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記事 3件
  • 森田真功 関与するものの論理 村上龍と20-21世紀 第3回『オールド・テロリスト』と『希望の国のエクソダス』をめぐって(2)

    2018-10-23 07:00  
    540pt

    批評家の森田真功さんが、小説家・村上龍の作品を読み解く『関与するものの論理 村上龍と20-21世紀』。『希望の国のエクソダス』と『オールド・テロリスト』の両作品に登場するジャーナリストの関口は、〈関与の論理〉における決定的な変化を象徴しています。00年代から10年代にかけての、村上龍作品のコミットメントのあり方を問い直します。
    日本の戦後史を否定する中学生たち
    「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」
     これは『希望の国のエクソダス』のクライマックスで、不登校の中学生たちを代表するポンちゃんという少年が、NHKの国会中継を通じて発した言葉だ。言葉の意味はともかく、非常にインパクトがあるし、実際にこの言葉の持つ強さを半ば是としながら『希望の国のエクソダス』の物語は幕を降ろすのである。
     ポンちゃんは〈だが、希望がない〉の後に、こう続けていく。〈でも歴史的に考えてみると、それは当たり前だし、戦争のあとの廃墟の時代のように、希望だけがあるという時代よりはましだと思います。九〇年代、ぼくらが育ってきた時代ですが、バブルの反省だけがあって、誰もが自信をなくしていて、それでいて基本的には何も変わらなかった。今、考えてみると、ということですが、ぼくらはそういう大人の社会の優柔不断な考え方ややり方の犠牲になったのではないかと思います〉と。ここには2000年代の初頭に中学生、つまりは未成年であったり子供の立場であったりする彼らを主題に置くことの企図が、ほとんど要約されているといっていい。前のディケイド、90年代までを含めた日本の戦後史あるいは戦後史を築いてきた先行の世代に対する反動であるかのように、中学生たちの国外脱出(エクソダス)は立ち上がってくるのだ。
     村上龍のキャリアを振り返ったとき、戦後の日本に向けた痛烈な否定は重要なモチーフであり、度々繰り返されてきたものである。それが『希望の国のエクソダス』では、ポンちゃんの言葉と不登校の中学生たちによる国外脱出とを通じ、具体化されている。新しい世代に古い世代への否定が託されるというのは、物語を見る上でわかりやすい。が、どうして国外脱出が試みられなければならないのか。ポンちゃんの言葉をもう少し追っておきたい。
     ぼくは、この国には希望だけがないと言いました。果たして希望が人間にとってどうしても必要なのかどうか。ぼくらにはまだ結論がありません。しかし、この国のシステムに従属している限り、そのことを検証することは不可能です。希望がないということだけが明確な国の内部で、希望が人間になくてはならないものなのかどうかを考えるのは無理だとぼくらは判断しました。
     たとえば、ある共同体が誤謬を抱えていると知っているにもかかわらず、その共同体に組することは、誤謬を認めること、誤謬に加担するということでもある。ポンちゃんの言葉は、そうした誤謬への加担を明らかに拒絶している。いうまでもなく、国家は巨大な共同体である。『希望の国のエクソダス』では、大量の中学生が学校や教室を国家の縮小したコピーだと実感している。そして、それが誤謬なき共同体では決してないことを指摘するために不登校が選ばれているのであった。彼らの不登校は、翻って戦後の日本でうやむやにされてきた誤謬からの離脱にまで拡大される。拡大していった結果として国外脱出が試みられていくのだ。
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  • 森田真功「関与するものの論理 村上龍と20-21世紀」 第2回『オールド・テロリスト』と『希望の国のエクソダス』をめぐって(1)

    2018-09-06 07:00  
    540pt

    批評家の森田真功さんが、小説家・村上龍の作品を読み解く『関与するものの論理 村上龍と20-21世紀』。2015年刊行の長編小説『オールド・テロリスト』の舞台は、『希望の国のエクソダス』(2002)の19年後の日本です。00年代と10年代、少年と老人、建国とテロリズム――対象的な主題を扱うこの2作品に共通しているのは、週刊誌・ワイドショー的な想像力が成立させている共同体への、強烈な否定でした。
    老人たちの蜂起を描く『オールド・テロリスト』
     80年代や90年代における活発さと比べるのであれば、近年の村上龍は作家としての活動をさぼり気味である。したがって、目下のところの最新作は、2015年に発表された『オールド・テロリスト』だということになる。『オールド・テロリスト』が古い世代の存在とテロリズムに紙幅を割いていることは、題名に示されているとおり。単行本の「あとがき」にある村上の言葉を借りるなら〈70代から90代の老人たちが、テロも辞さず、日本を変えようと立ち上がるという物語のアイデアが浮かんだのは、もうずっと前のこと〉であって〈彼らの中で、さらに経済的にも成功し、社会的にもリスペクトされ、極限状況も体験している連中が、義憤を覚え、ネットワークを作り、持てる力をフルに使って立ち上がればどうなるのだろうか〉という問いを作品の支柱にしていることがわかる。
    ▲『オールド・テロリスト』(2015)
     老年に差し掛かったベテランの作家が、老人に材を取った作品に取り組むことは一種の必然であろう。自身が関わっているテレビ番組の「カンブリア宮殿」で巡り会った成功者をヒントにした部分があるのかもしれない。いずれにせよ、若い世代の共感に寄り添うような立場とは距離を置き、物語が作られていることは明らかだ。1996年の『ラブ&ポップ』に付せられた「あとがき」における〈(女子高生のみなさん)私はあなた方のサイドに立ってこの小説を書きました〉という発言のなかで射程に置かれていたのとは異なった層が『オールド・テロリスト』では見据えられているのである。他方、社会の高齢化は、2010年代に入り、より深刻になりつつあって、そこにフォーカスを絞った作品だとも読める。ちなみに2015年には、かつてヤクザであった老人の右往左往を描いた北野武の映画『龍三と七人の子分たち』が公開されている。こうしたシンクロニシティは、いかに社会の高齢化がオンタイムなテーマであったかの証左になりえると思う。
     さて、しかし、率直に述べれば、『オールド・テロリスト』は、村上龍の著作において特に秀でた小説というわけではない。荒唐無稽な筋書きと登場人物たちを囲うスケールとが、どうもちぐはぐな印象を受けるし、展開に中弛みがあり、終盤のカタストロフィまで引っ張っていく力に弱さを覚えるのである。熱心なファンでさえ(あるいは熱心なファンだからこそ)まず『オールド・テロリスト』を挙げる向きは少ないのではないか。だが、決して捨てておくべき小説でもない。先にいったように、今日的な社会の問題、現代的な日本の風景を作品は下敷きにしており、それを切り出していく筆致に村上龍の「らしさ」がある。この国と、そして、この現在とに直結した困難を突きつけてくるかのような「らしさ」である。全体の整合性であるよりも一場面ごとにグロテスクなうねりを感じさせる「らしさ」が、作品に長編であることとは別のレベルでヴォリュームを与えているのだ。では、その「らしさ」は何によっているのか。『オールド・テロリスト』の語り手であるセキグチのプロフィールが大きな手がかりとなっている。
    週刊誌的なリアリティに属するもの
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  • 【新連載】森田真功『関与するものの論理 村上龍と20-21世紀』 第1回 〈文学の顔〉の半世紀

    2018-08-08 07:00  
    540pt

    今月から、批評家の森田真功さんの連載「関与するものの論理 村上龍と20-21世紀」が始まります。1976年に『限りなく透明に近いブルー』で鮮烈なデビューをした村上龍。それはかつて石原慎太郎が担ったたユースカルチャーの寵児、芥川賞という権威に象徴される〈文学の顔〉の継承でもありました。以後の村上龍が日本文学の中で占めてきた立ち位置と役割について考えます。
     20年後、文学は、どのような顔をしているのだろうと考えることがある。
     いや、誤解があっては困るのだけれど、そこには必ずしも「文学とは何か」式の問いや「これから文学はどこへ向かうのか」式の問いは内包されていない。最初に述べておくと、本論における文学、とりわけ純文学と言い換えられるその括りは、意外なほどにシンプルなものであって、それは芥川賞という権威に集約されていく小説あるいは文芸の一ジャンルにほかならないからである。
     芥川龍之介賞、通称芥川賞は、1935年に設立された。今日でも年二回の授賞が行われるたびにテレビのニュースや新聞などで取り上げられ、基本的には純文学を対象にした新人賞だということになっている。同様に話題として上がる直木三十五賞、通称直木賞は、芥川賞に比べ、より大衆的でエンターテイメント性の高い作品を選考の対象にしており、新人作家やベテラン作家の区分を問わないというのが一般的な認識であろう。
     文学の歴史を紐解くことが最大の目的ではないし、両賞の意義については既に様々な識者が論じているのだったが、芥川賞が現在のようなヴァリューを持ち得た直接のきっかけは、1955年、第34回になる同賞を石原慎太郎が『太陽の季節』で取ったことにあったと通説化している点は押さえておきたい。石原は23歳、当時の史上最年少で芥川賞を受賞、『太陽の季節』は話題の作品となり、映画化もされて当たった。内容を軽く説明するなら、裕福な家庭に育ったはずの若者が享楽的な価値観と生活とに淫していくというものであって、それが大勢に支持されたことのセンセーションが、芥川賞のヴァリューをも底上げしたのだ。
    ▲石原慎太郎『太陽の季節』(1955年)
     ここで注意したいのは、石原と『太陽の季節』とが、古い世代の文化と対決するための若者文化、つまりはユース・カルチャーを代替するものとして機能し、受け入れられ、消費されたことである。どの時代であれ、どのジャンルであれ、新しい世代の台頭は必然でしかない。が、やがて政治家にまで上り詰める作家自身のカリスマや映画化のメディア・ミックスに補助されていたとはいえ、ユース・カルチャーのように見られつつ、社会的な影響力を強く持ち合わせていたがゆえに、『太陽の季節』は、芥川賞にとってのメルクマールとして語られることとなるのであった。
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