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  • 第六章 長い二日酔い――一九世紀あるいはロシア(後編)|福嶋亮大

    2023-09-26 07:00  
    550pt

    本日のメルマガは、批評家・福嶋亮大さんの連載「世界文学のアーキテクチャ」をお届けします。前回に引き続き、19世紀ヨーロッパの社会思想について分析します。「アジアからヨーロッパへ」という単純な図式に収まり切らないアメリカやロシアを、当時の知識人たちはどのように捉えていたのでしょうか。 前編はこちら。
    福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ
    6、ヘーゲル、トクヴィル、マルクス
     一七七〇年生まれの哲学者ヘーゲルは、世界史をアジアからヨーロッパへと進歩するプロセスとして捉えた。ただ、その場合アメリカはどうなるのか。一口に言えば、ヘーゲルの狙いは、世界史と≪新世界≫のデカップリング(分離)にあった。 ヘーゲルの独断的な見解によれば、アメリカ大陸は社会を結集させる力を欠いている。そこでは動物も人間も弱々しく、衰亡の瀬戸際にある。「新世界は旧世界よりずっと脆弱であることが示されており、また鉄と馬という二つの手段が不足している。アメリカは新しく、脆弱で力を欠いた世界である。ライオン、トラ、ワニはアフリカのものよりも弱く、そのことは人間に関しても同様である」「この国〔アメリカ〕は生成途上の未来の国であり、それゆえこの国はわれわれにはまだ関わりのないものである」[20]。ただ、ヘーゲルの口調が自信たっぷりであるように見えて、最終的な判断を保留するような含みをもつことも見逃せない。彼はこの脆弱な≪新世界≫が、いつか世界史に関係してくる未来を否定しきれていないのだから。 一八〇五年生まれのフランスの政治家にして思想家のトクヴィル――二月革命の折に外務大臣を務めた経験を、後に『フランス二月革命の日々』で回想している――になると、≪新世界≫の勃興は世界史の転換点として捉えられた。彼の『アメリカのデモクラシー』第一巻(一八三五年)の末尾には、アメリカおよびロシアという新興国が「いつの日か世界の半分の運命を手中に収めることになる」という、きわめて正確な予想が記された。後年カール・シュミットは、頑固なヨーロッパ中心主義者ヘーゲルと違って、若きトクヴィルが「ヨーロッパ精神の刻印を受けつつなおヨーロッパ的でないこの新興二大国」を明確に名指ししたことを「驚きの極みである」と評している。シュミットがトクヴィルを「一九世紀最大の歴史家」と呼ぶのは、いわばヨーロッパの私生児であるロシアとアメリカにこそ人類の未来を認めた、その並外れてシャープな時代認識のゆえであった[21]。 しかも、慧眼なトクヴィルは、この両国の尋常ではない発展速度に注目していた。「[ロシアとアメリカは]どちらも人の知らぬ間に大きくなった。人々の目が注がれているうちに、突如として第一級の国家の列に加わり、世界はほぼ同じ時期に両者の誕生と大きさを認識した」[22]。私は先ほどから、フランスの二月革命や『レ・ミゼラブル』を例にして、事態の「不意打ち」や「急転」が一九世紀の特徴だと述べてきた。二日酔いでふらつく一九世紀的人間は、社会の安定構造のなかでまどろみながら、ときにそれを出し抜く急転に巻き込まれる。変化を加速させ、ヨーロッパ人のしらふの意識を追い抜いてしまったロシアとアメリカは、まさに異常なアゴーギクを国家形成のプロセスにおいて実現した。トクヴィルは一種の速度論(kinetics)の立場から、この両国の地滑り的な変化の速度そのものに注目したのだ。 さらに、ヘーゲルともトクヴィルとも異なるやり方で≪新世界≫の世界史的位置を考えたのが、一八一八年生まれのマルクスである。一八五二年に『ブリュメール一八日』を刊行したマルクスは、それに続いてロシアの分析に取り組んだ。クリミア戦争(一八五三~六年)の時期に構想された彼のロシア論は、ヨーロッパとは異なる政治経済のシステムを「タタールのくびき」(モンゴル帝国による支配)以降のロシアの専制政治に認め、その形成プロセスを批判的に検討したものである。 後にマルクスは一八六七年刊行の『資本論』で、亡命先の経済先進国イギリスを拠点として、資本主義を分析した。そこでは、資本主義のグローバルな拡大が前提とされている。ただ、一八五〇年代のマルクスによれば、ロシアの政治経済システムはむしろ資本化の作用をせきとめる専制主義を内包していた。この悪しき障害物がある限り、たんに資本主義の揚棄をめざすだけでは、人類の真の解放には到らない。マルクスはこの「東洋的専制」のシステムが、一八世紀初頭のピョートル大帝によって強化されたと見なした。ピョートルは西欧文明を効果的に利用しながら、国境に近いバルト海沿いに「中心から外れた中心」しての新都ペテルブルクを急ピッチで建設した。マルクスはこの驚くべき「速成的創造」に、ロシアが海の帝国に変わった瞬間を認めたのである[23]。 このマルクスのロシア論が、クリミア戦争の渦中から出てきたことは見逃せない。一九世紀ヨーロッパは相対的な安定期であったが、クリミア戦争は例外的に、膨大な死者を出した史上初の「全面戦争」であった。ロシア帝国とオスマン帝国の軍事衝突で始まったこの戦争は、やがてカフカス(コーカサス)から黒海沿岸にまで戦域を広げ、ヨーロッパ諸国の参戦も招いた。そこでは、新型兵器や電報のような通信テクノロジー、最新の軍事医学までもが動員され、まさに総力戦の様相を呈した[24](クリミア戦争に従軍し、軍の衛生環境と看護婦の地位を改善したイギリスのフローレンス・ナイチンゲールはその象徴である)。このヨーロッパとアジアのコンタクト・ゾーンにおける熾烈な世界戦争を背景としながら、マルクスはロシア特有の政治経済システムを考察した。 ヘーゲルにとって、いわば世界史の時計は一つであった。その途上でいかなる困難があろうとも、ヨーロッパの理念が次第に自己完成に向かうという原則は疑われていなかった。しかし、一八五〇年代のマルクスはむしろ人類が複数の時計をもつこと(ピョートルのロシア)、さらに時計が逆戻りし得ること(ナポレオン三世のフランス)を認めていた。この認識は二一世紀のわれわれにとっても示唆に富む。現に、いったん全面的に勝利したはずのポスト冷戦期の自由主義的なグローバリズムが、かえってその反動としてのプーチン(いわばピョートルの劣化コピー)や習近平(いわば毛沢東の劣化コピー)を生み出している現状は、マルクスの先見性を示すものだろう。
    7、アンチ・ファウスト――プーシキン
     このように、ヨーロッパ中心主義者のヘーゲルは世界史と≪新世界≫のデカップリングを試み、トクヴィルはむしろ≪新世界≫にこそ人類の未来を認め、マルクスはロシアの政治経済システムのもつ特殊性を強調した。この三者三様の言説から分かるように、ヨーロッパの第一級の知識人にとっても、ロシアやアメリカは知的に解決しがたい謎であった。 ここで興味深いのは、当のロシア人自身が自らを奥深い「謎」として了解したことである。ロシア近代文学の祖となった一七九九年生まれの作家アレクサンドル・プーシキンは、一八二二年に「ロシアはいまだ未完成である」と端的に述べた[25]。これはロシアが今後何にでも変わり得ること、そこには無限の可塑性があることを意味する。ロシアの知識人は総じて、自らが創出したロシアという謎に酩酊した。過去と未来にアクセスしながら、ロシアをたえず発見・発明し続けようとする未完の思想運動の中心にいたのが、まさにプーシキンのような詩人であった。 ロシア史家のオーランドー・ファイジズが強調するように、ロシアへの回帰を促したのは、一八一二年のナポレオン侵攻である。もともと、ロシアの上流貴族はフランスにすっかり夢中であり、家庭での教育もフランス語でなされていた。ナポレオン戦争を描いたトルストイの『戦争と平和』が、フランス語の会話で始まるのは、それを諷刺したものである。しかし、ロシアがナポレオンを撃退した後、農民とともに戦った兵士たちは、むしろロシア人のネーションとしての一体性を強く自覚するようになり、それが一八二五年のデカブリスト(農奴解放を訴える自由主義的な将校)の蜂起へとつながってゆく[26]。この国民統合をめざす新しいナショナリズムが、プーシキン以降のロシア近代文学の枢軸になったと言えるだろう。 もとより、ロシアが未完であることは、バラ色の未来を約束するものではない。現に、プーシキンはロシアを晴れやかな進歩にではなく、むしろ底なしの混沌に接続した。その文学上の拠点となったのが、ピョートルの築いた新都ペテルブルクであった。バルト海沿岸の湿地に工学的に築かれたペテルブルクは、その狂気じみた都市計画の代償として、たびたびネヴァ川の凶暴な洪水に襲われてきた。プーシキンの『青銅の騎士』は、若く貧しい下級官吏エヴゲーニーの視点から、この自然からの復讐を描いた長編叙事詩である。 ピョートルの騎馬像が傲然とそびえたつペテルブルクに、あるとき獣じみた洪水が襲来する――この粗暴な侵略者の創造した黙示録的光景を前にして、エヴゲーニーをはじめ民衆はただ茫然とするしかない。見慣れた街角は戦場のような廃墟に変わり、都市の繁栄はリセットされる。しかし、洪水が収まった後、ペテルブルクの生活は再び元通りになり、お互いに対して冷たく無関心な態度がよみがえる。エヴゲーニーにとっては、洪水という非日常よりも、洪水の後の退屈な日常こそが耐えがたい。世間からすっかり疎遠になった彼は、やがて荒々しいピョートルの騎馬像に取り憑かれ、狂気のなかで孤独な死を迎える。 ピョートルの悪魔じみたエネルギーの所産であるペテルブルクでは、破局と退屈が背中あわせになっており、人間的な生には何ら意味が与えられない。ボードレールはパリの商品世界を破局の集積として捉えたが、プーシキンは悪魔の創造したペテルブルクが、いわば誕生時にすでに破滅しており、その住民たちはたかだか人間の影絵でしかないことを示していた。ネヴァ川の荒々しい暴力は、このあらかじめ終わった都市を、何一つ変えなかったのである。 してみると、ロシア文学者のミハイル・エプスタインが『青銅の騎士』を「アンチ・ファウスト」の文学として位置づけたのも、不思議ではない。「プーシキンの作品は『ファウスト』が事実上終結したところに始まる」[27]。究極の人工都市ペテルブルクは、まさに自然を克服しようとするファウスト的な労働の一大成果である。しかし、それは人間の完成という達成感どころか、敗北感ばかりを募らせる。エヴゲーニーはペテルブルクの洪水を経て、精神的な二日酔いにいっそう深く沈み込んでゆく。ショッキングな洪水=革命の酔いは、退屈な日常がよみがえった後も、彼にだけはいつまでも残り続けた。ペテルブルクの化身であるピョートルは、この覚醒と酩酊の狭間にいるエヴゲーニーを罰するように、みじめな死に到らしめる。 かつて井筒俊彦は、意識の殻を吹き飛ばす「ディオニュソス的暴風圏」――ペストや洪水のような負の祝祭も含めて――を、プーシキン文学の核心と見なした[28]。それに付け加えれば、『青銅の騎士』の仕掛けは黒い祝祭を歌い上げるディオニュソス的な声が、かえってアンチ・ロマン的な日常に吸収されたことにある。この二重写しには、ロシア文学を深く規定する「パラドックス」(エプスタイン)を認めることができるだろう。 
  • 第六章 長い二日酔い――一九世紀あるいはロシア(前編)|福嶋亮大

    2023-09-19 07:00  
    550pt

    本日のメルマガは、批評家・福嶋亮大さんの連載「世界文学のアーキテクチャ」をお届けします。今回は19世紀ヨーロッパにおける社会思想について分析します。アメリカ独立戦争やフランス革命の反省から、個人の人権尊重への意識が高まった前半期から、自然科学が優勢となった後半期にかけてどのような思想の変遷があったのでしょうか 。
    福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ
    1、消費社会と管理社会の序曲
     一九世紀ヨーロッパの社会思想史は、大きく前半と後半で分けることができるだろう。アメリカ独立やフランス革命を経た一九世紀前半には、誰もが自由や幸福を追求する権利をもつという理念が、多くの思想家たちに抱かれていた。彼らは、恐怖政治に陥ったフランス革命の限界を見据えつつ、貧困をはじめとする産業社会の問題に立ち向かう新しい社会体制を構想した。 特に、一八二〇年代から四〇年代のフランスでは、サン゠シモンおよびその後継者たち(生産の優位を掲げ、人間による地球の開発を正当化し、社会を束ねる世俗宗教を支持した)からルイ・ブラン、ブランキ、さらにはプルードン(中間集団を一掃して個人を国家に依存させるサン゠シモンとは異なり、自立した個人がその労働を通じて自由と尊厳を得るアソシエーションを構想した)に到る社会主義者が、さまざまな国家像や労働観を示した。彼らはイギリスの産業革命のインパクトを強く受けつつ、しかしイギリスを「反面教師」として、労働者を中心とする社会革命のシナリオを描いた[1]。 しかし、このような変革の機運は、一九世紀後半のヨーロッパでは萎んでしまう。革命運動が下火になる一方、自然科学や医学の重要な発見に伴って、形而上学よりも実証主義が優勢となり、経済的には繁栄期を迎えた。むろん、デンマーク戦争、普墺戦争、普仏戦争といった争いはあったが、それらはいずれも短期間に終わり、その戦域も限られていた。このおおむね安定した社会では、変革のエネルギーはビジネスや科学に向けられた。芸術家もそれと無関係ではいられない。例えば、一九世紀後半のドイツの教養市民層に根ざしたブラームスは、社会問題には無関心を貫く一方、ナショナリズムには熱烈に反応した。彼の音楽も、人類全体に呼びかけるベートーヴェン的な交響曲よりも、小規模で親密な室内楽に傾いた[2]。 現代の政治学者ジョン・ミアシャイマーは、ナポレオン戦争後の一九世紀の大半が「多極的な安定構造」の時代であり「ヨーロッパ史の中で最も紛争の少ない時代になった」と評している[3]。フランス革命やナポレオン戦争のような血なまぐさい沸騰を目の当たりにすれば、その後にすさまじい変革の時代がやってくると考えるのが自然である。しかし、一九世紀ヨーロッパはかえって、大国どうしがバランスをとる相対的な安定期に入った。このような政治的不発の感覚が、当時のヨーロッパ的精神風土の根底にある。 騒乱と変革の時代から、安定と均衡の時代へ――その折り返し点を示す象徴的な出来事が、フランスの二月革命のたどった奇妙な顛末である。一八四八年二月、経済政策に不満を抱いたブルジョワたちが、フランス国王ルイ゠フィリップの体制(七月王政)を倒して新政権を樹立した。このほとんど誰にも予見できない不意打ちとして起こった革命は、ただちにヨーロッパ各地に飛び火する。フランス革命以前のヨーロッパへの回帰を企てた「ウィーン体制」の旗振り役であった保守派のメッテルニヒも、オーストリアからロンドンへの亡命を余儀なくされた。フランスの革命はヨーロッパの「諸革命」(いわゆる諸国民の春)へと発展したのである。 しかし、この不意に始まった諸革命は、あっという間に沈静化してしまった。革命運動が行き詰まるなか、ナポレオンの甥ルイ゠ナポレオン・ボナパルトが、一八五一年にクーデタを起こし、市民の絶大な支持を集め、翌年にはナポレオン三世として帝政を樹立した。彼がよく弁えていたのは、たとえ独裁者であってももはや民衆の「世論」を無視できず、禁止や抑圧という強権的なやり方では政権を保てないという、政治の新しいルールである。彼の体制はあくまで普通選挙の結果であり、民意の支持なしには成り立たなかった。 こうして、いったん勝利したはずの市民革命が、皮肉なことにかえって反動的な帝政を呼び込んでしまう――しかも、このドタバタ劇の後、社会は表面的には安定と繁栄に向かった。オリジナルのナポレオンが軍事的な拡大をめざしたのに対して、そのシミュラークルとしてのナポレオン三世はむしろ商業的・平和的な社会を望んだ。彼の政権下で開催された一八五五年および六七年のパリ万博では、産業社会そのものが神聖化され、不衛生であったパリの街もジョルジュ・オスマンの指揮のもとで「改造」された。さらに、「貧困の根絶」を目標とするナポレオン三世は、金融と産業の発達によって貧困を除去しようとするサン゠シモン主義の継承者であり、労働者用の共同住宅やリハビリ施設を建設しつつ、新しいベンチャー・キャピタルの創設にも手を貸した[4]。 この「第二帝政期」のフランスを覆ったのは、ナショナリズムとポピュリズムを背景としながら、産業そのものを宗教として、労働者の福祉や社会保障にも配慮するマイルドな権威主義であった。この新たな統治システムは、上からの一方的な禁止ではなく、ミシェル・フーコーの言う「管理」の技術を駆使しながら、世論を味方につけようとする[5]。そう考えると、一九世紀後半のフランスが、今日のポストモダンな消費社会・管理社会の序曲になっていることが分かるだろう。この時代を批評することは、ポストモダンの前駆的環境でいかなる芸術や社会思想があり得たのかという問いを惹起せずにはいない[6]。 
  • 第五章 エスとしての日本(後編)|福嶋亮大

    2023-08-08 07:00  
    550pt

    本日のメルマガは、批評家・福嶋亮大さんの連載「世界文学のアーキテクチャ」をお届けします。本日のメルマガは、批評家・福嶋亮大さんの連載「世界文学のアーキテクチャ」をお届けします。 日本で最初の著述家と言われる曲亭馬琴の作品には、中国文学からの影響がありました。彼がどのように中国文学を捉えていたかを通じて、小説の「文体」が持つ表現の幅を分析します。 前編はこちら。
    福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ
    5、中国の文学的知能の相続――曲亭馬琴
     繰り返せば、中国小説には文化のエスに潜り込み、その原則を明らかにするという精神分析的な性格があった。特に『水滸伝』は、カーニヴァル的な沸騰状態において規範を解体し、人間たちの秘められた欲望をリリースする。中国小説の変異株(変態)である秋成の物語にも、それに近いことが言えるだろう。そこでは悪霊や悪漢を主人公として、エス的な「呪われた部分」へのアクセスがしきりに試みられていた。  この秋成の手法を別のやり方で引き継いだのが、一七六七年に生まれ、黒船来航を前に亡くなった曲亭馬琴である。日本で最初に商業作家として生計を立て、実に半世紀にわたって第一線で書き続けた馬琴は、明治期を含めても一九世紀日本の最大の小説家と言えるだろう。一八一四年に初輯が刊行され、一八四二年に完結した『南総里見八犬伝』は、彼のマラソン・ランナーのような作家人生を象徴する大作である。  しかも、その汲めども尽きない旺盛な語りの力は、中国由来の小説批評への強い関心と切り離せなかった。馬琴は秋成と同じように、先進的な中国小説といわば「アフィリエーション」(養子縁組)の関係を結んだ。しかも、洗練された美文家であった秋成とは違って、馬琴は脱線を恐れず、テクストにさまざまな学問的知見や批評を盛り込んだ。特に、その小説論は同時代の誰よりも卓越している。彼は『八犬伝』の作家であるだけではなく、日本の「小説批評家の元祖」でもあった[12]。  そもそも、流行作家であった馬琴は、作品を眼で見ても、声に出しても楽しめるように多様な読者サービスに努めた。葛飾北斎らとコンビを組んで上質のイラストを用い、朗読に向いたリズミカルな文体を導入した彼の読本は、文字テクストを視聴覚メディアに変える実験場となった。馬琴の文学が家庭内で女性や子どもたちにまで読み伝えられたのは、まさにその実験の成果である[13]。その一方、より高尚な議論を期待する読者に対しては、馬琴は文芸批評を提供した。  馬琴は宣長および秋成の学問を敬愛しつつも、彼らがやらなかった小説批評という新しい分野にチャレンジした。その際に、彼がモデルにしたのは、金聖嘆や李漁のような近世中国の批評家=思想家たちである。中国小説がそのメタ言説(批評)を含むハイブリッドなテクストであったように、馬琴の読本(稗史)は文芸批評や雑学を、その語りの余白において展開した。彼の最も名高い物語論である「稗史七則」――物語の制作にあたって心得るべき七つの技術をマニュアル化したものであり、金聖嘆や李漁の影響を強く受けている――も、『八犬伝』第九輯中帙附言として記されたものである。物語の仕組みを、当の物語のなかで解き明かすというこのメタゲームは、中国小説との接触なしにはあり得なかった。  さらに、馬琴は自らの批評を読者との双方向のコミュニケーションに仕立てた。彼の熱烈なファンであった殿村篠斎が、まだ完成途上の『八犬伝』について質問や批評を送ってきたとき、著者はそれに快く応じた。この両者のやりとりをまとめたのが『犬夷評判記』である[14]。『八犬伝』を二〇年以上も書き続けるのに並行して、その創作の秘密の一端を解き明かすような自作批評も公にする――ここからは、馬琴が批評というコミュニケーションを戦略的に活用していたことがうかがえるだろう。  こうして、小説と批評を交差させた中国の新しい文学的知能は、一九世紀日本の馬琴によって相続された[15]。しかも、彼は中国小説の単純な形態模写をしたわけではなく、ときに中国にもないような先進的な文芸批評も試みた。特に、われわれの目を引くのは、その文体論である。例えば、馬琴は建部綾足の『本朝水滸伝』が雅語を用いていることを厳しく批判し、中国小説(稗史)を「父母」として小説を書こうとするならば、俗語を用いなければならないと力説した。
    稗史野乗の人情を写すには、すべて俗語によらざれば、得なしがたきものなればこそ、唐土にては水滸伝西遊記を初として、宋末元明の作者ども、皆俗語もて綴りたれ、ここをもて人情を旨として綴る草紙物語に、古言はさらなり、正文をもてつづれといはば、羅貫中高東嘉もすべなかるべく、紫式部といふとも、今の世に生れて、古言もて物がたりふみを綴れといはば、必ず筆を投棄すべし。[16]
     ふつう日本文学史では、書き言葉を話し言葉に近づけようとする俗語化の試みを、明治期の言文一致運動に求める。しかし、馬琴は早くも一九世紀前半に、「人情を写す」には俗語の力が不可欠であり、それは『水滸伝』や『西遊記』はもとより、日本の『源氏物語』も変わらないときっぱり述べていた[17]。このような方法論的な自覚は、中国で大量の白話小説が刊行され、文学環境をラディカルに変化させたことに裏打ちされている。  馬琴にとって、先進的な中国小説のプログラムを日本語の環境でいかに利用するかは、一貫したテーマとなった。それは俗語化だけではない。彼は『八犬伝』以前に大きな人気を博した『椿説弓張月』(一八〇七~一一年)において、すでに中国小説の趣向を借りている。『椿説弓張月』は鎌倉時代の『保元物語』を下敷きとしつつ、弓の名手である亡命軍人・源為朝をその悲劇の運命から救済しようとする架空の物語である。保元の乱で敗北し、伊豆大島に流された馬琴版の為朝は優れた統治者となるが、その後朝廷に追われて琉球にまで落ち延び、そこで独立王国の父祖となる。この後半部のアイディアが一七世紀中国の陳忱の小説『水滸後伝』から得られたことは、つとに指摘されてきた。  もともと、『水滸伝』を部分訳し、『水滸伝』の好漢のジェンダーを反転させた『傾城水滸伝』をも世に送り出した馬琴は、陳忱の『水滸後伝』にも強い批評的関心を寄せていた。ゆえに、この小説が『椿説弓張月』の設計に利用されたのも不思議ではない。では、『水滸後伝』とはいかなる小説なのか。少し回り道になるが、簡単に紹介しておこう。
    6、遺民=亡霊のユートピア的想像力
     一六世紀の中国はドラマティックな出版革命を経験したが、それから一世紀も経たない一六四四年に、漢民族王朝の明は満州族に攻略されて滅亡する。このトラウマ的なショックを強く受け取ったのが、明の「遺民」たちである。彼らは新しい異民族王朝(清)に仕えるのを潔しとせず、前王朝の記憶を保ち続けた。一七世紀中国の文学や美術を考えるのに、遺民という亡霊的な存在を欠かすことはできない。  この遺民の志をもつ知識人の一人であった陳忱は、梁山泊の水軍を率いた李俊が後年シャムに逃れて王になったという『水滸伝』の一文をふくらませて、『水滸後伝』という新たな小説に仕上げた。そこでは、李俊をはじめ梁山泊のサバイバーたちが、腐敗した宋王朝――やがて女真族の金に蹂躙される――から逃走し、シャムに理想の政権を樹立するまでの物語が語られる。この亡命者たちの活躍には明らかに、異民族に蹂躙された明の遺民の苦境および願望が投影されていた。  著作権の概念のなかった当時、小説は一種のオープンソースとして用いられた。都市の盛り場でのパフォーマンスを母胎とする『水滸伝』や『三国志演義』はもとより、その『水滸伝』のエピソードをもとにした『金瓶梅』、さらには『水滸伝』の続書(続編)である『水滸後伝』は、いずれも間テクスト的なネットワークから派生したものである。ゆえに、これらの中国小説は、単独の作者の所有物としては理解できない(なお、二一世紀の中国においても、劉慈欣のベストセラーSF小説『三体』の「続書」が、インターネット上のファンによって書かれた――これは、近世的な伝統がネットワーク社会で復活したことを意味する)。  そのことと一見して矛盾するようだが、ここで面白いのは、この匿名的なオープンソースからときに固有の「作家性」が産出されたことである。この現象はしばしば、続書において認められる。現に、『水滸伝』や『西遊記』の著者の実態があいまいであるのに対して、その続書である陳忱の『水滸後伝』や董説の『西遊補』には、作者の遺民=亡霊としての境遇が投影された。オリジナルよりも二次創作において作家性がより鮮明になるという逆転現象が、ここには生じていた。  特に、一六六〇年代――ちょうど明の遺臣である鄭成功が、オランダ人から台湾を奪取しようとした時期にあたる――に書かれたと思しき『水滸後伝』には、遺民=亡霊の立場からの政治批評という一面がある。そこでは、オリジナルの『水滸伝』に引き続き、奸臣に牛耳られた宋王朝の衰退のシミュレーションが試みられ、政治家や僧侶の堕落が次々とあばかれてゆく。国家の中枢がすでにすっかり腐敗しきっていたところに、強力な異民族が襲来し、ついに宋は滅亡のときを迎える……。陳忱がここに、明の滅亡というトラウマ的体験を重ねていたのは明白である。  この致命的な内憂外患のなかで、『水滸後伝』の好漢たちには中国の「文化防衛」という役割が与えられた。シャムに亡命した彼らは、その地の奸臣と敵対するのみならず、何と「関白」の率いる日本軍とも交戦し、魔術によってその全員を凍死させる。粗野でずるがしこい異民族に対して、それを遥かに上回る中国人の叡智が誇示されるのだ。ここには、漢民族王朝の宋の自滅に対する一種の償い(redemption)という意味がある。  もともと、あらゆる社会的職種が戦争に差し向けられるオリジナルの『水滸伝』は、一種の総動員体制のような様相を呈していた。『水滸後伝』は好漢たちに再び動員をかけて、海外のシャムでユートピア建設に乗り出すが、物語が進むにつれて原作のカーニヴァル性はどんどん希薄になってゆく。かつての荒くれのピカロ――悪漢にして好漢――たちは、最終回に到ってついに礼楽の担い手となり、優雅な詩会を開催するまでになった(第四〇回)。こうして、李俊の統治するシャムは、中華文明のミニチュアとして再構築された。  ただし、ここには、無力な遺民=亡霊の文学ならではのアイロニーがある。というのも、李俊たちの「文明化」とその全面勝利は、あくまで限界を刻印されていたからである[18]。現に、この詩会の後に、宋江や燕青らの登場する芝居(水滸戯)が上演され、李俊らがそれを楽しむというメタフィクション的な場面が続くが、これは『水滸後伝』の虚構性に対するアイロニカルな自己言及である。李俊たちがシャムにユートピアを築いたところで、それはせいぜい上演された虚構にすぎない。ゆえに、トラウマ的な破局の歴史は何も変わらない。『水滸後伝』の末尾では、やがて南宋の滅亡が訪れることが仄めかされる。 そして、一八世紀に入ると、このようなアイロニーを含んだ文明の再建は、シャム(想像上の外国)ではなく中国の内部に向かった。『水滸後伝』のおよそ一世紀後の『紅楼夢』では、ジェンダー表象にも巧みな操作が加えられた。陳忱が『水滸伝』のエネルギーを呼び覚まして、男性優位のホモソーシャルな国家を海外に再建したのに対して、没落した名家の出身である曹雪芹は、むしろ反国家的な女性優位のユートピア(大観園)を国内に設計してみせるが、それも結局は崩壊する。この二つの小説はまさに好一対のユートピア小説であり、その夢はいずれ現実に屈することが示唆されていた。
     
  • 第五章 エスとしての日本(前編)|福嶋亮大

    2023-08-01 07:00  
    550pt

    本日のメルマガは、批評家・福嶋亮大さんの連載「世界文学のアーキテクチャ」をお届けします。今回は日本文学が受けた中国小説からの影響について分析します。あくまでも傍流的立ち位置だったという「小説」が隣国の文化に何をもたらしたのか、18世紀に国学を興した本居宣長の研究から明らかにします。
    福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ
    1、エスとしての日本/小説
     文芸批評家のテリー・イーグルトンはアイルランドをイギリスの無意識(エス)と見なす立場から、エミリ・ブロンテの『嵐が丘』(一八四七年)のヒースクリフが、わけのわからない言葉を話す薄汚れた黒髪の孤児として登場することに注目した。彼の考えでは、リヴァプールの街角で飢えていたところを拾われたヒースクリフは、一八四〇年代後半に未曽有のジャガイモ飢饉に襲われたアイルランドの難民のアレゴリーである。イーグルトンはこの黒々とした難民的存在のもつ不気味さに、イギリスにとって目を背けたいエスの露呈を認める。
    われわれは、エスの領域にあっては自我にとって許容しがたい行為に耽る。それと同じように、十九世紀のアイルランドという場所にあっては、イギリス人たちは、自らの意識的な信念の否定あるいは逆転という形で、自分自身の諸原則を明るみに出してしまうことを余儀なくされたのである。[1]
     この見解を応用して言えば、日本にも中国のエスとしての一面がある。つまり、中国から見ると、日本は(イギリス人にとってのヒースクリフのように)意味のわからない言葉を話しながら「許容しがたい行為」に耽り、ついには道徳的な信念を「逆転」させるミステリアスな存在ではなかったか。しかも、一九世紀後半以降の日本は急速に軍事化し、中国に戦争を仕掛けるまでに到ったのだから、その存在はなおさら不気味に映るに違いない。  現代の日本研究者である李永晶は、まさにこの不気味さを「変態」と言い表した。それは性的な「変態」を指すとともに、日本が中国から文化的影響を受けつつ、思いがけない方向に自らを「変異」させてきたことも意味する。中国のコピー(分身)である日本は、ときにオリジナルを凌駕するような文化的変異株を作成した。李によれば、中国人はこの捉えどころのない日本に対して、潜在的な「情結」(コンプレックス)を抱いてきた[2]。私なりに言い換えれば、この固着した感情は、日本が中国の意識を脅かす「エス」であることと等しい。  その一方、中国の内部にも私生児的なサブカルチャーがあったことも見逃せない。それはほかならぬ「小説」である。『水滸伝』にせよ『金瓶梅』にせよ『紅楼夢』にせよ、そこには儒教的な規範意識によって抑圧されたもの(カーニヴァル性、性愛、少女性……)が回帰している。前章で述べたように、李卓吾をシンボルとする明末以降の批評家は、中国のオーソドックスな文化の「変態」であるサブカルチャー=小説に積極的な価値を認めた。  のみならず、このエスとしての中国小説は、同じくエスとしての日本にも多面的な影響を及ぼした。中国小説と早期に接触した思想家として、ここで空海の名を挙げておこう。空海が『聾瞽指帰』(七九七年)の序文で、唐の張文成(張鷟)の小説『遊仙窟』――運命の行き詰まりを感じていた著者が、仙女のいる家に迷い込み、詩の巧みな応酬によって彼女の心をつかんで一夜の性的な交歓にふけるエロティックな小説――に言及していたことは興味深い。
    中国に張文成という人がいて、疲れやすめの書物を著した。その言葉は美しい玉をつらぬくようで、その筆力は鸞鳥や鳳凰を高く飛ばすようである。ただし残念ながら、むやみに淫らなことを書きちらして、まったく優雅な言葉[雅詞]がない。その書物にむかって紙面を広げると、魯の賢者柳下恵も嘆きをおこし、文章に注目して字句を味わおうとすれば僧侶も動揺する。(原文は漢文)[3]
     『聾瞽指帰』とは空海の思想書『三教指帰』――中国の「賦」をモデルとする対話体の作品であり、儒教・仏教・道教の三教を競わせた末に、仏教の優位性を示す――の原型になったテクストだが、『三教指帰』のヴァージョンでは序文が書き直され、この引用部は削除された。それだけに、この小説論には、どこか過剰で不穏なものが感じられる。空海は確かに『遊仙窟』の「淫らさ」は文章の標準にならないと見なすが、そのような不埒な小説=サブカルチャーが僧侶の心を動揺させるだけの魔力をもつことも、はっきり認めている。小説を批判しつつその幻惑的な美しさにも言及するという両義性が、この序文には忍び込んでいる。  なぜ空海は宗教者でありながら、自身の信条とは無関係のフィクションにわざわざ言及したのか。仏教学者の阿部龍一が指摘するように、それは恐らく、若き空海がエリート的な立身出世コースからドロップアウトした私度僧、つまり律令体制のアウトサイダーであったことと関わるだろう[4]。その濃厚なエロスによって信仰心をかき乱す『遊仙窟』は、あくまで非公式的なサブカルチャーにすぎない。しかし、日本の律令国家を支える政治的・宗教的な言説に飽き足らなかった空海には、そのような異国のサブカルチャーに感応する余地が大いにあった。「文」(エクリチュール)に対する空海の態度は、当時の日本の誰とも似ていない。彼は『三教指帰』のような護教論的著作のみならず、中国の詩学を体系化した『文鏡秘府論』も残しているが、これも後にも先にもほとんど類例のない仕事であった。  象徴的なことに、遣唐使によって持ち帰られた『遊仙窟』は、中国では早くに散逸し、日本でしか現存していない(それを再発見した中国人は『中国小説史略』を書いた魯迅である)。しかも、日本人はこの舶来の『遊仙窟』を神聖視し、その影響は『万葉集』や『源氏物語』のような日本文学の中枢にまで及んだ。中国では抑圧されたエス的なサブカルチャーが、かえって日本では文化の表面に堂々と現れ、空海や紫式部のような優れた知識人をも魅了する――ここには日本の文化体験の原型があると言えるだろう。
     
  • 第四章 オルタナティヴな近代性――中国小説の世界認識(後編)|福嶋亮大

    2023-07-12 07:00  
    550pt

    本日のメルマガは、批評家・福嶋亮大さんの連載「世界文学のアーキテクチャ」をお届けします。『水滸伝』や『三国志演義』といった作品がどのように読み解かれたのかを通じて、近世の中国文学と批評のあり方について分析します。前編はこちら。
    福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ
    5、一六世紀のコミュニケーション革命
     以上のように、中国の「小説」はその周縁性ゆえに、オーソドックスな文化的分類体系を攪乱してきた。この文化のへりにあった小説が大きな飛躍を遂げたのが、明清時代――アメリカの学術界では「後期帝国中国」(Late Imperial China)とも呼ばれる――である。その背景には、出版物の爆発的増大という劇的なコミュニケーション革命があった。  印刷術そのものはすでに八世紀には存在していたが、それが出版という業態へと進むには相当の時間がかかった。唐までは、書物に記された知識は、手書きの書写本(鈔本)として一部の貴族に独占され、ごく狭い範囲で流通するだけであった[11]。例外は、仏教が布教のために印刷術を利用したことである。韓国で発見された「大陀羅尼経」や日本の「百万頭陀羅尼」が最初期の印刷物とされることからも分かるように、印刷の歴史は仏教と深い関係がある。中国文学者の大木康は「印刷術はほぼまちがいなく仏教の世界、あるいは少なくとも仏教にごく近いところで発明されたといってよいのではないかと思う」と述べている[12]。  唐の滅亡後、それまで社会から隔離されていた書物は、貴族階級の没落によって広く開放され始めた。それが中国出版史の事実上のファースト・ステップとなる。宋代(特に南宋)に入ると、出版業はめざましい広がりを見せて、書物の供給ルートが形成された。旺盛な知識欲をもった宋の知識人は、儒教以外の異端的な思想書(『韓非子』等)も含む多様な書物を望んだ。その結果、当時の著名な詩人・蘇軾(蘇東坡)に無断で、彼の詩集を刊行するようなケースすら生じたのである。しかも、この海賊版の詩集に朝廷を誹謗する箇所があったとされて、蘇軾はあやうく処刑されかける。これは営利出版がそのまま政治的な事件になり得ることを、よく示すエピソードだと言えるだろう。  しかし、当時の士大夫は書物があまりに広く開放されることを警戒し、営利出版の発展には無意識のうちにブレーキをかけた。そのため、出版がその潜在力を解き放てずにいるうちに、モンゴル族の支配する元の時代になり、出版物の多様性や品質は低下してしまう。いったん冬の時代に入った出版業は、なかなかそのトンネルから抜け出せなかった。それは元が滅んで、漢民族の明になっても変わらない。「出版の俗化と単調化は、漢族王朝が復活して明代となっても、とどまるどころか一層はなはだしく進行し、加えて量的にも衰退の様相を呈した」(井上進)[13]。  この質量ともに低調な状況が一変したのが、一六世紀半ば以降の明末の万暦年間のことである。この時期に出版文化は空前の活況を呈し、多くの印刷物が巷にあふれた。書物はもはや一部の知識人の独占物ではなくなり、各都市に広く流通するようになった。ちょうど一六世紀以降のヨーロッパでユマニストたちが出版と思想を結びつけ、新しいフォントであるローマン体やイタリック体が普及したように(前章参照)、だいたい同時期の中国でも、版木を彫るときに分業しやすい幾何学的な明朝体のフォントが誕生し、書物の拡大に大いに寄与した。  大木康は当時の「出版革命」の帰結として、書物の形態が大量生産に向いた線装本に変わり、明朝体が生まれ、図像入りの書物が氾濫するようになったことに加えて、小説の刊行点数が爆発的に増加したことを挙げている。それに伴って、出版や批評に積極的にコミットする「出版文化人」(陳継儒、李卓吾、馮夢龍、李漁ら)が台頭し始めた[14]。出版と小説を積極的に活用しながらときに社会の規範に挑戦した彼らを、中国版のユマニストと見なしても、さほど言い過ぎではないだろう。  すでに『三国志演義』や『水滸伝』は元末明初(一四世紀)の時点で、ある程度作品としてまとまりつつあったが、出版革命の起こった一六世紀以降、出版物として社会に定着する。例えば、『水滸伝』の刊本には複数の系統があるが、そのうち代表的な『李卓吾先生批評忠義水滸伝』(杭州の容与堂刊)は一七世紀初頭に刊行された。それとほぼ同時期の一六一〇年に、『水滸伝』の一つのエピソードを長編にふくらませた『金瓶梅』が出る。『三国志演義』の代表的な刊本である『李卓吾先生批評三国志』もだいたい同時期の刊行物である。  この『水滸伝』や『三国志』を筆頭に、当時の小説はしばしば出版文化人のコメント入りで刊行された。ここから分かるのは、著名な批評家のコメントが作品の付加価値を高めたこと、そして小説が批評=思想の新しい動向と密接に関わっていたことである。これらの小説はたんなる暇つぶしにはとどまらず、出版革命を背景とする先端的な思想運動のシンボルにもなった。  これらの小説の作者は名義上、羅貫中や施耐庵とされているが、彼らの実態は漠然としていて、ほとんど何も分からない。それに比べて、一六世紀後半を生きた李卓吾は、出版界では名高い思想家であった。そのため、彼の名義を借りて、実際には別人が批評を書くケースも多かった(例えば、『李卓吾先生批評忠義水滸伝』の批評家は、李卓吾ではなく葉昼という説が有力である)。後述するように、このパイオニアとしての李卓吾の思想に触発されて、『三国志演義』の改訂版を出した毛宗崗や『水滸伝』に独創的なコメントを付した金聖嘆のような一七世紀(明末清初)の批評家が、この批評=思想の運動を継承することになる。 
  • 第四章 オルタナティヴな近代性――中国小説の世界認識(前編)|福嶋亮大

    2023-07-07 07:00  
    550pt

    本日のメルマガは、批評家・福嶋亮大さんの連載「世界文学のアーキテクチャ」をお届けします。歴史書を基礎とする古代の中国小説が、やがて一般化した「小説」とどのように異なるのかを分析し、近世の小説のあり方を捉え直します。
    福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ
    1、二つの文学ウイルス
     本章および次章では、主に近世(early modern)の小説を中心として、中国文学および日本文学のあり方に照明を当てるが、それに先立って、中国小説の文化史的な位置づけを検討したい。少し回り道しながら考えていこう。  夏目漱石の『文学論』(一九〇七年)の序は、英文科出身の彼が英語の研究を命ぜられ、二〇世紀初頭のイギリスに留学したときの回想に始まる。彼はそこで文学を「社会学的心理学的」に研究するという巨大なテーマに取り組み、ついに神経衰弱に陥った。ここで重要なのは、彼をこの無謀な研究に駆り立てたのが「漢文学」および「英文学」との遭遇であったことである。
    余は少時好んで漢籍を学びたり。これを学ぶ事短かきにも関らず、文学はかくの如き者なりとの定義を漠然と冥々裏に左国史漢より得たり。ひそかに思ふに英文学もかくの如きものなるべし、かくの如きものならば生涯を挙げてこれを学ぶも、あながちに悔ゆることなかるべしと。
     こうして、二つの文学の共通性を信じて、英文学研究に生涯をささげようとした漱石は、しかしいくら読書しても英文学を味わい得たという境地に到れず、大学の卒業時には「何となく英文学に欺かれたるが如き不安の念」に駆られる。この不安が漱石を次の有名な見解へと導いた。「漢学に所謂文学と英語に所謂文学とは到底同定義の下に一括し得べからざる異種類のものたらざるべからず」。つまり、漱石は漢文学と英文学をいったん「文学」の名のもとに同一化したが、それがかえって両者の差異を際立たせたのである。  私は前章で、小説の流行をパンデミックにたとえた。そのメタファーを再び用いて言えば、すでに漢文学ウイルスに感染していた漱石は、英文学ウイルスに遭遇し、しかもその特有の「症状」に強い違和感を覚えていたと言えるだろう。この二つの文学は同種に思えるが、いわばインフルエンザウイルスとコロナウイルスが似て非なるものであるように、それが読者の引き起こす反応は異なっていた。少なくとも、鋭敏な漱石はどうしてもその差異を看過できなかったのである。  同時代人の森鷗外は、ゲーテをはじめヨーロッパ文学の翻訳に熱心に取り組んだ。ゲーテが『西東詩集』でペルシア詩人の「精神」をドイツ語に変換したように、鷗外もヨーロッパ文学のエッセンスを日本語の表現に導入しようとした。特に、オムニバス形式で各国の短編小説を翻訳・収録した鷗外の『諸国物語』は、まさに世界文学の地図製作者の面目躍如という感がある。むろん、ドイツに留学した鷗外も漱石と同じく、二つの文学の差異を肌身で感じていたに違いない。それでも、彼はゲーテの翻訳者にふさわしく、世界文学を受容し得るだけの表現力や柔軟性をもつ日本語のプラットフォームを、入念に組織したのである。  それに対して、漱石は卓越した語学力をもっていたにもかかわらず、年上の鷗外や二葉亭四迷と違って、その能力を翻訳に向けることはなかった。彼がやろうとしたのは、いわば系統の異なる二つの文学ウイルスを生み出した共通の仕組みを、科学的なアプローチで解き明かすことである。F(認識的要素)とf(情緒的要素)の組み合わせであらゆる文学を説明しようとする漱石の力業は、そこから生み出された。  ただ、現代のわれわれのもつ文学イメージからすると、いささか奇妙に思えることがある。それは、漱石が「文学はかくの如き者なりとの定義」を得たのが「左国史漢」、つまり『春秋左氏伝』『国語』『史記』『漢書』という歴史書からであったという事実である。彼自身優れた漢詩人であったにもかかわらず、漱石はこの序文で詩人にまったく言及していない。『文学論』の本文では、イギリスと中国の詩が多く作例として挙げられるのだから、序文の態度はなおさら奇異に感じられる[1]。  しかし、中国文学の基礎を歴史書に求めるのは、決しておかしいことではない。それは中国文学の特性に関わっている。かつて吉川幸次郎は、近世に白話小説が流布するまで、中国文学の担い手たちが一貫して、虚構よりも事実を尊重してきたことに本質的な意味を認めた。
    非虚構の素材の尊重、言語表現の特別な尊重が、この文学史の二大特長と考えられる。二つはともに、この文明に普遍な方向である即物性によって説明されるであろう。歴史事実、日常の経験は、空想による事象よりも、より確実な存在である。表現された言語は表現する心象よりも、より確実に把握される。この国の哲学も、ひとしく即物的であり、神、超自然への関心を抑制し、地上の人間そのものへ視線を集中したが、おなじ精神が、文学をも支配したのである。[2]
     このような「即物性」を凝縮したのが、「地上の人間」の諸相を記録した歴史書というジャンルである。左国史漢に文学を代表させたとき、漱石は中国文学の急所を浮かび上がらせていたと言えるだろう。
    2、詩と小説――その評価の違い
     そもそも、事実の記録と伝承は、中国では歴史書に限らず文学的なエクリチュール全般――今はこういう大雑把な言い方をしておく――で要求されたものである。ホメロスの叙事詩が百科全書的な教育装置であったとするエリック・ハヴロックの説(第二章参照)は、ギリシアのみならず中国の文芸にも適用できる。例えば、詩を学ぶ効用について、孔子は次のように説明した。
    子曰く、小子何ぞかの詩を学ぶこと莫きや。詩は以て興すべく、以て観るべく、以て群すべく、以て怨むべし。邇くは父に事え、遠くは君に事え、多く鳥獣草木の名を識る。(『論語』陽貨)
     孔子の詩学によれば、詩は心を奮い立たせ(興)、ものを観る仕方を教え(観)、共同生活を営ませ(群)、うらみごとの感情もうまく吐露させる(怨)。のみならず、詩の学習者は父や君主に適切な仕方で仕え、鳥獣草木の知識を得ることもできる――つまり、詩は共同生活に必要な基礎教養や倫理を教える百科全書として、孔子には理解されていた。しかも、この百科全書はたんに自然の名称のみならず、自然の根源的な生命力(古代ギリシアで言う「ピュシス」)をも伝達する。「詩三百、一言以て之を蔽う、曰く思い邪なし」(『論語』為政)と力強く言い切った孔子は、邪念のないまっすぐでふくよかな生命力こそを、詩という教科書の核心と見なしていた。  現に、古代の歌謡を集めた『詩経』における自然物は、しばしば「徳」の文字を伴って歌われる[3]。徳とは英語のvirtueと同じく、万物そのものに内在し、人間や自然を動かす霊的な「力」を言い表した言葉である。ゆえに、詩を共有することは、たんなる知識の獲得にとどまらず、自然や人間のもつ根源的な生命力にアクセスする行為に等しかった。詩が共同体の基礎教養となったのも、この万物のもつ「徳」の力を了解するのに、詩が欠かせなかったためである。  孔子やその門弟は、しばしば『詩経』を倫理的生活のメタファーとして用いた。一例をあげると、孔子が「貧しくても学問を楽しみ、豊かでも礼を好むほうがよいだろう」と述べたところ、弟子の子貢が「『詩経』に「切するがごとく、磋するがごとく、琢するがごとく、磨するがごとく」とあるのがそれでしょうか」と答えて、孔子が絶賛したというエピソードがある(『論語』学而)。切磋琢磨とはもともと骨、象牙、玉、石の加工法を指す言葉だが、師弟はそれを修養のテクノロジーとして読み替えている。詩は自然と人為をメタファーでつなぐ、一種の翻訳装置であったと言えるだろう。  では、小説はどうだろうか。詩が歴代の知識人(士大夫)に高く評価されてきたのに対して、小説は総じて劣位に置かれてきた。ここで重要なのは、小説が文化と非文化のボーダーラインにあったことである。中国の小説の起源を考えるとき、紀元一世紀の歴史家・班固の『漢書』芸文志――漢代の書籍目録であり、古代学術史の基礎文献でもある――の次の記載は必ず参照されるが、そこにはすでに小説の位置づけの難しさが示されていた。
    小説家の流れは稗官に由来するのだろう。街談巷語(大通りや路地の話)、道聴塗説(道端で聞いたことを道端の他人に受け売りで話すこと)をこととする人間の造ったものである。
     班固はここで孔子の批評を念頭に置いている。孔子は「道聴塗説は、徳を之れ捨つるなり」(『論語』陽貨)と弟子に厳しく注意した。他人の言葉をすぐに受け売りしたり、街角のゴシップを不用意に垂れ流したりするのは、彼には徳を台無しにする悪行として映ったのである。これは、彼が詩を徳の向上と結びつけたこととちょうど対照的である。孔子の文芸批評は、詩を共同体の教師として評価しながら、後に「小説」の淵源となったゴシップの流通(道聴塗説)を批判するという両面戦略を示していた。  ならば、班固はこの孔子の考え方に従って「小説」には社会的価値がないと断定しているのだろうか。その答えはイエス・アンド・ノーである。この文章は確かに、国家の高級官僚の立場から、ストリートで交わされる不正確な言葉を見下している(実際、班固が具体的に「小説」の書名を挙げるとき、そこにはしばしば「内容が浅薄である」という短いコメントも付けられた)。しかし、ここで重要なのは、班固がその直後に次の孔子(実際には弟子の子夏)の言葉を引用したことである。
    小道といえども、必ず観るべき者あり。遠きを致すには泥まんことを恐る。是を以て君子は為さざるなり。(『論語』子張)
     つまらないことにも必ず見るべきものはある、ただ遠大なことをやろうとする君子はその小さなことにのめりこむのを恐れるから、それには手を出さない――班固はこの『論語』の考え方を「小道」を語る「小説」の批評に応用した。彼が認めたのは、街角のゴシップが、まともな人間には相手にされないとはいえ、社会の観察者にとっては一定の意義をもつということである。しかも、このサブカルチャーとしての「小説」が君子をものめりこませる怪しげな魅力を備えていることも、班固は認識していた。 
  • 第三章 他者を探し求めるヨーロッパ小説――初期グローバリゼーション再考(後編)|福嶋亮大

    2023-06-13 07:00  
    550pt

    本日のメルマガは、批評家・福嶋亮大さんの連載「世界文学のアーキテクチャ」をお届けします。一八世紀、初期グローバリゼーションによって生じた「他者とのつながり」に文学作品はどう向き合ったのか、『ロビンソン・クルーソー』を象徴的な作品として分析します。 前編はこちら。
    福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ
    6、アジアの帝国から未知の新世界へ
     われわれはふつう、文学の世界認識は狭小な段階から徐々に拡大していったと漠然と思い込んでいる。しかし、ヨーロッパ文学の歩みは決してそういうものではない。繰り返せば、古代ギリシアのアイスキュロスからして、すでに東方のペルシア帝国とのコンタクトを劇の中枢に据えていた。前章で述べたように、「今・ここ」を超越して、他者に憑依するガリレイ的言語意識も、ヘロドトスの『歴史』をはじめギリシア人の世界認識に早くも出現していた。  標語的に言えば、ヨーロッパ文学史とは他者を探
  • 第三章 他者を探し求めるヨーロッパ小説――初期グローバリゼーション再考(前編)|福嶋亮大

    2023-06-07 07:00  
    550pt

    本日のメルマガは、批評家・福嶋亮大さんの連載「世界文学のアーキテクチャ」をお届けします。小説史を研究するうえで暗黙の前提となっていたヨーロッパ中心主義を批判すべく、アジア圏の作品がヨーロッパ文学に与えた影響について解説します。
    福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ
    1、ヨーロッパ中心主義をいかに解体するか
     世界文学=世界市場の成立は、文芸の諸ジャンルのなかで小説が覇権を握ったことと不可分である。小説は文学史上の新参者であるにもかかわらず、詩や演劇を凌駕し、世界規模の市場を生み出した。いわば小説のパンデミックこそが、近代文学史における最大の出来事なのである。序章で述べたように、それは商品としての小説が勝利したということと等しい。  ただし、このように考えるとき、小説がヨーロッパの固有種であることがしばしば暗黙の前提となっている。世界文学を推進せよというフリーメイソン的な命令を発したゲーテですら、ヨーロッパ文明の源流である古代ギリシアに特権性を与えていた。ゲーテがエッカーマンに対して、来るべき世界文学は何でもありではなく、あくまで「古代ギリシア人の作品には、つねに美しい人間が描かれている」(一八二七年一月三一日)から、それを模範にせねばならないと釘を刺したのは、その証拠である。もともと、ゲーテの美学は一八世紀ドイツの美術史家ヴィンケルマンの『ギリシア芸術模倣論』――古代ギリシア芸術という「源泉」に戻ることを訴え、新古典主義を準備した著作――の影響下にあったが、その尺度は文学にも適用されたのである。  パレスチナ生まれの批評家エドワード・サイードが批判的に論じたように、ヨーロッパ中心主義的なイデオロギーは、ゲーテのみならず二〇世紀の碩学の比較文学者(クルツィウスやアウエルバッハ)にまで及んでいる。サイードは「ヨーロッパと、ヨーロッパのキリスト教的・ラテン的文化圏」を最高位に据えるイデオロギーを解体することに、あくなき執念を燃やし、特にイスラムやアジアへのバイアスのかかった表象(オリエンタリズム)を粘り強く批判した[1]。西洋の帝国主義はたんに軍事力で他者を支配しただけではなく、文学や学問のレベルでも東方の他者を御しやすい記号に変えたとするサイードの批評は、知識=権力のもつ政治性をラディカルに問いただそうとする試みであった。  サイードの仕事の重要性は疑う余地がない。とはいえ、彼とは別のアプローチで、ヨーロッパ中心主義を相対化することも可能ではないか。そもそも、東アジアでは、中国がヨーロッパとは独立した「小説」の文化を数世紀にわたって持続させ、日本や朝鮮半島にまで影響を及ぼしてきた。その歴史の重みは、西洋の内在的批判者であったサイードよりも、ヨーロッパ中心主義者と目されるゲーテのほうが、かえって真剣に受け取っていたと言えるかもしれない。サイードはイスラムに対する西洋諸国(特にイギリス、アメリカ、フランス)の偏見の再生産に鋭い感覚を働かせた反面、中国や日本の文学的伝統はおおむね視野の外に置いた。それに対して、文人政治家のゲーテはむしろ中国(清)の小説にも言及しながら、世界文学の構想を気兼ねなく語ったのである。  さらに、ゲーテは一四世紀ペルシアの詩人ハーフィズに強く触発されて、一二編から成るチクルス(連作)『西東詩集』(一八一九年初版/一八二七年決定版)を刊行したが、それと連動してきわめて綿密な研究を残した。彼はそこでオリエントの「精神」を高く評価している。
    オリエントの詩歌の最高の性格は、われわれドイツ人が精神[ガイスト]と呼ぶ、上位にあって人間をみちびく存在のすぐれた特性である。〔…〕精神はとりわけ老年に、あるいは老年に入った世界の時期に属する。オリエントの文学には、総じて世界全体を見わたす眼、アイロニー、資質の自在な行使が見いだされる。[2]
     ヘーゲルならば、このような言い方は決してしなかっただろう。ヘーゲルにとって、精神の歴史はヨーロッパで真に完成するのであり、アジア文明は踏み越えられるべき未熟な段階にすぎない。それとは逆に、ゲーテはペルシアの詩にこそ、ヨーロッパの人間中心主義とは異なる「老年」の成熟した精神を認めた。「アラビア人が駱駝や馬に対して心からの親和性をもっていることは、あたかも肉体と霊の間柄にさながらである」と称賛したゲーテが、自身の『西東詩集』でもイエスやムハンマドゆかりの「恩寵を受けた動物」(驢馬、狼、犬、猫)を取り上げていることは、注目に値するだろう[3]。『ファウスト』を筆頭にして、ゲーテの文学には人間ならざるものへの変身の欲望があったが(第一章参照)、彼はそれをアラビアの詩に見出したのである。  もっとも、この野心的な詩集もサイードに言わせれば、オリエンタリズムを「無邪気に利用」したものにすぎない。彼はゲーテの「移住〔ヘジュラ〕」という詩を取り上げて、そこでオリエントが「解放の一形式」に――若々しい精神をよみがえらせる「泉」に――仕立てられたことを批判した[4]。戦争の続く西・南・北の野蛮さに染まっていない「東」を称揚したゲーテは、ペルシアの詩を尊敬するように見えて、実際にはその他者性を除去し、いわば精神のアンチエイジングの機会として横領したのではないか? このサイードの問題提起は広い射程をもつ。なぜなら、他国を勝手に「解放」のシンボルとして祭り上げるイメージ戦略は、過去のオリエンタリズムに限らず、現代でもさまざまな形で反復されているのだから。  それでも、私は以下サイードの見解をたびたび参照しつつも、大筋ではゲーテの(一見するとナイーヴにも思える)世界文学論のプロジェクトの批判的延伸を試みたいと思う。というのも、東西のコンタクト・ゾーンのもつ意味を再考しつつ、アジアの独立性にも十分な注意を払うことは、世界文学論の核心的なテーマだからである。そこで以下の二章では、〈1〉ヨーロッパとその外部世界とのコンタクトを中心として文学史を再記述すること、〈2〉ヨーロッパと並び立つ中国の文学について、その文学史上の意味を再考すること、この二点について考察する。
    2、コンタクト・ゾーンの文学
     もとより、古代ギリシアに始まる純正のヨーロッパ文化とは、それ自体がフィクションである。そのフィクションへの批判として、ギリシア文化のルーツをエジプトやシリアに認めたマーティン・バナールの『ブラック・アテナ』は名高い。彼の仮説は学界で猛烈なバッシングを受けたが、ギリシアをヨーロッパの不動の源泉とする限り、それ以前のメソポタミアやエジプトのきわめて長大な文明が不当に軽視されることは避けがたい。その点で「ヨーロッパ白人中心主義」を解体し、古代ギリシアをむしろ雑色の混成文化として捉え返そうとするバナールの主張は、今でもその意義を失っていない[5]。  ギリシアの文学史にしても、彼らが「バルバロイ」と呼んだ東方の世界とのコンタクト抜きには語れない。ギリシア演劇のパイオニアであるアイスキュロスの悲劇『ペルシア人』は、ペルシア帝国のクセルクセス大王の傲慢ゆえの敗北をテーマとしている。短気なクセルクセスはギリシアとの戦争で、大勢の兵士をむざむざと失った。取り残された女たちは、王の短慮のもたらした大量絶滅への「嘆き」の声でアジアの大地を満たす。「今やげにアジアの全土/人影もなく嘆きあり」[6]。  ペルシア戦争に従軍した兵士でもあったアイスキュロスは、その硬質でゆるぎない言葉によって、ペルシア人女性への感情移入を強力に組織した。ペルシアの指導者の失敗が、女性たちの嘆きにおいて、アジア全土に被害を与える深刻なカタストロフとして表現される――これはまさに表象と感情の政治である。サイードによれば、アイスキュロスのペルシア表象は、偏見に染まった西洋のオリエンタリズムのプロトタイプになった。そこでは、ペルシアは威嚇的な「他者」であることをやめて、比較的親しみやすい女性の嘆きの声へと縮減された[7]。戦争は他者(オリエント)との敵対性を際立たせる一方、それ自体が巨大なコミュニケーション、つまり敵=他者に乗り移り、かつ勝者の立場から敗者の感情を定型化する機会になったのである。  こうして、ギリシアの劇は自らのライヴァルであった「アジア」および「帝国」を消化吸収する器官として機能した。ただ、公平を期して言えば、ギリシア人がただ東方の帝国を「野蛮」や「悲嘆」のイメージに回収し尽くしたわけでもない。  例えば、ヘロドトスは『歴史』でイランの騎馬民族スキュタイ人について「外国の風習を入れることを極度に嫌う」(巻四・七六)としてその閉鎖性を指摘する一方「世界中でペルシア人ほど外国の風習をとり入れる民族はいない」(巻一・一三五)と評して、享楽的なペルシア人が異国のファッションを貪欲に吸収し、ギリシア由来の少年愛を存分に楽しんでいることを報告していた。ギリシアの植民都市であるハリカルナッソス(現トルコ)生まれのヘロドトス自身がコンタクト・ゾーンの申し子であり、それは彼のペルシアの見方にも影響したと思われる[8]。ヘロドトスの数世紀後、アレクサンドロス大王の東征をきっかけとして、ペルシア人はギリシア文化と融合してヘレニズム文化を生み出したが、それも彼らの並外れた開放性なしにはあり得なかっただろう。  さらに、西洋文化の源流としてヘレニズムと並列されるヘブライズム(ユダヤ・キリスト教の一神教文化)も、アジアとのコンタクト・ゾーンを母胎としている。バビロン(現在のバグダード近郊)に強制移住させられたユダヤの民は、異郷の地で聖書の編集にあたったが、そのプロセスでオリエントの神話が聖書のテクストに侵入することになった。特に、『創世記』の最初の部分(いわゆる「原初史」)における洪水物語(ノアの箱舟の説話)は、メソポタミアの『ギルガメシュ叙事詩』の洪水物語から、その多神教的要素を払拭し、峻厳なヤハウェ信仰の立場からそれを書き改めたものと推測されている。加えて、旧約聖書のコーへレト書(伝道の書)にも『ギルガメシュ叙事詩』とよく似た人生観――人間が死ぬべき「空の空」の存在であり、その運命が動物の運命と何ら変わらないことを率直に認めようとするニヒリスティックな覚悟――が認められる[9]。  生物学的な隠喩を使えば、ヘレニズムにせよヘブライズムにせよ、いわば遺伝子の交叉(クロスオーバー)に似た文化現象と評せるのではないか。はっきりしているのは、ヨーロッパの文化的アイデンティティの古層はすでにアジアに深く浸透されており、その純正さを無理に主張しようとしても、せいぜい偏狭なオリエンタリズムに陥るだけだということである。われわれはむしろ、アイスキュロスの劇もヘロドトスの歴史書もユダヤの聖なるテクストも、アジアの帝国との「接近遭遇」というトラウマ的なショックなしにはあり得なかったことを再確認すべきである(裏返せば、オリエンタリズムとはこのショックを無化しようとする集団心理的な反応として理解できる)。  そして、この接近遭遇ゆえのショックは、七世紀以降アジアに強大なイスラム帝国が築かれたことによって、いっそう増幅された。サイードは次のように鋭く指摘している。
    たしかにイスラムは多くの点で、まことに気にさわる挑発的存在であった。それは、地理的にも文化的にも、不安をかき立てるほどにキリスト教世界に近接していた。ユダヤ教的=ヘレニズム的伝統を身につけたのもイスラムなら、キリスト教から独創的なやり方で借用を行ったのも、軍事上、政治上の無類の成功を誇ることができたのもイスラムであった。そればかりではない。イスラムの国々は、聖地の近隣、いや聖地の頂点[イェルサレム]にさえ存在していた。[10]
     キリスト教世界にとって、イスラムは自己と遠く隔たった他者ではなく、むしろ多くの点で自己と近似した――しかもしばしば自己よりも優れた――他者なのであり、だからこそその存在が気にさわったのだ。この近さゆえの不安と否認が、今日のパレスチナ問題やヨーロッパ社会のイスラモフォビアにまで及んでいるのは明らかだろう。  そもそも、イスラムの高度に洗練された知識や技芸は、ヨーロッパの思想や文化にも入り込んでいる。十字軍遠征を経て、アリストテレスをはじめ古代ギリシア人の哲学がイスラム経由で中世スコラ哲学に入り込んだことはよく指摘されるが、文学についてもその中枢にある恋愛表現が、イスラムから影響を受けたという有力な説がある。  ドニ・ド・ルージュモンによれば、ヨーロッパ抒情詩の源流である一二世紀のトゥルバドゥールには、アラビアの文学の影響が及んでいる。彼らの詩は結婚を度外視した純潔な魂の讃歌であり、その「永久に満たされることのない」愛ゆえの神秘主義的な飛躍を、高度に洗練されたレトリックで歌い上げた。その母胎となった宮廷風恋愛(コルテツィア)の隠喩は、アラビアのエロティックな詩とよく似ているとされる。その一方、アンリ・ダヴァンソンはより微妙な筆遣いで、この「アラブ仮説」の行き過ぎを戒め、両者の違いを指摘したが(例えばアラビアの愛がしばしば同性愛であったのに対して、ヨーロッパのトゥルバドゥールのそれは異性愛的性格をもつ)、それでもアラビアからの影響を決して否定したわけではない[11]。この観点から言えば、ゲーテの『西東詩集』はヨーロッパ抒情詩のアラビア的古層を、再び視界に浮上させるような仕事と見なせるだろう。 
  • 第二章 小説の古層――ゴシップ・ガリレイ的言語意識・百科全書|福嶋亮大

    2023-05-16 07:00  
    550pt

    本日のメルマガは、批評家・福嶋亮大さんの連載「世界文学のアーキテクチャ」をお届けします。小説の「起源」を探るべく、人類が言語以前から持ち続けていたコミュニケーション様式を振り返りつつ、言語と小説の進化史について考察します。
    福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ
    1、ゴシップの人類学的意味
     小説の起源をいつ、どこに求めるかは難題である。ただ、人類史的な視点から言えば、ストーリーを語ろうとするコミュニケーションの意欲が人類に備わっていることが、あらゆる小説の必要条件であることは確かに思える。もし人間が「語る動物」でなければ、小説が生まれることもなかっただろう。 その一方、語る動物であるからといって必ず小説を生み出すわけでもない。どんな共同体にも物語はあるが、それが小説という形態をとるようになったのは、比較的最近の現象にすぎない。小説とは語りのコミュニケーションの大海に浮かぶ島嶼のようなものであり、ゆえに≪世界文学≫の進化を考えるには、まずは語りの条件を明らかにする必要がある。この点については、文学研究の外部に手がかりを求めるのがよい。 例えば、人類学者のロビン・ダンバーは、人間の言語的なコミュニケーションを猿の毛づくろいと類比している。霊長類の社会は多くの時間を毛づくろいに費やすことによって、集団的な結束や帰属感を高めてきた。しかし、群れが大きくなれば、毛づくろいに費やせる時間は限られ、社会の結合が保てなくなる。ダンバーの考えでは、この限界を突破するためにこそ、言語が必要とされた。対面の毛づくろいにかかる膨大な時間を省略しながら、それでも巨大な群れを維持するために、いわば音声的な毛づくろいとしての言語的コミュニケーション、とりわけゴシップ的な話題が求められた。ダンバーは大胆にも、人間に噂話をさせるためにこそ言語が進化したと結論づける[1]。 実際、ダンバーが言うように、人間の会話は知的・専門的な内容を含んでいたとしても、すぐに卑近な人間関係の話題へと転じてしまう。われわれは既知の人間も見知らぬ人間も遠慮なくゴシップの話題にのせながら、集団の結合を確保し、集団における自らの位置をもたえず確かめている。このような社会生活のあり方はインターネット時代になっても変わらないし、むしろ顕在化している。ネットのユーザーは誰某がこんな悪事を働いたとか、誰某と誰某が決裂したとか、その種のくだらない週刊誌的なゴシップに飢えている。このような性向は、人間の言語がそもそもそのような噂話の交換のために進化したことに基づく。 ゴシップはもっぱら人間の評価に関わるが、より広く言えば、人類はたえず環境の評価(アセスメント)をやるように仕向けられている。例えば、あの果実は食べられるのか、彼とは友人になれそうか、あの部族は敵対的か、明日の天候はどうなるか、狩猟にどれだけの労力が必要か――われわれの先祖はたえずそのような評価を下し、それを仲間に語りながら生存してきた。今日の大衆社会のゴシップは、そのような環境の評価を見ず知らずの他人にまで拡大したものである。 もとより、ゴシップの多くは有名人の評判の低下を狙っている。やっかみや嫉妬によって加速する大衆社会のゴシップは、たいてい下劣であさましい。にもかかわらず、ダンバーが示すように、われわれの噂話は恐らくその根底においては共同生活に資するもの、つまり協力的=利他的なコミュニケーションを促すものである。ひとが噂話に熱中するのは、それによって何らかの利益を他者と分かちあおうとするからである。 霊長類学者のマイケル・トマセロによれば、人間の幼児のやる指さしは、早くも情報のシェアの意欲を示している。幼児は大人たちが指さしに何とか反応しようとすることを知っており、だからこそしきりに対象を指示し、大人とその情報を共有しようとする。言葉を話す前から、手ぶりや身ぶりで外界を指示し、いわば大人を教育しようとする幼児のコミュニケーションは、他の霊長類と比較しても際立った特性を示している[2]。トマセロはこの前言語的なふるまいこそが、言語の進化の基礎にあると考えた。彼によれば、共同体に有益な情報を伝え、他者と「協力」するという「生活形式」(ヴィトゲンシュタイン)に深く依存して、言語は進化したのである。 逆に、言語がもっぱら「競争的」に、つまり他者を攻撃するために用いられるとしたらどうか、と想像してみるのも面白い。トマセロの考えでは、そのとき、言語の形式はわれわれの想像を絶したものになる。
    さらに注意を引くのは、もしも協力でなく競争というコンテクストで進化していたなら、人間の「言語」はどんな風になっていただろうか――それを「言語」と呼びたいなら、の話だが――と想像してみることである。この場合、共同注意も共通基盤もないことになるから、指示するための行為を人間のようなやり方では行えなくなる。とくに視点や、その場に存在しない指示対象に関してはまず無理である。お互いに協力的であるという想定の下での伝達意図は存在しないし、それゆえどうしてある人が自分とコミュニケーションをしようとしているのかを一生懸命に見つけようとする理由もない――またコミュニケーションの規範もない。慣習とは人々が協力に基づく理解と関心を共有している場合にしか生じないものだから、慣習もないことになる。[3]
     この空想上の「競争的」な言語は、今の言語とは似ても似つかないものになるだろう。トマセロによれば、それはフィクションも生み出せないし、協働の道具にもならない。そこからは慣習も発生せず、他者の意図を読み取ろうとする動機も生じない。この競争的な言語でもコミュニケーションは可能かもしれないが、それは協力的な言語によるコミュニケーションに比べれば、ひどく貧弱なものとなるに違いない。 
  • 第一章 世界文学の建築者ゲーテ――翻訳・レディメイド・ホムンクルス(後編)|福嶋亮大

    2023-04-25 07:00  
    550pt

    本日のメルマガは、批評家・福嶋亮大さんの連載「世界文学のアーキテクチャ」をお届けします。 郵便システムができあがり、書物として「思想」までもが商品として扱われるようになった近代に、文学作品はどのようなかたちでコミュニケーションの対象となったのか、その歴史を振り返ります。
    福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ4、《ゲーテ》の制作――郵便局と事務局
     このように、ゲーテの言説を読み解いていくと、各国の作品が相互に翻訳=批評される世界文学の時代が、一種のコミュニケーション革命の時代でもあったことが浮かび上がってくる。なかでも、ゲーテとカーライルの往復書簡は、コミュニケーション史やメディア論の文脈においても特別な位置を占めている。なぜなら、彼らはともに当時の郵便システムに依拠していたからである。
     精神=商品の交易を成り立たせるのに、郵便というインフラは欠かせなかった。例えば、カーライルに対して「現在のように本や雑誌がいわば速達便で諸国民を連絡する時には、聡明な旅行者などはこの点ではほとんど役に立ちません」と書き記したゲーテは、思想が対面的コミュニケーションなしに、郵便物として高速で流通する状況を鋭く言い当てている[12]。さらに、カーライルも精密化された郵便システムの恩恵にあずかっていることを自覚していた。
    こわれ易い物が見知らぬ国々や喧騒を極める都市や荒海を越えて、大陸の奥地からこんな荒野までも達しうるのは、まったくこの完全な輸送手段のおかげです。もっと不思議なことは、私たちが現代で最も尊敬する精神から、愛情の声が、いかなる意味においても遥かにへだたっている者へ伝えられうることです。六年前には、ゲーテから私へ手紙や贈物をいただくなどという可能性は、シェイクスピアやホメロスから送られるのと同じくらい、奇蹟であり夢であると私は思っていました。[13]
     カーライルは後に産業社会を批判し、英雄崇拝論を掲げるようになるが、その主張こそが、ゲーテのような異国の英雄の「声」を輸送する郵便産業のもたらしたものである。カーライルにとって、ゲーテとの文通はシェイクスピアやホメロスとの文通に等しい奇蹟であった。郵便システムを利用した遠隔コミュニケーションは、対面では決して聴くことのなかったゲーテの「声」をいっそう神秘化したのである。
     そもそも、ゲーテはその出生のときから郵便システムに取り憑かれていた。というのも、彼のフランクフルトの生家は、数世紀にわたってヨーロッパの郵便事業を導いてきた大企業トゥルン・ウント・タクシス――そのパイオニアである貴族フランツ・フォン・タクシスはしばしば同時代のコロンブスと並び称される――の大邸宅に隣接していたからである。タクシス郵便は巨万の富を築き、ヨーロッパの郵便システムそのものの模範となった。後に『詩と真実』でも、ゲーテは「タクシス郵便はきわめて迅速に配達し、開封されることもなく、郵送料はあまり高くなかった」とその効率性や信頼性を賞賛している。「手紙の時代」と呼ばれるほどに書簡熱が高まった一八世紀に生まれたゲーテは、まさに郵便システムの申し子であった。
     しかも、郵便システムの発達は、たんに遠隔地との文書的なコミュニケーションを可能にしただけではなく、世界市民たちの「精神」のハーモニーを物質的に実現するという壮大な野心をも生み出した。興味深いことに、タクシス家はゲーテや皇帝ヨーゼフ二世と同じく、「兄弟のようにひとつになった世界市民的な夢」を抱くフリーメイソンに傾倒しており、トゥルン・ウント・タクシスの手掛けた多くの文化事業(郵便部門に限らない)はこのフリーメイソンの理想と内的に連関していたことが知られている[14]。ゲーテの世界文学論にフリーメイソンの痕跡を見出すことも、あながち不可能ではないだろう。
     ゲーテが生きていたのは、精神が翻訳されるだけではなく、物質的な郵便として送受信されるようになった時代である。この時代には、世界市民的な夢は郵便のインフラに寄生して増殖する。ドイツのメディア理論家ベルンハルト・ジーゲルトによれば、「ゲーテの郵便帝国」においては、手紙と精神がほとんど同一のものとなり、手紙を受け取った読者は作者の内なる精神のピースを分有することになった。流通する手紙は「作者からのフィードバックを経由した精神の鏡」となったのである[15]。翻訳者カーライルが感激したのも、まさに遠方の英雄のフィードバックが実際に行われたという事実によってである。
     もとより、この郵便的なフィードバック・システムは、決してゲーテが独力で構築したものではなかった。ゲーテの書簡の相手を時系列で見ると、当初はヴァイマルの有名な女性文人シャルロッテ・フォン・シュタインや、ヴァイマル古典主義を牽引した盟友であるフリードリヒ・シラーとのやりとりが目立つが、次第に、気の置けない友人の音楽家カール・フリードリヒ・ツェルター(フェリックス・メンデルスゾーンの師)や異国のカーライルとのやりとりが多くなってゆく。ゲーテが卓越した作家としてブランド化されたのは、この人的ネットワークのなせる業であった。ベンヤミンはまさにそのことを鋭く指摘している。
    地元ヴァイマルでは、詩人[ゲーテ]は徐々に協力者や秘書の一大グループを作りあげた。彼らの協力がなかったならば、彼が晩年の三十年間に整理編集した、あの厖大な遺産となる言葉の数々は、決して確保されえなかったことだろう。最終的に詩人は、まさに中国式に、自分の全人生を〈書かれたもの[シュリフト]〉というカテゴリーのもとに置いたのだ。エッカーマン、リーマー、ソレ、ミュラーといった補佐役をつとめた人びとから、クロイターやヨーン等の書記官に至るまでを擁した、一大文献・雑誌整理用事務局は、この意味において捉えられねばならない。[16]
     ゲーテはヴァイマルの協力者たちを一種の記録装置として組織し、放っておけば虚空に消えてゆくだけの自らの言葉を、逐次書き取らせた。対話や書簡の類をゲーテほど多く残した作家はほとんどいないが、この巨大な文学資本は、秘書エッカーマンを中心とする「一大文献・雑誌整理用事務局」の仕事の所産である。この優秀な事務局の取りまとめた文献的遺産が、偉大な世界市民ゲーテという賢人的なイメージの形成に寄与したことは、想像に難くない。その意味で、われわれが知る《ゲーテ》とは集団制作された作品なのである。
     ベンヤミンが言うように、ゲーテは文人としての自己を「書かれたもの」に集中させ、翻訳を通じてそのテクスト群の価値を高めたが、それは資本の蓄積や増殖とよく似ている。ヴァイマルにはゲーテやその友人たちのテクストが集まり、それが財となって国境を超えて交換された。この文学資本の膨張は、フローを司る郵便局(=テクストを送受信するシステム)とストックを司る事務局(=テクストを整理・編集するシステム)抜きにはあり得なかった。この点で、ゲーテには二一世紀の情報産業の先駆者としての一面がある。