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  • 「ノスタルジア」と「情報過多」にどう向き合うか(『石岡良治の視覚文化「超」講義外伝』第6回) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.386 ☆

    2015-08-12 07:00  
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    「ノスタルジア」と「情報過多」にどう向き合うか(『石岡良治の視覚文化「超」講義外伝』第6回)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.8.12 vol.386
    http://wakusei2nd.com


    本日は批評家・石岡良治さんの連載『視覚文化「超」講義外伝』の第6回をお届けします。石岡さんの同名の著書をテキストに、番外編をお送りしているこの連載。今回は、「情報過多」と言われる現代をどう捉えるか、そして「情報過多」の時代だからこそ生まれる「ノスタルジー」について考えます。
    「石岡良治の視覚文化「超」講義外伝 」これまでの連載はこちらのリンクから。
    ※本連載は、PLANETSチャンネルニコ生「石岡良治の『視覚文化「超」講義』刊行記念講義」(第3回放送日:2014年9月10日)の内容に加筆・修正を加えたものです。
    今回、話題として取り上げるのは、私の著書『視覚文化「超」講義』の、「映画」を題材としているパートです。いま様々な分野で起こっている「ノスタルジア」という問題は、「情報過多」という現代特有の状況から生まれている、というテーマで語ります。本書ではLecture1_3.で「情報過多の時代における文化論」を取り上げていて、Lecture.2で「ノスタルジア/消費」を取り上げていますので、Lecture1_3からLecture.2にまたぐ話を関連付けて扱います。
    まずは、前回の講義でもお見せしたこの画像をご覧ください。

    参考URL: http://2ch.ja.utf8art.com/arc/train_1.html
    これはあくまで私の個人的な考えなのですが、2ch自体がノスタルジアの段階に入りつつあると感じています。つまり2chという文化自体が衰退していっているということです。この画像が象徴するものが何かについては、後ほど詳しく語りたいと思います。
    今回、話したいのは『視覚文化「超」講義』の枠組みに関することです。前回は文化論および教養論について話しました。この連載では、本書で取り上げない文献も登場します。つまり本書を踏まえつつも、新しい話をしたり、残された課題にもう一歩踏み込んでいくのがこの『超講義外伝』シリーズです。
    とはいえ、今回は本書のまとめのような話が多くなるとは思います。しかし、それでもいくつかは新しい話をしていきます。具体的には、ニコ生放送「月刊 石岡良治の最強★自宅警備塾 vol.10 テーマ:2014年夏映画特集!」でも取り上げた『STAND BY ME ドラえもん』の話もしようと思います。『視覚文化「超」講義』の枠組みの設定をしたときに、普遍性があり、重要な問題を扱うようにしたいと思っていました。『STAND BY ME ドラえもん』の公開により、枠組みの重要性を確かめるときが早速きましたので、この話題は後ほど取り上げます。
    ■「情報過多」について
    まず、「情報過多」の問題について整頓したいと思います。
    前回(カルチャーを「自意識」から解き放つ(石岡良治の視覚文化「超」講義外伝 第5回))は文化論と教養論について話しました。「現代において文化論は何をすべきか」という問いは、本書における大きなテーマのひとつです。
    本書は教養論の本として出しているつもりはないのですが、前回の連載で指摘したような「教養主義」の問題点を意識しつつ、先人の本を読むこと自体は大事なことでもあるので、そういった取捨選択について丁寧に扱いました。現代とは、情報過多の時代に何を捨てるのかが問われる時代だからです。
    本書をお持ちの方は45ページの「Amzon.comの物流センター」の写真をご覧ください。
    ちなみに本書の製作事情をいうと、この写真の版権元であるGetty Imagesに支払うお金が少しかかりました。
    この画像はGoogle画像検索で「倉庫」と検索すれば出てきますので、ご自身で検索してみてください。(ネタ元「クリスマス商戦に向けてのAmazon.comの倉庫」参考URL: http://www.dailymail.co.uk/sciencetech/article-2065996/Black-Friday-Cyber-Monday-Amazon-warehouse-gears-Christmas-rush.html )
    現代の「情報過多」を指し示す典型的な画像ではないかと思います。本書には版権管理されている画像がいくつかあります。一番有名な画像を挙げると263ページの『蒼き鋼のアルペジオ -アルス・ノヴァ-』のイオナさんですね。
    具体的な数字は本講義では出しませんが、ゼロ年代を通じて、人類の総記憶データ量が、だいたい100倍になりました。具体的に言えば、2000年までの人類が記録してきた、石版に書かれた楔形文字、写経、行政文章のような文献の総量が、わずか10年で100倍になったということです。そして、今もなお、データ量は増加中です。

    しかし、人類の総記憶データ量が100倍になりましたが、人類は100倍賢くなったと言えるかどうか、むしろ総記憶データ量が100分の1に薄まることで人類は劣化したのではないのかという議論が即座に広まります。このような「懸念」は、教養主義的な立場から、しばしば投げかけられる「時候の挨拶」のようなものです。
    具体例を挙げると、本書Lecture.5でも話していることなのですが、「初期のニコニコ動画はいいモノであった」と昔を懐かしみ、今は最高の状態ではないとする――すなわち「懐古厨」問題です。
    しかし、ここでいう劣化は本当の劣化でしょうか。
    この問題に対する答えは、その都度、具体的に考えていくしかありません。問いの立て方を変える必要があるのではないかということです。簡単に言えば、現代では情報が「残ること」の意味が変容しているのではないかという話ですね。
    昔と比べて現在では、「アーカイブの喪失」の恐れが極端に減少しています。例えば日本のテレビ番組は、1980年代のものですら残っていないものが多かったりします。
    昔はアーカイブが残っていればすごいことであるとされていました。でも今は、録画を忘れていても、友人が録画したモノを所持していたり、または公式チャンネルで放送されることもあります。再放送やニコニコ生放送での一挙放送が、それにあたります。
    このようにして現在では、だいたいのデータが残ってしまいます。ということは、劣化したとか薄まったのではなくて、情報が残るということに対する意味合いがここ10年間ぐらいでガラッと変わってしまったということです。このことを前提にして、記憶と記録の関係を再編成していく必要があります。

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  • カルチャーを「自意識」から解き放つ(石岡良治の視覚文化「超」講義外伝 第5回) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.337 ☆

    2015-06-04 07:00  
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    カルチャーを「自意識」から解き放つ(石岡良治の視覚文化「超」講義外伝 第5回)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.6.4 vol.337
    http://wakusei2nd.com


    本日は石岡良治さんの連載『視覚文化「超」講義外伝』の第5回をお届けします。あるカルチャーを好きになっていくと、私たちの前に必ず立ちはだかるのが「教養主義」の問題。楽しいものだったはずの「文化」を息苦しくさせてしまうこの教養主義の構造について、より細かく読み解いていきます。
    「石岡良治の視覚文化「超」講義外伝 」これまでの連載はこちらのリンクから。

    ※本連載は、PLANETSチャンネルニコ生「石岡良治の『視覚文化「超」講義』刊行記念講義」(第2回放送日:2014年8月13日)の内容に加筆・修正を加えたものです。
    ■ 文化のレギュレーション
     
     教養がなんでもカルチャーになってしまった。その後どうするかということです。本書では「レギュレーション」という言葉を挙げています。「レギュレーション」とはF1などのモータースポーツやスポーツ観戦されている方はお分かりになると思いますが、競技規定のことを指します。柔道やボクシングで体重別で階級があるとします。するとある種のパワー厨の人は、一番重い階級がいいと思うかもしれませんが、そうではありません。軽量級のレギュレーションにはそれ固有の魅力があって、重量級とは全く様相が変わってくるんですね。私の家は教養とは無縁で、父親がいつもボクシングをテレビで観戦していたんですが、ボクシングの軽量級の魅力をそこで知りました。レギュレーションによって全く違う競技といっていいぐらいの幅が生まれます。
     
     レギュレーションによって様々なカルチャーを捉えるというのが、本書で提示した一つの事柄です。そこにハイカルチャー、ポピュラーカルチャーの関係を放り込むというのが本書の流れです。本書が出た後、図書館の日本十進分類でどこに入るのかな?ということを少し気にしていました。実際は、700番台である美術学に入ることもあったのですが、国立国会図書館では361.5、すなわちカルチャー系のメディア文化論に入りました。つまりポピュラー文化の本として扱われるときは361.5に入って、アート系の本とされたら704に入ります。映画論扱いだと778ですね。私は、図書館でよく利用する本の数字は覚えてしまっています。この分類もレギュレーションといえます。
     
     私はレギュレーションは一個一個定まっていると考えています。とはいえカルチャーでは、なんでもありになってゆるゆるにならないか、または、かつて科学哲学のパラダイム論にかんしてポール・ファイヤアーベントが唱えた、科学では「何でもかまわない(Anything goes)」というフレーズがあるのですが、なんでもありではないことは近年の科学を巡る諸問題から明らかです。だいたい、このような主張をすると多くの人文系の人たちから色々な批判を受けます。ニコ厨であることで、なぜか人文的な文化に対する教養主義へのアクセス権を失ってしまうという排他的な考え方は、今でも残っていると思います。残念ながら、人文厨の人はこの動画は視聴していないと思いますが、私自身は、人文のレギュレーションを一定程度学んだことがあるので、彼らの発想の仕方もわかります。例えばモーリス・ブランショの書籍に出てくるマラルメの言葉「世界は一冊の書物に到達するために存在しているのだ」という擬似存在論的な文化観が典型的です。そういう問題について考える必要があるということです。
     
     もしかしたら人によっては、私くらいの年齢の団塊ジュニア世代を疎ましく思う方がいらっしゃると思います。実際に、世代間のミスマッチは絶対にあります。私にとっては60年代後半生まれぐらいの世代がそれで、もちろん合う人とは合うのですが、彼らバブル世代の感覚は基本的には苦手なんですね。
     そこで68年生まれの清水真木さんの『感情とは何か』(ちくま新書)を紹介したいと思います。この本は「プラトンからハンナ・アーレントまで」の哲学的感情論をよくまとめています。哲学史を感情論でトレースしていくという2014年6月4日に発売された話題書です。
     

    ▲清水真木『感情とは何か』(ちくま新書)
     
     この本では「やばい」という言葉を最近の若い人が使うことについて述べています。その部分を少し読んでみますと、「「やばい」という言葉があります。「カッコいい」「ダサい」「イマイチ」という言葉も若者言葉でした。私は若者言葉としての「やばい」を使うべきでないと考えています。「やばい」を使うことで感情の質が著しく傷つけられ損なわれるように思われるからです。そして、私たちの言語使用の能力がその分だけ損なわれる」と書かれてあります。簡単に言うと「やばい」という一言でなんでもすます傾向を批判しているんですね。
     しかし私はこの文章を読んだときにまさに「やべー」と思ってしまったんですね。たしかに、清水さんの教養観である、型の習得という点からいえば、「やばい」がよくないのは明らかです。その一方で、顔文字は意外と良いものだと述べられているので、著書「これが『教養』だ」の頃のSNS批判からは一歩考えが進んでいます。でもこの本を全部読んだ後、もう一度「やばい」という言葉を捉え直してみると、私の考えでは「やばい」という言葉のニュアンスの違いを聞き取るという感情論の方が可能性があると思います。「強度」の問題ですね。教養主義の極致といえるハイモダニズムの作家サミュエル・ベケットの言葉は、彼の本を読んでみればわかるのですが、語彙がすごく貧しいことが分かります。言ってみれば「やばい」のような言葉を多用している演劇や小説なんですが、当然、物語の展開によって「やばい」といった貧困な語彙を用いた応答の意味作用・その他は、そのたびに全部変わっています。
     私は清水さんの感情論を、たとえば「やばい」という言葉に複数のニュアンスを読み取っていくという方向で、もう少し深いところまで持っていけると考えているんですね。私の古典教養論に対する立場はだいたいこういうものだと理解していただきたいと思います。
     要するに今の若者やSNSを批判している本からは、逆にSNSなどを教養であると考えていくとよいと考えています。私のノスタルジア論は大体がこの考えです。これは本書の第5回のメディア論でも挙げています。私は経過しませんでしたが、私の上下の世代で、ポケベルを高頻度で使用していた人には、数字コード表を文字に高速で変換するという「教養体験」があるわけですが、いまやこのようなものは文化としてはどうでもよい徒花になっています。でも、だからといってかつてのポケベル文化が意味のないものだったかといえば、そうではなく、私自身はポケベルの超絶コミュニケーションワールドに入ることができなかったことを少し悔いています。
     一般に、環境依存はダメで、環境に依存しないものが普遍的であるという考えがあると思います。私は超環境依存的な場からも、なにかを持ち帰ることができる、すなわち、何も持ち帰ることができない文化は存在しないのではないかと考えています。
     古いタイプの教養主義を崩していったのは文化人類学です。マシュー・アーノルドの時代の人類学は、エドワード・タイラーのように「人間活動はなんでもカルチャー」としていましたが、二十世紀になると、例えばレヴィ=ストロースの「ブリコラージュ論」のように、「ありあわせの道具でなんとかやりくりする」ことが、古典的教養とは異なる意味で重視されていきました。またビートルズやパンクの時代でも、UKロックは教養だが、その他はダメという風に、どこかしらに分割線を引くという考えがあります。
     実のところ、何かが文化ではないと批判されていたなら、それは逆に文化であることの前フリであると考えてもらいたいです。これは文化の受容のすべてに言えると思っています。ネットカルチャーが生み出した定型表現に「フラグ」がありますが、「〜終わったな」という発言からそのまま「〜始まったな」が導けるようなテンプレートが生まれているわけです。これはこれで貧困化した自動反応になっているところがあるのですが、「文化ではない」から「文化である」にいたるシークエンスを読み取ると良いのではないかと考えています。
     たとえば、日本語の「やばい」に言えることは、英語の「ill」でも同じことが言えます。悪い意味合いの言葉が良い意味合いに変わっていくわけですね。「これってすごくillだよね」という表現は、そのものがすごく良いものであることを表しています。褒め言葉としての「マジヤバイ」はその典型でしょう。
     そう考えれば、「全然大丈夫」も言葉の誤用ではないと思うんですね。その表現でないと言い表せない事柄があるからです。このように、細かいニュアンスの違いを見出していうことは、まさに文化の一つであると私は考えています。このように考えると教養主義と文化の関係はだいぶ変わるのではないかと思います。
     
     
    ■『ハローキティのニーチェ』からニーチェを読む
     
     ここで取り上げてみたいのが『ハローキティのニーチェ』(朝日文庫)です。ニーチェは超訳本の多さで知られています。もちろんニーチェの超訳本は読むべきでないという考えの人が多いですね。そこで、この本に「教養の劣化」があるかどうかの問いが生まれます。この本には、かなり超訳感があります。とくに恋愛関係の項目で超訳感が顕著に表れています。
     

    ▲朝日文庫編集部『ハローキティのニーチェ 強く生きるために大切なこと』(朝日文庫)
     
     この本は、「見出し」と「キティ翻訳」と「注記」でページが成り立っています。注記はすべて、岩波文庫の『ツァラトゥストラはこう言った』から引用していることに私は注目しました。奥付に「ニーチェ著、氷上英廣訳『ツァラトゥストラはこう言った』(岩波文庫)から転載しました。そして、訳文にある筆者注は氷上氏によるものです」と表記されています。この結果、面白い現象が起きています。タイトルとキティ翻訳がぶっ飛んでいます。ひとつ読んでみますとタイトル「愛という大事なものを、他人任せにしていない?」キティ翻訳「「愛してほしい」そんな風に思うのは、自分以外の他人に運命を託してしまうこと、それってちょっと、不安じゃない?自分から愛そう。運命の舵は、自分で握ろう。あなたの愛と希望を投げ捨てるな!」。ニーチェは素の真理は存在せず、すべてが解釈であると言いました。この本のなにがやばいと言えば、著者名がない点にあります。
     私はサンリオをいろいろと調べていて、機会があれば「サンリオ論」に挑戦してみたいと思っています。サンリオのキャラクターを使ったアニメには、いい感じにカオス的なものが多いのですね。多摩センター駅にサンリオピューロランドという娯楽施設があります。現在の多摩センターの寂れっぷりは日本の廃墟感があって私は大好きです。また、サンリオは社長の辻信太郎がカリスマで有名です。
     私は少女漫画で育ったので、サンリオの発行している『いちご新聞』をいくつか買ったことがあります。その紙面には、いちごの王さまと称して辻社長の言葉がたくさん載っていました。1970年代は辻社長本人が変なポエムを書いていました。よって『ハローキティのニーチェ』と現在発売されているサンリオのポエム本と比較すると面白いと思うんですね。
     このようにキティの超訳感というものは、もともと存在していたことになります。サンリオのカルチャー、ハローキティというキャラクターの仕事の選ばなさをみれば、なんら不思議なことではないと思います。
     
     ここで考えてみたいのは、『ハローキティのニーチェ』から2ストロークで超訳ではなくガチのニーチェ解釈に到達できるということです。
     まずは『ツァラトゥストラはこう言った』です。この本は名著ですが、中2病になった人のだいたいが読む本でもあります。私は高校生時代に読破しました。読んでいるとよくわからない点が多々あります。ツァラトゥストラが「蛇」や「ロバ」のような動物を伴って山から下りてくるのですが、なんとなく「超人」のテーマだったり、漫画『ジョジョの奇妙な冒険』や『幕張』の読者ならば「ノミの勇気」のエピソードを思い出すかもしれません。このようにぼんやりとしたイメージで終わりがちです。

    ▲ニーチェ (著), 氷上 英廣 (翻訳)『ツァラトゥストラはこう言った』岩波文庫
     
     次に村井則夫さんの『ニーチェ - ツァラトゥストラの謎』(中公新書)です。この本は良著です。なにがいいかといえば、私の大好きな「蛇」や「ロバ」などの動物をスルーしていないところが素晴らしいです。キャラクター紹介や構造分析をきちんとしています。わかりやすいように表にしてあります。哲学書というよりは、漫画、アニメ、映画、ダンス、演劇のようなものと一緒であると考えたほうが面白いです。巷のニーチェ論は哲学的なテーゼを解説しがちなんですが、この新書では、『ツァラトストラはこう言った』を本全体の構成から紹介しているんですね。
     

    ▲村井則夫『ニーチェ―ツァラトゥストラの謎』中公新書
     
     この2冊を読めば、きちんとしたニーチェの教養へと到達します。マルティン・ハイデッガーやジル・ドゥルーズ、ピエール・クロソウスキーのような現代式ニーチェ解釈の古典にいって、今のニーチェとはどうだろうかと考えるのも手です。しかし、もちろんこの2冊を読むのはハードルが高い行為であることを念頭においてください。
     村井則夫さんはドイツ哲学研究者なんですが、クロソウスキー、ドゥルーズのフランス派の解釈について、ドイツ語がベースの人は、どうしても「ポストモダン」として揶揄したり批判的な人が多いのにもかかわらず、ニーチェ関係の解釈本はすべて読むのがよいのではないかという姿勢をとっています。2014年に発売された村井さんの著書『ニーチェ 仮象の文献学』もオススメします。
     『ハローキティのニーチェ』のような超訳本は、本の構成がいったん気になり始めれば、そこから解釈の仕事を全面的に作動させる、そんなマシーンであるように思います。そういうわけでニーチェ好き、ハローキティ好きの両者にオススメの本であるのは間違いないです。
     
     どうしてニーチェの話をしたかといえば、教養-文化問題のひとつの難点として、文化をレギュレーションで語るが、語っている本人の文化はどのようなものであるのかという問いがあるからです。要するに教養主義というものは常にある種の「啓蒙主義」としてあらわれてきます。例えば『視覚文化「超」講義』をブログで「先生」の本として書評で取り上げられて、私としても評価されたことは嬉しいのですが、ただ「先生」というものは自動的に「人格の陶冶」や「説教臭」が漂うものになります。講義という形式も、自動的に上から目線になりがちという構造的な問題があります。「教える」「教えられる」の非対称性です。ジョン・バージャー『イメージ』の問題でいうならば、見ることの持つ非対称性です。講義においては私がしゃべる側であるがゆえに必然的に生じてしまう「説教臭」問題です。筆者である私が権威主義はダメだと言っているが、それ自体にもう一段教養主義が入っていないかという問いです。この点について考えてみたいと思います。
     
     この点に関して私は一つの回答を出しています。それは國分功一郎さんとの対談で挙げている問いなんですが、「ギアチェンジ」の話についてです。ギアチェンジの話をどうして出したのかというと、現代「人文」によくある「減速モデル」との対比からです。
     

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  • カルチャーと「教養主義」の結びつきを考える(石岡良治の視覚文化「超」講義外伝 第4回) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.326 ☆

    2015-05-20 07:00  
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    カルチャーと「教養主義」の結びつきを考える(石岡良治の視覚文化「超」講義外伝 第4回)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.5.20 vol.326
    http://wakusei2nd.com


    本日は石岡良治さんの連続講義『視覚文化「超」講義外伝』第4回をお届けします。NHK Eテレ「哲子の部屋」(来週木曜放送)にも出演し、ますます好調の石岡さん。カルチャーを語る上では避けて通れない「教養主義」の問題を、自著『視覚文化「超」講義』をベースに解説していきます。
    今回は日本の「大正教養主義」やその源流であるドイツやイギリスの教養主義、そして日本的カルチュラル・スタディーズについて紹介します。
    【その前に…お知らせ】
    ついに石岡さんが地上波に上陸!!!
     

     
    國分功一郎さん、千葉雅也さんらが出演し話題のNHK哲学番組『哲子の部屋』に、石岡良治さんが出演します!
    放送は【5月28日(木)午後11時15分~午後11時45分 (NHK Eテレ)】
    お見逃しなく!
    http://www4.nhk.or.jp/P3233/x/2015-05-28/31/10346/
     
    「石岡良治の視覚文化「超」講義外伝 」これまでの連載はこちらのリンクから。

    ※本連載は、PLANETSチャンネルニコ生「石岡良治の『視覚文化「超」講義』刊行記念講義」(第2回放送日:2014年8月13日)の内容に加筆・修正を加えたものです。
     
     
    ■ はじめに
     
     石岡良治です。よろしくお願いします。
     『視覚文化「超」講義』刊行記念講義の2回目となります。
    この放送を視聴している皆さんは、ご覧になっていると思いますが、本書は発売以来ご好評をいただいております。おかげさまで3刷りが決定しました。
     
     日経新聞で本書の書評が載っています。この書評はウェブサイトでもご覧いただくことができます。
     英文学者の高山宏さんによる書評で絶賛されていて、著者である私としては本当に嬉しいです。私は現首都東京大学である東京都立大学を卒業しているのですが、学生時代、高山さんが英文学の先生でした。高山さんの書籍と本書とノリが一部近いと感じる人がいると思います。ただ、高山宏マニアという人はヨーロッパ文化史や澁澤龍彦の書くような幻想文学が好きな人たちが多いと思います。そういった人たちと本書では微妙にズレが生じています。私は、特定の趣味を持つことで、他の趣味を排他的な扱いに即座にすることのないように心がけています。とはいっても、DD(誰でも大好き)状態になるのは困難なので、どこかに線引きはあります。しかし、なるべくDDで頑張るというのが本書の方針でもあります。
     
     前回はあらすじ紹介をしたのですが、今回から本書の具体的な内部に切り込んでいきたいと思います。
     読んだ方、読んでいない方いると思いますが、新要素満載でお送りします。
     今日、放送のために参考書籍を多数持ってきています。これらを全て紹介していきます。というわけで、新しい文献表ができる感じになります。まさにニコ生を視聴されている方用のモノになります。
     
     それではフリップによる解説に入っていきます。
     

     
     今回は「カルチャー」を自意識問題から解き放つ、ニコ生PLANETS仕様で「自意識問題との決別」を取り上げたいと思います。本書では書き方を抑制的にしているので、なにかを批判する部分は抑えて書いています。しかし、本放送では少し「dis」の要素を入れて、エッジのある放送になるようにします。意識を持つなと言いませんが、自意識系の問題圏に関してはおいおい語っていきます。
     
     先月(2014年7月24日)、ジュンク堂池袋店にて、私と宇野常寛さんとの対談のニコ生(アーカイブ映像:【前編】 【後編】)があったのですが、会場では本書を初めて知った方がいらっしゃったので、あらすじの解説を丁寧にし、それなりに手応えのある反応を得ました。しかし、一方動画では視聴者に「解説が長い」というコメントをいただきました。
     私自身、本書を解説する機会が何度となくあります。すでにご覧になっている方も多いと思いますが、フィルムアート社の本書のページに紹介動画があり、そこには宇野常寛さん、千葉雅也さんの推薦動画もあります。バック・トゥー・ザ・フューチャーを取り上げた本書のフレームは、そちらの動画をご覧ください。
     
     本書の解説を順を追ってしていくように考えていますが、ニコ生PLANETSならではの「二周目要素」、クリアしたけれど同じセーブデータを使って最初から強くてニューゲームをプレイするような流れを入れようと思っています。また、読んでいない方にも対応するつもりです。
     
     
    ■ 教養主義に対する批判
     
     今回から取り上げるのが「Lecture.1 カルチャー/情報過多」。ここでは3つのパートを作っています。1-1が「教養文化問題」、1-2が「サブカル対ハイカルチャー問題」、1-3が「情報過多」というテーマをそれぞれ掲げています。今回は1-1と1-2を独自のミックスを施した感じで講義していきます。そのなかで本書では明言することを避けた「教養と文化を巡る問い」=教養主義を本書では批判しているのですが、実際に私自身も教養主義者ではないかという問いもなくはないと思うんです。講義という形をとるからには、教養主義の持っていた欠点が別の形で再演される問いが出てくると考えています。
     あとは伝統的な人文の「知」との関係性です。私自身はニコ厨的な側面と人文趣味的な側面の両方を持っているんですが、その両方の関係はどうなのかという問いです。実は本書全体を通して、その問いに対する答えを導こうとしています。スパッと一つの答えを出すのではなく、いろいろみて考える観察の部分が長い本になっていると思います。ただちに答えは出ないが、答えに対する方向性は提示したつもりです。
     
     教養文化についての問いが本書のテーマでもあります。はじめに序文を読んでいただければ、だいたいの構成とともに書いてあります。ラストパラグラフを読んでみますと、個々の作品評価や批評基準、これは文化・教養についてどう思うかも含めて、一刀両断する前に行うべき作業が数多く残っているのではないかと書いています。この作業を行っていくという面が本書では多々あります。
     

     
     本書の10ページにも書いたのですが、現在の価値観は作品の需要、または分析によって「可謬主義」を唱えています。「可謬主義」とは、基本的にはプラグマティズムの立場です。ちょっとずつではあるが誤りうるということです。ポイントとしては、どうせ間違えるのだから、適当でいいということはなく、できるだけ本気でこれだというものを提唱していきます。ミスをしたら改善していくというのが大事です。これは教養・文化については全般的にあてはまると考えています。
     あとは「ギアチェンジ」という話です。一人が複数のギアを持っているということが大事であると思います。
     そして「レギュレーションの関係を見ていく」ことです。
    今日は、このあたりの話を全部します。私なりの文化・教養観は今挙げた3つのものを元に考えています。これらを概して「情報過多」の時代に対応していくというテーマです。今日は「情報過多」を扱わずに、いわゆる「文化・教養問題」を主に扱おうと思っています。
     
     
    ■ 「大正教養主義」とは?
     
     「教養主義」問題について触れたいと思っています。これはカルチャーという言葉は、近代以前はカルティベーションという、いわば頭脳などを耕すものとしての教養であった。今はカルチャーといえば、教養という意味合いはなくて、なんでもカルチャーと呼んでいます。
     
     本書では詳しくは解説していませんが、教養とはなんだったのかというのを、英語圏の議論を軸にしてカルチャーという言葉についていろいろ扱ってきました。日本型の「教養主義」については、竹内洋さんや高田里惠子さんが、その問題点について語られています。簡単に言うと「大正教養主義」です。
     

     
     要するに日本の都市化に伴い生じた「大正ロマン」「昭和モダン」というものです。マントを羽織る旧制高校に代表される、要するに本書でも取り上げている『絶望先生』『四畳半神話大系』、または京大卒の高学歴ニートであるphaさんの著書『ニートの歩き方』のようなノリです。京大の吉田寮に住みながら、バンカラであると自負する感じです。
     

    ▲さよなら絶望先生 特装版1 [DVD]
     

    ▲森見登美彦『四畳半神話大系』角川文庫(※カバーイラストを中村佑介氏が担当)
     
     この日本型の「教養主義」はもう終わったとされていますが、文芸的な場で袴などを着用すればやはりそれっぽくみえます。また、文芸少女は黒髪ロングで眼鏡であるべきとされることがありますが、このような類型は、教養主義が招いた、ある種の自意識文化としての教養性が原因です。具体的に言えば、竹久夢二さんのイラストや中村佑介さんのイラストあたりが教養主義のポップカルチャー版といっていいと思います。(ニコ生のコメント欄から)村上春樹ももはや同類といっていいでしょう。
     
     
    ■ ドイツの教養主義と、イギリスの教養主義
     
     本書で取り上げられなかったものとしてドイツ語の話があります。私自身がドイツ語に疎いので、ドイツ語圏の書籍を扱えませんでした。
     これは重要なことなのですが、本書ではカルチャーのみを扱っていますが、ビルドゥングという言い方があります。ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』が典型的なんですが「ビルドゥングスロマン」という言葉があります。これは日本語で「教養小説」と言います。このあたりの読みやすい本として、清水真木さんの『これが「教養」だ』という新潮新書から出ている書籍があります。清水さんは哲学研究者で明治大学の先生です。清水さんの書籍がドイツ語圏における教養主義の流れを示しています。清水さんの書籍は、例によってSNSを批判しています。哲学者で教養主義者を標榜する人は概ね現代文明について批判的です。よって私は清水さんの論調には同意できない部分も多いですが、清水さんは教養主義に無茶な点があるという重要な指摘をしています。
     
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  • ハイカルチャーからポピュラー文化まで、「カルチャーを横断的にみる」ことは可能か?(『石岡良治の視覚文化「超」講義外伝』第3回) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.306 ☆

    2015-04-17 07:00  
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    ハイカルチャーからポピュラー文化まで、「カルチャーを横断的にみる」ことは可能か?(『石岡良治の視覚文化「超」講義外伝』第3回)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.4.17 vol.306
    http://wakusei2nd.com


    本日は、”日本最強の自宅警備員”こと批評家の石岡良治さんによる連載『視覚文化「超」講義外伝』の第3回をお届けします。今回は石岡さんが著書『視覚文化「超」講義』で挑んだ課題でもある、ハイカルチャーからポピュラー文化まで、「カルチャーを批評的にみる」ということの現代的な困難について解説していきます。
    「石岡良治の視覚文化「超」講義外伝 」これまでの連載はこちらのリンクから。
    ※本連載は、PLANETSチャンネルニコ生「石岡良治の『視覚文化「超」講義』刊行記念講義」(第1回放送日:2014年7月9日)の内容に加筆・修正を加えたものです。
     
     
    ■ 『「超」講義』は当初、「ポピュラー文化入門」というタイトルだった
     
     前回までは『視覚文化「超」講義』のメタ解説が中心でしたが、ここからはオフレコ的なこぼれ話を織り交ぜて講義していきます。本書を本文通りに扱っていくことも可能なのですが、本書に書いていないことも、次回以降は扱っていこうと考えています。
     
     本書では年代の話を直接的には語っていません。
     50〜60年代は第2〜3回で語っています。この時代は動画・視覚イメージ的にいえば「テレビの時代」です。それも録画不可能な「テレビの時代」です。
     70〜90年代は第3〜4回で語っています。ここはメロドラマ・ホビー・ゲームを扱っています。ここは「ビデオの時代」と考えます。いわゆるサブカル厨の「ノスタルジア」の由来は、DVD以前のビデオテープの時代です。ビデオテープはBlu-rayやDVDと異なり、何百回と視聴することで磨耗し観れなくなるんですね。したがって、この時代はアナログメディアの時代とも言えます。
     00〜10年代については第4〜5回で語っています。人文分野では扱われることがあまり多くないミリタリー問題について、少し踏み込んで書いています。要するに人文系の芸術論・文化論ではミリタリーは扱いにくい題材だということです。兵器や軍隊を「ホビー」として愛好するまなざしですね。しかし、アニメを考えるときにミリタリー要素は無視できません。これを『宇宙戦艦ヤマト』『機動戦士 ガンダム』『新世紀 エヴァンゲリオン』問題として扱っています。この時代は「ネットの時代」です。
     
     このようにユニットを設定しながら、第2〜3回、第3〜4回、第4〜5回と重なりながら少しずつ現在に近づく系列を作っています。本書がこういう構成になった理由の一つとして、複数のストーリーを脳内に走らせたがるという、私の性格が影響しています。文章ではこのようなことは上手くいきにくいんですね。複数のストーリーラインを同時に走らせようとする結果、悪文になってしまうからです。でも、本書では、時代や分野の問題など、複数のプロットを同時に走らせるつもりで書きました。物語的な文章の進行力も今後身に付けたいと考えています。「あとがき」にも本書には課題がたくさんあると書いてありますが、執筆中に私自身が色々と学びました。自分disメモをつけたりしましたね。時々その通りの批判がきたときには、やっぱり落ち込みますが、備えはできていた感じです。「散漫で浅い」みたいなのですね。
    この講義では、そうしたあたりを補いながら語っていきたいと思います。有料会員の方にはより具体的なリクエストを後で受けつけていきたいと思っています。
     
     さっそく話したいことは、「あとがき」に書いている話で、ここについてもう一度簡単に話したいと思います。集中講義を紙面で行うというのが本書のコンセプトです。ただし、私の屈折した考えもあって、本書をいわゆる学問分野の本にしたくはありませんでした。あえて学問の分野で定義するならば、表象文化論になります。私は人に「何の専門家であるか?」と問われると言葉に詰まるところがあるんですが、このような正直な心境もこの本には影響しています。
     プロフェッショナルとアマチュアの区別があります。私は本書で扱っている分野のほとんどについてプロフェッショナルではないと思っています。私はアマチュアという言葉は良い意味で使えると思っています。アマチュアという言葉には「愛好家」という意味合いもあるからです。しかし、「プロ意識の欠如」のような甘えとしてはアマチュアを名乗りたくないです。
    もう一つ、想定読者についても考えました。フィルムアート社ホームページでの動画では、高校生の私が欲しかった本と語っています。今高校生である90年代後半生まれの人が読んでくれるといいなという願望があります。高校生である私が好んで読み、大学生の私がdisるであろうバランスで執筆しました。つまり意識の高い大学生がdisるぐらいの感じが理想な感じです。ヌルくしているのではなく、削った要素の問題です。削っていった要素には、このままいったら雑誌「映画秘宝」系の雰囲気が生まれるかも、というものが多数あった。第2回の『BTTF PART.3』のウエスタンの世界の話で、マカロニ・ウエスタンというジャンルそのものの話を延々議論することを当初考えていました。しかし、これを全部削りました。『ジャンゴ 繋がれざる者』のレオナルド・ディカプリオの悪役ぶりがジェームズ・キャグニーに似ていた、みたいな話を延々していました。
     
     『BTTF』のテーマソング『The Power Of Love』のダサい感じが私は大好きです。
     

    ▲Back To The Future - The Power Of Love
     
    この曲を演奏するヒューイ・ルイス&ザ・ニュースは、サブカルオタに時に盛大にdisられます。『アメリカン・サイコ』という映画で、クリスチャン・ベールがバブル期の広告代理店に勤める嫌なヤツの役を演じていますが、彼は劇中ヘッドホンで気持ちよさそうにヒューイ・ルイス&ザ・ニュースを聴いています。殺したい相手を部屋に招いて、ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースのアルバム『スポーツ』のうんちく話を述べる。バブル経済のもっともくだらないカルチャーに、役職の名だけの副社長の空疎なポストモダントークが混ざる、というネタなんですが、こういう話題についても語っていました。とはいえ私は秘宝系ボンクラ美学に違和感を持っています。全部が嫌いなわけではないけど、「ボンクラな俺」という自意識は批評性を失いやすいと考えています。
     
     当初はタイトルも「ポピュラー文化入門・教科書」となっていたのですがが、入門とか教科書というのが嫌だったので削除しました。ハンドアウトとともに、パソコンを使用した動画および画像イメージの複窓講義をフィルムアート社で行いましたが、そこで重視したのは、ホビー分野がなぜ芸術・文化論で取り扱われにくいかということです。一部ホビーは国家主義に乗っかるものだったり、オカルトにありがちな非科学主義のようなものがあるので、取り扱いがクリティカルなんだと思うんですね。たとえばサブカルを扱うときに、「書泉」のフロアーの話はされない。これは現代の文化論の大きな隙間だと思っています。宇野常寛さんの『静かなる革命へのブループリント この国の未来をつくる7つの対談』の対談や、「ほぼ日刊惑星開発委員会」で宇野さんの色々な方へのインタビュー、このような話は現代の文化論に最も欠けている不可欠なパーツであると思っています。
     本書のブックフェアでは、本文に登場しない本もいくつかあげています。ひとつが大見崇晴さんの『「テレビリアリティ」の時代』、本書はテレビドラマの話をあまりしなかったので載せるところがなくて削除しました。しかし、本書に載せたかった。ほかにアーネスト・アダムスとヨリス・ドーマンズの共著『ゲームメカニクス おもしろくするためのゲームデザイン』をあげています。この本はテクニカルな本なのですが、重要だと思っています。テレビゲームの研究は翻訳書があまりなかったので、ケイティ・サレンとエリック・ジマーマンの共著『ルールズ・オブ・ゲーム』しか紹介できなかったので、そのエッセンスをもう一歩先に進めている本として選びました。この2つの本が、本書から先に進めたいときに必要な本でした。最初の計画ではシューティングゲームの系譜について語ることも考えていんですね。東方プロジェクトなどについて、FPSの系譜を絡めながら色々語るつもりでした。しかし、この分野は端的に好きなので、クリティカルな部分が減ってしまうと考えました。
     

    ▲アーネスト・アダムス (著),ヨリス・ドーマンズ (著), バンダイナムコスタジオ (監修)『ゲームメカニクス おもしろくするためのゲームデザイン』ソフトバンククリエイティブ 、2013年
     
     当初、本書は2300円の予定でした。発行部数を増やして200円価格を落とすという判断をフィルムアート社の方にしていただきました。リスクも大きかったのですが、なんとか重版が決まりそうです(2015年4月現在、三刷が出ています)。
     
     もうひとつこぼれ話として、フィルムアート社ホームページの動画は21分バージョンと2分バージョンの2つが載っています。最初は7〜8分の動画1本と考えて即興撮りしたら、結果的に21分になってまいました。それで、この動画だけだと長いのでショートバージョンを撮ったところ、4分になってしまい、2、3回撮り直しました。見ていただければお分かりになると思いますが、ショートバージョンのほうはとてもすっきりしています。なぜかというとショートバージョンの動画はラストテイクだからです。ロングバージョンはファーストテイクです。
     

    ▲『視覚文化「超」講義』(フィルムアート社)石岡良治さん Short Ver
     
     さきほどの繰り返しになりますが、私はディケイド区切りに意味を持たせたかったんですね。しかしそれは、ある時代について語るとき、別の人が語るとしたら別の歴史を語れるであろう、という考えからです。つまり、本書で語られるヒストリーがすべてであるという認識は持っていません。現代は情報が多いので、本書に載ってない方向からも歴史を語ることはできます。たとえば本書の「デロリアン」が「仮面ライダー」だったら、宇野さんの『リトルピープルの時代』のような本が出来上がる、といった感じです。
     
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  • 『BTTF(バック・トゥ・ザ・フューチャー)』からカルチャーと時代の〈繋がり〉を考える (石岡良治の視覚文化「超」講義外伝 vol.2) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.291 ☆

    2015-03-27 07:00  
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    『BTTF(バック・トゥ・ザ・フューチャー)』からカルチャーと時代の〈繋がり〉を考える(石岡良治の視覚文化「超」講義外伝 vol.2)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.3.27 vol.291
    http://wakusei2nd.com


    本日は、新連載「石岡良治の視覚文化「超」講義外伝 」の第2回をお届けします。昨年、「紀伊國屋じんぶん大賞2015」2位となった石岡さんの『視覚文化「超」講義』は、これまでのカルチャー批評とどこで一線を引いたのか? そして、スピルバーグ/ゼメキスの代表作『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を今、改めて考えることの意義を解説していきます。
    「石岡良治の視覚文化「超」講義外伝 」これまでの連載はこちらのリンクから。
    ※本連載は、PLANETSチャンネルニコ生「石岡良治の『視覚文化「超」講義』刊行記念講義」(第1回放送日:2014年7月9日)の内容に加筆・修正を加えたものです。
     
     
    ■『「超」講義』」であえて触れなかった事柄たち
     
     本書ではそれぞれの分野そのものに踏み込まないようにしました。そして分野ごとに濃淡をつけています。特に一番禁欲したのは「マンガ」です。本書の注意書きでも触れていますが、マンガについては雑誌『ユリイカ』を主な場に、いくつかの論考を執筆しています。去年(2013年)のものだと「今日マチ子」さんの特集で『Cocoon』を論じていたり、今年(2014年)の週刊サンデーの特集で『らんま 1/2』を論じています。このように個別の作品について語っているモノグラフはあります。今期のアニメで松本大洋さんのマンガ『ピンポン』がアニメ化されていましたが、ユリイカの特集で昔、松本さんのボクシングマンガ『ZERO』をフォーマリズムっぽく語った文章を書いています。(それらを集めた論集『「超」批評 視覚文化×マンガ』が2015年3月に刊行されました。マンガ論だけでなく伊藤若冲やガンダム、仮面ライダーディケイド論なども入っています。)
     
    【発売中!】

    ▲石岡良治『「超」批評 視覚文化×マンガ』青土社
    書籍版はこちら→http://amzn.to/1FLsDb0
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     本書を読んだ方に、マンガの作品についてもっと取り上げて欲しかったという声がありますが、目的が違うと考えて割り切りました。というのは、私のような性格の人間は、どこかに焦点を合わさないとうまくまとまらないからです。
     
     たとえば、マンガ『ハンター×ハンター』に「念能力」というものがあります。マンガに出てくる「誓約と制約」ですね。
     要するに本書にはかなりの縛りをかけています。とはいえ、完全に縛りをかけたのではなくて、一部ゆるい部分があります。
     
     具体的には「作品分析〈そのもの〉」、つまり作品は作品そのものとして見るべきであるという了解への縛りです。一作品の構造分析は「自宅警備塾」でもよくやっています。前回の「自宅警備塾」では、短時間のPV『On Your Mark』を割と細かい部分まで構造分析しました。過去の動画でも色々語っていますので、PLANETSチャンネルのアーカイブ動画を参照してください。「自宅警備塾」では、作品のバックグラウンドについても語っていますが、作品そのものの構造分析を常に行うように意識しています。構造分析に一番困ったのは『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語』でした。「4回観た結果」と語っていますが、要するに、この作品は4回観ないと構造が把握できなかった。そんなふうに、一度構造分析してから、ざっくりとトークに落とし込む作業を私なりにしています。そんな感じで作品分析は日課なのですが、それを本書では意識的にしていません。
     
     あとは「理論」です。理論そのものに関してはあまり立ち入ってません。本書の第5回の1パート「メディア、メディウム、メディエーション」ではメディア論と様々な哲学の話について語っていますが、そこでも概論にとどめました。
     
     ゲームに関しては第4回の2パートで、ゲーム研究と遊戯論についてまとめて語っています。ここでも理論そのものに踏み込むのはギリギリのところで止めています。能力がないと言われたらそれまでですが、私なりに一応の考察をしています。
     また、「外国語文献の参照」も、ピエト・モンドリアンの文献とメディウム論の文献、具体的に言えばイヴ=アラン・ボアとロザリンド・クラウスと、エルンスト・ゴンブリッチという3人の美術史家の文献以外は、本書から外しています。つまり、私の性格上、外国語文献までたくさん入れてしまったら、本書の刊行に間に合わなかったとのではないかと考えています。
     
     もうひとつの制約は「注記からの二次的注」です。いちおう、注記には分野ごとの参照本が書いてあります。つまり、その分野で定評のある本や、そこから広がっていく文献などですが、範囲を絞りました。私自身はトリビアルなものが好きで、大学時代には、フランス思想研究で有名な、今は明治大学の教授である合田正人さんのゼミに所属していました。彼もフランス思想の文献をネットワークのように掘るタイプの人で、そこで学んだので、少し彼とキャラクターがかぶっているところがあります。他に影響を受けた人に、美術批評家の岡崎乾二郎さんなどいろいろな人がいます。そういう意味で「注記からの二次的な注」を網羅していく作業を、私自身はすごく好きです。思想史マニアには注記だけ読むという伝統があります。注記で有名な思想家として、マックス・ウェーバーとエルヴィン・パノフスキーが挙げられます。彼らの著書には、本文より注記が長いという特徴があります。そこまでではありませんが、本書でもページ下のコラムに二次情報的なものを入れています。制約を外してしまい、注記があふれかけたことがあったので、だいぶ添削しました。
     
     もちろん制約を課したことで、内容面で薄くなり、断片的になったかもしれません。ページ数についても、当初は7回を想定していたのですが、500ページを超過するので断念しました。
     
     
    ■作品を「◯◯年代」で考えることは有効か?
     
     もう一つ考えていたこととして、これは私の本質的な関心の一つなんですが、「ディケイド区切り」についてです。文化的に意識の高い人の何割かは、無条件でディケイド区切りを嫌います。私が疑問を持っている考え方として、作品そのものを語るときに「〜年代」を語るのは良くないとか、逆に年代や世代について語ると作品そのものについて語れなくなる、という発想が定番化していると思います。ですが、「作品」と「年代」の二つの語り方は、言われているほどには対立しないと考えています。もちろん本当に対立していることもあるでしょうし、あらゆる対立が無効とは思っていません。でも、大多数の一見して対立に見えるものの多くは無効ではないのだろうか、区切りを思いっきりシャッフルし直せるのではないかと考えています。
     
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  • 僕らの石岡さんがついにメルマガでも不定期連載を開始!「石岡良治の視覚文化「超」講義外伝」vol.1 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.286 ☆

    2015-03-20 07:00  
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    僕らの石岡さんがついにメルマガでも不定期連載を開始!「石岡良治の視覚文化「超」講義外伝」vol.1
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.3.20 vol.286
    http://wakusei2nd.com


    PLANETSチャンネルで毎月1回放送中のニコ生番組「最強☆自宅警備塾」でおなじみ、批評家の石岡良治さんによる不定期連載が始まります! 「紀伊國屋じんぶん大賞2015」2位にも選ばれ昨年の話題の書となった石岡さんの『視覚文化「超」講義』。300ページ強の本のなかに入りきらなかった内容や、本書のコンセプトを講義形式で解説していきます。
    ※本連載は、PLANETSチャンネルニコ生「石岡良治の『視覚文化「超」講義』刊行記念講義」(第1回放送日:2014年7月9日)の内容に加筆・修正を加えたものです。
     
     
    ■ はじめに
     
     自宅警備塾を放送している石岡良治です。今日は発売されたばかりの『視覚文化「超」講義』を取り上げて、月一で連続講義を行っていきます。まだ一回目ということで試行錯誤をしながら、(ニコ生の)コメントで皆さんのリクエストも聞いていきたいと思います。
     早速、講義を始めていきたいと思います。
     まず、購入していただいた皆様、ありがとうございます。また興味を持っていただいた方、購入の検討よろしくお願いします。
     通常、自宅警備塾が毎月後半の水曜日に行われていますが、隔週で連続講義を行います。
     

    ▲石岡良治『視覚文化「超」講義』フィルムアート社、2014年
     
     
    ■ 本書の趣旨
      
     本書の主旨に関してなんですが、この本が出ているフィルムアート社ホームページの『視覚文化「超」講義』のページにYouTubeの動画があります。そこでは、この本についてのショート・ヴァージョンとロング・ヴァージョンの本書ポイント解説動画が上がっています。動画をフル画面でも観ていいのですが、このフィルムアート社のページと2窓で観ていただければと考えています。この本についてはいろいろなところで語っているのでお分りいただいていると思いますが、3つ4つのウインドウを複窓で観たり、人によってはマルチモニターで観たり、よくあるのはスマホと、テレビもしくはパソコンの画面を観るなど、今現在ニコ生を視聴するとき、複数のウインドウを同時に観る経験がよくあると思います。なので、フィルムアート社のページとこのニコ生を同時に観るということに挑戦していただきたい。
     
     今日は「はじめに」の前書きの部分と「あとがき」を取り上げます。この2つで本書の成り立ちについて解説しているので、ここを詳しく解説します。あとは本書に載せることのできなかったこぼれ話を織り交ぜながら解説していきたいと思います。
     本書はタイトルの通りなんですが、「視覚文化」について主にポピュラー文化を対象にして5つの視点から語る講義です。第1回から第5回までのレクチャーが載っていまして、分量として一番長いのは第5回で74ページあります。
     具体的な内容や構成については最後に語ります。
     主にポピュラー文化を取り扱うと本書で書きましたが、個人的には「ポピュラー」と「ハイアート」の枠組みをできるかぎり取っ払いたいと思っています。
     実は仮タイトルでは「教科書」と書いていたのですが、教科書的な雰囲気を減らしたかった。最初期、「教える」とか「入門」のようなことを書いていたのですが、個人的には本書に入門という意識はないです。
     具体的に、本書の舞台を「消費社会」と設定してみました。その起点は1950年代のアメリカとしています。
     「人類文明と視覚という壮大なものを期待していたら、映画以降の話なんですね」という読者からの感想があったのですが、実は少しだけ壮大な話を示唆はしています。第5回での「イメージについての人類学的な研究」の話をしたり、実はレクチャー1回につきハンドアウト1枚を制作しています。このハンドアウト一枚を一回分として、その収録時間に90〜120分を想定していたのですが、「あとがき」にも書いているように、一番長い収録で5時間を超えてしまいました。それゆえに書籍化する際にかなり刈り込んでいます。第5回は74ページあるのですが、当初は75ページ×7回を想定していました。でもそれだと500ページを超えてしまいます。そこで、収録したものを削ったり、再構成して入れ替えたり、再収録して加えたりして、その際に編集の方にお世話になりました。このような紆余曲折があり、本書は刊行されました。また、例えばメロドラマやPVを扱ったチャプターでは、既存の本や論文をかなり参考にしています。注意書きにも書いているので是非ともご覧ください。参照した本を読んでいただくと、取り上げた作品の内容のあらすじや解説が多いことに気づくと思います。そういう意味で私の語っている事柄は、完全に独創性のある主張はしていません。しかし、消費社会以降の現代に至るまでのカルチャーのうち「視覚的イメージ」または「視覚的表象」を含むものを想定してみて集めてみました。
     
     主旨としては今言ったように、映画論の歴史などの体系的な密度よりは、時代と対象領域の広がりを重視しています。
     そのため話が断片的であったり、飛び飛びだったりします。ゆえに内容が濃いと思っていらっしゃる方の予想と異なるかもしれません。
     あと、議論が枝葉末節に入り込んでいるかもしれません。これはぶっちゃけて言うのならば、「ヌルい」「浅い」と思われるおそれです。現にフィルムアート社ホームページでのロング・ヴァージョンの動画で「この書籍は大学生の私が超disりそう」と自分から言っていますね。この本の「ヌルさ」や「浅さ」についてはあとで簡単に説明していきます。
     ポイントとしては「分野の横断性の意識」、これが一番大きいです。フィルムアート社のホームページと2窓にしていただいていると思うのですが、その状態について考えたいということなんです。
     
     コンセプトがわかりにくいかもしれないというコメントがありましたが、「視覚文化論」的なものを想定しています。
     まえがきにも書きましたが、すごく大雑把に言うならば、基本的に文学理論として展開されていた「批評理論」という流れに、「ポピュラー文化」が加わることで割となんでも語れるという雰囲気が生まれました。ただ、人によってはそれでは雑であると考えたり、ポストモダンというだけで怒る人もいます。このように必ずしも万人に受け入れられる基準であるとは言えない。また、各自、得意不得意な分野がありますよね。私は大学時代、ジル・ドゥルーズやミシェル・フーコーに興味があったので哲学科にはいづらく、フランス文学科にいました。音楽については、高校から大学生時代、いわゆる洋楽好きでした。けれどもとりあえず文学と音楽は「視覚文化」からは外してみる。そういうイメージでぼんやりと考えてみてください。
     しかし、例外も多いです。映画を考察するときに映画音楽は避けて通れないですね。それに第3回の後半では「PV」の話をしています。いくつか文学の話もしています。例えばステファヌ・マラルメの詩ですね。私はマラルメの詩をガチで読みこめるほどの語学力はないのですが、好きでした。
     
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