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  • 第4章 変容するグローバルとローカル ──「デジタル発酵」化の進展|落合陽一

    2021-08-05 07:00  
    550pt

    メディアアーティスト・工学者である落合陽一さんの新たなコンセプト「マタギドライヴ」をめぐる新著に向けた連載、第4章の公開です。アメリカ発のグローバルプラットフォームの環境が世界を覆い尽くしていく中で、固有の地域性に即したヴァナキュラーな文化は、どのような条件で繁茂していくのか。「デジタル発酵」というキーワードから、現在進行形で発生中の新たなローカリティの可能性を、功罪両面を踏まえながら検討します。

    落合陽一 マタギドライヴ第4章 文変容するグローバルとローカル ──「デジタル発酵」化の進展
    グローバルプラットフォームからローカルクリエーションへ
     前章では、デジタルネイチャー下におけるフィジカルとデジタルを股にかけたグローバルなプラットフォームの変容について、文明や地政学といったマクロな視点から、マタギドライヴの発生条件を概観しました。それにともない、地理や伝統に規定された文化や都市のあり方といった、ローカルな環境条件の側もまた、大きく変化しつつあります。  本章では、そのようなグローバルとローカルの相互浸透的な変化の帰結として起きてくる「デジタル発酵」の現象に力点を置きながら、私たちにとって、身近な次元でのライフスタイル環境の変化が、どんなふうに変わっていくのかを展望したいと思います。
     以前、台湾のIT担当大臣を務めるオードリー・タンさんと対談したときに興味深かったのが、「我々のような東アジアのローカルな文化圏の住人がグローバルなプラットフォームを使う意味はあるのだろうか」という話題になったことでした。つまり、2020年代初頭現在の私たちは、たとえばSNSひとつ取っても、TwitterやFacebook、Instagramなどアメリカ発のサービスを使っているわけですが、それによって必ずしもグローバルな世界と接続しているわけでは決してありません。  確かにインスタでは北米セレブの使い方に感化されて投稿内容が派手にはなってくるという傾向はあるものの、日本人なら日本語圏で、台湾人なら繁体字圏の範囲でしかその内容が共有されることは実はあまり多くありません。フォローしているアカウントもフォロワーも、その国や地域のローカルな言語圏内に閉ざされていることがほとんどです。私も含め一部の人々は活発なグローバルネットワークに接続していることもありますが、全体比率で見ればユーザーは少ない数にとどまっています。
     確かに、ネットサービスの黎明期から普及期にかけては、ネットワーク外部性によって収穫逓増の原理が作用するので、優位に立ったサービスのスケールメリットが雪だるま式に膨らみ、やがて支配的なプラットフォームを形成するというのが当然の流れでした。  しかし、それがグローバルなインフラとして行き渡り、さらにオープンソース化やAPI化を通じて技術的にどこでも誰にでもコピー可能になるという段階に突入したときには、「なぜわざわざ海外製のエコシステムを日常的にも使う必要があるのか?」という本質的な問いに直面します。
     実際、多くの人々のユーザー体験に則して言えば、地元の友人と話題を共有するようなローカルなコミュニケーションを取るためにInstagramやTwitterを使う必要はほとんどありません。さらに言えば、たかだか数百回くらいの再生のための動画をYouTubeで発表する必要も、本質的にはないと言えるでしょう。  もちろん、ローカルな内輪受けのコンテンツとグローバルなヒットコンテンツが同一のサービス上に並列されることで、なだらかなロングテールを形成してきたことは、確かにプラットフォームや市場の形成過程においては予測不可能性や多様性につながり、大きな意味がありました。しかし、ここまでグローバルプラットフォームが肥大化し、ロングテールのヘッドとテールが二極化してしまった状況の中で、9割の人々がローカルな共有しか求めていないのに、ローカルなネタを万に一つの(それよりも少ないかもしれませんが)グローバルヒットを狙うためのプラットフォームで発信することに、はたしてどれだけの意味があるのか。
     現在の世界の映画産業が、かつてほどアメリカ発のハリウッド映画の一強状態ではないのと同様に、やがては各地のローカルな文脈に根ざしたクリエイティビティを反映した何かに置き換わっていくことは充分にありえると思います。現在の我々が使うITサービスのほとんどは、ハリウッド映画どころではないほどの支配率でグローバルプラットフォーマーに占有され、ローカルが食いつくされているようにも見えますが、中長期的には、その先の状態に移行していくことが考えられるのではないでしょうか。
    デジタルネイチャー下でローカリティを開花させる「デジタル発酵」
     そういったグローバルなデジタルプラットフォームが浸透した環境で、再びローカルに根ざした文脈性が優勢になっていく現象を、序章でも論じたように、私は「デジタル発酵」と呼んでいます。  その要件を改めて定義するなら、デジタル環境の普及によって利用可能なツールやサービスをめぐる限界費用が限りなくゼロに近づいた条件において、誰もがデジタルの上でクリエーションしやすくなり、その享受もローカルな範囲で行われていくことで、まるで地域性と密着して発展した発酵製品のように、独自の地産地消型のサービスやプロダクトの文化が生まれていくという状態をイメージしています。
     その背景には、元々はアメリカ西海岸のローカリティから発生したグローバルプラットフォームがかつてない規模で浸透し、異なる文化を持つ各国の言語や法的・慣習的な制度といったローカルな防護壁にぶつかることで、次第にミスマッチな部分が大きくなってきたという事情が挙げられます。そこでは、いわゆるカリフォルニアンイデオロギーへの反動として、同じプラットフォームを利用するユーザー間の経済階層的・リテラシー的な縦軸の格差に基づくポストトランプ型の分断が噴出してきているのに加えて、さらに地理的・歴史的な多様性に基づく横軸の問題が顕在化してきているのだと言えるでしょう。  そうした個々のローカルのニーズや問題に対応するためには、もはや単一のサービスの運用では対応できず、最終的にはサービスを分けていくしかありません。統一プラットフォームの現地法人を立ててローカライズするというような昔のモデルでは間に合わず、ローカルのブランドで別にサービスを立てないといけなくなったところ、他のベンチャー企業が次々とそれを担っている、という状況が生じつつあるわけです。
     もちろん、そうしたきめ細かなローカリティに対応した新たなサービスを、今後もカリフォルニアの人たちがスケールメリットを活かして生み出し続けていく可能性は依然として強いですが、これからの大きなシナリオとしては、おそらくローカルのものはローカルで作られていくようになるでしょう。そうした動きが、21世紀初頭に隆盛したカリフォルニアンイデオロギーに対する、非常に強力なオルタナティブになりえると思います。  つまり、同じものを全員に作らせようとするのではなく、全員で違うものを使っていくというような世界が成立するだろうというのが、デジタル発酵のシナリオです。
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  • 第3章 文明の転換と新しい地政学の中で|落合陽一

    2021-05-18 07:00  
    550pt

    メディアアーティスト・工学者である落合陽一さんの新たなコンセプト「マタギドライヴ」をめぐる新著に向けた連載、第3章の公開です。人類を取り巻く環境がデジタルネイチャー化しつつある21世紀現在、私たちの社会生活を支える産業の構造や各文明圏のパワーバランスは、どのように変わってきているのか。情報プラットフォームをめぐる米中の対立や、第三極としてのヨーロッパの動向、そして日本の選択肢をめぐって、新たな地政学の台頭を素描します。

    落合陽一 マタギドライヴ第3章 文明の転換と新しい地政学の中で
    文明のパワーバランスの転換と三極化するグローバル経済
     ここまで見てきたように、デジタルネイチャーという「質量のない自然」は、ウイルス感染症という思わぬ変動にも後押しされ、これまでの「質量のある自然」の側と様々なかたちで結びつきながら、新たな環境として人間の生き方を変えつつあります。  では、自然のあり方と相互作用しながら、社会の基盤を構築していく営みである「文明」というレベルに焦点を当てたとき、人類社会のあり方はどう変わっていくのか。本章では、21世紀現在までに確立された産業やグローバル経済のパワーバランスをめぐる構造の変動といった、比較的射程の近い事象にターゲッティングしながら検討してみたいと思います。
     人類が築いてきた文明の歴史を、産業という切り口から捉え直すことを考えてみましょう。第1章でも論じたように、ここでは国が科学技術政策の例として挙げた広く馴染みがある単語としてSociety 5.0という標語になぞらえて説明します。人間が物質的な自然そのものに分け入って糧を得ていく狩猟採集が主要な生活手段だったSociety 1.0から、農業や漁業などの第一次産業が基盤になるSociety 2.0、第二次産業としての工業が発展したSociety 3.0、そこから第三次産業としてのサービス産業や第四次産業とも呼ばれる情報産業などによって「実質」の領域が大きくなってくるSociety 4.0から5.0に至るまで、幾度かの大きな仕組みの転換がありました。  その観点から21世紀の日本と世界をめぐる状況を、より具体的な文明圏の興亡として捉え直すとしたら、こと産業革命以降に農耕社会から工業社会へと移行する中で、ユーラシア大陸の西岸でローマ帝国の遺産を受け継ぎながら産業革命を引き起こしたヨーロッパから、大西洋を越えて新大陸に民主主義と資本主義の殿堂を築いたアメリカへと覇権が移り、そのヘゲモニーの下で第二次世界大戦後は太平洋を隔てた日本も世界第二の経済大国へと飛躍的に発展。そして米ソ冷戦体制の崩壊後は、大陸側の中国が一気に伸びてきて日本を追い抜き、さらにはアメリカまで追い抜こうとしているのが現在の段階です。  とりわけ1980〜90年代から始まったIT革命による情報産業の発展により、直接的な軍事力や経済力だけではなくサイバー戦をともなう米中の対立が大きく表面化しているのが、前提となる2010年代後半〜2020年代現在の情勢と言えるでしょう。
     つまり文明圏のパワーバランスの転換として現状を捉えるとき、工業社会から情報社会への転換の中で、アメリカ的な純粋な自由主義型の発展の到達点と中国的な権威主義型の到達点が拮抗しつつ、さらにそこにヨーロッパ的な、自由と権威のバランスを衝くブランド社会のような三極構造が見え始めてきています。日本をはじめ、いま世界の多くのビジネスプレイヤーたちは、そうした文明環境の変化を前提に、どのような立ち振るまい方をするのかを考えていかなければならない状況を強いられています。  例えば、戦後日本の工業社会の中核だった自動車産業の場合は、ある意味ではアメリカのモータリゼーションをハックしてコストパフォーマンスを上げていくことで発展を遂げていくことができました。自動車に限らず、電化製品や半導体など、あらゆる工業製品を、相対的にアメリカ国内よりも安い人件費と部分最適化を極めていくタイプのイノベーション、文化的同質性によるコミュニケーションの高速化などの積み重ねで凌駕していくというのが、日本のような新興工業国の勝ちパターンでした。  しかし、情報社会に移行する1990年代以降は日本の賃金も上がってしまい、外国に工場を輸出して現地生産での地産地消を成立させることでそれをカバーしようとしてきましたが、そこで成功を果たすには、いわゆる「日本型経営」のような文化的同質性をベースにした労働集約の優位性に頼るのではなく、文化に依存しないグローバルなプロパティを作ることが必要でした。そこで限界を露呈したことが、戦後の日本的工業社会の大きな弱点だと言われています。また、現在のジェンダーギャップや多様性、コロナワクチンのオペレーションに至るまで提示されている文化的同質性に基づいた多くの問題について、再確認すべき時流なのかもしれません。  これとは逆に、現代の情報社会では、ローカリティによって培われた文化を母体に、世界中の誰もがユニバーサルに使えるプロダクトデザインの体系に昇華できたときに、きわめて強力な勝ち筋が見えてきます。その典型的な例を2つ挙げるなら、アップルやグーグルなどアメリカ西海岸の文化風土に根ざしたカリフォルニアン・イデオロギーを背景に持つ今日のITプラットフォーマーたちであり、イケアやノキアなどカテゴリーを越えてライフスタイル全体をトータルにブランド化していくスタイルを確立した北欧デザインだったと思います。  前者についてはアメリカのヘゲモニーそのものの底力でもあるのでともかく、後者が2000年代前半から2010年代中頃くらいまでに国際市場で発揮していた存在感の大きさは、もっとよく見直されるべきでしょう。例えばノキアに体現されていたデザイン志向の携帯電話は、スマートフォン登場以前までの国際市場を押さえて、全員が同じインターフェースを使うということを通じて、北欧デザイン的なものの潮流を世界化させました。  この流れの後にアップルのiPhoneが持つ、フラットなデザインが席巻していくわけですが、結果的にプラットフォームとしての普遍性を獲得していくプロダクトの成立過程には、単なる機能や効率の優越だけでなく、エッジの立った文化的なブランディングによって人々のライフスタイルや価値観をハックしていくプロセスが必要だったことがわかります。アップルもまたApple Watchのバンドにエルメスを起用するなど、折々でヨーロッパ産のブランド価値を採り入れようとしてきていますし、逆にベンツやBMWがスマホとのデータ連携システムを組み込むなど、工業社会までの段階で培われてきたブランド価値を、情報技術を介して融合させていこうというアプローチが、2010年代後半から2020年代にかけて強まっています。
     そのような工業から情報への文明的な転換の中で、中国は一方ではアメリカと対立しつつ情報のカーテンを築きながらも、他方ではヨーロッパと接近しながら、産業を再構築しようとしています。つまり、21世紀に入ってからの中国は、グローバル経済の中で「世界の工場」とも呼ばれる、アメリカ型の20世紀工業社会を範とするコモディティな工業生産の場としての座を確立してきましたが、GAFAに対抗するBATHのようなユニバーサル・プラットフォームの構築方法までをも模倣して独自のクローズドなITエコシステムを築いた次のフェーズとして、プロダクトの文化的・体験的な付加価値を高めていく方向へと、生産の先端部分をシフトしようとしている。  この段階で強みを発揮するのが、ワインやウイスキーのような固有性の高い地域風土で作られる「樽の文化」だったり、伝統的な建築や革製品、ガラス工芸、腕時計などロングタイムのブランドマネジメントから価値を作っていく「石の文化」だったりを数多く抱えるヨーロッパというわけです。具体的には、LVMHのようなフランスのブランド・コングロマリットや、ドイツのBMW、ベンツ、カール・ツァイス、Leicaといったドイツ・ブランド、あるいはスウェーデンのIKEA、H&M、ハッセルブラッドなど、世界的に価値が認められているヨーロッパ産のブランド力を、飽和したテクノロジーと組み合わせてグローバルに流通可能にすることで、かなり大きな付加価値の源泉になってきています。  実際、例えばHuaweiのカメラのレンズがLeica製になっているように、中国製のプロダクトでヨーロッパ産のブランド品を採用しているものも増えてきました。これは先に触れたように、アップルがエルメスを採り入れることでブランド価値を補おうとしたのと同様の傾向で、こういうミクロな産業生産の局面でも、文化的なブランディングによる付加価値の足りないアメリカと中国が、ヨーロッパという第三極を取り込んでいこうとする競合関係にあるという構図が見えてくると思います。
    デジタルネイチャー化した世界における「新しい地政学」の誕生
     以上に見たようなグローバル経済の三極構造が成立しつつあるのは、中国が牽引した経済発展の結果として、ヨーロッパのブランド価値を消費可能な富裕層が西側諸国だけではなく、アジア圏をはじめ全世界的に伸張してきているためです。例えば腕時計の市場が伸びてきているのは、それを支える富裕層たちの価値観として、ヨーロッパのブランドがアジアなど他の新興地域のブランドに対して、動かしがたい歴史的な優位性を明らかに持っているからです。その権威と優位性をもって、アジア圏の製品支配に対してヨーロッパが再び踏み出してきているというわけです。  こうしたヨーロッパ的なブランド価値の作り方と中国の独裁体制のドッキングという結託の仕方は、古典的な地政学の用語で言えば、19世紀の大英帝国から20世紀の後半の冷戦体制にかけて発展した英米日の同盟関係を基盤とする環太平洋のシーパワー(海洋の覇権をベースにした力)優位の体制から、独仏中露といったユーラシア大陸のランドパワー(内陸の覇権をベースにした力)優位の権威主義的な体制への揺り戻しのように捉えることができるかもしれません。
     つまり、航空輸送と情報通信の発達した現代においては、軍事面では制海権より制空権の方が重要になっているのと同時に、経済面でも海洋国が内陸国に対して抱いていたような交易上のモビリティの優位は、かなりの程度キャンセルされてしまう。  第二次産業の重工業の時代は、膨大な資源や原材料といったモノを集積し、大量生産・大量消費に対応することが重要でした。だからこそ、大航海時代以来の数世紀は、世界中から海上輸送で大量のモノを動かすことのできるシーパワー優位の文明が続いてきたわけです。  しかしこれが第三次産業が優位になってくる時代には、付加価値生産の中心がモノから人に移行していきます。あるいはモノの側面に限っても、例えば半導体の製造やそこからの工業製品化のプロセスは内陸側が非常に強く、そうした高付加価値の製品の物流は、海上での一斉輸送というよりもタイムスパンの短い航空輸送で成り立っており、むしろきめ細かなニーズに対応する複雑な配送ネットワークの構築が重要です。  そういう意味では、ランドパワー寄りの文明圏がかつてほどはシーパワーに後れを取らずに済む条件が整ってきているとも言えて、特に中国が掲げた「一帯一路」におけるヨーロッパとの「陸のシルクロード」構想などは、ランドパワーの相対的な復権を示す象徴的なビジョンと考えることもできるでしょう。
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  • 第2章 デジタルネイチャーとはいかなる意味で「自然」なのか|落合陽一

    2021-03-01 07:00  
    550pt

    メディアアーティスト・工学者である落合陽一さんの新たなコンセプト「マタギドライヴ」をめぐる新著に向けた連載、いよいよ第2章の公開です。ウイルス感染症という、人類がしばらく忘れていたタイプの自然の猛威が地球を覆っていった2020年を境に、デジタル環境は人間にとっての「新しい自然」としての浸食度をますます強めています。そうしたデジタルネイチャーの変化の行く先を、「人工生命」技術の進展や西洋と東洋の自然観の違いに立脚しながら展望します。

    落合陽一 マタギドライヴ第2章 デジタルネイチャーとはいかなる意味で「自然」なのか
    「質量のある自然」のインパクトが、「質量のない自然」の変化を加速する
     前章では、デジタルネイチャー下における「人間」の在り方がどのように拡張されていくのか、身体や言語という観点から考察しました。では、デジタルネイチャーとはいったいどのような「自然」なのか。本章では、我々を取り巻く「自然」との関係を、改めて捉え直していくことにしたいと思います。
     奇しくも2020年は、人類が忘れていた不可視の自然の猛威に直面する年になりました。細菌やウイルスによる感染症の拡大は、文明史の節目節目で大きな影響をもたらしてきた要因でもあります。14世紀のヨーロッパではペストが大流行し、20世紀初頭にはスペイン風邪が世界中で猛威をふるいました。ここで注目すべきは、細菌にしろ、ウイルスにしろ、もちろん自然発生するものではありますが、その感染拡大には人間の営みを含めた環境変動が無視できない要因になっているという点です。  たとえば、ペストの流行の背景には、キリスト教がヨーロッパ各地に布教を進めていく過程で、教会を建てるために次々と森を切り出していったことにより、森に生息していた動物が市街地に居住空間を移した結果としてネズミが市中に増え、ペスト菌の媒介になったことがあると言われています。諸説ありますが、都市の発展に応じて人間が自然を切り開いていったことが影響していることは確かでしょう。  この開墾のモチベーションが、カトリック教会の布教活動の裏返しだったという点は注目すべきです。すなわち、天上にある神の叡智を地上に顕現しようとする情熱が、森を伐採して耕作地を築いたり、ワインを醸造したり、鉄を鋳造したりといった技術文明を、中世のキリスト教世界にもたらしてきたわけです。これは、オリジナルの生態系を、ヨーロッパ人のコモンズ(共有地)が上書きしていったという事態に他なりません。その過程で起きた、自然生態系との不測のコンフリクトが、ペスト菌の猛威だと言われています。
     そしてペストによって全人口の1/3ほどにも到達する死者が出た後のヨーロッパに訪れたのが、ルネッサンスの大きな波でした。ペストに対して無力だったローマ教会の権威はしだいに失墜し、ギリシャ・ローマの人文主義を範とする文芸復興の機運を生むとともに、やがて宗教改革の遠因ともなったと考えることもできるでしょう。  加えて、人口が減ったことによって生き残った人々の栄養状態は相対的に改善され、その中で産業構造も変わっていきます。農作を中心とする構造から、家内制手工業を中心に都市構造の中で人々が集団で働く構造への移行が進みます。これを象徴する現象として、ヨーロッパ中の都市で時計塔が普及しました。これは大量の人間が同期して働くという、都市生活のライフスタイルが定着していったことを意味します。  このように西欧が精神革命や産業革命を起こして「近代」というものを生成していく過程には、ペスト以降の都市構造の変化が、分かちがたく結びついているわけです。つまり、世界を構築していく主体を神から人間に移管していこうとする文明のプロセス自体が、ある時点で自然がもたらしたイレギュラーに後押しされて成り立っている。我々の都市環境や歴史は、このような人外の存在との相互作用を含んだ系として捉え返していく必要があるということが、改めて問い直されているのだと思います。
     そして、withコロナという思わぬかたちでの「自然との共生」を余儀なくされる経験を経て、ペストが都市化による近代への移行を促したのとは逆に、今度は都市構造からの離脱を促すデジタル化への早急な移行を後押しするインパクトになりつつあります。ペスト以降にも、スペイン風邪や第二次世界大戦、石油ショックにリーマンショックなど、人類の歴史は自然条件と社会的要因が渾然となった様々なショックに揺さぶられてきましたが、人々の広範な生活にまつわるデジタル環境の普及に関するインパクトをもたらす歴史的なショックは、過去にはなかったと思います。  このような破壊的なショックの後には、破壊的イノベーションが起こっていきます。たとえばリーマンショックで金融の価値が揺らいだ後には、その信用を別の形で担保するブロックチェーンという技術が浮上しました。では、コロナ禍の後にはどんなイノベーションが起きているのか。  それは明らかに、人間のデジタルトランスフォーメーションに他なりません。全世界の人間がオンラインでビデオ会議に接続し、日常的にコミュニケーションを行うという状態は、わずか数ヶ月前にはまったく想像もできなかった事態でした。いまや人間のコミュニケーションそのものが、アトムからビットにシフトしているのです。これはビットからアトムへの変換がトレンドでもあった2010年代のインターフェースカルチャーが変化しつつあるものかもしれません。  しかしながら現状の手法論としてはこれらの技術的コンセプトは、1990年代のテレビ会議や2000年代の「Second Life」から脱却できていません。普及率こそ爆発的に高まりましたが、本質的なパラダイムとしては20年前に構想されたものと同じ手法を突き詰めた、漸進的なものに留まっているとも言えます。他方、萌芽的なイノベーションはたくさん起こっており、ディープラーニングによる顔認識や背景差分法などのスピードが上がって実用レベルになり、たとえばZoomのバーチャル背景機能で遊ぶ人たちがたくさん出てきました。また同時多数接続と低遅延化によってClubhouseのような常時接続型のSNSも流行しています。
     今回のコロナ禍によって、社会がデジタルトランスフォーメーションを経験している中で起きている重要な社会的な変化を、2つほど挙げておきましょう。  1つは、人間が生得的に持っている「人は見た目が9割」といった印象を左右する要素が、ほぼハードウェアに置き換えられているということ。先日、日本テレビの報道番組「news zero」で共演している有働由美子さんに「オンラインで営業活動をするときに何が大切ですか」と聞かれて、「1にいいカメラ、2にいいマイク、3、4がなくて、5に回線速度」と答えました。つまり、デジタルのインターフェースとソフトウェアによって、印象の大部分が決まってしまうわけです。これは第二の身体としてのデジタルインターフェースの比重が変わったことを意味しています。  もう1つが、リアルタイムでのオンラインコミュニケーション環境の日常化により、「自然」が入り込む余地が確実に増えつつあるということです。2000年代後半のウェブ2.0の時代にも、かつて濱野智史さんが『アーキテクチャの生態系』と呼んだように、予想外の出来事がたくさん起こるSNSのコミュニケーション環境は、かなり自然に近い自律分散性や予測不可能性があると論じられていました。ただ、それがデジタルネイチャーと呼べる域に到達するには、SNSでのテキストベースのコミュニケーションよりも、はるかにリッチな情報が生成されて、対象の変化がそのまま世界の変化につながるような環境である必要があると思います。  その意味では、目下のZoomなどのオンライン環境の日常化は、より自然に振る舞うことになるのは間違いないと思います。もし現在の変化の延長線上に、全世界の人が1つにつながるようなレベルでの巨大なウェビナーのようなものが登場した時には、それぞれの人が生きる元来の自然からの影響をもろに受けるような、新たなデジタル自然が生まれてくるかもしれません。  こうした視座から、アナログとデジタル、「質量のある自然」と「質量のない自然」の関係性を捉え直しながら、変化の行く先を展望していくことが、まさに文明史的な契機を経験している私たちの課題と言えるでしょう。
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  • 第1章 デジタルネイチャー下における人間、言語、そして身体|落合陽一

    2021-01-12 07:00  
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    メディアアーティスト・工学者である落合陽一さんの新たなコンセプト「マタギドライヴ」をめぐる新著に向けた連載、待望の更新です。前回の序章につづき、第1章では前著『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』で展開された新たな「自然」としての社会環境が立ち現れる中で、「人間」なるものがどのように再定義されていくのか、言語や身体の役割をふまえて展望していきます。

    落合陽一 マタギドライヴ第1章 デジタルネイチャー下における人間、言語、そして身体
    デジタルネイチャーにおける「人間」という存在様式の拡張
     本章では、デジタルネイチャーという新しい自然の下で、人間と身体がどう変容していくのかを考えていきたいと思います。  たとえば、アートの話から始めましょう。ここ10年は、チームラボに代表されるような、個人ではなくて集団でシェアして制作するアートコレクティブが隆盛する時代だったと言えるかもしれません。  特にテクノロジーの運用が必要なメディアアートの分野で顕著ですが、ホストを補うために他の仕事をやる集団がいて、そこでプロダクトを作るというスタイルが、アートの世界にも移ってきているという流れがあります。  コレクティブ(集団)という観点で言えば、集団を仮想的な個人とみなす「法人」は、人類史における大きな発明です。それは主に資本主義社会の中で、大量生産・大量消費をするために生み出されたものでしたが、アートのように個人の人格とは切り離せない唯一性の高い行為だとみなされていたものが、いまは法人によって担われつつあるのです。  もちろん昔から、バンドや音楽、創作グループというものは存在しました。そう考えると、これは漸進的な変化ではあるのですが、アートコレクティブという形態がここまで取り沙汰されるようになったのはここ最近で、21世紀になってからのことです。
     このことを捉え直せば、ではアートのような創造行為のベースとなるような、個々の人間の身体や存在の本質とは何だろうかという、逆の問いかけが成立します。  実際、マタギドライヴ時代の身体をめぐっては、人間がいかにデジタルに変換しうるかということが、(COVID-19以降は特に)重要なトレンドとして浮上してきます。デジタルの向こう側に、はたして本当にフィジカルな人間がいる必要があるのでしょうか?  この問題設定は、前著『デジタルネイチャー』での議論を継承するものです。  『デジタルネイチャー』では、「物質−実質」「人間−機械」という2軸がクロスする4象限のマトリクスを設定して、それぞれの間にさまざまなコミュニケーション可能な存在者が登場しているという話を書きました。  つまり、物理空間上の身体をベースにした物質的な人間だけでなく、情報空間の上にバーチャル(実質的)な身体を持つ人間や、実質と機械の象限にある人工知能(AI)たち、あるいは物質的な身体をもつ機械であるロボットやアンドロイドといったものたちです。そうした中間的な存在者たちが、デジタルメディアを介してテレプレゼンスされたり、何かの問題を解くために自律的に思考したり、あるいは肉体としては死んでいるはずなのに生きている状態と同じような活動をしたりする世界が到来しつつあるわけです。  実際、現在の社会制度にあっても、バーチャルな存在でしかない法人は、ひとりの人間の人格に近い概念として認められています。このように人間は、社会環境の需要に応じて自らについての概念を書き換え続けてきている存在なので、生まれながらに人間という生物種であるということは、必ずしも人間であることの要件ではなくなってきているわけです。
    (引用:『デジタルネイチャー』P170)
     そうなると、人間の身体論は従来とは大きく変わります。つまり、これまで人間だと思われているものは、図の左上の「物質×人間」に限定されていたわけですが、いまは多くの人々が左下の「実質×人間」としてバーチャル化した人間に触れていることになります。  一方で、右上の「物質×機械」の存在者たちは、いまはまだはっきりと線の向こう側にいるものとして認識されていますが、人間同士のコミュニケーションと同じように、感情を動かされる人がこれからは増えていくことでしょう。右下のAIについても同様です。  デジタルネイチャーの環境下では、人間の身体や精神といった主体性が、実質や機械の側に染み出すように拡がっていくのだと言うことができます。  したがって、マタギドライヴの問題意識は、まず「人間って何だったのだろう」ということから始まります。人類という種は、最初こそ図の左上から始まりましたが、最終的にはこの図の全てを覆っていくんじゃないか、いまはその被覆面の一部を生きているに過ぎないのではないかと、私は考えています。それが2045年なのか2100年あたりなのかは、まったくわかりませんが、AIに人格が認められていく時代は、いずれやってくるでしょう。
     当面の短期的な見通しとしては、物質的な人間の身体を置き換えうる「実質×人間」のデジタルヒューマン化のための技術に関する限界費用はまだ高く、また投入できるリソースに応じた解像度にも相当なばらつきがあるので、新しい身体観を獲得できる層とそうでない層との間に、大きな格差が生じていくことでしょう。  たとえば最近はテレビ会議での面接が行われている就職活動の現場で現在進行中に起きていることとして、リモート環境の整備度合いやノウハウの差によって、映像の映りがいい人と悪い人とでは、まったく評価が変わってしまうという話を、企業の人事担当者からも聞くことがあります。  こうしたことの是非が、デジタルネイチャー環境の確立期には常に問題になっていくことは避けられないと思います。
     これは本質的には、あらゆるコミュニケーションがデジタル化してきたときに、人類が生得的に有している格差も含んだ多様性の分布を、どこまで資本の再分配やテクノロジーの力で均して回収・改変していくのが適切なのかという、近代的な人権概念の適用限界やリベラリズムの根拠、あるいは生命倫理といった領域にも直結していく問題だと考えています。  そもそも、「物質×人間」の象限だけが「人間」であった従来の世界では、生まれ持った肉体がたまたま持っていた染色体の組み合わせで男性/女性といった性が決まってしまいます。そして、主に生殖可能性の有利不利をめぐって、容姿や身長といった生得的な属性のランダムなばらつきを序列づける価値付けが行われ、それを埋め合わせる行動によって社会が駆動しているという側面があるといえるでしょう。
     たとえば、生得的な容姿のばらつきを化粧によって調節するという社会慣習がありますが、これは考え方によってはメイク用品という資本主義社会の産物によってなされているといえないでしょうか。そうやって考えると、すでにして現代は、資本主義というゲームにおける勝敗が見た目を決定する世界になっているのです。  そして人間が生まれ持った身体のランダム性を維持せず、資本によってランダム性が回収されてしまうような時代では、逆に持って生まれた環境における資本の格差によって、社会的な格差が固定化して継承されていくことが当たり前になっていくでしょう。  デジタルヒューマン化によって生じつつあるデジタルディバイドも、こうした資本の論理によって様々な格差が、より固定的な方向へシフトする例の、ひとつに過ぎないといえば過ぎないものです。特に目下のコロナ禍は、そうした新たな付随格差を、わかりやすく可視化させているとは思います。
     ただ、私が6年前に『魔法の世紀』で書いたのはそうではなく、むしろ「実質」や「機械」の側に介入して「人間」の捉え方を拡張することで、フィジカルな身体がもつある種のランダム性を享受して、ダイバーシティを許容する人間性が培われていくという像でした。それは利用可能なテクノロジーの限界費用の高さと相まって、「物質×人間」の世界で築かれた価値の固定性を崩すには至らないため、現時点では長期的な期待に過ぎませんが、これから実現をめざすイノベーションの指針としての有効性には、なんら変わりはないと考えています。  デジタルネイチャーへの過渡期にあって、ブレグジットやトランプ旋風のように、たしかに2010年代後半の世界は、コロナ禍になる以前から「映像の世紀」の虚構性への反動のモードが強まっていくトレンドが見られました。しかし同時に、人々が「実質」と「物質」の垣根をなくす解像度の問題に、かつてなく敏感になってきているように思えます。  テクノロジーの進歩によって新しい霊性や物質性のようなものがピクセルやCGの上に宿っていくのと同時に、それを探求するユーザーの側の創造が、多様な民藝性を帯びつつあるという兆候もまた見られる傾向にあると思います。
    人類社会の発展史から「人間」の在り方を捉え直す
     こうした変化を受けて、マタギドライヴにおける人間像はどのように変わっていくのか。いま日本政府は、これからの社会を築いていくための科学技術政策の長期的なフレームとして「Society 5.0」というビジョンを掲げていますが、この整理を借りながら、そもそも人間像とは何なのか、それがどう変わってきたのか、どう変わりうるのかを、捉え直していきたいと思います。
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  • 序章 デジタルネイチャーからマタギドライヴへ|落合陽一

    2020-08-05 07:00  
    550pt

    『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』刊行から2年余。いよいよメディアアーティスト・工学者である落合陽一さんの連載がスタートします。ユビキタス化した情報テクノロジーが世界を再魔術化していく原理を読み解いた初の単著『魔法の世紀』、その力がもうひとつの「自然」となって社会を変えていく未来像を描いた『デジタルネイチャー』につづく本連載では、そこで生きていくための新たな人間像やクリエイティビティの在り方を模索します。序章では、第3のコンセプト「マタギドライヴ」に至る道筋について語ります。
    落合陽一 マタギドライヴ序章 デジタルネイチャーからマタギドライヴへ
    「魔法の世紀」に汎化してゆく「デジタルネイチャー」
     新しい連載を始めるにあたって、私の最初の本である『魔法の世紀』以来の議論を振り返っておきたいと思います。  同書のコアにある考え方、その着想のヒントは、自分のメディアアート表現にありました。映像のようであって物質であるもの、あるいは物質のようで映像であるものというように、両者のはざまにある、どちらともつかないものについての思考です。おそらくそこから、バーチャルとリアルの垣根を越えた表現や、次世代志向のコンピューティングが見つかっていくだろうと、博士課程のころからずっと考えていました。  その裏側には、計算機というテクノロジーが、全貌を理解不可能なブラックボックスとして現実世界に浸透しているという状況があります。つまり、計算機が生成するCGのような物質を伴わない映像が実世界指向のインターフェースで物質のように扱えるようになったとき、もはやそれは魔法のような奇跡に近いものとして多くの人々に経験されることになる。VRの開祖アイヴァン・サザランドも世界初のヘッドマウントディスプレイに関する論文の中で、アリスの世界のように物質を操れる部屋のような概念を究極のディスプレイと表現していますし、アーサー・C・クラークの有名な法則「十分に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない」とも言われていることもあります。しかし、その裏側にはブラックボックスによる世界の再魔術化があり、虚構と現実の区別がつかない(人の感覚器の意味でも、フェイクニュース的な意味でも、仕組み自体という意味でも)魔術の中に身を置くことになる、という議論をはじめました。  そこから、第二次世界大戦を契機に生まれたコンピュータ技術の歴史をひも解きながら、映画やテレビジョン放送といった映像技術が近代国民国家の統合装置として機能した「映像の世紀」たる20世紀の世界が、いかに技術と芸術の交錯を通じて再魔術化されて塗り替えられてきたのか。そうした21世紀という時代の変化を、「魔法の世紀」と名付けました。
     この『魔法の世紀』という本の最後に出てくるのが、「デジタルネイチャー」という考え方です。  それは、映像と魔法を対峙させたこの本において、映像と物質の垣根を越えた先に生まれる新たな自然観を考えたものです。映像というものが質量のない自然の写し絵だとすれば、いま計算機の力が現出させているのは、質量をもつ元来の自然そのものに近づく何かになります。現実に出てくることもあれば、引っ込むこともある。触ろうとした瞬間に消えてしまうこともあれば、実際に物質的な価値を持っていたりすることもある。質量のある自然と質量のない自然の二つの自然が横たわり、双方の姿を変えようとしている。  実際のコンピュータ技術としては、例えばユビキタスコンピューティングやIoT、サイバーフィジカルシステム、あるいはアイヴァン・サザランドが提起したアルティメットディスプレイなどを通じて、それは具現化されています。つまりは、コンピューター上でどのように理想の世界を再現するかという試みと、この世界をどのように大量のコンピューターで覆っていくかという試みが合流したところに、元来の自然とは異なる新しい自然が生まれているのではないか。このビジョンを本格的に展開したのが、前著『デジタルネイチャー』でした。

     こうした考え方に基づいて、筑波大学で2015年からデジタルネイチャー研究室を主宰していたのですが、その後2017年から大学としてデジタルネイチャー推進戦略研究基盤が発足し、2020年にはデジタルネイチャー開発研究センターが設立されました。  ここにきてデジタルネイチャーの像はより明確化していて、ユビキタスコンピューティングおよびIoT、サイバーフィジカルシステムの基盤となる計算機技術によって、音や光などあらゆる波動現象をコントロールする技術により、実物と見まがう映像を空中に浮遊させることができたり、さらに自然物と区別しがたい人工物が生まれつつあります。つまり、計算機技術が生み出した人工物と自然物の相互作用によって再構築された新たな環境として、デジタルネイチャーは具体化しつつあります。つまり、「デジタル/ネイチャー」ではなく、「デジタルネイチャー」というべき「新しい自然」の姿が明確になってきました。  より具体的なレベルでは、狭い範囲では3DプリンターやAR/VRなどの要素技術を用いて構築されていて、人工生成物を自然環境との相互作用で再びデータ化し、さらに関連するフィードバックループによって進化させていくような自律系として考えていくことができます。あるいはロボティクスとして表現されることもあれば、CGとして表現されることもある。そのような新たな自然の形成方法を工学的に研究しながら、文化・芸術の実践も行っていこうというのが、新たに発足する研究センターの概要です。
     また、もうひとつデジタルネイチャーの新展開としては、日本科学未来館の常設展示として2019年から「計算機と自然、計算機の自然」を公開しています。ここでは、現実世界と計算機上で再現された世界の区別がつかなくなるときに、我々の自然観そのものが更新されるのではないかということを人々に問いかける取り組みを行っています。  つまり、いまや我々が作り出した計算機はこの世界にあふれ、それが作り出す世界の解像度や処理能力が、わたしたちの持つ知覚や知能の限界を超えつつある。近い将来、元来の自然と計算機の作り出した自然の違いはますます薄れていき、その違いが意識されない、新しい大きな自然として統合されていく在り方を想像しようということが、この展示のテーマです。現実の蝶々と見まがうデジタルの蝶や砂粒のような人工部品など、ミクロ的なものからマクロ的な世界像までを体感できる展示空間が実現しました。


    ▲日本科学未来館「計算機と自然、計算機の自然」©Yoichi Ochiai
     このように、デジタルネイチャーというコンセプトは、私の本を読んだ人以外にも、徐々に世の中に浸透つつあります。計算機を主軸においた自然環境を含める大きな自然生態系に関するビジョンは、新しい自然観として議論されつつあります。例えば、ガイア仮説のジェームズ・ラヴロックは最近、「人新世」ののちに「ノヴァセン」という計算機や機械による新たなる地質年代を想定する考え方を表明しています。  なぜこうした新しい自然が出現するかの本質を社会的・経済的な条件に即して言えば、未来学者ジェレミー・リフキンの『限界費用ゼロ社会』などで言われている通り、情報テクノロジーの利活用にまつわる限界費用が限りなくゼロに近づいていくからです。このように限界費用が下がった環境で、いま通信網を通じてオープンソフトウェアやハードウェアにアクセスしたり、GitHubなどのプラットフォームを共有したりしながらものづくりを行い、SNSでそれが拡散して新しいテクノロジーを生み出していくといった流れが促進され、それがまた新たな環境を更新していく。 また、自然に含まれる計算プロセスを利用しようという考え方も、「ナチュラルコンピューテーション」、「ナチュラルコンピューティング」などと呼ばれており、自然を演算装置としてみる考え方と、自然から演算機に入力し、自然に再出力するような考え方は相互乗り入れしています。そこには計算機の生態系の一部としての計算機自然(デジタルネイチャー)があり、元来の自然の多様性に基づき、地産地消の進化を遂げていることもあります。  地産地消のテクノロジーについては、一時期メイカーズムーブメントがもてはやされたりしましたが、今後はもっと自然な流れでわれわれの生活に土着していくことになります。このようにデジタル環境が新しい価値を生み出していくプロセスは、発酵のプロセスに似ているかもしれません。たとえば、微生物が作物を発酵させる作用を利用して酒や醤油を醸造したりするように、限界費用の低下したデジタル技術を利用して、様々なプロダクトやカルチャーが生み出されていく。限界費用の低い自然に根差した文化的な意味と、地産地消のナチュラルコンピューテーションというテクニカルな意味の両方を含んでいます。そうした「デジタル発酵」の現象を伴いながら、この社会にいま新たな自然が築かれているのだと見立てることができるわけです。これは2019年のSXSWの基調講演で発表し、近著『2030年の世界地図帳』の中でも解説している考え方です。  限界費用の低いテクノロジーの上に生み出されたデジタルネイチャー上には、現実とほぼ区別がつかないような人工物を作られていくのかもしれないし、逆に人間の側が新たな人工環境のシステムに慣熟して適応していくことになるのかもしれない。前著『デジタルネイチャー』には、人間がデジタルで飲み会を行うようになるということを書きましたが、まさにCOVID-19のパンデミックを機にオンライン飲み会が浸透していくなど、人々の行動変容にも顕れているわけです。目下、自然観としては、人工と自然の区別のつかない新しい自然と新しい日常や新しい行動へと変容しつつあります。
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  • 落合陽一さんの新連載「マタギドライヴ」開始!

    2020-08-03 11:30  
    PLANETSメールマガジンにて、メディアアーティスト・落合陽一さんの新連載がスタートします!
    題して「マタギドライヴ」。
    『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』刊行から2年余。
    ユビキタス化した情報テクノロジーが世界を再魔術化していく原理を読み解いた落合さん初の単著『魔法の世紀』、その力がもうひとつの「自然」となって社会を変えていく未来像を描いた『デジタルネイチャー』につづく本連載では、そのような社会で生きていくための新たな人間像やクリエイティビティの在り方を模索します。掲載は今月(2020年8月)からを予定しています。お楽しみに!

    撮影:蜷川実花
    落合陽一(おちあい・よういち)
    メディアアーティスト。1987年生まれ。東京大学大学院学際情報学府博士課程修了(学際情報学府初の早期修了)、博士(学際情報学)。筑波大学デジタルネイチャー開発研究センター センター長
  • 【無料公開】落合陽一『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化された計算機による侘と寂』まえがき

    2018-06-15 07:00  

    本日発売となる、研究者・メディアアーティストの落合陽一さんの最新刊『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化された計算機による侘と寂』(PLANETS)より、まえがきを無料公開します! テクノロジーによっていかに〈近代〉の枠組みが再構築されうるのか。落合さんの提唱する〈デジタルネイチャー〉を繙(ひもと)いていきます。
    書籍情報
    ▲落合陽一『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化された計算機による侘と寂』6月15日発売!(Amazon)▲【対談】落合陽一×宇野常寛 〈計算機自然〉はプラットフォームへの隷属を乗り越えうるかーー『デジタルネイチャー』刊行に寄せて 動画はこちらから。製作経緯や本書に込めた思いを落合さんが語ります。
    まえがき

     2017年の秋口の深夜、スマートフォンが産声をあげて10年後の世界だ。
     ハイビームを焚いて走行する車内から、窓の外を流れる景色を眺めている。夜霧の闇は深
  • 【対談】落合陽一×宇野常寛 〈計算機自然〉はプラットフォームへの隷属を乗り越えうるかーー『デジタルネイチャー』刊行に寄せて

    2018-06-14 12:00  

    6月15日にPLANETSより発売される落合陽一さんの最新刊『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化された計算機による侘と寂』についての、著者の落合さんと宇野常寛の対談です。構想・執筆に約3年の時間を費やした『デジタルネイチャー』。その制作の経緯から、本書に込めた落合さんの思いを語っていただきました。
    書籍情報
    落合陽一『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化された計算機による侘と寂』6月15日発売!(Amazon) ▲この記事は、こちらの動画をもとに対談記事化したものです。
    『魔法の世紀』からの約3年の変化
    宇野 6月15日に落合陽一さんの最新刊『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化された計算機による侘と寂』がPLANETSから発売になります。今回は「デジタルネイチャーとはなんぞや?」とか、購入を迷っている人、若干高いんじゃないかとか、そういうことを思っている人に対して、いかにこの
  • ディズニー/ピクサー的CGアニメは「宮崎駿的手法」を取り込むことができるか?――落合陽一、宇野常寛の語る『ベイマックス』(PLANETSアーカイブス)

    2018-04-23 07:00  
    550pt



    今朝のPLANETSアーカイブスは『ベイマックス』をめぐる落合陽一さんと宇野常寛の対談です。『アナ雪』大ヒット以降のディズニー/ピクサーが、「CGテクノロジーの進化」と〈宮崎駿的なもの〉という2つの課題にどう向き合ってくのかを考えます。(初出:『サイゾー』2015年3月号(サイゾー)/構成:有田シュン) ※この記事は2015年3月24日に配信した記事の再配信です。
    ▼作品紹介
    『ベイマックス』
    監督/ドン・ホール、クリス・ウィリアムズ 脚本/ジョーダン・ロバーツ、ドン・ホール 原作/『ビッグ・ヒーロー6』 製作総指揮/ジョン・ラセター 配給/ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ 公開/14年12月20日
    “サンフランソウキョウ”に住む天才少年ヒロ・ハマダは、兄タダシに見せられた工科大学のラボや、彼が作ったケアロボット「ベイマックス」に衝撃を受け、飛び級入学のための研究発表会に参加する。見事合格を勝ちとるが、直後に会場で火災事故が発生。残されたキャラハン指導教授を助けるべく、タダシは火の中に飛び込んでいった。兄を亡くした失意からヒロは心を閉ざしてひきこもるが、タダシが残したベイマックスと再会し、さらに自身が研究発表会のために製作したマイクロボットが何者かに悪用されていることを知り、タダシの死に隠された真相があるのではないかと疑問を抱く。ベイマックスのバージョンアップと、兄のラボの友人たちにパワードスーツや武器等を製作し、共に敵の陣へと乗り込んでゆく。
     東京とサンフランシスコを合わせたような都市が舞台だったり、主人公たちが日本人とのハーフだったり、設定からして日本の要素が多く取り入れられた、ディズニーアニメ。
    落合 『ベイマックス』は予告編の印象と全然違って【1】、『アイアンマン』(08年)万歳! と思っているような理系男子の話をアニメで作るとこんな感じかな、と思っておもしろく観ました。ヒロがキーボードを叩いて、3Dプリンタとレーザーカッターでなんでもつくれる万能キャラという非常にコンティニュアスに成功したナードとして描かれているのは新しいし、研究と開発が一体化していることに誰も疑問を抱かないところを見ると、観る人の科学に対する意識がアップデートされているのかなとも思えた。頭のいい奴が手を動かせば、そのままモノをつくれるというイメージがつくようになったのはすごくいいなと思う。登場人物たちが、極めてナチュラルにモノをつくっているんですよね。ディズニー映画の製作期間はだいたい4~5年くらいと聞くから、『ベイマックス』はちょうど2010年代前半につくられたとすると、ちょうどプログラマーという人が簡単に社会変革を起こすものをアウトプットできるようになった時期なんですよね。だから、このタイミングでこういう作品というのは必然なのかもしれない。
    【1】予告編の印象と全然違って:日本で公開されていた予告編では「少年とロボットのハートフルストーリー」のように見せられていたが、実際のところはアメコミ原作だけあってヒーローものになっている。
    宇野 ゼロ年代のディズニー/ピクサーだったら、兄貴がラスボスになっていたと思うんだよね。対象喪失のドラマという要素をもっと前面に出して、科学のつくる未来に絶望した兄貴と、科学の明るい未来を信じるヒロ君が対決する。単純に考えたらそっちのほうが盛り上がったと思うけど、今回のスタッフはその方向を取らなかった。個人的な動機に取りつかれた教授が暴走【2】する話になっていて、ヒロと科学をめぐる思想的な対立をしていないんだけど、そこは意図的にそうしたんじゃないかな、と。ピクサーの合議制のシナリオ作り【3】の中で兄弟対決が挙がらなかったわけはないんだよね。そういうあえて選択された思想的な淡白さが、今回のひとつのポイントだと思う。

    【2】教授が暴走:事故で兄タダシと一緒に死んだと思われていたラボの指導教官。ロボット工学の天才博士が、ある個人的な動機に基づいてヒロの発明品を悪用しようとしていた。
    【3】合議制のシナリオ作り:ディズニー/ピクサー作品においては、複数のスタッフがストーリー会議を行って脚本をつくり上げているのが有名。

    落合 もういまや科学技術批判が意味を持たない、ということが重要なんだと思う。科学技術批判、コンピューター批判してられないだろうっていうのは、『ベイマックス』のひとつの重要なファクター。今までの流れだったら、ヒロ君が作ったナノボットが知恵を持って暴走して人間に攻めてくる、みたいなシナリオもありだったと思うんですよ。でもそっちにはもういけないよね、と。
    宇野 ピクサーは、特にジョン・ラセター【4】は『トイ・ストーリー』(95年)から一貫してイノセントなもの、たいていそれは古き良きアメリカン・マッチョイズムに由来する何かの喪失を描いてきた。アニメでわざわざ現実社会に実在する喪失感を、それも一度過剰に取り込んで見せて、そして作中で限定的にそれを回復してみせることで大人を感動させてきたのがその手口。『バグズ・ライフ』(98年)も『ファインディング・ニモ』(03年)も『Mr.イングレディブル』(04年)も『カーズ』(06年)も全部そう。そして『トイ・ストーリー3』(10年)は、そんなラセターのドラマツルギーの集大成で、あれは要するに観客=アンディにウッディとの別れを告げさせることで、ピクサーが反復して描いてきたものが映画館を出たあとの現実社会には二度と戻ってこないことを、もっとも効果的なやり口で思い知らされる。
     しかし、その後のディズニー/ピクサーはこの達成を超えられないでいると思う。『シュガー・ラッシュ』(12年)はガジェット的にはともかく内容的にはほとんどセルフパロディみたいなもので、『アナと雪の女王』(14年)は、保守帝国ディズニーでやったから現代的なジェンダー観への対応が騒がれたけど、要は思い切って非物語的なミュージカルに舵を切ったものだと言える。そしてこの流れの中で出てきた『ベイマックス』は、ラセターが持っていた強烈なテーマや思想を全部捨ててしまって、ほとんど無思想になっている。単にこれまで培ってきた「泣かせ」のテクニックがあるだけで、これまで対象喪失のドラマに込められてきた「思想」がない。そこで足りないものを補うために、今回はアニメや特撮といった日本的なガジェットをカット割りのレベルで借りてきている。言ってしまえば、定式化された脚本術と海外サブカルチャーの輸入だけで、ピクサー/ディズニーの第三の方向性としてこれくらいウェルメイドなものがつくれてしまったということにも妙な衝撃を受けたんだよね。

    【4】ジョン・ラセター:ピクサー設立当初からのアニメーターであり社内のカリスマ。06年にディズニーがピクサーを買収し、完全子会社化したことでディズニーのCCOに就任。ディズニー映画にも多大な影響を及ぼしている。

    3つに分岐したCG表現の矛先
    落合 『モンスターズ・インク』(01年)の頃までのピクサー映画は、いかに新しいレンダリング技術を取り入れて映画を作るかがサブテーマだったんです。『トイ・ストーリー』の頃はツルツルしたものしかレンダリングできなかったけど、『モンスターズ・インク』はモッサリした毛の表現ができるようになった。そこからしばらくはそうした技術の進化を楽しむ作品がなかったんだけど、『アナ雪』では雪のリアルな表現ができるようになった。あの雪の表現をつくるために書かれた論文があって、それなんか本当にすごい。雪をサンプリングして一個一個の分子間力を分析することで自然のパウダースノーをレンダリングするっていう。またこれで技術を見せる作品が続くのかな、と思ったら『ベイマックス』には何もなかった。だから、またそういう時代が数年続いて、その後にまったく新しいものが出てくるんだろうと思っています。
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  • 宇野常寛『母性のディストピア EXTRA』最終回 三次元化する想像力(2)

    2018-04-13 07:00  
    550pt

    2017年に刊行された『母性のディストピア』に収録されなかった未収録原稿をメールマガジン限定で配信する、本誌編集長・宇野常寛の連載 『母性のディストピア EXTRA』。映像の世紀が終焉したいまもなお、虚構を通してしか描けない現実がある。最終回の今回は、研究者でメディアアーティストの落合陽一さん、チームラボ代表・猪子寿之さんの取り組みへ期待を寄せながら、現代版にアップデートされた〈ゴジラの命題〉について論じます。 (初出:集英社文芸単行本公式サイト「RENZABURO[レンザブロー]」)
    ニュータイプと〈魔法の世紀〉
     富野由悠季にも、2015年秋に久しぶりに連絡を取った。私が自分の事務所から出版した、若い科学者の本に推薦文をもらおうと考えたからだ。もちろん、それは口実で私の狙いは富野を挑発することだった。〈Gのレコンギスタ〉について対談したときに伝えきれなかったことを、自分の企画した本を読んでもらうことで伝えようとしたのだ。
     メディアアーティストでもある筑波大学の落合陽一はコンピュータプログラムによる光波/音波の制御によって、触感をもったレーザー、音波による空中の物体固定などを実現し、これらの研究開発で内外からの注目を集めている。
     そして落合はいう。このネットワークの世紀は同時に「魔法の世紀」なのだと。20世紀は映像という発明が、具体的には広義の劇映画的な映像が、人々をつなぐ最大の媒介として機能し、かつてない規模の社会(文脈の共有)を実現した。そしてそれゆえにモニターの中の映像こそが、もっとも批判力のある視覚体験として共有されていた。しかし、その映像の世紀は技術的に乗り越えられようとしている。ネットワーク技術の発達はいま、人間と人間、人間と事物、事物と事物と直接続しつつある。そしてコンピュータの処理能力の向上によって、もはや人々にモニターの中で何が起こっても本質的に驚かすことはできなくなっている。
     そんな映像の世紀の後に訪れた世界――本稿ではネットワークの世紀と呼んだ既に訪れつつある未来――を、落合は自らの研究で〈魔法の世紀〉にするという。実際に映像に代替する次世代の視覚体験の研究開発を手掛ける落合はこう主張する。
     エジソンからリュミエール兄弟までの時代――生まれたばかりの映像はまさに「魔法」そのものだった。しかし、その魔法は驚くほど短い時間で、覚めた。瞬く間に人々に浸透し、当たり前のものとなり、もはや魔法ではなくなってしまった映像は物語の器となることでその社会的な機能(媒介者)を得、そしてそれゆえに前世紀の社会の構造を規定する装置になっていった(映像の世紀)。しかしそれは同時に劇映画とは魔法を失った映像の屍(しかばね)にすぎないことを意味するのだ、と。そして媒介者としての、文脈の共有装置としての映像がその役割を終えようとする今、全盛期における劇映画のように人々の心を動かすものは何か。それが編集者としての私が作家としての落合に投げかけた問い、だった。
     落合の回答はこうだ。
     映像の世紀が終焉したいま、魔法的な技術こそが人々の心を動かすだろう、と。映像の、特に劇映画的なものによる他者との文脈共有がその威力を決定的に低下させたとき、それに代わるもの――人の心を決定的に動かすもの――は劇映画以前の映像がそうであったように魔法的な技術そのものだ、と落合は言うのだ。そして自分の研究はその最先端であり、新時代のアートそのものである、と。さらに、遅れてきた富野由悠季のファンを自称する落合は言う。富野自身とは異なり、自分はニュータイプの理想を信じているのだ、と。幼いころに見た富野のアニメーションから得たイマジネーションを、自分は社会に実装するのだと。〈魔法の世紀〉とは人類をニュータイプに導くものだ、と。
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