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記事 17件
  • 土屋恵一郎×門脇耕三×宇野常寛 「知」のリブランディングーー人工知能時代の「人知」と「身体」、そして大学の意味を考える(後編)

    2019-11-07 07:00  
    550pt

    今朝のメルマガは、土屋恵一郎氏、門脇耕三氏と宇野常寛の対談の後編です。インターネットとマーケットによって変貌しつつある「知」を、大学はいかに取り込むべきか。新たな公共圏として都市に開かれた空間、アジールとしての大学のあり方を考えます。 ※本記事は「明治大学アカデミックフェス2018」(2018年11月23日開催)での各種プログラムを収録した電子書籍『知を紡ぐ身体ーー人工知能の時代の人知を考える』(明治大学出版会)の一部を転載したものです。※前編はこちら
    2019年11月23日に「明治大学アカデミックフェス2019」が開催されます。学生・一般の方を問わず無料でご参加できますので、ぜひご来場ください。
    自分で自分を見る視線
    門脇 誰しもが漂流していくようなイメージになったとしても、ただ流されていればいいというわけではないはずです。われわれはどのように知的な漂流をすればいいのでしょうか。
    宇野 これは僕の一方的な大学に対する思いですが、大学には正しく漂流ができる場であってほしいと思っています。 たとえば、「“人文知”対“工学知”」という話題が人の口にのぼることもあります。まず現代は工学的な知が台頭してきている時代だという認識がある。要は、コンピュータの性能の向上によって、いろいろなことができるようになり、世界中の情報産業が次々と新しいサービスを発表してきています。それによって、人間はいままで体験しなかったさまざまなことを体験できるようになっていて、彼らはその膨大なデータをもっている。 しかし、彼らはそれをマーケットに最適化するだけなんです。彼らは確かに新しい人間性を結果的に発見し、切り開いているのかもしれませんが、それが人類にとってどういう意味をもつのか、人間という存在にとってどういう意味をもつのかについて考察することは基本的にありません。マーケットに最適化するだけです。それに対して、かつての人文知を中心とした大学アカデミズムや出版ジャーナリズムは軽蔑の態度を表明するだけで、何らアプローチしてこなかった。ろくに知りもしないで、情報技術と資本主義は人間を幸せにしない、的な「物語」を語るだけで済ませてきた。そういう不毛な二項対立があったわけです。逆に、工学知の人々の側では、あいつらは何をいまだに古き良きカビの生えた教養を守っているんだと考えているでしょう。そんなふうにお互いに軽蔑しあっている状況が、いまあるのだと思います。 しかし、大学は、本来そういうものが越境する場であるはずです。いまのある種の情報工学知の時代に、大学はそこに対して背を向けるのではなく、工学優位の時代であるからこそ批判的向学心の場であるべきでしょう。工学主導の人類のイノベーションを基本的には肯定的に受け入れつつ、それを批判的に検証することが新しい場の構築につながっていくのだと思います。
    土屋 企業が最近、大学スポーツのなかに情報機器を導入したらどうですか、と提案してくることがあります。たとえば、ドローンを飛ばしてラグビーの試合全体を情報化して、フォーメーションを分析してはどうかといったことですね。それは面白いなと私は思っています。体育会にも提案して、スポーツを情報化していくことはできるでしょう。 ただ、あえて歴史を振り返ってみると、実はそのようなことは昔から言われているのではないかとも思うのです。 たとえば、4~5年前にMITのメディアラボに行った時のことです。そこには日本人の研究者がいて、ドローン技術を説明する際に、世阿弥の「離見の見」という言葉が出てきました。おそらく彼は、私が能の専門家であるということは知らずに、「自分は知っているぞ」と思って言ったのでしょうね(笑)。しかしいずれにせよ、日本人が考えた「離見の見」という概念がアメリカで言及されたことには大きな意味があると思います。 「離見の見」とは、能の演者が自分の身体を離れて、観客の視点から自身の姿を見ることを言うのですが、それが意味するのは、自分を省みる時に、外側の目から見ることの大切さです。舞台で舞う時に、自分が舞うという意識だけでなく、自分が回されている、あるいは違う力によって抑えられて自分が回っているという意識が大事なのです。世阿弥はこれを常に説いていました。 ドローンを飛ばしてラグビーの試合を上から見て分析するということと「離見の見」とがどう違うのかと言うと、私はそれほど違わないと思うのです。そこにはやはり自分の身体を離れたところから見るという視点があり、このような視点は「自分がよそからの力に動かされている」という見方を生むはずです。 現在の学問は専門化が進み、その分野に精通した人間にしかわからないようなものになっている。つまりブラックボックス化しているわけですが、それを過去の知識に照らしあわせて捉え直していくと、もう少し話の広がりが出てくると思うのです。
    宇野 昔、吉本隆明が『ハイ・イメージ論』を80年代の終わりに出しましたね。あれはふつうに考えたら思いつきのエッセイで、ほぼ中身のないものと思われているようですが、いま読み返すと面白いんです。 あそこで吉本は「普遍視線」と「世界視線」と言っています。「普遍視線」というのは、われわれが水平のアイボールで見ている現実世界で、「世界視線」というのは、衛星写真のようなものであると。吉本は、これから情報技術が発展していくと、われわれはこの普遍視線と世界視線の両方をもつようになっていくだろうと80年代のうちに書いています。これ、完全にいまのGPSやライフログの話ですよね。 人間は、自分の身体を見ることが基本的にはできない生き物でした。コンピュータの発展によって何がいちばん変わったかというと、自分の身体を常に見ながら行動できるという点です。SNSだって、そうかもしれない。SNSはヴァーチャルな世界での一つの身体ですが、自分が常に見ているわけですね。つまり、いちばん変わったのは身体観のはずなんです。 いま世阿弥の話が出たように、どちらかというと、これは東洋的・日本的な世界観で、実際に吉本隆明がそこで引用しているのも、臨死体験の話です。臨死を体験する時、なぜかみな同じようなことを言う。死にそうになっている自分の身体を自分が外側から客観視しているという夢を見るんです。この自分が自分の身体を見るという経験は、宗教的な想像力や、われわれの死生観のようなものとも結びついています。 しかし、この状況はいまや日常化しています。それまでは宗教的な訓練を積んだ者だけが行けた高みが、カジュアルにGPSを実装している現代では、われわれの日常になっているわけです。そんな時代にわれわれの世界認識はどう変わっていくのか。この枠組みが、情報技術時代の身体の核にあると思います。
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  • 土屋恵一郎×門脇耕三×宇野常寛 「知」のリブランディングーー人工知能時代の「人知」と「身体」、そして大学の意味を考える(前編)

    2019-11-06 07:00  
    550pt

    あらゆる知識がネット上にアップされ、AIが急速に発展しつつある現在、私たちは何を、どのように学ぶのか──。明治大学長の土屋恵一郎氏、明治大学理工学部建築学科准教授の門脇耕三氏と宇野常寛が、現代における「知」のあり方について激論を交わします。 ※本記事は「明治大学アカデミックフェス2018」(2018年11月23日開催)での各種プログラムを収録した電子書籍『知を紡ぐ身体ーー人工知能の時代の人知を考える』(明治大学出版会)の一部を転載したものです。
    2019年11月23日に「明治大学アカデミックフェス2019」が開催されます。学生・一般の方を問わず無料でご参加できますので、ぜひご来場ください。
    イントロダクション
    門脇 理工学部の建築学科で教えております門脇です。今日はどうぞ宜しくお願いいたします。 今日は二人の方をお招きしております。一人は学長の土屋恵一郎先生です。土屋先生は法学部の教授を務められておりましたが、法学者であるとともに、能の評論を中心とした演劇評論家でもあります。もうお一方は宇野常寛さんで、批評家であり、批評誌『PLANETS』を主宰されています。現代社会に対してさまざまな観点から鋭い批評をされていますが、広範な分野の知の動向にも通じていらっしゃいます。 今日は「『知』のリブランディング」という、昨年からの継続しているイベントですが、副題を「人工知能時代の『人知』と『身体』、そして大学の意味を考える」としました。「人知」「身体」「大学」という三つのキーワードを用意したわけですが、まずはこの背景についてご説明します。 現代に生きるわれわれは、日頃から情報技術が飛躍的に進化していることを実感しています。Windows95が出たのが1995年ですが、そこからすでに20年以上が経って、コンピュータや情報技術はわれわれの生活に自然に溶け込んでいます。さらに最近顕著に感じるのは、情報の世界が実世界に干渉し始めているということです。象徴的なのが『ポケモンGO[註1]』のブームだと思いますが、情報空間での出来事が、われわれの行動にじかに影響するようになってきました。それが新しい状況と言えそうです。 そういったなかで、現代人はますます「動物化」が進んでいる、と言われています。要するに、さまざまな情報に反射神経的に反応する人間が増えている。これは世界的な現象でもありそうです。一方で、昨今は「第三次人工知能ブーム」とも言われ、機械の知が人間の知を超える「シンギュラリティ」と呼ばれる事態を迎える日も近いと囁かれています。 こうした状況に現在のわれわれは置かれているわけですが、ここであらためて、人間がもっている「知」の意味を考えようというのが、このシンポジウムの第一のテーマです。 この人間の「知」は、物理的には脳をその源泉としているわけですが、脳はそれ単体で機能する計算機ではなく、身体と接続されて初めて機能することが特徴です。すなわち、身体は行為するデバイスであって、それが環境と何らかのインタラクションを起こすことによって、脳に情報が伝わり、そこで初めて「考える」という働きが起こる。そのように考えると、人工的な計算機と人間の知能とが圧倒的に違うところは、やはりこの身体を備えているということに尽きるのでしょう。人間は、身体を備えた知的なユニットである。このような人間をどのように再評価できるか、議論していきたいと思っています。 今日の進め方ですが、僕のほうでいくつかトピックを用意してきましたので、宇野さんと土屋先生のお考えを伺いながら、議論を深めていければと思います。 まず伺いたいのは、情報機器・情報技術の発展をお二人がどのように捉えているのか、ということです。これは現在進行形の現象ではありますが、そこにどのような批判的な視座を与えることができるのか、お二人のお考えを伺いたいと思います。 第二に、情報技術の発展は単なる技術的進歩にとどまらず、社会の基盤を揺さぶり、パラダイム変化さえ起こしつつあることをわれわれは感じているわけですが、この来たるべきパラダイムはどのように総括できるのか、議論をしてみたいと思っています。 第三に、現在では知的な機器が環境のなかに自然に溶け込んでいる状況になっているわけですが、そうした環境下における「人間」の意味について、再考してみたいと思っています。知的な機器とは、たとえばスマートフォンもその一つでしょうし、あるいは、最新の自動車や家電のようなコンピュータに接続されたプロダクトもそうでしょう。そして、それらはインターネットを介して相互に接続され、環境そのものになっています。つまり現在のわれわれが生きている環境には、人間以外の知的な存在がそこかしこに潜んでいるわけですが、そうした状況下で人間はどのような意味をもちうるのか、考えてみたいと思っています。 最後のトピックは、これからの「学び」についてです。いままで「学び」と言うと、情報を取得する知識習得型の学習が真っ先にイメージされることが多かったわけですが、いまはその「学び」のあり方が変容しつつある。では、われわれはどのように学んでいけばいいのか。また、学びが変容する時代に、大学にはどのような役割が求められるのか、話し合っていきたいと思っています。それでは、よろしくお願いいたします。
    人知・身体・大学
    土屋 実は私は、学長になる前から電子書籍をどう大学のなかに取り入れるのかを考えていました。いまから5年前に明治大学に総合数理学部ができた時には、大学のテキストを全部電子書籍にできないかと提案したことがあります。実際には、それはなかなか難しく、いまだにそうなってはいませんが。 私がテキストを電子書籍にしたかったのはなぜかと言うと、現在の大学の教科書がもつ完結したスタイルを、情報技術や電子書籍を通して、変化するテキストとしてつくり直してほしかったからです。 いまは、教科書を学生に渡して、教員が授業のなかで解説をしながら伝えていき、時には議論をし、最終的にテストでどう理解したかを見るというスタイルになっています。それを私は、電子書籍が常に書き換えられていくというスタイルにできないかと提案したわけです。電子書籍として渡したものが、授業のプロセスのなかで書き換えられていく。教員も書き換えていくし、同時に学生自身もそのテキストに介入して書き換えていく。それが層として残っていって、最終的には、最初に与えられたテキストがまったく違ったテキストに変容していく、同時にそのプロセスは残っていくというような、いわば多層のテキストがつくれないだろうかと考えたわけです。 これはふつうの印刷媒体では不可能なんですね。ふつうの印刷媒体とは、つまり紙ですから、そうした書き換えのプロセスはなかなか実現できません。しかし、いまの電子書籍ならばできるのではないか、あるいは電子書籍を通じて教員と学生のネットワークがつくられていけば、これがテキストのかたちで反映されていくことが可能なのではないか、と提案してみたのです。いままでのカノン化されたテキストではなく、ネットワークのなかで拡散し、同時に変容していくテキストができあがっていくと、大学教育のなかでの学生と教員の関わり方、あるいは学生どうしの関わり方が変わっていくのではないかと思ったわけです。 さらにその電子書籍が完全にオープンにされていれば、もともとの制作時に参加していない人や、海外の研究者なども参加していって、教室の中のテキストから最終的には世界という教室の中のテキストにまで変容していくかもしれません。それをまずは教員と学生のあいだで、権威的ではないフラットな関係のなかでやっていけたら非常に面白いものになるのではないかと思ったのです。 教科書がオープンテキストとしてできあがり、教室もそれに近いかたちになっていくのが、おそらくこれからのインターネットの社会のあり方でしょうし、電子媒体を通して協力がなされていくことが、非常に面白い展開を生み出していくことになるはずです。 そのなかで、「教える-教えられる」という関係も当然変わっていきますから、そこでは過去の権威的関係は消えているし、また消えていくことでしょう。その象徴として、電子書籍におけるオープンテキストという発想がこれから定着していくといいのではないかと思っています。
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  • 門脇耕三 リオデジャネイロ・オリンピック 都市・建築の舞台裏 (PLANETSアーカイブス)

    2019-08-09 07:00  
    550pt

    今朝のPLANETSアーカイブスは建築学者の門脇耕三さんによる、リオデジャネイロ・オリンピックの都市と建設をテーマにした寄稿をお届けします。民間での再利用を前提とした競技施設が注目を集めていますが、実際に現地ではどのような建造物が建てられているのか。リオ五輪の建築的側面を、ブラジルの都市計画の歴史を踏まえながら解説していきます(本記事は2016年8月19日に配信された記事の再配信です)。
    連日のオリンピック関連の報道で、リオデジャネイロ(以下、リオと略す)の街並みや建物を目にする機会が多くなってきた。夏季オリンピックはこれまで、ヨーロッパで16回、北米で6回、アジアで3回、オセアニアで2回開かれてきたが、南米での開催は今回が初めてであり、その重責を負ったリオは、メキシコシティやサンパウロと並ぶ、南米屈指のメガ・シティでもある。リオは観光地としても世界的に有名だが、地球上での裏側に住まうわれわれにとっては、馴染みがある都市とは言いがたい。そこでこの記事では、リオ・オリンピックをさらに楽しむために、リオの都市計画とオリンピック施設の特徴を解説してみることにしよう。

    ▲リオデジャネイロ(出典)
    ■リオの成り立ちと発展
    リオはポルトガル人によって1502年に発見され、港町として整備されたが、都市としての発展は18世紀前半に内陸部で金鉱が見つかったことが契機となる。金の積出港として栄えだしたリオは、1763年にはブラジルの植民地政庁の所在地(首都)となり、1822年にブラジルがポルトガルから独立したあとも、長らくブラジルの首都として発展する。しかし19世紀中頃までのリオは、まだ小規模な都市に過ぎなかった。当時の人口構成は大半が奴隷で、ごく一部の自由労働者のさらに一部が支配エリート層をなすピラミッド型の社会階層であったが、リオは長い年月をかけて浸食された巨大な奇石がそびえ立ち、低地が丘陵や山で分断される特殊な地形をしているため、すべての社会階層が比較的近接して居住していたという。

    ▲リオのシンボルでもある奇石、ポン・ヂ・アスーカル(出典)
    19世紀末になると、ブラジルの工業化とともに、リオも巨大な労働市場を形成しはじめる。加えて、コーヒー産業の衰退に伴う農村部からの人口流入、帝政ロシアの支配地域で頻発したポグロム(流血を伴う反ユダヤ暴動)から逃れた移民の移入などにより、1872年に27万人だったリオの人口は、1900年には81万人にまで膨らむこととなる。そこで1902年に第5代大統領に就任したロドリゲス・アルヴェスは、都市計画家フランシスコ・ペレイラ・パソスをリオ市長に任命し、リオの都市改造を大規模に進めた。当時採用されたのはフランス式の都市計画であり、旧市街(セントロ)のシネランデア広場とその中心には、パリのオペラ座を模したという市立劇場や、リオ市庁舎、連邦司法文化センター(旧高等法院)など、パソスの主導により整備された新古典主義の建築が軒を連ねている。

    ▲リオデジャネイロ市立劇場(出典)
    当時のリオの人口増加は、1888年の奴隷制廃止も大きな要因のひとつであるが、これを契機に誕生したのが、大量の都市貧困層である。20世紀初頭のブラジル経済は好調であり、この時代には政府主導型の都市政策が数多く実施されたが、その目的は、都市貧困層が不法に立てた小屋が建ち並ぶスラムである「ファヴェーラ」を解消することであった。しかし実際には、貧困層を遠隔地に追いやり、富裕層を優先する都市整備が行われたため、以降のリオには、インフラが充実した富裕層の居住地域である南地域と、インフラが未発達で貧困層が住まう北・西地域に社会階層が分断された都市構造が定着することとなる。

    ▲リオのファヴェーラ(出典)
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  • 【特別寄稿】門脇耕三「リオデジャネイロ・オリンピック 都市・建築の舞台裏」 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.671 ☆

    2016-08-19 07:00  
    550pt
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    【特別寄稿】門脇耕三「リオデジャネイロ・オリンピック 都市・建築の舞台裏」
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.8.19 vol.671
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    今朝は建築学者の門脇耕三さんによる、リオデジャネイロ・オリンピックの都市と建設をテーマにした寄稿をお届けします。民間での再利用を前提とした競技施設が注目を集めていますが、実際に現地ではどのような建造物が建てられているのか。リオ五輪の建築的側面を、ブラジルの都市計画の歴史を踏まえながら解説していきます。
    ▼プロフィール

    門脇耕三(かどわき・こうぞう)
    1977 年生。建築学者・明治大学専任講師。専門は建築構法、建築設計、設計方法 論。効率的にデザインされた近代都市と近代建築が、人口減少期を迎えて変わりゆく姿を、建築思想の領域から考察。著書に『シェアの思想/または愛と制度と 空間の関係』〔編著〕(LIXIL 出版、2015 年)ほか。
    過去のリオ五輪関連記事はこちらから。
    日本人はリオ五輪から何を学ぶべきか――『オリンピックと商業主義』著者・小川勝氏インタビュー
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    『PLANETS vol.9』は2020年の東京五輪計画と近未来の日本像について、気鋭の論客たちからなるプロジェクトチームを結成し、4つの視点から徹底的に考える一大提言特集です。リアリスティックでありながらワクワクする日本再生のシナリオを描き出します。
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    連日のオリンピック関連の報道で、リオデジャネイロ(以下、リオと略す)の街並みや建物を目にする機会が多くなってきた。夏季オリンピックはこれまで、ヨーロッパで16回、北米で6回、アジアで3回、オセアニアで2回開かれてきたが、南米での開催は今回が初めてであり、その重責を負ったリオは、メキシコシティやサンパウロと並ぶ、南米屈指のメガ・シティでもある。リオは観光地としても世界的に有名だが、地球上での裏側に住まうわれわれにとっては、馴染みがある都市とは言いがたい。そこでこの記事では、リオ・オリンピックをさらに楽しむために、リオの都市計画とオリンピック施設の特徴を解説してみることにしよう。

    ▲リオデジャネイロ(出典)
    ■リオの成り立ちと発展
    リオはポルトガル人によって1502年に発見され、港町として整備されたが、都市としての発展は18世紀前半に内陸部で金鉱が見つかったことが契機となる。金の積出港として栄えだしたリオは、1763年にはブラジルの植民地政庁の所在地(首都)となり、1822年にブラジルがポルトガルから独立したあとも、長らくブラジルの首都として発展する。しかし19世紀中頃までのリオは、まだ小規模な都市に過ぎなかった。当時の人口構成は大半が奴隷で、ごく一部の自由労働者のさらに一部が支配エリート層をなすピラミッド型の社会階層であったが、リオは長い年月をかけて浸食された巨大な奇石がそびえ立ち、低地が丘陵や山で分断される特殊な地形をしているため、すべての社会階層が比較的近接して居住していたという。

    ▲リオのシンボルでもある奇石、ポン・ヂ・アスーカル(出典)
    19世紀末になると、ブラジルの工業化とともに、リオも巨大な労働市場を形成しはじめる。加えて、コーヒー産業の衰退に伴う農村部からの人口流入、帝政ロシアの支配地域で頻発したポグロム(流血を伴う反ユダヤ暴動)から逃れた移民の移入などにより、1872年に27万人だったリオの人口は、1900年には81万人にまで膨らむこととなる。そこで1902年に第5代大統領に就任したロドリゲス・アルヴェスは、都市計画家フランシスコ・ペレイラ・パソスをリオ市長に任命し、リオの都市改造を大規模に進めた。当時採用されたのはフランス式の都市計画であり、旧市街(セントロ)のシネランデア広場とその中心には、パリのオペラ座を模したという市立劇場や、リオ市庁舎、連邦司法文化センター(旧高等法院)など、パソスの主導により整備された新古典主義の建築が軒を連ねている。

    ▲リオデジャネイロ市立劇場(出典)
    当時のリオの人口増加は、1888年の奴隷制廃止も大きな要因のひとつであるが、これを契機に誕生したのが、大量の都市貧困層である。20世紀初頭のブラジル経済は好調であり、この時代には政府主導型の都市政策が数多く実施されたが、その目的は、都市貧困層が不法に立てた小屋が建ち並ぶスラムである「ファヴェーラ」を解消することであった。しかし実際には、貧困層を遠隔地に追いやり、富裕層を優先する都市整備が行われたため、以降のリオには、インフラが充実した富裕層の居住地域である南地域と、インフラが未発達で貧困層が住まう北・西地域に社会階層が分断された都市構造が定着することとなる。

    ▲リオのファヴェーラ(出典)


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  • 【いよいよ単行本発売!】今、これからの「カッコよさ」について語るということ(門脇耕三)/ 全文無料公開 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.400 ☆

    2015-09-01 07:00  
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    【いよいよ単行本発売!】今、これからの「カッコよさ」について語るということ(門脇耕三)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.9.1 vol.400
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    デザイナー・浅子佳英さん、建築学者・門脇耕三さんと本誌編集長・宇野常寛による鼎談シリーズ『これからの「カッコよさ」の話をしよう』。この
  • 情報技術とプロダクトが変える世界──「モノ」を中心とした新しいカルチャーの未来(浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛「これからのカッコよさの話をしよう」vol.6) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.388 ☆

    2015-08-14 07:00  
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    情報技術とプロダクトが変える世界──「モノ」を中心とした新しいカルチャーの未来(浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛「これからのカッコよさの話をしよう」vol.6)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.8.14 vol.388
    http://wakusei2nd.com


    デザイナー・浅子佳英さん、建築学者・門脇耕三さんと本誌編集長・宇野常寛の3人による鼎談シリーズ「これからのカッコよさの話をしよう」。いまデザインやライフスタイルが置かれている状況、そしてこれからの展望を考えてきたこのシリーズも今回で最終回となります。そこでこれまでのまとめとして、「インターネット以降のモノとヒトとの関係」という、シリーズ全体を貫くテーマについて改めて議論しました。
    ▼「これからのカッコよさの話をしよう」これまでの記事
    (vol.1)これからの「カッコよさ」の話をしよう――ファッション、インテリア、プロダクト、そしてカルチャーの未来
    (vol.2)無印良品、ユニクロから考える「ライフデザイン・プラットフォーム」の可能性
    (vol.3)住宅建築で巡る東京の旅――「ラビリンス」「森山邸」「調布の家」から考える
    (vol.4)インテリアデザインの現在形――〈内装〉はモノとヒトとの間をいかに設計してきたか
    (vol.5 前編)〈デザイン〉としての立体玩具――レゴ、プラモデル、ミニカー、鉄道模型
    (vol.5 後編)〈デザイン〉としての立体玩具――レゴ、プラモデル、ミニカー、鉄道模型
    【関連イベント開催!】9/1(火)19:00〜もう一度、これからの「カッコよさ」の話をしよう…浅子佳英×門脇耕三×AR三兄弟・川田十夢×宇野常寛×よっぴーが語り合う!

    イベントの詳細はこちらのページから!
    http://peatix.com/event/108418
    ▼プロフィール
    門脇耕三(かどわき・こうぞう)
    1977年生。建築学者・明治大学専任講師。専門は建築構法、建築設計、設計方法論。効率的にデザインされた近代都市と近代建築が、人口減少期を迎えて変わりゆく姿を、建築思想の領域から考察。著書に『シェアをデザインする』〔共編著〕(学芸出版社、2013年)ほか。
    浅子佳英(あさこ・よしひで)
    1972年生。インテリアデザイン、建築設計、ブックデザインを手がける。論文に『コムデギャルソンのインテリアデザイン』など。
    ◎構成:菊池俊輔
    ■ 団塊ジュニア世代とカリフォルニアン・イデオロギー
    宇野 世界的なスローフード&シンプルライフの潮流は、カリフォルニアン・イデオロギーと相性がよかったのは間違いない。それはカリフォルニアン・イデオロギー自体がヒッピーの遺伝子を強く引き継いでいて、消費社会のオルタナティブであったことに起因しているわけですよね。フロンティアのないところ、つまり外部を失った世界で、消費の生む差異だけが価値をも生む消費社会のイデオロギーに対し、サイバースペースというフロンティアを発見することで外部を獲得することが出来たのがカリフォルニアン・イデオロギーだったわけで、そこまではいいのだけど、それが資本主義批判の文脈でスローフード&シンプルライフの潮流と結びつきながらグローバル化していく中で、いつの間にかライフスタイルを画一化し、そして最終的には「自分の肉体を鍛えるのが究極のファッションであり、瘦せすぎていたり太りすぎている人が何を着ても意味がない」とかいう、ナチスも真っ青の五体満足主義まで口にする知識人まで出現するに至ってしまった。
    この「新しい全体主義」の問題は非常に厄介です。なぜならば、この思想は資本主義批判、消費社会批判の文脈の中で生まれたもので、彼らとしてはモノを追いかけて他人に対する差異を生むことに血道を上げる哀しい現代人の生き方を反省し、もっと人間らしい、モノから解放された生き方を求めた結果、ナチス的五体満足主義に帰結してしまっているわけなので。要するにこの問題をとおして、人間の自意識と、人間が市場を通じて生む「モノ」とでは、実は前者が画一的で、後者が多様であることがわかってしまった。
    これは普通に考えれば逆なんですよ。右翼も左翼も、20世紀の知識人たちは消費社会がいきすぎると人間の価値観は画一化していく、みんなディズニーとマクドナルドが好きになって文化の多様性が失われる、だから人間らしさをマーケットから取り戻さなきゃいけないと、ずっと考えていた。そして、そう考えていた人の一部が情報技術でそれを実現したのは間違いない。左翼は認めたがらないと思うけど、これは事実。ただ問題はその先で、そうやって人間を市場から解放してしまったら、実は人間なんて多様でもなんでもなかったことがわかってしまった(笑)。
    一昔前は、いや、まだまだたくさんいるんだけれど、文化左翼たちがマクドナルドとユニクロを批判しながら、「私はグローバル資本主義に流されず個性的な自分を維持していますよ」と、みんな同じようなキャラで売っていた。つまり、一見多様だけれど自意識としては画一的なスタイルを選択していたわけですよね。いわゆる「個性的な私という没個性的な自己表現」を一様に選択していた。その結果、彼らの文化もどんどんテンプレート化していって、それが、まあハッキリ言えばカッコ悪く見えて、若い世代から支持されなくなっていった。そして今は、ノームコアに身を包んだ情報化された人々が「一様にナチュラルな」スタイルを選択して、その延長戦上で五体満足主義を肯定するかのような発言を平気でしてしまうところにまできてしまったわけです。
    浅子 いま振り返ると2008年あたりが、ネットがフロンティアだとまだ信じることが出来た最後の年だったと思います。初音ミクがヒットし、WikipediaやUGC(User-Generated-Content)の可能性が語られ、権威的で保守的な上の世代に対して団塊ジュニアやその下の世代は、ネットやITなどの技術を背景に新しい価値観を提示して、いずれは社会をも変えていくだろう、と。ただ、そのようなある種の楽観的なものの見方は、ここ数年で大きく変わりましたよね。要はネットが普及することで、逆にこれまでは見えなかった問題も噴出してきた。
    宇野 インターネットが世界を変えるというビジョンに説得力がなくなったのは、東日本大震災後のインターネットのジャーナリズムの失敗が原因だと思う。「動員の革命」も噓っぱちだったし、「ウェブで政治を動かす」ことも出来なかった。結局ネット右翼と〝放射脳〟がはびこって、ソーシャルメディアはワイドショーの劣化コピーとして、週に1度「空気の読めない」「悪目立ちした」人間を袋叩きにしてスッキリする文化に成り下がっている。そして、「動員の革命」で、「ウェブで政治を動かす」と叫んでいた団塊ジュニアの文化人たちは、最悪な意味で〝第二のテレビ〟と化したTwitter社会において、中立を装いながら上手くいじめる側に回るゲームに明け暮れている。これが日本社会におけるインターネットが、希望ではなく、むしろ失望を生んでいった経緯ですよ。
    ただ僕がここで言いたいのはもうちょっと違う角度からのことで、社会の情報化が人々にモノの所有以外にもカジュアルな自己表現の回路を与えたときに、そこに出現したのはモノの所有を競っていた時代よりも、もっと画一的で凡庸な、しかもそのことに全く気づいていない愚かしい個でしかなかった、ということなんですよね。だから僕は「モノ」を通じて新しい「カッコよさ」を考えることが必要だと思ったわけです。
    門脇 人間生来の感覚的なレベルでの一元性、そこにポリティカル・コレクトネス(公平・中立で、かつ差別や偏見がない言葉や表現を推奨する運動)が奇妙に結びついて、ファシズム的な全体性を生んでいる。そういう状況に対して、いかに「カッコよさ」を対置していくかが、この連載の本質的な問題意識でした。この構図の前提には、「カッコよさ」が人間の生得的・生物学的本質からは一意に導けないという仮定がある。つまり「カッコよさ」は、社会や時代の状況に依存する、極めて文化的な産物だということですね。当たり前のことかもしれませんが、だからこそ、これからの「カッコよさ」を考えることに意味が出てくる。新しい「カッコよさ」は、来るべき社会の到来を実現する原動力にもなり得るからです。 
    この連載では、ファッション、建築、インテリア、フィギュアなど、さまざまなプロダクトを取り巻く現代的な「カッコよさ」について考えてきましたが、たびたび話題に上がったのが、「プラットフォームとコンテンツ」という構図でした。この構図は、インターネットの登場によって大きく浮上してきたものだと理解してよいでしょう。
    ■ プラットフォーム対コンテンツという隘路
    浅子 「ニコニコ動画」も「YouTube」もそうだけど、結局ネットはプラットフォームの思想ですよね。基本的にフリーであることが重要なので、プラットフォームに対価を払うことはあってもコンテンツにはほとんど支払われない。完全にデータのやり取りだからいくら複製しても劣化はなく、オリジナルとコピーの問題も変容する。そこではどうしたって、あらゆるコンテンツは無料でユーザーが勝手につくるものだという思想が支配的になってくる。結果、プラットフォームだけが重要になる。
    宇野 身も蓋もないことを言うと、ソーシャルメディアは横のつながりを広げることで、ごく普通の人たちの発言力を強化する仕組みですよね。その結果、日本では全くロクなことにならなかった。ブログからは何も生まれなかったし、Twitterにはワイドショー的なイジメ文化、Facebookにはスノッブな自慢文化しかなくなってしまった。
    数少ない成功例が「ニコニコ動画」だと思う。あれは日本的なムラ社会に本来馴染まない競争原理を注入するとか、Google検索に意図的に引っかからなくする、つまりあえてクローズドにするとか、さまざまな工夫を駆使してボトムアップで才能を発掘することに成功していたと思う。ただ、「ニコニコ」はマーケティングの問題もあって、その力が及ぶ世代とジャンルはかなり限定されている。
    浅子 そこで、「コト」ではなく「モノ」によって、いかに人々を攪乱していくか、欲望を刺激していくかという話が重要になってくる。
    門脇 「コト」の抽象性、形のなさというのは、どうしても「気持ちよさ」や「正しさ」に向かいやすい。それに対抗するための「モノ」という発想ですね。つまり、だんだんと明らかになってきた人間の一元性を乗り越え、舞台の上での振る舞いに多様性を回復させるためには、アイコン的な意味での「モノ」が必要なんじゃないか。プラットフォームに「モノ」が乗っていないと、それを巻き込むような渦は生まれないし、抽象的な「コト」のレベルで考えている限り結論は一つにならざるを得ない。それが、プラットフォーム主義が陥りやすい一つの罠なんでしょう。
    宇野 僕は、プラットフォーム対コンテンツという問題設定は間違っていると思う。そんなものは疑似問題で、結局プラットフォームはコンテンツが生まれる環境を整えることしか出来ないし、作家にはどんな時代でも今ある創作環境、つまりプラットフォームをどう利用して、ハックして、内破して面白いものをつくるのか、という問題があるだけでしょう。プラットフォームに支配された現代における作家性、とかいうことを議論したがるのは才能のない作家が作家の自意識論に逃避しているだけだと思う。
    それよりも、僕らは端的に情報技術の発展で次に何が出来るようになるのかを今から考えたほうがいい。だからこのシリーズでは、「モノ」についてずっと考えてきた。現代のソーシャルなプラットフォームが人間を解放すると、むしろ人間の画一性がむき出しになる、だから「モノ」の多様性が必要だ、という議論もそうなのだけど、これからはもっと端的にソーシャルに人間同士をつなぐIoH(Internet of Humans、ヒトのインターネット)からIoT(編注:Internet of Things、モノゴトのインターネット。IT関連機器だけでなく、自動車や家電、その他デバイスをインターネットに接続し、それらを介することによって利用者の使用環境や行動、その変化をもインターネットに接続する技術の総称)に技術発展の力点は移動していって、この流れが世界を変えていく時代になるわけじゃないですか。
    門脇 プラットフォーム主義の上書き、要はアップデートですね。
    宇野 例えば、パソコンのディスプレイの内部でプラットフォームの覇を競うゲームが飽和したときに、iPhoneという「モノ」の再発明によって突破口を開いたのがAppleだった。ここでのiPhoneはプラットフォームであると同時にコンテンツでもある。「モノ」の価値の再評価はプラットフォーム主義の正しい発展として、ここ数年、自然発生的に起きている。この流れを、どう周辺ジャンルに応用して考えていくのかが大事なんじゃないかな。
    浅子 プラットフォームの思想を建築に置き換えると、それこそApple Storeが一番わかりやすいんですが、ミニマルで、シンプルで、すべてのものが等価に並んでいるものがいまだに「善」とされています。だけどApple Storeは時間軸に対しての考え方がないですよね。本当だったらプラットフォームにはいろんなコンテンツが入る可能性があるわけで、変化したら追随できるようにもつくらないといけない。だけど、Apple Storeはそういうふうにはデザインされていない。
    建築をプラットフォームとしてつくることにはこれと同じ問題があって、あらゆるコンテンツを許容できますよ、と言えば聞こえはいいけれど、コンテンツはプラットフォームの下位に位置づけられたまま両者が拮抗することがないので、どうしても何もない最初の状態が最も美しくなるようなものをつくってしまう。いつまで経っても時間的な思想を内包できない。
    宇野 すべてのインターネットのコンテンツ、ウェブサイトは「永遠のβ(ベータ)版」なわけで、これはネットサービスの基本であり、プラットフォームの定義に近いものだと思う。ただ、同じようなことを建築でやろうとすると、コスト的に難しいという問題がある。
    浅子 そう、だからまさに「永遠のβ版」、ずっと改装を続ける家とか、そういうものがプラットフォームとして正しい姿だと思うんです。例えばカリフォルニアにフランク・ゲーリーという、ビルバオのグッゲンハイム美術館をつくった世界的に有名な建築家の自邸【図1】があります。これは20世紀につくられた住宅の中でも、特に名作だと言われているものなんですが、カリフォルニアによくあるごくごく普通の建て売り住宅の外側に、これまたその辺にありふれているけれど住宅では使われていなかった金網や波板などを張り巡らせてわけのわからない空間にした、とても面白い作品です。
    もともと外壁だった場所には窓がそのまま残されているので、中なのか外なのか、そもそも出来上がっているのかどうかさえパッと見にはわからない(笑)。そして、ゲーリーはメディアへ発表する際に「カリフォルニアの既存住宅の改装。私の住まいであるこの建物は今後も手が入れられていき、そしていつまでも完成しない」とハッキリ書いている。非常に生き生きとした自由な空間で、コンテンツとしての魅力もあるし、どんどんハッキングして変えられていくという意味では、住宅としての用途の変化への対応、例えば子供が成長したら部屋をつくり替えるといったことも出来る。こういう「永遠のβ版」と自ら宣言している、ある意味でネット的な、新しいプラットフォーム的な住宅がアメリカの西海岸から生まれたのは非常に示唆的ですよね。この鼎談の第3回で紹介した「調布の家」なんかは、もろにこういった作品の影響を受けています。

    【図1】カリフォルニアの「フランク・ゲーリー邸」
    出典(https://en.wikipedia.org/wiki/Gehry_Residence#/media/File:Gehry_House_-_Image01.jpg)
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  • 【後編】〈デザイン〉としての立体玩具――レゴ、プラモデル、ミニカー、鉄道模型(浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛「これからのカッコよさの話をしよう」vol.5) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.373 ☆

    2015-07-24 07:00  
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    【後編】〈デザイン〉としての立体玩具――レゴ、プラモデル、ミニカー、鉄道模型(浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛「これからのカッコよさの話をしよう」vol.5)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.7.24 vol.373
    http://wakusei2nd.com


    本日は、好評の鼎談シリーズ「これからのカッコよさの話をしよう」第5弾の後編をお届けします(前編はこちらから)。今回は、奇形的な進化を遂げた立体玩具の「フィクショナルなデザイン」をヒントに、ドローンや車など「リアルのデザイン」の未来を考えていきます。
    ▼「これからのカッコよさの話をしよう」これまでの記事
    (vol.1)これからの「カッコよさ」の話をしよう――ファッション、インテリア、プロダクト、そしてカルチャーの未来
    (vol.2)無印良品、ユニクロから考える「ライフデザイン・プラットフォーム」の可能性
    (vol.3)住宅建築で巡る東京の旅――「ラビリンス」「森山邸」「調布の家」から考える
    (vol.4)インテリアデザインの現在形――〈内装〉はモノとヒトとの間をいかに設計してきたか
    ▼プロフィール
    門脇耕三(かどわき・こうぞう)
    1977年生。建築学者・明治大学専任講師。専門は建築構法、建築設計、設計方法論。効率的にデザインされた近代都市と近代建築が、人口減少期を迎えて変わりゆく姿を、建築思想の領域から考察。著書に『シェアをデザインする』〔共編著〕(学芸出版社、2013年)ほか。
    浅子佳英(あさこ・よしひで)
    1972年生。インテリアデザイン、建築設計、ブックデザインを手がける。論文に『コムデギャルソンのインテリアデザイン』など。
    ◎構成:有田シュン、中野慧
    ■ 80年代以降、日本のサブカルチャーは「ベースデザイン」を生んでいない
    宇野 僕が今日考えたい3つの論点を振り返ると、まず一つ目は「20世紀には現実の縮小を欲望していた人類が、21世紀にそれらを欲望しなくなっていったのはなぜか」。二つ目は、こうした戦後日本の、特にキャラクター文化のベースデザインが60年代から80年代に集中しているのはなぜか。そして最後の三つ目が、「戦後的な男性性の問題が解消された結果として、奇形的な進化を遂げたデザインをどう評価するか」です。
    浅子 一つ目と二つ目については、やっぱり「未来に対する明るい希望を信じられた時代だった」という部分が大きいんじゃないですか?
    宇野 例えば、成田亨により60年代に生み出されたウルトラ怪獣って、ストレートに明るい未来を信じるフューチャリズムの感覚とつながっているとは思えないわけですよ。ウルトラマンの方の造形はフューチャリズムと結びついていると思うけれど、怪獣には当てはまらない。むしろ戦後復興から高度成長への狂騒の中で発生したひずみや余剰が、サブカルチャーの片隅に集中していたと考えた方がいい。もっと大きな、社会と暴力のイメージや男性性の関係の問題があると思うんですよね。それも、かなり日本ローカルな問題がある。戦後的ネオテニー・ジャパンの表現が幼児的な文化を発展させた、といった教科書的な解説には収まらないものが、ゼットンにもキングジョーにもジャミラにも恐竜戦車にもあると思う。
    浅子 僕がもうひとつ気になるのは、三つ目の「奇形的な進化」が、なぜ現実におけるプロダクトデザインも含めた「デザイン」全体の本流にはならなかったののか、という問題です。
     70年代末の『ガンダム』がベースデザインとなりえたのは、後になってフォロワーがどんどん出てきたからですよね。同じように、ウルトラマンで言えば成田亨がウルトラマンをスケッチブックに描いた瞬間にベースデザインになったのではなく、その後のフォロワーが生まれていく過程で、徐々にベースデザインとなっていったのだと思います。
     話を少し迂回しますが、建築デザインの世界では、ここ50年くらいのあいだ、「建築家から新しい都市のヴィジョンが提案されて盛り上がる」ということがほぼなくなりました。キャラクターデザインも同じで、蛸壺化された社会では、誰かが提示した新しいヴィジョンを、みなで広く共有することができなくなったいうことでもあるんじゃないですか。
    門脇 ベースデザインという意味で示唆的なのは、アノマロカリス(古生代カンブリア紀前半に繁栄した捕食性動物)に代表されるバージェス動物群です。バージェス動物群には、口がカメラのシャッターのような機構をした動物など、それ以降の時代には見られないデザインをした変な生物がたくさんいるんですね。そのベースデザインの多様さは圧倒的なのですが、その後、たまたま脊椎動物に連なる生物が生き残って、両生類や爬虫類、哺乳類のベースデザインになりました。

    ▲バージェス動物群の代表格のひとつ「アノマロカリス」(【最強最大の捕食者】アノマロカリスという大スター【カンブリア紀の覇王】 より)
     脊椎動物が5本指をしているというのは、最初に両生類の指が5本になって、それ以降は基本的にまったく変化していないんです。1回ベースデザインができてしまうと、そのベースのなかで進化していくわけです。しかしベースデザインができる前は、バージェス動物群のようにそもそものベースデザインのバリエーションがたくさん出てきていた。さらに言えば、脊椎動物系が生き残ったのはあくまでも偶然であって、合理的な選択の結果ではないんです。
     こうして考えていくと、「60~70年代はベースデザインのない時代だった」と言えるかもしれません。だからこそたくさんの実験的なデザインが花開いたのではないか、と。たとえば『ウルトラマン』なら、隊員が巨大化して怪獣と戦うという新しいベースデザインがここで生み出されたということではないでしょうか。
    浅子 ベースデザインとして残ったものが、必ずしもプラットフォームとして優れていたわけではないということですよね。
    宇野 たしかに、ジャンルの勃興とともにベースデザインは生まれるものなんですよ。特撮が生まれたから成田亨のベースデザインが生まれ、乗り物としてのロボットが発明されたからこそガンダムがベースデザインになった。要するに「近年はジャンルを作ることができていない」ということに収斂されていくんじゃないですか。
     60~70年代にアメリカのサブカルチャーの受容とそのローカライズに基本作業は完了してしまっていて、それ以降サブカルチャーはベースデザインの枠内での進化を遂げていったわけです。80年代以降にジャンルそのものとして新たに生み出されたものは「テレビゲーム」ぐらいしかない。
    浅子 しかし、そう考えると、特撮はこれまで人間が怪獣の着ぐるみに入っていたものが、CG全盛に変化したんだから、全く違うものが生み出されていてもおかしくないですよね。にも関わらず、新しいものが出てきていないのはなぜなのでしょう?
    宇野 技術の進歩とジャンルの創出は、それほど相関していないんじゃないかと思います。円谷英二が『ウルトラマン』を撮影したときの特撮の技術はほぼ戦中に開発されていて、その技術を「テレビ番組として毎週一本作る」というフォーマットに合わせてはじめて『ウルトラマン』が生まれた。ジャンルの創出には技術の進歩よりもむしろ、メディア的な要請のほうが要因として大きい。
    浅子 海外の映像業界で言えば、特に『24』以降、「テレビドラマ」がこれまでとは違う意味で勃興してきたと言えるとは思います。だけどテレビドラマという形式自体は昔からあるものなので、現代のテレビドラマの特徴は、予算や時間など様々な制約のために映画ではできないことを、テレビドラマという旧いフォーマットを再利用して新しい表現形式でやっている点にある。ただ、これだけでは「ジャンルを生み出した」とまでは言えないですよね。
    門脇 ベースデザインを変えるのはものすごくエネルギーが必要ですが、今あるベースを開発側が改変し、二重三重にひねくれたストーリーを考えて、各世代の好みに合わせていく「コンテンツデザイン」は比較的エネルギーが少なくて済むというのはあるんじゃないですか。ハリウッドの映画と海外ドラマの関係もそうですし、もともとのロボットアニメである『ガンダム』シリーズと、その奇形的進化であるSDガンダムの関係などもそうなんじゃないかな、と思います。
    ■ キャラクターを現実の風景と対決させることによってベースデザインが生まれる
    門脇 初期の『ガンダム』のモビルスーツは兵器であるという側面が強くあったと思うのですが、SDガンダムはそのエッセンス自体もなくなっていて、ベースとして残っているのは人型のロボットということくらいですよね。
    宇野 ガンダムってそもそも基本的には重火力型ではなくて、高機動型でスマートなんですよ。つまりストレートにマッチョで力強いものではなく、むしろスピード重視の高機動なもので、これって日本人の文化的でインテリ寄りの男性の自意識に結びついていたと思うんです。
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  • 【前編】〈デザイン〉としての立体玩具――レゴ、プラモデル、ミニカー、鉄道模型(浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛「これからのカッコよさの話をしよう」vol.5) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.358 ☆

    2015-07-03 07:00  
    220pt

    【前編】〈デザイン〉としての立体玩具――レゴ、プラモデル、ミニカー、鉄道模型(浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛「これからのカッコよさの話をしよう」vol.5)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.7.3 vol.358
    http://wakusei2nd.com


    本日は、好評の鼎談シリーズ「これからのカッコよさの話をしよう」第5弾です。今回は、宇野常寛プレゼンツのスケールモデル/キャラクターモデル論。模型やレゴ、キャラクターモデルなどの立体製作物から、現代における「モノ」=コンテンツを考えていきます。(今回は前編を配信します。後編は近日中に公開予定!)
    ▼「これからのカッコよさの話をしよう」これまでの記事
    (vol.1)これからの「カッコよさ」の話をしよう――ファッション、インテリア、プロダクト、そしてカルチャーの未来
    (vol.2)無印良品、ユニクロから考える「ライフデザイン・プラットフォーム」の可能性
    (vol.3)住宅建築で巡る東京の旅――「ラビリンス」「森山邸」「調布の家」から考える
    (vol.4)インテリアデザインの現在形――〈内装〉はモノとヒトとの間をいかに設計してきたか 
    ▼プロフィール
    門脇耕三(かどわき・こうぞう)
    1977年生。建築学者・明治大学専任講師。専門は建築構法、建築設計、設計方法論。効率的にデザインされた近代都市と近代建築が、人口減少期を迎えて変わりゆく姿を、建築思想の領域から考察。著書に『シェアをデザインする』〔共編著〕(学芸出版社、2013年)ほか。
     
    浅子佳英(あさこ・よしひで)
    1972年生。インテリアデザイン、建築設計、ブックデザインを手がける。論文に『コムデギャルソンのインテリアデザイン』など。
     
    ◎構成:有田シュン、中野慧
    ◎撮影:編集部
     
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  • インテリアデザインの現在形――〈内装〉はモノとヒトとの間をいかに設計してきたか(浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛「これからのカッコよさの話をしよう」vol.4) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.325 ☆

    2015-05-19 07:00  
    220pt
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    インテリアデザインの現在形――〈内装〉はモノとヒトとの間をいかに設計してきたか(浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛「これからのカッコよさの話をしよう」vol.4)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.5.19 vol.325
    http://wakusei2nd.com


    本日のメルマガは、浅子佳英さん、門脇耕三さん、宇野常寛による好評の鼎談シリーズ「これからのカッコよさの話をしよう」第4弾です。今回のテーマはインテリアデザイナー/批評家である浅子さん企画による「インテリアデザインの現在」。最新のショップデザインひしめく表参道・中目黒を巡り、リノベブーム以降のインテリアデザインを考えます。

     
    ▼これまでの記事
    (vol.1)これからの「カッコよさ」の話をしよう――ファッション、インテリア、プロダクト、そしてカルチャーの未来
    (vol.2)無印良品、ユニクロから考える「ライフデザイン・プラットフォーム」の可能性(「これからの『カッコよさ』の話をしよう」第2弾)
    (vol.3)住宅建築で巡る東京の旅――「ラビリンス」「森山邸」「調布の家」から考える(浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛「これからのカッコよさの話をしよう」第3弾) 
     
    ▼プロフィール
    門脇耕三(かどわき・こうぞう)
    1977年生。建築学者・明治大学専任講師。専門は建築構法、建築設計、設計方法論。効率的にデザインされた近代都市と近代建築が、人口減少期を迎えて変わりゆく姿を、建築思想の領域から考察。著書に『シェアをデザインする』〔共編著〕(学芸出版社、2013年)ほか。
     
    浅子佳英(あさこ・よしひで)
    1972年生。インテリアデザイン、建築設計、ブックデザインを手がける。論文に『コムデギャルソンのインテリアデザイン』など。
     
    ◎構成:中野慧
    ◎撮影:編集部
     
     
     ある春の晴れた日の午後、浅子佳英さん、門脇耕三さん、宇野常寛の3人はデザインとインテリアのメッカ、表参道に降り立ちました。
     

    ▲表参道の交差点。収録当日は天気にも恵まれていました。
     
     浅子さんの案内のもと一行がまず向かったのは、イソップ青山店。
     

    ▲イソップ 青山店
     
     〈イソップ〉はオーガニックなスキンケア、ヘアケア、ボディケア製品を販売し世界的に人気を得ているオーストラリア・メルボルン発のブランド。この青山店は日本初のショップで、建築家・長坂常さんのデザインによるもの。元あった内装を引き剥がし、スケルトンにして空間を広く使ういわゆるリノベーションなのですが、壁や天井は塗装すらされておらず、別の場所で解体された住宅の廃材や家具を再利用しているのが特徴です。
     
     そして次に向かったのは、表参道の大通りから少し入った場所にある「イザベル・マラン東京」。
     

    ▲表参道にある「イザベル・マラン東京」
     
     〈イザベル・マラン〉は、フランスのファッションブランド。インテリアデザインはフランスの若手建築家集団CIGUË(シグー)によるもので、〈イソップ〉同様、もともとあった建物のリノベーション。ファッションブランドとしては珍しく木造の建物の2階をショップにしていて、やはり元々あった内装はすべて引き剥がし、木の軸組は全て露出しています。そこに異素材として、FRP(繊維強化プラスチック)でできた大きな照明やフィッテイングルームが挿入されています。
     
     そして次に訪れたのは、ハイブランドの旗艦店ひしめく表参道の通りに面した〈セリーヌ〉でした。
     

    ▲CELINE(セリーヌ)表参道店
     
     こちらは〈イソップ〉や〈イザベル・マラン〉とは対照的に、床面積も広く2階建てでとても豪華な作りです。〈イザベル・マラン〉と同じくフランスのファッションブランドですが、こちらはどちらかというと昔ながらのハイブランド。〈セリーヌ〉の外観・内装をひとしきり見た後、再び青山方面に向かいました。
     

    ▲途中、話題の「ブルーボトルコーヒー」(写真2F)を通り掛かりましたが人が多かったのと、「まあ、ここはええよ、、」(浅子さん)ということで華麗にスルー……。
     
     そして青山の裏通りの細い道を行くと、そこには何やら要塞のような建物が……。
     

    ▲〈トム・ブラウン〉旗艦店(南青山)
     
     この〈トム・ブラウン〉は、50〜60年代のアメリカ黄金時代やケネディ大統領のファッションにインスピレーションを受けた服を販売するニューヨーク発のブランド。浅子さんによればこの要塞のような外観は、お店の内部を「黄金時代のアメリカ」として演出するため、外界から完全に切断する役割を果たしているのだそう。
     
     表参道・青山エリアでは最後に浅子さんおすすめのブランド〈リック・オウエンス〉の店舗を見学した後、中目黒に移動し、2000年代以降流行したライフスタイルショップの代表格〈1LDK〉へ。そして浅子さんの自宅兼アトリエにて座談会を収録しました。
     

    ▲中目黒にある〈1LDK〉。
     
     
    ■ 9.11/リーマンショック以降のリノベブームと〈中目黒的なもの〉
     
    宇野 今回はインテリアデザイナーを本業とするーー最近は建築家的な仕事、あるいはプロダクトデザイン的な仕事のほうが目立って来ているような気もしますがーー浅子佳英さんプレゼンツによる「東京インテリア巡り」です。まずは企画者の浅子さんから今回の趣旨の説明をお願いします。
    浅子 今のインテリアデザインは「リノベーション」が重要なキーワードになっているのですが、まずはそこに行く前にファッションとの関係から語るのが良いと思います。
     ファッションの世界では数年前から、「ノームコア」という言葉が話題になっています。ノーマルのハードコアという意味なので、そもそも語義矛盾のような言葉なのですが、いわゆる霜降りのジーンズとか白い靴下とか「ちょっとダサい人たちが着る普通の服をオシャレに見せる」というトレンドが生まれました。言ってしまえば「一般人のコスプレ」ですね。アメリカでまず話題になり、昨年あたりから日本でも言葉自体は定着してきました。ただ、これってもともとは様々なファッションの流行が行き着いた先のちょっとスノッブで嫌らしいものなんだけど、それがコピーのコピーのコピーのようなかたちで日本に入ってきた頃には「シンプルで定番の服を着ている人がオシャレなんだ」というような、逆転したかたちで受容されてしまいました。そこで象徴的なキーワードとして「スローフード」や「中目黒」がアイコンになったというわけです。
     今日見たなかでは、最後に行った中目黒の〈1LDK〉がわかりやすい例ですね。ノンウォッシュのジーンズにコットンシャツ、スウェットパンツにNEW BALANCEだったり、黒縁眼鏡にニットキャップなど、形としては普通なんだけど、上質な素材で作られているものだったり、定番品や日常で使えるもの、日々の暮らしで使えるものが逆転して流行のアイテムになっています。いわば「暮らし」がテーマなので食器なども一緒に売っています。
     話は変わりますが、90年代後半から2000年代前半にかけて中目黒がエリアとして急に注目されたことで地価が上がり、それまであった面白い店が出て行ってしまい、ダメな店ばかりが増えて行くという現象が起こりました。
    門脇 中目黒も、それ以前の原宿や代官山と同じような運命を辿ったわけですよね。ジェントリフィケーションによって地価や家賃が上昇して、実験的なショップを構えることのリスクが相対的に高くなってしまうという。そうなると、「その街のイメージ」を安易にコピーして貼り付けたようなショップが増えていきます。
    浅子 まさにそういう話で、〈1LDK〉はそんなふうに中目黒が駄目になったあと、メインの川沿いではなく裏通りに出店し、いわば中目黒が復活するための下支えをしたような店なんですね。そういう経緯もあって、僕は〈1LDK〉自体はとても好きなんですが、最近の中目黒周辺には、そのコピーのコピーのような感じでニット帽と食器を売るライフスタイル系のお店ばかりになっています。また同じ事を繰り返している。
     

    ▲〈1LDK〉の内装。シンプルでベーシックなアイテムが並んでいます。
    画像出典:http://1ldkshop.com/shop_info
     
    宇野 こんなこというとおしゃれな自意識をもった皆様方に怒られそうだけど、中目黒のああいったお店で売っているようなすごくシンプルな定番アイテムや、ライフスタイル系の食器とかって、無印良品で十分じゃない? って思ってしまうんだけど……。
    浅子 (笑)たしかにそのとおりで、ひとつひとつのアイテムを見たら普通のものばかりで、それをちょっとオシャレっぽくレイアウトしているだけに見えますよね。もちろん、それぞれの商品にもその文脈を知っている人には読み取れる違いがきちんとあるのですが、その差異は「サードウェーブ系男子」で話題になったおぐらりゅうじ氏も指摘しているように、NBの生産国の違いなど、外から見ればごく小さなものです。
     さらに重要なのは、その定番アイテムを細かく読み解いていくと、ジーンズにしてもニットキャップにしても、スニーカーにしてもすべて元々はアメリカの大量生産品だということです。なので、これらは元を辿ると、9・11やリーマン・ショックでアメリカが自信をなくしていくのと並行して進んだ現象だと思っています。つまり、未来志向でどんどん新しいものを生み出すのではなく、「古き良きアメリカを取り戻したい」という欲望の現れです。その象徴としてひとつ挙げられるのが、表参道で見た〈トム・ブラウン〉のようなブランドではないかな、と。
     

    ▲トム・ブラウン青山店の内装。50〜60年代の「古き良きアメリカ」を忠実に再現している。
    画像出典:トム ブラウン世界2店舗目の旗艦店公開 イメージはオフィス | Fashionsnap.com 
     
    宇野 なるほど! 2000年代にピクサーがCGアニメーション映画でやっていたような「古き良きアメリカ的男性性の回復」というノスタルジー消費が、ファッションやショップデザインの文脈でも起きていたというわけだよね。
    浅子 そうなんですよ! そもそも今のリノベーションブームには、シアトル発でポートランドやニューヨークにも出店して人気となった「エースホテル」が大きな役割を果たしています。それこそ、セコハンで買った大量生産品の古き良きアメリカの家具だったり、あまり作りこんでいないDIY的な内装のホテルで、すごく人気が出たんです。
     

     

    ▲アメリカ西海岸、オレゴン州はポートランドにある「エースホテル」。ちなみにポートランドは、「ブルーボトルコーヒー」を代表格とする「サードウェーブコーヒー」の発祥地でもあります。(この流れについて詳しくは佐久間裕美子さんの著書『ヒップな生活革命』(朝日出版社)をご参照ください)
    画像出典:http://www2.acehotel.com/ja/brochures/portland/
     
     僕自身は〈トム・ブラウン〉もエースホテルもとても好きなんですが、その劣化コピーの劣化コピーになってくると「古いものをそのまま使うのはいいことなんだ」というようなとてもベタな需要の仕方になってしまう。洋服で言うならノームコアのように「長く使える定番品を着ることが消費社会への抵抗なんだ」というような変な受け取られ方をしてしまう。
     でもこのままだと何も新しいものが生み出されません。この流れにどうやって対抗していくか、というのがここ5~6年のデザイン界のテーマだと僕は思っています。そのための対抗策のひとつとして「ラグジュアリーなもの」をどうやって現代的に表現していくか、というのがあるんじゃないか。ひとつは、最初に見た青山の〈イソップ〉を手掛けた長坂常さんのように、元々あった空間や物の意味を転換させるというのがありますね。
     

    ▲「イソップ 青山店」の内装
    画像出典:http://www.aesop.com/jp/article/aesop-aoyama-jp.html
     
     また、その次に見た〈イザベル・マラン〉では、古い建物をそのまま生かしつつも、FRPのようなハイテクな素材を混ぜたりして異種混合戦のような面白い空間をつくろうとしています。
     

    ▲「イザベル・マラン東京」の内装。もともとあった建物の骨組みを剥き出しにつつ、ブティック的な清潔感・高級感も同時に演出している。
    画像出典:http://www.isabelmarant.com/jp/stores/asia/japan/tokyo/1366-shibuya-ku.html
     
     さらに違う方向性だと、表参道で見た〈セリーヌ〉のように、箱自体はすごくシンプルなのに、ひとつひとつの作りが超絶豪華で見たことのない素材の使い方をするというものもあります。今の時代は、奇抜な形態のものばかりを並べるとウソっぽくなりすぎて醒めてしまう。だから大前提としてシンプルであることは引き受けつつ、そこにどういう介入や新しい提案ができるのかというのが、今の時代のインテリアデザインの課題なんじゃないかと思っています。
     

    ▲「セリーヌ表参道店」の内装。OSB(木材をチップ状にして固めた合板)などの安価な素材から大理石まで、さまざまな材料をミックスした什器が使われている。
    画像出典:https://www.celine.com/jp/celine-stores/asia-pacific/japan/tokyo/omotesando
     
     
    ■ 暫定一位としての〈セリーヌ〉
     
    宇野 今日見たいくつかのお店は、要は20世紀的なものを批評的に表現しているわけですよね。〈イザベル・マラン〉なら、20世紀半ばまでの工業社会がテーマで、そのために当時つくられたもともとの建物に機能として必要とされていた柱や配線をあえて剥き出しにすることで内装にしている。そしてもちろん、それだけだと単なる乱雑なものになってしまうから、配線をきっちりしたり新しい素材を入れ込んだり、色んな介入を行うことによってデザインとして完成している…って理解でいいですか?
    浅子 イザベル・マランというブランド自体は、工業社会が前面的なテーマになっている訳ではないと思いますが、インテリアをデザインしているシグーは自分たちで工房を持ち、本国のフランスでは手作業も行なっているので基本的にはその理解でいいと思います。
    宇野 一方で〈トム・ブラウン〉は2000年代のピクサーのように、黄金時代アメリカの「古き良き男性性」を現代的な感覚のなかで利用していくというものだろうし、〈セリーヌ〉はバブリーな贅沢さを、今の感覚で見てもダサくならないようにシンプルの中に過剰さを埋め込んでいる。今日見て回って、なんとなくこれくらいのことは想像がついたのだけど、浅子さん自身が今日見たなかで一番評価が高いのはどこなんですか?
    浅子 今のところは〈セリーヌ〉ですね。その理由は、現代的な潮流に合わせてリノベーション的な感覚を前面化するだけではなく「ラグジュアリー」について最も真剣に取組んでいるように見えるからです。
     また、〈セリーヌ〉にはもう一つ文脈があって、実は現在の〈セリーヌ〉表参道店は、これまでに改装を3回しているんですね。そもそも〈セリーヌ〉は老舗ブランドのひとつなわけですが、欧米の老舗ブランドって1990年頃から、そのままでは生き残れないからと新しいクリエイティブ・ディレクターを登用するようになりました。有名なのは〈シャネル〉のカール・ラガーフェルド、もうやめてしまいましたが、〈ルイ・ヴィトン〉のマーク・ジェイコブスなどです。
     そのような流れの中、〈セリーヌ〉も、2008年からフィービー・フィロという女性デザイナーをクリエイティブ・ディレクターに登用し、そのときにパリと東京のショップデザインも変えました。フィービー・フィロはこの時の改装も担当しているんですが、それらは、元あったインテリアをほぼそのまま残し、プラスターボード(石膏を紙で固めた下地材として使われる最も安価な材料)を仕上げとして、しかも嫌味たっぷりに裏返して使っていたのです。要はわざと工事中のような表層にしつつも、中の什器や服は今のように優雅でたっぷりと並べられていた。これってマダムが買うような高級ブランドとしてはありえないことで、もうそれだけで事件だったんですよ。
     そして昨年、2014年に今のようなシンプルでありつつラグジュアリーなお店に改装したのですが、お客さんからすると仮設のようなショップのあとにあれを見せられるわけで、驚きもより大きくなる。その2つの物語をつくったから〈セリーヌ〉は面白いと思うんですよね。
    門脇 僕も〈セリーヌ〉は素直に良いなと思いました。現代のデザインって虚構だけでは成立しないんですよね。「自分でばしっとキメながら、自分でツッコむ」というようなメタ視点がないと面白くない。〈セリーヌ〉はまさに、ラグジュアリーなものを作っておいて「全部ハリボテですよ」というネタばらしみたいなことをやっている。
     今日見たものはショップデザインで、10〜20分ぐらい居る場所だから、その中で長い時間を過ごす建築デザインの分野ではあまり参考になる感じではないんですけど、短時間しかいないとはいえ、キメキメのデザインをして「これかっこいいだろ!」っていうのは今はもう無理なんだなと改めて思いました。そこに酔いきれずに冷めた目をしているもう一人の自分を発見してしまって、居心地の悪い気分になる。
    宇野 僕が今回見たなかで一番辛いなと思ったのって〈トム・ブラウン〉なんですよね。あれぐらいテーマパークにしてしまうと、もちろん洗練されているんだけど、観光で鎌倉の大仏を見に行くような感覚でしかアクセスできない。
     その点、〈イザベル・マラン〉はシンプルライフ&スローフードの現代的な感覚に寄せるという点ではよくできていると思う。浅子さんも門脇さんも嫌いかもしれないけれど、あれって20世紀半ばまでの工業社会のイメージのパロディであると同時に、インテリアとしては最低限におさめて、つまり柱や配線自体をインテリアにするだけにとどめて、あとはただひたすら棚と台があって、そこにはどんな商品でも並べられるようにしてある。そして半分はその並べた商品のカラーで店の雰囲気が決まるわけだから、これは意外とどんなライフスタイルや文化、具体的には商品も許容できる内装だと思うんです。実際、ああいう内装のヴィレッジ・バンガードもあれば自然食の店もあるわけでしょう?
     

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  • 住宅建築で巡る東京の旅――「ラビリンス」「森山邸」「調布の家」から考える(浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛「これからのカッコよさの話をしよう」第3弾) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.284 ☆

    2015-03-18 07:00  
    220pt
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    住宅建築で巡る東京の旅――「ラビリンス」「森山邸」「調布の家」から考える(浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛「これからのカッコよさの話をしよう」第3弾)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.3.18 vol.284
    http://wakusei2nd.com


    本日は、好評の「これからのカッコよさの話をしよう」第3弾をお届けします。今回のテーマは「住宅建築」。浅子佳英さん、門脇耕三さん、宇野常寛の3人で、東京にある3軒の住宅建築を巡りながら「住まい」のデザインと機能について考えました。
    ▼これまでの記事
    ・これからの「カッコよさ」の話をしよう――ファッション、インテリア、プロダクト、そしてカルチャーの未来
    ・無印良品、ユニクロから考える「ライフデザイン・プラットフォーム」の可能性(「これからの『カッコよさ』の話をしよう」第2弾)
     
    ▼プロフィール
    門脇耕三(かどわき・こうぞう)
    1977年生。建築学者・明治大学専任講師。専門は建築構法、建築設計、設計方法論。効率的にデザインされた近代都市と近代建築が、人口減少期を迎えて変わりゆく姿を、建築思想の領域から考察。著書に『シェアをデザインする』〔共編著〕(学芸出版社、2013年)ほか。
     
    浅子佳英(あさこ・よしひで)
    1972年生。インテリアデザイン、建築設計、ブックデザインを手がける。論文に『コムデギャルソンのインテリアデザイン』など。
     
    ◎構成:中野慧
     
     
     「これからのカッコよさ」鼎談シリーズ第3弾となる今回は、門脇さんの発案で、都内にある3軒の有名住宅を一日かけて周りました。最初に訪れたのは80年代の集合住宅の代表作のひとつである、杉並区下井草の「ラビリンス」。そして90年代から00年代的方法論の最高傑作とされる「森山邸」を訪れ、その後はJR南武線に乗って多摩地区に向かい、2010年代的なリノベーション住宅である「調布の家」を訪れました。それぞれの時代精神を象徴する3つの住宅から見えてきた、これからの「住まいとライフスタイル」が向かうべき未来とは――?
     
    当日の宇野のツイートはこちらから。
    http://twilog.org/wakusei2nd/date-150122
     
     
    ■周辺環境からの〈切断〉と内部への〈演出〉――80年代の「ラビリンス」(杉並区井草/設計:早川邦彦建築研究室、1989年)
     
    宇野 今日のテーマは「建築めぐり」ということですけど、まずこのコンセプトメイクをした門脇さんから今日の趣旨説明をお願いします。
    門脇 今日は80年代、90年代から00年代、2010年代の各年代の建築デザインを代表するような、現在でも「カッコいい」と思える3つの有名な住宅建築を周りました。建築にはヒトの生き方そのものをデザインするようなところがあるので、いつの時代も「カッコイイ生き方・ライフスタイルとはどういうものか」を考えているところがあるんだけれども、その「カッコよさ」がどんな世界観・空間観に基づいているのかを紐解きつつ、そもそも各時代の「カッコよさ」が、周辺領域のどういう文化と関連しながら形成されていったのかも考えていきたいと思っています。
     最初に行った「ラビリンス」は、80年代トレンディドラマの代表格である『抱きしめたい!』(1988年放映、フジテレビ系)で、主演のW浅野(浅野温子・浅野ゆう子)のうち、浅野温子のほうが住んでいたマンションを設計した早川邦彦さんの作品なんですね。そのマンション(=「アトリウム」)は中野区にあったんですが、すでに取り壊されてしまっていることもあって、下井草にあるこの「ラビリンス」を訪れることにしました。これはいわば「デザイナーズマンションの走り」ですね。
     

    ▲「ラビリンス」の外観。中庭を囲むように敷地の周縁部に建物が配置されています。
    (写真提供:早川邦彦建築研究室)
     

    ▲フジテレビ開局50周年記念DVD 抱きしめたい! DVD BOX
     
    浅子 「アトリウム」も、この「ラビリンス」と同じくパステルカラーが全面的に使われているのですが、さらに尖った色とデザインで水盤まであったんですよ。あそこまで作り込んだ外部空間は中々ないのでもう一度見たかった! 最近は80年代的なもののリバイバルがあり、それこそ復活したKENZOにはとても似合ったはず。なくなったのがとても残念ですね。 それはともかく、2つとも、中庭を公共スペースとして大きく取り、その周りを住戸で固めるという設計になっています。
     

    ▲各住戸への階段は複雑に張り巡らされています。
    (写真提供:早川邦彦建築研究室)
     
    門脇 我々は建物のブロックとしてのまとまりを「ボリューム」と言うんだけれど、ボリュームの中庭側はさまざまな色で彩られていますが、街並みと連続する道路側は実は落ち着いた色に塗られています。そのことによって、中庭側に足を踏み入れた瞬間にハッとするような、すごく特異な「カッコいい」世界が、まさに「演出」されている。
    浅子 一方で各住戸の内部のプランは割とオーソドックスで、そんなに特殊なものではないんですよね。
    宇野 ちなみにあの中庭の共用部はどう使われてたんですか?
    門脇 詳しいことはわかりませんが、基本的にはあまり使われていないと思います。ただ、集合住宅として考えると、あそこで家族の記念撮影とかはしたんじゃないかな。普通のマンションって家族写真を撮りたくなるような場所はないけれど、集合住宅にそういうフォトジェニックなスペースがあるというのはすごく良いことだと思います。
    浅子 あとは、集合住宅の機能的なこととは別に、階段を抜けると全然違う場所にたどり着くという「迷路」のような空間自体を作りたかったということもあると思います。
    門脇 迷路性と関連させると、「ラビリンス」は面ごとにさまざまな色が塗られていて、それが重層的に重なることによって、奥行きのようなものが作り出されています。建築的には色々ルーツが考えられますが、すぐに指摘できるのが、建築史家であり建築家でもあったコーリン・ロウによる「透明性」についての議論です。コーリン・ロウは、モダニズムの代表的な建築家であるル・コルビュジェの作品分析を通じて、さまざまな面が重なり合って奥行き感が生まれるような空間を、視線は抜けなくても体験的には「透明」であると位置付け、後の建築に大きな影響を与えました。「ラビリンス」の色の塗り方は、カラースキームとしてもコルビュジェの作品に通じるものを感じますので、モダニズムの文脈との結びつきは強く感じます。
     ただやっぱり、当時の80年代の日本のポップカルチャーとの結びつきも大きい気はしますね。
    浅子 さっきの『抱きしめたい!』もそうだし、今改めて見ると、色使いに関してはわたせせいぞうのイラストや、江口寿史の『ストップ!! ひばりくん!』に近いものがある。 ポップさや、 アメリカ的な物をそれこそ平面的に取り入れる80年代のあのちょっと浮かれた感じの世界観。やっぱり建築史的なルーツとは別に、他ジャンルとの近接性を感じますよね。
     

    ▲わたせせいぞう 卓上ポストカードカレンダー 2014年度版
     

    ▲ストップ!!ひばりくん!コンプリート・エディション 2
     
    門脇 80年代のイラストって、ベタに塗った面の上に星や三角形などの記号的なアイコンを散らせたりするなど、面としての重層性で奥行きを出すという方法で、作り方としては近い感じがある。
    浅子 2015年の感覚でみると、そもそも共用部をあれだけ広く取るというのがいまいち理解できないはず。だって、普通に考えたら、あの空間には何の機能もないしメンテナンスも大変だし、それだったら一つ一つの住戸がもっと広いほうがいいですよね。ただ、当時の感覚からすると、建築家というのは、それなりの規模の建築を作る場合には、そこに住む住人のためだけではなく、周囲の人々のために公共空間を作らなければならないという意識があったんですよ。実際にあそこが公共的な役割を持てていたかどうかは別にして。
    宇野 しかしこれは単純なツッコミですけど、下井草のど真ん中にああいう建物があったとして、周辺住民は景観被害のように捉えなかったんですか?
    門脇 周辺にはきちんと配慮していて、敷地を囲むように建物を配置して、周辺と切断した上で、中に独自の空間を生み出しているんですよね。だからこそ「演出」的な感じを強く受けるとも言える。けれどもそのように「表」と「裏」を作らざるをえなかったことへの反動として、90年代、00年代の「裏表のない世界」への志向につながっていく。同じ頃、周辺領域にもトレンディドラマのようなキメキメの世界観から自然体へという流れがあって、おそらく建築界にも共通した雰囲気はあったんじゃないかな。
     

    写真提供:早川邦彦建築研究室
     
     
    ■90年代・00年代デザインの結晶としての「森山邸」(東京都南部/設計:西沢立衛建築設計事務所、2005年)
     
    門脇 そうした中で、90年代になると、たとえば雑誌なんかだと文字組みを均一にしていって、すべてがフラットなものが「カッコいい」とされる時代になっていくわけです。その流れの中に、次の「森山邸」も位置付けられると思います。
     

    ▲「森山邸」の外観。大小様々なかたちの「箱」が並んでいて、それぞれが住人の部屋になっています。オーナーの森山さんによれば、左側の建物の屋上スペースでは住人同士でバーベキューをしたり、さらにはここで出会って結婚した方までいらっしゃるそうです。
    (C)TakeshiYAMAGISHI
     
     ちなみに「森山邸」の設計者の西沢立衛(にしざわ・りゅうえ)さんは、妹島和世さんとプリツカー賞(建築界でももっとも権威ある賞)を受賞していて、お二人は世界的な建築家ユニットです。
     この住宅は「ラビリンス」のような演出された空間とは違って、「日常世界にいかにフラットに連続させていくか」という問題意識に基づいているように思えます。周辺から切断された特異な世界を差し込むのではなく、外の世界との連続のなかからどのように日常を豊かにしていくか、というアプローチをしているんですね。
    浅子 これまで見た事のないほど強烈で新しいデザインでありながら、小さな建物の多い周囲の街並みに溶け込むようにもなっているんですよね。
     あと「森山邸」が特徴的なのは、塀がないこと。「ラビリンス」はある種の閉ざされた世界をつくっていたけれど、こちらは小さな庭をいっぱい配置しながら敷地の外側の世界とも完全に連続している。
     

    ▲下町風景の残る周辺の街並みにもそれほど違和感なく溶け込んでいます。
    (C)TakeshiYAMAGISHI
     
    宇野 あれは非常に素晴らしいと思いましたね。敷地内の地面や木を、窓の配置や採光を工夫することで間接的に取り込んでいく。建物外の環境に対して切断的でなくて連続的な空間になっているわけですよね。
     さらにいえば、それほど広大とはいえない敷地のなかでも、窓の位置や大きさを使って部屋ごとに取り込む風景を変えているじゃないですか。あの狭い空間の中に、あれだけ多様な文脈を共存させるという設計は舌を巻くものがある。
    浅子 「森山邸」もラビリンスと同様に集合住宅なのですが、一見適当に箱をばらまいているだけに見えて、たとえば隣の棟の窓がふたつとも開いていると、自分の窓から他人の家の窓を貫通してさらにその先が見える、というように実はとても緻密な設計がなされている。写真だと平面的に見えるんだけど、実際にはすごく奥行きが感じられますよね。
    宇野 その上で、ちゃんとプライベートな空間も確保されていて、非常に計算されていますよね。今日(収録は1月下旬)は雨だったこともあって家の中がすごく寒かったんだけど、その問題さえなければ、ビジュアル的・空間的には一番魅力的な住宅だと思いました。
    浅子 実際、この「森山邸」がこの十数年の住宅建築のなかではもっとも素晴らしい建築だと言ってもいいと思いますよ。宇野さんの言っている寒さの問題にしても、それほど広くない敷地のなかにたくさんの部屋を共存させるためにはどうしても壁を薄くせざるをえないというところもある。要は外壁を間仕切り壁のように扱っているわけで、建物ひとつひとつそして庭がそれぞれ部屋になっていて、リビング、ベッドルーム、キッチンやお風呂がそれぞれ独立し大量にばらまかれているわけだから。
     

    ▲建物の中にも外にも読書やお茶ができるスペースが。ちなみにこの棟の梯子を登った上の階には「茶室」があります。
    (C)TakeshiYAMAGISHI
     

    ▲森山さん専用のバスルーム。こちらも独立した建物になっています。森山さん曰く「露天風呂のように使っていて、雪の日なんかはとてもお風呂が楽しいんです」。共同風呂ではないのに他の住人の方も時折「借りたい」と言って入るんだそう。
    (C)TakeshiYAMAGISHI
     
    門脇 「森山邸」では、私的な領域を細かくして敷地にばらまいた結果、公共スペースも細かくなっているわけですが、小さな公共スペースは親密な雰囲気を醸し出しはじめていて、私的領域と公共的領域が境目なく混じり合ってしまうんだよね。
    宇野 住民がよく屋上でバーベキューをしているって話が象徴的ですよね。ただ、僕が気になったのは入居者のライフスタイルというか、センスがどの部屋も似たり寄ったりになっていたこと。
    浅子 共通チケットが要る、ということですね。
    宇野 意外と住むのが難しい部屋で、若い人がうっかり住んじゃうとことごとく代官山のショウウィンドウのような、いわゆる「オシャレ」な生活が並んでしまうことになってしまうんだと思う。
    門脇 ある程度他人の部屋が見えてしまうということによって、むしろ自分の生活をディスプレイする欲求が生まれてしまう。
    宇野 やっぱり限界があると思うのは、ここには変態は住めないこと。生活が丸見えだから。特に日本の場合、ある特定の文化的コミュニティの中で承認されているライフスタイル以外は、あそこまでオープンにすることはできない。浅子さんの言う通り、暗黙のうちに特定の文化圏の住人であるというアピールを要求されてしまっていると思うんだよね。建物を取り巻く文化状況とのかかわりの中で、Facebookのリア充写真投稿がみんな同じパターンになるのと近い現象が起こってしまっていると思う。
    門脇 80年代的作り方は「演出」的だから、物語的なアイテムをたくさん使っているんですよね。壁をチェック状にペイントしてみたりだとか。それはあくまで見せる場所、つまり公的な領域でしか発露しなかったのだけど、「演出」だからこその非日常性にも到達できた。その非日常性が私的領域にも及べば、「変態」と表現されるような異質なものの宿り代にもなり得たかもしれませんが、それはいずれにしても「表」と「裏」の切断をもたらしかねない。ジレンマですね。
     デザイン言語的にも、80年代的な「演出」に対する反動として、90年代から00年代は徹底的に抽象性を志向した時代です。建築にはもともと屋根とか庇(ひさし)とか、雑多なものがくっついてくるんですが、そうした雑多なものを徹底的に排除して、四角いシンプルなかたちにして、色も白で、というようにダイアグラム的に空間をつくろうという意識が強い。で、「森山邸」になると「集合住宅を解体して四角の箱にしてばら撒くという論理的な操作だけで空間が作れますよ」というダイアグラム的方法論の達成に至るわけです。
     ところがそうした表現は、浅子さんがこれまで2回の座談会で指摘してきたような「白いもの」、つまりアートギャラリーのような空間に近づいてしまう。「白いもの」は00年代に蔓延しきった結果、文化的な記号としても作用するようになってしまったから、そこで宇野さんの言っているような排他性の問題も生まれてしまうんだと思います。
    浅子 屋根だったら雨を受けて下に流すという機能があるし、壁だったらまた違う機能があるんだけど、例えば森山邸は屋根も壁も床も同じ鉄板で出来ている。本来は別々の材料で、別々の作り方で作っていたものを1つの要素で作ってみようという挑戦をした結果、デザインとしては極端にシンプルになったのだけど、なってしまったとも言える。
    宇野 ウェブデザインもそうだけれど、ああいった一種のミニマリズムって、画一的なプラットフォームの上に多様なコミュニティを花開かせるために採用されているものじゃないですか。でも建築の場合、森山邸のような達成ですらも、多様性を生むことに成功していないような気がする。これはどうしてなんでしょうか?
    門脇 建築の場合は「プラットフォームであろう」としても、それ自体がどうしても形を持ってしまうんですよね。
    浅子 つまり、コンテンツの側面がどうしても出てきてしまって、単純なプラットフォームだけにはなりえない。「森山邸」のデザインも様々な人を受け入れるプラットフォームとしての機能より、この見た事のない新しく面白いデザインの家に住みたい、というコンテンツの機能のほうが大きいんじゃないかと思うんです。
    宇野 つまり建築という存在自体が、定義的にミニマルであり得ないと。ミニマルというイデオロギーにはなり得るけど、ミニマルなプラットフォームにはなり得ない。
    門脇 建築が存在を感じさせないようなものになり得るのであれば、それこそオープンなプラットフォームだと言えるんでしょうが、建築のデザインとして、それは白くてミニマルなものではない、ということなのでしょうね。
     
     
    ■多様なものを包摂する「住まい」とは?――「調布の家」(調布市調布ケ丘/設計:青木弘司建築設計事務所、2014年)
     
    門脇 この新たに生じた問題をどう乗り越えるのかということについて、ひとつの解答を示していると思えるのが、最後に見た「調布の家」です。
     

    (C)TakeshiYAMAGISHI

    ▲一見普通の集合住宅の1階・2階と屋根裏部分をぶち抜き、三階建ての居住スペースにリノベーションした「調布の家」。3階から下を見ると2階部分とガラスで隔てられた1階部分が少し見えます。
    (C)TakeshiYAMAGISHI
      
     この住宅は「建築が本来持っていた雑多な要素はそのまま扱っていいんじゃないか」という思想で作られている。その建築の雑多な要素ひとつひとつをデザインとして自律させて、バラバラに見せていくと、建築のスケールが空間未満に小さく解体されて、家具とか人とか犬とか、建築以外の要素とも混じり合ってしまう。そういう作り方ですね。
     また、「調布の家」は敢えて仕上げを剥がしたり、逆に仕上げをしていたり、古いものを残したり、新しいものを作ったりと、とにかく情報を増やすような設計になっています。
     

    ▲2階部分。写真右下の暖炉の熱が上下の階に行き渡り、室内はとても暖かかったです。
    (C)TakeshiYAMAGISHI
     
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