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記事 5件
  • 「絆」なんか、要らない『半沢直樹』と『あまちゃん』とのあいだで|宇野常寛

    2020-05-25 07:00  
    550pt

    今朝のメルマガは、『宇野常寛コレクション』をお届けします。今回は、宇野常寛によるメディア論をお届けします。2012年に大ヒットしたドラマ『半沢直樹』『あまちゃん』と、そこに象徴される団塊ジュニア世代のメンタリティを読み解きながら、「テレビの時代」の終わりと、「正しい断絶」に基づいたインターネットの新しい可能性について探ります。 ※本記事は「楽器と武器だけが人を殺すことができる」(メディアファクトリー 2014年)に収録された内容の再録です。
    宇野常寛コレクション vol.21「絆」なんか、要らない『半沢直樹』と『あまちゃん』とのあいだで
     昨2013年は国内のテレビ放送開始から60年目の節目にあたる。そのため、この一年は各媒体でテレビ文化を総括する企画が数多く見られた。そしてテレビ文化に対しての批評をデビューから多く手掛けてきた僕は、その手の企画に呼ばれることの多い一年だった。新春に放送されたNHKの「朝ドラ」の歴史をさかのぼる番組から、『三田文學』誌のテレビの行く末を案じる座談会まで実にバラエティに富んだ企画に出席したが、そこで問われているものは本質的にはひとつしかないように思える。  それは、もはやテレビの役割は終わったという現実にどう対応していくのか、という問いだ。こう書いてしまうと、実際にこの手の企画で僕と同席することの多い研究者やもの言う制作者たちは不愉快に思うかもしれない。じっさいにこの種の企画の席上でも、僕は彼らとぶつかり合うことが多かった。曰く「とは言え、今はまだ国内最大メディアとしてのテレビの訴求力は大きい」「とは言え今はまだインターネットを情報収集の主な窓口とするライフスタイルは都市部のインテリ層に限られている」……もちろん、その通りだ。しかし、彼らの反論の「とはいえ今はまだ」という語り口が何より雄弁に近い将来にそうではなくなることを、誰もが予感していることを証明しているのではないか。  ある座談会でたぶん僕とは親子以上に年齢の離れた学者先生はこう言った。「とは言え、あの頃のように国民全体に共通の話題を提供するテレビのようなものは必要なのではないか」、と。僕はすぐにこう反論した。「いや、そんなものはもう要らない」と。  人間の想像力には限界がある。目の前で産気づいている妊婦を助けようと考える人も、遠い知らない街が災害に見舞われたと知ってもいまひとつピンと来ない、なんてことはそう珍しくない。この距離を埋めるためにマスメディアが機能したのが、20世紀の歴史だった。遠く離れたところに生きる人間同士をつないで、ひとつにすること。ばらばらのものをひとつにまとめること。こうして社会を成立させるために、マスメディアは有効活用された。そして、有効活用されすぎてファシズム(ラジオの産物と言われる)のようなものが発生し、世界大戦で危く人類が滅びかけたのが20世紀前半の歴史だ。そしてその反省から20世紀後半はマスメディアは政治から独立することを前提に運用されるようになった。しかし、その結果マスメディアは第四の権力として肥大し政治漂流やポピュリズムの温床と化している。  僕はこう考えている。もはやばらばらのものをひとつにまとめる装置としてのマスメディアの役割は、少なくともこの国においては終わっている。会社員男性の大半がプロ野球に興味を持ち、巨人ファンかアンチ巨人だという時代を回復しなくても、社会が破綻することはないだろう(現に破綻していない)。たしかに国家の、社会の成熟の過程でマスメディアが誰もが同じ話題に関心を持ち、重要だと考える「世間」を機能させることは有効だったに違いない。しかし、敗戦から70年に達しようとしているこの老境の近代国家・戦後日本はもはやその段階にはない。現に、インターネットを当たり前に存在するものとして受容している若い知識人層を中心に、「テレビ」の体現する公共性は大きく疑問視され始めている。  僕は社会人になってから一度も新聞を購読したことがない。そしてテレビのニュースはほぼ完全に、見ない。なぜならばそこで話題にされていることが、ほとんど自分の生きている社会のようには思えないからだ。政治報道は政局中心、経済報道は昔の「ものづくり」中心、科学と海外ニュースは割合自体が極端に低い。街頭インタビューで「市民の声」を拾えば、ねずみ色のスーツに身を包んだ新橋のサラリーマンと東京西部のベッドタウンの専業主婦を選ぶ。特にひどいのが文化面で、文化的存在感においても経済規模においても、ほとんど意味のないものになっている芥川賞を一生懸命報道するにもかかわらず、夏冬それぞれ50万人の動員をほこる世界最大級のイベントであるコミックマーケットは会場で事故が起きたときしか扱わない。
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  • 僕たちはもっともっと深く潜ることができる『あまちゃん』| 宇野常寛

    2020-05-18 07:00  
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    今朝のメルマガは、『宇野常寛コレクション』をお届けします。今回取り上げるのは2013年のNHK朝の連続テレビ小説『あまちゃん』です。『木更津キャッツアイ』『タイガー&ドラゴン』等で「地元」や「家族」のイメージを一新し続けてきた宮藤官九郎が、初めて朝ドラ脚本を手がけ、社会現象を巻き起こした本作。2010年代の朝ドラ再生の起爆剤となった歴史的作品で、クドカンは何を描き、何を描けなかったのか? ヒロイン・アキの体現する「アマチュアリズム」の可能性の中心を探ります。 ※本記事は「楽器と武器だけが人を殺すことができる」(メディアファクトリー 2014年)に収録された内容の再録です。
    宇野常寛コレクション vol.20 僕たちはもっともっと深く潜ることができる『あまちゃん』
     社会現象にまで発展したNHK朝の連続テレビ小説『あまちゃん』が去る9月28日についに完結した。ご存知の読者も多いだろうが、僕は本作を担当した脚本家の宮藤官九郎の大ファンであり、デビュー作の『ゼロ年代の想像力』では、宮藤を同時代で最も重要な作家として位置づけた。当時の宮藤はまだジャニーズ事務所所属の美少年タレントを主役に据えた若者向けのテレビドラマでカルトな人気を博していた存在だった。(お陰で、当時年長の批評家やその読者からは、馬鹿じゃないのかとさんざん罵られた。)  同時に、僕はいわゆるこの「朝ドラ」のマニアの一人であり、たとえば2007~8年放映の『ちりとてちん』については放映3年後に自分の雑誌(『PLANETS』)で特集を組んだほどだ。(今年の正月にNHKで放送された『テレビ60年 連続テレビ小説“あなたの朝ドラって何!”』にも、若い朝ドラファンの代表として出演している。)  要するに僕はクドカンと朝ドラ、双方の大ファンであり、この『あまちゃん』という企画は言ってみれば盆と正月が一緒に来たようなものだった。放送中は毎回かじりつくように、ほぼリアルタイムで視聴していたし、主宰する雑誌では『あまちゃん』特集の別冊まで出した。  実際、『あまちゃん』は素晴らしい作品だったと思う。仮にこの作品を「採点」するのなら、100点満点で90点をつけるだろう。スタッフにキャスト、そしてそれを支えたファンコミュニティも含めて、かかわったすべての人々に心から敬意を表したいと思う。しかし勇気を出して書くとその高い完成度とは裏腹に、僕は最後までこの作品に強く心を動かされることはなかった。
     劇団「大人計画」所属の作家兼俳優である宮藤官九郎は、当時同劇団の若手としてカルトな人気を博していた。個人的には90年代の小劇場ブームにあまり関心を持てなかったこともあり、僕は宮藤の存在をほぼ知らなかった。そんな宮藤を最初に意識したのは、2000年放映のドラマ『池袋ウエストゲートパーク』だった。そこには、石田衣良の同名原作に描かれていたカラーギャングなど90年代のストリートカルチャーの(やや遅れてきたがゆえに可能だった)批評的な取り込みがあり、堤幸彦が小劇場やアニメからテレビドラマに持ち込んだ実験的な演出があった。しかし僕が一番心惹かれたのは、クドカン一流の「地元」への視線だった。    クドカンが描く「地元」は、それこそ多くの「朝ドラ」が描いてきたような「消費社会で忘れ去られようとしている人間の温かみのある歴史と伝統の街」とは明らかに一線を画していた。むしろそんな「物語」がもはやまったく通用しないという前提から出発したと言っても過言ではない。  たとえば2002年放映の『木更津キャッツアイ』の舞台は当初は同じ千葉県の柏が想定されていたと言われている。要するに、東京からキャストとスタッフがロケに通うことのできる郊外都市ならば「どこでもよかった」のだ。ここで言う「郊外都市」の要件とは何か。それはかつて三浦展が「ファスト風土」と名付けた、消費社会の進行とともに画一化していった風景を持つことだ。北は北海道から南は九州・沖縄までロードサイドにファミレスとパチンコ屋とマクドナルドとブックオフと、そしてイオンのショッピングセンターが並ぶ……。主に左派論壇で否定的に扱われるこうした光景を、(少なくとも)宮藤は決して否定的には捉えなかった。当時『木更津キャッツアイ』で描かれたのは、そんな歴史や伝統と切断されたフラットな空間に、同世代のサブカルチャーや内輪受けの「ネタ」を投入することで、自分たちが生きている街を、何もない街を、自分たちのコミットで自分たちの歴史(偽史)をもつ自分たちの街に変えていく、というアプローチだった。(たとえばクドカンの描く池袋や木更津には、川㟢麻世や哀川翔、そして氣志團などが本人役で登場し、物語に関わっていく。)  2003年放映の『マンハッタンラブストーリー』では、六本木のテレビ局の関係者が集う喫茶店「純喫茶マンハッタン」での恋愛模様が描かれた。タイトルに含まれるニューヨークの地名はまったく物語に関係せず、「マンハッタン」とは主人公たちのたむろする六本木の喫茶店の名称に過ぎない。それどころか、彼らのコミュニティと、六本木という土地の歴史と物語との関係はほぼ存在しない。主にテレビ局関係者が占める彼ら登場人物のコミュニケーションはテレビや芸能界、懐メロを中心としたサブカルチャーのデータベースの共有によって成り立っている。(ちなみに、本作の登場人物たちはロマンチック・ラブ・イデオロギーをかたくなに信仰しながらも、次々と気持ちに変化が訪れてパートナーをとっかえひっかえし、家族もどんどん流動化していく。同作は、土地にも歴史にも家族にも根拠がなくなってしまい、誰もが信じたいものを信じるしかなくなった流動化しきった世界を限界まで追求した作品に他ならない。)  あるいは2005年の『タイガー&ドラゴン』はどうだったか。同作の舞台となるのは浅草という古い、歴史と伝統の強く作用する街だ。そこに現れた孤児の青年・虎児が落語家の大家族と出会うことで、そこに居場所を見つけていく。おそらく『あまちゃん』の基本モチーフの由来の一つがここにある。
     同作では、浅草に根付いた(比較的に)伝統ある落語家の大家族=「土地」や「家族」といった既に古びた概念を、これまで培ってきたノウハウを駆使して(たとえばサブカルチャーのデータベースとの戯れと、それに支えられた血縁を伴わない疑似家族的共同体への期待、など)再生し、その概念を拡張する。『池袋ウエストゲートパーク』や『木更津キャッツアイ』で培った新しい「地元」への視線を交えることで、「歴史」と「伝統」に支えられた古い「地元」を再生していくのだ。今どきの「地元アイドル」によって過疎の地元が再生していく『あまちゃん』と同作の構造は相似形を成していく。一見何もない「地元」でも、自分たちの力で歴史をつくり、文脈をつくり「潜る」ことができる。『あまちゃん』のルーツは間違いなくここにある。東京では「地味で暗くて向上心も協調性も個性も華もないパッとしない」子だったヒロイン=アキが、祖母の住む北三陸に赴くことで、生まれ変わる。付け焼刃の東北弁を操り、ミーハーな思い付きから海女としてデビューすることで居場所を見つけていくのだ。
     近年のクドカンはこうした既存の概念(地元、家族)の新しい想像力による「拡張」という手法を、もっぱら「家族」というテーマで展開してきたように思える。  たとえば東野圭吾による有名原作を大胆にアレンジした『流星の絆』について考えてみよう。同作では、主人公兄弟が血のつながらない妹に抱く疑似近親姦的な愛情や、主人公と昔なじみの刑事との疑似的な父子関係がクローズアップされる。(これはほとんど東野原作では追求されていない要素だ。)そして同作は、過去の犯罪で家族を失った主人公たちがこうした要素を乗り越えて/用いて、いかに「家族」のイメージを拡大していくのか、伝統的共同体や家父長制的イデオロギーを超えた多様であたらしいイメージの家族に拡張していくのか、を描いていく。  また、2011年の末に放映された『11人もいる!』では、東京近郊の大家族が、叔父や祖父はもちろん、最終的には新妻の元彼や死んだ前妻の幽霊まで包摂し、無限拡張してゆく「拡張家族」のイメージを提出した。(また、本作は震災後にクドカンがはじめて手がけた連続ドラマで、劇中では震災をテーマにしたエピソードも存在する。)
     それではここで『あまちゃん』を考える上でクドカンと並ぶもう一つのファクター「朝ドラ」の過去と現在について考えてみよう。
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  • 宇野常寛 いま・ここに・潜る~宮藤官九郎、再生のシナリオ(PLANETSアーカイブス)

    2019-12-13 07:00  
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    今朝のPLANETSアーカイブスは、2013年のNHK朝の連続テレビ小説『あまちゃん』についての宇野常寛の論考です。宮藤官九郎の「地元」「サブカルチャー」という主題は、NHKの朝ドラが描いてきた伝統的な社会像をいかに刷新したのか。日本の戦後史を射程に収めた本作の「家族」再生の目論見を読み解きます。(初出:「調査情報」2013年9-10月号,TBS) ※本記事は2013年9月6日に配信された記事の再配信です。
      放映中のNHK朝の連続テレビ小説「あまちゃん」の勢いが止まらない。  岩手県の三陸地方を舞台にした本作は、母親の離婚を機に当地を訪れたヒロイン・アキが祖母の後を継いで海女になり、そしてやがてそこで知り合った親友・ユイの影響でアイドルを志して行く、という物語だ。  放送開始と同時に「面白い」という声がインターネットを中心に殺到し、はやくも劇中で登場人物が頻繁に用いる方言「じぇじぇ」は今年の流行語大賞の有力候補だとささやかれている。もはや人気朝ドラ・大河ドラマでは恒例行事になりつつあるTwitter上での二次創作イラスト投稿(通称「あま絵」)も盛り上がっている。話題になっている割に振るわないと言われていた視聴率も20%を超えることが多くなり、9月末の最終回に向けてその熱狂はクライマックスを迎えつつあると言えるだろう。9月には劇中で東日本大震災が発生する予定で、主要登場人物の死亡も十二分に予測出来る。震災後の日本をこの物語がどう描くのか、注目が集まっている。  本稿ではそんな「あまちゃん」について、8月10日前後までの内容に基づいて分析を試みてみたい。■宮藤官九郎はなぜ「地元」にこだわるのか  本作の脚本を担当する宮藤官九郎は劇団「大人計画」所属の作家兼俳優である。同劇団の若手としてカルトな人気を博していた宮藤は2000年放映のTBS系ドラマ「池袋ウエストゲートパーク」以降、連続ドラマの書き手としてドラマファンの認知を受け、それまでとは異なる広いファン層を獲得していった。特にTBSのプロデューサー磯山晶とのコンビでは、ジャニーズ事務所所属俳優を主役にすえた作品を定期的に発表し、視聴率こそ特に目立った成果を残していないものの内容面に対するドラマファンの評価は極めて高く、映画などの続編展開やソフト販売においても良好な結果を残している。まさに、先の10年(2000年代)を代表するドラマ脚本家が宮藤だったと言えるだろう。  宮藤×磯山コンビのドラマのキーワードは「地元」だ。「池袋ウエストゲートパーク」の「池袋」、「木更津キャッツアイ」(2002)の「木更津」、「タイガー&ドラゴン」(2005)の「浅草」、そして「吾輩は主婦である」(2006)の「西早稲田」など、特に2000年代前半~半ばには舞台となる土地が明確に設定されており、その土地やコミュニティに対する登場人物の思い入れ、拘泥がドラマを牽引することになる。  しかしその一方で宮藤がこれらの作品で描く「地元」は、それこそ数多くの「朝ドラ」がこれまで描いてきたように「消費社会で忘れ去られようとしている人間の温かみのある歴史と伝統の街」といった物語をストレートに引き受けたものではない。むしろその逆で、こういった「物語」が実のところまったく意味をなさないもの、機能しないもの、嘘であるという認識からスタートしている。  たとえばこれは有名な話だが、「木更津キャッツアイ」は企画当初「柏キャッツアイ」だったという。要は、東京のキャストとスタッフを前提としたロケ事情が許す範囲の郊外都市であれば「どこでもよかった」のだ。  北は北海道から南は九州・沖縄までロードサイドにファミレスとパチンコ屋とマクドナルドとブックオフと、そしてイオンのショッピングセンターが並ぶ……。消費環境の画一化が地方の風景をも画一化し、その文化空間をも画一化していく。三浦展のいう「ファスト風土化」を「前提」に宮藤はその「地方」への「地元」へのアプローチを行ってきたのだ。  したがって宮藤の描く「地元」は歴史や伝統が個人の人生を意味づける空間ではあり得ない。たとえば「木更津キャッツアイ」で、主人公の無職青年たちのグループがあの「ファスト風土化」した、「何もない」木更津という空間を愛するのは、そこが「仲間内の記憶」にとって重要な場所であるからであり、そして同様に仲間内で愛好されるサブカルチャーに由来する場所(劇中には氣志團や加藤鷹、哀川翔が実名で登場し、木更津の何でもない場所に記念碑を刻んでいく)だからだ。つまり自分たちで捏造した偽史を流しこむべき器として「地元」は機能しているのだ。  「土地」やそこに紐づいた歴史ではなく、今、ここに生きている仲間たちの記憶とサブカルチャーの生む「偽史」で地元での日常を彩ること。これが初期作品における宮藤のアプローチだった。
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  • 宇野常寛「"絆"なんか、いらない――『半沢直樹』でも『あまちゃん』でも"炎上マーケ"でもなく」(PLANETSアーカイブス)

    2019-01-11 07:00  
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    今朝のPLANETSアーカイブスは、「ダ・ヴィンチ」2013年2月号に掲載された、宇野常寛によるメディア論をお届けします。2012年に大ヒットしたドラマ『半沢直樹』『あまちゃん』と、そこに象徴される団塊ジュニア世代のメンタリティを読み解きながら、「テレビの時代」の終わりと、「正しい断絶」に基づいたインターネットの新しい可能性について探ります。 ※本記事は2014年2月に配信された記事の再配信です。
     昨年2013年は国内のテレビ放送開始から60年目の節目にあたる。そのため、この一年は各媒体でテレビ文化を総括する企画が数多く見られた。そしてテレビ文化に対しての批評をデビューから多く手掛けてきた僕は、その手の企画に呼ばれることの多い一年だった。新春に放送されたNHKの「朝ドラ」の歴史をさかのぼる番組から、『三田文學』誌のテレビの行く末を案じる座談会まで実にバラエティに富んだ企画に出席したが、そこで問われているものは本質的にはひとつしかないように思える。
     それは、もはやテレビの役割は終わったという現実にどう対応していくのか、という問いだ。こう書いてしまうと、実際にこの手の企画で僕と同席することの多い研究者やもの言う制作者たちは不愉快に思うかもしれない。じっさいにこの種の企画の席上でも、僕は彼らとぶつかり合うことが多かった。曰く「とは言え、今はまだ国内最大メディアとしてのテレビの訴求力は大きい」「とは言え今はまだインターネットを情報収集の主な窓口とするライフスタイルは都市部のインテリ層に限られている」……もちろん、その通りだ。しかし、彼らの反論の「とはいえ今はまだ」という語り口が何より雄弁に近い将来にそうではなくなることを、誰もが予感していることを証明しているのではないか。
     ある座談会でたぶん僕とは親子以上に年齢の離れた学者先生はこう言った。「とは言え、あの頃のように国民全体に共通の話題を提供するテレビのようなものは必要なのではないか」、と。僕はすぐにこう反論した。「いや、そんなものはもう要らない」と。
     人間の想像力には限界がある。目の前で産気づいている妊婦を助けようと考える人も、遠い知らない街が災害に見舞われたと知ってもいまひとつピンと来ない、なんてことはそう珍しくない。この距離を埋めるためにマスメディアが機能したのが、20世紀の歴史だった。遠く離れたところに生きる人間同士をつないで、ひとつにすること。ばらばらのものをひとつにまとめること。こうして社会を成立させるために、マスメディアは有効活用された。そして、有効活用されすぎてファシズム(ラジオの産物と言われる)のようなものが発生し、世界大戦で危く人類が滅びかけたのが20世紀前半の歴史だ。そしてその反省から20世紀後半はマスメディアは政治から独立することを前提に運用されるようになった。しかし、その結果マスメディアは第四の権力として肥大し政治漂流やポピュリズムの温床と化している。
     僕はこう考えている。もはやばらばらのものをひとつにまとめる装置としてのマスメディアの役割は、少なくともこの国においては終わっている。会社員男性の大半がプロ野球に興味を持ち、巨人ファンかアンチ巨人だという時代を回復しなくても、社会が破綻することはないだろう(現に破綻していない)。たしかに国家の、社会の成熟の過程でマスメディアが誰もが同じ話題に関心を持ち、重要だと考える「世間」を機能させることは有効だったに違いない。しかし、敗戦から70年に達しようとしているこの老境の近代国家・戦後日本はもはやその段階にはない。現に、インターネットを当たり前に存在するものとして受容している若い知識人層を中心に、「テレビ」の体現する公共性は大きく疑問視され始めている。
     僕は社会人になってから一度も新聞を購読したことがない。そしてテレビのニュースはほぼ完全に、見ない。なぜならばそこで話題にされていることが、ほとんど自分の生きている社会のようには思えないからだ。政治報道は政局中心、経済報道は昔の「ものづくり」中心、科学と海外ニュースは割合自体が極端に低い。街頭インタビューで「市民の声」を拾えば、ねずみ色のスーツに身を包んだ新橋のサラリーマンと東京西部のベッドタウンの専業主婦を選ぶ。特にひどいのが文化面で、文化的存在感においても経済規模においても、ほとんど意味のないものになっている芥川賞を一生懸命報道するにもかかわらず、夏冬それぞれ50万人の動員をほこる世界最大級のイベントであるコミックマーケットは会場で事故が起きたときしか扱わない。
     この人たちの頭の中は20年くらい前で時間が止まっているのではないかと本気で思う。彼らの頭の中ではまだ20世紀が、下手をしたら「昭和」がまだ続いているのだ。このニュースをつくっている人たちは、未だに郊外のベッドタウンに一軒家を買って、そこから正社員のお父さんが一時間半かけて都心の職場に通い、その家を専業主婦が守りながら子供を育てる、なんてライフスタイルが日本人の「標準」だと思っているのだろうか。どれだけオリコンと通信カラオケのヒットチャートをアイドルとV系バンドとアニメソング歌手とボーカロイドが席巻しようと「そんなものは一部のマニアックな人たちのもの」と切って捨てるのだろうか。(後者については、実際に対談の席で言われたことがあるが。)
     私見では、これからのマスメディアが負うべき公共性はひとつしかない。それは、国民に対して知らなければ決定的に不利益になる情報を公開、周知することだ。重要法案のゆくえや、伝染病の予防接種まで──伝えるべきことは山のようにあるはずだ。マスメディアは限られた条件の中で、いかに効率よくこれらの物事を周知させるかだけを考えていればいい(それだけでも極めて困難なことだ)。
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  • 宇野常寛 ドラマが"話題になる"とはどういうことか――『あまちゃん』と『ごちそうさん』の比較から見えること(PLANETSアーカイブス)

    2018-06-18 07:00  
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    今回のPLANETSアーカイブスは、宇野常寛による『あまちゃん』と『ごちそうさん』の考察の再配信です。2013年上半期に放映された『あまちゃん』よりも高視聴率を誇っていたにもかかわらず、下半期の『ごちそうさん』は”話題にならない”という印象を持たれていました。二作の比較から、私たちの「テレビとの付き合い方」について考えます。 (初出:「PRESIDENT」2014年1.13号)※本記事は2014年1月30日に配信した記事の再配信です。
    ▲Amazon.co.jp: NHK連続テレビ小説 ごちそうさん 上: 森下 佳子, 豊田 美加:本 
    朝ドラ『ごちそうさん』はなぜ話題にならないか
     いきなり内情を暴露してしまうところからはじめよう。今回の「『ごちそうさん』はなぜ話題にならないか」というタイトルは、僕がつけたものではない。前作『あまちゃん』が半ば社会現象と言えるヒットを見せたことに対して、後番組である『ごちそうさん』の話題性が低いという「前提」で僕に寄稿の依頼があった。
     しかし私見では『ごちそうさん』は話題になっていないどころか、『あまちゃん』に匹敵するレベルで話題になっている。少なくとも露骨に見劣りするレベルではない。平均視聴率は数週に渡って二〇%を超え、むしろ『あまちゃん』より良好だ。そして僕らドラマファンの間でも巧みなストーリーテーリングと脇役にまで気の利いたキャラクター演出が相まって非常に評価が高い。
     では、なぜこうした問いが編集部から投げかけられたのか。結論から述べてしまえば、『あまちゃん』は「普段朝ドラを見ない人たち」の間で異常なほど話題になっていたからだ。意地悪な表現を選べば、普段は「朝ドラ」など視界にも入らない「インテリ」の中年男性の間で、『あまちゃん』だけがめずらしく話題になったのだ。
     まず、ドラマが「話題になる」とはそもそもどういうことかを考えてみたい。一般的にテレビ番組の人気度は視聴率で計られる。もちろん、この数字は現代においては大きく形骸化していると言わざるを得ない。たとえばこの数字は計測方法の問題で録画視聴やオンデマンド視聴をまったく含めることができない。また、一定時間そのチャンネルを受像機で選択している状態を「視聴している」と判別するために 、視聴者の性質について反映することができない。つまり、チャンネルをザッピングしながらたまたまお気に入りの俳優や美味しそうな料理に目をとめただけの視聴者と、ツイッターで熱心に実況しながら放送をくまなく追いかけ関連グッズも買いあさる熱心な視聴者との区別をつけることができない。たとえばCMの訴求力一つとったとしても両者を同じ視聴者としてひとくくりで考えることにほとんど意味はないだろう。
     しかしその上であえてまずは視聴率から両者を比べてみると、『あまちゃん』の平均視聴率が二〇・六%であるのに対し、『ごちそうさん』の平均視聴率は一二月七日(第一〇週)時点で二一・九%と、むしろ高いくらいだ。にもかかわらず、本誌編集部が代表する「普段あまりドラマを見ないホワイトカラー中年男性」からは『ごちそうさん』は「話題になっていない」ように見える。ここにこの問題のクリティカル・ポイントがあるように思える。■PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。