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記事 62件
  • 序章 デジタルネイチャーからマタギドライヴへ|落合陽一

    2020-08-05 07:00  
    550pt

    『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』刊行から2年余。いよいよメディアアーティスト・工学者である落合陽一さんの連載がスタートします。ユビキタス化した情報テクノロジーが世界を再魔術化していく原理を読み解いた初の単著『魔法の世紀』、その力がもうひとつの「自然」となって社会を変えていく未来像を描いた『デジタルネイチャー』につづく本連載では、そこで生きていくための新たな人間像やクリエイティビティの在り方を模索します。序章では、第3のコンセプト「マタギドライヴ」に至る道筋について語ります。
    落合陽一 マタギドライブ序章 デジタルネイチャーからマタギドライヴへ
    「魔法の世紀」に汎化してゆく「デジタルネイチャー」
     新しい連載を始めるにあたって、私の最初の本である『魔法の世紀』以来の議論を振り返っておきたいと思います。  同書のコアにある考え方、その着想のヒントは、自分のメディアアート表現にありました。映像のようであって物質であるもの、あるいは物質のようで映像であるものというように、両者のはざまにある、どちらともつかないものについての思考です。おそらくそこから、バーチャルとリアルの垣根を越えた表現や、次世代志向のコンピューティングが見つかっていくだろうと、博士課程のころからずっと考えていました。  その裏側には、計算機というテクノロジーが、全貌を理解不可能なブラックボックスとして現実世界に浸透しているという状況があります。つまり、計算機が生成するCGのような物質を伴わない映像が実世界指向のインターフェースで物質のように扱えるようになったとき、もはやそれは魔法のような奇跡に近いものとして多くの人々に経験されることになる。VRの開祖アイヴァン・サザランドも世界初のヘッドマウントディスプレイに関する論文の中で、アリスの世界のように物質を操れる部屋のような概念を究極のディスプレイと表現していますし、アーサー・C・クラークの有名な法則「十分に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない」とも言われていることもあります。しかし、その裏側にはブラックボックスによる世界の再魔術化があり、虚構と現実の区別がつかない(人の感覚器の意味でも、フェイクニュース的な意味でも、仕組み自体という意味でも)魔術の中に身を置くことになる、という議論をはじめました。  そこから、第二次世界大戦を契機に生まれたコンピュータ技術の歴史をひも解きながら、映画やテレビジョン放送といった映像技術が近代国民国家の統合装置として機能した「映像の世紀」たる20世紀の世界が、いかに技術と芸術の交錯を通じて再魔術化されて塗り替えられてきたのか。そうした21世紀という時代の変化を、「魔法の世紀」と名付けました。
     この『魔法の世紀』という本の最後に出てくるのが、「デジタルネイチャー」という考え方です。  それは、映像と魔法を対峙させたこの本において、映像と物質の垣根を越えた先に生まれる新たな自然観を考えたものです。映像というものが質量のない自然の写し絵だとすれば、いま計算機の力が現出させているのは、質量をもつ元来の自然そのものに近づく何かになります。現実に出てくることもあれば、引っ込むこともある。触ろうとした瞬間に消えてしまうこともあれば、実際に物質的な価値を持っていたりすることもある。質量のある自然と質量のない自然の二つの自然が横たわり、双方の姿を変えようとしている。  実際のコンピュータ技術としては、例えばユビキタスコンピューティングやIoT、サイバーフィジカルシステム、あるいはアイヴァン・サザランドが提起したアルティメットディスプレイなどを通じて、それは具現化されています。つまりは、コンピューター上でどのように理想の世界を再現するかという試みと、この世界をどのように大量のコンピューターで覆っていくかという試みが合流したところに、元来の自然とは異なる新しい自然が生まれているのではないか。このビジョンを本格的に展開したのが、前著『デジタルネイチャー』でした。

     こうした考え方に基づいて、筑波大学で2015年からデジタルネイチャー研究室を主宰していたのですが、その後2017年から大学としてデジタルネイチャー推進戦略研究基盤が発足し、2020年にはデジタルネイチャー開発研究センターが設立されました。  ここにきてデジタルネイチャーの像はより明確化していて、ユビキタスコンピューティングおよびIoT、サイバーフィジカルシステムの基盤となる計算機技術によって、音や光などあらゆる波動現象をコントロールする技術により、実物と見まがう映像を空中に浮遊させることができたり、さらに自然物と区別しがたい人工物が生まれつつあります。つまり、計算機技術が生み出した人工物と自然物の相互作用によって再構築された新たな環境として、デジタルネイチャーは具体化しつつあります。つまり、「デジタル/ネイチャー」ではなく、「デジタルネイチャー」というべき「新しい自然」の姿が明確になってきました。  より具体的なレベルでは、狭い範囲では3DプリンターやAR/VRなどの要素技術を用いて構築されていて、人工生成物を自然環境との相互作用で再びデータ化し、さらに関連するフィードバックループによって進化させていくような自律系として考えていくことができます。あるいはロボティクスとして表現されることもあれば、CGとして表現されることもある。そのような新たな自然の形成方法を工学的に研究しながら、文化・芸術の実践も行っていこうというのが、新たに発足する研究センターの概要です。
     また、もうひとつデジタルネイチャーの新展開としては、日本科学未来館の常設展示として2019年から「計算機と自然、計算機の自然」を公開しています。ここでは、現実世界と計算機上で再現された世界の区別がつかなくなるときに、我々の自然観そのものが更新されるのではないかということを人々に問いかける取り組みを行っています。  つまり、いまや我々が作り出した計算機はこの世界にあふれ、それが作り出す世界の解像度や処理能力が、わたしたちの持つ知覚や知能の限界を超えつつある。近い将来、元来の自然と計算機の作り出した自然の違いはますます薄れていき、その違いが意識されない、新しい大きな自然として統合されていく在り方を想像しようということが、この展示のテーマです。現実の蝶々と見まがうデジタルの蝶や砂粒のような人工部品など、ミクロ的なものからマクロ的な世界像までを体感できる展示空間が実現しました。


    ▲日本科学未来館「計算機と自然、計算機の自然」©Yoichi Ochiai
     このように、デジタルネイチャーというコンセプトは、私の本を読んだ人以外にも、徐々に世の中に浸透つつあります。計算機を主軸においた自然環境を含める大きな自然生態系に関するビジョンは、新しい自然観として議論されつつあります。例えば、ガイア仮説のジェームズ・ラヴロックは最近、「人新世」ののちに「ノヴァセン」という計算機や機械による新たなる地質年代を想定する考え方を表明しています。  なぜこうした新しい自然が出現するかの本質を社会的・経済的な条件に即して言えば、未来学者ジェレミー・リフキンの『限界費用ゼロ社会』などで言われている通り、情報テクノロジーの利活用にまつわる限界費用が限りなくゼロに近づいていくからです。このように限界費用が下がった環境で、いま通信網を通じてオープンソフトウェアやハードウェアにアクセスしたり、GitHubなどのプラットフォームを共有したりしながらものづくりを行い、SNSでそれが拡散して新しいテクノロジーを生み出していくといった流れが促進され、それがまた新たな環境を更新していく。 また、自然に含まれる計算プロセスを利用しようという考え方も、「ナチュラルコンピューテーション」、「ナチュラルコンピューティング」などと呼ばれており、自然を演算装置としてみる考え方と、自然から演算機に入力し、自然に再出力するような考え方は相互乗り入れしています。そこには計算機の生態系の一部としての計算機自然(デジタルネイチャー)があり、元来の自然の多様性に基づき、地産地消の進化を遂げていることもあります。  地産地消のテクノロジーについては、一時期メイカーズムーブメントがもてはやされたりしましたが、今後はもっと自然な流れでわれわれの生活に土着していくことになります。このようにデジタル環境が新しい価値を生み出していくプロセスは、発酵のプロセスに似ているかもしれません。たとえば、微生物が作物を発酵させる作用を利用して酒や醤油を醸造したりするように、限界費用の低下したデジタル技術を利用して、様々なプロダクトやカルチャーが生み出されていく。限界費用の低い自然に根差した文化的な意味と、地産地消のナチュラルコンピューテーションというテクニカルな意味の両方を含んでいます。そうした「デジタル発酵」の現象を伴いながら、この社会にいま新たな自然が築かれているのだと見立てることができるわけです。これは2019年のSXSWの基調講演で発表し、近著『2030年の世界地図帳』の中でも解説している考え方です。  限界費用の低いテクノロジーの上に生み出されたデジタルネイチャー上には、現実とほぼ区別がつかないような人工物を作られていくのかもしれないし、逆に人間の側が新たな人工環境のシステムに慣熟して適応していくことになるのかもしれない。前著『デジタルネイチャー』には、人間がデジタルで飲み会を行うようになるということを書きましたが、まさにCOVID-19のパンデミックを機にオンライン飲み会が浸透していくなど、人々の行動変容にも顕れているわけです。目下、自然観としては、人工と自然の区別のつかない新しい自然と新しい日常や新しい行動へと変容しつつあります。
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  • 落合陽一さんの新連載「マタギドライヴ」開始!

    2020-08-03 11:30  
    PLANETSメールマガジンにて、メディアアーティスト・落合陽一さんの新連載がスタートします!
    題して「マタギドライヴ」。
    『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』刊行から2年余。
    ユビキタス化した情報テクノロジーが世界を再魔術化していく原理を読み解いた落合さん初の単著『魔法の世紀』、その力がもうひとつの「自然」となって社会を変えていく未来像を描いた『デジタルネイチャー』につづく本連載では、そのような社会で生きていくための新たな人間像やクリエイティビティの在り方を模索します。掲載は今月(2020年8月)からを予定しています。お楽しみに!

    撮影:蜷川実花
    落合陽一(おちあい・よういち)
    メディアアーティスト。1987年生まれ。東京大学大学院学際情報学府博士課程修了(学際情報学府初の早期修了)、博士(学際情報学)。筑波大学デジタルネイチャー開発研究センター センター長
  • 【無料公開】落合陽一『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化された計算機による侘と寂』まえがき

    2018-06-15 07:00  

    本日発売となる、研究者・メディアアーティストの落合陽一さんの最新刊『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化された計算機による侘と寂』(PLANETS)より、まえがきを無料公開します! テクノロジーによっていかに〈近代〉の枠組みが再構築されうるのか。落合さんの提唱する〈デジタルネイチャー〉を繙(ひもと)いていきます。
    書籍情報
    ▲落合陽一『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化された計算機による侘と寂』6月15日発売!(Amazon)▲【対談】落合陽一×宇野常寛 〈計算機自然〉はプラットフォームへの隷属を乗り越えうるかーー『デジタルネイチャー』刊行に寄せて 動画はこちらから。製作経緯や本書に込めた思いを落合さんが語ります。
    まえがき

     2017年の秋口の深夜、スマートフォンが産声をあげて10年後の世界だ。
     ハイビームを焚いて走行する車内から、窓の外を流れる景色を眺めている。夜霧の闇は深
  • 【対談】落合陽一×宇野常寛 〈計算機自然〉はプラットフォームへの隷属を乗り越えうるかーー『デジタルネイチャー』刊行に寄せて

    2018-06-14 12:00  

    6月15日にPLANETSより発売される落合陽一さんの最新刊『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化された計算機による侘と寂』についての、著者の落合さんと宇野常寛の対談です。構想・執筆に約3年の時間を費やした『デジタルネイチャー』。その制作の経緯から、本書に込めた落合さんの思いを語っていただきました。
    書籍情報
    落合陽一『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化された計算機による侘と寂』6月15日発売!(Amazon) ▲この記事は、こちらの動画をもとに対談記事化したものです。
    『魔法の世紀』からの約3年の変化
    宇野 6月15日に落合陽一さんの最新刊『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化された計算機による侘と寂』がPLANETSから発売になります。今回は「デジタルネイチャーとはなんぞや?」とか、購入を迷っている人、若干高いんじゃないかとか、そういうことを思っている人に対して、いかにこの
  • ディズニー/ピクサー的CGアニメは「宮崎駿的手法」を取り込むことができるか?――落合陽一、宇野常寛の語る『ベイマックス』(PLANETSアーカイブス)

    2018-04-23 07:00  
    550pt



    今朝のPLANETSアーカイブスは『ベイマックス』をめぐる落合陽一さんと宇野常寛の対談です。『アナ雪』大ヒット以降のディズニー/ピクサーが、「CGテクノロジーの進化」と〈宮崎駿的なもの〉という2つの課題にどう向き合ってくのかを考えます。(初出:『サイゾー』2015年3月号(サイゾー)/構成:有田シュン) ※この記事は2015年3月24日に配信した記事の再配信です。
    ▼作品紹介
    『ベイマックス』
    監督/ドン・ホール、クリス・ウィリアムズ 脚本/ジョーダン・ロバーツ、ドン・ホール 原作/『ビッグ・ヒーロー6』 製作総指揮/ジョン・ラセター 配給/ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ 公開/14年12月20日
    “サンフランソウキョウ”に住む天才少年ヒロ・ハマダは、兄タダシに見せられた工科大学のラボや、彼が作ったケアロボット「ベイマックス」に衝撃を受け、飛び級入学のための研究発表会に参加する。見事合格を勝ちとるが、直後に会場で火災事故が発生。残されたキャラハン指導教授を助けるべく、タダシは火の中に飛び込んでいった。兄を亡くした失意からヒロは心を閉ざしてひきこもるが、タダシが残したベイマックスと再会し、さらに自身が研究発表会のために製作したマイクロボットが何者かに悪用されていることを知り、タダシの死に隠された真相があるのではないかと疑問を抱く。ベイマックスのバージョンアップと、兄のラボの友人たちにパワードスーツや武器等を製作し、共に敵の陣へと乗り込んでゆく。
     東京とサンフランシスコを合わせたような都市が舞台だったり、主人公たちが日本人とのハーフだったり、設定からして日本の要素が多く取り入れられた、ディズニーアニメ。
    落合 『ベイマックス』は予告編の印象と全然違って【1】、『アイアンマン』(08年)万歳! と思っているような理系男子の話をアニメで作るとこんな感じかな、と思っておもしろく観ました。ヒロがキーボードを叩いて、3Dプリンタとレーザーカッターでなんでもつくれる万能キャラという非常にコンティニュアスに成功したナードとして描かれているのは新しいし、研究と開発が一体化していることに誰も疑問を抱かないところを見ると、観る人の科学に対する意識がアップデートされているのかなとも思えた。頭のいい奴が手を動かせば、そのままモノをつくれるというイメージがつくようになったのはすごくいいなと思う。登場人物たちが、極めてナチュラルにモノをつくっているんですよね。ディズニー映画の製作期間はだいたい4~5年くらいと聞くから、『ベイマックス』はちょうど2010年代前半につくられたとすると、ちょうどプログラマーという人が簡単に社会変革を起こすものをアウトプットできるようになった時期なんですよね。だから、このタイミングでこういう作品というのは必然なのかもしれない。
    【1】予告編の印象と全然違って:日本で公開されていた予告編では「少年とロボットのハートフルストーリー」のように見せられていたが、実際のところはアメコミ原作だけあってヒーローものになっている。
    宇野 ゼロ年代のディズニー/ピクサーだったら、兄貴がラスボスになっていたと思うんだよね。対象喪失のドラマという要素をもっと前面に出して、科学のつくる未来に絶望した兄貴と、科学の明るい未来を信じるヒロ君が対決する。単純に考えたらそっちのほうが盛り上がったと思うけど、今回のスタッフはその方向を取らなかった。個人的な動機に取りつかれた教授が暴走【2】する話になっていて、ヒロと科学をめぐる思想的な対立をしていないんだけど、そこは意図的にそうしたんじゃないかな、と。ピクサーの合議制のシナリオ作り【3】の中で兄弟対決が挙がらなかったわけはないんだよね。そういうあえて選択された思想的な淡白さが、今回のひとつのポイントだと思う。

    【2】教授が暴走:事故で兄タダシと一緒に死んだと思われていたラボの指導教官。ロボット工学の天才博士が、ある個人的な動機に基づいてヒロの発明品を悪用しようとしていた。
    【3】合議制のシナリオ作り:ディズニー/ピクサー作品においては、複数のスタッフがストーリー会議を行って脚本をつくり上げているのが有名。

    落合 もういまや科学技術批判が意味を持たない、ということが重要なんだと思う。科学技術批判、コンピューター批判してられないだろうっていうのは、『ベイマックス』のひとつの重要なファクター。今までの流れだったら、ヒロ君が作ったナノボットが知恵を持って暴走して人間に攻めてくる、みたいなシナリオもありだったと思うんですよ。でもそっちにはもういけないよね、と。
    宇野 ピクサーは、特にジョン・ラセター【4】は『トイ・ストーリー』(95年)から一貫してイノセントなもの、たいていそれは古き良きアメリカン・マッチョイズムに由来する何かの喪失を描いてきた。アニメでわざわざ現実社会に実在する喪失感を、それも一度過剰に取り込んで見せて、そして作中で限定的にそれを回復してみせることで大人を感動させてきたのがその手口。『バグズ・ライフ』(98年)も『ファインディング・ニモ』(03年)も『Mr.イングレディブル』(04年)も『カーズ』(06年)も全部そう。そして『トイ・ストーリー3』(10年)は、そんなラセターのドラマツルギーの集大成で、あれは要するに観客=アンディにウッディとの別れを告げさせることで、ピクサーが反復して描いてきたものが映画館を出たあとの現実社会には二度と戻ってこないことを、もっとも効果的なやり口で思い知らされる。
     しかし、その後のディズニー/ピクサーはこの達成を超えられないでいると思う。『シュガー・ラッシュ』(12年)はガジェット的にはともかく内容的にはほとんどセルフパロディみたいなもので、『アナと雪の女王』(14年)は、保守帝国ディズニーでやったから現代的なジェンダー観への対応が騒がれたけど、要は思い切って非物語的なミュージカルに舵を切ったものだと言える。そしてこの流れの中で出てきた『ベイマックス』は、ラセターが持っていた強烈なテーマや思想を全部捨ててしまって、ほとんど無思想になっている。単にこれまで培ってきた「泣かせ」のテクニックがあるだけで、これまで対象喪失のドラマに込められてきた「思想」がない。そこで足りないものを補うために、今回はアニメや特撮といった日本的なガジェットをカット割りのレベルで借りてきている。言ってしまえば、定式化された脚本術と海外サブカルチャーの輸入だけで、ピクサー/ディズニーの第三の方向性としてこれくらいウェルメイドなものがつくれてしまったということにも妙な衝撃を受けたんだよね。

    【4】ジョン・ラセター:ピクサー設立当初からのアニメーターであり社内のカリスマ。06年にディズニーがピクサーを買収し、完全子会社化したことでディズニーのCCOに就任。ディズニー映画にも多大な影響を及ぼしている。

    3つに分岐したCG表現の矛先
    落合 『モンスターズ・インク』(01年)の頃までのピクサー映画は、いかに新しいレンダリング技術を取り入れて映画を作るかがサブテーマだったんです。『トイ・ストーリー』の頃はツルツルしたものしかレンダリングできなかったけど、『モンスターズ・インク』はモッサリした毛の表現ができるようになった。そこからしばらくはそうした技術の進化を楽しむ作品がなかったんだけど、『アナ雪』では雪のリアルな表現ができるようになった。あの雪の表現をつくるために書かれた論文があって、それなんか本当にすごい。雪をサンプリングして一個一個の分子間力を分析することで自然のパウダースノーをレンダリングするっていう。またこれで技術を見せる作品が続くのかな、と思ったら『ベイマックス』には何もなかった。だから、またそういう時代が数年続いて、その後にまったく新しいものが出てくるんだろうと思っています。
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  • 宇野常寛『母性のディストピア EXTRA』最終回 三次元化する想像力(2)

    2018-04-13 07:00  
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    2017年に刊行された『母性のディストピア』に収録されなかった未収録原稿をメールマガジン限定で配信する、本誌編集長・宇野常寛の連載 『母性のディストピア EXTRA』。映像の世紀が終焉したいまもなお、虚構を通してしか描けない現実がある。最終回の今回は、研究者でメディアアーティストの落合陽一さん、チームラボ代表・猪子寿之さんの取り組みへ期待を寄せながら、現代版にアップデートされた〈ゴジラの命題〉について論じます。 (初出:集英社文芸単行本公式サイト「RENZABURO[レンザブロー]」)
    ニュータイプと〈魔法の世紀〉
     富野由悠季にも、2015年秋に久しぶりに連絡を取った。私が自分の事務所から出版した、若い科学者の本に推薦文をもらおうと考えたからだ。もちろん、それは口実で私の狙いは富野を挑発することだった。〈Gのレコンギスタ〉について対談したときに伝えきれなかったことを、自分の企画した本を読んでもらうことで伝えようとしたのだ。
     メディアアーティストでもある筑波大学の落合陽一はコンピュータプログラムによる光波/音波の制御によって、触感をもったレーザー、音波による空中の物体固定などを実現し、これらの研究開発で内外からの注目を集めている。
     そして落合はいう。このネットワークの世紀は同時に「魔法の世紀」なのだと。20世紀は映像という発明が、具体的には広義の劇映画的な映像が、人々をつなぐ最大の媒介として機能し、かつてない規模の社会(文脈の共有)を実現した。そしてそれゆえにモニターの中の映像こそが、もっとも批判力のある視覚体験として共有されていた。しかし、その映像の世紀は技術的に乗り越えられようとしている。ネットワーク技術の発達はいま、人間と人間、人間と事物、事物と事物と直接続しつつある。そしてコンピュータの処理能力の向上によって、もはや人々にモニターの中で何が起こっても本質的に驚かすことはできなくなっている。
     そんな映像の世紀の後に訪れた世界――本稿ではネットワークの世紀と呼んだ既に訪れつつある未来――を、落合は自らの研究で〈魔法の世紀〉にするという。実際に映像に代替する次世代の視覚体験の研究開発を手掛ける落合はこう主張する。
     エジソンからリュミエール兄弟までの時代――生まれたばかりの映像はまさに「魔法」そのものだった。しかし、その魔法は驚くほど短い時間で、覚めた。瞬く間に人々に浸透し、当たり前のものとなり、もはや魔法ではなくなってしまった映像は物語の器となることでその社会的な機能(媒介者)を得、そしてそれゆえに前世紀の社会の構造を規定する装置になっていった(映像の世紀)。しかしそれは同時に劇映画とは魔法を失った映像の屍(しかばね)にすぎないことを意味するのだ、と。そして媒介者としての、文脈の共有装置としての映像がその役割を終えようとする今、全盛期における劇映画のように人々の心を動かすものは何か。それが編集者としての私が作家としての落合に投げかけた問い、だった。
     落合の回答はこうだ。
     映像の世紀が終焉したいま、魔法的な技術こそが人々の心を動かすだろう、と。映像の、特に劇映画的なものによる他者との文脈共有がその威力を決定的に低下させたとき、それに代わるもの――人の心を決定的に動かすもの――は劇映画以前の映像がそうであったように魔法的な技術そのものだ、と落合は言うのだ。そして自分の研究はその最先端であり、新時代のアートそのものである、と。さらに、遅れてきた富野由悠季のファンを自称する落合は言う。富野自身とは異なり、自分はニュータイプの理想を信じているのだ、と。幼いころに見た富野のアニメーションから得たイマジネーションを、自分は社会に実装するのだと。〈魔法の世紀〉とは人類をニュータイプに導くものだ、と。
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  • 【特別対談】落合陽一×田川欣哉 〈人間〉という殻を脱ぎ捨てるために 後編(PLANETSアーカイブス)

    2018-01-29 07:00  
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    今朝のPLANETSアーカイブスは、takram design engineeringの田川欣哉さんと『魔法の世紀』で知られるメディアアーティスト落合陽一さんの対談の後編です。デジタルネイチャーの到来によって、私たちの社会と価値観はどのように変容するのか。統治機構や経済の脱人間化から、情報技術の発達が生み出す新しい自然観・宗教観まで、来るべき世界のビジョンを徹底的に語り合います。
    (司会:宇野常寛、構成:神吉弘邦/この原稿は、2016 年4月1日に配信した記事の再配信です)
    ※この記事の前編はこちら。

    テクノフォビアと訣別せよ
    落合 この前、電車の中でぼおっと、交通事故について思考実験してたんです。自動運転のクルマ同士がぶつかるんですよ。そこへお巡りさんが「じゃ、ちょっと現場を物証しまーす」ってやって来る。「ログデータ見ないとわかんねーな」って、「ログを出してください」って言うんですよ、2台の自動車に(笑)。
    で、ログを出してもらうんだけど、それでも分からないから「説明してください」と。「5ミリ秒でここにぶつかりました」「で、こっちのオートシステムが作動しなくなったので当たっちゃいました」みたいなやりとりがあって。「ああそうですか!」ってその通りに調書作ってたら、警察機構の検証なんて存在しないのと一緒ですよね(笑)。
    田川・宇野 (笑)。
    落合 自動運転車同士の衝突を想定すると、警察機構が形骸化するんですよ。その辺りから、世間の人々はやっとひずみに気が付くんだと思う。「じゃあ、お巡りさんって一体何のためにいたんだろう?」って。
    田川 調停者(笑)。
    落合 そう、調停者だった。でも、お互いの言い分が食い違わない世界が存在していて、タイムスタンプが押されたデータを交換し合って、「センサーデータはそう反応していた」だけで問題が解決するようになったとき。
    その世界における巡査のおじさんの気分って、「自分って関数だな」って思う以外ないですよね。
    田川 結局これまでは、人間の振る舞いを機械側が捕捉しきれなかったんだと思うんだよね。例えば「入浴」にしたって、人間って変なこといろいろやるよね。コンピュータ側が人間の多様な振る舞いを捕捉しつくして、理解しにかかってるのが自動運転とかなんだよね。そこでは必ずインとアウトが対応してくる。
    落合 関数から出力されたものを関数に入力するループが形成されると新しい関数が生まれるに決まってる。
    田川 そう。関数の処理がステップで進んでいく過程を受け切る体勢が、機械側でセンシング的にもアクチュエータ的にも担保され始めると、人間の関数化って一気に進むと思うんだ。
    落合 それは超進みますよね。人間はもうデジタルネイチャー化,脱構築化するんだろうなと思うよ。でも、それって幸せなことですよね。「奴隷の世紀」ではなく「魔法の世紀」って名づけることが重要なのであって、ようは心の持ちようの問題なんですよ。本当に「魔法化」っていう言葉が嫌いな人たちがすごくいるんです。「魔法に覆われると人間は退化するんじゃないか」って。そりゃあ魔法使ってるだけの人たちは退化するに決まってんだろ!(笑)。でもそれでいいんじゃないかってことなのに。
    田川 そういう人を、英語で「テクノフォビア(テクノロジー恐怖症)」って呼ぶんだよ。講演会とかで話をしていると、よく「社会がそういう方向に進んでしまうことに不安はないのでしょうか?」とか言われるんだけど。
    そういうときにはちょっと意地悪に「じゃあ聞きますけど、あなた今、裸足で生活してますか?」と。「靴下と靴を履いている時点で人間機械系なんだけど、それに日々悩んでますか? 『祖先と比べると私の足裏はなんて退化してしまったのか』と日々嘆きながら暮らしていますか?」って言うとさ、反論できる人いないんだよね(笑)。
    宇野 それは反論できないですよね。
    田川 自動車が世の中に受け入れられていく過程で「馬なし馬車」と呼ばれたり、テレビが普及するときに家具調の箱の中に入れてみたり、これはテクノロジー恐怖症の典型的な現れですよね。
    僕の仕事でやっているのは、これから来るテクノロジーをどうやって社会に接続していくかで、そこにデザインの芽生えもあるはずです。
    人間中心主義のまやかし
    落合 2011年以降、デザインを巡る流れがガラッと変わったじゃない。ちょっと外れたアーティスティックなデザインで評価されていた時代が終わって、takramのようなデザインエンジニアリングに注目が集まるようになった。
    今は「デザイン」っていう呼称は本質的にはなくなっていて、ストラテジックなエンジニアリングが美学を持って現れたものを「デザイン」と呼んでいるだけなんだと思う。
    田川 『魔法の世紀』には結構デザインの話が書いてあるじゃない。デザインの歴史とか。
    落合 第二次世界大戦前後のデザインとか。
    田川 純粋に一読者としての興味なんだけどさ、落合くんの話を表層的に聞いていると「この人は人間に関心がなくて、機械にしか興味ないのかな」と思っちゃうよね。でも、デザインについて、あれだけ論じていることを考えると、そんな単純な話じゃない。落合くんの眼差しは、ピンポイントに一点に向かうというよりは、いろいろな分野を多方面的に見てると思うんだけど、本当のところどうなってるのかって気になるんだ。
    落合 コンピュータのことをやっていたら、生物がコンピュータにしか見えなくなってきて、それが面白いと思ってるんですよね。森羅万象わりと興味あるし、人間っていう非合理タンパク質機械には心惹かれます。
    田川 (爆笑)あぁ、わかったわかった。機械っていう動物園があったら、ヒト科ってのがあって、それはそれでなかなかいいものだ、みたいな話ね(笑)
    宇野 人間中心主義とはここ2、300年ぐらいの「流行」に過ぎない、みたいなね。
    落合 それまで自然と向き合ってきた人間たちって、そんなに人間中心主義ではなかったような気がするんですよね。
    田川 そう思うよ。人間中心主義なんて、完全に機械化の歴史と符号してるからね。「個人」って概念もそうだよね。民主主義の成立の過程で個人という感覚が芽生えたという歴史があるじゃない。
    宇野 工業化と市民社会の作った幻想が、カギかっこ付きの「人間」か……。
    落合 「人間」イコール映像、イメージの共有文化によって生み出され一人歩きした幻想ってことですよね。
    神が死に、今度は人間の番が来た
    宇野 恐らくリベラルアーツ的な訓練をしっかり受けた人であるほど、テクノフォビアの傾向が強いと思うんですね。それは間違いなく統治の問題が関わっている。
    人間機械系の発想でいくと、今の世の中で代表的なのが民主主義だけれど、それによる統治がうまくいかないのはほぼ明らかになってしまっている。文化的な装置で大衆の内面にアプローチして、熟議に耐えうる「市民」を養成するというビジョンが事実上破綻した今、さっきの自動運転の話のような機械人間系のアプローチの方が、統治の「効率」でいえば圧倒的にいい、という事実への評価ってまた変わってくると思うんですよね。賢い人ほど、薄々それがわかっているから怖いんだと思う。テクノフォビアって言い換えれば今までの自分をかたちづくってきた人間中心主義、民主主義、アート、「個」という幻想。この4点セットを根本から否定されてしまうことへのフォビア(恐れ)だと思うんですよ。
    田川 あらゆる思想や思考の土台が溶けちゃうような感じがするから、すごく不安にはなるだろうね。
    落合 たしかに。でも、歴史を知っていればそんなに怖くはないような気がするんです。だってコペルニクスが出てきて、キリスト教イデオロギーやばい! 俺たちどうやって思想と思考の土台を保っていこう?! ってなって、デカルトが登場して、ニュートンが登場して、みたいな話でしょう。
    田川 そうそう。そこまで引いてみるとね、そうやって人間って進化してきたはずなんだよね。
    宇野 逆にお二人に聞いてみたい。そのとき必要なのは、一度民主主義をちゃんと正面から否定した上で次を考えることなんじゃないかと思う。機械人間系の発想で考えると、全体の最適化はそれほど難しくない、だからいつヒトラーが大統領に選ばれるかわからない民主主義よりも、技術的な安全弁をあちこちにつけてマイルドな全体主義やっていく方がいいんじゃないか、って思想は良くも悪くも絶対に力を持ってくる。この問題に思想や文化の言葉の使い手はディストピアSF的な語り口でもいいから向き合うべきだと思う。「テクノロジーは時に人を不幸にする」なんて常識論をドヤ顔で言って満足していないで、自分たちの前提としている人間観のゆらぎ、社会観のゆらぎに向き合わないと誰からも相手にされなくなる。
    落合 うん、それはその通りだと思っていて。俺は最近トマス・モアにはまっているんですよ。トマス・モアはキリスト教が宗教改革に覆われていく時期の人で、彼の主著『ユートピア』はルターが95カ条の論題を出す直前に書かれた本です。ヨーロッパの歴史って、キリスト教が死んだことで人間中心主義になっていったんですよね。そのキリスト教が死にかけていたときの人たちは、なにを考えていたのだろうと。
    俺はデジタルネイチャー派として、今は「神」の次に「人間」が死にかけていると思ってる。そこでもう一度、過去に戻ろうとしているんだけど、それが宗教に行くのかネイチャーにいくのか、どっちなのかがまだ判別しきれていない。
    デジタルネイチャーまでいっちゃうなら、人間の自然観そのものが機械人間系に変わってしまうから、そうなったら俺たちは「機械様」とくっつくことなく離れることなく仲良くやっていけばいいし、むしろ変なルサンチマンは存在しない世界観になっていくと思うんですよ。
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  • 【特別対談】落合陽一 × 田川欣哉 〈人間〉という殻を脱ぎ捨てるために 前編(PLANETSアーカイブス)

    2018-01-15 07:00  
    550pt

    毎週月曜日は過去の傑作記事を再配信するPLANETSアーカイブスをお届けします。今回は、takram design engineeringの田川欣哉さんと、『魔法の世紀』で知られるメディアアーティスト落合陽一さんの対談です。デザインとエンジニアリングのスペシャリストである2人が、人工知能、アルファ碁、そして、コンピュータによるパラダイム転換がもたらす、人間を中心としない新しい世界観のビジョンを語り合います。 (司会:宇野常寛、構成:神吉弘邦/この原稿は、2016 年4月1日に配信した記事の再配信です)
    『魔法の世紀』に辿り着くまで
    宇野 落合さんが遅刻しているので、先に田川さんに少し打ち合わせ的に問題意識を共有しておきたい。
     この本の編集を指揮していたときに思ったのは、コンセプトメイク的にちょっとずるいというか、チート的な本なんだよね。つまり、ほとんどのメディアアーティストは、与えられた情報環境の中で、それをいかに批評的に打ち返すかというゲームを強いられているんだけど、落合陽一は「既存のメディアアートはもはや無効で、これからは魔法的なテクノロジーを持ったアートだけが有効である。そのアートとはテクノロジーそのものである」というロジックで、さらに「俺はそれを自分で作っている」という論理構成になっている。これをやられると、同じことができない人は反論できないし、極論すると「研究してないやつはこの先アーティストとは呼べない」とすら言えてしまう。
     ここに真正面から反論しようとすると、結構大変だと思う。落合君はアートがテクノロジーの発明ではなく、批評で成り立つ時代と状況のほうが特殊だったと言っていて、たとえば19世紀の印象派の登場や20世紀のキュビズムの登場は、ひとつのテクノロジーの発明だったと考える。だから「テクノロジーを開発しない表現行為が批判力を持つこと」がこの先もあり得るのかというレベルで戦わなきゃいけなくなる。ある人たちにとっては当然そうで、それ以外の人たちにはあり得ないことをめぐって論争することになっちゃう。そのせいで、すごく批判しにくい本になっていると思う。
    田川 確かに、それはそうかもしれないね。最近『フェルメールの謎〜ティムの名画再現プロジェクト〜』というドキュメンタリー映画を観たんだけど、ティム・ジェニソンという発明家が、フェルメールの絵画の再現にチャレンジするという内容で、それがすごく面白かった。
     フェルメールの絵画は本当に写真みたいで、カメラ・オブスクラを使っていたんじゃないかって説があるくらい。だけど、ティムさんは「きっとフェルメールは何らかのもっと高度なツールやテクニックを用いたに違いない」と考えて、当時から入手可能だったレンズや鏡を駆使して、フェルメールと同じような絵を描くための装置を作るんです。彼は一度も油絵を描いたことがないのでフリーハンドで描いたら下手くそなんだけど、その装置を使いこなすことで、フェルメールに近い絵を描いた。それをアートの大家に見せたらすごく喜んで、「本当にこれで描いたのかもしれないね」というコメントをもらうんです。
     つまり、表現と技術は常に表裏の関係にあって、新しい表現を求める人たちが、新しいテクノロジーを探求してきた。そうやって、みんな出し抜きあいながらやってきたんだと思う。「この青色は彼にしか出せない」という絵の具が、有名な絵師の手元に秘蔵されていたという話もあるし。その意味では昔から一部のアーティストは、テクニックとメディアとコンテンツの間に区分を作らず、作品の表現面を作るだけじゃなくて、内部の技術的なこともやってきた。だから落合くんも、自分の作った機械でそこを目指すのかなと。
    宇野 ずっと彼は「自分はグラフィックスの研究者である」と言っていて、やってることはセザンヌやピカソとあまり変わっていないというのが彼自身の認識なんだよね。
     つまり、当時は平面のキャンバスに絵の具を塗るしか方法がなかったから、彼らの感覚にとってリアルなものを描こうとすれば、これまでとは異なった論理で平面を再構成する技法を追求するしかなかったけど、現代のテクノロジーを動員すれば、全く別のビジュアルを根本的に作り出すことができると思っている。
    田川 僕が聞いてみたいのは、落合くんが物理現象にこだわる理由なんだよね。ピクセルに行かないじゃないですか。プラズマに触れられる「Fairy Lights in Femtoseconds」も身体性を前提にした作品で、そこには彼なりのエクスタシーがあるんだろうなと思う。

    ▲ Fairy Lights in Femtoseconds
    https://www.youtube.com/watch?v=AoWi10YVmfE
    宇野 彼はそこは一貫していますね。初期のいわゆるメディアアートっぽい作品、ゴキブリを使った「ほたるの価値観」とか「アリスの時間」の頃からそう。ああいった作品を「テクノロジー自体がアートだ」と言うようになってから作らなくなったけど、そこは今も変わらない。
     あとは場の制御の問題に集中するようになったのも大きい。「Pixie Dust」のあたりで、完全に人間がまだ体験したことのない感覚を発明する、という方向に行ったでしょう。メディア論的に気の利いたメッセージや「政治的に正しい」問題提起よりも「触れるレーザー」を実現してしまうほうが社会批評的にもインパクトがある。これが真のメディアアート、だと開き直りはじめた。
    田川 光と音を分けなくてもいいという統一原理的な理解が、落合くんの中にあるときアブダクション的に降ってきたんだろうな。
    宇野 一昨年の音波の研究が大きかったんだと思う。僕が最初にインタビューしたのはその頃なんだけど、それまでの彼の研究モチーフは、基本的には「三次元空間にいかに描画するか」に集約されていたと思うんだよね。シャボン玉にモルフォ蝶を描いて浮かべるようなさ。そこには乾さんや藤井さんとの決定的な違いがあって、あの人たちは脳に電極を刺すことを考えているけど、落合くんは最初に会ったときからずっと「脳に電極を刺すことの先に行きたい」と言っていた。あれはちょうど「Pixie Dust」の原型になった音波で物体を浮かべる実験をやっていた頃だね。描画だけ、つまりビジュアルイメージの再構成だけだったら、脳に電極を刺したほうが早いと考える人はまだいると思う。

    ▲Pixie Dust
    https://www.youtube.com/watch?v=NLgD3EtxwdY
    田川 それは『魔法の世紀』の巻末の作品集を見ていても、改めてそう思うな。おそらく、あるときから落合くんは表現することをやめたんだよね。それがすごく潔いよい。
    宇野 本当はもっと美術プロパー受けする小賢しいメディアアートも作ろうと思えば無限にできる。でも、そういう方向には行かなかった。
    田川 これは相当に凄いことで。彼は一度表現を捨てている。でも一方で、彼の研究は視覚芸術的に強烈なインパクトを持っている。実は、そこが強みだったりもする。だから逆説的なんだけど、純粋に表現として見たときに、それが審美的な意味での完成に到達したら、無敵感さえ出てくると思うんだよね。
    宇野 最初に会った首からカメラを提げていた頃の落合くんの仮想敵って、やっぱりパースペクティブだったと思うのね。ピントの合っていない眼球からの情報を脳で再構成している人間の視覚体験に対して、パースペクティブ以外のロジックで構成された新しいビジュアルで介入すること。より直接的に、三次元の世界にアクセスできるビジュアルをつくるというのが、ずっと彼のテーマだったと思う。
     遠近法の発明は、人類史における最大級の視覚体験への介入だったわけで、当初の落合くんはそれに勝てるレベルのハックを考えていた。だけど実際に出来上がったモノは、それよりもかなりヤバいものになっていて、もはや視覚イメージからは逸脱しつつある。それが『魔法の世紀』の「デジタルネイチャー」につながっている。
    田川 ピカソもそうだけど、作家には「○○の時代」っていう区分があるからね。落合くんは今の自分の好奇心の整理が付いた後、どこに向かうのかな。
    宇野 「Pixie Dust」から「魔法の世紀」までが「対パースペクティブの時代」で、そこから先はもうちょっと違うものになるんじゃないかな。
    田川 従来のテーゼに対するカウンターとして「魔法の世紀」があるとして、それが一定の機能を発揮した後、彼がどんなテーマを設定するのかには興味がある。
    落合 お疲れ様です!
    (落合さん到着)
    宇野 お、来た来た。では僕はもう黙るので、あとは田川さん、よろしくお願いします。
    インタラクティブからは2011年に卒業
    田川 『魔法の世紀』面白かったです。僕は落合くんと宇野さんの二人のことを知ってるから、二人で書いた本だな、と。宇野くん担当の教科書的によく書かれている部分と、落合くんが持っているコアなスピリットみたいなところがよく一冊にまとめられた本だと思って勉強になりました。表紙にちょっと昔の作品(「A Colloidal Display」2012年)が使われているじゃない。この本で書かれているのは、この写真以降の話が中心になっているよね。
     ある瞬間を境に、落合くんの中で、ビフォー・アフターがクッキリ分かれているのかな。落合くんがどこかで表現をやめた瞬間が確実にあるな、と本を読んで感じたから、そこを最初に解説してほしい。

    ▲A Colloidal Display
    https://www.youtube.com/watch?v=tvxJs_4m0ZE
    落合 俺はやることがガラッと変わったのが2011年。これ以降、俗に言うインタラクティブなことをやるのを一切やめたんですよ。あの年は震災もあったけど「インタラクティブ」というものが、かつての先鋭的なものから広告やMAKE的な表現に変わった瞬間だと思うんです。
     それまで当時の中村勇吾さんが作っていたような作品がメチャクチャ評価されてインタラクティブ・ウェブメディアみたいなものもすごく見かけたのに、いつの間にインタラクティブで閉じた作品それ自体は「そういうのあったな」という感じになった。俺の変化か、社会の変化か分からないけど、チームラボもインタラクティブなものを作ることをやめてしまった。今までコンピュータ表現をやってきた俺はどこを目指すのか、考えた時期があったんです。
    田川 僕にも同じくらいの時期にアクションという単位で行ったり来たりをカウントする表現自体が、少し古臭く見えた瞬間があった。
     人間と機械のつながりをアクション単位で説明するよりは、場のポテンシャルの方程式みたいなことで、定常的に釣り合っている状態がいくつかあって、その落ち着き方がいろいろある、という理解の方が楽なんだろうと思って。
    人間中心論を超えていく
    田川 落合くんにとってインタラクションが古臭く見えたのは、自分の創造性が「人間機械系」から「機械系」に移ったということなの?
    落合 むしろ人間を機械で分解してやったら、結局は機械系の真理に落ちるんじゃないかという気づきがあったんですよ。人工知能がそのうち人間の仕組みを解明してくるとするならば、人間はどんな感じに分解されていくんだろうって。人間って部品だし、フィルターでできていると思うから。
     人間もきっと、人工知能のディープラーニングと全く同じような方程式で記述されるようになる。そう思ったとき、「場」とか「物理」みたいなもので人間を捉え直していく表現手法があるだろうと思ったんです。そこが2011年。おっしゃるとおり、この年以降は「波」しかやっていないんですよ。
      そこからの系譜にいったん区切りが付いたのが今年の頭で、今の俺の中での流行は「人間中心論を超えて場をどう捉えるか」になっているんです。
    田川 音波も光も波として統一的な理解ができるけど、それに対して人間の知覚は統一的じゃないじゃない。音は鼓膜で聴くし、光はやっぱり目で捉えるしって。そして、その中で浮かび上がる知覚的イメージはお互いに断絶してて。面白いよね。
    落合 色っていうのが一番ヘンなもの。おそらく自然界に存在しなくて、波長ベースの強度分布しかないにも関わらず、人間は赤とか青とか、全く違うものとして認識しているんです。本当はグレースケールで見えるはずじゃないですか。それなのに、波長をセパレートして混ぜ合わせるっていうオリジナリティの高いことをしている。
       その人間の時間尺度とか空間尺度とか、振動に対する感覚って独特。人間って揺れているもの以外、知覚できないんですよね。目ですら動きがないと全く知覚できないから。
    田川 落合くん、ロケットの打ち上げって見に行ったことある?
    落合 1回あります。種子島で。
    田川 俺も-Ⅱを結構な至近距離で見たんだけど、あの時に、聴覚と体表の触覚が連続した瞬間を味わった。分かる気するでしょ?
    落合 わかります。「あ、揺れてるんだ」って。体感で1Hzくらいの波!
    田川 ドォォーーーッ!と来て、自分の身体が揺れる。「音って空気がリアルに振動するんだ!」みたいなね。人間は自分たちが日常生きてる時に、合理的に反応する感覚器だけが今残ってるけど、エネルギーの爆発的な放出を前にすると、人間の感覚器と、それに由来する知覚イメージの断絶は吹っ飛ぶと、その時に思ったんだよね。
    落合 その合理的な反応ってきっと、生活の中に閉じ込められた弱いエネルギーたちの集まりなんで、結構セパレートされてる。
      でも、強力なプラズマ場とか作ってやって、もう何だかわからない猛烈なエネルギーが出てきて、下手するとエックス線とかも出てるんですけど(笑)、そうなると「あ、人間にとってはこれは音でも光でも触覚でもない何かなんだな」みたいなのがあって、それが俺にとって面白かったんですよ。
    田川 そういう意味では、全ては波と釣り合いで考え得るよね。
    落合 まぁ、重力波まではそうでしょうね。
    人間機械系から、機械人間系へ
    落合 しかし、場の釣り合いっていう話題が田川さんからも出てくるのがさすがっていうか慧眼ですよね。
    田川 インタラクティブな、コンピュータの入ったプロダクトを作っていくときには、必ずそんなイメージで考えるわけ。インタラクティブではないプロダクトの場合にはなおさら、それが際立つ。
     例えば今、僕がこの椅子に座ってるけど、自分の脚と椅子の脚とで合計6つの脚で着地をしていて、その地面と力の釣り合いを保っているわけで、僕と椅子は安定的に一体化しているよね。その安定状態を離脱して、次の安定状態に行くっていうのが「移動」とか「動き」ってことになる。
    落合 状態遷移図で書く話になってくる。
    田川 多分、全地球上に存在しているオブジェクトは、全部が状態の相関の中で理解できる。次、僕がコップを持つっていうところから鉛筆で書くっていうところまで、それで理解できる。
    落合 そうですよね、場の釣り合いの動きだけで。
    田川 人間機械系のモデルってさ、やっぱり通信速度とかCPUのクロック数とかセンシングの速度とか、ロジックが一回転するステップにすごい時間がかかってた時代の物差しだと思うんだよね。
     だから、その時代の人たちのレイテンシー(遅延時間)に対する考え方も、やっぱりレイテンシーがあるからそれを意識するんだけど、もはやそれがゼロになった人たちってレイテンシーのことなんて考えないと思うんだよね。
    落合 ああ、そうですね。
    田川 人間の脳内でコンマ2秒くらいの認知の遅延が起こってる時に、それでも、刻々と変化する周囲の状況に対応するために、人間の側は先読みをしながら動く。つまり、人間の側は仮説モデルを頭の中に持っているから、プロダクトの側はできるだけそれに合わせた動きになるようにデザインする、というのが基本なわけじゃない。
     全くそれが一致したとき、つまり、人間の脳内で構築されたモデルとプロダクトの動きのズレが完璧に一致したときに何が起こるのか。それは「釣り合っている」というイメージに近い。それを何と呼ぶのかっていう世界。釣り合ってるってことはさ、場的にいくと一体化してるわけ。
    落合 一体化してますよね。安定状態にある。
    田川 それともうひとつ大きな流れとしては、かつての人間機械系が、主客逆転で機械人間系に移っていくことなんだと思う。
     そうなったとき、これは逆説的なんだけど、コンピュータサイエンティストたちは人間を理解するというフェーズに戻らなきゃいけない可能性がある。なぜなら、いわゆる関数として人間を見たときに「この人たちをどうやって命令通りに動かすのか」みたいなことで。
     それは従来、政治家とかが取り組んできたことだと思うんだけれども、同じことをコンピュータサイエンティストたちが機械人間系をうまく機能させるために考えなきゃいけないのかもしれないね。全く新しいフィールドがなんか開けてくる(笑)。
    落合 政治と立法ですよね! 俺も最近講演会で政治の話すること増えました。人間がやってきたコーディングの過程、法律ってコードだと思うんですけど、それをこっち側が考えて緩めたりしないといけないんだろうなって、最近はすごく思うようになってきました。
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  • 高須正和×落合陽一 〈カオス近代〉からコンピューテーショナルな生態系へ・前編(魔法使いの研究室)

    2017-10-10 07:00  
    550pt

    メディアアーティストにして研究者の落合陽一さんが、来るべきコンピューテーショナルな社会に向けた思想を考える「魔法使いの研究室」。今回はチームラボMake部の発起人にしてMakerFaire深圳・シンガポールで実行委員を務める高須正和さんとの対談をお届けします。前編では、〈近代〉というパラダイムの超克をキーワードに、「100年後のキャズムを超えられない男」であるエジソンの業績を振り返りながら、今、中国で進みつつあるテクノロジーによる社会の変容について議論します。 ※この内容は2017年4月27日に行われたイベントの内容を記事化したものです。
    人類にとっての〈近代〉をいかに終わらせるか
    落合 今回のテーマは一見、難しい話に見えるかもしれませんが、ある種の生態系を成り立たせるイメージ、自分たちのモチベーションやそこから生まれた表現をチームで走らせるために必要な妄想というものがある。今日はそういう話を高須さんと話していけたらと思います。僕は「日本のイケてない部長さんがいなくなる会」を作りたいと思っているんですよね。
    高須 そうそう。そこでは「超合理的」がキーワードになるよね。
    落合 超合理的に考えて、「うちの会社はメーカーなんだけど、イノベーションないんだよね……」ってときに「いや、そんなことはしなくていいんです」「Kickstarterになる必要はないんです」というような話を、中国の深圳から来た高須さんと……深圳でいいんですよね?
    高須 シンガポールですね(笑)。
    落合 シンガポールから来た高須さんと話していきたいと思います。最初に僕から自己紹介を簡単にしていきます。
    落合 僕がやろうとしているのは「人類にとっての〈近代〉を終わらせる」ということです。皆さんは今は〈現代〉だと思ってるかもしれませんが、〈近代〉です。「国民国家」や「法律」といった概念は、近代的な枠組みの一部で、それをどうやって終わらせるか、ということを考えています。そのために人間や環境を拡張・補完する。コンピューテーショナルに操作された光や音、波動によって「新しい自然」を構築し、〈近代〉というスタイルを更新するのが、僕の目指しているところです。
    この〈近代〉を象徴する人物が、エジソンとフォードです。米国の巨大企業、ゼネラル・エレクトリック社とフォード社の創業者ですね。彼らは〈近代〉を規定することによって、20世紀という時代を作りました。たとえば、「T型フォード」は史上2番目に多く生産された四輪車ですが、そのために開発された工場による大量生産方式は、人間の労働単位を「時間」に定義しました。研究開発によってイノベーションを生み出し、大量生産によって低コスト化した製品を一般大衆に普及させる。このフォード方式の体制下では、人間の画一化が求められます。そこで要請されたのが、現在まで続いている集団教育と、「問い」と「答え」を前提とした学習方式です。この方式の教育を大学まで続けて、最終的にサラリーマンになることが、最も幸せに生きる方法であるという社会様式。その最大到達点が現在のトヨタでありAppleのiPhoneです。確かに、このやり方は21世紀初頭までは正しかったかもしれません。しかし、今後訪れる新しい社会では、エジソン・フォードの作った〈近代〉は更新されなければならない、というのが僕の考えです。たとえば、健常者と障害者という区分は、〈近代〉が規定した枠組みです。そもそも「標準的な人間」という発想がなければ、人間に障害なんてないんですよ。それはパラメーターの一部にしか過ぎない。たとえば身長が低い人がいたとします。重力が500倍くらいある環境で棚に手が届かないとなれば、それは圧倒的な障害です。でも、地球の1Gの重力下では、そんなことはないですよね。本来はパラメーターの問題でしかないことを、「障害」と規定したのは〈近代〉の枠組みです。それをどうやって破壊するか。そんなことばかり考えながら、僕はものを作っています。
    高須 単純な一つの回答じゃなくて、いくつも答えがあるということがキーワードになる気がします。今はすごくたくさんの答えがある時代です。いろいろな仕事があるから、いろんなことができる。答えがひとつではない、というのが脱近代だと思う。
    未来の製品をコミュニティベースで生み出す
    高須 では、僕の自己紹介をします。「MakerFaire」という世界的なDIYの祭典があって、僕は「MakerFaire 深圳」と「MakerFaire シンガポール」の運営をしているグループの一員です。アジアのMakerFaireに世界で一番多く参加して、プレゼンしたり出展したりしています。
    さきほどのお話でも〈近代〉と〈現代〉の対比がありましたが、ここでは「従来の発明家」と「メイカー」をの2つを、ぱきっと切り分けて語ってみたいと思います。 伝統的な発明家は大学や大企業の研究所にいますが、発明以外のことはほかの人がやっています。企業であれば、企画部が企画して、技術部が研究して、広告代理店が宣伝して、セールスマンが売ります。それに対して、メイカーと呼ばれる人たちは、仲間と一緒に学んで作りながら、お互いに評価しあうことで、イケてるものとイケてないものを決め、お金を出して仲間たちから買うという形で、イノベーションを生み出しています。
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  • 落合陽一「魔法使いの研究室」直方体型人類とタイムマネジメント時代の終わり(後編)

    2017-07-06 07:00  
    550pt

    メディアアーティストにして研究者の落合陽一さんが、来るべきコンピューテーショナルな社会に向けた思想を考える「魔法使いの研究室」。今回は、「直方体型人類とタイムマネジメント時代の終わり」の後編です。経済格差・文化格差に次ぐ第三の本質的格差とは。そして、SF映画で描かれるAIやUI環境を現実にするための具体的課題について語ります。※この内容は2017年3月25日に青山ブックセンターで行われた講演の内容を記事化したものです。
    格差の本質は「資本」ではなく「文化」にある
    落合 最近「格差についてどう思いますか?」いう質問をよくされます。もちろん、格差の問題は重要ですが、いま最も大きな格差になっているのは、実は資本格差ではありません。僕は文化資本の偏りの方が、本質的な格差だと思っています。現に富を持っている人は、得てして賢く、教養があることが多い。今はこの三つの要素が固まってしまっているのです。
    お金自体は、起業して投資を受けたり、ベーシックインカム的な仕組みによって社会に配分することができます。これは両方ともありうる形で、つまり、チャレンジする人がお金を得やすい社会にするか、チャレンジしなくてもお金を得られる社会にするか、どちらを選ぶかということでしかありません。もし、それを国全体の方針として選択できないのであれば、地方分権によって対応するという方法もあります。
    たとえば、日本を40くらいの区域に分けて、ある区画ではベンチャーキャピタルを優遇し生活保護は設けない。また、ある区画ではベーシックインカムを全面的に導入するというように制度に差を付けて、どちらに定住したいかを人々が選べるようにする。
    もちろん、このようなドラスティックな改革がすぐに実現できるとは思いませんが、シンガポールのような小さい国では、既にそういう動きが始まっています。地方自治の規模であれば日本でも恐らく成立するでしょう。
    そうなったとき、経済の持つ意味は相対的に軽くなります。なぜなら、お金は簡単に送金できますが、文化資本は簡単には伝達できないからです。世阿弥の能を理解したり、クラシック音楽を楽しめる教養を伝えるのは、一万円札を渡すことよりもはるかに難しい。この経済資本と文化資本の関係性を考えることは重要ですが、しかし、その制約すらテクノロジーが変えていくと僕は思っています。

    Demis Hassabis, CEO, DeepMind Technologies - The Theory of Everything - YouTube
    たとえば、最近のYouTubeには字幕を表示するボタンがあります。この動画はGoogle DeepMind社のCEO、デミス・ハサビスのプレゼンテーションです。イ・セドルを倒した囲碁ソフトを作った会社の社長ですね。この人は紛れもない天才ですが、彼の発言が英語字幕で表示されています。中学レベルの英語なので、辞書を引きながらであれば誰でも言っていることが分かります。
    昔は、同時代の天才の最新の思考をトレースするには、学会に参加するか、本人と友達になるか、あるいはその思考を理解した人から人づてに伝えてもらうしかなかったのですが、それがYouTubeと自動翻訳で誰でもできるようになった。これは文化資本の伝達性において、非常に重要です。

    これはデミス・ハサビスが実際に使っているスライドです。「From Pixels to Actions」とありますが、これは前編の「現在のディープラーニングの本質はピクセル的な視覚野的演算である」と同じ話です。情報は二次元にピクセル化されることで非常に計算しやすくなる。それをどうやってアクションに変えていくか。たとえば、AIのアルゴリズムを使ってゲームを解いたり、マシンラーニングを使ってロボットを動かしたり、そういった研究が重要になると彼は言っています。
    このように、次の時代に価値を生み出すであろうポイントを、誰もが共有できるようになったことは非常に大きい。彼らが投資しているのなら、そこが一番お金が儲かることは明らかで、それをYouTubeを通じて僕らが知ることができるようになったのは、大変大きな意味を持つわけです。

    Large-scale data collection with an array of robots - YouTube
    これはGoogleの研究で、画像で認識した物体をつまんで左の箱に移す動作ををロボットアームに学習させています。従来の自動車の組み立て作業などに使われていた工業用ロボットアームは、人間が挙動をプログラミングすることで動作していましたが、それを自分で覚えられるようにするための研究です。大量のロボットアームを同時に稼働させているのはなぜでしょうか? データの世界では一秒間に何万回も実行できます。たとえば、アルファ碁の強さは、自分自身と3600万回も戦うような、とんでもないことしているからです。しかし、現実世界ではそれができないので、マシンを何十台も並べて、同時並列的に学習させています。
    こういった先端的な研究や知見を、誰もがリアルタイムに享受できるようになりつつある。つまり、文化的な価値の再配分がテクノロジーによって進みつつある。
    また、再配分された文化資本をどうやって経済的に還元するかについても、たとえばGoogleは月面無人機探査レース「Google Lunar XPrize」に出資していて、このプロジェクトには3000万ドルもの賞金が設けられています。このようにテクノロジーを主体としたお金の再配分の流れは、既に生まれてきているわけです。

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