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  • シャフトアニメと演出(ミザンセーヌ)の力(後編)|石岡良治

    2023-11-21 07:00  

    今回のメルマガは、批評家・石岡良治さんの「シャフト」論をお届けします。 新房昭之作品や「シャフ度」などから独自の作風をみせる、シャフトアニメの「演出」的な美点とは何か。2024年公開予定の『劇場版 魔法少女まどか マギカ〈ワルプルギスの廻天〉』への展望なども交えつつ考察しました。前編はこちら。 (初出:2023年8月24日放送「石岡良治の最強伝説 vol.65 テーマ:シャフトアニメ」、構成:徳田要太)
    「シャフト美学」の達成と挑戦
     私は『現代アニメ「超」講義』では批評的判断として意識的に「〈物語〉シリーズ」をほぼスルーしており、代わりに大沼心監督の『ef - a tale of memories.』(2007)を取り上げています。同作は個人的に大沼監督の最高傑作だと思いますし、新海誠と接点があるという点でも重要な作品です。尾石達也の美意識などがダイレクトにみられることから「〈物語〉シリーズ」のほうが「シャフト美学」を展開していると思うんですけれど、「作画」に頼らないモーショングラフィックス的な映像作りという点では『ef - a tale of memories.』のほうが優れています。ネタバレを恐れずに言うと、人工都市に関わる二つのロケーション同士の関係がギミックになっているというのがポイントです。ノベルゲームマニアに名高い『Ever17 -the out of infinity』(2002)のトリックをどこか思わせる仕掛けで、非現実的なスカスカな画面だからこそ生きる演出なんですね。かつ、私はシャフトのオープニング演出のギミックでは、『ef - a tale of memories.』をもっとも評価しています。最終回の特殊なモーションでエモーションを喚起するスタイルですね。  もう一つは『魔法少女まどか☆マギカ』(2011)[2]について。あらためて正直に言うと、同作は事前情報を知った時点ではかなり懸念がありました。蒼樹うめと虚淵玄のタッグで、新房昭之がまったく新しい魔法少女を作るということだが果たして大丈夫なんだろうか、と。『The Soul Taker』と同じく意欲作かもしれないが不発もあり得るだろうと思っていました。しかしじっさいは周知の通り斬新な作品になりましたね。結果的には2011年の1月から4月という放送期間がライブ感を高めたことも作品の魅力を底上げしたと思います。  さらに言うと劇場版『叛逆の物語』の達成は、シャフト成分と虚淵成分とが混ざっていることにあると思います。一度完結した物語をさらに転調していくスタイルでしたが、私が思うに虚淵玄抜きのシャフト成分について比較するのによいのがソーシャルゲーム原作の『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝』(2020)で、この作品と、虚淵玄が脚本をつとめた『叛逆の物語』との関係を考えると、近年数多くなっている「ユニバースもの」への回答になるのではないかと思っています。前提として私は『マギアレコード』のファイナルシーズンはそれなりに評価しているのですが、シリーズを通してのシナリオは正直二転三転しており、すっきりしていなかったと思っています。というのは「魔女」の設定を生かしきれていないところがあるからです。魔女は時代によっては女性のエンパワーメントとして機能したり、ときには端的な迫害対象になったりするわけですが、そのあたりを『マギアレコード』は「やや雑な相対主義」で片付けてしまっているきらいがあります。ジェンダー論的にいくらでも現代的な仕掛けを施せそうな「魔女」という設定を、存分に活用できていないのではないでしょうか。「ユニバースもの」への回答というのはそのことで、「それぞれの世界(宇宙)でいろいろあるよね」で終わらせてしまうところがあります。ここは虚淵玄が『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ〈ワルプルギスの廻天〉』で何をやってくれるかに期待したいと思います。  それでは虚淵玄成分はどこで測ればいいか。じつは、『シン・ゴジラ』(2016)の陰に埋もれてあまり評価されていない、アニメ版『GODZILLA』(2017〜)三部作が重要だと思っています。「現実の都市と結びつかないゴジラ」があまりわくわくさせないということが判明してしまった感もあり、あまり注目されなかったアニメですが、この作品には面白いところがちゃんとあると考えています。要は創世神話をやり直しているんですね。端的にいうと虚淵版の『古事記』の再話と言えます。主人公男性にはパートナー女性が二人いて、そのそれぞれが子供を産むことが示唆されたわけですが、これは言ってしまえばギリシャ神話のゼウスのようなものです。これと同じように、2024年に公開が予定されている『劇場版 魔法少女まどか マギカ〈ワルプルギスの廻天〉』からかりに新たな単性生殖創世神話を作れたらなら、魔女ものの新機軸になるのではないかと思っています。 『マギアレコード』では本編のアイデアは一応全て使えるわけですが、まどかとほむらの関係という、作品世界の根幹に関わるような特大設定が存在するが故に、そこをあまり動かさない範囲内での外伝をやらざるを得ない。そこに限界があったと思います。そう考えると、結局「エヴァンゲリオン」はOPソング『残酷な天使のテーゼ』の歌詞に反して「神話」にはならなかったわけですが、『まどか』がそのチャレンジを超えて神話になることを個人的には期待しています。  私見では、シャフトには二つのチャレンジがあると考えています。一つは前編で述べたように『五等分の花嫁∽』が再確認させてくれた方向で、物語的には無に等しいマルチヒロインハーレムものなど、ジャンルとしてのルールやレギュレーションがある程度固まりきっている題材を用いつつ、「ブランコが揺れる」などの映像ギミックだけで不思議な感動を与えることができるという方向です。  もう一つは「世界そのものの悪」とは何かを問うような、世界の底が抜ける経験を掘り下げる方向です。私が過去に『叛逆の物語』について語った際、日本のポスト『デビルマン』コンテンツの良さと欠点に触れました。それは「根源悪」にかかわるものです。日本のコンテンツでは「正義なんかない」ということは描かれるけれど、おそらく「悪」は存在するということが前提になっていると思います。  しかし、優れた「世界底抜け型」のコンテンツというのは、どこかで黙示録の反作用成分として、ひそかに別の仕方で正義成分が導入されているんですね。『デビルマン』はよく読むとそうなっています。悪の原理を身にまとうダークヒーローは、単に善が気に食わないのではなく、善の名のもとに大きな悪をなす者を倒しているので、明示されない形で正義の代行者となっています。「正義の味方」というフレーズが意味しているのは大まかにはそういうことなのだろうと思います。要は単に正義がいなくなってしまうだけだと、悪もチンケなものになり、スケールが小さくなるということです。ここで序盤の話と結び付くんですけれども、黒澤明の『生きる』では、キリスト教的モチーフを薄めたことで特定宗教に縛られない普遍性を獲得した一方で、『素晴らしき哉人生』で示されたような「生きることが正義であって自殺は罪である」という道徳的な重みもまた薄れています。ここには良し悪しがあって、日本の陰謀論コンテンツの迫力が弱い理由かもしれません。基本的にアメリカで深刻な事件を起こすような陰謀論者の想像力に比べたら日本は概してスケールが小さいんですよ[3]。その辺りの問題圏を認識していると思われる虚淵玄が、このテーマに踏み込めるかどうかには期待しています。日本のエンタメコンテンツのうち優れたものは、結局アメリカの陰謀論的な要素を輸入している傾向があって、たとえば『真・女神転生』などは合衆国大統領が悪魔になるとかいう設定ですよね。多くは匂わせにとどまり迫力に乏しいのですが、時々面白いものが出てくるので、そこにも注目していきたいところです。 「日常系」と「セカイ系」は対立するとしばしば言われますけど、上述した2つの方向のチャレンジがそれぞれ「日常系」「セカイ系」に対応するものと言えるので、シャフトの「ミザンセーヌ」の力によって、どちらも実現できるのではないでしょうか。
     
  • シャフトアニメと演出(ミザンセーヌ)の力(前編)|石岡良治

    2023-11-14 07:00  

    今回のメルマガは、批評家・石岡良治さんの「シャフト」論をお届けします。 数々のヒット作とともに現代のアニメシーンを牽引してきたアニメスタジオの一つ、シャフト。近作では『五等分の花嫁∽』を手がけたことで改めて注目が集まっている「シャフト演出」の魅力と底力について考察しました。 (初出:2023年8月24日放送「石岡良治の最強伝説 vol.65 テーマ:シャフトアニメ」、構成:徳田要太)
    「シャフトアニメと演出(ミザンセーヌ)の力」というテーマで、シャフト作品について分析してみようと思います。「演出」という言葉を「ミザンセーヌ」と読みたいと思いますが、フランス語で「セーヌ」というのは英語の「シーン(scene)」のことです。英語に直訳すると「put in scene」となり、映画における特定場面の演出のことを指します。マンガで例えれば、数ページ単位で展開する場面のことで、たとえば『SLUM DUNK』の「あきらめたらそこで試合終了ですよ」のセリフが登場する一連の場面のように、そのシークエンスのユニットを切り取った部分のことを指します。いわゆる「切り抜き動画」で切り抜かれる部分がどのように作られているか。そういった視点からシャフトアニメを考えてみます。  分析にあたって『モーション・グラフィックスの歴史:アヴァンギャルドからアメリカの産業へ』(三元社、2019)という書籍を紹介しようと思います。「モーショングラフィックス」というのは一言で言えばテキストやイラストに動きや音声をつける手法のことで、言葉自体は多くの読者の方が聞いたことがあるでしょう。端的な例はソール・バス(1920-1996)が手がけた映画のタイトル画面などが挙げられると思います。
    ▲アルフレッド・ヒッチコック『めまい』(1958)のビジュアルポスター。タイトルバックでは映画史上で初めてコンピューター映像が取り入れられた。(出典)
     これまでの国内の映像研究は物語の分析に偏っていて、こうした視覚演出が見過ごされる傾向にあったのですが、近年の研究ではこのモーショングラフィックス的な表象の映像演出を改めて見直す機運が高まっているように感じます。 「映像演出」というとアニメファンの多くはいわゆる「作画アニメ」を思い浮かべるかもしれませんが、これは「モーショングラフィックス」的な演出とはやや別物であると考えています。つまり「すごい」作画アニメと言われてるものはじつは、実験映画のように演出手法そのものを発明するようなものではなく、あえていうとその大半は「身体」の描写が精緻だということに過ぎません。極論すればバトルアクションか、窃視のエロティシズムの二つに還元されるものだと言えます。ある意味では、内容は空虚かもしれない一連の「トム・クルーズ映画」において、彼が体を張っているだけで感動するような感性と同じなわけです。  そうした面白さだけではなく、実験映画でみられたような映像演出の遺産が、どのように昨今のアニメなどのエンタメ映像作品に落とし込まれているのかを考えるには、「モーショングラフィックス」を媒介として捉える必要があると思います。たとえばオスカー・フィッシンガー(1920-1947)は「ヴィジュアル・ミュージック」の始祖的な人物で、「映像の動きと音を同期させる」という、今日のMVなどでは当たり前にみられる手法を発展させたことで知られています。彼の影響の元にディズニー映画の名作『ファンタジア』(1940)などがあり、じっさい彼は同作の一部制作に参加した後方針の違いから離脱するということもありました。こうした映像作品は多くの作家が作りたがるもので、例えば大友克洋の『MEMORIES』(1995)、あるいは庵野秀明を中心に企画された「日本アニメ(ーター)見本市」(2014〜2018)もそれに含めていいでしょう。ああいったモーショングラフィックス的な映像美学を目指した作品はいくつか存在しますが、残念なことに「物語」が映像分析の前提となっている時代環境では、製作陣の技術力に比して十分な評価は得られませんでした。  しかし、今日の日本アニメーションのグローバルな達成においては、『モーション・グラフィックスの歴史』で分析されたような視点から映像演出について考えることの意義は大きいと思っています。
    2023年のシャフト再評価
     さて、私がシャフトに(再)注目したのは2023年に公開された映画『五等分の花嫁∽』がきっかけでした。同時期には『君たちはどう生きるか』も含めて話題のアニメ映画がいくつか公開されていましたが、自分でも驚いたことに最も惹かれた作品は『五等分の花嫁∽』でした(笑)。正直公開前は何も期待しておらず、同シリーズについてもいわゆる「マガジン」ハーレムラブコメの中では女性人気も相まって一番人気だった、という程度の認識です。内容的に言っても、夏休みに海とプールを連日ハシゴする場面をわざわざ映画化するという、どう考えてもおもしろくならない脚本でしょう。ところがじっさいに観てみるとどういうわけか感動してしまったんですね。  簡単に言うと「ウォータースライダー」と「ブランコ」がポイントです。あまり使いたくないミームですが、いわゆる「負けヒロイン」のことを「滑り台ヒロイン」と呼ぶことがあります。マルチヒロインものではメインヒロインになれなかった子が、滑り台とブランコなど公園の遊具で遊ぶシーンがしばしば描かれます(おそらくノベルゲームの演出が肥大化してそうなっているのではないかと思います)。一応名前は伏せますが、ヒロイン候補のうちあるキャラがブランコに乗っているというだけで感動してしまって、かなり驚きました。  ブランコというギミックについて考えたいのですが、過去のアニメ作品で有名な場面といえば、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』(1997)において、幼少期のシンジを描いたシーンでブランコが使われていたと思います。また私が想起したのはやはり、黒澤明の最高傑作とも言われる『生きる』(1952)の有名なラストシーンです。胃がんによる余命宣告を受けた市役所勤めの中年男性が、ある女性との出会いから希望を取り戻していき、晩年は住民の希望だった公園の建設に奔走するという物語です。やがて彼は亡くなってしまうんですが、最期の瞬間をついに完成した公園のブランコの上で迎えるわけです。これはフランク・キャプラの『素晴らしき哉、人生!』(1946)へのアンサーになっていると思います。現在でもクリスマス定番の古典となっているこの映画は、自殺願望を抱えた男が周囲の支えと天使の力によって自殺を踏みとどまる話なんですが、自殺はキリスト教では特に重い罪だという文脈で、生きることの希望を描いているわけです。『生きる』では、おそらくキリスト教的フレームワークはある程度外していて、クリスチャンでない人にも通じる普遍性を獲得したと思いますが、これは日本のアニメ、あるいは日本文化の「良さ」と「欠点」の両方に関わっていると思います。  この点については後述するとして、ここではひとまず、公園の遊具は両義的な意味を持つものとして機能するということを指摘しておこうと思います。つまり、戦後復興期には次世代の希望の象徴として、逆に現在ではその意味が完全に逆転して一種の産業遺構として機能します。産業遺構といえば強制労働などが問題になった軍艦島や富岡製糸場などの工場跡地など、近代から戦後復興期の遺産のことを指しますが、現存している公園もそれに含まれるわけです。現在は子供にとって危険ということで、立ち入り禁止になったり撤去されたりしている遊具が増えていますよね。  そういった「遊具」が揺さぶられるというだけで、未来を向いてようが過去志向であろうが、ある種のエモーションを掻き立てられるわけです。シャフトに関しては一時期は少し熱が冷めていたんですけれど、こうした経験から改めて再注目するきっかけを得ました。