• このエントリーをはてなブックマークに追加

今なら、継続入会で月額会員費が1ヶ月分無料!

記事 33件
  • ☆号外特集③☆ 宇野常寛 NewsX vol.2 ゲスト:福嶋亮大「“辺境”としての日本を考える」

    2018-12-28 20:00  

    新著『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』の刊行を記念し、文芸批評家・福嶋亮大さんの登場記事を3夜連続で特別再配信します! 第3夜は、宇野常寛 NewsX vol.2 出演時のゲストトーク。 現実社会との緊張のなかに「公共化した怒り」としての文学の再生を主張する福嶋さんの批判的思考は、新著での戦後サブカルチャーをめぐる読み解きにも一貫しています。 アメリカと中国の狭間で閉塞するばかりの日本の現状下、それでも〈文学〉と〈都市〉を再設定していくための道筋とは? (構成:藪和馬)
    NewsX vol.2「“辺境”としての日本を考える」2018年9月11日放送ゲスト:福嶋亮大(文芸評論家) アシスタント:加藤るみ(タレント) アーカイブ動画はこちら
    宇野常寛の担当する「NewsX」火曜日は毎週22:00より、dTVチャンネル、ひかりTVチャンネル+で生放送中です。アーカイブ動画は、「PLAN
  • ☆号外特集②☆【対談】福嶋亮大×張イクマン 〈都市〉はナショナリズムを超克しうるかーー「辺境の思想」から考える(後編)

    2018-12-27 20:00  

    新著『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』の刊行を記念し、文芸批評家・福嶋亮大さんの登場記事を3夜連続で特別再配信します! 第2夜は、張イクマンさんとの共著『辺境の思想 日本と香港から考える』をめぐる対談の後編。 新著で語られた20世紀映像史の原風景とも重なる〈東洋のアジール〉としての戦前の東京に言及しながら、近年顕著になりつつある昭和的な共同幻想への回帰願望、さらに、都市の「散歩」が持つ思想的な可能性について語り合います。(構成:佐藤賢二) ※前編はこちら
    書誌情報『辺境の思想 日本と香港から考える』(Amazon) 頼れる確かなものが失われた中心なき世界。自由と民主が揺らぐカオスな時代。未来への道は辺境にある―。日本と香港。2つの辺境で交わされた往復書簡の記録。
    福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』PLANETS公式オンラインストアなら、脚本家・上原正三さんとの対談
  • ☆号外特集①☆【対談】福嶋亮大×張イクマン 〈都市〉はナショナリズムを超克しうるかーー「辺境の思想」から考える(前編)

    2018-12-26 21:30  

    新著『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』の刊行を記念し、文芸批評家・福嶋亮大さんの登場記事を3夜連続で特別再配信します! 第1夜は、張イクマンさんとの共著『辺境の思想 日本と香港から考える』をめぐる対談の前編。 日本と香港は歴史上、西欧や中国の「辺境」にあり、それは文化的・経済的な強みでもありました。東日本大震災(2011年)と雨傘運動(2014年)以降の、「二つの辺境」の思想状況を考えます。 新著でもウルトラマンシリーズの成立において沖縄という〈辺境〉の思想が重要な役割を果たしたことが掘り下げられていますが、その問題意識とも通底するアクチュアルな対話です。 (構成:佐藤賢二)
    書誌情報『辺境の思想 日本と香港から考える』(Amazon) 頼れる確かなものが失われた中心なき世界。自由と民主が揺らぐカオスな時代。未来への道は辺境にある―。日本と香港。2つの辺境で交わされた往復書簡の記
  • 【序章を無料公開!】福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』発売中☆号外☆

    2018-12-25 20:00  

    12月17日に発売となった文芸批評家・福嶋亮大さんの最新刊『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』(PLANETS)。『ウルトラQ』から『80』までの昭和ウルトラマンシリーズを、戦後サブカルチャーの歴史や、映像文化史においてどのように位置づけることができるのか論じていただいた1冊です。今回は特別に、刊行を記念して序章を全文無料で配信します! 特撮ファンの方、映画ファンの方、そして作品を観たことがない方にも、ぜひ読んでいただきたいと思います。
    福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』 PLANETS公式オンラインストアなら、脚本家・上原正三さんとの対談冊子つき!(数量限定・なくなり次第終了)
    【特別対談】上原正三×福嶋亮大 『ウルトラマンの原風景をめぐって――沖縄・怪獣・戦後メディア』
    ☆お求めはこちらから☆
    序章 「巨匠」の後のテレビドラマ
    特撮と歴史をつなぐ
     一九六六年か
  • 『騎士団長殺し』――「論外」と評した『多崎つくる』から4年、コピペ小説家と化した村上春樹を批評する言葉は最早ない!(福嶋亮大×宇野常寛)(PLANETSアーカイブス)

    2018-12-17 07:00  
    540pt

    今朝のPLANETSアーカイブスは、福嶋亮大さんと宇野常寛による、村上春樹『騎士団長殺し』を巡る対談をお届けします。いまや自己模倣を繰り返すだけの作家となりさがった村上春樹の新作は、顔を失い、読者も見失い、批評すべき点の全くない小説でした。『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』を刊行した福嶋亮大さんと宇野常寛が、嘆息まじりに語ります。(構成:金手健市/初出:「サイゾー」2017年4月号) ※この記事は2017年4月27日に配信した記事の再配信です・前編はこちら
    【告知1】 福嶋亮大さんの新刊『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』が本日、発売になりました。PLANETSオンラインストア、Amazon、書店で販売中です。ぜひお買い求めください(書籍情報)。
    【告知2】 福嶋亮大さんが、12月19日(水)に開催されるオンラインサロン・PLANETS CLUBの第8回定例会で、ゲストとして登壇されます。イベントチケットはこちらで販売中。PLANETS CLUB会員以外のお客様も購入可能です。ご参加お待ちしております!
    ▲村上春樹『騎士団長殺し』
    福嶋 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(2013年/文藝春秋)が出たときにもここで対談をして、あのときは村上春樹の小説史上、これ以上のワーストはないと思っていた。今回の『騎士団長殺し』は、主人公が自分と同じ36歳ということもあって、最初は少し期待して読み始めたんですが、結論から言うと何も中身がない。あまりにも中身がなさすぎて、正直何も言うことがないです。村上春樹におけるワースト長編小説を更新してしまった。
     構成から具体的に言うと、前半に上田秋成や『ふしぎの国のアリス』、あるいはクリスタル・ナハトや南京虐殺といった伏線が張られているけれど、どれも後半に至って全く回収されない。文体的にも、ものすごく説明的で冗長になっている。村上春樹は、その初期においては文体のミニマリズム的実験をやっていた作家です。デビュー当初に彼が敵対していたような文体を、老境に至って自分が繰り返しているような感じがある。ひとことで言うと、小説が下手になっているんですよね。彼くらいのポジションの作家として、そんなことは普通あり得ない。
    宇野 まったく同感です。『1Q84 』(09~10年/新潮社)「BOOK3」以降、後退が激しすぎる。あの作品も伏線がぶん投げられていたり、後半にいくに連れてテーマが矮小化されていて、まぁひどいもんでした。村上春樹は95年以降、「デタッチメントからコミットメントへ」といって、現代における正しさみたいなものをもう一度考えてみようとしていたわけですよね。「BOOK3」も最初にそういうテーマは設定されているんだけど、結局、主人公の父親との和解と、「蜂蜜パイ」【1】とほぼ同じような、自分の子どもではないかもしれないがそれを受け入れる、つまり春樹なりに間接的に父になるひとつのモデルみたいなものを提示して終わる。村上春樹にとっては大事な問題なのかもしれないけど、物語の前半で掲げられているテーマ、つまり現代における「正しさ」へのコミットメントは完全にどこかにいってしまっているのはあんまりでしょう。ここからどう持ち直していくんだろう? と思っていたけど、『多崎つくる』も『騎士団長殺し』も、「BOOK3」の延長線上で相も変わらず熟年男性の自分探し。自分の文章をコピペしている状態に陥ってしまっていて、しかもコピーすればするほど劣化していて、目も当てられない。これでは最初から結論がわかっていることを、なぜ1000ページも書くんだろうという疑問だけが、読者には残されるだけです。
    福嶋 手法的には『ねじまき鳥クロニクル』(94~95年/新潮社)あたりからの自己模倣になっていて、その終着点が『騎士団長殺し』だったということなんでしょうね。村上春樹が抱えているひとつの問題は、読者層を想定できなくなっていることだと思う。つまり、今の彼の読者層は『AKIRA』の鉄雄のように際限なく膨張して、もはや顔がなくなっている。例えば宮﨑駿だったら、知り合いの女の子に向けて作るというような宛先を一応設定するわけだけど、村上春樹にはそれがない。結果として、大きなマスコミュニケーションの中に溶けてしまって、自分の顔がない小説になってしまっている。村上春樹は本来、消費社会の寵児と言われつつも、顔がない存在・顔がない社会に対して抵抗していたわけでしょう。それが、ついに自分自身がのっぺらぼうになってしまった。とても悲しいことだ、と思います。
    ■PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。
     
  • PLANETS公式オンラインストアにて『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』『PLANETS vol.10』の特典冊子付きキャンペーン実施中!【号外】

    2018-11-28 12:00  

    現在、PLANETS公式オンラインストアでは、特典冊子付きで、福嶋亮大さん最新刊『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』先行予約&『PLANETS vol.10』キャンペーンを実施中です!年末の読書のおともに、ぜひチェックしてみてください!PLANETS公式オンラインストアはこちら
    福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』対談特典付き先行予約受付中!(数量限定・なくなり次第終了)

    福嶋亮大さんの最新刊『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』の一般発売に先駆けて、PLANETS公式オンラインストアでご予約いただくと、先行発売として12月8日(土)前後にお届けします。特典として、脚本家・上原正三さんと福嶋さんの特別対談を収めた冊子が付属します。数量限定につき、在庫がなくなり次第終了しますので、ご予約はお早めに!※一般発売は12月17日(月)を予定しています。
    【特別対談】上原
  • 宇野常寛 NewsX vol.2 ゲスト:福嶋亮大「“辺境”としての日本を考える」【毎週金曜配信】

    2018-10-12 07:00  
    540pt

    宇野常寛が火曜日のキャスターを担当する番組「NewsX」(dTVチャンネル・ひかりTVチャンネル+にて放送中)の書き起こしをお届けします。9月11日に放送された第2回のテーマは「“辺境”としての日本を考える」。文芸評論家の福嶋亮大さんをゲストに迎えて、近代以降の西洋文明の〈辺境〉に位置するこの日本で、閉塞しつつある〈文学〉と〈都市〉をいかに再設定するかについて考えます。(構成:籔和馬)
    NewsX vol.2「“辺境”としての日本を考える」2018年9月11日放送ゲスト:福嶋亮大(文芸評論家) アシスタント:加藤るみ(タレント) アーカイブ動画はこちら
    宇野常寛の担当する「NewsX」火曜日は毎週22:00より、dTVチャンネル、ひかりTVチャンネル+で生放送中です。アーカイブ動画は、「PLANETSチャンネル」「PLANETS CLUB」でも視聴できます。ご入会方法についての詳細は、以下のページをご覧ください。 ・PLANETSチャンネル ・PLANETS CLUB
    〈辺境〉という視点から見えてくるもの
    加藤 火曜NewsX、本日のゲストは文芸批評家、福嶋亮太さんです。まず宇野さんから福嶋さんについて、簡単なご紹介をお願いできますか?
    宇野 10年ぐらい一緒に仕事をしている僕の親しい友人であり仕事仲間なんですが、立教大学の中国文学者なんですよ。ただ中国の研究だけじゃなくて、現代日本の文学に対する批評だったり、ポップカルチャーの批評だったり。いろんなジャンルに関して発言されている方ですね。
    加藤 今日のトークのテーマは「辺境としての日本を考える」ですが、これは?
    宇野 「辺境」というキーワードは、まさに福嶋さんからもらったものなんですが、今の日本は自意識過剰になっていると思うんですね。片方では愛国ポルノと言われているような「日本はこんなにすごいんだ」もしくは「すごかったんだ」、「日本人は他の民族に比べて優れているんだ」と。特に取り柄もなく、自分が日本人であること以外に誇るものがないような人が、そういう本やメッセージに癒されていると。もう片方では「日本は失われた30年によって二流国に転落してしまったんだ」と。これは事実なんだけど、とにかく日本は遅れているから、シリコンバレーや欧米を見習いなさいということで、ひたすら日本を自虐的に捉えることを一生懸命言う人も増えている。これはコインの裏表だと思っているんだよね。どっちも日本という国が世界中から見られ気にされているという前提で思考していると思う。でも、残念ながら、そんなことはもうないよ。政治的にも経済的にも、日本は存在感そのものがなくなっているわけね。みんな日本のことを中心だと思っているけれど、もう日本は世界の辺境であると僕は思うし。歴史的に見ても、ずっと辺境だったと思うんだよ。これは、まさに福嶋さんが最近の新著でおっしゃっていたことなんだけど、近代以前の中国文化圏は辺境なわけね。日本は東のはずれなんだよ。なんだかんだで漢字とか使っているしね。 近代以降は世界の中心はアメリカやヨーロッパであって、やっぱりアジアは辺境なんだよね。日本は辺境の中で近代化にたまたま成功しただけ。でも、辺境であることは別に悪いことじゃなくて、世界の片隅にあるからこそ見えるものはいっぱいあるし、できることもいっぱいあるわけだから、もう一回、辺境としての日本を考え直してみたいと思っていて。それで僕に「辺境」というキーワードを与えてくれた福嶋さんをお呼びしたわけです。
    今の〈文壇〉の閉塞的状況を考える
    加藤 このテーマを語るために三つのキーワードを用意しました。まず一つ目が「文学」。なぜ文学なんでしょうか?
    宇野 ちょうど半月ぐらい前に福嶋さんが「REALKYOTO」というウェブマガジンにセンセーショナルな文章を発表されたんですよ。それはまさに日本の文壇、つまり文学業界ですね。作家とか文芸評論家とか文学者の寄り合い所帯ですね。ひとつの村社会みたいなものがあるんだけど、そこの問題を告発した内容なんですよ。具体的には6月に発覚した早稲田大学のセクハラ問題。ある有名な評論家兼大学教授が女子大生にセクハラをするんだけど、それを大学ぐるみで揉み消そうとしたということが今大問題になっているわけなんですよね。もうひとつは芥川賞の候補作にもなった『美しい顔』という小説があって、あるノンフィクションからの丸パクりの箇所があるということで、これも大問題になった。この二つの問題は一見、週刊誌的なスキャンダルネタなんだけど。でも、実はそこのことを告発したいわけじゃなくて、そのことを話の枕にはしているんだけど、そうじゃなくて、なんでもかんでもコネクションというか、特定の人間関係で全部決定されてしまうような日本の今の文学業界が問題だと言っているわけ。早稲田大学の問題でいうと、なんでこんなことが可能になるのかというと、早稲田大学の文化構想学部の文芸・ジャーナリズム論系というある学科が、ある文壇のグループの植民地というか、そこに占領されちゃって私物化されているのね。だから、そこのボスみたいな教員さんがセクハラをしても、大学ぐるみでの揉み消しが可能になっちゃっているわけ。これ酷い話でしょ?
    加藤 酷いですね。
    宇野 『美しい顔』の問題というのも、村社会の中である作家、彼ないし彼女を次のスターにするということが決まっちゃうと、誰もその作品も批判しちゃいけない空気になるわけ。なので、結構アラの多い作品であることは、実はあちこちで言われていたんだけど、すごく大切に甘やかしてまって、このような問題が起きてしまっている。 福嶋さんはそういったスキャンダルを追求したいんじゃなくて、そういった日本の文学業界の閉鎖的な体質を告発しているんだと思うんですよね。そのことは文学という狭い業界だけの問題じゃなくて、今の日本全体を象徴してしまっているんじゃないかと思って、このテーマを選びました。
    福嶋 非常に的確にまとめていただいて、ありがとうございます。 まず文壇とは何かというところから整理していくと、文学とは何であり、社会的にどういう機能を帯びて、どういう役割を果たし得るかといった問いを、実作や翻訳や評論や座談会を介して議論していく、本来はそういう場なんですね。そもそも文学は一つの答えが出るわけではないので、複数の答えがあり得る。それを多事争論でワイワイガヤガヤやりながら鍛え上げていくこと。一言で言うと、そういう「大きなコミュニケーション」を保つための場が文壇です。そのコミュニケーションを外部の新聞の文芸時評がチェックし、一般読者にもわかるようなかたちで広げていくというのが、本来あるべき姿なんですよね。よくライトノベルと純文学のどこが違うんですか? という話があるんですが、それは質が違うというよりも、大きなコミュニケーションを担ってきたかどうかという、その歴史が違うわけです。純文学はそこを担ってきたことになっているからこそ、公益性があると見なされるわけです。 しかし、今起こっていることは、そういう豊かなコミュニケーションを育てるというよりは、宇野さんがおっしゃってくださったとおり、文壇そのものが一種のプロパガンダ装置みたいになっているわけですね。それまで文学が積み重ねてきた価値基準や評価基準があるはずなのに、それは最近では全部どこかにいってしまって、新人賞の選考委員や新聞時評の人たちも、ポッと出てきた新人の作品を熱烈な調子でただ褒めるだけ。これでは本来文学が担ってきたものを育てることはできない。ですから、結局ここにはエスタブリッシュメントの腐敗や堕落という問題があるわけです。これは今の日本社会で起こっている問題そのものです。大学であれ、文科省であれ、財務省であれ、本来は重大な社会的責任を果たすべきエスタブリッシュメントこそが根本的に腐敗していて、文壇もその一部になってしまっている。だから、そこにショックを与えるために僕はわざと強い調子で内部告発することにしたんです。
    ■PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。
     
  • 【対談】福嶋亮大×張イクマン 〈都市〉はナショナリズムを超克しうるかーー「辺境の思想」から考える(後編)

    2018-07-21 17:47  
    540pt

    6月1日に『辺境の思想 日本と香港から考える』を共著で上梓した、福嶋亮大さんと張イクマンさんの対談をお届けします。後編では、〈東洋のアジール〉としての戦前の東京に言及しながら、近年顕著になりつつある昭和的な共同幻想への回帰願望、さらに、都市の「散歩」が持つ思想的な可能性について語り合います。(構成:佐藤賢二) ※前編はこちら
    ※本記事は、配信時に編集部の手違いにより、一部不正確な記述がありましたことをお詫び申し上げます。【7月21日16:40訂正】
    書誌情報『辺境の思想 日本と香港から考える』(Amazon) 頼れる確かなものが失われた中心なき世界。自由と民主が揺らぐカオスな時代。未来への道は辺境にある―。日本と香港。2つの辺境で交わされた往復書簡の記録。
    「世界の誰もが知るアイコン」が示せない東京
    宇野 ラディカルなナショナリズムを唱え香港の独立を目指す本土派は問題外としても、張さんの支持してる自決派も、北京政府に対して香港という疑似国家をアイデンティティとした政治的要求という運動の形をとっている限り、結局その問題は出てくると思います。アメリカでも、シリコンバレーやニューヨークのビジネスマンはまさに都市民で、自分たちはグローバルな世界経済のプレイヤーだから、アメリカという国に所属してるという意識も相対的に希薄なわけですね。これに対してトランプを支持したラストベルトの自動車工たちは、ナショナリスティックな保護貿易を発動してくれないと自分たちの生活が脅かされると思い込んでいる。この階層による認識の差は大きいです。香港でも、どれだけ自決派がリベラルに振る舞おうと彼らの運動の方法が対国家、行政府に対しての政治的なアプローチである限り、アメリカで起きているのと同じような問題が発生していまうと僕は思うわけです。
    福嶋 トランプ自身はもともと不動産王で、80年代にはマンハッタンでテレヴィジョン・シティという開発プランを展開したりもしている。建築家のレム・コールハースが1970年代に『錯乱のニューヨーク』という都市論の奇書を書いて、古典的なアーバニズムを解体するマンハッタンの資本主義的な都市原理を称揚したけれども、トランプはその「マンハッタニズム」の鬼子のようなところがある。その意味でトランプは都市の申し子で、政治の現場にもテレビ的な本音主義と悪徳ディベロッパー的な恫喝を持ち込んだ。さらに、ピーター・ティールみたいな同性愛者のリバタリアンのシリコンバレー起業家がトランプを支持する、なんていうこともあるわけですからね。しかし、皮肉なことに、大統領選挙では都市部で支持されたヒラリーが敗北し、トランプが地方の怨念を引き受けるようにして勝利した。だから、リチャード・フロリダも新著で言うように、トランプの勝利とは都市の敗北でもある。 今は都市に対して逆風が吹いている状況だと思うんです。香港は香港で、都市的な性格が中国化によって脅かされている。だからといって、もう一度古いタイプの国民という統合装置に戻ろうとしてもうまくいかないんじゃないか。そこで、都市的な性格を評価するような形でグローバル時代の主体を構築していく必要があると思います。さっき言った「都市的アジア主義」はその一つのプランです。
    宇野 ただ、都市的な価値観というのは基本的に少数派で、民主主義では負ける運命にあるので、他のアプローチを取ったほうが良いのではないかと僕は思うわけです。ひいてはそこに、雨傘運動の敗北の遠因もあったんじゃないでしょうか。
    張 先ほど福嶋さんが言ったように、トランプ支持者のようなナショナリズムの正体はアンダークラスで、そういった階層対立は、香港の自決派と本土派の間にもあるわけです。香港という都市が中国化されつつグローバル化されている中、私のように家が買えないような、都会っ子になりきれない敗北者たちによるナショナリスティックな反発が本土派を支えている。周庭さんたち自決派は、団塊世代に向けて都市の中流層っぽい演出をしてるんですね。自分が良い大学出てるとか、海外の大学で講演してるといったアピールをして、天安門事件記念集会でも中流階級の親子たちに支持を集めています。本土派はアンダークラスでナショナリズム的、自決派は中流階級で都市的という演出の傾向があります。
    福嶋 ナショナリズムは階層的分割を乗り越えるための装置ですね。張さんはイギリスの歴史的体験を重視しているけれども、要は貴族が権力を握っていた時代に抗して、そのような階層を想像的に打ち消す形で「われわれ皆同じ国民」というナショナリズムが出てきたというわけですね。香港でも今、似たようなことが起きている。これから先、豊かになれそうもない人たちがナショナリズムに自らの尊厳を求めていく。
    張 確かに、この本でも述べている通り、ナショナリズムの起源はイギリスの平等主義ですね。出自の階層を越えられる機会的平等がもたらす尊厳の高揚こそが、ナショナリズムのエネルギー源です。この点、香港は政府、国家やネーションに依存しない、世界に開かれた商業都市だから、階層上昇の欲望がもっぱら都会的な個人主義で解消されるんです。香港では、日本と違って、集合的・民族的なナショナリズムを使って階層を乗り越える発想はあまり強くないと思います。また、成功した人間は自分で努力してお金を持っているといった、アメリカのような個人的・公民的なナショナリズムもないのです。香港では、個人の階級上昇も尊厳も、いかに世界経済の機運とチャンスをうまく掴めるかにかかっていて、それは時に生死に関わる問題です。香港ではナショナリズムはお金を稼ぐ道具に過ぎないんですよ。香港には民族的アイデンティティも中華愛国主義もありましたが、個人の生存に比べると二次的なものです。中国革命があって、香港では大陸本土のナショナリズムを煽りながら武器を転売するとか、中国本土が改革開放・経済成長していくと予測して国有企業の株や不動産をたくさん買うとか、火事場泥棒みたいに、世界が混乱・変革してるから香港の都市は成長していくわけです。普遍道徳を講じながら、株で稼ぐ。表は君子、裏は商人の模範。そういうものが階級を乗り越える手段ですね。
    福嶋 しかし、ナショナリズムは尊厳を獲得する装置だというのが、この本での張さんの主張だと思うんですよ。僕も、近代のナショナリズムは集団的な尊厳を生み出す装置だったと思うんです。政治学者のベネディクト・アンダーソンも、宗教の黄昏の時代にナショナリズムが出てきたと述べています。要するに、人間の運命論的な不条理を引き受けることができるのが、ナショナリズムという疑似宗教だという主張です。ただ、今の日本のポストモダン化し表層化したナショナリズムはもはやそういうものではないですね。人間の運命を引き受けるほどの宗教的な力はない。だからこそ、たとえば西部邁のようなオーソドックスな保守主義者・伝統主義者は、今のナショナリズムの風潮には乗れず、一人の個人として自殺するしかないわけです。
    張 問題は尊厳をどこに求めるかですね。それも空想的な根拠じゃなくて、自分はお金持ちであるとか、ロシアのように自国の軍隊は強いというのもひとつの尊厳の持ち方です。私から見ると、日本は世界各国からマナーがいいとか料理が美味しいと思われているし、日本のアニメはすごいと自慢するナショナリストもありうるけど(笑)、そういう自己認識が多数の人たちにはあまりないんじゃないですか? 観光客が日本に殺到してるのは、もちろん為替などの経済原因もあるけれど、そういうサブカル的な蓄積があることも確かです。問題は、自国の文化の特徴や長所をいかに世界からの目線で客観的に見ることができるか、これが大事です。逆に、さっき福嶋さんが仰ったように、今のグローバリズムや都市主義はすごく平面的で、文化的な特徴をなくすかもしれません。国家の特徴と長所をいかに都市の次元で表現するのかが、これからの日本の挑戦ではないかと思います。
    福嶋 その通りだと思います。その点で言うと、東京はレム・コールハースも言うように「特徴がないのが特徴」という都市ですね。たとえば、シンガポールならマリーナベイサンズ、パリならエッフェル塔という具合に、都市を特徴づけるアイコンというものがあるでしょう。しかし、東京にはない。東京ではピクセル画で描いたような高層ビルがどんどん建っていくだけです(笑)。良くも悪くも、東京は都市を特徴づける努力をあまりしていない。張さんが言うように、食べ物が美味しいとか、コミケがあるとか言えるけど、少なくともシンボリックなアイコンはない。 20世紀後半の日本の思想では郊外化が問題で、それはアメリカナイゼーションと結びついていた。しかし、20世紀の郊外化は文明史的には寄り道であり、21世紀はもう一度郊外から都市への回帰が起こっているわけですね。だけど、日本の場合は、都市を特徴づける知恵もあまり蓄積されていない。そもそも、香港には、唐代の敦煌や清代の漢口のように「香港の先祖」と言えるハイブリッドな交通都市があるわけだけど、東京は過去に先祖のいない「歴史の孤児」のような都市です。だからこそ、東京を輪郭づけるためにも、他の都市と比較しないといけないと思うんですね。
    「縁切り」と「縁結び」を同時に行うアジール
    ■PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。
     
  • 【対談】福嶋亮大×張イクマン 〈都市〉はナショナリズムを超克しうるかーー「辺境の思想」から考える(前編)

    2018-07-13 07:00  
    540pt

    6月1日に『辺境の思想 日本と香港から考える』を共著で上梓した、福嶋亮大さんと張イクマンさんの対談をお届けします。日本と香港は歴史上、西欧や中国の「辺境」にあり、それは文化的・経済的な強みでもありました。東日本大震災(2011年)と雨傘運動(2014年)以降の、「二つの辺境」の思想状況を考えます。(構成:佐藤賢二)
    書誌情報『辺境の思想 日本と香港から考える』(Amazon) 頼れる確かなものが失われた中心なき世界。自由と民主が揺らぐカオスな時代。未来への道は辺境にある―。日本と香港。2つの辺境で交わされた往復書簡の記録。
    政治なき時代のカギは「国ではなく都市単位」の視点
    宇野 今回は『辺境の思想 日本と香港から考える』が無事に刊行されたことを記念して、著者のお二人にお話を聞きたいと思います。これは東京に住んでいる福嶋さんと、香港に住んでいる張さんの往復書簡という形で、2016年の後半から2018年の1月ごろまでの連載をまとめたものです。 この1年余りでは日本は、安倍政権で森友・加計問題や公文書のずさんな管理が注目を集め、安定政権であることが唯一のアドバンテージだったとすらいえる安倍政権がスキャンダルに振り回されながらも、選挙ではそれを上回る野党の自爆によって安倍政権が盤石になっていきました。一方、香港では、2014年に起きた「雨傘運動」以降の若者を中心とした民主化運動が、北京の中央政府による締めつけで衰退に追い込まれてゆく1年余りであり、そういう状況の中で、お二人は往復書簡を交わしていたわけですね。
    福嶋 日本に関して言えば、森友・加計問題を典型として、昭和的なオポチュニズム(無原則の日和見主義)が再び前景化している。要は、山本七平や丸山眞男の批判した「空気の支配」と「無責任の体系」の問題ですが、それが高じて公文書の改竄なんていうとんでもない次元にまで行ってしまう。しかも、それを批判しようとしても、責任の所在があいまいなので暖簾に腕押しにしかならない。平成はもう終わりつつあるというのに、政治の週刊誌化も含めて、今はむしろ昭和の悪いところばかりを拡大したような政治状況が日本を覆っているわけですね。平成は日本の政治風土を何も更新できなかった。 ただ、だからといって日本国内だけで政治的な問題を考えていても、もう未来はないし、論壇的な世間話にしかならないと思うんです。それで日本と香港、つまり国民国家と都市を比較するという新しい枠組みを立てて、世界との別の繋がり方を模索しようと考えたわけです。それが僕の出発点でした。張さんはどういう感じで臨まれたでしょうか。
    張 私としては、やはり香港の方が、日本よりも強く政治が終わっている感じがしますね。日本は思想的に平成がまだ終わってないし、戦後昭和的な雰囲気がまだ強く残っている。これに対し、香港は何より、まだ団塊世代の政治感覚が残っているんだけど、それと30代以下の若者の思想が決定的に違っていて、世代の断裂がはっきりしている形です。私なりには、そう見えているんですね。
    福嶋 世代的分断は今の香港を考える鍵ですね。日本人は1970年代以降に金儲けにしか興味のない経済動物、つまり「エコノミックアニマル」と揶揄されたわけですが、かつての香港人もそれに近いところがあった。イギリスの植民地支配のもとで政治参加が閉ざされていたためです。しかし、張さん以下の世代は急速に政治化したように見える。香港はもはや一枚岩ではない。
    宇野 そのように、異なる地域を対比して見えてくる視点が本書の特徴ですね。『辺境の思想』というタイトルが秀逸で「辺境とは何か?」ということが、この本で言いたいことの6割くらいを占めていると思います。日本人は夜郎自大なので、自分たちを辺境とは思ってないんですよ。ただ、歴史的に考えると、アジアの中でも、西洋から見ても端っこの辺境以外の何者でもない、近代日本は、いかにして自分たちが辺境であることを忘却するかというゲームをやってきた。 ところが、逆に辺境であることを思い出すことでしか、今の日本の社会的文化的な行き詰まりに対する抜け道を探すことはできないんじゃないか? というのが、この本における福嶋さんと張さんの基本的なスタンスだと思うわけです。 日本が辺境であるとはどういう意味か、究極的にひとことで言えば「国民国家未満」ということです。中国本土のような古代神話の時代から国そのものの枠組みが続いてるわけでもなければ、近代ヨーロッパの国民国家ともまったく違う、日本はどちらでもない存在なんですね。結果的に言ってしまえば、その枠組みを外したときに初めて、日本でものを考えることが可能になっている。
    福嶋 歴史的に言えば、日本は常に「子供」の立場にあった。前近代であれば中国、近代以降であれば欧米というように、外部の大きな「父」を参照しながら我流に加工するのが基本的なプログラムだった。建築家の磯崎新氏の言い方を借りれば「和様化」(ジャパナイゼーション)ですね。しかし、今はそういう外部の超越的なモデルが弱体化してしまった時代だと思います。その結果、日本はこれまでの和様化のプログラムがうまくいかなくなり、外部への通路が閉ざされ、ガラパゴス的な状況に陥っている。千年単位で見れば、この「父の不在」が日本史の新しい局面を示すものであることが分かります。日本人は前例の少ない状況に置かれているのです。この困難から脱するために、隣の都市を参照しようというのが僕の基本的なスタンスです。
    宇野 たぶん、いま国家の単位でものを考えているとトランプ的に、あるいはブレグジット的にグローバル化に対するアレルギーの受け皿になるしかない。そもそもばらばらのものを物語的に一つに統合している国民国家は定義的に閉じていてグローバル化と相性が良くないわけです。「グローバル化で国境がなくなる」と言ってるけど、そんなのは嘘で、グローバル化の実態とは情報化された大都市の経済的なネットワークですよ。 国境を単位とする領域的な国民国家というのは古い形の線引きで、それに対して、たとえば上海とドバイとパリの住人が直に結びつくような都市のネットワークが対抗しているのが、グローバル化の実態だと思います。だから、国家という枠組みにとらわれている限り、思想的にグローバル化を正面から受けとめることはできない、その可能性はむしろ日本や香港のような国家未満の辺境にあるというのがこの本の基本的なスタンスで、その視点から日本と香港の政治状況や文化状況を参照していると感じました。
    中二病的なナショナリズム・政治化を超えて
    福嶋 おっしゃるように、日本の知識人は基本的に国民国家の単位で考えている。たいていの日本論も国民性の比較によって作られているわけで、現に日中比較論や日韓比較論はたくさんある。しかし、そこには都市の比較という観点がほとんど存在していないのです。 たとえば、日本は「雑種文化」だという加藤周一の有名な定義がある。加藤氏はフランスとの比較でそう言っています。しかし、それを言うのなら、香港は日本以上に雑種的な都市です。なおかつ、日本はサブカルチャーが栄えていて「クールジャパン」などとナショナリスティックなお国自慢をしているけれども、それだって別に日本の固有性ではない。香港もそれは同じだからです。香港は武侠小説や推理小説が強いし、張愛玲や李碧華のような女性作家も目立つ。しかも、香港文学は映画とのメディアミックスも盛んにやっている。これらは日本の大衆消費文化とよく似ています。「怪力乱神を語らず」という中国の儒教的な建前からすればサブカルチャーでしかないものを、香港はたくさん生み出してきた。こういう辺境の都市と比較すれば、従来の日本特殊論を解除することができる。 加藤的なモデルは、最近の内田樹氏の議論にも受け継がれています。つまり、中心的な文明と辺境の日本を比較するという、いつもの分かりやすいモデルです。しかし、そのような認識の座標ではグローバル化には対応できないし、香港のようなすぐ隣にある「似て非なる存在」も見逃してしまう。香港を介して日本論の座標を組み替える――こういうアングルの提示はこれまでほぼ誰もやっていないと思います。
    張 福嶋さんが言った通り、この本の狙いは認識のフレームです。日本の近代認識のフレームは、明治から平成までずっと国民国家、どうしてもナショナリズムのフレームで物事を考えている。この本で書いたように、私なりのナショナリズムの定義は、自分たちこそが世界の中心であるとか、自分の尊厳をかけて他人からの承認を得られるよう努力するとか、辺境発の中二病的なものです。そういう中二病的なナショナリズムを発病して成功した文明を持つ国家は、最初はイギリス、そしてフランス、ドイツ、アメリカ、ロシア、西洋以外では近代の日本ですね。「自分たちこそが偉くて、尊敬に値する」ことを証明するために、物語を語る。ですから、ネイションは民族や文化伝統の発明に熱心で、国民文学と歴史のような近代の物語を重視するわけです。 逆に、香港の近代認識のフレームは都市です。思えば、香港は日本と同じく、19世紀中旬から西洋文化をいち早く取り入れて、約150年の近代社会史を織り成しましたが、香港の認識のフレームは日本・ネイションとは違ったかたちで、基本、都市ベースです。宇野さんが言ったように、都市は基本的にネットワークです。物語よりもお金と情報に依存します。文化の伝統より、その多様性を優先します。日本も香港も同じく辺境同士なのに、異なった道で、西洋近代化の歴史を歩んできました。 香港という成功例においては、そういう「自分が世界の中心」という発想はなかったんですね。自分が常にアジアにおいても西洋からも辺境にいることを自覚して、異なる発見の狭間で物事を考えて、いつもコンテクストに依存して、文化を自由に選べて、自由に動いていくのが得意なんです。日本が平成時代に入って、この10〜20年間、世界中がいわゆるグローバリゼーションに進んでいる状況で、私は香港の方が日本より活躍していると感じるようになったんですね。 東アジアにある辺境同士の日本と香港は、もともと比較できる文化心性はいくらでもありそうです。しかし、香港は日本への文化関心が高いが、日本から香港への視線はほとんど感じられません。たぶん、ネイションと都市という二つの近代心性の異なる影響のせいです。 やはり、この本に書いた中でも一番面白いのは、日本が都市化しているのに対して、香港はなぜナショナリズム化しているのかですね。実際に今の状況はこの本で書いた通りに進んでいます。
    ■PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。
     
  • 福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』終章 「エフェクトの美学」の時代に【毎月配信】

    2018-03-20 07:00  
    540pt

    文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。技術が「ジャンル」として確立されるには、そこに精神が宿らなければならない。最終回となる今回は、特撮を文化史として見つめ直してきた本連載の意義を改めて振り返ります。
    終章 「エフェクトの美学」の時代に
    技術に宿る精神
     特撮(特殊撮影)であれ、アニメーションであれ、もとは技術の名前である。この技術が「ジャンル」として確立されるには、そこに精神が宿らなければならない。そして、ジャンルの精神は一つの魂の独白からではなく、複数の魂の対話から生み出される。とりわけ特撮の「精神」は、円谷英二からその息子世代への伝達を抜きにして語ることはできない。
     ふつう世代論はもっぱらその世代に固有の体験を問題にする。それが書き手の私的体験と接続されると、しばしば他の世代にとっては退屈極まりない平板なノスタルジーに陥る(例えば、小谷野敦の『ウルトラマンがいた時代』はその典型である)。それに対して、私はむしろ世代と世代のあいだ、すなわち先行世代から後続世代への文化的な相続=コミュニケーションこそが重要だという立場から論を進めてきた。第三章で述べたように、もともと玩具作家であった円谷英二は、『ハワイ・マレー沖海戦』という「模型で作った戦争映画」において、ミニチュアの戦艦を戦時下の宣伝技術として利用した(その意味で、おもちゃの政治性は馬鹿にできない)。そして、ウルトラシリーズの作り手たちはこの「父」の遺産を改変しながら「子供を育てる子供」として巨大ヒーローと怪獣のドラマを作り出したのだ。
     もとより、二〇世紀の総力戦体制とはエンターテインメントを含むあらゆる領域を戦争に関わらせ、戦争の外部を抹消するシステムであり、円谷英二の特撮も結果的にその一翼を担った。ただ、ここで重要なのは、映像のモダニズム的実験としての特撮に挑戦した円谷の仕事が、大人のプロパガンダだけではなく子供のエンターテインメント(おもちゃや模型)とも接していたことである。アメリカのレイ・ハリーハウゼンやジョージ・パルの仕事が示すように、本来ならば特撮が子供向けのエンターテインメントに傾斜する必然性はない。にもかかわらず、日本の特撮の「精神」は子供を触媒として成長し、やがてウルトラマンという不思議な巨人を生み出した。この子供への傾斜にこそ戦後サブカルチャーの特性がある。
     私はここまで、戦前と戦後のあいだのメッセージ的不連続性とメディア的連続性に注目してきたが、それはウルトラシリーズという「子供の文化」に照準したことと切り離せない。大人の世界においては、戦後の日本は戦前の日本を反省し、それとは別の人格に生まれ変わらなければならなかった。しかし、円谷以来の子供向けのサブカルチャーは、戦前と戦後の溝を飛び越えて、軍事技術を映像のパフォーマンスとして娯楽化し、戦争の快楽を享受し続けた。特にウルトラシリーズの作り手たちはメッセージの次元では「戦後」の民主主義を左翼的に擁護しつつも、メディアの次元では「戦時下」のプロパガンダを右翼的に再現した。この種のイデオロギー的混乱は、特撮だけではなくアニメにも及ぶだろう(第四章参照)。子供という宛先は、大人向けの文化とは別のアイデンティティの回路を作り出した。しかも、その原点はやはり戦時下にまで遡ることができる。
    ■PLANETSチャンネルの月額会員になると…
    ・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。