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  • 「ドラえもん的想像力」は21世紀に生き残ることができるのか?――真実一郎、宇野常寛の語る『STAND BY ME ドラえもん』 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.216 ☆

    2014-12-05 07:00  
    220pt

    「ドラえもん的想像力」は21世紀に生き残ることができるのか?――真実一郎、宇野常寛の語る『STAND BY ME ドラえもん』
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.12.5 vol.216
    http://wakusei2nd.com


    本日のほぼ惑は、『サイゾー』11月号に掲載された『STAND BY ME ドラえもん』をめぐる真実一郎さんとの対談をお届けします。「ドラ泣き」大ヒットの背景にあるもの、そしてこれから「ドラえもん的想像力」が真に向き合うべき課題とは――? 少子化の時代にも成立する国民的コンテンツの条件を考えます。

    初出:『サイゾー』2014年11月号(サイゾー)
    ■作品紹介
     

    『STAND BY ME ドラえもん』
    原作/藤子・F・不二雄 監督/八木竜一、山崎貴 脚本/山崎貴 制作プロダクション/白組・ROBOT・シンエイ動画 出演(声)/水田わさび、大原めぐみ、かかずゆみ、妻夫木聡ほか 配給/東宝 公開/8月8日より
    東京郊外に暮らすダメ小学生のび太のもとに、22世紀から来た自分の子孫を名乗る少年・セワシが現れる。のび太の所業で迷惑を被っている彼が、世話係にネコ型ロボット・ドラえもんをつけてどうにかしようということらしく、のび太はドラえもんと暮らすことになる。国民的名作である『ドラえもん』を初めてフル3DCGアニメで映画化。監督は、『friends もののけ島のナキ』の八木竜一、『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズや『SPACE BATTLESHIP ヤマト』などの山崎貴が共同で務めている。
     
    ▼プロフィール
    真実一郎(しんじつ・いちろう)
    広告から音楽、マンガ、グラビアアイドルまで幅広く世相を観察するブログ「インサイター」を運営。「SPA!」(扶桑社)などにてコラムを連載。著書に『サラリーマン漫画の戦後史』(洋泉社新書y)。
     
    ◎構成:清田隆之
     
     
    ■3Dドラえもんは日本版ピクサーを目指した!?
     
    真実 僕はまんまと泣かされました。物語として非常によくまとまっているな、という印象です。僕は「コロコロコミック」を創刊号【1】から読んでいた『ドラえもん』直撃世代なんですよ。しかも子どもの頃は海外にいて、その頃は『ドラえもん』で日本の学校文化のすべてを学んだといっても過言ではないんだけど(笑)、その目線で観ても今回の3D映画に違和感はなかった。表現的には、例えば雪山のシーンとか『モンスターズ・インク』(01年)を彷彿させて、ピクサーをかなり意識しているのかなという印象も持ちました。
    今回批判があるのは、「成し遂げプログラム」の設定なんですよね。セワシくんがセットしたこのプログラムでドラえもんはイヤイヤ現代にいる、という。否定派は「ドラえもんとのび太は友情で結ばれていないと」ということなんでしょうけど、『トイ・ストーリー』のバズとウッディみたいに、当初仲が悪かったからこそ最後に仲良くなることに意味があるのはよくある話だし、個人的にこの改変はそんなに気になりませんでした。あと、このCGのクオリティで静香ちゃんのお風呂シーンが見たかったです。
     
    【1】「コロコロコミック」(小学館)創刊号
    創刊年は77年。69年より小学館の学年誌で連載が開始されていた『ドラえもん』をまとめて読むことができるように、という総集編的位置づけで創刊された。
     
    宇野 僕は、完成度は高いし、企画としては満点だと思いました。これまで3DCGの作品ではなかなかかわいいキャラが作れなくて、人間に似せれば似せるほどうまくいかなくなるという”不気味の谷”問題があったんだけど、今回はそれがほとんど気にならなかった。その問題を乗り越えて、この規模でヒットしたものって、日本でおそらく初めてですよね。しかもそれがいわゆるオタク系のアニメ文化とは少しズレたところであるROBOT・山崎貴ラインから出てきた。彼らの作ってきたものは全部メジャー路線だし、オタク的なフェティッシュとも切り離されたところにあるのでちょっとマニアには敬遠されがちなところもあるんだけど、全然馬鹿にしたもんじゃないな、というのが第一印象です。さらにそういうテクニカルな部分に加え、シナリオ的な泣かせ演出も優れていた。あれは真実さんの指摘通り、完全にピクサーですよね。対象喪失の使い方や、子ども向けにわかりやすい物語を提示しつつも、大人になってしまった親世代の郷愁を誘う構造なんかは完全にゼロ年代ピクサーのノウハウで、非常に良くできていた。
    ただ一方で、「これは果たして『ドラえもん』なのかな?」という気持ちがどうしても残ってしまった。一番大きいのは、ひみつ道具によるワクワク感というか、センス・オブ・ワンダーの感覚がほぼ消滅している点。『ドラえもん』のメインテーマって、「あんなこといいな、できたらいいな」じゃないですけど、「科学する想像力」ですよね。でも、今回の映画では「のび太の成長物語」が主題になっていた。原作だと、のび太の成長物語は”方便”にしか使われていなかったと思うんですよ。『さようならドラえもん』や『帰ってきたドラえもん』だって、一旦連載を終わらせることにしたけどやっぱり再開するってことで、便宜的に藤子・F・不二雄が描いたもの。その方便でしかなかったはずの成長物語が全面化していた点が、僕は非常に気になった。むしろ『ドラえもん』は本来、のび太を成長させないことによって無限反復を可能にしていた作品で、藤子・F・不二雄はある時期までは、大長編ですらのび太をいかに成長させないかというゲームを戦っていた。だから成長するのはいつもジャイアンやスネ夫だったし、物語の解決も「のび太が勇気を出して皆が感動して危機に立ち向かう」とかではなくて、『のび太の大魔境』(82年)や『のび太と鉄人兵団』(86年)みたいにひみつ道具のアクロバティックな使い方によって勝ったり、『のび太の日本誕生』(89年)みたいにタイムパトロールが勝手に助けに来て勝つとかだったわけです。あれは、いかにのび太を成長させないまま、日常的なセンス・オブ・ワンダーの話を描くか、フロンティアが消滅しつつあった20世紀後半の社会の中で、どう子どもに冒険を提供するかということだったはず。そういう藤子・F・不二雄の知的格闘がすべて忘れ去られ、のび太のウェルメイドな成長物語になってしまったことが、僕は結構ショックだった。
     
     
    ■「電通のドラえもん」としての”ドラ泣き”
     
    真実 今回、いちサラリーマンとして思ったのは「これは”電通のドラえもん”だな」ということ。今まで『ドラえもん』というコンテンツはアサツーディ・ケイ(ADK)がアニメの版権を独占していて、ほかの広告代理店が手を出せない構造になっていた。でも聞いた話では、「2D(平面)のドラえもんはADKのものだけど、3Dはまた別コンテンツのはずだ」というアクロバティックな理屈を考えた天才がいて(笑)、「3Dは電通の版権」ということになったようなんです。 
  • 〈失われた未来〉を取り戻すために――『STAND BY ME ドラえもん』 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.181 ☆

    2014-10-17 07:00  
    220pt

    〈失われた未来〉を取り戻すために――『STAND BY ME ドラえもん』
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.10.17 vol.181
    http://wakusei2nd.com

    本日のほぼ惑は、「ダ・ヴィンチ」に掲載されている宇野常寛の批評連載「THE SHOW MUST GO ON」のお蔵出しをお届けします。今回取り上げる題材は、大ヒット映画『STAND BY ME ドラえもん』。藤子・F・不二雄の原作から「のび太の成長物語」としてのエッセンスを抽出し、大きな支持を得た今作が描かなかった"もう一つのテーマ"について考えます。
    初出:『ダ・ヴィンチ』2014年10月号(KADOKAWA)


    ▲[STAND BY ME ドラえもん]予告篇3
     

     札幌市の札幌琴似工業高の社会科教諭・川原茂雄さん(57)が16日、弁護士を招いて集団的自衛権を学ぶ授業を行った。「2学期から憲法を学ぶ前に、憲法が生活と身近にあることを感じてほしい」という考えからだ。大人にも分かりにくい集団的自衛権の問題を、どう高校生に伝えるか。絵や図を多くし、例え話で 身近な事例に近づけて教えた。
     授業は、2年生の現代社会。札幌弁護士会の伊藤絢子弁護士(32)が担当した。まず生徒が伊藤さんに仕事や趣味について質問し、空気がほぐれてきたところで、話は本題に移った。川原さんと伊藤さんは、「ドラえもん」を例に話を進めた。米国は「ジャイアン」、日本は「のび太」。安倍晋三首相は集団的自衛権の行使容認で「日本が戦争に巻き込まれる恐れは一層なくなっていく」と胸を張ったが、「のび太が武装して僕は強いといっても、本当に自分を守れるかな」と川原さん。生徒はみな顔を上げ、考えこんだ。伊藤さんは「武装してけんかをするか、何も持たずやられるのか、選択肢は二つじゃないよね」と、話し合いでの解決法を示した。》(朝日新聞7月19日刊)

     
     先日、ラジオのニュース番組にゲスト出演したとき、集団的自衛権をめぐる議論について意見を求められた。曰く、札幌市の高校の授業で「ドラえもん」を例に集団的自衛権についてディスカッションを行うものだったという。番組を担当する局のアナウンサーは僕に尋ねた。「集団的自衛権の是非はひとまず横においておいて、サブカルチャーの例でこうした話題を説明する授業についてどう思うか」と。僕は迷わず答えた「それは当然のことだ」と。戦後社会は、軍事について、戦争について、安全保障について正面から語り、議論し、描くことを忌避する文化空間を維持して来た。戦後社会の繁栄と安定がアメリカの核の傘の下に成り立っていることを隠蔽し、破壊と暴力には恐怖と嫌悪と同じくらい憧れと快楽が伴うという現実をも隠蔽して来た。だからこそ、油断するとすぐに安易に戦争の道を歩みかねない人間には理性による戦争抑止が必要なのだという論理にたどりつくことなく、単に忌避し、隠蔽して来た。しかしサブカルチャーだけが戦争という現実を子どもたちに伝えて来た。いくら、戦中派の実体験を拝聴しても、いくら社会科見学で戦争の傷跡をめぐっても伝えられない戦争の側面について、人間の業の本質について伝えてくれたのは、ファンタジーや幼児番組のかたちをとったサブカルチャーだった。核という人類には過ぎた力への憧れと恐れは『ゴジラ』が、安保体制下における正義の不可能性は『ウルトラマン』が、そして第二次世界大戦で悪の側に置かれたことで拭えぬ傷を負った男性性の迷走は『宇宙戦艦ヤマト』が、それぞれ結果的に、あるいは自覚的に引き受けていったのだ。僕たちは戦争のもつほんとうの恐ろしさも、そして魔性の魅力も、サブカルチャーから教わって来た。だから「ドラえもん」が集団的自衛権のたとえに用いられるのは至極当然のことだ。実際、のび太という自力では何もなし得ない非力な主人公は、自分たちの力では平和と安定を守れない戦後日本の似姿に他ならない。
     僕は集団的自衛権の安易な行使容認には反対だし、安倍政権の立憲主義を踏みにじる解釈改憲にも批判的だ。しかし、それ以上に、こうしてアメリカの核の傘に守られている現実から目を背け、憲法九条があったからこそ戦後日本の平和が保たれて来た、なんて見え透いた嘘をこの期に及んで振りかざす左翼の愚かさと、それで安倍晋三が止められると思っている能天気さに軽蔑を禁じ得ない。野暮を承知で札幌の高校教諭のたとえ話に突っ込むなら、ジャイアンはアメリカではなくかつてはソビエト、今は中国であり、そしてドラえもんはアメリカに他ならない。そしてドラえもんの力で幸福(戦後復興と平和)を享受しながらも、それゆえに成長できないのび太=日本が自立するには対米従属の時代を終わらせるしか、ドラえもんにさよならを告げるしかないのだ。もちろん、こうした構造自体がグローバル化が進行し、日本に限らずあらゆる国家にとって一国防衛が現実的ではなくなった今となっては過去のものだ。「その意味においては」ドラえもんで集団的自衛権のたとえとするのはもはや「旧い」のかもしれない。
     だから、この夏公開された映画『STAND BY MEドラえもん』を見たときは、ひどく悲しくなった。映画の出来が悪かったわけではない。むしろその逆で、本作が原作のエピソードを巧みに再構成し、アレンジし、今は亡き藤子・F・不二雄がなし得なかった『ドラえもん』の(事実上の)完結をなし得たのはまぎれもない達成だと思う。本作において、のび太は成長する。ドラえもんに甘やかされてきたのび太は、その環境に甘えることなく、ドラえもんがいなくても強く前向きに生きていける青年に成長する。それもジャイアンのように単に強くなるのではなく、むしろドラえもんに甘やかされたことで得られた環境の中で、自分の持っている「優しさ」を武器に生きて行くすべを獲得する。これはまさに、戦後民主主義が目指した価値そのものだったと言えるだろう。アメリカのように強くなるのではなく、日本的な優しさの価値で、武力ではなく文化と経済で、世界に価値を認められる──本作は藤子が生前描き遺したいくつかのエピソードをつなぎ、そして要所要所をアレンジして、彼にできなかったのび太の成長物語としての『ドラえもん』を見事に完結させたのだ。しかし、いやだからこそ、映画を見終えた僕は悲しくなった。なぜか。それは藤子・F・不二雄が、『ドラえもん』をむしろ完結「させなかった」ことで描こうとしたものが、未来が、この2014年の日本ではほぼ崩れ去ろうとしていることが分かってしまったからだ。そして、この映画が描いているもの、すなわち「戦後的な成熟」のモデルは既にノスタルジィとしてしか成立しない過去の存在でしかないことが分かってしまったからだ。
     原作の『ドラえもん』はある時期からのび太の成長を描くことを、そして作品を「完結」させることを半ば意図的に放棄していたと思われる。実際、この映画『STAND BY ME』に採用されたエピソードの多くは、原作に登場し、『ドラえもん』の世界観や設定の根幹をなす重要なエピソードだが、藤子はこれらのエピソードを経ながらも、翌月の『コロコロコミック』では、あるいは小学館の学年誌ではこうしたのび太の感動的な成長をリセットして、まるで「なかったかのように」して、通常のギャグ編を展開し続けた。そこでのび太は欲望のままに生きる小学生男子であり、あらゆる困難を自力ではなくドラえもんのひみつ道具で解決しようとする他力本願主義者であり、そしてそのたびに最後はしっぺ返しを食らうトラブルメーカーであり続けた。そしてそれ故に、『ドラえもん』は科学の力で不可能が可能になることの純粋な喜びを、憧れを描くマンガであり続けることができた。
     たとえばドラえもんのひみつ道具に「おこのみボックス」というものがある。これは一見、何の変哲もない手のひらサイズの薄い「箱」だ。しかし、この箱にひとこと「テレビになれ」と話しかけると箱はテレビ放送を受信して映像をクリアに映し出す。「レコードプレイヤーになあれ」と話しかけると、レコードを回し音楽を流し始める。「インスタントカメラになあれ」と命じると、コンパクトカメラとして機能する。少し前にインターネットで話題になっていたので、覚えている人も多いだろうが、これはどう考えても現在におけるスマートフォンに他ならない。藤子は今から何十年も前に、その想像力で僕たちの未来を、世界を変える道具を描いていたのだ。それも他力本願で欲望のままにいきるダメ小学生の「夢」として。
     そう、藤子がのび太を成長させなかったのは、こうした夢を、欲望を実現するための想像力としての(SFギャグマンガとしての)「ドラえもん」を殺したくなかったからではないか──そう僕は考えている。