日新聞』。同年9月には小泉再選をかけた自民党総裁選(反改革派の三名が挑戦するも敗北)がありましたが、このとき構造改革路線を断固応援したのは『朝日新聞』で、むしろ『読売新聞』は景気回復優先に転換せよと唱えていた[1]。
     平成の後半には、市場競争での「負け組」は経済効率を悪化させるから退場しろという冷たい発想は、保守派のマッチョイズムから来るものだ。そうした「新自由主義」を批判し、福祉の充実や弱者との共生を唱えるのがリベラルだとするコンセンサスが、政界や論壇で広く共有されるようになります。しかし、それは小泉政権の中途までは存在しなかった構図でした。じっさい、小泉政治の総決算となる郵政民営化に反対して自民党を(一時的に)追われた「造反組」の主流は、ナショナリストとして知られる亀井静香や平沼赳夫をはじめ、復党後に第二次安倍政権で重用される古屋圭司(国家公安委員長)や衛藤晟一(首相補佐官)など、同党でも折り紙つきの「保守派」たちでした。
     郵政解散とは、小泉首相の宿願だった郵政事業を民営化する法案が、自民党内から大量の造反(=議場での反対)を出しながらも衆議院では可決されたのち、参議院で否決。このとき小泉氏が「国民の考えを聞きたい」としてまさかの衆院解散に踏み切り、しかも造反者を公認せず、刺客と呼ばれた対立候補を送り込んだものです。いわば党から追放された造反組の一部は、このとき国民新党(綿貫民輔代表。代表代行に亀井静香)・新党日本(代表は長野県知事だった田中康夫)というミニ政党を結成しますが、これは1955年に始まる自民党史の大きなエポックでした。

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